館林ロストシティーランブラーズ・フォークソングシングアウト

フォークを歌って43年の坂を今登坂中。世間に一言あってこそフォーク。軟弱アコースティックミュージックにシングアウトだ!

2024うりずんの沖縄・ツブク観光ガイドツアー・白梅看護学徒隊の足跡を訪ねる。

2024-04-02 04:26:27 | 旅は続く


また沖縄かい!の声は、聞えるが許せ!
今回は3人様をガイド。俺のツアーでは柱になっている看護学徒隊を追うだが、その中でもメインの沖縄第二高女「白梅学徒隊」を追うが、今回の大きな柱の1つだ。
ガイドツアーの常連、「おばぁスナック組」では、松本の鈴木氏は、このコースを歩いて、すでに「第二高女」を歌にしているから天晴!
白梅隊は学校があった場所から、召集された壕・南部撤収で彷徨ったコース、そして終焉の自決壕と、はっきりとした現場が、自治体の努力で残されているから、それも良いのだ。
まずは、学校跡地を訪ねる。(到着日)



翌日メインのコースを追体験。峯さんレンタカーへ向かう面々。(実は3人の内1名は風邪をひいていたが、悪化しホテルで寝ているのだが、その北海道男については後日・・尚検査をしっかり行っているのでコロナではない)足取りはまだ軽い。以下、今回は備忘録・参加者の復習用に、記述はなるべく簡素にした。







さて、召集された「第24師団第一野戦病院壕」に向かうが、そこの300mほど前に「富盛の大獅子」という文化財がある。病院壕を見下ろすその獅子は、米軍が弾除けに使いながら、病院壕とその陣の日本軍を攻撃する写真が残されている。病院壕と戦争の距離感を感じてほしく、必ずこのコース見学では案内する。







病院壕入り口。先ほどの大獅子は、大声が届くほどの至近距離だ。高台の駐車場から、西を眺めれば、遥か東シナ海だ。









第一野戦病院壕は、負傷者ですぐ一杯になる。そこで、戦場から少し離れた自然壕(鍾乳洞)が分院となり、学徒隊から数名が派遣される。
数年前、町が整備し、ガイド同伴でガマに入れるようになった。そのガマ「ヌヌマチガマ」にやってきた。事前予約、ガイド代は1人2500円、他町に入壕料として100円だ。
今回のガイド氏は、丁寧で、かなりの知識があり(ガイドは研修を皆受けて、認定されないとガイドになれない)実に良かった。







普通ガイド氏は、1名だが今回は助手のように(多分、彼女のお勉強で・・)1名の女性が付いた。その彼女との本土から見た沖縄戦や、沖縄に対する僕らの考えなど、意見交換が実に面白かった。現地の方々との意見交換は俺にとっては貴重。ガイド氏は俺たち見学者に好感だったかもしれない。コース外のこんな場所も案内してくれた。
日本軍の「対空監視哨跡」そして見晴らし台からの太平洋の眺め。公園の広場は「ピースサイン」でしゃれていた。この太平洋には、すでに読谷村への上陸前に「陽動作戦」で米軍艦隊が派遣され、艦砲射撃が行われていたのだ。
ここら辺から上陸しますよ~~と、米軍は現れ、激しい砲撃を加えるが、実際は遠く離れた読谷村に上陸なのであった。





ガマを後にし、彼女たちの終焉の地に向かった。「白梅学徒看護隊慰霊碑)





自決したり、砲弾で戦死した、「下の壕」。





同じく「上の壕」。





萬魂之塔・・・白梅の塔の脇には、この塔が建つ。
糸満市国吉地区は沖縄戦最後の激戦が繰り広げられた場所である。同地区の住民は各所に散っていた遺骨を洞穴に納めたが、昭和30年5月にコンクリートの塔を完成、無名戦没者の4000余柱を合祀した。





ここで米軍と激戦を繰り広げた日本軍の部隊は「山形出身の連隊」であった。歩兵第三十二連隊。多くのの山形の兵が亡くなる。塔の石材は山形の石が使われている。この山形兵が、時の米軍最高司令官バックナー中将を狙撃する。
6月18日のことだ・・・日本軍が牛島の自決で、組織的戦闘が終わるのは23日・・・18日からの数日は、まさに米軍にとって「弔い合戦」となり、さらに熾烈を極めることになる。





狙撃された高台には、バックナーの慰霊碑がある。米軍によっていつも綺麗に掃除されているのであった。
アメリカはベトナムもイランも、世界中で戦争ばっかり起こしてるが、あらゆる米軍の戦争で、最高位の軍人が死んだのは、ここ沖縄のバックナーなのだ。

こうして、白梅隊を追う、今回のメイン企画の1つは終わったのだった。

さて、初めて参加の山口県Iベーベーは、どのような感想を持ったであろうか・・・・

ここまで読んだ方は、たいしたもんだ・・・と、思うのだ。
コメント
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