ともあれ夫が私に内緒で面接を済ませ
スギヤマ夫人の就職を決めてしまったのは、はっきりした。
就職も名前も全部内緒にしたいが、会社へ入れるとなると秘密にはできない。
仕事や宴会で、関わる可能性があるからだ。
そのためには、スギヤマという名をどうしても私に伝えておく必要がある。
そこで夫なりに考えたあの手この手だが、込み入り過ぎてボロが出たというところ。
その名前を聞いた私は、どう思ったか。
ありゃりゃ…である。
それ以外に何と言えよう。
だってスギヤマ工業の社長の姉は、義父アツシの愛人だったサキ子。
つまり今度の事務員にとっては、旦那の伯母にあたる人物だ。
サキ子と今度の事務員に血の繋がりが無いとはいえ
同じ一族に、またゴタゴタを持ち込まれたのは事実である。
ついでに話すが、アツシの愛人サキ子…
嫁ぎ先も実家と似たような製造業で、ボンヤリ亭主に代わって社長を務めていた。
男まさりの目立ちたがり屋で、能力もあったのだろう
商工会を始め様々な団体で名誉職を歴任し、地元の女名士を気取っていた。
アツシより一回り以上年下だが、共通の趣味であるゴルフを通じて懇意になり
お互いの会社も近いことから、アツシは毎日のように彼女の事務所へ入り浸っていたものだ。
そのサキ子も今では後期高齢者となり、病気をして老け込んでしまったが
アツシと付き合っていた中年の頃は小生意気で気位が高く
何につけ実家の名前を出して威張るという、どこぞの娘と同じ人種だった。
たまに選挙で会うことがあったが
「祖父が議員をしていたので選挙には詳しい」
と言って、選挙事務所を束ねようとするのが恒例。
この人の祖父ったら明治の人だで。
偉そうに腕組みをし、口を歪めて小理屈を並べるさまは見苦しく
モンチッチのような外見共々、私は嫌いだった。
もっとも彼女が私に意地悪だったのは
アツシからさんざん悪口を聞いていたため
彼に代わって私に天誅を下していたつもりだったかもしれない。
そういう軽薄な女が、人の旦那と遊ぶものだ。
付き合い始めて何年も経った頃
アツシと彼女の仲を知って怒り狂う義母ヨシコの元へ
友だちを連れて弁明に来たこともある。
私もその場に居たが
「誤解させたみたいで、ごめんなさいね。
私、心が男だからさぁ!アハハ!」
そう明るく誤魔化した後は、全然別の話でヨシコを丸め込んだ気になり
意気揚々と帰ったので呆れたものだ。
田舎の名士という立場上、関係を認めて謝るわけにもいかず
さりとて身の潔白を訴えるわけにもいかず、笑って誤魔化すしか手は無かろうよ。
男だと言うなら、一人で来い。
それでも男だと言い張るなら、短い足でミニスカートはやめい。
私はこの人が、前にも増して大嫌いになった。
アツシとサキ子の仲は10年以上、続いたと思う。
最後の頃になると、サキ子は自分が持っていた宅地をアツシに売りつけた。
軽自動車しか通れない狭い道路が入り組んだ、ややこしい場所にあり
ひと目で値打ちの無い土地とわかる。
そこを高値、かつ現金でアツシに買わせ、自分はその金で別の土地を買った。
そこには程なくスーパーが建って、彼女はボロ儲け。
彼女は買った土地に大型スーパーが来ることを、知っていたと思われる。
その利益で便利な所へ土地を買い、自分の住む豪邸を建てた。
一方、サキ子にそそのかされ、借金をしてまで買ったアツシの土地は
いつまで経っても二束三文。
やがて会社をたたむ時、この土地を買うためにアツシが借りた借金が出てきて
彼が騙された詳しい経緯を知った。
私はサキ子の狡猾を改めて憎憎しく思ったが、悪いのはアツシなんだからどうしようもない。
彼女の方が、アツシよりずっと頭が良かったということだ。
が、そんなことはどうでもいい。
とにかくこの名前を、ヨシコに聞かせるわけにいかない。
未だサキ子に恨み骨髄のヨシコ、彼女の身内と聞いただけで逆上するからだ。
近頃のヨシコは、心臓が弱ってきている。
逆上してポックリいったら、うれ…いや、どうするのだ。
ポックリならいいけど生焼けで介護生活に突入したら、どうするのだ。
持ちこたえたとしても、どこへ電話をして何を言うやらわからない。
絶対やる。
これが一番、面倒くさそう。
「たかがそんなことで、大袈裟な…」
経験の無い人は言うだろう。
女房を甘く見ちゃいかん。
生涯忘れない深い恨みと憎しみ…それが浮気の果実である。
そういうわけで、元々この件をヨシコに言うつもりは無かったが
ますます細心の注意を払って秘密を守ろうと決めた。
ヨシコと私は嫁姑、お互いに嫌なことはたくさんあるけど
浮気亭主に苦しめられたという仲間意識も、お互いに持っている。
こんなしょうもないことで、悲しみを与えるのは残酷だ。
それにヨシコが知ると、娘にしゃべらずにはいられまい。
聞いた義姉が手を打って喜ぶのは目に見えている。
絶対に言わんもんね。
前回、会社に入り込んだ未亡人イク子の時は
腹を立てて騒いだ私も今ではオトナ、それぐらいのことはできますけんね。
もっとも私の冷静は、相手の身元がはっきりしていることに由来していた。
時代遅れの製品を製造し続け、12年前の我々のように倒産寸前の会社とはいえ
創業が明治だか大正の裕福な名家として、一応は老舗のプライドを持つスギヤマ工業。
そこの嫁となると、さほど下卑た家から嫁いではいまい。
未亡人イク子を始め、その後も何人か出現したが
親の代から貧乏育ちの流れ者、とにかくどこかの後妻に収まって
何とか生き延びようとするガツガツしたのがいるものだ。
そういう所は無いだろうから静かなだけマシであり、安心感がある。
『礼儀』
相手の素性がわかったところで、妻にはやるべきことがある。
「あなた方の関係を知っています」
夫にはっきりと、そう告げるのだ。
釘を刺すとか、喧嘩のゴングではなく
これは浮気された妻の礼儀だと思っている。
妻としては、色々と考えるものだ。
言ったら何もかもメチャクチャになってしまうのではないだろうか…
このまま黙って耐えて、嵐が過ぎ去るのを待った方がいいのではないか…。
しかし経験上、どっちも無駄な考えよ。
何もかもメチャクチャになるという未来形ではなく
事態はすでにメチャクチャ、過去形である。
そして黙って耐えるのは無理というもの。
初心者は特に無理。
抑えに抑えた感情は、ふとした瞬間に必ず爆発する。
浮気者はつい、そうなるような言動をするものだ。
何も言われない=気づかれてないと思い、だんだん大胆になっていくからだ。
そうなったらもう、感情を抑えることはできない。
売り言葉に買い言葉の怒鳴り合い、罵り合いになる。
それを聞く家族はどんな気持ちがするか。
言いたいだけ言ってしまうので、夫婦の修復も難しくなる。
向こうが悪いのだから、こっちが一方的に責めて終わりと思ったら大間違い。
旦那もやられっぱなしではないぞ。
普段から拾い集めていたこっちの落ち度…
家事の仕方や義理親への態度なんかをデフォルメし
「おめえ、ここまで言うんか?!」というランクの細かいことや
とんでもないことを言い出す。
追い詰められた男は何を言い出すか、わからんのだ。
最初から自分の勝ち戦だと思っていた妻は
旦那の本心を知って大いに驚き、そして傷つく。
そして絶対に許せなくなる。
離婚するのであれば構わないが、どうせ元のサヤに収まるのなら
知っているということは早めに、はっきり伝えた方がいい。
ボールを浮気旦那に預けるのだ。
《続く》
スギヤマ夫人の就職を決めてしまったのは、はっきりした。
就職も名前も全部内緒にしたいが、会社へ入れるとなると秘密にはできない。
仕事や宴会で、関わる可能性があるからだ。
そのためには、スギヤマという名をどうしても私に伝えておく必要がある。
そこで夫なりに考えたあの手この手だが、込み入り過ぎてボロが出たというところ。
その名前を聞いた私は、どう思ったか。
ありゃりゃ…である。
それ以外に何と言えよう。
だってスギヤマ工業の社長の姉は、義父アツシの愛人だったサキ子。
つまり今度の事務員にとっては、旦那の伯母にあたる人物だ。
サキ子と今度の事務員に血の繋がりが無いとはいえ
同じ一族に、またゴタゴタを持ち込まれたのは事実である。
ついでに話すが、アツシの愛人サキ子…
嫁ぎ先も実家と似たような製造業で、ボンヤリ亭主に代わって社長を務めていた。
男まさりの目立ちたがり屋で、能力もあったのだろう
商工会を始め様々な団体で名誉職を歴任し、地元の女名士を気取っていた。
アツシより一回り以上年下だが、共通の趣味であるゴルフを通じて懇意になり
お互いの会社も近いことから、アツシは毎日のように彼女の事務所へ入り浸っていたものだ。
そのサキ子も今では後期高齢者となり、病気をして老け込んでしまったが
アツシと付き合っていた中年の頃は小生意気で気位が高く
何につけ実家の名前を出して威張るという、どこぞの娘と同じ人種だった。
たまに選挙で会うことがあったが
「祖父が議員をしていたので選挙には詳しい」
と言って、選挙事務所を束ねようとするのが恒例。
この人の祖父ったら明治の人だで。
偉そうに腕組みをし、口を歪めて小理屈を並べるさまは見苦しく
モンチッチのような外見共々、私は嫌いだった。
もっとも彼女が私に意地悪だったのは
アツシからさんざん悪口を聞いていたため
彼に代わって私に天誅を下していたつもりだったかもしれない。
そういう軽薄な女が、人の旦那と遊ぶものだ。
付き合い始めて何年も経った頃
アツシと彼女の仲を知って怒り狂う義母ヨシコの元へ
友だちを連れて弁明に来たこともある。
私もその場に居たが
「誤解させたみたいで、ごめんなさいね。
私、心が男だからさぁ!アハハ!」
そう明るく誤魔化した後は、全然別の話でヨシコを丸め込んだ気になり
意気揚々と帰ったので呆れたものだ。
田舎の名士という立場上、関係を認めて謝るわけにもいかず
さりとて身の潔白を訴えるわけにもいかず、笑って誤魔化すしか手は無かろうよ。
男だと言うなら、一人で来い。
それでも男だと言い張るなら、短い足でミニスカートはやめい。
私はこの人が、前にも増して大嫌いになった。
アツシとサキ子の仲は10年以上、続いたと思う。
最後の頃になると、サキ子は自分が持っていた宅地をアツシに売りつけた。
軽自動車しか通れない狭い道路が入り組んだ、ややこしい場所にあり
ひと目で値打ちの無い土地とわかる。
そこを高値、かつ現金でアツシに買わせ、自分はその金で別の土地を買った。
そこには程なくスーパーが建って、彼女はボロ儲け。
彼女は買った土地に大型スーパーが来ることを、知っていたと思われる。
その利益で便利な所へ土地を買い、自分の住む豪邸を建てた。
一方、サキ子にそそのかされ、借金をしてまで買ったアツシの土地は
いつまで経っても二束三文。
やがて会社をたたむ時、この土地を買うためにアツシが借りた借金が出てきて
彼が騙された詳しい経緯を知った。
私はサキ子の狡猾を改めて憎憎しく思ったが、悪いのはアツシなんだからどうしようもない。
彼女の方が、アツシよりずっと頭が良かったということだ。
が、そんなことはどうでもいい。
とにかくこの名前を、ヨシコに聞かせるわけにいかない。
未だサキ子に恨み骨髄のヨシコ、彼女の身内と聞いただけで逆上するからだ。
近頃のヨシコは、心臓が弱ってきている。
逆上してポックリいったら、うれ…いや、どうするのだ。
ポックリならいいけど生焼けで介護生活に突入したら、どうするのだ。
持ちこたえたとしても、どこへ電話をして何を言うやらわからない。
絶対やる。
これが一番、面倒くさそう。
「たかがそんなことで、大袈裟な…」
経験の無い人は言うだろう。
女房を甘く見ちゃいかん。
生涯忘れない深い恨みと憎しみ…それが浮気の果実である。
そういうわけで、元々この件をヨシコに言うつもりは無かったが
ますます細心の注意を払って秘密を守ろうと決めた。
ヨシコと私は嫁姑、お互いに嫌なことはたくさんあるけど
浮気亭主に苦しめられたという仲間意識も、お互いに持っている。
こんなしょうもないことで、悲しみを与えるのは残酷だ。
それにヨシコが知ると、娘にしゃべらずにはいられまい。
聞いた義姉が手を打って喜ぶのは目に見えている。
絶対に言わんもんね。
前回、会社に入り込んだ未亡人イク子の時は
腹を立てて騒いだ私も今ではオトナ、それぐらいのことはできますけんね。
もっとも私の冷静は、相手の身元がはっきりしていることに由来していた。
時代遅れの製品を製造し続け、12年前の我々のように倒産寸前の会社とはいえ
創業が明治だか大正の裕福な名家として、一応は老舗のプライドを持つスギヤマ工業。
そこの嫁となると、さほど下卑た家から嫁いではいまい。
未亡人イク子を始め、その後も何人か出現したが
親の代から貧乏育ちの流れ者、とにかくどこかの後妻に収まって
何とか生き延びようとするガツガツしたのがいるものだ。
そういう所は無いだろうから静かなだけマシであり、安心感がある。
『礼儀』
相手の素性がわかったところで、妻にはやるべきことがある。
「あなた方の関係を知っています」
夫にはっきりと、そう告げるのだ。
釘を刺すとか、喧嘩のゴングではなく
これは浮気された妻の礼儀だと思っている。
妻としては、色々と考えるものだ。
言ったら何もかもメチャクチャになってしまうのではないだろうか…
このまま黙って耐えて、嵐が過ぎ去るのを待った方がいいのではないか…。
しかし経験上、どっちも無駄な考えよ。
何もかもメチャクチャになるという未来形ではなく
事態はすでにメチャクチャ、過去形である。
そして黙って耐えるのは無理というもの。
初心者は特に無理。
抑えに抑えた感情は、ふとした瞬間に必ず爆発する。
浮気者はつい、そうなるような言動をするものだ。
何も言われない=気づかれてないと思い、だんだん大胆になっていくからだ。
そうなったらもう、感情を抑えることはできない。
売り言葉に買い言葉の怒鳴り合い、罵り合いになる。
それを聞く家族はどんな気持ちがするか。
言いたいだけ言ってしまうので、夫婦の修復も難しくなる。
向こうが悪いのだから、こっちが一方的に責めて終わりと思ったら大間違い。
旦那もやられっぱなしではないぞ。
普段から拾い集めていたこっちの落ち度…
家事の仕方や義理親への態度なんかをデフォルメし
「おめえ、ここまで言うんか?!」というランクの細かいことや
とんでもないことを言い出す。
追い詰められた男は何を言い出すか、わからんのだ。
最初から自分の勝ち戦だと思っていた妻は
旦那の本心を知って大いに驚き、そして傷つく。
そして絶対に許せなくなる。
離婚するのであれば構わないが、どうせ元のサヤに収まるのなら
知っているということは早めに、はっきり伝えた方がいい。
ボールを浮気旦那に預けるのだ。
《続く》