めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

政治利用されたオリンピックと選手達

2018-03-02 16:58:31 | オリンピック

スポーツは、本来、戦う者演ずる者達のお互いの運動機能を競うものであり
その競技までの過程において、外部からの思惑や経済的利益目的が働いては
なりません。
選手同士の戦いは、あくまで裁量、力量で行われるべきであり、そこに
外部からの力が働いて、本来の競技の意味が無くなる事は、スポーツの範疇を
超えて、単なる利益者たちの道具に過ぎません。

しかしながら、近年のスポーツは、様々なスポーツに於ける、選手たちの
純粋たる戦いというより、選手を利用した企業の戦いと言えます。
より知名度の高い選手を広告塔として利用し、選手の活躍は、スポンサーの
膨大なる利益となって、益々、商業スポーツとしての意味合いが
強くなっています。

世界中で行われるスポーツは、商業ビジネスの一環として開催される事が
当たり前の事と成って、選手たちも、活躍する事で得られる莫大なる報酬を
自らの目的としている場合が多くなっています。
スポーツの祭典には、莫大なるお金が動く事も有って、企業も選手も
如何に大きな利益を得るかが目的と成って、時には手段を選ばず
スポーツマン精神から逸脱した行為を行う事も少なくありません。

どのスポーツ大会でも問題となるドーピングは、選手が、より良い成績を
得たいが為と言うより、良い成績を得る事で、選手もスポンサー企業も
潤うと言う事から、いつまで経っても無くならないのです。
確かに、近年のスポーツ競技には、賞金や報奨金の高騰化に伴う
醜い争いが問題と成っていますが、選手自体も、勝利する為にも
膨大なる資金を用意しなければならず、スポーツをするにも
賞金を得るまで成長するにも、莫大なるお金が必要と言えるのです。

この事は、誰もが親しめるスポーツが、夢を抱こうも、実現できるのは
ほんの一部の人でしか許されないと言う事を示しているのです。
今回のオリンピックに於いても、戦われた競技の多くをを日本国民が
行っているとは言えず、ほんの一部の人達の中から代表者が
選ばれていると言う事実も有るのです。

例え日本代表と言っても名ばかりで、実際は、マスコミで取り上げ
テレビで紹介されない限り、日本人の殆どは知らないと言う競技が
殆どと言えるのです。
それでも、連日日本代表の活躍を、声も高らかに放映するのは
彼らを日本人の代表とする事に依って、巨額の利益を得る方々が
バックに存在しているからと言えるのです。

私達国民が驚喜する選手であれば、当然、広告塔として利用している
企業の利益は莫大なるものと言えるのです。
単に、テレビコマーシャルで紹介するよりも遥かに大きな利益が得られ
この事は、現代ビジネスが、如何にメディアを利用して、より多くの人々に
訴える事が出来るかで、企業の未来が決まると言っても良いのです。

しかしながら、最近、日本のスポーツ界は、様々な問題が噴出しています。
神技と言われる相撲も、醜い人間関係が暴露され、日本を代表する
国民栄誉賞を得る程の選手を生んできたレスリングの世界も、何やら
人間の欲と業が渦巻いている様です。
昨年から、政界トップの疑惑としていまだに燻っている贈収賄問題と
日本を代表する人々の醜態が目に付きます。

これらの事は、日本社会が如何に人間の欲と醜い争いで作られているか
と言う事を示していて、多くの方を落胆させたり怒らせたりするのですが、
これ程次々に膿が出てくると言うのは、隠された事実が、世間の人達に
知られるようになったとして、喜んで良い事でも有るのです。
戦後社会から高度成長期も、今以上に多くの問題が有ったにも関わらす、
隠され続けて来ただけであって、知らないのは一般国民だけだったのです。

豊洲市場の下にいまだに存在する隠された日本の恥は、負の遺産というより
日本人の醜い心と言えるのです。
もし、新市場が作られなければ、永久に封印されていたと思われるのに、
パンドラの箱を開けてしまったのです。
しかし、東京湾に隠されたこの手の汚染場所は、殆どの干拓地に存在していて
今はやりのウォーターフロントは、その上に有ると言っても良いのです。

見えなければ、欲望のままに利益を求めて良いとする考えが、日本人が誇る
高度成長を作ったとも言え、典型的な隠された場所である東京湾の海底は
いまだに、生き物達が生息できな地獄の様な毒物や化学薬品がヘドロと成って
積載している場所がいたる所に有ります。
外見的に美しい東京湾岸の風景は、高度成長で発展した日本の表の顔と言えますが、
その陰で、どれだけ多くの自然が破壊され、多くの人々が傷ついたか、いまだ
その実態は隠し続けられているのです。

マスコミは、常に華やかな部分しか国民に知らせません。
何故なら、メディアの実権を握っているのは、高度成長を作って来た企業だからです。
国民に、様々な情報を伝え、情報を開示して行くのがメディアの役割なのですが、
企業利益に沿った企画運営をしている事で、あらゆる番組が、益々つまらなくなり
多くの若い視聴者を失っている事を、真剣に考えなければなりません。

一年を通して作られていたドラマが、半年、三か月と短くなって、内容が
著しく短編化される事で、どんなに素晴らしい俳優を使っても、作品の価値が
一向に上がりません。
企業によって、寸断された作品と、大量のコマーシャルスペースが、
視聴者達の興味を更に失わせている事実を、どの様に考えて居るのか、
収益の為に、唯言い成りに成っている番組構成は、視聴者にとって、
余りにもつまらなく、その陰で利益をむさぼる方々の存在を感じてしまいます。

それにしても、今回のオリンピックは、選手にとって最悪と言っても良いでしょう。
明らかに、政治的配慮が有り、政治的に利用されたオリンピックと言えます。
もちろん企業が膨大なる利益を目論むスポーツ祭典であった事は明らかですが、
政治的に次の国家間に於ける政治的バランスを有利に進める為の政策の1つとして
開催された事は明白です。

お互いに相手の出方を伺う為の手札であり、次なる駆け引きの道具に過ぎません。
世界に平和のアピールを強調し、如何に、近代的で民主的な国で在るかを示し、
お互いに敵の国民を受け入れる事で、度量の大きさを訴え、自分達の正当性を
世界の祭典を使ってアピールしたに過ぎません。
しかし、その実態は、お互いに、ミサイルの標的を相手に向けた、憎しみと
欲望が渦巻いているのです。

この事は、日本とてさほど変わるものでは無く、次なる一手に、国を守るだけの
軍事力も経済力も無いだけの事です。
オリンピックの会場で、笑顔で握手しながらも、反対の手に鋭利なナイフを持ち
背中に隠し持っている様な大会でした。
当然、自由と平和の象徴には程遠い祭典であり、選手の活躍とは裏腹に、
次への利益を求める、戦争商人たちの裏の舞台でも有ったのです。

では、戦った選手たちはどうであったかと言えば、勝った者も負けた者も
スポーツ選手としての環境は決して良いものでは無いのです。
一時的にマスコミに大きく取り上げられても、半月もしない内には、
それ以上の利益が得られない物として、簡単に無視されるのが常と言えます。
多くの国民と関わらないスポーツは、またもや、狭い地域の一部の人達の
マイナーな種目となって、人々から忘れられるのです。

彼らが浮かばれるのは、次期大会で、国内外で知名度を増す事しか有りません。
大きな大会で勝利し、マスコミに取り上げられれば、その知名度を利用する
スポンサーが付いてくれます。
上手く行けば、練習する費用も、遠征費も、企業によって負担してもらえます。
しかし、殆どの選手は、自分の所属する企業での一従業員として得られる給料で
自分の選手としてのモチベーションを維持して行かなければなりません。

つまり、知名度が上がらなければ、どんなに能力が有っても、生活を豊かに
練習量を豊富にすることは出来ないのです。
日本で行われる多くのスポーツイベントは、スポーツで生計を立てると言うより
単なる趣味の段階で満足をしなければならない程苦しい選手の懐事情で
支えられているのです。

日本におけるオリンピック出場の権利は、それまでの大会に良い成績を上げる以上に
スポーツを続ける為の経済的条件を生み続ける事が大切なのです。
その為、素晴らしい才能の有る選手であっても、生活環境を援助されなければ
日本の代表まで育たたない現実が問題なのです。

今や、日本社会は、国民も、国も、一体何に向かって生きているのかが解りません。
常に目新しい興味の引く事に飛びつくだけで、本当に将来を見据えた
長く時間を掛けて育てて行く様な文化が失われているのです。
刹那的な突発的な興味で日本人の関心を引くだけで、日本人の心を長く引きつける
魅力ある社会が消え始めているのです。

次々に新しい商品を生み出して消費を継続させる消費経済社会は、有り余るお金が有れば
いつまでも継続する事が出来ます。
しかし、そんな社会が、如何につまらなく、実を成さないか、日本人は、経済成長から
バブル崩壊までの間に学んだはずです。

素晴らしいオリンピックが、一か月もしない内に、日本国民の心から消え去り、
選手への関心も、メダルの数だけしか有りません。
その後の彼らの生活には全く関心を示さないと言うより、ニュースソースとして
マスコミは全く取り上げなくなります。

国民の目が行き届かなく成れば、選手たちの環境も良くはなりません。
選手を利用していた人達は、益々、我欲を発揮し、選手を自らの道具として使おうとします。
様々な対人的な問題が、人の目が届かない所で起こって来るのです。
この事は、決して、スポーツの世界だけでなく、一般の会社社会であっても同じ事が有り
大衆の目を気にしなくなった狭い世界では、様々なハラスメントが横行し、
差別、暴力、破壊と、人々の関係は、醜いものとなって行くのです。

この流れは、対人的な場合だけでなく、国家の体質として生み出されて行くものであり、
世界の目が行き届かない国では、独裁者が出現しやすいのです。
私達の人間の世界は、どんなに進化しても、お互いに関わり合い、相互理解の元
其々の立場を認識し、違いを理解しながら成長して行かなければなりません。

個人レベルであっても世界レベルであっても、人間が幸せに、平和に生きて行く為には
常に、相手の事に関心を持ち、お互いに助け合い、認め合って初めて、
人や国の存在価値が出てくると言えるのです。
今や、個人も国家も、エゴイズムから来る一方的な考え方や思い込みで
お互いに傷つけあっているのです。
相手を、自分の思う様に従わせる事は、お互いに苦しむ事は有っても、幸せとなる事は
決してないのです。
人間が幸せに生きて行くには、太古の昔から、相手と自分の違いを認める事であり、
お互いに相手の幸せを考える事によって成り立つことを忘れてはならないのです。