めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

大金持ちに成っても、日本人は幸せに成らない

2018-03-31 18:50:28 | 日本人

経済的に豊かな暮らしが出来るようになると、自分の望む物が簡単に手に入ります。
世の中には、魅力的な物が溢れていて、お金さえ出せば、何でも好きな物を
ゲットしたり食べたりすることが出来ます。
その為、日本の様に経済大国と言われる国々の人々の身の回りは、便利で豊かな物に溢れ
幸せな生活が送れるのです。
次から次に新しい物を手に入れる事で、楽しい毎日が送れると言えます。
つまり、消費経済国家で生活すれば、所得に応じて、より豊かで幸せな生活が送れる
と言う事に成ります。

日本は、世界でもトップクラスの経済大国です。
全ての国民が、幸せに溢れた生活が出来ているはずです。
所が、国民の幸せ度数を調べると、トップクラスというどころか、発展途上国よりも
劣っているとする調査結果も有ります。
現実に、日本で生きる事に苦慮している日本人の数はとても多く、経済的に豊かな国といえ
本当は、それ程豊かな国ではない事が解ります。


しかし、何故、これ程にも物が溢れているのに、日本人は幸せに成れないのでしょう。
確かに、いまだ、経済成長が芳しく無く、人々の生活は決して楽とは言えません。
とはいっても、多くの発展途上国に比べれば、衣食住すべてに於いて優っているとも言え
何故、日本人の心が晴れないのか、数字の上だけでは判断できない事が多い様です。


まず疑ってみなければいけないのは、何でも手に入ると言う事が幸せの条件か、
と言う事であり、欲しい物が簡単に手に入る事は、日本人が幸せに成るには、
マイナスであると考えて見る事が大切です。
何故、欲しい物が手に入る事が幸せでは無いのか、それは、欲しいと言う欲求が
本当に自らの心から生まれた欲求であるかが大切です。


日本人は、テレビを始め、あらゆる情報が毎日耳や目に飛び込んでくる環境に有ります。
すると、時に、自分が思うよりも遥かに魅力的な物を知らされる事が有り、その数が
増えて来ると、自分が選択するより情報に託した方がより満足できたものが手に入ると
考える様に成り、欲しい物の選択権をメディアに委ねる様になってしまいます。


この心理の変化をうまく利用しているのが、資本主義経済であり、消費経済国家と言えます。
人々の欲望を利用して、常に購買意欲を高め、より多くの消費を勧めます。
今や、企業によるコマーシャルがあらゆるメディアの中心であり、人々に、常に、魅力的な
商品や生き方を提案する事で、膨大なる利益を得る事を目的としています。
世の中も、経済的に豊かになる事、より多くの商品を購買消費出来る事を幸せであるとして
人々の生きる目的を、常に、経済力の高さとしているのです。

その為、国民も、幸せは、多くの人々が求める豊かで便利な生活に在ると信じてしまいます。
しかし、この外見的な幸せは、まるでピラミッド構造の様に、頂点に達しなければ幸せとは言えず
どんなに生活力を増しても、満足を得る事は出来ないのです。
幸せの尺度を社会に求めた事、つまり、経済性に求めた事で、豊かな生活を送っていたとしても
必ずしも自分の心は満足する事が出来ず、豊かになったと思っても、世の中を見渡せば、
より豊かな生活をしている人がいる限り、自分は幸せと感じなくなってしまうのです。

経済的な豊かさを求めるあまり、自分自身の心の満足を得ていなかった事に、不幸が生れるのです。
人間の心の満足は、10人十色であり、一人として同じものでは有りません。
自分自身の心をより豊かにする為に、経済的に豊かになると言う手段が有ったのです。
手段を目的と間違えてしまっている日本人が多い為、我が身に振り返って考えるようになった時
何も満足していない心に愕然とするのです。

確かに、メディアは、様々な知識を教えてくれて、より健康で豊かな生活が出来る提案をします。
しかし、それは、必ずしも、個人の幸せを考えてというものでなく、むしろ、企業側の増収の為の
戦略に過ぎないのです。
確実な利益を得る為に、常に、新製品や新たなる提案を行い、消費購買意欲を高めているのです。
テレビに流れる素敵な情報も、1~2年もすれば、何の魅力も無く成ったり、全く価値が無くなるのは
珍しく無く、常に、新たな物に散在する様に仕組まれているのです。

私達消費者は、この資本主義社会を支える役割を担っている事を忘れてはならないのです。
新たなる商品を次々に購入して消費する事で我が国は成り立っているのです。
国の経済を安定させより進歩させるには大切な国民の役割では有るのですが、この消費者の努力は
消費者を幸せにするものでなければならないのです。
売り手である一部の富裕層を豊かにするだけでは、国民は幸せには成らないのです。

問題は、日本の経済の流れが、豊かさを一部の人に集め、多くの国民に還元されていない事です。
でも、この事を、経済的に国民を豊かにしていないと解釈してはならないのです。
世界の国々を見ても、日本は経済的には遥かに豊かであると言えるのです。
何が一体国民を幸せにしていないのか、それは、日本の経済力が、国民一人一人の欲求に応じた
豊かさと成っていないのです。

多くの商品を買い求め、散財する事を国民の幸せと考える社会構造が、日本人を苦しめるのです。
小さい頃から、経済性を高める為の教育を行い、経済社会を担う為の人材育成をして来たため
国民自体も、何故、経済的に豊かになっても、いつまで経っても幸せを感じられないのか
理解できない状態なのです。
御上の言うがままに頑張って来たのに、高度成長の時も、不況社会となった時も
国民はいつも何かに追い立てられる様に心が落ち着かず、上を見る事しか求められず、
本当の自分の幸せが何なのか解らなくなってしまっているのです。

日本人は、大自然と共に生き生かされて生活をしてきました。
春夏秋冬様々に変化する自然の中で生き、その中で研ぎ澄まされた感性は、
人々の間においても生かされ、日本人独特の人生観を育てる様になりました。
自然の成り行きの様に繊細な日本人の対人的な心は、集団生活に於いて、
常に人々の心を、お互いの気持ちを深く察する事で成長してきました。

しかし、現代社会に於いて、人々の成長は、唯、社会的に豊かな生活をする為だけに限られ
学校教育に於いても、社会に出ても、常に、社会性が自らの価値として自他共に考える事で
いつまで経っても心の中に満たされない気持ちが消えないのです。
高度成長という名の日本破壊活動は、日本中の自然と日本人の心を踏みつぶしてしまったのです。

この人間の心を簡単に踏みにじってしまう社会構造は、人々の気持ちを何の躊躇もせず
引き裂いてしまい、ただ経済的に豊かな人達のみを守る様になってしまったのです。
経済的に豊かな生活をしようと、心が満たされる訳は有りません。
ただ、企業を豊かにする為に、新たなる消費物質に手を出すことしか出来ず、永遠に続く
散財生活が人々を疲弊させていくのです。


大都会に憧れ、多くの若者達が集まります。
一年を通して、いつもお祭りをしている様に華やかな都会は、若者達の心を鷲掴みにします。
しかし、ほどなく彼らは、この華やかさが、決して自分達の心を満足させるものでは無く、
この地で生きて行くには、他人の心の豊かさや優しさを求めてはいけない事を知ります。
常に経済的豊かな者だけが都会の中心となり、多くの人々は、常に心苦しい毎日を送る事に
悩まなければならなくなるのです。

他人を傷つけ苦しめる事を何とも思わなければ、この消費経済国家で生きて行けるのです。
少しでも温情を持てば、簡単に誰かに蹴落とされるのが都会の現実と言えます。
そんな社会で生きる人達の心は、次第に人間不信と成り、最終的には、自らを守るために
銃すら持たざるを得なくなるのです。

アメリカ社会の様に、創立期から、略奪の歴史を重ねてきた国ならいざ知らず、
日本は、何千年も心を育てる事を人々の目的として来た、大自然に常に神を感じて来た国です。
ほんの100年そこそこで、人としての価値を見失って良いのでしょうか。
日本国民が、豊かな生活をしていても、なかなか心が満たされない理由がここに有るのです。
外見的な姿は、欧米的な経済大国であっても、日本人は、決して心を見失ってはならず、
その思いがあるからこそ、春夏秋冬の自然に心を動かせれるのです。

 


儚い花の命に思う

2018-03-30 16:05:34 | 日本人

花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき、とは、林芙美子の短詩として有名ですが、
桜の花を見ていると、本当に、その儚さが伝わって来ます。
黒いか細い枝で寒さに耐え、ようやく蕾と成って花を咲かせたと思ったら、あっと言う間に
流れる川に身を任せる、日本に咲く数々ある花の中で、これ程、私たち日本人の心を
震わせる花は有りません。

たかが花とは言え、その咲き姿に多くの人が我が身を当てはめ、人生を思います。
桜だけでなく、四季を通じて、日本の自然は、日本人に多くの感動を与えます。
しかし、桜の花は、中でも特別な存在と言えます。
日本人の心に有る自然の美しさの中でも、富士山と同じく、私達の心に深い感動と
歓びを与えてくれます。

日本列島は昔から自然災害に見舞われ、豊かな自然に恵まれているとはいえ、
先人たちは、その猛威に苦しめられてきました。
耕作地が少ないだけでなく、幾度となく自然災害で命の糧を失い、更には、
人畜の被害も少なくは有りませんでした。
その為、如何に、災害から逃れ、多くの糧を得るかを考え、常に、大自然の変化に
敏感に対応するようになったのです。

季節の移り変わりをつぶさに感じ取り、生きて行く為の術を学びました。
しかしながら、大自然の力は凄まじく、時には、大飢饉に見舞われる事も珍しく無く
日本人は、自分達ではどうにもならない自然の力に、神々の存在を信じたのです。
後に、仏教や儒教、更にはキリスト教などの宗教が人々に信仰される様に成っても
日本人の心の奥には、常に、大自然を作り出す神の存在が有るのです。

この事が、日本人が、世界のトップクラスの経済大国となっても、国民の心の中に
大自然に対するノスタルジーを失わない理由とも言えます。
例え、遠い昔の日本を知らない現代人であっても、DNAには、先人から受け継がれて来た
大自然に対する深い思いが有るのです。
資本主義経済大国となった今でも、日本人が本当に求めている世界は、単に物欲に塗れた
消費経済社会では無いのです。


多くの日本人が、経済的に豊かになった時求める物は、かつてのに日本人が生きていた
大自然と一体となった生活です。
自然と対峙し、自然と共に生きる事で、日本人の多くが求める心の安らぎを得ようと
するのです。
本来、人類は、大自然の食物連鎖の中で生きて来たのです。
大自然に生かされている事を感じた時、最も人間らしい心の豊かさを感じるのです。


しかしながら、日本人の生活は、相変わらず、消費経済社会の中にいます。
幸せは、如何に多くの消費が出来るか、欲しい物を何でも手に入れる為の財を成すか
に在るのです。
巷に溢れる煌びやかで豊かな消費物資を求めて、日本国民は、あくせく働きます。
それらを手に入れられる事が幸せと思っているからです。

そして、経済成長に伴い、多くの人が、欲しい物を手に入れられる生活を得る事が出来
次々に欲望に任せて買い求めます。
自分が知る限り、自分の財が許す限りの贅沢を試みます。
人が羨む高級品を身に纏い、高級な車、そして憧れの大邸宅をも手に入れる事に成ります。
自分が憧れた物を手にした時、その価値は、一体誰が認めるのでしょうか。

残念ながら、どんなに高価な物を手に入れても、それを羨み妬む人は増えても、
自分自身の価値と共に評価してくれる人は少ないのです。
物の価値とすれば、遥かに豊かな人は、世界にいくらでもいるのです。
世界の大富豪からすれば、日本で多少豊かな生活をしたとしても、同じ程度の日本人と
何の感動も無く見定められるだけなのです。

そんな時、またもや、更なる高価なもの、他人の羨む物を手に入れようと頑張るのでしょうか。
多くの日本のお金持ちが陥る豊かな財産所有と寂しい孤独の毎日です。
いくら多くの財を成しても、地位や資格を手に入れても、その事で、人間としての価値を
感じてくれる日本人は少ないのです。

何故なら、日本人の価値観は、個人的な経済力や社会的な地位、財産ではなく、
お互いに共有できる、日本人としての生きる為の価値観に有るのです。
その共通の価値観が、日本人が、桜を代表とする大自然に対峙した時に感じる
自然と日本人の一体感なのです。

ただ外見的な美しさであるならば、多く訪れる海外からの観光客と同じであり、
単なるフェスティバルに過ぎません。
楽しさだけを求め、刹那的な喜びに浸るだけなのです。
しかし、桜に対した時、日本人は、まるで、荘厳な神社に参った様な感覚と成り
心の底から感動するのです。

寒さに耐えて美しく咲くだけでなく、散る事にも感動し、川の流れに美しい帯を成し
最後まで私達を感動させる姿に、心が動かされ、生きる為の力を感じるのです。
桜だけを見ても、これだけの心の感動が有るのです。
日本は、四季を通じて、様々な大自然の営みが有り、その全てが、私達日本人の
心の糧となっているのです。

生きる為の食料としての糧だけでなく、人間として成長する為の心の糧として
日本人は、大自然と共に生きて来たのです。
何でも手に入る世の中に成ったと言え、実際は、物欲を満たす事ばかりが増えて
一番大切な、日本人の心を豊かにする糧を見失っているのです。
その代償として、経済的に豊かな生活を求めたのですが、日本人の心は
経済成長と反比例して、次第に疲弊し、生きる事に苦しむ事と成ったのです。

しかし、日本経済は、日本人に心の糧を提供する事無く、更なる散財をする事で
豊かな生活が出来るとしています。
日本人を幸せに導くはずのリーダー達の多くも、経済発展こそが、日本人を
幸せにすると信じて疑いません。
しかし、その経済性を求めた人たちの豊かさとは、地位や財産とは比較に成らない
貧しい心と狡猾な考えです。

日本を代表するような方々が行う事とは思えない、余りにも幼稚で我欲に満ちた
犯罪行為が蔓延しています。
例え、優秀な成績をもって優秀な学歴で日本の中心となる仕事に就いたとしても
肝心な人間としての成長が出来なかった人達が多い事を示していると言えます。
この事は、消費経済国家の最大の問題であり、どんなに豊かな生活が出来ても
人として成長できない事実を如実に表していると言えるのです。

桜の花を見た時の感動を、一年を通して得られていたのが本来の日本人なのです。
日本人は、美しい日本の自然に生かされ育てられ、人間として成長して来たのです。
物の価値をお金でしか判断できなくなった時から、日本人の苦悩が始まったのです。
日本人の生きる為の価値観を経済的豊かさに求めた時から、日本人の心は、
どんなに豊かな生活をしても満たされず、成長しない心は、幼稚な犯罪や安直な
書き換えに走ってしまうのです。

現代日本人は、今までで一番、日本人同士での心の交流を失っていると言えます。
常日頃、周囲の人達や家族の心を気遣う事で、お互いに心の平安を保って来たのですが、
今や、他人とは関わらず、たとえ家族であっても、お互いに孤立をしている人が多く
関わる時は、何か利害関係が生じた時だけであり、対人関係は常に緊張した
ギスギスとした他人行儀の様な方がとても多くなりました。

自分が傷つかないために、他人と関わらないと言う人も多く、やたらと丁寧なだけで
心が籠もらない応対しか出来ない若者も少なく有りません。
心が弱く、ちょっとしたストレスで病んでしまう人も多く、相手が何を考えて居るか
察する力も無く、おく病に成ったり、逆に暴力的な成ってしまう人も見られます。

人の心は、決していつも同じではなく、まるで春の天気の様に次々に変化して行きます。
例え、対人的なハウツウを習ったとしても、それは営業対応にしかならず、心から
お互いを理解する事には繋がりません。
日本人は、次から次に変化して行く大自然と共に生きて来た事から、対人的にも
お互いの心の変化に敏感に対応できる力を持っていたのです。

言葉のほんの小さな言い回し、語調、表情、仕草と、様々な変化を感じ取る事から
深く心の底からお互いを理解する能力を身に付けて来たのです。
しかし、現代社会は、ほんの表面的なやり取りで、経済的な利益のみを求める対応となり
人々が、お互いに深く相手を理解する術を見失ってしまったのです。

近年、盛んにニュースに取り上げられる、セクハラ、パワハラと言った対人的トラブルは
お互いに相手の気持ちを察する能力に欠けて来た事から、自分勝手な考えが先行し、
他人を傷つけたり傷つけられたりするようになったのです。
日本人の桜の花に寄せる思いと他人に対する思いは、かつて同等だったのです。
それ程にも繊細で優しさ溢れていたのが本来の日本人なのです。
今や、喜びや幸せはお金で買うものとする社会が日本人を苦しめているのです。
人の心は、桜の花の様に美しく儚いものなのです。
一人一人が持っている心の花を理解しようとする社会となる事が、
日本人が幸せに成る道と言えるのです。


 




 

 


自分の本当の思いが解らない日本人

2018-03-28 16:26:45 | 日本人

本当につまらない、予想通りの証人喚問でした。
始まる前から、迷宮入りとなる事を前提とした与党の策と、
現実の力の無さから、真実を突き止められない、野党の弱さが
戦後、幾度のとなく見せられた証人喚問と何だ変わらない
証人の狡猾さと、操る陰の力を感じるだけの喚問でした。

議会制民主主義の国とは言え、国民が直接異を唱える事は出来ず、
事実上は、同じ穴のムジナたちの勢力争いと何だ変わりません。
蚊帳の外に置かれた国民は、またもや、諦めるしかないのでしょうか。
一年に渡る疑惑を解明するための取られた時間と費用は、国民の血税から
支払われている事は言うまでも無く、国民の代表と言いながらも、
相変らずの私欲を肥やす政治家が無くならない日本に、もはや
民主主義は崩壊していると言えるのです。

日本社会は、差別社会から、階層社会と成って、国民の思いは、
益々政治に反映される事無く、その地位を利用した狡猾で我儘な
一部の人達によって欲望闘争が繰り広げられるだけなのです。
国政を行っていると言う隠れ蓑が、国民の目を欺き、政治の場が
個人的な欲望を満たす場となっているに過ぎません。

我々国民は、政治家が、国民の利益の為に働いていると信じているからこそ
苦しい生活に甘んじているのですが、幾度となく繰り返される政治家の不祥事に
殆どの国民が声を上げないのは、如何に、日本社会が、正義からは遠く離れた
欲望の社会であり、同じ環境で生きて来た日本国民には、不正として正す
思いは芽生えて来ないのかもしれません。

彼らを責めると言うより、戦後、消費者としての役割を担わされて来た日本国民は
反発する術も持ちえないとも言えます。
政治の世界だけでなく、日本社会のあらゆる場面で、同じ様な悪質な行為が
行われている事は否定できず、経済的な価値を日本人の生きる目的としてきた
社会問題と言えます。
子供の頃から、社会的に人の上に立つ事を人生の目的であるかのような教育を受け
欲望の為には、他人を傷つけようが、周囲に迷惑を掛けようが構わないとする、
個人的な欲望が基準となった人生を送る人が多いのです。

社会的地位が有れば、何でも許されると言う風潮が日本社会には有り、
様々な差別、暴力、圧力が起こる原因も、根底には、個人的な我儘な理由が
優先される社会が有るのです。
地位や名誉が有れば、不祥事を起こしても、しばらくの時間禊を行えば許される
とする、地位が高い人達に対する社会の甘さが、いつまで経っても無くならない
リーダー達の不祥事の温床と言えます。

この事は、社会全体の不正や不祥事に対する厳しい目が足りないと言うよりも、
その様な芽を見逃してしまう、他人とは関わらない社会生活に在ると言えます。
日本社会は、個人的な欲望を満たす為の消費経済社会と言えますが、それ以上に
他人に対して無関心な社会で有ると言えます。
自分の事を中心に常に考えると言うだけでなく、他人には、関わらないと言う、
相互利益が関係しなければ、日頃から全く関わり合いを持たない事を前提とした
社会が有るのです。

一番の問題は、利害関係が働かなければ、誰に対しても無関心であると言うのが
日本人の基本的な生き方と成っている事です。
まるで大都会の生活の様に、どんなに華やかで豊かな社会であっても、そこに
自分との利害が働かなければ、何の存在価値も無いのです。
唯一の関わり合いは、お金を出せば何でも手に入ると言う関係です。
つまり、欲望を満たすために存在しているに過ぎず、どんなに多くの人がいても
全てが意識の外にある空気の様な物であり、他人がどうなろうと全く感知しない
自らに被害や利益が生じない限り関心を持たない人が多いのです。

その為、人々は、自らの判断でしか行動や思考が出来ず、世の中の流れに対して
何の判断基準も持たず、簡単にリーダー達の言い成りになってしまうのです。
頭の中は、メディアに与えられた情報ばかりで、リーダーや著名人が勧めれば
何の疑問も持たず支持をし、世の中の流れに常に従う事しか知りません。
この便利な消費者を利用しているのが政治家であり企業家たちなのです。
興味の対象を作り、自分達が莫大なる利益を得られる様な道筋を作れば
何の疑問も抱かず従ってしまうのが、調教された現代の日本人と言えます。


日本の政治の世界で、常に行われる玉虫色の判断や行動は、最も反発を受けにくく
日本人に受け入れやすいと言えるのです。
如何なる不祥事が有っても、自浄対策を施して、それなりの努力をしたとすれば
国民が納得すると言う温床が日本社会には有るのです。
庶民の不祥事に対しては、法律をもって厳しく対処しようも、自分達から生じた
様々な事件に対しては、常に、曖昧な態度を貫き、灰色の決着をもって良しとする
日本政治の醜い実態が有るのです。

私達日本人は、世界的に見ても知的な民族と言え、日頃、テレビなどのメディアを
通じて様々な情報を身に付け、平均的知識量は、世界でもトップクラスです。
誰もが高い知識を享受し、経済的に豊かに暮らす日本人は、世界中から憧れられ
まさに人類の理想と言える生活を送っていると言えます。
しかし、国民の幸福度はと言えば、決して世界のトップクラスとは言えず
むしろ発展途上国の国民より低いのが問題です。

豊かな生活をしているのに、心の中は常に満たされず、生きることに
常に不安を抱き、一生を通じて心が安らがなければ、いつまで経っても
幸せを感じることは出来ないのです。
何故、日本人は、満足できない生活を送り続けなければならないのか
それは、満足できないような日本社会が作られているからです。

常に自分の行動や知識に自信が持てなければ、自分の心の基準が定まらず
いつも不安が付きまとい、情報に振り回される事になるのです。
しかし、多くの知識を得たとしても、その知識は自分の心の安定には
到底繋がらず、新たなる情報が入ってくると、それまでの知識は力を失い
せっかく安心できたと思いきや、すぐに不安となってしまうのです。

まさに消費経済社会は、この人々の不安を利用した、一部の豊かな人達が
作り上げた私利私欲に満ちた社会と言えるのです。
大多数の国民は、与えられた新商品や新たなる知識を得る事を日常の生活
と考えて、いかに多くの消費物質を手に入れるかに必死となるのです。
しかし、手に入れた矢先から、その価値は失われ、常に新しいものを
手に入れなければ不安と成り、人々は一生、心の安静は得られないのです。

この傾向は、どんなに所得を得ても国民の心からなくなることはなく、
さらには、人々の欲求不満をかきたてる社会形態は、大量消費生活に
不信を抱かせる事はありません。なぜなら、小さい頃から、豊かな消費者に
なるべく教育を受け、その順位を競う事に成れているからです。
本来の、豊かな人格を形成する為の教育が、将来の盲目的に消費を続ける
良き散財者となる為に、意図的に仕組まれている事を国民は知りません。

個人の価値を認め、個人の自由、幸せを得る為の数々のステップが、
より社会への奉仕を志す事に利用され、より多くの消費が出来る事が
人間の価値でありステイタスであると教え込まれるのです。
子供たちの教育は、現代社会の階級制度を維持する為、さらには
膨大なる利益を目論む人達の生活を守るために利用されるのです。
つまり、そこそこの経済的に豊かな生活は出来ても、その事で満足しない
常に不安が付きまとう様に子供たちは教育されているのです。

しかも、大人になってもこの傾向は留まる事無く、どんなに利益を得ようと
自分が手に入れた物はすぐに価値の無いものとなり、新たなるものを手に入れ
続けないと不安になってしまう社会風潮を生んでいるのです。
新製品や、より便利な品物が消費を促し、国民に一時たりとも満足させない様、
満足できない、更には、欲求不満の心を国民の心に植え付ける事に依り、
この消費経済社会を維持していると言えるのです。

しかし、心が疲弊する国民は、どんなに経済的豊かな生活をしても
幸せを感じる事は出来ないのです。
自由平等とは、物が豊かにいきわたり、豊かな生活が出来ると言うのではなく
心が他人に支配されず、誰もが、自分の考えで個人的価値観で生活できる事です。
価値観を他人に押し付けられても、心から幸せには成れないのです。

どんなに地位が高く成っても、基本的に心が満足できないと、直ぐに餌に飛びつき
つまらない不祥事を起こしたり不正を行ってしまうのです。
多くの国民が、豊かな生活が出来れば幸せに成ると思っていますが、
自分自身の心が満足できなければ、どんなに豊かな日々を送っていても、
見苦しい欲望の芽が育ってくるのです。

国会の証人喚問は、正に、この満たされない人達の成れの果ての姿なのです。
しかもそのよう人達が国民にアドバイスできる事は、経済的に豊かになれば
幸せに成ると言う、小さい頃から教え込まれた幼稚な考えでしかないのです。
日本人は、本来、心の満足を最も大切にして来た民族です。

明治に入って来た資本主義経済が、私達の心の在り方を変えてしまったのです。
どんなに豊かな生活を送ろうと、貧しい生活を送ろうと、個人個人の心を大切に
自分の心を豊かにする為に、他人との関わり合いを考える事が大切ですあり、
経済的に豊かな生活とは、この個人の心を満たし育てるものでなければ
意味が無いと言えるのです。

 



 

 

 






無くなること無い不祥事

2018-03-26 17:17:23 | 日本人

 

お隣の韓国で、またもや、元大統領が逮捕されると言う非常事態が
起こっていますが、我が国に於いても、驚くべき政治の実態が暴露され
今や、国会は空転状態とも言えます。
日本政治史上、類を見ないともいえる程、政治家たちの醜い部分が暴かれ
如何に収拾するか、与党のみならず、国会議員全員にとっても、如何様にして
襟を正し、国民の信を取り戻すか、議会制民主主義の根幹にかかわる大問題
と成っていると言えます。

とは言え、いかなる審議を繰り返そうと、行った不正は、既に、国民の信頼を
完全に失うものであり、議論を繰り返し、その真偽を確かめると言う
玉虫色の決着をして、国民の追求の手を逃れようとする厚かましさは
これまでの政治家の逃げ口上と変わりません。
例え、今回の事件で責任を問われても、また月日が経てば、選挙に出馬し
またもや、政界に復帰する為の甘言を並べると言うのが常道であり、
どんなに悪徳行為を行っても、喉元過ぎれば、またもや受け入れてもらえる
という、我儘で国民の代表とは程遠い政治家を生み出す温床となっています。

しかし、何故、政治家の不祥事が無くならないのでしょうか。
国民の代表として、国民の為に働いているはずなのに、いつの間にか、
我々の代表とは程遠い存在となっています。
国民と向かい合うのは、唯一選挙だけと言ってもよく、当選してしまったら
その後は、雲の上の様な存在となり、私達とは遠い所で、私腹を肥やしている
そう思うと、腹が立つ以上に、この様な無能者を選んでしまった私たち自身を
悔いるしか有りません。

とは言え、この、国民の期待を裏切るのが日本政治の実態である事も事実なのです。
理想は、国民の代表として、私達を幸せで豊かな生活に導いてくれるのが、
彼らの役割であり、常に、国民と向き合って、国民の利益の為に働くのが
常道と言えるのですが、残念ながら、頑張ってはいるのでしょうが、
伝わって来るもの、目に見えて来るものは、国民に背を向けた、期待を裏切り
更には、不正行為を平気で行う様な悪徳な姿ばかりです。

どの世界でも、上に立つ者は、支持する人達の想いを反映させる義務が有り、
その為にも、多くの利益が得られる様に、生活が守られているのです。
国会議員にしても各官僚にしても、税金から、自分達の地位に相応しい
多くの所得を手にしているのです。
国民の多くが苦労する日常生活を体験する事無く、豊かな生活が保障され
様々な特権が与えられています。
にも拘わらず、更なる利益を求め、国民の思いを裏切るには、どれだけの
理由が有ると言えるのです。

この理由は、この資本主義社会、消費経済社会について回る、上に立つ者の意思が
下に付く者の意思とする、独裁的独占的権限です。
少しでも上に有る者の考えが優先され、時に絶対的な権限として行使される
つまり、相撲の番付の様なものであり、日本社会は、より経済的に豊かな人が
絶対権力を握れるのです。
最近メディアで盛んに取り上げられる社会問題の原点は、この日本社会が生む
縦社会の我儘と言えるのです。
角界の暴力問題、セクハラ、パワハラ、そして、政治家たちが起こす問題は全て
資本主義社会が生み出す、上下関係がトラブルの原因となっているのです。

幼い頃から、人と比べられ、経済的に人の上に立つことで我儘が認められ
個人の価値や評価は、人間的なものではなく、社会性経済性の高さであり
高ければ高い程欲望が叶えられると教え込まれます。
しかも他人の意思を支配でき、欲しいものが手に入れられるという考えを
小さい頃から植え付けられます。

個人評価は、社会的に如何なる地位にあるかによって決められ、人の評価というより
肩書きが、その人物の価値とするのが日本社会と言えるのです。
主権在民、国民主権、と言った民主国家を表す言葉は、日本に於いてはすでに死語であり
表向きは、平等社会と言われても、現実は、縦社会が本質なのです。

多くの指導者やリーダー達は、民主主義社会で法律に則て利益を得ていると言いますが、
殆どの場合、より上の地位にあるものの権限が行使される事が多く、民主主義の名を借りた
富裕層の独裁国家とも言えるのです。
その為、人々は、より我儘の効く社会的に高い地位を目指し、他人よりも経済的に豊かであり
社会的地位が高ければ、自分自身の価値が高いと誤解してしまうのです。

この事は、政治家として毎度メディアを騒がせる人達は、その典型と言え、地位が上がれば
我欲を押し通せると思ってしまうのです。
しかし、問題は、政治家よりも更なる社会的に豊かな方々が、政治家と繋がりやすい事です。
財界が政治家にどれ程大きな影響を与えているかは、表向きには問題にされないものの、
政治家の多くが、国民よりも国の経済を支えている方々に頭が上がらない事からも解ります。

しかも、問題の多くは、彼らから政治家への利益供与が成される事が多いのです。
政治家は、国民からの税金を国の資金として使うだけでなく、企業からの莫大なる資金で
国の方針を決めているのも事実です。
国民の同意を得る為にも、財界の実力者たちは、政治家に盛んに影響を与えるのです。

韓国に於いて、大統領を始め、多くの政治家が逮捕される異常事態も、一つには、
韓国政治が、財界との密接な繋がりで成り立っている事が原因とも言えます。
日本に於いても、滅多に発覚しないものの、政治家と財界人の繋がりはとても強く、
日本政治の行方は、国民の意思と言うより、政治家のバックに控える方々の意思で
決まると言っても過言ではないのです。

残念ながら、自由主義社会というのは、国民にとって理想的としか言えず、
国民は自由な生活が出来ていると言うのは表向きであり、消費者として
豊かな人々をより豊かにする為に存在していると言えるのです。
つまり、現代社会は、庶民にとって息苦しくとも、この社会を作っている人達にとっては
常に理想的であり、この社会を維持するために作られる社会システムを維持する事で
いつまで経っても多くの国民は幸せに成れないのです。

ピラミッドの頂点を生かす為守る為、その下の多くの国民が存在しているのです。
国民から不満が出ない程度に、社会を華やかに豊かにすることで、いつまでも
金の流れが富裕層に集まる様に出来ているのです。
現代日本に在って、国民が、何故、いつまで経っても幸せに成れず、生きる事で
常に大きなストレスを強いられるのは、自分達の幸せの為に働いているのでなく
一部の人達の豊かな生活を守るために働いているから苦しいのです。

経済的に豊かになれば幸せに成るとする政治家の弁は、自分達が経済的に満たされ
何不自由なく暮らせるから、豊かになれば幸せに成るとする、自分勝手な考えであり
その言葉に準じているからこそ、いつまで経っても、日本国民は幸せに成れず、
一生懸命働いた身銭を使う事に精を出さなければならないのです。

今日は、朝から、証人喚問が行われ、問題の当事者が弁明をしていましたが、
この事で、どれだけ国民に利益が有ると言えるのでしょう。
どんなに話し合っても、お互いにすねに傷の有る者同士が、持論を述べるだけで
無駄な税金を使っているに過ぎません。
どんなに議論しても、悪者とされるものが出てくるわけが有りません。
何故なら、疑惑の人間が政治をしているのですから。

この身に成らない討論を何度聞いて来た事か、確信に迫れば、記憶にない、
資料が無いと知らぬ存ぜぬを通し居直るのが落ちです。
戦後半世紀以上過ぎても、この政治家の体質は変わっていないのです。
と言うより、議会制民主主義の名を借りたキツネとタヌキの騙し合いなのです。

少し我慢をして禊をすれば、また、国政の場に顔を出してくるのが常なのです。
国民の前で時間稼ぎをし、如何にも、しっかりと議論をしたと言うのが
彼らの言い分であり、しばらくすれば、そんな事どこ吹く風と言った調子で
次の選挙に向かうと言うのが日本政治の在り方と言えるのです。

つまり、日本の政治家は、国民を守る力も幸せにする力も無いのです。
地位と財産を得られる政治家という仕事を行っているに過ぎず、
他人の心配が出来る程の器の広い政治家は非常に少ないと言えるのです。
不正を正してくれる、国民の為の政治をしてくれると言う期待をする事は
時期早々であり、日本国民は、日本の政治家に対して期待する事は無駄なのです。

世界的な経済大国と言え、日本には国民の期待を一手に引き受ける政治家は
まだ表れていないと思えば、それ程腹も立たないのかもしれません。
経済的に豊かになったとは言え、日本人は、いまだに、人間的には進歩せず
まして、リーダーと言われる程の人材がいない国なのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 


中目黒の桜の見方

2018-03-24 14:34:57 | 東京

数日前には、まだ2分咲き程であったのに、昨日から今日にかけて
目黒川の桜は、一気に、満開に向かっています。
所により、まだ、堅く蕾を閉じている所も有りますが、殆どの流域で
5分以上、中には、殆ど満開ではと思えるほどの美しさに成っています。

土日は、おそらく、想像を超えた人出が予想されるため、今日は、早朝から
河畔を歩く事にしました。
太陽は、かなり高く上がっているのですが、遊歩道は、出店の準備をする人や
昨日の片づけをする業者の方など、普段とあまり変わらない光景です。

私達地元は、桜を見る時は、まず、川の上流に向かいます。
桜並木が美しいと思われる上流域から歩き始めます。と言いますのは、川は
上流から下流に流れ、当然それに沿った遊歩道も下り坂を歩くのが楽と言えます。
多くの観光客の方が、中目黒駅から、上流に向かって歩いて行く為疲れやすく
しかも、駅周辺は大混雑な為、余りゆっくりと桜を楽しめません。
上流域は人が少なく、ゆっくりと川を下りながら、桜を愛でると言うのが
ベストと言えます。

今年の桜は、やや白っぽいのですが、それでも、桜の華やかさは人々を興奮させます。
川に掛かる幾つもの橋から川の上下流を眺めると、キラキラと光る川面の上に
美しい桜のトンネルが続きます。
其々の橋の上からの景色は、川の蛇行と移り変わる景色と共に変化して、その都度
ピクチャーポイントが訪れます。
浅くサラサラと光りながら流れる川面を、居付いたカモがすいすいと泳ぎ、時折
尾を高く上げ水中に頭を潜らせます。
ゆったりとした時間が流れ、桜の花の様に、人々の笑顔が続きます。


しかしながら、今年も、観光客が全国からやって来ます。
目立つのは、中国や韓国と言った、東南アジアからの観光客のグループです。
周囲から聞こえて来る声は、殆どが海外の方の賑やかなお喋りです。
もちろん、日本人の方が圧倒的に多いのですが、桜を愛でる感覚は
日本人と海外の方とはかなり違っている様です。
どちらかと言えば、私たち日本人は、桜を通して季節の移り変わりを感じ
自然の美しさ優しさ愛おしさを感じて、声を落として、その感慨をお互いに
噛みしめる様に鑑賞しているのですが、海外の方々は、声に出して、自分の
楽しさを声高らかに表現する傾向が有る様です。

とは言え、桜の美しさは、世界的に知られる様に成っている様で、
世界の様々な地で、日本の桜が多くの人々の目を楽しませているようです。
アメリカのポトマック川の畔の桜並木は特に有名で、よく管理が行き届いた
美しい満開の桜を楽しむ光景がニュースに流れると、日本人の心ともいえる
桜が愛でられる事に日本人として、とても嬉しく思われます。

日本で春に咲く桜の殆どが、ソメイヨシノと言う品種の桜なのですが、
この桜は、もともと日本に古くからあったものでは無く、江戸時代に
元々あったエドヒガンとオオシマサクラが交雑し生まれたと言われています。
殆どが、接ぎ木によって繁殖され、いわば、クローンとして生まれたこの桜は
同じ性質を持つ事から、咲く時期も散る時も一緒になる事が多く、桜独特の
美しさを強調します。

しかし、品種的に極めて弱く、桜切るバカ梅切らぬバカ、と言われる様に、
桜を切ると、その切り口が細菌やウイルスに感染して、桜を枯らしてしまう事が
昔から知られています。
近年では、例え、枝を切っても、その切り口の感染防止処置が進歩したため、
木が死んでしまう事は少なくなりました。

日本人の魂を揺さぶる花として、日本人が大好きな桜のは、日本中に植えられ
多くの人々に感動を呼ぶのですが、こんなに素敵な植物であっても、やはり
人工的に作られるものは中々長生きできず、ソメイヨシノの寿命は、50年前後
と言われています。交雑した元木である大島桜は、時に、300年を超える大木に
成長しますが、ソメイヨシノが、100年生きる事は、まず有りません。
その為、今や、全国の桜の名所は、その対策に苦慮しています。

その一つが、目黒川の桜でも有ります。
新木も有りますが、多くが、30年以上、中には50年を超えた大木も少なく無く
如何に新しい桜並木に変えて行くかが地元民の悩むところでも有ります。
目黒川は、中目黒近辺とも成りますと、川幅が10メートル以下となって来ます。
この為、左右の護岸から大きく枝を広げた桜は、互いに寄り添って、美しい
桜のトンネルを作るのです。

目黒川の桜の美しさは、川を覆う、桜のトンネルに有ると言っても良いです。
橋の真ん中に立って上下流を眺めれば、そこには桃源郷に続くのではと思える
美しいピンクのトンネルが続きます。
例え、桜の花が散った季節となっても、緑のトンネルは川面の爽やかな風を通し
道行く人達に一年中憩いの場を与えているのです。

しかしながら、今日明日、そして満開となる来週の中目黒近辺の混雑ぶりは
毎年の事ながら、想像を絶する酷さです。
今日も、帰り道、昼時に近くでしたが、中目黒の駅からは、まるで通勤ラッシュの
人の流れの様に、物凄い人の数が道を塞ぎます。

多くの交通整理のお巡りさんが出ていますが、到底処理できるものでは有りません。
これから夜にかけて、山手通りは渋滞が続き、目黒川は、川の流れよりも人の流れが
上流から下流まで続きます。
とは言え、夜ともなると、川の左右の岸に沿って怪しげな提灯が点されます。
桜の様にピンクの絵模様は、昼間とは違った、耽美で優雅な夜景を生みます。
遊歩道には、様々な屋台が並び、美味しそうな料理とお酒が観光客を誘います。

毎年、桜の名所として、中目黒近辺が紹介され、日本中から世界中から多くの
観光客が押し寄せます。
ハッキリ言って、この近辺は、優雅なお花見と言うより、まるで、上野動物園の
パンダ園の前の様です。
立ち止まる事も、ゆっくりと桜を愛でると言う事も出来ません。
中目黒駅前から、目黒川上下流500メートルは、桜と言うより人を見ている様な
騒々しいお花見を覚悟しなければなりません。

私達地元が勧める所は、その先の上流域と下流域です。
特に、下流域は、川幅もゆったりとして、護岸の左右の桜もゆったりとして美しく
遊歩道の上に桜がトンネルを作り、心行くまで自分のペースで桜を愛でる事が
出来ます。

中目黒周辺は出来るだけ短時間で見終わり、そのまま、下流に向かって遊歩道を
下りながら、出来る事なら、五反田の先まで、桜を楽しむ事がベストと言えます。
朝の早い時間に中目黒近辺を見て、その後、下り坂をゆっくりと下って行けば
川と桜と東京の街並みが美しい絵葉書の様に続いています。

これから一週間程、都内の桜の名所には、多くの人が感動を求めて足をむけます。
桜を見る事で、日本の自然の美しさを感じ、私達は豊かな自然によって生かされて
いる事を感じたいものです。
本来、日本人は、一年を通じて、様々な美しい自然に癒され生かされてきました。
桜の花を見て、心が癒される様に、日本の自然によって育てられて来ました。

自然の中に生きる事で、日本人としての美しい心が生れたと言っても良いのです。
私たち日本人は、大自然の懐に抱かれる事に飢えていると言っても良いのです。
経済的に豊かな生活は、便利で楽かもしれません。
しかし、心が癒されなければ、どんなに豊かな生活をしても、幸せには成りません。
日本人として、本当の幸せをつかむにはどうしたら良いのか、外見的な美しさで
いつまでも満足できないのが日本人であり、今こそ、私達の心の魂を求める生活を
復活させなければならないと思えます。