めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

人に勝つ生活から自分を生かす生活へ

2018-12-31 19:13:54 | 日本人

消費経済社会は、より豊かな生活を行う為
常に勝者であることを求められます。
勝者になる事で得られる社会的地位名誉そして
自分の欲望が叶えられるとあって、誰もが、
幸せへの道と信じて疑いません。
戦後、世界の経済大国への道が、日本人の幸せへ
繋がると日本人の多くが考えていたのです。

あれから半世紀以上が経って、本当に日本人は
幸せになったと言えるのでしょうか。
果てることない欲望を満たすために、常に
上を目指し、周囲の人を蹴落としても、さらなる
豊かな暮らしを求めたことで、どれ程幸せを
手に入れたと言えるのでしょう。

勝つことは人間にとって素晴らしい快感を与えます。
しかし、勝つ事に因り負けた者は、敗者として
勝者の下に位置づけられます。
人に勝つことを自分の価値とすれば、負ければ、
己の価値観が失われると言えるのです。
簡単に言えば、幸せでなくなると言う事です。

つまり、負ければ、常に屈辱を味あわされ、
次に勝利を得るまでは幸せを味わうことが出来ません。
その苦しみに耐える為、心の中には、悔しさと
屈辱が続くのです。勝っている時にしか、幸せを
心から感じる事がないのです。

戦いと勝負を求めるスポーツの世界に於いては
見ている人もプレーヤーも心から楽しめると言えますが、
これが国民の日常となると話は違ってきます。
自分の周りにいる人を、例え家族であっても友であっても
経済価値社会的価値でしか判断できなければ、いつも
心が安らぐことなく、人を見る目が常に批判的と成って、
相手の事を認められない、極めて自己中心的な考えで
周囲とトラブルを生みやすくなってしまいます。

問題は、自分の意思表示が、本心からでなく、社会的な
価値であったり批判差別へと発展しやすく、常にトラブルや
諍いを起こし役くなってしまうのです。
人を認められないと言う事は、自分自身も認められなくて
心が安らぐことは無く、ストレスを生むだけなのです。

その結果、生活の豊かさに関係なく、日本人の心と身体は
休まることなく、様々な病が発症しやすくなるのです。
現に、日本人の多くが、何だかの病気に苦しんでいる事が多く
一見豊かで幸せそうに見える人も、実際には様々な病で
苦しんでいる事が少なくないのです。

日本人は、心と身体を傷つけながらそれを癒す為に多くの
時間とお金を費やしていて、何とか、健康になろうと
様々な治療を行い、より豊かな生活を行えば良いとして
頑張る事で益々ストレスが増し、悪循環を繰り返しているのが
日本人の姿と言えるのです。

資本主義社会の華やかで豊かな暮らしをするも、自分の思いとは
裏腹に、心と身体は大きなストレスを与えられ、逃れられない
苦痛の繰り返しと成っているのです。
スポーツであろうが仕事であろうが、人は常にチャレンジをして
新たなる未来を生み出していくのですが、そのためには、生きる事に
不安の無い、常に人間関係に幸せを感じなければなりません。

チャレンジには多くのトラブルがつきものです。しかし挑戦を
していかなければより楽しい未来はやって来ません。
その為には、誰もが、基本的人権が守られ、更に、日常的に
未来を安心して迎えられることが大切です。
それこそが、国民が皆、安心して幸せを感じられる世界なのです。
多くの人から常に守られ祝福されている人生が有ってこそ、
新たなる挑戦が出来、次のステージにチャレンジできるのです。

現代社会は、社会全体の経済性を保つために作られた社会であり
国民一人一人の幸せを考えた社会では有りません。
どんなに経済的に豊かと成っても、人々から心から信頼されず
人間としての価値を見出されなければ、幸せに成れないのです。

今やメディアを通じて、国民がいかに生きれば幸せと成るかを
世の中の一部の人達の利益を得るために国民を洗脳します。
毎日流れるテレビコマーシャルは、国民にいかに生きて行けば
幸せに成れるかを伝え続けますが、それは、国民が幸せに成る
と言うよりも、商業的利益を目論んだ様々なトラップは、
いとも簡単に国民の心を捕まえます。

次から次に提供される消費物質は、国民にとって魅力的とは言え
それが仕組まれた罠とは思いません。幸せに成る為と稼いだ
お金を次々につぎ込みます。
こうして資本主義消費経済社会が成立していくのです。

所が、幸せに成るとして手に入れたものが、手に入れば幸せに
なると思いきや、すぐに、次なる魅力的な物を見せられます。
その途端、それまで幸せを生んでくれる素敵な品物と思って
喜んでいたものが途端に色あせてしまいます。

そう、これこそが、消費経済社会の落とし穴で、留まることない
消費のエンドレスに巻き込まれて行くのです。
とは言え、お金を使い欲しいものを手に入れる事は、人々の
消費意欲を高めるもので、ある意味満足を得られるのですが
次々に欲望の対象が変わる事で、本当に自分が欲しいものが
解らなくなってしまうのです。

社会がメディアが良いとする物を常に求める事で、しだいに
自分自身が求める物が何なのかが、与えるがままに食べ続ける
家畜の様になってしまうのです。
これこそ、資本主義社会をリードする人たちの思う壺と
言えるのです。
確かに、戦後の何もない時代にはそのような生き方であっても
良かったかも知れませんが、現代社会に於いては、社会も成熟し
より人間として豊かな生活を求められているのです。

食べる事で精一杯の頃はともかく、現代社会は、お金さえあれば
何でも手に入る時代と成って、誰もが自分の好むものを手に入れ
物欲を満たすことが出来ます。
しかし、この自分の思い通りになるとする、消費経済社会の感覚を
そのまま対人関係に於いても用いられると様々な問題が生まれます。
誰もが自分の思うが儘に自分の意思表示を行えば、当然、対人的に
諍いが起こるのです。

人類の歴史に於いて、様々な争いの原因の多くが、この対人的な
諍いが始まりと言えるのです。
より我欲を満たそうとすることで、人々は争い、世界中で数知れずの
戦争が行われて来たのです。
いわゆる陣取り合戦によって、食料と資源を奪い合ったのです。

しかしながら、現代においては、そのどちらも枯渇し始めていて
地球温暖化に伴う異常気象も有って、人類にとって、非常に苦しい
時代と成っているのです。
誰もが自分の主張をすれば、人類の未来を危惧しなければならない程
事態は悪化しているのです。
更なる問題は、消費経済社会を多くの国が目指した結果、人間同士の
意思の疎通が損なわれ、人々の普段の暮らしに於いても、お互いに
心と身体を傷つける事が多くなっているのです。

人の気持ちが解らない事から、お互いに傷つけあう可能性が高く
トラブルを如何に避けるかが人々の生き方となって来ました。
人を傷つけたり傷つけられたりしない為に、必要以上に対人的に
過敏と成ったり、また逆に相手の気持ちが解らない事から、
様々なハラスメントを生んでしまったりしているのです。

幼い頃から人と競争することを強いられて育って来た日本人は
消費経済社会を続けるに連れて、次第に心に大きなストレスを
抱き始めるようになったのです。
外見的に豊かな暮らしをしているのに、現代の多くの日本人は、
常にストレスに晒されながら生きていると言えるのです。

しかし、社会は、人間の心の苦しみを他所に、人間の幸せは
経済的な豊かさにあるとし、政府の方針も、経済性の高さが
国民の幸せと考え、高度成長期と何だ変わらない社会政策を
主張しています。
多くの国民は、自分の心の気持ちを表に出さず、出来るだけ
トラブルがない様に社会の流れに合わせようとしていますが、
日本人の本心は、外見とは裏腹に、多くの方が病んでいるのです。

世の中が不況と成り、世界中から食料と資源が不足して来たと言えど
一番の問題は、このメディアが多く取り上げる地球の危機ではなく
私達人類の心の危機なのです。
地球温暖化になり、世界中が気象異変で苦しむも、乱獲汚染で
食糧危機と成ろうも、本当の危機感は人間の心の退化なのです。

太古の昔から、生きる為にお互いに助け合い労り有って生きてきたのが
消費経済社会と成ってから、本来の人と人との結びつきを失い
更には、長きになって生かされて来た大自然を破壊して来た事で
人類は、自らの首を絞める結果を生んでしまったのです。
これまで、地球上で500万年以上に渡って繁栄を続けられたのは
自然との関わり合い人間同士の関わり合いを大切にして来たからと
言えるのです。

今や、取り返しがつかない程地球は破壊され、人類は、その報復を
受ける事と成っているのです。
近い将来、やはり、人類は他の生き物と共に絶滅を迎える運命に
あるのかもしれません。
しかしながら、私達は生きている限り、私達を生かしてくれた大自然と
お互いに助け合ってきた人間関係を修復することが需要です。
身の回りの人と自然に対して、五感をフルに生かして、自分のできる
最大の役割りを果たして行く事が大切と思われます。

 





 

 


日本人が自信を持てない背景

2018-12-30 08:46:49 | 日本人

現代の日本人は、生活の糧を取り除かれたら、それこそ、不安の塊
とも言える程、自分自身の生活に自信が持てず、自信が有ると言っても
それは社会的に地位が有ったり経済的余裕があっての事なのです。
いつの時代からか、多くの日本人の価値観は、社会的な価値観によって
決められ、自分自身の価値は、如何に社会的に豊かに見られるかと言う
社会がどの様に自分を見ているかで決まるとする考えが広がっています。

世代に関係なく、人々が求める人間像は、社会的に豊かであり、社会に
認められる様なキャラクターです。
有名芸能タレントの様に、憧れの存在が自分達の理想であり、生まれた時から
個人的な価値を育てると言うより、社会的な価値にいかに似せるかと言う事で
多くの人達は一喜一憂する様に成ったのです。

メディアが発達して、人々が求めているものを知らされると、そのものを
手に入れようとしたり、同じような人間に成りたいとして、多くの日本人が
自分が求めるもの、自分が成りたい人格を、視覚的な物や人に求めます。
外見はその人の価値やその物の価値と判断し、印象と同じように振る舞ったり
同じような物を手に入れたりと、少しでも自分の求めるものに似せようとします。

しかしながら、その憧れは、常に商業的価値観によって変わって行くものであり、
提供する側の意向で簡単に変えられていくのです。
いわゆる、流行であり、商業戦術と言えるものなのです。
特に、戦後の日本人は、戦争で生活の全てを失ってしまった事も有って、
アメリカ等の経済大国を真似る事でしか再建の道を考えられず、常に真似をして
少しでも戦勝国に近づける様に努力したのです。

負けた日本人の価値は全く感じる事が出来ず、全て勝者を真似る事に依って
少しでも経済発展を遂げたいとしたのです。
所が、アメリカの外見だけ真似る事に専念し、日本人としての価値を見失い
更には、自分達の生き方をアメリカの様にする事で豊かに成れると信じたため
日本人が太古の昔から育てて来た人としての心の成長を忘れてしまったのです。

高度成長期の経済発展が、日本の美しい自然を破壊し、日本人の健康を害しても
見た目美しく豊かな日本に成れば良いとし、心豊かな日本人を、お金だけしか
信じられない殺伐とした人間に変えて行ったのです。
経済力さえあれば何でも思い通りになるとする風潮は、大人だけでなく子供達も
人としての成長を見失い、成績さえ良ければ、経済的豊かささえあれば良いとする
日本人を多く育てる事と成ったのです。

その結果、日本の大自然は高度成長で破壊されたまま、日本人の心は、自分さえ
良ければ良いとする自分の欲望にしか関心の無い人を生む事と成ったのです。
人々は、常に上しか見ていなくて、自分の周囲や自分よりも経済的に下の人には
何の関心も有りません。
常に、自分より豊かな人や社会的に地位のある人を目指し、上になる人が正義とする
独裁国家の流れを作り出します。

世の中の風潮も、社会的に豊かと成れば、何でも自分の思い通りになるとして
ますます豊かな人とそうでない人の二極化が進みます。
しかし、そんな豊かな生活をしているという人達も、自分達の心には常に不安があり
自信が無い方が多いのです。
何故なら、どんなに豊かな生活をしていても、自分よりはるかに上の人がいるもので
経済的な差をもって人の価値を考える人達は、自分よりも上と見なす人に対しては
常に自分を下と位置付ける傾向が有るのです。

つまり、誰よりも上の経済力が無ければ、本当に満足することなく、常に不安な毎日を
過さなければならないのです。
そんな不安を解消するには、自分が他人から上に見なされる満足を得なければ成りません。
世の中に蔓延する様々なハラスメントや差別は、自分自身の心の叫びの様なものであり
身近な人に自分の存在価値を認めさせようとする行為と言えるのです。

しかしながら、この様な人を傷つけたり、社会的地位によって圧力を加えたりしても
人の心は、決して思い通りにはならないものです。
自分の幸福の為喜びの為に努力したのに人に認められず、社会的な地位や価値でしか
評価をされない現代社会は、多くの国民にとって日常的にストレスを生むものであって
幸せな生活を望めるとは言えないのです。
多くの利益を得て、それを元に欲しい物を手に入れたとしても、それで自分自身の
価値が高まると言うより、自分の持ち物や地位で評価される事は、まるで裸の大様の様な
寂しさを感じるのです。

戦後の日本人の歩みは、世界的に見れば、経済大国として豊かな国とされるのでしょうが、
日本人の心は、外見とは裏腹に、常に心から豊かとは思えず、誰かと比較したり、自分の
社会的地位をもって幸せなのだと思い込むしかないのです。
こんな社会をどんなに経済的に豊かにしたとて、人々の心は満たされる事無く、たとえ
この社会を創り上げている人達であっても、自分達が作り上げた社会であっても
自己満足は有っても、他人から人の価値として認められる事は無いのです。

多くの人は、それでも、巨大事業を行えばそれなりの利益を得られ、自分が社会に
認められたとするのですが、それは仕事に対しての報酬であり、個人的な価値とは
誰もが思ってはいないのです。
やはり、個人的な価値とは、人によって人の価値として認められるしか無く、
如何なる職種、如何なる地位に在ろうと、人間としての価値を認められる事が
最も大切と言えるのです。

この事は、人が生きて行く上で、生まれた時から死ぬまで、生物として食料を
取り込む様に、他人から与え続けられなければならない大切な関わり合いと言えます。
小さい頃から、個人の尊厳を守られ、常に生きている価値を周囲から認められる事で
人は本当に人として成長が出来るのです。

人から人としての価値を認められない人は、他人の価値を認める事は出来ません。
日本人は、今や、他人の個人的価値を素直に認められない民族と成りつつあるのです。
戦い奪い倒すと言った、他人の上に立つ事を価値とする社会は、同じ返礼を受け
常に怒りと妬みが人々の周りに付きまとうのです。

少しでも他人と争わない様、嫌な思いをしない様、必要以上に気遣って生きているのが
今の日本人と言えます。他人に関わらない様にする事で、他人の気持ちが理解できず、
身勝手な考え方で更なる誤解を生んだり、怒りを買ったりしているのです。

私達は、どんなに知識が有っても学力が有っても社会的地位が有っても、誰よりも
オールマイティに成る事は出来ません。
生きる為には、多くの人の力を借りなければならず、お互いに助け合って生きているのが
人間社会なのです。その関わり合いがお互いのトラブルを避け、人間関係をスムーズに
しているのですが、その関係を断ち切り、経済的な力ををもって、我儘を押し通そうとして
様々な問題が生れているのです。

日本の誰もが知っている言葉に、十人十色という言葉が有ります。
誰もが心も身体も違っていて、其々の価値観の元に生きていると言う事であり、
この違いを認め合う事に因ってお互いに助け合う事が出来、其々が満足を得られるのです。
しかしながら、この他人の事を認めると言う事は、人類の歴史に於いて最も難しい事の
1つと言えるのです。

太古の昔から、人類は、飢えと戦ってきました。
特に狩猟時代は、如何に他の人間より多くの食料を得るかで戦っていましたし、
例え農耕民族と成っても、常に豊作とは言えず、食糧を確保する為に、常に人々は
戦い続けた歴史が有るのです。

現代においても、戦争が無くならないのは、その根底には、より豊かな食量と資源を
得る事があり、人は、生きる為に戦わざるを得なかったとも言えるのです。
消費経済社会と成った今も、人々の心の中には、誰よりも多くの食料を得ようとする
本能とも言える考えが有って、この呪縛からは中々逃れられないのです。

しかしながら、現代人は、誰もが平和に幸せに生きる為に、お互いに助け合って
食料や資源を分かち合う事が大切なのです。
その為には、お互いに相手の気持ちを気遣い、助け合う事が重要なのです。
そんな気持ちを察する事が出来る人が、人々の上に立つ事を認められるのです。

所が、現代社会は、他人の事は気にせず、自分の欲望の為には平気で他人を傷つけ
差別したり支配したりする人が増えているのです。
まさに、狩猟民族時代と変わらない社会と成っている事で、多くのトラブルが起こり
不安が生じる様に成っているのです。

現代人と狩猟民族との違いは、現代人は、人間としての在り方を学ぶことが出来るのです。
人間同士の関わり合いや人としての思いやりを習う事が出来るのです。
幸せに成れる条件が有るのです。
しかし、教育の場で行われるのは、社会に出て、経済的に豊かに成る教育です。
成績と言う経済価値を基準とする事で、子供の時から人としての在り方を
習わなくなっているのが大きな問題と言えるのです。

現代日本人は、まるで腫れ物に触るがごとく、他人に対しておく病と成っています。
被害者にも加害者にも成りたくないと、他人に関わる事を恐れる人が多いです。
つまり、他人とのかかわり方を習っていない日本人がとても多くなっているのです。

自由社会だからと言って、自分の思いだけで生きて行く事は出来ないのです。
他人が一体何を考えているのかを察する事が出来ない若者がとても多いです。
お互いに言葉を煮詰め合って本心で話せるまで関わり合う事が出来ず、
まるでボクシングのジャブの様に、自分の当たり障りのない言葉でけん制し合います。

用件だけを求め合い、ただ、事務的な言葉のやり取りしか出来ず、その不自由さから
言葉も態度も暴力的に成る人も少なく在りません。
本来は、言葉以上に、お互いの全てを感じ合って察する事に依って、より豊かな
人間関係が生れるのです。欧米人の様に、ハグによって触れ合う事が無くとも
相対する時心から接する事でお互いの思いを感じる事が出来るのです。

その素晴らしい能力を持っていたのが日本人とも言えるのです。
目で見えるものや外見的な物でしか判断が出来なくなって、お互いの気持ちが
解らなくなっているのです。
他人は決して怖い物では有りません。
動物と接する時と同じく、怖がって近寄れば相手は警戒します。

どれだけ相手の存在を認め理解する事が出来るかで、一体どの様に対応したら
相手に喜ばれるのかは自然に解って来るものです。
日本人が、本当に国際人として世界に認められるには、日本人と同じ考えを
求めるのではなく、様々な考え方が有る事を認められないと、いつまで経っても
日本は世界から孤立する事と成るのです。

 

 

 

 

 


都会は楽園です!

2018-12-29 13:34:14 | 日本人

最近、朝のウォーキングを、目黒河畔から都内の街中に
変えています。
いつもは、目黒川に沿った遊歩道を行き来しているのですが、
最近の極寒は、水面を伝わって来る風を冷凍庫の中の様に変えて
早朝に歩いていると、身体の芯から冷えてきて、走っても一向に
温まらず、思わず、民家やビルの多い地域に足を向けてしまいます。

1キロ程河畔を歩いた後、渋谷に通じる坂道を登ります。
目黒川から渋谷に向かうには、代官山の尾根を越えなければならず、
目黒近辺はとても坂が多いのです。
長い坂道を超えると長い下り坂と成って、5分程下ると渋谷駅に
到達します。
昼間や日曜祭日は、歩けないほどの人込みで、最近では海外からの
多くの観光客が訪れ、何処に行っても様々な言葉が行き交います。

しかしながら、早朝の渋谷の街は、まるで撮影所の裏を見る様で
夜には多くの電飾で気が付かない本当の渋谷が見てとれます。
何処を見渡しても、お世辞にも美しいとは言えません。
色を失った看板の周囲には、其々の店からの空調機が乱立し
室外機がこれ程にも多く有るのかと驚くばかりです。

また、早朝に出勤する人は少ないものの、ゴミを片付ける人
清掃車や食料品トラックが多く横づけされ、作業着を着た人が
至る所で忙しく品物を運んでいます。
そんな中、決まって目に付くのは、オール、すなわち徹夜で
遊んでいた若者の姿です。

明け方まで楽しい時間をすごしたのでしょう。
アルコールが残った体は足元がおぼつかなく、真っ直ぐ歩けず
歩道から車道にはみ出したり、店の前で座り込んだりと
とても見苦しい光景ですが、かつての自分を思い出します。

酒場は、色とりどりのネオンサインや目を引く看板が
人々の理性を狂わせ、更には、アルコールが入る事で
ようやく自分自身を取りもどすのです。
夜の世界は、虚構の世界のとも言えますが、人々にって
本当の虚構の世界は、昼間、働いている時と言えます。

生きる為に感情を抑え、仕事をスムーズに行う為に
心にもない言葉と態度を何時間も続けているのです。
誰もが多くのストレスを抱え、生活の為とは言え
心と身体を傷つけているのです。

夜のとばりが降りる頃、やっと仕事を終えた時、
心と身体を癒してくれる場所を求めてやってくるのが
この華やかな夜の世界なのです。
最近では、多くのサラリーマンは、自宅へ帰り
家族や友と1日の疲れを癒す事が多い様ですが、
それでも、中には様々な事情があり、電車を
何本もやり過ごしても、アルコールを口にして
夜の蝶の甘言に酔いしれたいとする人も多いのです。

そんな人生の縮図の様な繁華街も、朝とも成ると
一気に色あせて、騒いでいるのは、残飯を求めて
仲間同士奪い合うカラスだけです。
人は、お金持ちになり有名になる為だけに生きて
いるのではなく、誰しも心を癒されたいとして
いるのです。
如何なる形にせよ、1日の心と身体の疲れを癒し
明日の英気を養ってくれる場を求めているのです。

都会に多く人が集まる一つの理由は、多くの職が有り
経済的に豊かな生活が送れる可能性が高い事です。
東京は一極集中型の都市であり、毎年人口が増して
多くの問題が生じていますが、人々の動向として
他人の多く集まるところには、更なる人が集まる
と言えるのです。

ただ、多くのお金を稼ぎたいと言うだけでなく、
お金を持つ事で様々な欲望を満たし、自分自身の
心を幸せにしたいとするのが本音と言えるのです。
あらゆる物が手に入り、上手く行けば、億万長者と
成る事も可能なのが東京です。
しかし、夢破れて去って行く人も多いのです。

東京に住む事の難しさを、生き馬の目を抜く、
と言いますが、例え一生懸命頑張っていても
いつの間にかに生きる術を失ったり、騙されたり
去って行く人達の思いは、自分自身の至らなさ
と言うより、対人的な苦労が多く見られる様です。
しかし、東京で成功した人や仕事を続けている人も
決して、順風漫歩とは行っていないのです。

殆どの人が、去って行く人に負けない程多くの
苦しい思いや悲しい思いを背負っているのです。
上手く行っている人の外見や成績のみが目立ち
その地位を維持している辛さは、外見からは
殆ど伺う事が出来ないのです。

勝者と言われる人達も敗者たちと何だ変わらない
辛い思いを背負っている事が多いのです。
ただ上手く行っている人の共通の部分も有ります。
殆どの人が、自分自身を決して見失わないで
信頼をしているのです。
誰もがもう駄目だと思う時でさえ、自分自身の
可能性を信じているのです。

そして、更にもう一つ。他人を信頼している事です。
東京は、誰もが自分の夢を叶えようとしている事から
少しでも油断すると騙されたり、傷つけられたり
周りの人は全て敵であると思える程の厳しさです。
しかし、それは、誰もが自分自身を失わない為
自分の夢を実現したいがために、他人に対して
厳しい態度を取ってしまうのです。

簡単に言えば、皆、他人が怖くてたまらないのです。
吠える犬はおく病と言われますが、まさに、東京は
人の目を気にした怯える犬の集まりと言えるのです。
誰もが、振り落とされない様、必至に自分の存在を
主張しているのです。

その為、東京に住めば、心も身体も疲れてしまうのです。
誰もが、自分を癒してくれるものを求めているのです。
そう、大切な事は、東京で成功する秘訣は、誰かの
心の支えになる事なのです。
人を助けるにもお金が必要と思う方は多いのですが、
お金で助ける以上に大きな力を発揮するのが信頼です。

相手の考えや思いを認め、一人の人間としての価値を
与えてあげる事が大切なのです。
この事は、学歴も社会的地位も要りません。
自分自身が本当に自分の関わる人達の幸せを思い
いつも助けになる様に働きかける事です。

実は、東京など大都会に住むと、この事が出来なくなり
自分の利益しか考えられなくなってしまうのです。
少し油断すれば蹴落とされたり、生活の糧を奪われたりと
怖い事だらけの都会なのですが、そこに住んでいるのは
魔物でも妖怪でもないのです。

どんなに地位のある人も、人間には変わりないのです。
自分と同じような考えを持ち、同じような感情を抱き
常に癒されたいと思っているのです。
しかし、その一方、経済的地位によって、自分は
他人よりも豊かな生活をしているから幸せなのだと
言い聞かせる事に苦しんでいる人も少なく在りません。

地位が高く成ったり、社会的に人々に知られて来ると
辛い時に気楽に居酒屋に行ったりとかネオン街で
遊ぶ事も出来ません。
自分の地位や身分に合わせたゴージャスな所で、
自分の社会的地位を考えて接待する周囲の人達に
見守られて、目の飛び出る様な高級なお酒を飲んだり
キャラを失わない様な会話を考えたりしなければならず
本当にリラックスできるのは、自宅のプライベートルーム
くらいしか無い方も多いのです。

何が一体幸せなのか、人間は一生自分自身に問いかけて
生きて行く動物です。
しかし、その答えは誰しも違っていても、その答えを
見つける方向に向かわせてくれるのも、光り輝くネオン街
とも言えるのです。

毎度メディアに登場する、著名人や政治家、芸能人の不祥事は
常識から逸脱している場合が数多く有りますが、彼らが、
安易に薬物や異性に手を出して摑まるのも、一時であっても
自分の心の癒しを求めていると言えるのです。
庶民からすれば、あれほど豊かな生活を行っていて、しかも
人も羨む家族を持っているのに、一体どうして!?と
首をかしげる事が多いのですが、例えどんなに豊かであろうと
心が癒されなければ、欲望に勝てなくなるのが人間なのです。

早朝の渋谷を後にして、またもや坂道を登って行くと
恵比寿のガーデンプレスに着いたころ、朝陽が眩しく
周囲の景色を輝かせます。
夜の繁華街の華やかさがみすぼらしく感じられる程の
オレンジの輝きに全身が急に暖かくなります。

地球上の生き物の頂点に立って、文明都市を創り上げたとて
太陽の存在からすれば、一吹きで飛んでしまうちっぽけな
地球に有って、しかも、たった100年弱しか生きられない
脆弱な生き物である人間が、己の未来にあくせくした所で
大成が変わるわけでは有りません。
自分が望む事は皆が望んでいる事です。
そう、お金持ちにも幸せに成るにも、皆が望む事を
いつも考えていれば、おのずと夢は叶うと言うものです。

 

 


渋谷ウォーキング

2018-12-27 11:20:17 | 東京

いつもの様に早朝に目が覚めると、眠い目をこすりながら
目黒河畔を歩き始めます。
30年前には、水面近くまで土手になっていて、春に成れば
菜の花や土筆が一斉に芽生えてきたものです。
しかしながら、月日の移り変わりは、そんな自然を一変し
今や、広々とした遊歩道とコンクリートの護岸で固められた
何処にでもあるような光景になってしまいました。

30分程歩き、少し丘を登るとそこは西郷山公園です。
かつて西郷隆盛の弟が作った美しい日本庭園の上に作られた
見晴らしのいい公園です。
西に開けた高台は、遥か彼方に箱根山を前景とした富士山が
白い雪を被って輝いています。
早朝は、近所の高齢者が多く集まりラジオ体操や太極拳に
興じていますが、普段は、殆ど人が訪れない、最高の見晴らしの
富士山展望台と成っています。

西郷山公園を過ぎてしばらく歩くと、渋谷へ続く幹線道路となり
急に人通りが多くなります。しかし、早朝は、まだ少なくて
渋谷の谷底に向かってスムーズに歩けます。
有名なスクランブル交差点も人をよける必要もなく、スムーズに
歩くことが出来ます。 
東京オリンピックを前に、渋谷近辺は開発ラッシュと成り、
駅周辺は高層ビルが次々に立ち並び、ビルの上にはクレーンが
乱立しています。

建設現場の喧騒を後にして西に足を進めると、渋谷川の周辺は
かつての汚れた街並みから、夜になると沢山の電飾がぶら下がり
川の上にすだれの様に光が連なり、また新たなる観光コースと
成っています。
15分程山手線の脇の道を歩くと次は恵比寿の町並みが見えて来ます。
恵比寿は住みたい街の上位にいつも挙げられる素敵な所ですが、
東京の街は、ほんの少し目を離しているとあっという間に変わって
しまいます。

ガーデンプレスへの坂道を登って行くと、行きつく先に、まるで
ディズニーランドの様な華やかさです。
中央のメインストリートを下った所には、バカラ製のクリスタル
ガラスで作られた巨大な釣り鐘が輝き、夜ともなるとその美しさに
沢山の恋人たちのデートスポットと成っています。

ガーデンプレイスを後にしてしばらく歩くと、目黒駅に出ます。
駅前を迂回する道がないため、そのまま突き進むと、早朝から
溢れるように人が駅から出てきます。
よけながら進むと、長い坂道が現れ、その先は五反田駅です。
五分程坂道を下って左折すると目黒川に行き着きます。
見慣れた遊歩道をゆっくりと10分程上ると我が家が見えてきます。

人が溢れる東京と言えど、早朝に歩けば自由に至る所を歩けます。
しかし、どんなに華やかそうに見えても、やはり虚構の世界。
次々に新しい建築物が生まれる一方、あっという間に見慣れた光景が
消えて行きます。華やかな夜の繁華街も、早朝に歩けば、本当の姿が
現実を教えます。
豊かで華やかな世界は、その一方で、破壊と消費を繰り返し、
今や、人類の未来を危ぶむ事態と成っています。

私たちの生活も、今まで大丈夫だったからこれからも同じように
暮らしていけるとは限りません。世の中が変わってしまうかも知れず
家族や友が病に伏してしまうかも、と言う自分すらどうなるか解らない
そんな時代に生きているのです。

そんな時、自分の心を落ち着かせ未来を見据えて生きて行くためには、
常に虚構の世界の中に真実を見つける努力をして行く事です。
人間関係に於いては、弱い人の心が作り出す虚の部分から本音を見出し
自らも己に偽りのない心を育てる事が大切の様に思えます。

今や日本人は、あらゆる方法で経済的に豊かになる方法を見出しました。
しかし、長い間失われて来た、人と人との絆と信頼を取り戻す時代に
成ってきたと言えます。
単なる利益を求める時代から、心の豊かさと幸せを生み出す社会を
作り出す時代へと変って行く事が大切と思えます。

経済的利益を生む出すために人々が日々苦しむ時代は過去のものといえます。
これからは、誰もが、己の尺度で、幸せを作り出していく時代です。
自分とは違う他人の気持ちを理解できる社会こそ、本当の幸せを感じられる
国民全員が理想とする新たなる日本を生むと思われます。

 


最後の日に、人と物の終焉を見る

2018-12-26 16:29:21 | 日本人

一昨日、仕事に出かける時、バス停の近くのマンションから救急隊が
一人の老人をキャスターに乗せ、蘇生処置をしながら救急車に乗り込むのを
目の当たりにしました。見るからに命が失われんとしている緊急事態であり
私達は言葉を失ってしまいました。

クリスマスイブは、私達が31年間に渡って続けて来た仕事を辞める
最後の日であり、早朝からその準備で大忙しでした。
私達夫婦は、社交ダンサーであり、長きに渡って教室経営を行って来ました。
しかしながら、遂に辞める日がやって来たのです。
アマチュアの頃からすると40年近くも携わって来たダンスは、私達の生活の
全てと言ってもよく、競技会に明け暮れた頃から、子供達が成人し更には
社会人として独立するまで、あっと言う間の日々でした。

血気盛んな若い頃から、競技会を引退して教室運営に専念する日々を送るも
遂にこの日がやって来ました。
私達と同じく教室も老朽化し、何処を見ても昭和の臭いが残っています。
最後のクリスマスパーティと有って、夕方から、かつてレッスンした生徒から
最近の生徒まで、部屋が一杯になる程の盛況でした。

夕方から始まったパーティは、クリスマスソングが多く掛る中で、
多くの方がダンス音楽に乗せて、部屋を巡ります。
数十年ぶりにお会いする方と踊ると、あの頃が思い浮かびます。
生徒を数人デモンストレーションダンスで踊らせた後、恒例の抽選会が有り
食事をしたり飲み物を口にしたりと、誰もが、まるで同窓会の会場の様に、
思い出話で盛り上がります。

そして、パーティも終わりと成る頃、私達がプロとして最後の踊りを踊りました。
かつて保育園児としてフロアーを駆け巡っていた息子は、会を取り仕切り、娘は
プロのカメラマンとして記録を残します。
踊りながら懐かしい面々の顔に光るものが流れるのが目に映ります。
妻が、必至に耐えながら最後の踊りを踊っているのが伝わって来ます。
3曲踊り終えたところで、終わりを告げるきよしこの夜が名が得る中
皆様に感謝の御挨拶をしながらフロアーを去ろうとしている時、突然
思いもしない事が起こりました。

真正面で見ていたパーティにはいつもいらっしゃるご婦人が倒れました。
フロアーは騒然となり、たまたま居た看護師の方と救急医療が出来る方が
直ぐに対処し、救急車を呼ぶ事態と成りました。
大声援で終わる時、突然のアクシデントです。
誰もが笑顔から不安の表情に変わり、そのまま、閉会と成りました。
幸い、その方は、病院に運ばれて元気を取り戻し、検査の結果も大丈夫で
そのまま自宅に帰られたと聞かされホット胸をなでおろしました。

この日、朝から同じような光景を見ているので、教室に出かける間も
今日は、お客様も多く出席される事だし、何が起こるか解らないと
冗談半分で言っていたことが現実と成ったのです。
しかし、一日のはじめと終わりに二つの人間ドラマを目の当たりにして
私達は、決して何事もなく一生を終えることなく、時に、生死をさまよう
事態に見舞われることが有るのです。

若い頃や幼い頃に人間の生死にかかわる事に出くわすと、トラウマに成って
何年も苦しめられることがあるのですが、年を重ねてくると、自らの
末期を感じている事からか、会場に多く集まった高齢者たちからは
恐怖と言うより、わが身に置き換えている様で、心配をする反面
自分自身の可能性をかみしめている様でした。

人生の終盤を迎えた人たちの誰もが抱えている不安が、同じ仲間の
不幸によってよみがえる、同じ光景に出くわした時に若者が感じる
異世界の恐怖とは違っているのです。
まるで死刑執行を間近に控えた死刑囚達が、それまで一緒にいた仲間が
急に死刑執行をされたかのような息が詰まるような状況です。

しかし、こんな時、人の運命を素直に受け入れられないのが現在の
日本の中高年です、なぜなら、長い人生の歴史の中で、常に人と競い
上を目指すことは有っても、同じように生きる世代の事を考える事は
無かったのです。同じ世代のアクシデントに直面しても、自分とは
関係ない事としたいものの、人生の週末を迎えるようになって
少なからず、自分の事と重ね合わせるのです。

この事は、少なからず、今の日本の中高年は、経済的に豊かであっても
生きる上で、対人的に孤立をして居る事を示しています。
人間は生死をまじかにしている時、多くの人達に見守られている事で
安心して死んで行けるのです。
普段の生活に於いても、お互いに助け合って生きて行けるのが理想で
有るだけでなく、人の生き死に於いても、信頼於ける人達に囲まれて
居たいと思うのが人の常なのです。

所が、多くの日本人が、人生の後半になっても、いぜん孤立をしていて
人に守られていたいと思うものの、他人と関わらないと言う生き方が
日本人を戸惑わせ、何時まで経っても安心の人生を歩めなくして
いるのです
この事は、身近な人の死に至るかもと思われる事態を目の当たりにしても
如何に振舞ったら良いのか、ただ、呆然と立ち尽くすだけなのです。

自分の運命を知識で知っていても、他人との関わり合いで感じていない
という本来の人間関係を育ててこなかった事ゆえの戸惑いと不安が
多くの経験を重ねた方々にもついて回るのです。
つまり、同世代のみならず、若い人達の間にも入っていくことが出来ず
不安を解消できる人間関係を育ててこなかった故の悩みなのです。

文明の発展と共に、より豊かな生活が出来るようになったと言いながら
対人関係はより一層希薄じなものと成って、人々の心を苦しめるのです。
豊かな人生を送るにはいかなる生き方をすれば良いのか解っている
にもかかわらず、現実の生き方は、自分の意図しているものでは
無いのです。

日本人は、物心ついた時から、経済的に豊かになる術を身に付け
消費経済社会を生きる為の教育を受けてきた事に因り、対人的な
やり取りや感情の表し方に自信が持てず、常に誰かの真似をして
自分の心の不安を無くそうとする傾向が有るのです。
しかし、この不安解消が、経済的豊かさをもって安心としたため
何時まで経っても本当の自分が感じられず、苦しみ続けるのです。

消費経済社会と言うのは、国民を幸せにすると言うのは建前であり
大量の労働者を確保して、一部の豊かな人達をより豊かにする社会と言え
本当に国民の為を思っているならば、これ程にも長く国民が苦しみから
逃れられないはずは有りません。
この最も卑劣な方法が戦争と言え、明治以降幾度となく諸外国と大戦を
行って来たのも、決して国民が望んだ事ではなく、より膨大なる利益を
求めた一部の人達の暴走に過ぎません。

今日は、朝から私物を片付ける為に教室で奮闘しています。
30年以上多くの生徒が踊って来た教室は、次第に単なる殺風景な
ビルの一室に代わって行きます。
沢山の人々の人生が交錯し、様々なドラマが生まれた空間は、
数日もすれば、人気のない冷たい空間と成ります。

しかしながら、二日掛けても私物がなかなか減りません。
数日後に控えた業者の改装工事までに、全ての私物を持ち出さねば
ならないのに、30年の思い出が多すぎます。
涙を呑んで、思い出の品の殆どを断捨離です。
あれ程大切に使っていたものが、今では、単なるゴミの一部です。
要らなく成れば棄てるのが日本社会のルールであり、そうやって
新たなる便利な物を手に入れて来たのですが、個人の持ち物でさえ
しかも、一般家屋ではなく、スタジオの荷物で有っても、その量は
膨大であり、如何に我々日本人は多くの資源を消費して来たかが
解ります。

日本社会に於いて、この使い捨てが思うが儘に出来る大量消費者が
この国を支配して来たと思うと、地球資源が無くなって行くだけでなく
人間関係も殺伐とならざるを得ない様に思えてしまいます。
日本社会には、もったいない、と言う言葉があり、消費生活を
行いながらも、物を大切にする習慣が有りました。

この背景には、日本人が豊かな自然に生かされ、常に感謝の気持ちで
自然を大切に、そして人との関わり合いを大切にして来た歴史があり
日本人の豊かな感性は、そんな些細な物に対する思いから育って
来たのです。

しかしながら、フロアーに広がる大量のゴミや廃棄物を見ると、
如何に自分達も、多くの物を無駄に消費して来た事が解ります。
ただ、救いと言えば、沢山の人達と関わり合いを持ち、家族の様に
お付き合いが出来た事です。

昔の人達の様に、自然に対して、十分に感謝の気持ちを伝えきれず、
具体的に行動に移せなかった事が心残りです。
都会にいれば、お金を出せば何でも手に入るのですが、その手に入れた
数々の便利グッズや美味しい食品が、大自然の糧や資源から生まれていて
どれ程我々にとって大切で有るか、実感する事無く、ただ便利さだけで
人生を送って来た事が、日本人の一人として、気にかかかるものと言えます。

今や世界中が異常気象も有って、食糧危機と成りつつあります。
発展途上国だけでなく、経済発展を遂げた大国ですら、近い将来の
資源と食料資源に危機感を抱いています。
とは言え、今の政府は、世界的な危機感を国民に伝えず、常に経済性を
求める事で危機を乗り越えようとしています。

この事は、もし、日本が食糧危機に見舞われても、生活に余裕が有る
豊かな生活をしている人には問題が無いとする考えがあり、結局は
多くの国民が苦しむ事と成るのです。
先を考えず、資源と食料を使い尽くす社会を創り上げて来た結果と言え
これまでの様に、戦争をしたり、他国から大量輸入すると言う事では
全く解決の余地はないのです。

自分自身の生活を振り返っても、如何に多くの無駄を行い、必要でない物を
多く買い求め消費し続けて来ました。
私達の代はともかく、今の子供達が大人に成る事には、明かに日本は窮地に
立たされると言えます。
ある意味、私達は、生活を一変させる事でこの事実を知らされました。
日本人が、如何に過去100年程の間に、地球に対して無駄な消費を行い
多くの自然を傷つけ、国民同士で争いの種を生んできたか、いまこそ
考え直さなければならない、最後のチャンスの様に思えます。