めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

トランプの目論見と日本の未来

2017-01-31 14:42:07 | 日本人

私たち人間社会は、集団で物事を進めて行く事から、
全体が上手く目的を達成する為に、全体をまとめ
正しい方向に導いていくリーダーが必要です。
その為に、多くの人々の意志を反映してくれる人材を
選び出し、彼らにその夢を託しているのです。

民主主義社会は、基本的に、民意が反映された政治が
成される事が大切で有り、大衆の思いが生かされないと
新たに選挙を行い、より優れたリーダーを選ぶことが
重要となって来ます。

世界に於いて、民主主義国家と言われる国は、国内のみならず
諸外国に対しても、多くの意見を取り入れ、国際的にも、
人々の意見を充分に取り入れた政治が行われる事が
多くの人々の生活と安全を守るとしています。

しかしながら、民主主義の総本山ともいえるアメリカ社会が
選んだリーダーは、民主主義というよりは、独裁主義とも言える
聴く耳を持たない政治を行っています。
彼を選んだ多くのアメリカ国民にしても、国内外に敵を持ったり
多くの争いを生む可能性が高い政治を望んでいるとは思えません。

これまでのアメリカが、多くの問題を抱え、解決する事に
長い時間を要して来たのは、民主主義国家の基本を守り、
国民の意見を多く取り入れ、諸外国の考えを受け入れて来た為
でもあり、決して何もしてこなかった訳ではないのです。

この事は、民主主義が間違っていると言うのではなく、
民主主義国家を継続していく過程で、多くの生活格差、
社会格差が生まれた事に依り、一部の人のみが潤う社会が
アメリカに生じたことに原因が有るのです。
多くの難民や諸外国の労働者を受け入れ、経済的に莫大な
利益を得たのは富裕層であり、海外の労働者によって
アメリカ国民の仕事が減ったというのは、アメリカが行った
経済性政策に依るのです。

安い賃金で雇える労働者を国外から大量に受け入れたのは、
大手企業が優先的に行って来た事業展開であり、その事が
アメリカ国民の雇用を減らし、更には、所得格差を呼び
国民生活の二極化を呼んでしまったのです。

国民の就業率を上げ、アメリカの経済を立て直すからと言って
低賃金で働かせていた海外労働者を排除し、独占的な収入を
計ろうとする海外事業対策は、余りにも短絡的であり、
民主主義をうたい文句にしている、合衆国の行いとしては
余りにも反するものと言えるのです。

歴史的に見ても、もっとも独占を主張する国外政策は、戦争です。
国同士が領土や資源を獲り合う戦争は、例え勝者となったとしても
長きに渡って人々の心に大きな傷を残し、国際的な修復には、
気の遠くなる様な月日が必要となるのです。
そして、戦争まではいかなくても、次に、人々を苦しめるのは、
経済的独占です。

トランプが行っている政策は、あくまで、職を奪われた国民や
経済的に苦しい人々を助ける為と言いながらも、実際は、
中国や日本と言ったアメリカに進出して来た国々を追い出し
今のアメリカ裕福層の力をより増し、アメリカ社会のみならず
世界経済においても独占を計る事に有ります。

まず、自分を支持してくれた人々を納得させ、更低迷する
アメリカ経済を上向きにすることで実績を上げ、より、
自分の地位を確保する事に有るのです。
彼が言う様に、強いアメリカを取り戻し、世界の中心となる
世界中が認める最強の国家を目指すと言うのですが、
その裏には、自分が生きている経済界のトップの座を固めると言う
自分の壮大なる欲を実現する為でもあるのです。

国民の為、苦しんでいる人の為、というなら、人道的にも許されない
移民層や諸外国から働きに来ている人々に対する理不尽な大統領令は、
あくまで大統領と言う地位を利用しているにすぎないのです。
アメリカ経済の復活という目に見えた実績を上げれば、他の犠牲は
止むを得ずと言う、まるで戦争で莫大な利益を得る死の商人と、
何だ変わらないのです。

しかし、問題は、規模は遥かに違うとはいえ、日本が、アメリカ社会を
追随している現実がある事です。
アメリカの政策を継承している日本の政治は、当然政治と一部の企業の
癒着が考えられ、これまでの大戦においても、その切っ掛けは、
経済的な問題であり、それは、庶民の生活と言うより、企業経済の復活に
合った事は事実です。

日本においても、経済的に復活すれば、国民の生活は豊かになると言うのは
あくまで、政治家の弁舌に過ぎず、国内経済の復活を一番望んでいるのは
バブル以降、経済的に成長を抑えられている企業の思惑なのです。
本当に国民の事を考えている政治ならば、これほどまで長くに渡って
一般庶民が苦しむことは無く、この間も、政府と一体となり事業展開を
推し進めて来た企業は、全くこの不況の苦しみを知りません。

アメリカにおいても、日本においても、民主主義というのは口先だけで
実際は企業主義、政治家と企業の癒着によって作られた国家と言えるのです。
そこに働く国民の多くは、豊かな余裕のある生活とは程遠く、常に明日の生活
今日の食事を考えなければならないのです。
たまたま、その実態がはっきりと表れたのが今のトランプ政権に過ぎず、
これまでも、アメリカにおいても、日本、韓国においても、政治は、大手の
企業によって操られ、国民は彼らの収入減に過ぎないのです。

民主主義国家に於いて、とても穏やかに国政が行われているのは、たまたま
その国家機密企業機密が表に出ていないだけであり、民主主義国家とは
名ばかりと言うのが現実なのです。
アメリカにおいても韓国においても、国と企業の関わりが露骨に現れた事で
世界の注目を浴びているのであって、実態は昔から変わらないのです。

日本国民もアメリカ国民も、本当に幸せになるには、便利さと豊かさだけを
生きる目的とする世の中を変えるしかないのです。
日本国民は、明治以降、欧米から入って来た消費経済政策を、数千年かけて
育てて来た、人と人との関わり合いを主体とした生き方に戻さない限り、
いつまで経っても、背伸びを強制された、いつまでも満足できない、
便利さと豊かさに振り回される日常から逃れる事は出来ないのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 


スマホ命の妻

2017-01-28 13:16:05 | スマホ

今朝、出勤をしようとして家を出ようとすると、少し先に
出かけた妻が、慌てて帰って来ました。
どうやら忘れ物の様です。
妻が先に出た後、部屋の中を確認すると、いつもの事ながら
何か忘れ物がありました。

コンピューターの横に、派手なケースに入ったスマホがおいてあり、

どうせ、慌てて帰ってくるのは解っていましたが、とりあえず、
戸締りをし、カギを閉めて家を出ると、すぐに落ち着かない妻の顔が
飛び込んできました。
大事な物を忘れたと言い、もう一度家に入ろうとするのを引き止めて、
バッグの中からスマホを出すと、何事もなかったかの様に、元の道を
引き返していきました。

直ぐに追いついて、二人で歩きながら、何気なく、妻に、

あなたにとって、スマホの価値観はどれくらい?
と尋ねると、すぐさま右手を高く上げ、空の彼方を指しました。

妻は、子供を育てている時からゲームが大好き、更には、学生の頃から

機械いじりが大好きと有って、我が家の電化製品、電子機器は全て
お手のものの才覚です。
普通ならば、一家の主である私が担当しそうな事は全て妻が行い、
今や、コンピューターに関しては、友達にかなり頼られている存在です。

そんな訳ですから、私の知識など、まるで子ども扱い。コンピューターや

スマホの調子が今一となると、あっと言う間に直す程です。
しかし、これほどにもネット社会に精通してくると、現代社会に於いて
如何にスムーズな生活を送れるかと思いきや、そんなにも精通している
ネット機器で逆に四苦八苦する事も珍しく有りません。

四六時中スマホを手放さず、時々見失うと本当にパニックになって

しまいます。
私は、まだアナログの人間ですから、コンピューターも常に利用しますが、
時に、調子が悪くなったり、ネット側のメンテナンスなどで使えなくなっても
何だ慌てることなく、スマホを忘れても差ほど心配にはなりません。

所が、妻の場合は、スマホの中には、全てのスケジュールから、自分の情報が

詰まっていて、毎日スマホを中心にして動いています。
その為、スマホが無くなったら、まるで、だるまの様に何も動けません。
スマホが無い時代にも、日常的な事は、殆ど熟してきているのですから、
他の手段で賄う事は容易と思えるのですが、それ以前に、無い事で
精神的に参ってしまう様です。

日常生活だけでなく、殆どの情報が、ネットを通じて得ている様であり、

ネットに流れる情報を、すぐに鵜呑みしたり、ネット友達との情報を
そのまま自分の考えとしてしまう事も少なく有りません。
世界中をまたにかけるネットを自由に利用できる様で、なにやら、反対に
非常に狭い範囲で拘束されている様で、私からすると不自由に思えてなりません。

最近、世間で問題視されているシンギュラリティが、すでに我が家で始まって

いる様に思えてしまいます。
将来、人類がコンピューターから発達した高度な人工頭脳で操られる様になる
と言う、SFの世界が現実になると危惧されるのですが、それ以前に、その土壌が
すでに人類に出来上がっている様に思えてなりません。

私たちは、コンピューターを使って、どんどん便利な社会を創っている様で

実は、その先には、その私たちが作り上げたネット社会を利用した、人工頭脳の
恐ろしい世界が待っているのかもしれません。

今や、世界は、ネットが広がり、あらゆる流通、社会生活、更には戦争まで

全てがコンピューターで繋がっていると言っても過言では有りません。
その繋がりを利用して、私たちは日常生活をより便利に豊かにしているのですが、
世界中の人々が様々な環境で利用しているネット情報が、一括して誰かの意志で
動かされるようになるかもしれないのです。

それが人である可能性は低く、何故なら、すでに人工頭脳は、人類の能力を

遥かに超えて、長足の進歩を遂げているからです。
数年後には、数十年後を待たずして、コンピューターの力は、私達人類の予想を
遥かに超えて進歩してしまう可能性もあるのです。

コンピューターがコンピューターを自ら進歩させるという、人類が主導権を

持てない、悪く言えば、人類を必要としない社会が生まれるのかも知れません。
より、機能的で無駄のない社会を目指すとしたら、人類程身勝手で不完全な
生き物は、真っ先にこの世から消されてしまうかもしれないのです。

私達人類が、創成期から目指して来た、便利で機能的な生活は、人類が管理

抑制する事で成り立ってきました。
様々な人種の考えを取り入れながら、人類として進歩してきたのですが、
それでも、さらなる可能性を求め、より完璧な社会を築こうとして作られたのが
コンピューターでした。

しかし、今や、その存在は、人類の英知や倫理を超えて、インプットされた

様々な条件を基準に間違いなく遂行する様になったのです。
つまり、決められた事は、間違いなく実行されるのです。
人工頭脳が、もし、不完全で、地球にとって悪影響を与え続けて来た人類を
地球にとって不必要と認めれば、何の躊躇もなく消し去ってしまうのです。

とは言え、今の社会は、まだコンピューターの機能に懐疑的な人が多く

少なくとも、ネットを自由に出来る人たちの天狗鼻を抑えることが出きるのは
世の中が平和だと言う事なのかもしれません。
全ての人が、ネット社会に迎合してしまった時点で、新たなる指導者が現れた時
二度と人類の社会は実現しないのかも知れません。

と、訳の分からない事を書いていますが、現実においては、ネット社会に

上手く乗って行けていない、アナログを引きずっている昭和世代のたわごとと
笑って頂ければ幸いです。

 



 

 

 

 

 

 


思い出残る人生を

2017-01-27 16:37:12 | 日本人

人生の半分以上を生きて来て、毎日様々な体験をして
過ごしてきているはずなのに、その殆どを思い出せません。
何が一番楽しかったのか、何が一番苦しかったのかと問われても、
全ての出来事を思い出せるわけではなく、印象に残っている事も
ほんの一部の記憶に過ぎないです。

それ程にも膨大なる経験を積んでいても、今になれば、たまたま

生きながらえて、今ここに居ると言うに就くだけです。
と言うのも、自分の辿って来た道が、果たして、自分にとって
一番相応しいものであったか、たった一度しかない人生であるからして
比較も出来ず、ただ、受け入れるしかないのかもしれません。

誰もが思う、他の人生を歩んで居たら、もっと豊かでドラマチックな

日々を過ごせたのかもしれない、と。
しかし、もしかすると、途中で思いがけないアクシデントに見舞われたり
そのまま一生を終えてしまったかもしれません。
そう考えると、あらゆる想定が、受け入れがたいもののようにも感じます。

今の人生で良かったと思う為にも、余計な記憶は残らないのかもしれません。

とは言え、過去を振り返る時は、今現実に生きている事を自覚していて、
未来への期待と不安が生まれている時とも言えます。
思う様にならない現状を、もう変えられない過去にまで遡って考えると言う事は
如何に、日常生活が滞っているかとも言えます。

何十年も生きて来て、印象に残っている事が数少ないかと言う事は、

それだけ、自分の生き方を変える程の決断を行っていないと言う事であり、
思いのままにやり遂げていれば、考えるまでもなく、多くの事が心に浮かび
それこそ、我、人生に悔い無し、と言えるのかもしれません。

人は、様々な環境の元、様々な条件を持って生きているのですが、その現実を

受け入れる事は有っても、新たなる環境を求めたり、自分の生き方を変えたりと
変化をする事に大きな抵抗を感じます。
特に、毎日の生活が滞りなく進んでいる時は猶更、現状維持をする様に生きがちで
振り返ってみれば、何も印象に残らない日々を過ごしている事が多いのです。

とは言え、これが人生だと、言う人もいるでしょう。

しかし、そんな日々を更に今後続けるとなると、多少なりとも、意欲が失せ
未来に希望を持てなくなるものです。
残りの人生は少ないものの、例え、これまでの人生が思い通りでなかった
としても、何とか胸の高まりを感じられる余生を送りたいものです。

特に、中高年ともなると、周囲は、退職したり、定年を迎えたりと、

どちらかと言うと、のんびり休みたいというムードが有ります。
これまで家族の為に働いてきたのだから、今後は、自分の為に過ごしたいと
ストレスのない生活を望んでいる方もいます。

人それぞれですが、同じ世代とは言え、どうしても同じような気持ちに成れず、

今だあくせくと働く毎日なのですが、別に働くことが好きと言う訳ではなく、
自分がまだ生きている、役に立っていると言う実感と、存在価値を感じたい
というだけとも言えます。

最近、何事に対しても、周囲が次第に優しくなってくるのを感じます。

世の中は高齢者の為に全てバリアフリーの方向に進み、高齢者を労り助ける事を
世の中の有り方と考える空気が広がっています。
確かに、若い人たちが、高齢者を大切に思ってくれることはありがたいのですが、
それ以上に、腫れ物に触る様に、余計な気を回される事が少し気になります。

とは言え、高齢者は無能者と言う空気が無いわけではなのです。

若い人たちにとって、我々高齢者は、邪魔な存在となっているのではないか、
事実、若者が高齢者の為にどれ程大きな負担を負っているのか、解っているが故
少なからず心苦しい思いとなるのです。

しかしながら、それ以上に思う事は、やはり、生きている意味、生きているという

人としての存在価値です。
人は、生きている限り、誰かの為に役立っている事に喜びを感じます。
例え、若い頃の様に有能でなくとも、何かの形で自分がこの世に存在する意味を
感じていたいものなのです。

そう言いつつも、この思いは、若者とて同じと思えるのです。

自分の存在意味を感じられず、日々悩んでいる若者は数多くいると思われます。
会社に於いて、家庭に於いて、学校に於いて、自分の存在理由を見つけられず、
深い心の闇に居る若者もいるでしょう。

私達からすれば、若い人たちは、前途有望で、何でもできる様に思えますが、

かつての自分を思い浮かべれば、やはり、未来に絶望を感じたり、周囲に馴染めず
一人孤独に苦しんでいたものです。
今の日本は、経済的に苦しんでいる人が非常に多いですが、それ以上に
自分の心の苦しみに悩んでいる人が多いのです。

ネットの発達により、世界中の情報が手に入り、あらゆる可能性のある社会で

たった一人、心の自分と戦っている人が増えているのです。
沢山の人と情報に囲まれている反面、本当に自分の存在価値や意味を感じさせ
教えてくれる環境が無いのです。
見た目の豊かな生活を維持する事で、一見、華やかな生活を送っている様で、
実際の心の奥底は、悲しみと苦しみで喘いでいる人たちが多いのです。

メディアからは、幸せで理想の生活が日々紹介され、豊かな人生の基準を

見せつけられる事に依るプレッシャーは、非常に大きいのです。
テレビから流れる理想の日本人は、決して自ら求めるものでは無いのに、
その姿に似せることを強要され生きる日常は、いつも仮面をしている様で
人々の心は癒される事が無いのです。

現代日本人が求める物、それは、便利で豊かな生活ではないのです。

一人一人の心が満たされ、幸せになる一人一人が描く生活なのです。
その為の、様々な日常生活道具は有るに越したことは無いのですが、
個人の心を満たすものは、一人一人違っているのです。

しかし、幸せの定義をメディアが決めてしまう事が問題なのです。

人としての条件、恋人の条件、結婚相手の条件、就職の条件等
全てが、決められる事が人々の生活を苦しくしてしまうのです。
例え、その条件を得たとしても、次には、その条件を維持する為に
更なる苦労を重ね、挙句の果ては、自分の思う幸せとは全く違う
世間が求める幸せしか得られないで、さらなる苦しみとなるのです。
この悪循環が、今の日本社会の象徴ともいえるのです。

長い人生を歩んで来ても、一体何をしてきたのか、あまり思い浮かばず

さらには、この先にも期待できないのは、自分の人生が、自分が描いた
人生ではなく、世の中が決めた目的や生き方に追随したことにより、
心に残らないものとなっているのです。
私たちが、一生悔いなく生きる為には、如何に、自分の思いに忠実に
心が本当に満足できる生き方ができるかどうかにかかっています。
自分の思いに忠実に従って行動すれば、一つの素晴らしい思い出として
後々、しっかりと思い出せると思われます。

 

 

 

 

 



 

 


トランプと言う商人の大統領

2017-01-26 16:03:08 | 政治

次々に実行されるトランプ大統領の独断に満ちた施政は
連日、新たなるショックを国内外に与えています。
選挙活動をしている時の言動を、単なるパフォーマンスと
考えていた多くの人達は、まさか本気であったとは思わず
日々調印される様々な懸案に、強い憤りと不安を感じています。

これまで、幾多の民族を受け入れて来たアメリカ合衆国に於いて
彼の行いは、正に逆行するもので、アメリカ保護主義を通り越した、
独裁的な姿勢と言えます。
民主主義の象徴として、世界に門戸を開くアメリカの時代は終わり、
彼に依る新たなる保護政策は、海外のみならず、国内においても
大きな反発を呼んでいます。

しかしながら、世界のトップとして経済界を牛耳って来た彼の勝算は
何を行ったら確実に国内の需要が高まり、経済を復活させるかと言う
商人としての優れた才覚により、確実にアメリカ国内の経済復活を、
確実なものとしているのです。

これまで、何世代にも渡って、幾多の大統領が行って来た経済政策は
いずれも思った程の成果を上げられず、今では、アメリカ経済は、
他国民の力が無ければ成り立たない状態となっています。
多くの移民を受け入れ、アメリカ産業の底辺は、中南米やアフリカ系
と言った人々によって支えられ、更には、国内で消費される生活物資の
多くが、中国を代表とするアジアの国々の輸入品で賄われている現状は
オバマまでの歴代の大統領が、全く変えることが出来ず、その結果、
失業者は増え、アメリカ経済が傾いていく原因とも成ったのです。

そんな国内の不満を背に生まれたのがトランプ政権と言えます。
何十年に渡ってアメリカが抱えて来た問題を、一気に解決できる
大統領として生まれたのです。
これまでの大統領が立ち入らなかった人種に対する差別、諸外国の
移民に対する圧力、更には、地球温暖化を抑えるために控えていた
化石燃料の大量使用。
地球が、様々な異変を起こし、人類のみならず、あらゆる生き物たちが
影響を受けていた人類の負の遺産をさらに増す政策。
全てが、世界からタブー視されていた事を、トランプは行っているのです。

確かに、全く違った局面から物事を始めれば、問題が解決したり、
思いがけない利益をもたらしたりすることは、経済学に於いて、
一つの手段として昔からある事です。
上手く行かなければ、全く逆の方法を取ると良いと言う理論は
私たちが生きていく上でも役に立つことなのですが、この方法が
単に、個人的なビジネスであるならば、より多くの収益を上げる上で
役に立つかもしれませんが、この方法が、国家レベルで、しかも
世界中の経済を巻き込んでいくとなると、非常に危険な部分が生まれます。

アメリカの独裁的な政治をすべての国々が受け入れれば問題ないのですが、
当然、トランプの考えを受け入れられない国が出てくるのです。
そんな時、如何に、上手く話を進めて行くのか、この時、力をもって
強引に相手の意見をねじ伏せて行くのか、そうなれば、また、暗黒の時代が
復活してくるのです。
様々な国の考え状況をお互いに話し合う事が国際政治であり、自国の利益を
優先すること自体有ってはならないのです。

しかし、すでに、トランプ政権は、アメリカの完全保護主義を謳っていて、
周辺国や諸外国の意見を聞く耳を持っていません。
大統領権限で、自分の意見を主張しようと、そのまま、国内のみならず
世界に受け入れられるとは言えません。

彼の政策は、政治ではなく、商業的利益の考え方です。
権限を使えば、すぐに結果が生まれるかもしれませんが、その政策の中に
多くの人々の考えと思いが無く、人々の納得の上での判断でない事から、
新たなる政策には、賛同者と共に、常に、反発する人々が生まれるのです。

民主主義国家の決定事項には、多数決の原理が有ります。

多くの話し合いの末、大多数の意見を持って、人々の未来を決めて行くのですが、
話し合いも成されず、多くの反対意見を無視して、独断と偏見を持って
政治を進めて行く事は、確実に、危険な社会を生んでいくものです。

アメリカ合衆国が、世界中から憧れられる優れた民主国家である為に、

これまで苦難の道が続いていたとも言えます。
トランプの様な考えは、例え頭に有っても、国民と周辺国の事を考えれば
実行できなかったとも言えるのです。
しかし、トランプ政権は、この大きなリスクを背負って船出したと言えます。
この新たなるアメリカの生き方が、世界にとってどのような結果をもたらすか、
少なくとも、世界をまた不幸に陥れる戦争に発展しない様に、世界中の国々が
見守って行く必要があると思えます。


 


思い描く人生を生きるために

2017-01-25 16:48:22 | 新生活

久し振りに風邪を引いたみたいで、喉は痛いし、鼻水は出るし
頭の中は、ボーッとして考えがまとまらない。
食べ物の味もおかしい、見ているものに長く集中できず、更には
音楽を聴いても、耳の外で流れている様で、心から遠く感じる。

これらの思いは、当然風邪の兆候なのでしょうが、一番の問題は、
ただ同じ所に座っているだけで、見える物に何も心が動かない。
何だかの理由で買い求めた物、生活必需品が至る所にあるが、
目に映るだけで、そこにあり続けるのを見ているだけな事です。

世の中には、分刻みでスケジュールが決まっていて、一日中
有無を言わさず、専念しなければならない人も多くいる中で、
何の拘束も無く、ただ、時が経つのを、目の届く範囲で眺めている
これこそ病と言えるのでしょう。

風邪なのだからしょうがないと言われればそれまでなのですが、例え
回復していつもの生活を取り戻したとして、果たして、どれだけ
自分の行動が変わったかと言えば、第三者的に見れば、具合が
悪かろうがよかろうが、殆ど同じと言っても良いのです。

世の中にとって、一人の人間が、何をしようと、どんな考えを持とうと
自分に関わらなければ、まるで空気の様なもの、ただ時と共に流れる
風景の様なものです。
誰もが、この風景となって流れて行くのですが、本人にしてみれば
何とか、自分の現状を変えたいとか、もっと豊かな生活をしたいとか
少なからず思っているのです。

しかし、思っていても、現実には、ほとんど変えられず、ただ時が経ち
年を重ねて行くのが、殆どの方の人生ともいえるのです。
自分にとって、風邪を引くと言う事は、一大事であるのですが、
身内にとっては、心配をする事は有っても、しばらくすれば治り
やはり、一過性のものぐらいにしか感じられないのです。

つまり、殆どの人達にとって、日頃の生活も、病に伏した日々も、単に
人生の1ページに過ぎず、その事で、自分の生活は変わるものではなく
風邪を引いた私の人生も変わるものではないのです。

多くの人達にとって、自分の人生は、如何に幸せで変化に富んだもので
在りたいと望ものの、殆どの人は、思いとはかけ離れた、ごく当たり前の
一生を送るものなのです。
何故、望むような人生を送れないのか、後悔は有っても、満足とする人生は
中々送れないのでしょうか。

より優れた学校に通うのも、有名企業就職を目指すのも、根底には、
豊かな人生を歩むためという思いが有るのです。
では、そんなエリートの人生ともいえる路線を辿った人たちは、自らの人生に
満足できたかと言えば、中々自覚する事は難しく、あえて言うなら、その歩みを
認めて湛えてくれる人がいると納得するぐらいです。

私達の人生は、何事においても自己判断が難しく、常に比較対照でしか
良し悪しが決められないのです。
自分が生きている喜びは、何かと比較する事に依って自覚するのであって、
その対照物によって、幸せにも不幸にもなりやすいのです。

その為、比較するものが無くなると、途端に、自分の心は不安定となり、
ただ、時が過ぎるのを傍観するのみとなってしまうのです。
つまり、風邪を引いて、五感が感じづらくなった状態とおなじであり、
心が躍動しなくなってしまうのです。

この比較対象物が、自分の置かれている立場や地位を、どの様に変えるかを
決定し、人生の有り方を決めて行くのです。
風邪を引いたときの様に、感覚が鈍くなってくると、自分が何をすべきか、
判断する事が難しくなってしまうのです。

人生が豊かになるか、幸せな毎日を送れるかは、自分自身のメンタルが
如何に敏感に周囲に対して反応できるかにかかっているのです。
置かれている環境から、自らを動かすためにには、あらゆるものに対する
豊かなセンスが有って初めて具体性が出てくるものであり、どんなに
道具がそろっても、地位や財産が有ったとしても、反応する力を失うと
それらの道具は何の価値もなくなり、自らも動きを止めてしまうのです。

どん底の生活を送ろうが、何でも手に入る豊かな生活をしようが、

自分の周囲に対する反応が無くなった時、自分の人生は滞り、生きる意味や
自分の存在価値を見失ってしまうのです。
年齢、環境に関係なく、本人の身体から五感が消え失せて行くと、人生は終わり
それ以上の新たなる道は開けないのです。