「6月に入信します」
夫がそう言ったら、ダイちゃんは大喜びで帰ったという。
根性なしに耐えさせるのは、やはり無理だったのだ。
しかしそれについて、怒る気はしなかった。
このことを報告する夫が、肩の荷を下ろしたような
ホッとした表情をしていたからだ。
ゆっくり話を聞いてみると、夫には夫なりの考えがあった。
「入会金の4万が欲しいんじゃ。
払えば満足するんなら、くれてやる」
入ってしまったら、そんなわけにはいかない。
頻繁な集会や勉強会、その度に生じる献金
初夏と年末には泊まりがけで滋賀県の本部へ集合
それに我々がやられたのと同じ、信者の勧誘義務が待っている。
これらを説明したが、夫は軽く言う。
「集まりには行かん。
面倒臭かったら、付いて行かれん言うて辞める。
4万捨てて楽になるんなら、その方がええ。
ワシ一人で入って、後は食い止める」
その発言の裏に、次男への心配が多く含まれているのが伝わってきた。
ずっと事務所にいる夫と違い、次男は現場で実働している。
父子がダイちゃんから同じ嫌がらせを受けても
精神的負担は次男の方が大きい。
経理一筋、机が仕事場のダイちゃんには
この残酷と危険性が実感としてわからないのだ。
嫌がらせを早急に止めるため
夫にはこの方法しか思いつかなかったのである。
私は夫の決断を尊重することにした。
入信すると聞いたらゲンキンなもので
ダイちゃんはそれきり、4月中には来なかった。
夫と次男への嫌がらせも途端に止み、会社には平和が訪れた。
5月になった。
4月に夫が入信の約束をした時、あえて飛ばした5月。
なぜ翌月の5月を飛ばして6月と言ってしまったのか
夫に聞いてみたが、本人もわからないと言う。
そこで私はこの5月に、何かあるような予感を持っていた。
初旬はゴールデン・ウィークとその名残りで、会社は静かなものだった。
連休明けに請求書の作成日があり、ダイちゃんは我が社を訪れたが
上機嫌この上ない。
来客が多かったこともあって、宗教のことには触れなかった。
中旬になって、河野常務から夫へ連絡があった。
「明日の10時、そっちへ行くからな。
人事の打ち合わせがあるんだ」
いつもひょっこりやって来る常務が、時間や内容をわざわざ言うのは珍しい。
それを聞いた夫は、緊張している様子だった。
そして当日。
常務の話は思いも寄らぬものだった。
「ここに藤村を常駐させることになった」
藤村氏を覚えておいでだろうか。
昨年、夫に焼肉屋での忘年会をセッティングさせておきながら
前日になってドタキャンした、でくの坊である。
彼は自営していた土建業を倒産させ
次に始めたペットショップも早々に潰し
53才になって本社の中途採用に応募した。
幸運にも採用されたが、配属された勤務先で使い物にならず
本社は彼を持て余していた。
あれから彼のプロフィールが、本人の口によって徐々に明らかとなった。
そのいにしえ、高校球児だったのが自慢で
体だけがやたら大きいスポーツ馬鹿。
現在、彼にとっての最重要課題は仕事ではない。
交際中のフィリピン人ホステスとの結婚である。
ちなみに結婚したら、これで4回目。
こんな男がまともに仕事をこなせるはずもなく
業を煮やした本社は、彼の勤務先に一番近い我が社へ配属して
とりあえず様子を見ようと決めた。
藤村の行き先に我が社が選ばれたのは、仕事がユルいからだ。
創業50年で廃業した義父の会社の取引がいまだに続いており
大口顧客のいくつかには、夫の親戚が絡んでいる。
古風な田舎という地域性もあって
営業をかければ売り上げが伸びるという可能性がほとんど無い
静けさ、のどかさ。
昼あんどんの居場所といったら、うちしか無いではないか。
藤村はこの時点で、本社営業部付きの営業課長に昇進した。
これは、以前うちにいた営業のできない営業課長
松木氏と同じ立場である。
営業ができない松木氏は、遠くの生コン工場へ
工場長として飛ばされて久しい。
藤村は給与その他の待遇はそのままで、名刺の肩書きだけが変わった。
ヒラの名刺に『長』を付けたら、何かと動きやすい‥
この手法は昔から行われている本社の方針だが
藤村は次の給料日に失望することも知らず、紙上の昇進を喜んでいた。
浮かれる藤村とは逆に、夫はショックに打ちひしがれた。
焼肉屋のドタキャンで自分に大恥をかかせた憎い藤村と
何が悲しゅうて一緒に仕事をせにゃならん。
あまりのザンネンに夫は連夜、夢にうなされるのであった。
《続く》
夫がそう言ったら、ダイちゃんは大喜びで帰ったという。
根性なしに耐えさせるのは、やはり無理だったのだ。
しかしそれについて、怒る気はしなかった。
このことを報告する夫が、肩の荷を下ろしたような
ホッとした表情をしていたからだ。
ゆっくり話を聞いてみると、夫には夫なりの考えがあった。
「入会金の4万が欲しいんじゃ。
払えば満足するんなら、くれてやる」
入ってしまったら、そんなわけにはいかない。
頻繁な集会や勉強会、その度に生じる献金
初夏と年末には泊まりがけで滋賀県の本部へ集合
それに我々がやられたのと同じ、信者の勧誘義務が待っている。
これらを説明したが、夫は軽く言う。
「集まりには行かん。
面倒臭かったら、付いて行かれん言うて辞める。
4万捨てて楽になるんなら、その方がええ。
ワシ一人で入って、後は食い止める」
その発言の裏に、次男への心配が多く含まれているのが伝わってきた。
ずっと事務所にいる夫と違い、次男は現場で実働している。
父子がダイちゃんから同じ嫌がらせを受けても
精神的負担は次男の方が大きい。
経理一筋、机が仕事場のダイちゃんには
この残酷と危険性が実感としてわからないのだ。
嫌がらせを早急に止めるため
夫にはこの方法しか思いつかなかったのである。
私は夫の決断を尊重することにした。
入信すると聞いたらゲンキンなもので
ダイちゃんはそれきり、4月中には来なかった。
夫と次男への嫌がらせも途端に止み、会社には平和が訪れた。
5月になった。
4月に夫が入信の約束をした時、あえて飛ばした5月。
なぜ翌月の5月を飛ばして6月と言ってしまったのか
夫に聞いてみたが、本人もわからないと言う。
そこで私はこの5月に、何かあるような予感を持っていた。
初旬はゴールデン・ウィークとその名残りで、会社は静かなものだった。
連休明けに請求書の作成日があり、ダイちゃんは我が社を訪れたが
上機嫌この上ない。
来客が多かったこともあって、宗教のことには触れなかった。
中旬になって、河野常務から夫へ連絡があった。
「明日の10時、そっちへ行くからな。
人事の打ち合わせがあるんだ」
いつもひょっこりやって来る常務が、時間や内容をわざわざ言うのは珍しい。
それを聞いた夫は、緊張している様子だった。
そして当日。
常務の話は思いも寄らぬものだった。
「ここに藤村を常駐させることになった」
藤村氏を覚えておいでだろうか。
昨年、夫に焼肉屋での忘年会をセッティングさせておきながら
前日になってドタキャンした、でくの坊である。
彼は自営していた土建業を倒産させ
次に始めたペットショップも早々に潰し
53才になって本社の中途採用に応募した。
幸運にも採用されたが、配属された勤務先で使い物にならず
本社は彼を持て余していた。
あれから彼のプロフィールが、本人の口によって徐々に明らかとなった。
そのいにしえ、高校球児だったのが自慢で
体だけがやたら大きいスポーツ馬鹿。
現在、彼にとっての最重要課題は仕事ではない。
交際中のフィリピン人ホステスとの結婚である。
ちなみに結婚したら、これで4回目。
こんな男がまともに仕事をこなせるはずもなく
業を煮やした本社は、彼の勤務先に一番近い我が社へ配属して
とりあえず様子を見ようと決めた。
藤村の行き先に我が社が選ばれたのは、仕事がユルいからだ。
創業50年で廃業した義父の会社の取引がいまだに続いており
大口顧客のいくつかには、夫の親戚が絡んでいる。
古風な田舎という地域性もあって
営業をかければ売り上げが伸びるという可能性がほとんど無い
静けさ、のどかさ。
昼あんどんの居場所といったら、うちしか無いではないか。
藤村はこの時点で、本社営業部付きの営業課長に昇進した。
これは、以前うちにいた営業のできない営業課長
松木氏と同じ立場である。
営業ができない松木氏は、遠くの生コン工場へ
工場長として飛ばされて久しい。
藤村は給与その他の待遇はそのままで、名刺の肩書きだけが変わった。
ヒラの名刺に『長』を付けたら、何かと動きやすい‥
この手法は昔から行われている本社の方針だが
藤村は次の給料日に失望することも知らず、紙上の昇進を喜んでいた。
浮かれる藤村とは逆に、夫はショックに打ちひしがれた。
焼肉屋のドタキャンで自分に大恥をかかせた憎い藤村と
何が悲しゅうて一緒に仕事をせにゃならん。
あまりのザンネンに夫は連夜、夢にうなされるのであった。
《続く》