3日目のテーマは①コザを歩き、コザの資料館でやってる復帰50年の企画展を見る。②那覇で一番高い「弁が岳」に登ってみる(マイ企画)だ。
今回はバスだぜ!
エイサーは福島から伝わった念仏踊りが原型だが、コザで「沖縄全島エイサーまつり」が開催されるようになり、沖縄市はエイサーの街で売り出し中である。
有名な嘉手納第二ゲートへ続く、ゲート通りを嘉手納基地目指して歩きだす・・・・
ゲートに向かって、ゲート通りや中央パークアベニューの東西の通りがあって、そこを繋ぐように、南北のゲート街があるが、驚くほどシャッター通りだ。
やがて、嘉手納基地・ここから、ベトナム戦争当時、毎夜米兵が街へ繰り出し、戦地に赴く兵士は、帰れるかもわからず、ありったけの金を歓楽街に落とした。
やがて、ここから先は、治外法権・・日本ではない境界線が出てくる。治外法権に足を踏み入れてしまった女房。
ゲート通りの北の中央パークアベニューも西洋風の街並みだが、シャッター通りとかしている。5年前にせいごうさんや峯さんと来たが、さらにひどくなっているかな?
ここは、沖縄市の「総務部総務課 市史編集担当」が所管する施設だが、充実。5年前の旅では、アーケード街に2つの店舗に分かれ、分散していたが、新しい、しかもコザゲート通りという象徴的な場所が借りられ、移転して立派な資料館になっていた。
復帰50年の沖縄らしい企画展が展開されていると情報を得、訪ねた。沖縄市あっぱれであるのだ。しかし、借り物の石川文洋さんはじめ、多くの見どころある資料を集めた企画展は、写真撮影禁止であった。
よって、展示資料は紹介できないのであった。(わかる気がするが・・・あまり納得していない・・我)
アメリカ軍はコザの住民は兵隊の落とす金で潤っているので従順と思っていた。しかし、交通事故が起きても無罪判決、暴行事件が起きても、その兵士は本国へ送られると、その後起訴されたり、刑事罰をうけたりもされないと、住民の不満は鬱積していたのだ。ある夜、交通事故で集まった住民にMPの威嚇射撃・・住民は沢山の米兵の車両をひっくり返し、火をつける・・・コザ暴動である。1970年12月20日の出来事だ。
まさか、コザの住民が歯向かうとは・・・アメリカの驚きはやがて、1972年の返還を準備するのだった。
写真交差点・・右にコザゲート通り・直進すると仲の町・・この2つの通りがその舞台だ。さすがに、このコザ暴動の資料は充実だった。
そして、返還後、金を落とす米兵は減り、米兵だよりでもあった、コザは衰退する。「米軍に頼らない街づくり」などのスローガンとともに、街や行政が力を尽くすが、至らず・・そんな、街の苦悩も企画展の大きな展示があった・・・
外国人・インバウンド頼りの、観光立国・・・爆買い・・・・コロナ前の進めようとしたこの国の政策・・そんなものに頼って「豊かさ」が得られるのか・コザから学ぶ必要があるのかもしれない。
コザからバスで古島に戻り、ゆいレールで首里にやってきた。「ポタリング首里」というNPOのやっている貸自転車(有料)で、「那覇で標高が一番高い場所に行ってみたい」という、マイ企画が午後の部であった。
首里城東方1キロ・・・標高165、7mを目指した。電動アシスト自転車なので楽ちんだ。
やはりこんな観光客はいない・・・
社の裏になんだか道があって、ここから頂上か?と、かなりハブさんが居そうな道を進む・・・やがて拝所と頂上らしき風景。
大沼君・・・こんなものがあったぞ。
首里城の一番高い場所から弁が岳を望む。中央・はるか遠くの緑の森だ。
焼けた首里城正殿は鉄骨の柱が建っていた。
事前にウッドランドの長谷川さんからの情報で、首里から那覇に戻り、ここにやってきた。
読谷の有名な工房の関係者の陶器市。
長谷川さんの娘のユキちゃんの作品もあった。(ってか、まずはこれが目的)
彼女の作風は伝統的。
鳥が羽ばたいているのは、彼女の意匠だ。
我が家の購入品。小皿6枚はほかの窯。
夕方、いつもの本屋散策・・・充実の沖縄本のコーナーがある。
3冊購入。泡盛本は行きつけの小桜で購入・小桜をずっと取材していたライターが、小桜の記事も載せて出版したてらしい・・
うりずんVS小桜・・・ちょいと興味あるね。
こうして、3日目の昼の部は終わったのだった・・・・しかし蒸し暑い・・・毎日昼に1度はホテルに戻って、シャワー&着替えだ。
下着が足りず、洗濯をしただよ・・・・・
22日の2m圏内接触者。
*コメダべーべー・・・・・1名。
*ファミマべーべー・・・・1名。
*立ち話・・・・・峯さん。
*濃厚接触・・女房。
「あかんべ山コンサート」で育った娘は器づくりと歌唄いを両立しています。
宮沢賢治の童をよく読んでいたので鳥(よだか?)になったのかなと思います。
しっかりしてるよ。
器も良い。