「沖縄旅・・お前の希望は?」
「買い物と、食い物だな・・あとは任せる」だと。
本日は観光。午後にはたっぷり「自由時間(買い物らしいよ・・・)」の日程だ。
本場の「エイサー」が聴きたかった(体験?)ので、沖縄ワールドに行った。
有名な鍾乳洞。さすが沖縄・・気温は高く、蒸しむしの洞であった。
鍾乳洞の僕のイメージは、狭い・寒いなのだが、ここは長く・大きく・広い!
さすが沖縄、コーラルの島!
こうした場所が好きな人には、たまらない場所ね。
お酒のハブ・木の上、とぐろをまく生ハブ。
巨大なニシキヘビを首に巻けるコーナーもあるが、なんだかな~~~
ちなみに、圧倒的にベーベーが首に巻いて、写真を撮っていた?何でだ?
地ビール・・・・晴れてたら最高だったが、雨だったのだ。雨でも半そでのこの地は大好き。
エイサーも体験。
エイサー以外にも、沢山の伝統芸能がプログラムされていて、あっという間に時間が過ぎる・・・技術はお見事!!
迫力はバツグンであった!
最後にはおきまりの「カチャーシー」を踊らされるのだが・・ありゃダメ。
始まる予感で、最前列から退散した・・・
12時過ぎにはここを出て、僕のお気に入りの店に昼飯に向かった!
ほぼ観光客は来ない「ちらー小(チラグゥワー)」に行った。
めちゃくちゃ混んでいるのだが、皆家族連れで来るので、僕らのように2人の場合、相席で、結構早く座れる。
坊主は本格的なソバを食べたいと、ジューシー(炊き込みご飯)と単品もりもりでいった。
僕はここではすっかりお気に入りの「ゆしどうふ定食」だ。
満腹で、那覇を目指す。
実は、出発の数日前に女房が「沖縄で山之口獏さんの展示が行われる」新聞記事を見つけた。
完璧に、うれしかった!
しかも、県立図書館・・宿まで車なら5分の距離だ。
獏さんの歌碑が建つ与儀公園の隣だ。
沖縄を代表する詩人・・・日本の現代詩にあって、孤高の優れた詩人である。
資料は多く、見栄えは最高であった。
大正の終り・学びの為本土の学校に入学するも、お金が回らず中退・そうこうしてる間に、親が事業に失敗し、家族は離散・・帰る家を失い再び上京・・借金・夜逃げ・・赤貧の中、それでも佐藤春夫や金子光晴などに認められ、援助など受け、作品を生み続ける。
晩年、世に認められ始めるが、つかの間、59歳で胃がんで亡くなる。
最後まで、極貧困の生活だった・・女房殿、娘の泉さんの苦労がしのばれる・・
生前第三詩集まで出版する。死後第四詩集が出る。
生活の柄
歩き疲れては
夜空と陸との隙間にもぐり込んで
草に埋もれては寝たのです
ところ構わず寝たのです
歩き 疲れては
草に埋もれて寝たのです
歩き疲れ 寝たのですが
眠れないのです
近ごろは眠れない
陸をひいては眠れない
夜空の下では眠れない
ゆり起こされては眠れない
歩き 疲れては
草に埋もれて 寝たのです
歩き疲れ 寝たのですが
眠れないのです
そんな僕の生活の柄が
夏向きなのでしょうか
寝たかと思うと寝たかと思うと
またも冷気にからかわれて
秋は 秋は 浮浪者のままでは眠れない
秋は 秋からは
浮浪者のままでは眠れない
歩き疲れては
夜空と陸との隙間にもぐり込んで
草に埋もれては寝たのです
ところかまわず寝たので
*原詩は言葉遣いがやや異なる部分があるが、もはやこの詩は、高田渡のバージョンがあまりに有名。僕らロストも歌っているので、これにしました。
その3冊の詩集・・・欲しい・・・・現物は探せば手に入るのか?恐ろしく高いに違いない。
妹へおくる手紙
なんという妹なんだろう
兄さんはきっと成功なさると信じています とか
兄さんはいま東京のどこにいるのでしょう とか
ひとづてによこしたその音信(たより)のなかに
妹の眼をかんじながら
僕もまた 六、七年振りに手紙を書こうとはするのです
この兄さんは
成功しようかどうしようか結婚でもしたいと思うのです
そんなことは書けないのです
東京にいて兄さんは犬のようにものほしげな顔しています
そんなことも書かないのです
兄さんは 住所不定なのです
とはますます書けないのです
如実的な一切を書けなくなって
といつめられているかのように身動きも出来なくなってしまい
満身の力をこめてやっとのおもいで書いたのです
ミンナゲンキカ
と 書いたのです
推敲魔であった・・出版された雑誌の自分の詩のも、さらに推敲の痕・・・
この図書館・原稿など写真製版で、本にして見事に保存してあった。
常設で、「山之口獏文庫」を備えるらしい・・・本日は、その記念展示。
また、沖縄の楽しみが増えた・・・・・・・・
日程果てて、いよいよ自由時間。時間は2:30であった。
6時にロビーで待ち合わせにして、坊主とはバイバイーした。
俺は例の怪しい「古本屋(CD/レコード・本・古い物・・なんでもあり)」に行った。
古本1冊・ニールヤングの持ってないCDを購入・・・
その後部屋でシャワー・まったり・マッサージ・うとうと・TV・・・だった。
6時待ち合わせ。互いに買った土産・汚れ物・もう使わない物など持ち、土産の追加など買いつつ「沖縄スタイル」に向かう。
ここは、沖縄の1流品が並ぶ店。
最後に、しこたま、沖縄でしか買えない「古酒」を仕入れ、他の店の購入品や汚れ物などすべて、預け発送を頼む。
ここで購入した場合、それらも含め「送料」を取らず送ってくれるのがうれしい。
8時には、またまた繰り出した。
沖縄のヤキソバ(あのソバの麺で作る、本土風のヤキソバ)を食べさせたかったので、ぷらぷらしながら見つけておいた怪しい店に入った。
名前は「タンパラヤ」。
速攻で「やきそば」を注文!坊主はそうとう旨かったらしい・・八重山ではこのヤキソバは良く見かけるのだが、本島ではあまり見かけないのだ。
ちょっと「ひっかけて」次の店に行く予定だった・・なんせここは食堂風で、つまみは極めて少ないのだ。
店主は30代後半か?の、お兄ちゃん。リーゼントの髪にひげ・・サングラスをかければ、場末の呼び込み風・・・
高校を出て、東京に仕事を求めて・・「群馬にも行ったよ!」とか・・
10年以上も居たのだが、親父さんの調子が悪くなって「呼び戻された」らしい・・
まだ、ここで店を始めて3年。「沖縄は産業らしい産業がないさ・・」とか、ぼつぼつはなしをはじめ、いつしか、すっかり馴染んで、「知事選」「基地」「子どものころの話」「那覇やコザの話」と、僕と店主・坊主はすっかりこの店を気に入ってしまったのだ。
つまみも、品書きにないものが適当に出てくる。坊主は、梅酒割りを作ってもらって、正直者の顔になってくる・・
結局、TVの日本シリーズ最終戦の盛り上がりと共に、3時間、この店にたむろ。
その間、客は僕らだけであった・・
普段の沖縄が聴けて、楽しかった。
こういう出会いがね、旅の楽しみ。
写真・坊主の注文した「パパイヤ炒め」。
結局この店で最終日の夜は終わった。
翌朝は坊主の希望で、遅い朝飯・・学生生活は完全に夜型らしい・・
11時までが空いた時間。12時には空港で搭乗の準備だ。
那覇にある「対馬丸記念館」に行った。初めての場所。
疎開船が、米軍の魚雷を受け1400名を越える犠牲者が出た。軍の命で秘密にされた事件も、遺族の執念で、事実が明かされ、今も犠牲者数は増え続けている。
いたましい学童の写真が並ぶ。船は引き上げられておらず、船内の遺品などはない。
ビデオの上映などで、沈没の様子などがわかる。
屋上の高さは、対馬丸甲板から海までの高さ。
この高さから、海に投げ出され、あるいは自ら飛び込んだという。
その高さに、建物を作ったらしい。
およそ月曜休館だが、ここは木曜。それも良い。
小高い岡が背後に控え、対馬丸追悼の碑や、高台は展望台になって、中々のスポットになっている。
フライトまでのちょっとの時間で寄れる。
ここから空港まではタクシーで15分ほどだ。
隣は人工ビーチだ。海や砂浜をもう1度・・って、観光客がつかの間に訪れるらしい・・
僕は反省をした。坊主はまったりしていた。
坊主との沖縄は、こうして終わった・・・・
来年は、いよいよ女房&娘だ。
当然だが、飛行機がアクシデントで欠航・・を願ったが、叶うはずも無かった・・・