一回り年上の友人ヤエさんは、本当にいい人だ。
困っている人を見たら放っておけないし
得意の料理を親しい人に配って喜ばれている。
私はそんなヤエさんを「女宮沢賢治」「人間笠地蔵」と呼んで讃える。
しかし、人間笠地蔵にも悩みがある。
嫁姑、小舅小姑、夫婦仲、ゴタゴタが続く子供達の家庭など
主として家族の問題である。
特に姑さんについての悩みは深い。
姑さんは認知症。
すでに物忘れの段階ではない。
自分の出したブツで、壁にアートをほどこす末期。
そして重い糖尿病である。
「あんなになっても、セコいのや卑怯はちゃんと残っていて
知恵がはたらくのよ。
利用されたり陥れられるたびに悔しくて情けなくて、たまらない」
自分を苦しめる人のため、食事療法に骨を折る暮らし。
それで得るものといったら、苦しみの期間延長。
ヤエさんは、不毛な構図を嘆くのだった。
ヤエさんの話を聞くのが、私の役目である。
それは優しさや知恵があるからではない。
ほぼ似たような暮らしをしているので、話す相手が一人ですむからだ。
「老いと書いてヤマイと読む」
私はいつも自論を持ち出す。
長い潜伏期間を経て発症する、病気なのだ…
理性が薄れて本質があらわになる、症状なのだ…
どんな本質があらわになっているか
本人だけが気づかないヤマイである…
過激かもしれないが、老人で苦しむ人には笑顔がもどる。
明日は我が身なので、ちゃんと予防法も考えている。
「何とかして少しでも本質を磨くこと」
理性というブレーキが甘くなって人格があらわになっても
大丈夫な人間になっておくのだ。
「脱いでもスゴいんです」になっておくのだ。
この予防法の難点は、文字通り難しいところである。
しかし、画期的なワクチンも存在する。
「無口」。
惜しむらくはこのワクチン、体質に合わない人が多い。
だが最終兵器がある。
「早死に」。
ただし発症前に死ねば問題は生じないが
自分で死期を決められない欠陥がある。
そんなことを言ってケムに巻いていると、ヤエさんは笑うわけだが
こんなにいい人なのに、何で次から次へと色々あるんだろう…
という疑問は、いつも感じていた。
善行が必ずしも幸せを運んでくるとは限らない実例を
見ている気がした。
ヤエさんは厳しい毎日を自身の業と称し
霊障や因縁の方面へ持っていきたがる。
ヤエさん夫婦が総代をしているお寺は、ごく普通の仏教なのだが
昔から住職の個性としてスピリチュアルの傾向があり
真面目なヤエさんに染みついているのだった。
彼女は「功徳」と「悟り」の言葉が好きだ。
人に良くしてあげることで功徳を積み
いつか怒りや憎しみの無い
穏やかな悟りの境地へ進みたいと願っている。
そんなある日、ヤエさんに呼び出され、2人で会った。
いつもはここに3つ年上のラン子が加わるが
一人暮らしのラン子は家族の話を好まない。
ヤエさんが遠慮しているのはわかっていたので
話はその方面のことだろうと思っていたら、やはりそうであった。
「姑をどうしても許せないことがあって
その憎しみが私の悟りを阻んでいるように思うの」
数年前のある日、さほど信心深いわけでもない姑さんが
大声で、長時間お経をあげていたという。
認知症がまだ進行していなかった頃である。
初めてのことに違和感は感じながら
止めるほどのこともないので放っておいた。
やがてヤエさんは、気分が悪くなって倒れた。
それを見た姑さんが、ニヤリと笑ったというのだ。
「その顔を見て、これは呪いをかけられたとわかったの。
今もあの笑った顔が忘れられなくて、つらくてつらくて…」
自分に呪いをかけた(と思い込んでいる)姑さんの世話をするのは
大変な難行苦行である。
キリストは自分がはりつけになる、でっかい十字架を担がされ
自分が殺される刑場まで歩いたそうだが、それに等しい理不尽さ。
よく使われる「十字架を背負う」という表現は
単に厄介や苦しみをしょい込むことではなく
この理不尽を指しているのだ。
「功徳を積んでも、いつまで経っても悟りには届かない。
早くしないとこっちが先に死んでしまうような気がして焦るし
苦しくてたまらないのよ」
ヤエさんは涙をこぼす。
笠地蔵とはいえ、ヤエさんは人間だ。
復活できるキリストとは違う。
おばあちゃんより先に死なれては
おいしい散らし寿司やパイが食べられなくなる…
私はあさましい物欲にかられるのであった。
「みりこんさん、どうしたらいいの?」
ヤエさんは閑散としたファミレスの一角で、小さく嗚咽をもらす。
総代をしているお寺とツーツーの仲で、仏教には詳しく
「私は皆さんより高い位置の道を歩んでいますのよ」然とした彼女も
ここに来て行き止まりを迎えたらしい。
「大丈夫」
私は言った。
「功徳と悟りから足を洗えば」
前々からヤエさんを見て感じていたことである。
「えっ?」
ヤエさんは驚いて顔を上げ、まじまじと私を見つめるのだった。
《続く》