めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

自分が変わると周りが変わる

2019-03-26 10:21:02 | 社会

私達は、出来る事なら一生幸せでありたいと思うものです。
自分が望むものは何でも手に入り、自分の思う通りの生活を
送ることが出来れば、どんなに素敵かと思います。
しかし現実は、思いと裏腹の何をしても自分の思いに立ちはだかる
幾多の苦難に満ちていると言えるのです。

何をしても常に自由にならない、特に若い頃はこの行き詰る毎日に
耐えきれず自らの未来を捨ててしまう事すらあります。
しかし、例え、社会的に地位を成して、望むものを多く手に入れ
誰からも羨まれる生活を送っている人ですら、若者と同じく
自分の未来に不安を抱き、自分自身に自信を持てない方は多いです。

すべからく私たち人間は、いかなる環境に有っても満足する事無く
不満を抱くようになっている様で、日々の生活にも苦慮している
多くの人達が抱く、大金持ちになれば、幸せに成れると言うのは
憧れている時だけであり、実際は、どんな地位と成っても苦労と
不満は尽きないのです。

確かにこの満たされない感情は大きな欲求を呼び、人類の進歩に
多大なる貢献をしたと言えますが、その一方、心も身体も
非常に弱いもので、常に何かに守られていなければ生きて
行けない人類は、幾多の挫折によって自らの未来を見失って
しまう事も多いのです。
出来る事なら、余計なストレスを受けることなく、常に思いが
達成される方が、心と身体にとっては良いと言えます。

とは言え、現実の世界は、思いがそのまま達成されれる事は少なく
人其々の欲望が交錯する事に因って、常に、周囲と摩擦が生じ
生きる事は挫折の連続を体験する事ともなるのです。
思い通りにならない毎日が続けば、習慣性を持つ私達人類は、
夢を達成できない事をそのまま受け入れ、頑張って自分の
未来を切り開くと言うより、むしろ、現状を受け入れ、世の中の
流れに身を委ねる事を選択する事が多いのです。

しかしながら、そこそこの生活が出来たとしても、自分の本当の
夢が達成されない人生は、心の中にいつもくすぶりと不安を生じ
やりきれない日々を送らざるを得ないのです。
そんな思い通りにならない人生を受け入れる事で、単なるその場の
刹那的な満足をするのみの生き方は、いずれ大きな不安と不満を
生むことに成るのです。周囲にそして社会に不満を持ったとして
けっして問題は解決しないのです。自分以外の人達に不満を言っても
力任せに欲望を達成したとしても、現実が変わらないのも事実です。

大切な事は、私達が個人的にどのように思おうと、心の中でいかに
悩もうも、周囲の人達にとっては、単なる外見的な印象であり
どんなに親しい間柄で有っても、本当の気持ちを垣間見る事は
殆ど難しいのです。つまり、周囲の人達にとって、自分以外の人の
印象と言うのは、外見的な行動や言動でしか判断が出来ないのです。
と言う事は、どんなに頑張っても、外見でしか判断されず、自分の
努力が如何にあろうと結果しか見られない辛さがあるのです。

しかし、努力が認められない事で悩む必要は無いのです。
考え方を変えれば、外見的に変わりさえすれば、周囲の自分に対する
評価が簡単に変わってしまうと言う事なのです。
人は、自分の周りの環境や人々の外見に反射的に応じて生きる性質が
あるもので、その変化に応じて自分も合わせるようになるために、
常に変化して行く周囲の環境に引きずられる傾向があるのです。

上手く行かないのはあなたの努力が足りないのでも、能力が足りない
のでもなく、単に、外見的に周囲が関心を持たず、努力を認めたり
才能を認めることが出来ないのです。
簡単に言えば、自分が変われば周りが変わり、自分が求める夢や希望を
叶えやすく成るのです。
どんなに才能が有っても、自己満足の努力や表現では、誰も関心を持たず
人々の意識が自分に向かなくなるのです。

周囲の人達に助けてもらって成長することが出来なければ、自分の力では
排除されることは有っても、より多くの夢を達成することは難しいのです。
多くの方が地道な努力の元、何年何十年もかけて認められて社会的に
豊かな人生を歩めるのですが、殆どの人は多くの夢を諦めながら生きざる
を得ないともいえるのです。確かに、努力は必要ですが、道を究めるには
一人の努力よりも、周囲の多くの人の助けがあった方が断然成功率も
完成度も高まるものです。

その為には、自分の思いを周囲に解らせなければなりません。
誰もがある程度自分が納得できるまで仕上げて行かなければ認められない
と思いがちですが、例え未完成であっても、自分の思いが周囲に伝われば
その思いを達成すべく多くの人が手を差し伸べてくれることが多いのです。

中々思い通りにならないと苦しむより、その上手く行かない思いを
周囲に知らせる事で、短期間で目的を達成できることも多いのです。
簡単に言えば、自分が変われば周囲が変わるのです。
様々な経験が私達の人生を豊かにするのですが、経験だけでなく、自分の
望む生き方に思い切って乗り換えてみる事も大切です。

経験が自分の生活を豊かにするだけでなく、新たなチャレンジが
自分自身を成長させるのです。
特に未体験の分野は、対応する為に自分自身のあらゆる能力が発揮され
自分自身を変える絶好の場と言えるのです。
変って行く自分に対して、周囲の見方も反射的に変って行くのです。
この時、自分の行動言動が変って行く事で、周りの人達の見方も大きく
変って行くのです。

私達の人生は、自分自身が歩んでいるように見えて、この自分の変化に
周囲が反応して作られて行くと言えるのです。
自分自身が望む生き方や生活を行えば、おのずと周囲の人達も自分に
合わせて変わってくれるのです。つまり、望む行動や言動を行えば
それを周囲が助けてくれるのです。

どんな偉業も、本人の努力の結果の様に思われがちですが、本当は
本人の強い思いに周囲が反応して後押してくれた結果でもあるのです。
この周りの人をより多く作り自分の目的に進ませることが、一番、
夢を達成できる方法と言えるのです。

多くの人が、才能が無いから、努力が足りないとか、資金が足りないとか
夢が達成できなかった理由を並べますが、実は、自分を変えない事で
周囲の人がどの様に助けていいのかが解らないのです。
余程の資金や素晴らしい環境が無い限り、殆どの人は、自力で大きな夢を
達成することは出来ません。夢は、ひとりで叶えると言うのではなく
夢を周囲の人が叶えたくなるような新たな自分を見せる事が重要です。

人は、困っている人を見たり、苦しんでいる人を見たりすると、
本能的に手を差し伸べたくなります。同じように、何かの夢に向かって
努力している人には、手助けをしたくなるものなのです。
成長をし常に変化して行く者には、手を差し伸べエールを送りたいと
するのが人間の性でもあるのです。
いかに自分の夢に対する多くの人々からの援助が得られるかが、
人生に於いて成功できるかと言う事です。

 

 


肩書き外見が自らの道を閉ざす

2019-02-02 12:35:44 | 社会

私達は日常的に外見を気にし、社会的な地位を気にしがちです。
自分が如何に他人から見られているか、自分はこの世でどの様に
位置づけられているかを、無意識のうちに感じ続けています。
特に外見的に自分自身を見る事は難しく、周囲の環境における
反応をもって自分の存在を確認する事に留まりがちと言えます。

その為、自分自身の判断は、自らが考え出したというよりも、
周囲の状況によって生み出された考えや行動と成る事が多く、
思っている事と現実の行動や考え方が違っている事は珍しくなく
ややもすると、社会の流れに押し流されて、思いもしない
状況に陥ってしまう事も有るのです。

しかしながら、誰もが常に、自分の意思をもって行動し、
自分が思うが儘の人生を送りたいと考えているのです。
その為、誰一人として同じ感性を持っているとは言えず、
十人十色と言われる様に、人は、其々の個性が生れるのです。
自らが持つ思いが達成された時、本当に心が癒され、人生が
豊かに感じられるのですが、現実は、思い通りにならないで
苦しみもがく事も少なくないのです。

この事は、人其々の思いが違っている事から、集団生活を
行う事を常とする人類は、社会性を持って生きる為に
自らの考えを社会に合わせ修正する事が要求されるのです。
しかし、時に、思いと裏腹の言動や行動をしなければいけない事に依り
様々なストレスが生れて来ます。
現代社会は豊かで便利に成ったとは言え、人々の心が一向に休まらず
常に癒されない不満のたまった状態に成りやすいのが問題です。

外見的には、世界的な先進国家として豊かな社会生活を見せながら
日常的にストレスに晒され、心はいつも満たされないで苦しんでいる
と言うのが現代人の真意とも言えます。
人は、視覚的に情報が80%以上入って来るとも言われ、ネット社会は
ますますこの傾向が強まっています。
世界中からあらゆる情報が手に入る一方、情報によって自分の考えや
行動が変えられる事は常で有り、自分自身は、自らの考えで行動している
と考えていても、実際は、情報によっていつの間にか動かされている事が
とても多いのです。

多くの情報が手に入ると言う事は、より正しい考えや判断が出来るとあって
とても喜ばしい事とも考えられるのですが、情報によって簡単に自分の考えが
変えられると言う事は、現代社会における最大の問題を生む事にもなるのです。
便利であるはずの情報によって、多くの人達が簡単に管理される社会が
現代社会と言っても良いのです。
膨大なる数の人々が、より豊かな生活を目指してお互いの考えを共にする
と言う事は、巨大社会を関連付ける為にも、非常に素晴らしいと言えますが、
この情報を、一部の人達が管理するとなると大きな問題と成るのです。

民主主義は、多くの民意が反映されるはずなのですが、ネットを利用した
情報管理社会は、ややもすると、情報によって国民が管理され、一部の人達の
思うが儘に動かされる危険性が高く成るのです。
現実問題として、ネット社会になる前も、テレビなどを使った情報操作は、
商業活動に多く利用されて来たのですが、国民の生活すべてに関わる管理が
国によって行われる様に成ると、便利に成った様に思える反面、国民生活が
全て丸裸にされ、リーダー達の、より独裁制を助長する事になっているのです。

戦後、全てを失った生活から、高度成長期を経て世界的な経済大国へと
成長したのですが、この近代国家への道は、国民が望んだものではなく、
時のリーダーや経済界のトップの人々が、自分達の理想とする社会を
作ったものです。
私達一般の国民は、便利で経済的に豊かな生活が出来れば、自分達は
幸せな人生を送れるとしたのですが、この経済社会の仕組みは、
決して国民一人一人を本当に豊かにするものではなかったのです。
その証拠に、経済発展と共に、多くの負の遺産を生み、自然だけでなく
多くの国民を傷つけるだけでなく、いまだに、解決される事無く
未来までその後遺症が続いているのです。

便利で豊かと思える私達の環境は、衣食住すべてに、便利さと豊かさに
隠された危険性が存在していて、身近な食品を見ても、その裏に記された
食品添加物は年々種類を増し、常に私達日本人の体内に取り込まれて
いる事を忘れてはならないのです。
国と企業は、経済発展を前提としている事から、その安全性を口にしますが
日本国内で許されている添加物で有っても、欧米諸国では危険な薬品として
ずっと以前から禁止されている物も有り、かつてのサッカリンやタール色素
を使った食品と同じく、これから先、その危険性が表沙汰になる事も
充分に考えられるのです。

私達は、便利で豊かと言う言葉に従って、疑うことなく与えられるがままの
日本経済社会で生きていますが、日本人だけでなく、日本国土全体が
世界的に見て、数多くの危険物質に汚染されている事を知らなければ
なりません。

農耕地ののみならず、都会の緑地帯の土、更には、一般住居の庭の土に至っても
諸外国の土壌とは比べ物にならない程化学物質が存在している事実を、殆どの
国民は知る事無く、生きる全ての環境が汚染された中で生活しているという
驚くべき実態が黙認されたままである事を知って欲しいです。

海や川が汚れているとメディアは伝えますが、本当は、私達の住む環境自体が
多くの化学物質によって汚染されているのです。
問題は、この全ての原因が、消費経済社会をもって豊かに成ろうとする人達の
勝手な思惑で生じていると言う事です。
経済的に豊かな暮らしが出来ると言う事で、国民の健康と日本の美しい自然が
犠牲に成って来たという事実を多くの人達が感じていない事が問題です。

日本は世界的に見てもトップクラスの長寿国として知られていますが、
実際は、健康で長寿であるかと言えばそうとも言えないのです。
戦後、高度成長と共に生活は便利に成ったと言え、国民の疾病率は急上昇し
特にかつてなかったような難病が数多く出現し、多くの国民が、死ぬまで
様々な病で苦しんでいるのです。

多くの人の死因が、悪性腫瘍、つまり癌である事が知られている様に、
個人的な問題と言うより、生活環境で有ったり、それまで摂取して来た
様々な食品が問題である事が解っています。
病に伏すと、更なる化学薬品を投与され、日本人は、人生の全てを、
経済社会の発展に利用されているとも言えるのです。
まるで、日本人全体が経済社会を発展させる為のモルモットの様に
利用され、心も身体も傷つきながら生きて行かなければならないのです。

私達人間は、一人では生きてはいけません。
多くの人達と助け合い、様々な生きる糧を与え合って豊かな人生を
送れるのです。
しかし、他人と関わり合う重要性は、自分自身の心と身体が、他人との
関わり合いで生まれるからであって、その関わり合いで傷つけられては
成りません。
一見便利で豊かな様に思われる消費経済社会が、実は、自分達の心と
身体を、そして美しい日本の自然を傷つけている事を知らなければ、
成りません。
本当に自分自身が幸せになる為に、更には、日本の美しい大自然が
未来永劫続いて行く為には、一体どうしたら良いのかを常に考える
必要が有るのです。
膨大なる知識だけでなく、日常的に溢れる食品や便利グッズが
本当に自分にとって必要な物であるかを、しっかりと判断できる力が
必要であると言えるのです。

 

 


便利なネット社会に隠された恐怖

2019-01-22 10:38:48 | 社会

ネットの発達によって、今や世界は、あらゆる情報が
手に入るだけでなく、自分から世界に発信できる世の中
と成って来ました。
その為、自分が求めるものは、何でも、居ながらに知る事も
手にすることもでき、私たちの暮らしは、急速に変わると共に
この変化にいかに付いて行くかが重要と成りました。

確かに便利な世界と成ってきたのですが、この急速な変化に
誰もが付いて行けている訳では有りません。
特に高齢者にとって、これまで縦社会に生きてきたことも有り
全ての事を同次元で考える事は至難の業と言えるのです。
物事のみならず、社会的な事に関しても、その道筋を考え
段取りを踏んで行動する習慣は、瞬時に物事を解決していく
現代のネット社会は、多くの高齢者にとって苦痛とも言えます。

何とか生活に関わる事は、その便利さを利用して理解しようも
仕事と成ったり対人的に利用するとなると、途端に、難解な
未知の機械に変わってしまいます。
高齢者のネット利用とは、生活に必要な極めて表面的な部分であり
生活全てをネットによって運営していくと言う事は至難の業と言えます。

しかしながら、公共の手続きから日常生活までも、次第にネットにより
繋がるようになってくると、たとえ高齢者といえ、理解できなければ
生活自体が成り立っていかないのです。
ネットが生まれた時からあった世代は良いのですが、人生の途中から
全く違った社会に投げ出された旧世代は、まるで荒波の大海に漕ぎ出た
小舟の様で、日々社会の動きに翻弄されていると言えるのです。

とは言うものの、本当に、ネット社会は、我々人間にとって
幸せをもたらしたと言えるのでしょうか。
一瞬にして世界を繋ぎ、流通だけでなく社会機構を変えてしまった為
便利になった反面、人々の心が付いて行っていないのが問題です。
高齢者のみならず、社会を動かす多くの人達も、便利さには同調しても
機械がもたらす社会トラブルまで意識が向かいません。

特に、対人関係は、便利さが先行することで、人と人との関わり合いが
極めて事務的で、お互いの繋がりが利益の享受を基準としていて
人として心のやり取りが出来ない人が多くなっています。
自分の要求を得る事には夢中になっても、目の前の人の思いが感じられず
お互いに傷つけあったりハラスメントを生じたりしています。

深い信頼関係の元、豊かな感情で繋がっていると言うのではなく、いかに
多くの利益を得るかが中心と成っている人間関係は、希薄で脆弱です。
簡単に他人を傷つけたり、差別したりと、便利で豊かな生活を叶えても
常に対人的に心休まることなく、何でも手に入れられる社会になった
とは言え、孤独に苦しむ人が多くなっているのです。

人は人によって育てられ認められてこそ、生きている証と安心が得られます。
自分の生活手段や社会的豊かさをもって自分の価値とされれば、いつまでも
心は休まらず、安心で幸せな生活を得るためには、より豊かで便利な生活を
求め続けなければならないと思ってしまうのです。
しかし、社会的価値は流動的であり、社会の流れで簡単に変わってしまい
いつまでも目的を達成することは有りません。
その一方、対人的には、お互いに認め合う事も癒し合う事もなくなれば
益々、自分の心は孤独にさいなまれ、外見とは裏腹の、寂しい人生を
送る事と成るのです。

ネットの発達は、あらゆることをマニュアル化し、誰もが、決められた
社会システムに則って生活するようになっています。
人間が、コンピューターによって作られた社会システムに組み込まれ
様々な仕事をよりスピーディに行う事が出来るようになって来ましたが
多くの人がより便利な社会に成ってきたと思うものの、実際は、作られた
社会法則に組み込まれて行っている事に気が付いていません。

今や、誰もが、自分の生活のすべてをネットにより管理されていて、
個人情報も簡単に流出する状態と成っているのです。
社会を動かす管理者たちにとっては、非常に都合のいいシステムと言えますが
その一方、国民が全て奴隷化すると言う危険性もはらんでいるのです。
ネットによって管理された社会は、人々の横のつながりを断裂させ、
どんなに不都合なことがっても、その思いを共有する人同士の繋がりを
持つことが出来ない、一部の人達の欲望が、大多数の人達の自由を
奪ってしまう可能性すらあるのです。

メディアを通じて連日流される情報は、多くの人が共有する事が出来
その事が、大量消費に繋がり、より社会発展を促す事と成ります。
社会を牛耳る人達が思い描くままの、自分達にとって理想的な社会は
常に利益が一点に集中し、さらなる一極集中型の社会と成ります。
誰もが自由で平等な世界と言うのは考えられず、何でも自由に出来そうで
それら全ては、支配者や管理者達によって作られて行く事を知らなければ
いつの間にかに、私達は、全ての自由を失ってしまうかも知れません。

戦後の高度成長期は、少しでも所得を上げて、消費経済を高めていく事が
幸せへの道と多くの国民は信じていましたが、その結果は、国民がお互いに
社会的経済的地位を競い合うだけで、自分の幸せは、他人よりも経済的に
優るとした考えが、本当に自分が求める物を見失い、必要でない物の
大量消費を生んだに過ぎません。
自分自身の価値観は、他人と比較する事でしか感じられず、より経済的に
豊かな物を身に着け、社会的な地位を上げる事が人間の価値とする考えが
多くの国民に根付き、常に心休まらない、果てしない欲望を満たす事しか
喜びを感じられない人々を増やす結果と成ってしまったのです。

特に、対人的な成長を怠った事が、自分自身の行いや考え方が、他人を
傷つけたり苦しめたりする事が解らず、地位が上がる事で他人より勝るとし
時に、様々なハラスメントを生んでしまうのです。
世界的に豊かと成った経済大国に日本の最大の汚点は、日本人としての
豊かな人間性を失い、経済的な価値に幸せの基準を定めてしまった事です。
どんなに我儘な事であっても、社会的地位を成せば許されるとする考えが
たとえ国のリーダーであっても、常識を逸脱した振る舞いを行っても
許されるとする空気を生んだのです。

経済成長と共に、まるで常に新しいオモチャを与えられて満足している様な
大人に成長できない多くの日本人を育ててしまったのです。
特に、日本のリーダーと成って社会を動かして来た方々が残した物は、
国民の共通の財産である美しい大自然を破壊し、様々な化学物質や汚染物質で
国民の健康を損ねました。
自分達の利益を得る為に、大切な日本の自然を破壊し、国民の健康を損ねた罪は
戦争によって国民を地獄に陥れた時に匹敵します。

消費経済社会は、著しい進歩と共に、人々の生活を豊かに幸せにすると思われがちですが、
その陰で、大切な物を多く失っているという事実を知らなければ成りません。
見た目だけの豊かさは、人々に真実を隠し、より豊かな生活をもって人々を翻弄します。
一見ゴミが無くなって綺麗に成ったとする海や川は、その水底部や海底を覗けば、
高度成長期から捨てられて来た多くの汚染物質や危険な化学物質で溢れています。

何故、透明度が高く成って綺麗に成った海や川に、一向に水生生物が復活しないのか
その理由はひた隠しにされ、いつの日か、負の遺産として告発されるまで、深い水の底で
まるで時限爆弾の様に眠っているのです。
情報開示と言う社会風潮から、食品パックの裏を覗けば、使われている様々な化学薬品が
驚く程多く並んでいますが、その聞いた事の無い様な薬品が次々に増え、しかも、消費者が
その危険性を知る事無く、表示してあるから安全と言うがごとく、日本人の全ての人の身体に
日夜取り込まれています。

見た目美しく美味しそうに見せる為、より長く商品価値を有する為、様々な添加物が使用され
その危険性を感じているものの、殆どの消費者は、商品の裏を覗く事も無く、見た目の綺麗さ
新鮮さを見て、信じて購入している状態です。
国からすれば、様々な安全基準を通過している薬品の為、人間に影響は無いと豪語しますが
これまで、それらの安心は、時間と共にことごとく覆されているのです。

今日本で使用されている食品添加物の中には、既に欧米では禁止されている薬品も有って、
本当に国民の事を考えているのか、というより、利益をもたらしてくれる人達の事だけを
考えているのが日本のリーダーであるとも言えるのです。
今や、日本人は、ネットの発達によって、あらゆる情報を手に入れているように思えますが
実際は、その情報の多くは、一部の人達の都合によって作られている事を知らなければ
成りません。
必ずや真実は有るのですが、世の中に在る真実の多くは、より多くの利益を目論む人達によって
改ざんされている事も多いのです。

テレビの健康番組を見ていると、出演する著名な医師たちの茶番が目立ちます。
数年前まで、健康に成る為の常識と豪語していたことが、今や簡単にひるがえり
当時、多くの国民が必至に行っていた健康対策が全く間違っていたり、かえって
健康を損ねていたことが解ると、その間違った情報を力説する事を誤る事無く
新情報として堂々と居直る姿は、正に、医は算術としか言いようが有りません。

この様に、世の中の中心と成る私たち国民の健康を守ったり政を行ったりする人達が
自分達の欲望の為に国民を利用したり、更には、ネットを使って管理している事実は
どんなに国民が努力しても幸せに成れない理由であると言えます。
法治国家であり、全ての国民は法の下に平等に裁かれるはずとは言え、より豊かで
社会的に地位のある人達がルールを無視して私欲に走る現実は、日本社会が如何に
外見的に豊かに見えて、実際は心寂しい国民を生んでいると言えるのです。

ただでさえ、食糧も資源も枯渇してきているのに、本当に国民が幸せに成らない
現代の消費経済国家を推奨して行く事は、如何に無駄で、意味の無い事ともいえます。
より消費を高め、経済的に豊かに成れば国民は幸せに成るとするリーダーの考えは
明かに国民に背を向けた自分達の豊かさを堅持する為のものと言えるのです。
全ての国民が本当に幸せを感じられるには、少なくともリーダー達が、本当の
国民の心の声を知り、一部の人達の幸せではなく、大多数の国民が幸せに成る為の
全く新しい社会を創り上げる努力を行う事が肝心と言えるのです。

 

 


世界の支配者が変わる

2019-01-20 12:01:49 | 社会

今やネットの拡大は、かつての世界の勢力図を変えてしまいました。
ほんの少し前まで、世界は軍事力で支配され、軍事力の強さが
世界の富を自由に出来るものと信じられていましたが、
軍事力すら支配してしまう、新たなるネットの世界が急速に
広がっています。

軍隊のみならず、国の経済、更には国家間の関りすら全て
ネットによりコントロールされる時代と成ってきたのです。
瞬時に世界の情報を集め配信できるネットの世界は、もはや
国境の存在すら無くし、ネットを屈指すれば、世界経済だけでなく
軍事力すら支配することが出来る、これまでの人類の歴史では
考えられないような世界が始まっているのです。

ある意味、本当に国境のない世界が始まっていて、支配者は
世界中を網羅する巨大なネット網をコントロール出来る者であり
それは、国々のリーダーでも国民でもないのです。
AIを頂点とした全ての人類を支配する社会が始まっていて
これまでの世界の支配者すら脅威に思う程の勢いです。

世界の指導者たちは、国の経済や軍事力をネットの力を持って
支配しようとしましたが、いつの間にかにネットによって
自分達が支配されるようになって来たのです。
今や世界の指導者たちは、自国のネット力が世界を支配するとして
如何に世界の覇者となるべく、軍事力以上に注目しています。

中国とアメリカの摩擦も、かつての軍事力での戦いと言うより
軍事力すら支配してしまうネットの力を、いかに優位にするかで
揉めていると言えるのです。
国境を超えるネット支配は、自国のネット圏を他国に支配される
と言う、敵対国に自国の経済、軍事等、全ての機密を知られる
可能性もあり、ネットの覇者と成れるかがこれからの世界を
支配できるかどうかと言えるのです。

国境を越えて世界中の人が繋がり平和な世界と成ればいいと
かつて人々は願ったものですが、国境を越えた繋がりが
持てるような世界と言っても、世界中の人が平等と言うのでなく
世界中の人が支配される巨大ネットの世界と成るとは、誰もが
想像すらできなかったと言えます。

この巨大ネット社会を司る人間が、次の世界を牛耳るとあって
今や、世界中のリーダー達は、その存在に注目し、いかに自分の
国に取り込むかを目論んでいます。
新たなる年を迎えて、いかなる世界が待っているのかと思うと
昨年までの事を考えれば、今年はどれ程の災害に苦しめ
られるのだろうかと心配するも、自然災害よりはるかに
人類の未来を左右するAIが創り出す社会が心配と言えます。

今や中国を中心とした巨大ネット網とアメリカを中心とした
これまで世界を支配してきたネット網がしのぎを削っています。
既に民間に於いては、お互いのネット網が深く関わり合い、
国のリーダーたちの不安を他所に、お互いにいかに巨大利益を得るかで
目に見えない所で争っています。

しかしながら問題は、日本の立場と言えます。
これまでアメリカと東アジアの軍事力のせめぎ合いの盾となって
何とか存在意味を示してきましたが、両国の間に入って、いかに
国益を得るかネット社会における日本の立場は非常に複雑です
軍事的にアメリカのしもべとなる事で、様々な利益を得て来たと
言えるのですが、アメリカが中国の勢いに押されている事から
今後どのような立場を取っていけば良いか、これまで以上に難しい
選択を迫られています。

しかしながら、すでに民間に於いては、中国のネット会社と関わり
深く繋がり合っている会社も少なくなく、アメリカとの関りを
重視する日本政府の不安をあおっています。
ネットは世界中の情報を瞬時に入手できる一方、あらゆる情報を
持ち出される可能性が有り、ネット社会は、個人のみならず
国家に於いても重要機密事項が漏洩する可能性が高いのす。

この便利さの反面、自分の生活のすべてを監視されたり
情報を奪われたりする可能性があるのが、ネット社会に於ける
両刃の剣と言えるのです。
しかし、この便利さと危うさを人間がコントロール出来る間は
まだしも、更なるネットの発達が、支配者を人間から機械に
変える可能性があるのです。
映画の世界の様な、人類が機械に支配される時代が来るかも
知れません。
異常気象や天変地異によって人類が滅びるかもとする以前に
私達は、思いがけない支配者の登場によって、これまでにない
新たなる人類の歴史を刻むことになるかも知れません。

 



 


他人から見た自分の存在の小ささ

2018-12-12 12:53:01 | 社会

私達は、誰もが、自分を中心に世の中を見ています。
自分が見えたもの、聞こえたものが、どんな物で有ったかは
自らの判断基準で決めていて、多くの場合、自分の判断は
正しと思っています。と言うより、正しいとしなければ
何も出来なくなってしまうのです。

その為、小さい頃から教育を受け、多くの知識を身に付ける事で
より正確な判断が出来、トラブルを生まない様にしているのです。
一人一人の頭の中には、生まれた時からの膨大なる知識が在り
その判断の元、自分の生きている環境でより豊かに幸せに生きたいと
考えるのです。

しかし、例え、どんなに多くの知識が有ったとしても、物事の答えは
決して一つではなく、また、常に流動的である事が多いのです。
個人の知識は、自分自身にとっては膨大であっても、他人から見れば、
本当に微々たるものと言え、まして、関心の無い知識であれば、例え
どんなに多く身に付けていたとしても、無いに等しいのです。

他人から見て、持っている知識の価値は、他人が関心を抱いた時のみ
感じられる物であり、一般的には、どんなに著名な方であっても
その社会的著名度や社会的な力を知らなけらば、単なる一人の外見に
過ぎないのです。
それ故、個人の心を他人に知ってもらう事はとても難しく、外見的な
姿を持ってしか認めてもらう事が難しいのです。

自らの価値を何だかの形で発信し、それを受け止めてもらえて初めて
存在価値を認められると言えるのです。
現代社会に於いて、その力を発揮する画期的な方法がネットであり、
これ程にも発展したのは、人々の思いをより広く豊かに知らせる事が出来
瞬時に、その反応を知る事が出来るからと言えるのです。

欲しい物、見たい物、聞きたい事が、瞬時に手に入れられる世界が
ネット社会と言えるのです。
人類の歴史は、何か欲しいものが有れば、それ相応の努力が必要であり
多くの人を介してしか得られなかったのですが、ネットの発達は、
流通を画期的に変え、他人との関わり合いを極限にまで無くしました。

この事は、何でも欲しいものが有れば、瞬時に手に入れられると言う
人間の欲望を限りなく満たす事と成ったのです。
何かを手に入れるまでに、多くの時間と人を介していた人間社会に於いて
流通が根本的に変わって、人の欲望を叶える時、他人を介さない事で
多くのトラブルを回避し、さらには、沢山の時間が節約できる様に
成ったのです。

更に言えば、対人関係を大幅に変え、他人の気持ちを考える必要なく
欲しい物を手に入れる事が出来る様に成ったのです。
手に入れるまでに、様々な人の思いが有れば、それだけ、時間が掛かり
更には、個人的なやり取りの違いで、思い通りの物が手に入らない
可能性も高く成るのです。

自分が望む通りの物が、瞬時に手に入る事は、対人的なトラブルを全て
回避できるとも言え、流通が劇的に進化するとも言えるのです。しかし、
ネットの発達は、私達の生活を著しく進歩させ、より豊かな生活が
手に入ると思いがちですが、ここには大きな落とし穴が潜んでいるのです。

より便利に成ると言う事は、個人的な欲望がより優先されると言う事であり
誰もが、他人の事を気にしないで、自分の事だけを考えれば良い世の中と
成って行くのです。
人類の歴史は、他人と如何に関わるかと言う事で進化して来たのですが、
ネット社会は、他人と関わらずとも、欲しいものが手に入ると言う事であり
日常生活が全てネットで支配されるとなると、例え、同じ屋根の下で生活
していると言っても、お互いに何も助け合う事も相談する必要もなく、
自分にとって一番好ましい方法が選択できるのです。

つまり、集団で生きる必要が無くなるのです。
大都会の雑踏の様に、沢山の人に囲まれていても、完全に一人ぼっちと言う
華やかな大都会に在っても心の中は寂しさに満ちている状態と同じ事が、
日常的に起きていると言えるのです。

お金が有れば、都会に集まる様々な魅力的な商品を何でも手に入れられようが
その事で、周囲の人とは何の関わり合いも生まれて来ません。
つまり、自己満足だけの世界が広がっていると言えるのです。
しかし、多くの人は、他人より豊かな生活をする事で満足を得ようとし、
その豊かさを多くの人に認めてもらう事で満足をしたいと願っています。
つまり、手に入れた物によって、自分の人間的な価値を上げたいとしているのです。

所が、多くの人達は、同じように自分の事にしか関心は無く、ただ、自分より
より豊かな生活をしているとするだけで有って、それを所有している人には
何の関心も無いのです。
多くの人が、社会的地位を得たり膨大なる資産を獲得しても、実際には、だれも
その持ち主には関心は無く、その身に付けている社会的価値に関心があるのです。

経済的価値を生み出す現代社会は、人間的価値を生み出さないと言うのが
人々の心を苦しめ続けると言えるのです。
貧しい生活をしていようが、豊かな生活をしていようが、社会的な価値として
人を判断する為、どんな地位に在ろうとどんな生活をしていようと、他人の生活や
考え方に何の興味も無い方が多いのです。

私達人類は、生き物の中で究極の進歩を得たとしても、個人としての喜びが
いまだ見つけられないのが現状と言えるのです。
生きている価値観は社会によって決められ、個人的な思いは他人からは何の関心も無く
人間としての社会的な関心は、殆ど無いと言っても良いのです。
多くの人の関心は、如何に自分の思いを豊かにして生活を便利に豊かにしてくれるか
と言う自分の欲望を叶える事しかないのです。

つまり、そこに人が関わったとしても、相手の事を構っている気持ちは無く、
関わると成れば様々なハラスメントを起こしかねないのです。
本当は、人は、自分の持ち物や社会的な価値よりも、本当の自分自身を認めてもらい
唯一無二の存在として存在価値を感じて欲しいのです。

他人を介さない、自分の欲望を全て叶えてくれる生活を望みながら、その一方で
自分の存在を知って欲しいと言う、人間が長い間培って来た感覚が有るのです。
現代社会は、その矛盾の中で多くの人達が苦しんでいるのです。
他人より秀でる事で、より豊かで便利な生活が出来るとするも、その社会的価値を
求めつつも、本当の自分を認めて欲しいと言う欲求が誰にでも有るのです。

何故、人々が苦しむのか、それは、幸せに生きる為の対人的条件が満たされず
世の中が、社会的な豊かさのみを求めているからと言えるのです。
日本人は、長い歴史の中で、経済的な豊かさ以上に人としての心の豊かさや
他人への思いやりを求めて来ました。
如何なる地位に在ろうも、他人に対する礼儀を重んじ、他人を含め自分の生きる周囲の
自然環境に心を配って来たのです。

人や自然に対する思いやりが、様々なハラスメントを生むことなく、温和で心豊かな
日本人を育てて来たと言えるのです。
現代の日本社会は、経済的に豊かに成る為の方法ばかりを子供達に教え、集団生活をする
人間教育の意味を教えて来なかったのです。
我儘なままに育った成績優秀な人が人の上に立てば、当然、自分の事しか考えません。
日本中で発生する対人的トラブルの根源は、他人との関わり合いの教育を受けなかった
自分だけの欲望を育てて来た人達によって生まれていると言えるのです。

様々な世界で頻発するハラスメントも、悪質な犯罪も、国民を代表する政治家たちの
狡猾な利益享受も、基本的には、人間としての心を成長させなかった結果とも言え、
多くの国民が幸せに成りたいと思う反面、自分の欲望で多くの人を傷つけている
と言う事も考えられるのです。

加害者にも被害者にも成りたくないとする心の叫びは、自分自身の心の中が如何に満たされず
常に不安に満ちている事を表しています。
如何に他人と付き合って良いか解らず、必要以上の神経を使い、まるで腫れ物に触るがごとく
人の目を気にしながら生きているのが日本人と言えるのです。

自分自身の考えを持てず、心が安心できない生活をしていれば、リーダー達の言い成りに
ならざるを得ないのです。
ほんの一部の人達に社会を牛耳られ、日々の暮らしにあくせくしているのが現代日本人です。
他人が信じられないだけでなく自分自身にも自信が持てないのです。
その為、メディアを通した情報に流されやすく、良いとされる事には、有無をいうことなく従い
いつまで経っても不安の種を消し去る事は出来ないのです。
自分の言動行動に自信を持てず、他人から否定されたりする事に怯える人がとても多いのです。

しかし、他人は同じく誰しも不安で怯えているとも言えるのです。
自分が思っている程恐ろしい存在ではなく、誰もが、弱い存在と言えるのです。
自分が他人を思う様に、他人は、自分に関して殆ど関心は無いのです。
ただ、一度、何か行動に移したり個人的な言動を行えば、多感に反応するのです。
この反応は、反対したり拒否したりと言うより、日本人の性質上、まず自分の立場の構築となり
どの様に振る舞うかの準備に過ぎません。

自分の意見を主張する事で対人関係を保とうとする国と違って、日本人は、まず、他人の考えを
聞こうとする努力をするのです。
消費経済社会と成っても、いまだ、他人の気持ちを気にする心がある事から、社会的トラブルが
諸外国より起こりにくいと言えるのです。
しかしながら、国民の心のうっ憤は、戦後溜まり続けているとも言えるのです。
和をもって尊しとした日本国民の気持ちが、現代社会に於いて、より多くの日本人の心を
かえって苦しめる事と成っているのです。

諸外国で有れば、暴動が起こりかねない事であっても、日本人はジッと黙って静観する傾向があり
それ故、様々な巨悪や極悪が野放しと成っているとも言えるのです。
今や、国民一人一人が、自分の思いを社会に訴える時と言えます。ネットを通じて個人的な賛同を
得るだけでは、国民全体の心は晴れないのです。
毎年、リーダー達の都合で、国民生活は益々苦しさを増しています。
しかし、この苦しみを作っている人達は、豊かな生活を続けているのが実情です。
日本人にとって最も求められる社会は、一部の人達だけの豊かさではないはずです。
本当に国民全体の幸せを考えるならば、坊ちゃんお嬢ちゃんとして育った国民の気持ちが解らない
我儘な人達から、本当に日本人の幸せを考えられる器の人を選ぶことが肝心と言えます。