館林ロストシティーランブラーズ・フォークソングシングアウト

フォークを歌って43年の坂を今登坂中。世間に一言あってこそフォーク。軟弱アコースティックミュージックにシングアウトだ!

しおしなす・・・時々風呂などなど。

2022-07-26 04:25:38 | グルメだ!




しょっぱい茄子漬が好き。昨年1度みょうばん入れ忘れて、綺麗でないやつ(味は変わらないが・・)漬けた。
今回は、間違いなく入れたぜ!



15個ぐらい・・・



丁度よい中蓋?が見つからず、煮物の落し蓋で代用。
臨機応変は大事だ。



水が上がったら食いごろ。最初の漬かり始めも美味いが、後半は薄くスライスして塩抜きして、生姜なんぞ擦ってかけると、新しい味わいだ。



暑いときには、何故かしょっぱいものが食べたくなるが、風呂も入りたくなる。



38度設定の「炭酸ふろ」があって、これが素敵。10分はゆっくり沈み・・・それから、外のリクライニングシートで日光浴・やがて塩サウナ。
体を洗って、また最後に炭酸風呂に10分・・・・風呂上がりのホッピーは至福。



面白いが、難しい本・・・など読みながら、クールダウン。その後足つぼさ!!

ちょいと人数も増えた。しばらく風呂はだめかもな・・・・・



時々、みたらし団子くいたくなりませんか?こちらスーパーのだが、伊勢屋の団子が食いたいなぁ。





好みのふりかけだが、新しい食い方発見!卵かけご飯にトッピングすると、マジ旨い!


25日の2m圏内接触者。

*打合せ・永・松・中・新・4名。
*立ち話・吉・高・石・丸進・4名。
*濃厚接触・・女房。
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2022初めての夏の沖縄・・悲しい最終日は戦跡・・PCR検査付き。

2022-07-25 04:25:06 | 旅は続く




悲しい最終日は必ずやってくる・・・

最終日は、①積徳高等女学校の学徒碑を訪ねる(女房への企画)②PCR検査を受けて帰る。であった。
フライトは12時55分・・・12時には空港で保安を通っているのが望ましいので、11時半には検査と、行程を立てた。

海軍司令部壕のほど近く、豊見城城址のあった場所に向かう。

豊見城城は1400年頃に汪英紫の三男で、のちの南山王となる汪応祖(おうおうそ)が漫湖を眺望する高台に築いた城だとされている。その後15世紀、中山王・尚巴志に攻撃され、落城。。昭和30年代までは城壁やアーチ型の石門などが残っていたが、民有地で「豊見城城址公園」を整備する(遊園地になった)際に破却。その公園も2003年(平成15年)に管理していた岩崎産業が倒産し閉鎖され今は廃墟寸前である。広大な敷地の一角に沖縄と言えば「空手」・・その一大拠点として「空手会館」が真新しく建設されている。



遊園地だったらしき、乗り物の軌道など残っている。





公園をぐんぐん進んでゆくと、昔のグスクの本丸辺りの広場にでる。
積徳高等女学校は那覇松山にあるお寺「大典寺(京都の本願寺の関係らしい)」の私塾から始まった学校で、和裁や家庭科を習う学校であった。
学徒動員25名・犠牲者は3名であった。

第24師団第2野戦病院に配属・多くの女子学徒隊と同じような運命、犠牲者を出した。この碑は、病院に勤務した医者と生き残った関係者が建てたようである。





碑の左手に斜面を鬱蒼とした茂みに入る階段がある。





やがて、ぽっかりと、まったく管理されていない、当時の壕の跡が口を開けている。第24師団第2野戦病院壕だ。





さらに進むと、入り口が埋まってしまった(たぶん)壕の入り口のようなものが確認できる。現地に立ってみる・・それは、写真で見る・話に聞く・・では、感じることのできない凄みが襲う。

現在は豊見城市が豊見城城の復元を検討しているようである。豊見城城址跡地利用基本構想について(更新日:2017年11月24日)・・では、グスクの復元計画はあるが、この女学院や壕の跡などまったく触れられていない。構想図などにも見当たらない。
僕はここに壕があることを、何かの記事で知って、捜し歩いた(ほぼ3時間公園跡地を徘徊した・・)当時も今も、案内の碑、看板さえ無いありさまである。豊見城市民の今後の対応に期待したいね。開発で破壊して、歴史の中から消してよいものでは無い。



帰りには沖縄で「てんぷら」を買って帰るのは、ほぼお決まりだ。タクシーで小禄まで行き、てんぷらと昼飯のおにぎりなど購入した。



天ぷらは館林に帰って、俺の酒のつまみなのだ・・・・





1時間ほどゆとりの時間が有って、とにかく涼みたい・・・・てんぷら屋から歩いて5分のイオン内で涼む。
天国のような涼しさ・・・



やがて、ゆいレールで空港。空港のPCR検査センターにやってきた。
沖縄のPCR検査・・・物語は以下だ。

帰る日は検査したいと思った。那覇市内にある数か所の官営の検査センターに電話した。
「名を名乗り・事情を話して、検査の予約をしたいと告げる」
「今一番早いのは石垣ですね」
「?」
「あのさ、安里で受けたいんだけど?」
「どこも本島では9月いっぱい予約で埋まっています・・・」

これで、10万人当たり最高のコロナが収まるわけがない・・・・お金の使い方が間違ってるだろう・・
どこへ行っても建設工事ばかりの沖縄・・・「観光客がコロナを運び増える」というが、「観光客が来ないと経済が回らず仕事を失う」とは、今回も聞いた現地の声だ。ならば、PCR検査を受けたい県民には、速やかに行い、無症状の保菌者を大元から押さえないと話にならない。
2か月も待ってと言われたら県民だって、検査をやる気も失せるさ。



空港は、飛行機のチケットがある人(到着した人・乗る人)限定で予約を受け付けていると、検索してやっと見つけた。
沖縄県人で当日、航空券がある人は無料・それ以外は「抗原検査2000円」「PCR検査4000円」だ。
受けられる人を限定しているので、かろうじて枠があった。
予約以外不可(7日前から予約受付・5分刻みで枠がある)身分証明できる品・チケットの提示がないと受けられない。



唾液をたっぷりとって提出だ・・・これが結構な量なので、俺は5分くらい唾液採集にかかったぜ。



検査ブース(個室風に仕切られている)には、梅干しと柑橘の写真が張り出してあるのだった・・・・・

こうして、悲しい最終日・・・・館林に向かって飛び立ったのだった・・・・


24日の2m圏内接触者。

*立ち話・・ミホ・山中・MI-。
*濃厚接触・・女房。
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沖縄ウイスキー!ある日の晩酌テースティングノートその472付き。

2022-07-24 05:27:40 | グルメだ!


筑前煮・・・ごぼうとこんにゃくが好き!



畑のいんげん・・・旨し!



カキフライなんだが、畑のパセリをたっぷり使ったタルタルで食う。でも、ソースでも醤油でも食いたいので、小皿に移して、3つ味わう。



この時期、きゅうりの三杯酢は必須。



しじみ・あさりなどの味噌汁はことのほかすきだ。偽造事件からスーパーから熊本産が消えた。
最近は北海道産のアサリが出始めた。粒がでかい!!食いごたえあり・・・



ライスウイスキー!

今回の『沖縄 43度』に使用されているのは、オーク樽ということで木材を用いた樽ですよね。見ていただければわかる通り、通常は透明に近いはずの泡盛がウイスキーのような琥珀色に変わっています。これは、木材から溶け出した成分(溶質成分)による影響なんです。色の他にも、香りや味に関しても同じことが言えます。樽材が持つ個性が溶け出すことで、色・香り・味全てが熟成前とはまるで異なる性格を持つお酒に変わっていくのです。・・・・・と、蔵元のコピー。

美味しかったが、アメリカ・ケンタッキー州から直輸入したオーク樽を使用して熟成させた、樽原酒がベースとなっている熟成泡盛は「まるでウイスキーのよう」だが、まだまだだね。

ライスウイスキーなどと名乗るのは酒税法関係。米で作るウイスキーなら「グレーン(穀類)ウイスキー」のはずだが・・。
蒸留酒は・・原材料の「糖化」・・「発酵」・・「蒸留」の工程をたどるが、この「糖化」を麦芽で行わないと日本の酒税法ではグレーンウイスキーと名乗れないのだ。
このライスウイスキーは「糖化」を米麹でだからね。

ハイボールなんぞには旨いと思うが、アイリッシュのモルトにはまだまだ及ばずかな?

夏だ!ハイボールで飲むべ!


23日の2m圏内接触者。

*Y追悼コンサート・立ち話・・鈴・平・星・吉・辻・樽・6名。
*Y追悼コンサート・すれ違い・10名ぐらい?
*濃厚接触・亀・峯・女房・・・・・3名。
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2022初めての夏の沖縄旅・3日目・・コザ!

2022-07-23 04:30:53 | 旅は続く


3日目のテーマは①コザを歩き、コザの資料館でやってる復帰50年の企画展を見る。②那覇で一番高い「弁が岳」に登ってみる(マイ企画)だ。
今回はバスだぜ!



エイサーは福島から伝わった念仏踊りが原型だが、コザで「沖縄全島エイサーまつり」が開催されるようになり、沖縄市はエイサーの街で売り出し中である。



有名な嘉手納第二ゲートへ続く、ゲート通りを嘉手納基地目指して歩きだす・・・・



ゲートに向かって、ゲート通りや中央パークアベニューの東西の通りがあって、そこを繋ぐように、南北のゲート街があるが、驚くほどシャッター通りだ。



やがて、嘉手納基地・ここから、ベトナム戦争当時、毎夜米兵が街へ繰り出し、戦地に赴く兵士は、帰れるかもわからず、ありったけの金を歓楽街に落とした。



やがて、ここから先は、治外法権・・日本ではない境界線が出てくる。治外法権に足を踏み入れてしまった女房。




ゲート通りの北の中央パークアベニューも西洋風の街並みだが、シャッター通りとかしている。5年前にせいごうさんや峯さんと来たが、さらにひどくなっているかな?



ここは、沖縄市の「総務部総務課 市史編集担当」が所管する施設だが、充実。5年前の旅では、アーケード街に2つの店舗に分かれ、分散していたが、新しい、しかもコザゲート通りという象徴的な場所が借りられ、移転して立派な資料館になっていた。





復帰50年の沖縄らしい企画展が展開されていると情報を得、訪ねた。沖縄市あっぱれであるのだ。しかし、借り物の石川文洋さんはじめ、多くの見どころある資料を集めた企画展は、写真撮影禁止であった。
よって、展示資料は紹介できないのであった。(わかる気がするが・・・あまり納得していない・・我)



アメリカ軍はコザの住民は兵隊の落とす金で潤っているので従順と思っていた。しかし、交通事故が起きても無罪判決、暴行事件が起きても、その兵士は本国へ送られると、その後起訴されたり、刑事罰をうけたりもされないと、住民の不満は鬱積していたのだ。ある夜、交通事故で集まった住民にMPの威嚇射撃・・住民は沢山の米兵の車両をひっくり返し、火をつける・・・コザ暴動である。1970年12月20日の出来事だ。
まさか、コザの住民が歯向かうとは・・・アメリカの驚きはやがて、1972年の返還を準備するのだった。

写真交差点・・右にコザゲート通り・直進すると仲の町・・この2つの通りがその舞台だ。さすがに、このコザ暴動の資料は充実だった。
そして、返還後、金を落とす米兵は減り、米兵だよりでもあった、コザは衰退する。「米軍に頼らない街づくり」などのスローガンとともに、街や行政が力を尽くすが、至らず・・そんな、街の苦悩も企画展の大きな展示があった・・・

外国人・インバウンド頼りの、観光立国・・・爆買い・・・・コロナ前の進めようとしたこの国の政策・・そんなものに頼って「豊かさ」が得られるのか・コザから学ぶ必要があるのかもしれない。



コザからバスで古島に戻り、ゆいレールで首里にやってきた。「ポタリング首里」というNPOのやっている貸自転車(有料)で、「那覇で標高が一番高い場所に行ってみたい」という、マイ企画が午後の部であった。



首里城東方1キロ・・・標高165、7mを目指した。電動アシスト自転車なので楽ちんだ。




やはりこんな観光客はいない・・・





社の裏になんだか道があって、ここから頂上か?と、かなりハブさんが居そうな道を進む・・・やがて拝所と頂上らしき風景。



大沼君・・・こんなものがあったぞ。



首里城の一番高い場所から弁が岳を望む。中央・はるか遠くの緑の森だ。



焼けた首里城正殿は鉄骨の柱が建っていた。




事前にウッドランドの長谷川さんからの情報で、首里から那覇に戻り、ここにやってきた。



読谷の有名な工房の関係者の陶器市。



長谷川さんの娘のユキちゃんの作品もあった。(ってか、まずはこれが目的)



彼女の作風は伝統的。



鳥が羽ばたいているのは、彼女の意匠だ。



我が家の購入品。小皿6枚はほかの窯。




夕方、いつもの本屋散策・・・充実の沖縄本のコーナーがある。



3冊購入。泡盛本は行きつけの小桜で購入・小桜をずっと取材していたライターが、小桜の記事も載せて出版したてらしい・・



うりずんVS小桜・・・ちょいと興味あるね。

こうして、3日目の昼の部は終わったのだった・・・・しかし蒸し暑い・・・毎日昼に1度はホテルに戻って、シャワー&着替えだ。
下着が足りず、洗濯をしただよ・・・・・


22日の2m圏内接触者。

*コメダべーべー・・・・・1名。
*ファミマべーべー・・・・1名。
*立ち話・・・・・峯さん。
*濃厚接触・・女房。
コメント (2)
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2022初めての夏の沖縄・2日目・・猛烈に疲れる。

2022-07-22 04:30:34 | 旅は続く


と・・・俺は1度歩いてみたが、女房チョイスで「琉球の古道」を歩くが、2日目だ。
2日目は①「古道を歩く」②県立博物館の復帰50年の「展示」を見るがテーマだった。




出発点は58号線沿いの「ティンランガマ」からだ。琉球王朝も薩摩侵略以降、日本書紀などの影響を受け「正史」が作られる。
瞬天王統(1187年~)などと出てくるが、神話の域だ。「琉球は日本人と祖先が同じだよ~」と、同化に使われた、為朝伝説も滑稽ながら、ガマ自体は祈りの場として地域で守られて、整備保存されている。



沖縄の人は歩かない・・まして夏は歩かない・・・車かタクシー・・・これから始めるおよそ6、5キロの散策も、ほとんどすれ違う人はいないだろう・・(ってか、こんな酔狂な古道歩きなんぞやる観光客はいない!)





やがて、浦添の英雄「英祖王」ゆかりの地にやってきた。この英祖王の墓が「浦添ようどれ」だ。
この英祖あたりから、歴史上の人物だ。太陽の子「エソノテダコ」が彼だ。







伊祖グスクを後にし少し歩くと、浦添大公園に出る。その切り立った崖にお墓がある。英祖の代々の祖先の墓(と、言われている)だ。
国道の工事で破壊されそうなのを、住民の運動で守ったようだ。

国道はこの遺跡を壊さないように、今は、トンネルとなってこの遺跡の下を走っている。




3000年ほど前の貝塚・・「貝塚があったよ~」と碑が建つのみで痕跡は皆無(どこの貝塚もそうだけどね・・)

発掘された土器で、奄美や九州とのつながりがわかり、文化流入の経路なども展望でき、沖縄の人々のルーツ探索に、こうした遺跡は貴重なのさ。




浦添市はこうした歴史保存にしっかり取り組んで予算もつけているようで、感心。



しかし、ここまでずっと上り坂・・・しかも7月の沖縄はものすごい湿度だ・・・すでに上着は下着からかりゆしまで汗で濡れまくり・・・

5万年ぶりくらいに、アイスクリームを食べ、店内の冷房で休憩・・・・



やがて本日のメインのような古道風景にやってきた・・・



安波茶橋だ。石畳が敷かれ・石の橋が架けられた、昔をしのべるばしょだ。




石畳は発掘後、そのまま埋め戻されたようだ・・・・破壊されずなによりだな。



ほぼ3分の2の地点・・・・しかし、疲れる・・・汗だくだし・・・・・わし・・7月の沖縄なめてたかも?
ごめんなさい7月の沖縄!




地震の時「チョウチカチカ」と唱えるとやむらしい・・・ありがたい「経塚」にやってきた。今度地震があったら、唱えるんだ。



道路・経路を間違えないように、歩道が石畳風にしてあるのがGOOD。





途中わき道にそれるとこのお墓が見れるとある・・・疲れがかなりあり悩むが「せっかく来たんだし」「下り坂だし」の悪魔のささやきで、墓にやってきた。
たしかに立派!ヒンプンを備えた亀甲墓であった。ただし「下った坂は上らなければ」なのであった・・・



最後は坂で終わる。ニシは北のこと・・・フエーは南(ハエである)・坂道のことはヒラ・・北の坂だからニシヌヒラ、南の坂だからフェーヌヒラさ。



ニシヌヒラ・・・



フェーヌヒラ・・・転がり落ちそうな見事な坂だった。



反対方向から歩いて、やっと首里城近くの、街道の入り口到着・・・・「古道を歩く」は汗だくの中終わったのだった。



坂を後にし・・ゆいレールで博物館のはずだったが、疲れた体が許さず、タクシーで最寄り駅・・・冷房の効いた広い店で涼み・昼飯を食ってホテルに戻った。
シャワー・着替え・・少し休憩して博物館へ出直すと、計画変更し・・・2時間後、歩いて博物館(ホテルからは信号2つなのだ)到着。
すっかりホテルで休憩したので(ワイン飲んだけど・・)リセットできた。



この展示は、今年ならではだよな。



この企画は、特別展で大々的にやるらしい・・・来たいが、9月19日まででは難しいかな?






伊江島から始まったといってよい、島ぐるみ闘争やら、アメリカ世の様々な出来事を見ることが出来た。



北緯27度線・・・・海の上に線はないが、27度以南の苦悩の表現だ。
1952年2月、奄美と切り離した「トカラ列島」まず返還される。北緯29度までだ。
1953年12月25日・・・アメリカから奄美群島の施政権が返還。アメリカは「日本へのクリスマスプレゼントだ」とのたもう。これに、あの吉田茂が「こんなに大きなクリスマスプレゼントありがとう」と、私信を発している。おバカだ・・・こうして北緯27度線。27度線以南は1972年に返還されたが、27度線以南の苦悩はまだまだ続き・今も続いているのだ。
こんなことが、上記写真に内包されている。




1968年・・・初の公選による行政主席が選ばれる。屋良朝苗氏だ。
1970年・・・コザ暴動。
1972年5月15日・・沖縄人民の望んだ姿とは程遠い「核付きの密約付き・基地温存」の本土復帰である。

沢山の展示から、少し講釈を書きすぎたか・・・・

戦後、本土でも当然のごとく、米軍基地が作られ、反対運動がおこる。本土の反対運動は政府も見て見ぬ振りが出来ず、規模縮小や移転となる。
岩国・厚木・大阪・岐阜・山梨・静岡・・・その基地機能は縮小されたものは沖縄に持って行き、基地そのものがなくなった場所は、沖縄に移転される。
無くなると、あるいは縮小されあとはお金が地域に落ちるとなって、反対運動は収まってゆく。「移された沖縄の痛み」には沈黙だ。
だから、ダメなんだよ!あんたの県が静かなのは、沖縄に移されたからなんだよ・・・・こんなことも、俺は本土の人たち(革新なんぞと言われてる人たちもさ)は再考してほしいことだ。

復帰50年・・・5月を過ぎたら、ブームは去るではいけないのだ。今は、沖縄を学ぶチャンスだ。50年で少しはクローズアップされたからね。



さて、この後、女房と別れて、自由時間・・・・




10月までもつように、いつもの店で買い出しさ。限定酒も購入・・・これは「オバースナック愛好会」の集まりで飲むか?



今は届いて、わが酒庫にあり。

こうして、2日目の昼の部は終了した。

こんな記事・この長さ・読んでくれた人は、えらい!!かも・

21日の2m圏内接触者。

*打合せ・永・松・中・新・吉・・5名。
*立ち話・石・高・・・・・・・・2名。
*GB・担当2名(濃厚接触かも?)
*濃厚接触・・・・女房。
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