めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

一生楽しく幸せに生きる為に

2018-11-21 18:01:29 | 高齢化社会

出来る事なら、一生、苦労せず、無事に楽しく生きたいものですが、
思いと裏腹に、人生は、波乱万丈と成る事が多いです。
まだ、小学生と成って間もない頃、超大型の伊勢湾台風が故郷を直撃、
昨日まで寺の境内で遊んでいた友を失い、町内では、3人に1人が亡くなりました。
想像を絶する高潮は、故郷を壊滅し、一か月に渡る冠水により、街も田畑も
全てが、まるで津波に襲われたかのような惨状でした。

幼い心には、大海原に浮かんでは流れ着く多くの人や動物の死体が目に焼き付き
何年にも渡り夢に出て来ました。
高台にあって難を逃れた小学校のグラウンドには、連日沢山の死体が並べられ
身元が分かった人から穴の中に投げ込まれ、ガソリンが掛けられました。
火葬場も水の下の為、簡易的に掘られた三つの穴に、次々に死体が投げ込まれ
毎日黒い煙が空高く上がっていました。

故郷が破壊された事は大きなショックと成りましたが、それ以上に幼心に強烈な
インパクトを与えたのが、人の命の儚さでした。
日頃から沢山の動物を飼っていた事も有って、生き物の死は目の当たりにして
来ましたが、一夜にして、町内の慣れ親しんだ人達や学校の友人がいなくなる
と言う事実は、如何に理解していいのか、いつまでも心に穴が開いた様でした。

この経験は、確実にその後の人生に於いて、自分自身の大きな心の重みと成って
人を見る目が変わって行きました。
自分の周囲にいる人から、同じ時代に生きる人達全てが、いずれ、この世を去る事を、
どんなに元気で有っても、必ず同じ道を辿ると言う運命を感じる様に成りました。
生きると言う事は、生かされている意味が其々に在り、この世に存在するのは
その意味を果たしていると言えるのです。

与えられた異なった人生が、この世にいる証であり、この世にいる限り、誰もが
価値のある人生を送っていると言う事です。
人によって生き方は様々であっても、其々の生き方に価値が有り、尊いと言えます。
老衰でこの世を去るも、アクシデントで短い人生を終えようも、生きていたと言う事は
自分がこの世での価値を認められていたと言う事です。

しかしながら、私達人間は、人の価値を、外見で決めたり、経済性で決めたがります。
比較する事で、人の生き方の良し悪しを決めてしまう傾向が有ります。
より豊かな生活を送る事で、自分の価値が上がると思い、自分が憧れる人生に憧れ
自分よりレベルが低いとする人生をけなします。

特に経済的に豊かな暮らしを行っている人を人生の勝者とし、人の生き方としてしまいます。
多くの人々が、少しでも外見的豊かさを身に付ければ、自分の価値が上がると信じています。
確かに、経済が発展して、より豊かな暮らしが出来れば、幸せな人生が送れると思いますが
その事で、自分自身の人間的価値が上がったとするのは早計です。

ならば、以前の豊かでない暮らしをしていた時の自分は、人間として価値が無かったのでしょうか。
何も持たずこの世に生まれてきた時は、人間として最も価値の無い存在だったのでしょうか。
幼い頃は、誰もが、社会の歯車にも支えにもなる事が出来ず、常に両親の保護の元でしか
この世に生きている事が出来なかったはずです。
そんな幼少の時を、人として最も価値の無い時期と言えるのでしょうか。
それとも、将来の立派な社会人への成長の過程とでも言うのでしょうか。

人は、子供であろうが大人であろうが、其々の世界で生きている時、常に人として価値が有るのです。
多くの人が、自分に対する利益を感じる時、価値として見出している為、自分に対して何の利益も
齎さない場合は、価値の無い人間として判断しているのです。
つまり、自分の欲望を満たしてくれる可能性が高い程、人としての価値を見出していると言えるのです。

誰かから自分の生活や気持ちを豊かにしてくれる事を常に望んでいるから、自分の欲求をより満たして
幸せを感じさせてくれる人を価値のある人と思い、その可能性を満たしてくれると思われる人達を
自分の憧れの人達とし、奉ったりするのです。
しかし、その喜びは、常に経済的豊かさである事が多く、持ち主がどんな考えでどんな人格であるかは
何の興味も有りません。その為、もし、利益が得られなく成ればすぐに、別の人に興味の対象が
移ってしまうのです。

まるで、テレビ番組を見ていて、面白く無くなれば簡単にチャンネルを替えてしまうのと同じです。
この、興味の対象でしか人を見なくなっているのが現代日本人の問題とも言えます。
対人的なやり取りは利害関係で成り立っている事で、お互いの人としての気持ちが感じられず、
欲望が先行する事で多くのトラブルが生じているのです。

人は、個として生きている為、本人を動かしている心は、誰もが全く違っているのです。
同じ物を提供していても、その思いは、人の数だけ違っているのです。
例えお金が有れば何でも手に入るとしても、お金のやり取りだけでお互いの関係が保たれるのではなく
双方の心の中が認め合っていなければ、より良い人間関係は築けないのです。

私達が生きていると言う事は、人としての心のやり取りをよりスムーズにする為に、様々な文化が生まれ
経済が発達して来たのです。経済性の為に人が生きているのではないのです。
より、完璧な経済社会を目指すならば、人としての個人の気持ちを全く考えない、AIの世界で十分であり
面倒な人間の感覚は必要ないのです。

人間としての豊かな心や幸せを目指すならば、如何に個人の心を大切に育てるかが大切と言えるのです。
もし、人の心の部分を必要としないならば、人間は必要でなく、いたとしても魂を抜け殻の様な、
死体と同じ存在なのです。
人が死ねば、その瞬間から、どんなに頑張っても、心を感じる事は出来ず、人格は無と成るのです。
人が人を見失った時、それは、自分の周囲の人がこの世を去ってしまったのと同じなのです。

私達は生きている限り、他人の心と関わり合って人生を創り上げて行くものです。
人生の岐路とは、新たなる人との関わり合いを見つける道に向かうと言う事です。
仕事を辞める事、家族や友人と別れる事、様々なアクシデントに見舞われる事は
決して避けられるものではなく、誰にでも起こり得る人生の節目と言えるのです。

喜びも悲しみも、新たなる人生への始まりを示していて、何をするにせよ、自分自身の心と
やり取りをするまだ見ぬ人達との心の関わり合いの始まりを教えているのです。
幼い頃、身近な人達を失った時、何故心の中に大きな穴が開いたように思えたのは、
それまで在った彼らとの心のやり取りが無くなってしまったからです。
お互いの利益で繋がっていたのではなく、心で繋がっていたからこそ大きな空白は
中々埋められなかったのです。

一生、楽に楽しく生きると言う事は、自分の関わる人達と共に
お互いの人としての価値観を認め合って生きると言う事です。
有り余る資産で金銭的苦労をしないで生きると言う事ではないのです。
消費経済社会に於いては、老後の生活であっても、いわゆる、悠悠自適の暮らしで
楽しい毎日を過ごしていると言う方も多いですが、実際は、経済的に豊かでも
自分の存在価値も生きる目的も見いだせず、時間とお金を浪費しているだけの
豊かな老後を送っている人も多い様です。

欲しいものは何でも手に入り、有り余った時間を使って、毎日を豊かに暮らして
いると言う高齢者もいますが、その豊かさを幸せとしなければ生きて行けない
悲しい事情も多い様です。
人は人に存在価値を見出されなければ、自分の生きている意味を感じられない事が多く
この世に生きている意味が必要なのです。
ただ、自分自身を楽しませているだけの人生は、直ぐに飽きてしまったり、どれ程
自分自身を喜ばせれば幸せになれるか解らなくなってしまいます。

誰かの為になっていると言う事を感じるだけでも、自分の存在で他人が生きる価値を見いだせ
前に進めるとしただけでも、自分の生きる価値が見いだせるのです。
その為には、常に他人と関わる人生を歩まなければ、他人から自分を認めてもらえないのです。
利害関係で繋がる対人関係は、自分もお相手も心の成長が止まってしまうのです。
長く人生を生きると言う事は、多くの人の心を知ると言う事にも繋がります。
他人を通して、自分の生きている意味と価値を感じられた時、人生を歩んできた意味が
初めてわかるのです。



 

 


記憶で感じる味覚と運動の錯覚

2018-02-12 00:40:51 | 高齢化社会

誰もが、いつまでも若く健康でありたいと思うものです。
その為、年を重ねるにつれて、常に健康を意識して
スポーツに親しみ、食べることに気を使い
少しでも老化を防ぎたいと考えます。
昨今の健康ブームは、国民全体に健康意識を持たせ
特に、人生の後半ともなりますと、一日の生活が
健康であるための様々の取り組みを考え、いかに
一生健康であるかをに気を使います。

運動を欠かさず、栄養豊かで健康に良いとされる
食品を多く摂り入れ、病に伏すことなく、死ぬまで
元気でいる事を願います。
この事は、特に中高年ともなりますと、誰もが
積極的に体を動かし、健康と名の付く情報には
敏感に反応し、いかに健康な生活をしているかを
考えます。

しかしながら、多くの方が信じて疑わない
様々なアンチエイジングの努力が、思ったほど
効果が得られないことを知りません。
確かに、医学的には様々な健康効果が有り
何もしないよりは、はるかに有意義と言えます。
テレビを点ければ、一日中どこかで健康番組があり
健康になるために運動を薦めるインストラクターが
視聴者の注目を集めます。

薬品から食品まで、医学的に健康だと言われれば
すぐに飛びつくのが人の常であり、良いと言われれば
翌日には、その商品を売る売り場は、すぐさま
完売となってしまいます。

ところが、果たして、良いとされる様々な健康食品や
専門家が健康に良いという運動を行って、本当に
誰にも健康効果が有ると言えるのでしょうか。
この点について、食品提供者や健康提案者の方々は
決して口にしません。
なぜなら、効果がないと言えば、自分たちの言葉が
ウソになり、さらには、売り上げも下がってしまう
可能性が有るのです。

とは言え、私たちが、日頃利用する様々な薬品も
決められた量を摂取しても、人によって、その効果は
大きく違っているのですが、個人的な効き目を基準と
して売ると、商品として大量に作れません。
その為、体重、年齢、性別と言った、誰もが共通に
持っている基準を当てはめ販売しているのです。

また、一般の薬品は、余りにも効きすぎると、
人によっては、身体に害を及ぼすこととなり、
少し効き目が弱くなっています。
その為、確実に効果を得るためには、専門の
医師の判断による診断が必要となるのです。

当然、健康と言われる食品も健康になる運動も
個人的には、余り効果が無い事が多く、だだ
やみくもに言われたまま生活に取り入れても
思い通りのアンチエイジングとはならないのです。

この事は、個人的な体質、感覚が違っているため
コマーシャルで見たような効果は中々期待できず
如何に、自分の体質や感覚をよく理解しているかが
本当に健康になるカギを握っていると言えます。

多くの方が、メディアで情報を得ることから、
外見的なことにしか健康を求めず、見たようになれば
自分は健康になると思い込んでしまいます。
年を重ねると、誰もが、外見的な体の老化を気にして
少しでも若い姿を求めて、健康美を誇るタレントの
美しい姿を夢見ます。

しかし、例え、情報通りの食を摂っても、運動を
しようとしても、同じ結果は得られないのが実情です。
この、思い通りにならない大きな原因は、身体が
老化しているとか、運動能力がなくなっているからと
言うよりも、一番大きな原因は、若いころのセンスを
見失っている事が原因と言えます。

つまり、同じことをしようとしても、同じものを
摂取しても、受け入れる側の、センスがなければ
思うような成果は得られないのです。
脳や身体の機能が衰えてくると、実際に感じる事が
若いころとは違っていて、同じことをしようとしても
思ったようにできないのです。

この事を、力が無くなったとか体力が無くなったという
外見的なもので理解すると、せっかくの努力が無駄になり
健康で若さ溢れる人生が送れません。
多くの高齢者は、現実の感覚に弱く、長年の間に得た
豊富な知識を当てはめながら、食事をしたり運動したり
することにより、頭の中で納得して、その時の正しい
運動感覚や食に対する感覚が疎くなりがちです。

年を重ねるにつれ、一般的に、食べ物に対する味覚が
弱くなり、正しく味わえず、頭の中の記憶を足すことで
昔から同じ味を感じられるとしています。
スポーツを行う時も、頭の中では、かつての感覚で
動いているつもりでも、実際動けば、思ったように
動けなくて落胆してしまう事が多いのです。

すばらしいパフォーマンスを見ても、テレビタレントが
おいしいと言って薦めた食材も、個人的な感覚で言っている
と考えなければならず、自分自身が同じような喜びを得られる
とは限りません。
大切な事は、自らのセンス、五感を常に育てる努力を
日頃から行うことです。 

テレビが、どんなに美味しいとコマーシャルしても、 
健康の為に素晴らしいとする様々なスポーツも
本当に自分にとってふさわしいのか、身になるものか
感じ取る能力が一番大切と言えるのです。
知識や記憶を自分の心の中心に置くのではなく、
現実に感じられる自分自身の感覚を育てることです。
世の中は、経済社会にふさわしい様に作られていて
個人の感覚よりも、社会性経済性を優先するのです。

その為、個人の喜びというより、消費経済に則った
利益効率を考える為、必ずしも、人々の思い通りに
歓びは得られ無いのです。
本当は、自分にとって美味しくない物であっても

有名人やタレントが薦めるから美味しい物だと、
更には、有名な先生やインストラクターが推奨する事は
自分自身の健康には絶対必要と誤解してしまうのです

同じ食品を摂っても、その味わいは、十人十色であり
メディアで見たような味ではない事を知らなければならず
運動効果も、人によってまちまちであり、誰もが
スポーツ選手の様に、モデルの様に成れる訳がなく
自分が違う人に変わることも無いし
、自分自身の持つ
運動機能や健康状態が良くなることを期待する事が
大切なのです。

アンチエイジングの為に、様々な方法を試みる事は
間違いでは有りませんが、正しい判断が出来る為の
自分自身の五感を常に磨くことが一番大切です。
何かに触れる時も、味わう時も、誰かの説明を
思い浮かべるのではなく
、実際に自分自身が感じる
その場の感覚を感じる事が重要です。

私達は、日頃、衣食住が、習慣的に行われていて
特に高齢ともなると、毎日が同じ繰り返しに成り易く
食事をしても、過去の記憶で食べている事が多い事が
医学的に解っています。
本当は不味い料理も、過去の料理の味を頭に思い浮かべ
美味しいと思
って食べている事も有るのです。
老化と言うのは、日常のあらゆる行動にセンスが無く
ただ、同じ感覚での繰り返しになる事と言えます。
毎日が新鮮で、感動に溢れている事が大切で有り、
若さというのは、日常の環境や対人関係で、敏感に
自分自自身の心を反応させていると言う事です。



 

  


心から楽しめない老後

2017-08-25 17:35:58 | 高齢化社会

ここ数日の猛暑は、これまでになく、生活に支障を来しています。
余りの暑さに、仕事場のクーラーは、何度も止まってしまい、汗だくの中
仕事を行う事と成りました。
部屋の中は、30度を軽く超え、正常な業務が行えない状態となり、早急に
新たなるクーラーを見つけなければなりません。
何しろ、創業以来、30年程頑張って来たクーラーであり、何度も故障し続け
どうにか騙しだまし使って来たのですが、この暑さで遂にダウンしてしまいました。
余りにも古い機種の為、メーカーに問い合わせても部品も無く、修理する事も
殆ど不可能と言われて来ました。
それでも、何度も暑い夏を乗り越えて来たのですが、今回は、どんなに動かそうとしても
すぐに止まってしまいます。
しかしながら、大きな部屋の営業用のクーラーは、価格も高く、そう簡単には交換出来ず
何度も二の足を踏んできました。
いつ壊れても不思議でない状態であったのですが、遂にその日が来たようです。

所で、考えてみれば、同じように耐用年数が過ぎた生活機器や営業機器が増えてきました。
時代時代で新しいものに取り換えて来たのですが、数十年に渡ってそのまま使っている物もあり
部屋を見渡しただけで、昭和の匂いが感じられます。
消費経済社会で生きて行くには、時代に応じて、その都度、社会の流れに付いて行かねば
成らないのでしょうが、クーラーと言わず、様々な時代物が、沢山の思い出と共に
まるで時代に取り残されたようです。

日本が高齢化社会に突入したと言う事は、新たなる時代と成ったともいえるのですが、
時代に取り残された人が非常に増えているともいえるのです。
第一線を退き、悠々自適の生活を送っている方も多いのですが、長く生きている事に
苦慮している人も数多くいるのです。
食べて行くだけで精一杯の高齢者も少なく無く、国からの補助によって辛うじて老後の生活を
繋いでいる人も多く、中には、自力で働いて生きて行かなければならない高齢者もいます。

日本は、決して高齢者にとって過ごしやすい国とは言えず、この事は、生活を保障されている
生活に余裕のある人たちにとっても、決して気持ちよく老後を送れる社会とは言えません。
政府は、衣食住が満たされば、老後は、幸せに生きられると考えている様ですが、
実際は、殆どの方が、息苦しい生活を送っています。
彼らの満たされない部分は、心の中に在り、見た目の生活を豊かにしたところで、
満足できるものでは有りません。

最大の不満は、日本の高齢者たちが、若い人たちの心の中に居ない事です。
厄介者とは言わないまでも、若者たちにとっては、過去の時代の人達であり、自分達とは
合い入れない、別の人種の様な存在と言えるのです。
何故なら、彼らは、小さい頃から、人との関わり合いより、自分の利益を求める教育を受け
周囲の人達を気遣って生きる環境に育っていないからです。
自分の利益となる物には、心を向けるのですが、利益と成らなかったり、関心のないものには
興味すら示さない生活を送って来たからです。

人間関係は、自分の利益となる場合のみ成り立ち、たとえそれが家族であっても、学校で有っても
職場で有っても、同一レベルの感覚であり、高齢者と言うのは、無関心の対象と成っているのです。
社会に出て、高額所得者と成り、沢山の税金を払うようになったとしても、その税金が社会に役立ち
高齢者の生活に役に立っているとしても、それは、社会人の義務として支払っているに過ぎず、
人の為に成っているという感覚は無いのです。
徹底的に、経済的な利益を求め、今の社会にしっかりと適合して行く事を自分の人生の目的とし
人間としての様々な関わり合いには、自分自身の中で価値観を感じる事は無いのです。
社会人としての義務を果たす事で、自分の社会に於ける役割を果たしたとし、人との関わり合いを
持つ喜びは感じないのです。

今や、若者達と高齢者達の接点は益々遠のいています。
新たなる価値観を持った若者達と、過去の時代の人間関係にこだわる高齢者とは
お互いに合い入れない関係であり、同じ日本人として同じ土俵に立っていないのです。
多くの高齢者の孤独は、自分達の年齢が若者達より遥かに高いと言うことだけでなく、
まるで、陸の孤島の様に、日本人の社会から切り離されている事を感じる事です。

日本社会を繋ぐのは、急激に発達したネットであり、人々は、その高速度で動く
コンピューターの世界で生きているのです。
全てのシステムがコンピューターで繋がる事に依り、何でも自分の思いは達成でき
そこに、確実性の低い対人関係は無駄と考えるのです。
ネットの力を最大限に利用すれば、居ながらにして、何でも手に入れる事が出来るのです。

私達高齢者は、何かを手に入れる為には、多くの人の気持ちに触れ合う事が原則でした。
多くの人達との関わり合いを持って、お互いに生活レベルを上げ、地位を築きあげて
来たのです。
立派な社会人と成るには、如何に自分の心と身体を鍛え、様々な知識や経験を身に付け
沢山の人達の思いを知る事でした。

しかしながら、高齢となった今、現役を去った老兵同士の昔話は有っても、現実の戦士との

関わりが断たれているのです。
ただ、餌を与えられ、高齢のペットの様に余生を送っている事で、どれだけの高齢者が
満足できるでしょう。
人々の間で、お互いに切磋琢磨して、自分の地位と価値を気づいて来たのに、今では、
自分の価値を認める人も無く、自分の思いを伝える相手もいない事に、多くの方々が
何の為に生きているのか、生き甲斐を失っているのです。

どんなに美味しいものを食べても、世界中を飛び回っても、それは、自分が持ちえない、

思いが叶えられない多くの世界を知るだけなのです。
人は、どんなに年老いても、生きている限り、この世にいる意味と価値を感じたいものです。
中でも、人としてこの世に存在する価値は、いま、現役で働いている人達から認められないと
生き甲斐とはならないのです。

年をとっても、身体が思うように動かなくなっても、この世に生きている意味と価値を

認められてこそ、長く生きる意味が有るのです。
高齢者だから大切にしましょうとか、労わりましょうと言うのは、そういう事が出来ない方への
メッセージであり、生きている限り、如何に役に立っているかを感じたいのです。
日常的なほんの些細な事であっても、周囲の人たちが感じさせてあげる事が大切です。

高齢者が生きている事で、誰が助かり幸せになるかを解り合える社会が必要です。

ただ意味なく長生きしたとしても、高齢者たちは、本当に心から幸せとは思わないのです。
今や、若者たちの労りの言葉や行動に、高齢者たちは戸惑い、余計に気を使っているのです。
親切にされればされる程、自分達は、社会とは遠く離れた存在であることを自覚して、
寂しさを覚えるのです。

私達は、生まれて死ぬまで、一人の個性ある人間としてこの世に存在し認められたいのです。

その為に、人と違う生活をしたり、ファッションを楽しんだりするのです。
周りの人達に、唯一無二の存在として認められたいのです。
この事は、若者も高齢者も同じなのです。
家庭に於いても、学校に於いても、社会に於いても、自分を認められないで、差別されたり
決めつけられる事に強い反発と怒りを感じるのです。

外見的な優劣を付けられたり、一方的な価値判断をされたりする事は、大きく心を傷つけられ

様々なトラブルを生む原因と成るのです。
今の日本社会は、様々な所で格差や差別が存在し、一部の人達の独占的な社会が存在しています。
欲望を達成できる人々と、欲求不満の我欲に満ちた人たちで溢れています。
そんな人達から取り残されているのが、老人社会と言えます。

新たなる欲望を満たすことも無く、未来の自分を夢見ることない高齢者は、社会の人達とは

隔絶した、人として末期の世界と言えます。
ただ、時間が立つことに身を任せ、その日を待つだけでは、長生きする喜びは無いのです。
新たなる未来を創る力は無くとも、若者たちの夢や未来を助ける力を感じたいのです。
それには、生きている証が必要です。自分が存在している価値が必要なのです。
日本人の高齢者が、経済的豊かな生活を送れたとしても、本当に幸せと思っているのか
理解できるかが、高齢者社会を考える大切な観点と言えるのです。

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


高齢者は国にとって厄介者!?

2016-06-04 14:47:37 | 高齢化社会

日本は、世界でもトップクラスの長寿国で知られています。
国を挙げての健康長寿政策が功を成しているのか、元気なお年寄りが
日本中に溢れています。
それ程にも高齢者が増えているとは思えなかったのですが、昼間の時間帯に
都内の公共機関を利用すると、その実態は驚くべきものです。
早朝と夕方の時間にはさほど感じないのですが、サラリーマンが会社で働く頃
公共機関は高齢者たちで一杯です。

シルバーシートに座る高齢者はもちろんですが、普通の席に肩を並べるのも

見るからにお年を召した方々ばかりです。
自分も他人ごとではないのですが、電車の中も駅のホームも、高齢者たちの姿が
何処を見ても目に飛び込んで来ます。

高齢者と言えど、沢山の人で溢れていると言う事は、正に都会の風景としては

当たり前の事なのですが、考えてみると、この人たちの多くは、生産性が有りません。
街で食事をする時も買い物をする時も、自らが働いた事に因る報酬により、
年金や貯蓄資金を使う事に因って生活をしている方が多いのです。

そして、その資金を生み出しているのが、労働者不足が案じられる若者達です。

自らの生活すら長引く不況により中々豊かにはならず、この膨大なる高齢者を
支えて行かなければならないのです。
はたして、この財政不足は、経済の低迷化、高齢者の増加が原因なのでしょうか。

自由主義社会の日本に於いて、人々は法の下に平等であり、誰もが同等に

社会的な保障を受けるべきなはずです。
しかし、今の日本社会は、本当に平等に人々は生きているのでしょうか。
特に、高齢者対策は、今の状態でいいのでしょうか。

高齢者が増えれば、国の負担、若者の負担が増えて、生活に苦しむ人が増えるとしたら

我が国に於いて、高齢者は、国の財政を食いつぶす厄介者と言えます。
つまり、高齢者が増えれば、苦しむ国民が増えると言う事です。
しかしながら、近代国家に於いて、高齢者や弱者を守ることが国の大切な役割であり
人々を幸せにする条件とも言えるはずです。
でも、守れば国の財政は貧窮し、国民の生活は苦しくなっていくこの現状を
これからも続けて行く意味が有るのでしょうか。

江戸時代以前には珍しくなかった姥捨て山の存在、口減らしの存在が、

家族の生活、国民の生活を守る手段になりかねないのです。
高齢者は、国にとっては、厄介者であると言うのが、本音なのかもしれません。
しかし、この事は、多くの高齢者が薄々感じている事でもあるのです。
自分達高齢者が生きている事が国の財政や家族の生活を圧迫している事を
感じながら生きているのです。

私達人間は、根本的に、生きる為に、誰かを生かしそして生かされると言う生活を

太古の昔から続けてきました。
この、人間同士が、御互いに思いやる事に因り、種を繋げ、文化を発展させ
地球の生物の頂点に君臨してきたのです。
いかなることも、誰かと関わり合って成されていて、その関係に於いて、御互いが
自分の存在価値を見出していたのです。

では、現代はどうでしょう。

人類の発展は留まることを知らず、便利で豊かな生活を送れるようになりました。
ネットを使えば、世界中から何でも手に入れられ、お金さえ出せば、何でも
手に入る世の中になったのです。
こんなにも幸せな生活はないはずです。
しかし、多くの人々の顔色は今一と言えます。

簡単に言えば、経済的に豊かに成れず、お金が足りないと言うのが普通の考えです。

でも、お金が手に入ったら、幸せになるのでしょうか。
現に、働かないで国からもお金が手に入り、医療も優遇され、至れり尽くせりの高齢者は
いつも恵比寿顔と思われるのに、そんな満足げな高齢者は滅多に見ません。
愛想良く作り笑いをする高齢者は、履いて捨てるほどいますが、

本当に心から幸せを感じている高齢者がどれほどいるでしょう。

当然、お金がもっとあったら幸せなのかと思いきや、差ほど心は高鳴りません。
しかし、国は、経済的援助と福祉を充実させることが高齢者の喜びと思っています。
実は、このいつまでも変わらない思い違いが、多くの高齢者を苦しめるのです。

何故、決まりとは言え、ある年齢に来ると、社会的に高齢者を追放するのでしょう。

確かに、体力的にも働きづらくなるかもしれませんが、それまで築いてきた、
多くの人々との関わり合いを断ち切られ、ただ、時間と金が有るだけの環境に
追い出されるのでしょう。

若い人に道を譲ると言うのは、労働者が溢れていた高度成長期には成り立つ事です。

しかし、今や、若い働き手すら減っているのが現状です。
動物は、死ぬ寸前まで、他の仲間たちと同等に生活を送ります。
しかし、このことにより、そのテリトリーでの存在意味が有るのです。

人間は、体力のみならず、様々なスキルを持って社会で生活しています。

そのため、長い時間社会に貢献できる様に成っているのです。
若かろうが年をとっていようが、人は、自分のこの世での存在価値理由が無いと
生きている意味を失ってしまうのです。
例え、有り余る自由な時間とお金が有っても、この世に必要とされない事が一番辛く
会社に於いても家庭に於いても、一番切実な事と言えるのです。

誰も、死ぬまで働けと言うのでは有りません。

働きたいと言う人を、サポートする事が大切と言えるのです。
若い頃よりも生産性は落ちるにしても、少なからず社会の役に立っている事が
高齢者にとって生甲斐と成ることも多いのです。
一律に社会生活から首を切り、経済的に安定した生活を与えるだけで幸せとは言えず、
ただ、人生の末路を歩くだけの毎日が楽しい筈はないのです。

銀座を歩くと、経済的に豊かで、煌びやかで高価な衣類をまとった高齢者を見かけます。

しかし、ベトナムの田舎の三世代農家の長老程の笑顔をした日本人には会った事が
有りません。表向きの取り繕った笑顔は、経済的に満たされていると言うだけの顔で
日本の高齢者が心の底から幸せでない事を伺わせます。
折から、ペットの数が子供の数を超えるようになったと言います。
高齢者のみならず、自分の存在価値を認めてくれるのは、人よりもペットと言いたくなる
日本社会が本当の福祉国家として世界に胸を張る日はいったいいつの事と成るのでしょう。


信用できない日本の医療

2016-05-30 17:26:07 | 高齢化社会

今年もまた、区から無料医療検査の冊子が送られてきました。
中高年ともなりますと、様々な医療検査を無料で受けられるとあって、
かつて人間ドックなるものを受診した事もありました。
しかし、あれから、20年以上になりますか、最近は送られてくるものの、
いつも行かず仕舞いです。

本当は、無料検診のみならず、毎年検査をする事が大切なのでしょうが

よっぽど事態が急変しない限り、進んで医療機関を利用する気には
なりません。

若い頃は、スポーツで怪我をしたり、自動車事故でお世話になったりと
今より遥かに頻繁に利用したものですが、近年は、進んで足を運ぶ事は
滅多に有りません。

もちろん、早期発見、早期治療は大切だあると思われますが、治療による

メリットよりもデメリットの方が感じられて、余程の事が無い限り、自分で
対処する方が安心に思えます。
と言いますのは、決して医療の力を軽んじているのでは有りませんが、
度重なる医療過誤、更には、薬物による副作用による健康被害を身近に
見ていると、少し慎重にならざるを得ないのです。

日本の医療は、世界でもトップクラスと思われますが、必要以上の治療や

薬物投与による弊害も否めません。
中でも、周囲の高齢者が、検査の度に多くの薬を投与され、更には新たなる
病気治療を開始した途端、日常の行動言動が、非常に違和感を感じられるのは
私の周囲だけではないからです。

検査の度に発見される新たなる病に、治療と言う名目で投与される様々な薬品が

決して安全とは言えない、むしろ、以前よりも体調不良を増やしているのを見る度
どう考えても,医は算術の様に思えてしまうからです。
私の仕事の仲間も、検査によって多少年齢からして高血圧であり、降圧剤を
服用するようになりました。しかし、しばらくすると、日常生活が、見るから
病的であり、あれ程元気であったにも関わらず、まるで病人の様に静かに成って
正確が変わった様になってしまいました。

本人も、薬が合わないと思ったのか、その後、別の治療薬を試すようになったのですが、

いまだ以前の活発さは戻らず、やや高血圧と言われていた時と別人の様です。
その様な事もあって、知り合いの、中高年の方々に尋ねると、半分以上が、
降圧剤のお世話になっていて、飲まないと様々な血管障害を生むと言われて、
恐ろしくて飲んでいるとの事。しかしながら、彼らの共通の雰囲気は、全く同じで、
誰しも、以前の様な活発なイメージが無く、静かな大人しいお年寄りと言った
まるで飼い猫の様に変わってしまいました。

医療関係の方からすれば、そんなことは無いと反論されるかもしれませんが、

薬で強引に血圧を下げる事に因って、どの人も、何故か、行動が緩慢に成り、
まるでボケが始まったのではと思える高齢者もいます。
また、その中の一人は、検査により、初期のパーキンソン病と診断され、
その時は、見た目には普通の人であったのに、しばらく治療を重ねると
見るからに奇異な行動をしたり、電車のホームで突然倒れたりと、治療以前では
全く考えられない行動をとりました。

何度も薬を変え、医者を変えるも、増々ひどくなるばかりで、最近では薬を飲むと

幻覚が現れ、本人も自分が何をしているのか解からなくなってしまいました。
この五年間程の治療が一体正しかったのか、今になっては解りませんが、
治療の度に家族も手に負えなくなる程豹変するとは、長年のお付き合いで知っている
真面目で仕事熱心な人とは思えない状態です。

医者にしてみれば、様々な薬を使い臨床例を増やして自分の仕事に

利用するのでしょうが、患者にしてみれば、まるで、モルモットの様で
堪ったものでは有りません。
日本の高齢者に処方される薬の8割は必要ないと言う医療関係者もいます。
医者と製薬会社の昔からの強い癒着は、今の日本に、多くの必要のない
病人を生んでいるとも言えるのです。

ただでさえ、高齢者医療費が問題と成っています。

高齢者に対する医療補助だけでなく、医療機関に対する国の費用も膨大なものです。
本当に健康な国民を作りたいのなら、病人を作る医療から、病人を無くす医療に
転換しない限り、安心な老後は保障されないのです。