めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

超大型台風がやって来る!

2019-10-12 16:17:45 | 東京

いまや超大型台風が関東を目指して北上しています。
昼の明るい内から庭にある飛散すると危険な様々な物を片付け
道路に通じる扉に浸水を考えてバリケードを築きました。
まだ遠い海上に在ると言うのに、時折吹き付ける風は傘をさす事も
儘ならず、殆どびしょ濡れの状態での作業でした。
十数年前、梅雨時の大雨で床上浸水の経験があり、今回はその時以上の
悪い事態も予想され、いつになく緊張感が漂います。

目の前を流れる目黒川は次第に水位を増して、つい先ごろ避難を促す
スピーカーの声が流れました。
浸水が懸念される降水量の倍が予想され、殆ど間違いなくその時が
やって来ると思われると、妻や娘の不安は高まる一方です。
私の場合は、遠い昔危機一髪で家族全滅を免れた伊勢湾台風の記憶があり
差ほど不安と成る事もない一方、あの時と同じく油断していると
とんでもない事になる事を知っているので、明日になるまで決して
油断は出来ません。
外は時折横殴りの大粒の雨が降って傘も差せない様な風が吹いて来るものの
至って静かであり、本当にこれまで経験したことの無い様な台風が直撃
して来るとは思えません。

伊勢湾台風で甚大なる被害を被った時も、誰もがそれ程大きな被害となるとは
思っても居ませんでした。
あの時は九月の下旬であり、秋の気配が漂っていた頃であり、晴れた日は
秋晴れの真っ青の空の下は黄金色の稲の穂が豊作を期待させていました。
大潮で満潮と重なっていた時も今回と同じであり、夕方暗く成る頃から
猛烈な風と雨が古い田舎の家をきしませていました。

台風が通り過ぎた午後10時頃、辺りが静かになった事も有って、
皆座敷で就寝する事と成りました。
母屋の裏の風下になる平屋の大部屋に近所から避難して来た親戚と共に
2家族が部屋いっぱいに布団を敷き、子供達は明日にまた遊べるからと
早く寝る事を促されました。

寝る前に私と父は手を繋ぎ、母屋までの長い廊下を静かに歩きます。
既に寝ている者達を起こさない様に玄関に置いてある踏み台の上の
百目ロウソクの火を消しに行くのです。
100年以上になる我が家は至る所が老朽化していて、そっと歩いても
廊下の至る所からきしむ音が聞こえます。
玄関に来ると大きなロウソクが半分ほど溶けていましたが、まだ明るく
縁先を照らしています。

ロウソクの火を消そうとしたとその時、父が大声で叫びました。
堤防が切れた!!
自分の下駄が黒い水に浮いてぐるぐる回っています。
玄関の隙間から縦に水が流れ込んでいます。
急いで廊下を走り奥の部屋へ飛び込み、寝ている全員を
叩き起こし階段まで走ります。
廊下のきしむ音や雨戸が押さ膨らみ畳が浮き始める中
何とか全員が二階まで駆け上がると、雨戸が破れ
真っ黒な水が流れ込んできました。

ほんの一分ほどでしょうか、天井ぎりぎりまで
黒い水が押し寄せ、誰もが最後を覚悟しました。
二階に挙げたのは、翌日の為に準備していた電気釜一つ
でした。
全員腰ひもや縄で縛り、流されてもバラバラにならない様に
固まって手を合わせました。

窓の外は漆黒の闇で後30センチほどで自分達の所まで
水が到達しそうな勢いです。
懐中電灯で照らそうも目の前の家はすでになく、まるで
川の中に家が建っている様です。
窓の外に向かって助けを求めようも、流れる川の音しか
聴こえません。

しばらくすると、何処からか助けを求める声がします。
急に目の前に大きな影が現れると、それは屋根の部分で
何人もの人が摑まっています。
助ける事も出来ず下流へ流され屋根が突然水の中に
引き込まれて行きました。

屋根に摑まっている人達がパラパラ落ちて行く様は
今でも思い出されます。
翌日は快晴で抜ける様な青空、何機もの自衛隊のヘリが
周囲を飛んでいるのが見えました。
しかし、それから一か月、地獄の日々が続いたのです。

今でこそそれ程の大災害は起こらないと思いますが、
近年想定外の事が当たり前に起こります。
今回の台風がどれ程の被害をもたらすか、明日に成って
状況が解るにつれてまた悲しいニュースに心が痛むと
思われます。
近年、日本は災害列島とも言える程全国規模で災害が
頻発しています。
傷がいえない内に更なる災害に見舞われている地域も多く
日本国民誰もが被災者と成る可能性も高く成っています。

現在、妻と娘はバッグに最低限の生活必需品を詰め込んで
避難の準備をしています。
その時は刻々と近づいています。
願わくは、何のトラブルも無く被害を受ける事無く
明日が迎えられる事を願わずにいられません。
妻たちが避難した後、出来るだけ家の中を片付けて
避難するつもりです。
庭の入り口と玄関に水止めの土嚢をつくったものの
実際に防げるかは自信がありません。
身の危険を感じる前に避難する様にこれから準備します。

 

 

 

 

 


人類の幸せも地球の未来も、ほんの限られた人達によって決まる

2019-09-26 15:50:27 | 東京

私達は誰しも、自分自身の考えで毎日を生きていると思っていますが、
自分の行動も考えも全て誰かの考えによって左右されているのです。
人類が地球の支配者と成って全ての生き物達の頂点に立っていると
言われていますが、実際に頂点に立っているのはほんの一部のごく
限られた人達なのです。
そして、その他の絶対多数の人間は、彼らの考える社会の一部と成って
何をするにしても思い通り動かされていると言っても過言では有りません。
20世紀になって、世界的な民主活動が高まり、人類は平等であると言う
考えが広がりましたが、自分の考える様に自由に行動が出来る社会となった
とは言え、自由と思って生活をしていても、社会で生きる事は常に誰かに
管理し続けられるという事なのです。

この世の中は権力を有するごく一部の人達の我儘によって成り立っていて
多くの人達に様々な権限を持たせると言っても、その背景には必ず
支配者たちの利益と成るシステムが組み込まれているのです。
最新のファッションを纏って都会の街を闊歩する若者達も、その姿は
既に何年も前から計画されていて、最も収益が得られる様にメディアを使い
人々に公表しているに過ぎないのです。
毎年メディアに登場する最新のファッションや流行も、殆どが仕組まれた
意図的な考えのもとにごく一部の人達が考え出したものなのです。

とかくこの世は全てが社会を支配する様々な分野の人達の目論見で出来ていて
便利で豊かな暮らしと言っても、それは、人々が想像もできない程の利益を
得る為の一部の方々の策略と言えるのです。
確かに有識者で有ったり様々な分野に長けた人達が考える事は、多くの人々の
生活を豊かに便利にすると言えるのですが、提案される方法以外にも、
数知れずのもっと楽しく豊かな生活が出来る方法があるのです。
アイデアと言うのは人の数以上あるものであり、ほんの一部の人達の考えに
盲目的に従うと言う事は、大多数の人類にとって良くない事であるだけでなく
莫大なる利益を得ている人達にとっても決して良い事では無いのです。

人類の歴史を見ても、いつの世も支配者と大多数の隷属する人達で社会は成り立ち
人々の生活はほんの一部の人達の我儘によって翻弄されてきました。
支配する立場と成れば何でも思うが儘に出来ると言う事実が、歴史上何度も
世界中の人々を苦しめ、人々の欲望は、如何に支配する側になるかが夢であり
生きる事の目的であるかのように思われて来たのです。
戦争をして武力によって支配するだけでなく、日常的にも如何に他人の上に立って
権力を誇示できるかが求められ、いかなる場に於いても人々の争いは尽きる事無く
人類の歴史は人間の欲望の歴史とも言えるのです。

しかしながら、これ程までにも文明が発達し、人々の生活は究極の豊かさと便利さを
手に入れられる様に成ったにもかかわらず、いつまで経っても心が満足することなく
常に欲求不満の状態が続いているのは如何なものでしょうか。
次々に欲しいものを手に入れてもその終わりは無く、多くの物を手に入れるにつれて
益々自らの存在価値が薄れてい行く方が多く成っています。
一部の支配者層によって作られた近代国家は、人々に夢の様な生活を提供したのですが
その価値観は決して多くの人達を満足させるものではなく、より経済的に豊かな生活を
求め続ける事しか喜びを感じられない人々を多く生んでしまったのです。

今や日本人の家庭の中を覗けば、溢れんばかりの便利グッズに溢れ、人が幸せに生活
する空間と言うより、手に入れた様々な欲望の品物の置き場所と成っているのです。
手に入れた喜びは一瞬で色あせ、更なる欲望の品物を手にする事に心は移って行きます。
まさに消費経済社会を作った人々の思うが儘の生活を強いられる事と成り、消費者として
彼らを豊かにする為の一生を送る事を強いられます。
目先の喜びにしか幸せを感じない大衆は、支配者たちの思うが儘に動く打ち出の小槌であり
日々膨大なる利益が彼らの元に流れ込みます。
この仕組みは、人類の歴史に於いては、いつの時代にあっても同じ様な仕組みであり、
人間が人間を支配する構図は人類の生き方の象徴とも言えるのです。

所が、近年、我々の生活に貧富の有る無いに関わらず、人類全体にとって大きな問題が
生じている事が気になります。
例えごく一部の人達の支配であっても進化して来た人類の歴史が、今や未来を描けない様な
深刻な事態と成っているのです。
先日、国連の場で子供達が自分達の未来を愁い、涙ながらに訴えていましたが、私達が
思っている以上に地球の大自然は破壊され、この先人類の豊かな暮らしが保障されない事態が
起って来ているのです。

最も問題と言えるのは、もちろん地球温暖化が挙げられますが、この事は子供達が訴える
までもなく、解決の糸も見つけられない状態と言えます。
何故一向に問題が解決される事無く悪化の一途を辿っているかと言えば、この原因の殆どが
地球を支配する一部の富裕層によって作られているからに他なりません。
子供達の未来が保障されず、今生きている支配者的な大人たちの我儘が地球全体の生き物に
更には人類にも破滅的な危機を齎していると入れるのです。
この問題に対し、アメリカを代表とする温室効果ガスの大量放出を行っている国々は、
本当に解決する意思はなく、より経済の発展を望む発言が多くの人達の心を逆なでしています。

このままでは、明かに人類だけでなく、地球上に住むあらゆる生き物が絶滅の危機に瀕して
しまう事は否定できません。
可哀想なのは、まだ幼い子供達がこれから生きて行く将来に夢も希望も持てない事です。
国連で訴えた子供達の声は、世界中の子供達の声であり環境の悪化に晒されている多くの
人類の声と言えるのです。
最早、議論をするまでもなく事態は悪化している事を世界を支配している一部の人達は
理解し、早々に英断を下さなければ成りません。

経済的発展が滞っても、人類と地球の未来を守るために何をすべきか、考えるまでもなく
実行に移さなければ、今や全くの猶予も無いのです。
また、支配されている殆どの人類も、自分達の未来を考えるならば、消費を主体とした生活を
大きく改める必要が有るのです。
地球環境を破壊したのが人類であるならば、元に戻すのも人類でしか出来ないのです。
今現在豊かな生活を行っている人達も、本当の豊かさは何なのか、もう一度よく考えて
子供達の為にも、新たなる生き方を選択する事が必要と言えます。

 

 


浦島太郎となって

2019-03-19 09:01:20 | 東京

昨年12月、30年以上も続けて来た仕事を辞めて、
全く新しい仕事に就く事と成りました。
大学を卒業して以来、自分の好きな趣味が仕事と成り
自分自身で仕事を組み立て、自分の能力を高める事が
生活を豊かに安定させるものであったのが、多くの人が
仕事をリタイアして、残りの人生を終末に向けて
ゆっくりと歩もうとしている時に、私達夫婦は、まるで
学生が社会に放り出されたように、何も持たない状態で
再出発する事と成りました。

バブルが崩壊し、世の中が傾き始めた頃から、生活は
次第に苦しさを増し、同業者が次々に去っていく中
私達を支えてくれた方々の為にも、何とか仕事を維持し
家庭を崩壊させまいと、必至に頑張るものの、既に
世の中は大きく変わり、人々の価値観も求めるものも
大きく変わってしまいました。
不景気になるととともに、節約が当たり前の社会と成って
趣味に巨額の投資をする人達は激減し、私達の業界は
アマチュアの方の趣味の世界にとって代わられ、
多くの同業者は、いつの間にか消えて行きました。

私達も、ついに昨年の末をもって、ついに転業せざるを得ず
今や、これまで想像もした事のない、サラリーマンと成って
連日ラッシュアワーに翻弄されています。
妻は、主婦として一般社会の人達と繋がりのあった事から
何の抵抗も無く、新たなる仕事に馴染んで行けたものの
私は、自分の仕事にしか心が向いていなかったことも有って
現実の社会は知らない事ばかり、余りの酷さに、子供たちは
私を浦島太郎と呼びます。
何しろ、今年になって、初めての役所、銀行、会社勤めであり
タイムカードも初めて、コンビニのコピーは、今だ未知の世界と
一般社会の方々からすれば、まるで信じられない浦島太郎です。

数十年前に大学を卒業して以来、別世界にタイムスリップして
していたみたいで、何もかもが新しいことだらけです。
もちろん、普段から、外出することは好きで、休日には
東京都内を歩き回る事は普通であり、普通の都民よりも
東京については知っているつもりですが、その東京を作っている
社会システムについては、全くの無知であったのを実感する事
と成ったのです。

還暦を過ぎてから初めて区役所に行った人や銀行に行った人は
本当にまれであり、まさに過去から現在にやってきたかのようです。
もちろん、社会と隔絶して生きて来たのではなく、普通の都民として
時代と共に生活をして来たのですが、それは、単なる消費者として
社会の生産性のある仕事に関わって来たとは言えません。
仕事は、社会生活を営む人達が、憩いを求めて、自分の為に楽しむ
のを手伝う様な、いわゆるサービス業なのですが、来る人を待っていて
自らが様々な職業の方と関わって行かなかったことも有り、現実に
流れている世間の業務には、本当に無頓着であったと言えます。

とは言え、生きて行くためには、連日のラッシュアワーの荒波を
乗り越えて行かなければなりません。
これ程もの苦行を、文句も言わずじっと耐えている人々に、思わず
心から頭を下げたくなりました。
いわゆる自由業であり、しかも自分で仕事を創るような、極めて
個人的な道楽の延長のような仕事を何十年もしてきたことから
社会とは隔絶した世界で生きて来たようです。

まさに、過去から現代にタイムスリップしたかのように、
ラッシュアワーで身体を押し合いながらじっと耐える人たちを
見るにつけて、まるで異国の地で働いているかのような
錯覚に陥ってしまいます。
それにしても、東京のサラリーマンのすざまじいこと、私が
乗り換える東京の大手町の地下街は、まるでスーツを着た人達の
運動会の様です。途切れる事のない人の波は、決して逆行は
出来ないと悟る程の強い流れで、誰もが、自分の職場に向かって
歩いているとは言え、見た目、地上ののんびりとした闊歩ではなく
いわゆる競歩と言った風情です。

早朝のラッシュ時は、それこそ一分間隔で電車が走っていて、
一本発車したと思ったら、すぐに新たなる車両が滑り込み、
溢れんばかりのサラリーマンが入り乱れ列車とホームを行き来します。
扉の窓に押し付けられた変形した顔は、私がこれまで経験した事の無い
自分の意志ではどうにもならないサラリーマンの日常を示しています。
しかしながら、たった一か月程で閉口しているのに、何年も何十年も
この驚異の時間帯を連日繰り返していれば、どんなに苦しくとも
いつの間にか何の不満も疑問もなくなってくるのです。

日本社会が世界経済に君臨できるのは、彼らがいてこそと思われ、
東京の地下にこれ程もの人達がうごめいているとは思いもよらず、
あらためて勤勉な日本人の凄さに驚嘆しました。
確かに全国には、同じようなサラリーマンが無数存在するのですが
彼らの努力が日本経済を支え、日本を世界の経済大国に押し上げ
戦後長足の進歩を生んだと言えるのですが、果たして、この努力が
本当にサラリーマンの幸せにつながっているかと言えば、疑問です。

もちろん、経済大国として、世界的に見ても豊かな生活が出来ている
ともいえるのですが、経済的に豊かに成ったからと言って、日本人が
心から幸せと思っているとは言えないのです。
日本人は、昔から勤勉で努力家であり、終戦後の何もなかった国土が
現代の世界でもトップクラスの先進国になったのもうなずけるのですが
比較競争社会は、片時も国民の心を満足させることなく、経済的豊かさが
人の幸せとした日本社会の価値観が、常に人々の心を苦しめているのです。

どんなに豊かな生活をしていても、現実に満足しない事で、経済的には
需要が高まり社会の発展に繋がるのですが、現実に満足できない日本人は
人と争い自身の生活に確信を持てない事からいつまで経っても、本当の
喜びは得られないのです。
学校教育も、子供たちに高度で豊かな学力を身に付けるという口実の下
現実は将来の企業戦士を育て、経済大国を維持するための策と言えます。

戦後高度成長の頃から、日本人は、まじめで努力家な性格を上手く利用し
日本経済界は、日本人を確実に結果をもたらす労働者として、子供の頃から
お互いに競わせ、経済的に豊かな生活をすることが幸せに成る事と洗脳し
どんなに豊かな生活をしていても満足できない国民にしてしまったのです。
毎日、膨大な数のサラリーマンが仕事に向かいますが、彼らは、自分の
生活を豊かにするとするも、実際は、この社会を動かしている方々の
豊かな生活をより豊かにするために働いていると言えるのです。

 

 

 

 


渋谷ウォーキング

2018-12-27 11:20:17 | 東京

いつもの様に早朝に目が覚めると、眠い目をこすりながら
目黒河畔を歩き始めます。
30年前には、水面近くまで土手になっていて、春に成れば
菜の花や土筆が一斉に芽生えてきたものです。
しかしながら、月日の移り変わりは、そんな自然を一変し
今や、広々とした遊歩道とコンクリートの護岸で固められた
何処にでもあるような光景になってしまいました。

30分程歩き、少し丘を登るとそこは西郷山公園です。
かつて西郷隆盛の弟が作った美しい日本庭園の上に作られた
見晴らしのいい公園です。
西に開けた高台は、遥か彼方に箱根山を前景とした富士山が
白い雪を被って輝いています。
早朝は、近所の高齢者が多く集まりラジオ体操や太極拳に
興じていますが、普段は、殆ど人が訪れない、最高の見晴らしの
富士山展望台と成っています。

西郷山公園を過ぎてしばらく歩くと、渋谷へ続く幹線道路となり
急に人通りが多くなります。しかし、早朝は、まだ少なくて
渋谷の谷底に向かってスムーズに歩けます。
有名なスクランブル交差点も人をよける必要もなく、スムーズに
歩くことが出来ます。 
東京オリンピックを前に、渋谷近辺は開発ラッシュと成り、
駅周辺は高層ビルが次々に立ち並び、ビルの上にはクレーンが
乱立しています。

建設現場の喧騒を後にして西に足を進めると、渋谷川の周辺は
かつての汚れた街並みから、夜になると沢山の電飾がぶら下がり
川の上にすだれの様に光が連なり、また新たなる観光コースと
成っています。
15分程山手線の脇の道を歩くと次は恵比寿の町並みが見えて来ます。
恵比寿は住みたい街の上位にいつも挙げられる素敵な所ですが、
東京の街は、ほんの少し目を離しているとあっという間に変わって
しまいます。

ガーデンプレスへの坂道を登って行くと、行きつく先に、まるで
ディズニーランドの様な華やかさです。
中央のメインストリートを下った所には、バカラ製のクリスタル
ガラスで作られた巨大な釣り鐘が輝き、夜ともなるとその美しさに
沢山の恋人たちのデートスポットと成っています。

ガーデンプレイスを後にしてしばらく歩くと、目黒駅に出ます。
駅前を迂回する道がないため、そのまま突き進むと、早朝から
溢れるように人が駅から出てきます。
よけながら進むと、長い坂道が現れ、その先は五反田駅です。
五分程坂道を下って左折すると目黒川に行き着きます。
見慣れた遊歩道をゆっくりと10分程上ると我が家が見えてきます。

人が溢れる東京と言えど、早朝に歩けば自由に至る所を歩けます。
しかし、どんなに華やかそうに見えても、やはり虚構の世界。
次々に新しい建築物が生まれる一方、あっという間に見慣れた光景が
消えて行きます。華やかな夜の繁華街も、早朝に歩けば、本当の姿が
現実を教えます。
豊かで華やかな世界は、その一方で、破壊と消費を繰り返し、
今や、人類の未来を危ぶむ事態と成っています。

私たちの生活も、今まで大丈夫だったからこれからも同じように
暮らしていけるとは限りません。世の中が変わってしまうかも知れず
家族や友が病に伏してしまうかも、と言う自分すらどうなるか解らない
そんな時代に生きているのです。

そんな時、自分の心を落ち着かせ未来を見据えて生きて行くためには、
常に虚構の世界の中に真実を見つける努力をして行く事です。
人間関係に於いては、弱い人の心が作り出す虚の部分から本音を見出し
自らも己に偽りのない心を育てる事が大切の様に思えます。

今や日本人は、あらゆる方法で経済的に豊かになる方法を見出しました。
しかし、長い間失われて来た、人と人との絆と信頼を取り戻す時代に
成ってきたと言えます。
単なる利益を求める時代から、心の豊かさと幸せを生み出す社会を
作り出す時代へと変って行く事が大切と思えます。

経済的利益を生む出すために人々が日々苦しむ時代は過去のものといえます。
これからは、誰もが、己の尺度で、幸せを作り出していく時代です。
自分とは違う他人の気持ちを理解できる社会こそ、本当の幸せを感じられる
国民全員が理想とする新たなる日本を生むと思われます。

 


本当の喜びの日々を求めて

2018-12-09 13:37:56 | 東京

私達は、生き物として、常に、自分の身体にとって
気持ちの良いものを求めます。
より便利で豊かな暮らしを求めて、出来る事なら
苦しみ悲しみ痛みからは逃れたいものであり、
喜びの中で生活したいと思うものです。

その為、世の中は、目につくもの触れるものは、全て
喜びや快感を得る様に作られています。
街の美しい風景も、レストランの食事もお酒も、目に付く物
触れる物が全て不快感を与えない様に出来ているのが社会であり
私達人類の世界と言えます。

しかし、現実は、その全く反対の事が常に起こり、その最たるものは
世界中のどこかで毎日行われている戦争です。
素晴らしい文明社会が在る一方、破壊と殺戮が繰り広げられれる事は
私達にとって、この世の中が決して自分達の思い通りに動いていない
という事を示しているのです。

とはいっても、私達は、この二面性を持った世界に生きていながら、
常に快楽と言う方向に顔を向け、その一方の苦痛のある世界には
関心を抱きません。
それは、当然ともいえる事であり、私達は、感情の動物である事から
精神的肉体的な苦痛は、我々の生命活動を危うくする可能性があるのです。
原生動物の頃から、生き物は、自分の生命に危機を与えるものからは
反射的に逃れる様に生きて来ました。
その為、生き物の頂点とも言える人間に進化してからも、この生き物の
特性から逃れる事は出来ず、より安全で快楽の方向を目指すのです。

しかしながら、この人間の性質を利用する事で発展して来た人間社会は
ややもするとその裏に潜む、様々な危険や苦痛を見逃してしまい、
快楽に呆けている間に、自らの心と身体を蝕んでしまう事も多いのです。
メディアで多く流される幸せで豊かな情報は、人々の好みを利用して
多くの利益をもくろんでいるのであって、その多くが、幸せや喜びを
誇張したものであり、そのまま受け入れると、後で酷い目に遭う事も
少なくないのです。

便利で豊かな生活を目指したことで、日本社会は、美しい自然と美しい心の
日本人を失い、人工物で作られた砂上の楼閣と、人を経済性でしか
判断できない、我欲に満ちた日本人を多くしてしまいました。
少しでも他人より豊かな生活を行い、より欲しい物を多く手に出来る事を
幸せと考え、更には、経済的豊かさを人の価値の様に考える様に成って、
多くの人達が、外見で自分を判断されると言う、いつも、不愉快と言うか
自分自身の価値を認められない不安に満ちた生活を強いられる事と成ったのです。

一億総役者と言うか、今や、日本人は、本心を出す事をためらい、常に
周囲の目を気にしながら、孤立しない様に、自分の考えを巧みに言い換える事で
被害者にも加害者にもならず、自らを守る事に専念する生き方と成ったのです。
本当の自分を出す事を恐れ、消費経済社会の価値である、外見的な姿をもって
世の中での存在確認としたのです。
しかし、この価値観は、常に社会の動向によって変化してしまう為、片時も
気が休まる時が有りません。
如何に周囲に気に入られ、少しでも多くの利益を生むかが生涯の目的と成って
しまう事で、益々、個としての価値は薄れ、単なる消費経済社会の歯車としての
存在と成ってしまうのです。

大自然の生き物達が、食物連鎖によって其々が生かされ合っている様に
私達日本人は、お互いに助け合い生かし合う事で、日本人の素晴らしい感性と
人間性を育てて来たのですが、高度成長によって自然が破壊された様に、
人々の心の価値観が経済性に置き換わる事に依り、日本人としての心が失われ
多くの国民が心の拠り所を見失っていると言えるのです。
どんなに豊かな生活をしても、私たち日本人のDNAは、満足できないのです。
四季折々の自然の変化を繊細に感じ、そこに生きる動物達を五感で感じるセンスは
世界でも稀な人種なのです。

例え、経済的に豊かに成ったとしても、心が満たされない日本人が多くいる事実は
私たち日本人の魂が心の底から叫んでいるとも言えるのです。
西洋人が騒音にしか聞こえない虫の音も、うるささとしか感じない渓のせせらぎも
日本人には、心地よい詩に聞こえるのです。
あらゆる物に対して、日本人は、そのものの存在価値と素晴らしさを感じ取る事で
大自然とも共存出来て来たのです。

欧米人が、人間の為にだけ利用すると言う自然を、日本人は、心の拠り所と考え
人間と同等と言うより神の様な存在として敬って来たのです。
その気持ちが日本人の心の在る限り、この経済優先社会で満足できる日本人は
いないと言えるのです。
一方、見た目で直ぐに影響を受ける日本人は、便利で豊かな消費経済社会を簡単に
自分の生き方として受け入れてしまった事で、本当の生き甲斐を見失ってしまった
と言えるのです。
一体我々日本人は、何を幸せとして生きて来たのか、もう一度考え直す事が
とても重要と言えます。

家中を満たす便利で豊かな消費物資は、常に捨てられ新たに買い求められるも、
その豊かさは、決して本人の豊かさでも人間的な価値でもないのです。
素晴らしい経済的に価値のある品々が、持ち主の価値を上げる事は無いのです。
しかし、それらを人の価値として見ている多くの人達がいる事から、あたかも
自分の価値が上がったかのように錯覚している人がとても多いのです。
お互いに持ち物自慢をし、その価値観で対人関係を築こうとしている事に無理があり
蔑ろにされた心を傷つけたり傷つけられたりしやすくなっているのです。
人の気持ちが解らず、外見で判断する事で、様々なトラブルが多くなっているのです。

今や、日本は、大人から子供まで、いかに社会的価値を身に付けるかで日々の生活が
成り立っていると言っても過言では有りません。
子供は学校の成績を、大人は少しでも社会的地位を上げて利益を上げる事に専念し
少しでも己の社会的価値を上げようとします。
常に他人から批判されないよう、社会から認められるよう、たとえ自分の本意とは
言えなくとも、利益を得るために必至に頑張らなければならないのが現状です。

しかし、社会全体の要望が人々の経済的価値であるならば、致し方ないと言え
自分自身の本当の気持ちが社会で認められなければ、自分がこの世に存在する
意味も価値も無くなってしまうのです。
この事は、社会的地位のある人も、日々の暮らしに苦しむ人たちであっても
同じであり、立場は違っていても同じ苦しみを持っているのです。
違いと言えば、社会的地位や経済性によって、その気持ちを紛らわせて
いるにすぎないのです。

例え100年に渡って消費経済社会が続いてきたと言っても、数千年に渡って
築かれてきた日本人の心は失われるものでは有りません。
自然と共に生き、人との和を大切にして生きて来た日本人は、心の底に
日本人の心が息づいているのです。

ところが、小さい頃から自分自身の心を育てる事と、他人の心を大切に
することを忘れてしまった日本人は、お互いに相手の気持ちが解らず
常にトラブルを起こさない様に、被害者にも加害者にもならない様
必要以上の緊張でストレスをため込むようになったのです。

相手の気持ちが解らない事から、身勝手な考えでハラスメントを起こしたり
相手の心を無視したりして、心を傷つけたりすることが多くなったのです。
何でも手に入る社会となったのに、自分自身の心が満足できない事で
何時まで経っても心が晴れないのです。

今日も、日が暮れるにつれ街の明かりが華やかさを増しています。
以前のハロウィンの様に、クリスマスが近づくにつれ、何処の街角も
色鮮やかな電飾が光り輝いています。
商店に街路樹に彩られた電飾は、寒さも忘れる程心豊かにしてくれます。
街行く人たちは、誰もが、まるでお祭りにでも来たかのように見入って
います。溢れるばかりの人の波がスクランブル交差点を渡っていきます。

本当に豊かな国であると思いますが、早朝、同じ場所を通れば
沢山のサラリーマンの行き交う中で、光を失ったオブジェや
街路樹に絡まった電飾がまるで鉄条網の様に不気味です。

華やかさや豊かさを演出するものの、実態は実に地味であり
誰もが感動するものではないのです。
私達も、表向きは元気でハツラツな姿を見せようとしますが
わが身を振り返れば、誰もが孤独であり、不安が隠せない
毎日を送っていると言えるのです。
本当の幸せとか豊かさは、現実の自分を見つめなおした時
感ずるものと言えます。

今の日本人は、顔で笑って心で泣いている様です。
テレビも豊かで楽しい社会ばかり発信しています。
国民の豊かさを願ってと言うより、番組を創り上げている
豊かな人達をより豊かにするものです。
まさに消費者として位置づけられた国民の多くは、外見の豊かさで
自らの心を慰めるしかないのです。
本当に日本が豊かな国となる為には、いったい誰の為の経済かを
改めて考え直すことが重要と言えるのです。