めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

世界の流れに逆行する日本の輸入食品安全基準

2018-11-26 18:21:28 | 健康

世界的な経済大国と成った日本は、元々資源が少ない事も有り
経済発展の為には、多くの食料や資源を輸入しなければ成らず
中でも、私達国民が消費する食料は、国内生産が需要に追い付かず
常に大量の食料を諸外国から輸入しなければ成りません。

戦後の経済発展は、国内産業も私達の食生活も、輸入が有ってこそ
成り立って来たと言えます。
大量輸入に依り、価格の安定を図り、経済的な豊かな生活が出来たと
言えるのですが、その一方で、海外からの輸入品に依るトラブルも多く
中でも、食品に使われる薬品が、国民の健康に大きな不安を与えて
いる事を知っていることは大切です。

特に、最も大量に食料を輸入しているアメリカからの輸入食品の中には
私達日本人の健康を損ねる、危険な薬品が多く使われている事実が有ります。
中でも農産物に多く使用されるポストハーベストと言われる、防カビ剤や
除草剤は、規制緩和により、危険な薬品と言うのではなく、食品添加物として
輸入された農産物に付着したまま輸入されているのが現状です。

レモン、オレンジ、グレープフルーツなどは、海上輸送による長旅で
商品価値が落ちない様、防カビ剤が大量に使われていて、既に
EUでは、発がん物質として禁止さえているにも関わらず、
日本政府は、国民の健康を損なう可能性があるにもかかわらず、
アメリカの外圧に屈し、規制緩和すらしているのです。

その為、農産物に残留する農薬基準は、これまでの100倍以上認められ
国民の殆どは、その危険性すら伝えられず、日々、大量の農産物を
摂取する事と成っているのです。
この事は、今に始まった事ではなく、かつて、レモンから検出された
危険な農薬を規制するとして日米が争った時も、日本製品の輸入に
圧力を掛けられ引き下がった例もあり、日本政府の実態は、決して
国民の為に有るのではなく、自分達の利益を守る為、自分達の権力と
財産を守ってくれる人達の為に在ると言えるのです。

この事実に、憤慨される方も多いかと思いますが、日本社会の
真の姿は、明治以来、何だ変わっていないのです。
様々な制度が生れ、幾度も行った戦争を経ても、本質的な姿は変わらず
表向きは、国民主権の自由平等の国と言われながらも、相変わらず、
社会は、豊かな人達の為に有り、多くの国民は、その下働きと言えるのです。

消費経済社会であり自由主義国家である事から、個人としての生き方や
働きもさまざまであり、当然、その生活レベルは変わって来るのですが、
人間的な扱いを考えれば、経済的レベルを持って人間の価値が決められ
豊かな人達の我儘によって日本社会は築かれていると言えます。
街の姿もあらゆる流通も、日本社会を牛耳っている人達により
より都合よく作られていて、殆どの国民は、その社会形態を維持する為
働かされていると言っても過言では有りません。

自分の為、家族の為、幸せの為に働くと言うより、この社会で生きる為
必至に成って働いていると言えます。
働いて得た所得の多くは、自分達が心豊かに幸せに成る為に使うと言うより
社会的に支出する事で、辛うじて自分達の存在を保っていると言えるのです。
働いて得た収入の殆どを、自分自身の為に仕えると言う人は、ほんの僅かで
中には、常に、借金を重ねなければ生きて生きない人も少なくないのです。

問題は、大量に輸入される庶民が利用する品物や食品が、不良品であったり
危険な薬品に侵されていると言う事実です。
この規制緩和を行い、国民の身体を傷つける食品を平気で輸入する事を
認めている人達は、安全な食品を食べられると言う現実です。
当然、その事実を知っているのですから、わざわざ危険な食品には手を出さず
多くの国民が被害を被るのを高みの見物しているだけなのです。

いつの世も、庶民は、あらゆるリスクを負わされ、まるで、モルモットの様に
扱われて来たのです。
大量輸入された食品は、日本中に広まり、少しづつ国民の健康を損なって行きます。
高度成長期の頃から、国民は、危険な食品を食べさせられ、豊かな人達の犠牲と成って
苦しんできているのです。
数々の公害は、国民全体を陥れた、高度成長と言う名に隠れた犯罪と言えるのです。

しかし、この犯罪紛いの事は、過去の事ではなく、現実にも行われていて
多くの場合、まだ発覚していないだけと言えるのです。
日本人の身体に蓄積する危険な化学物質や重金属類は、世界一と言われています。
多くの食品添加物を口にし、長年に渡って健康を害してきた事実をひた隠しにし
更なる欲望の触手を伸ばし、国民を苦しめようとしているのです。

症状が出なければ、病人が出なければ良しとする基準は、人間だけでなく、環境中にも
様々な問題をおこしています。
豊洲問題はなぜ起こったのか、その原因も、多くの欲望に駆られた人たちが作った
負の遺産であり、日本中にいくらでも隠されていて、多くが見つかっていないだけ
と言えるのです。

冬が近くなると、海や川は、一段と澄み渡って、東京湾も護岸から見下ろせば、
海底が見える程透明度が高く成っています。
季節的には、水中のプランクトンが減って、透明度が増すのですが、実際は、
一年中、変わらない透明度で、多くの人が水が綺麗に成ったと思っています。
しかしながら、これは、一年中、多くの微生物やプランクトンが発生できない
死の海と成っている事を表していて、春先の、多くの生き物が水辺に集まる時も
殆ど生き物を見つけられない事からも解ります。

つまり、一年中排出される工場廃液や家庭汚水は、国が定めた水質基準で浄化され
毎日海や川に流されているのです。
この水は、完全に毒物や化学薬品が取り除かれたものではなく、魚が生きて行けるとする
酸素溶融量が在ると言うだけであり、小さな生き物達が生きて行ける値ではないのです。
浄化水の中で魚を飼って見せるパフォーマンスは、自然環境の中での生き物達にって
安全な基準と言うのではなく、水中のあらゆる生き物が生活繁殖が出来るレベルの
栄養豊かな水ではないのです。

プールの水の中で金魚は飼えても、殆どの微小生物は生きて行けません。
金魚ですら、卵から稚魚に成って小魚に成長するまでは、多くのプランクトンが
必要であり、そのプランクトンが増殖できなければ、透明度が良くても死んだ水
と言えるのです。
この様に、人間社会の様々な場で、嘘がまかり通り、誰が傷つこうが利益を目論む
自分の事しか考えられない人が社会の上に立てば、国民は、いつまで経っても
本当の幸せをつかむ事は出来ないのです。

常識的には、上に立つ人達は、精霊潔白であり、下で支える人達の事を常に思い
社会全体を幸せに導かなければならないのですが、現実は、その全く反対で
上に立つ事で、自分の我儘がより大きくなり、より多くの利益を得る為に
自分を支える人達の気持ちを無視し、例え、苦しむ事が解っていても
欲望のままに物事を決めてしまうのです。
この事は、近代国家になっても変わらずと言うより、近代国家そのものが
豊かな人達の欲望で作られていて、利益さえ得られれば、国民は、たとえ
戦争で多くの犠牲を被ったとしても構わないとするのです。

外見的には、社会的地位を成す事で、人々の幸せを担っているかのように見せて
実際は、自分の欲望の為に地位を利用し、人々を自分の思うが儘に動かして
膨大なる利益を目論んでいるのです。
発がん性の高い農薬が付着しているとされる農産物を、国民の健康被害が
予想されるとしながら、平気で規制緩和と称し、食品添加物として認め
何のためらいもなく輸入できると言う事は、本人の常識を疑うと言うより
その事で、膨大なる利益が得られるという事実が有るからです。

より多くの品物を輸出する為に、危険な品目を認めるという信じがたい策は
国家間における貿易バランスを考えてと言うより、それを利用したり
摂りいれたりする国民の事を全く考えていない事を示しています。
例え危険だとしても、目で見た限りは解らないとして、危険な食品を
平気で店頭に並べさせると言うリーダー達の横暴さにあきれます。

負の遺産に代表されるように、見えなければ解らなければ大丈夫とする
醜い考え方が社会に横行すれば、国民生活は、今以上に殺伐としたものと成り
次第に心豊かな日本人が消えていく事と成ります。
欲望に駆られた人間が、うっ憤を晴らすために社会に向かって銃口を向けたり
多くの人を傷つける危険性が高まるのです。
ただでさえ、国民は、他人に怯え、被害者にも加害者にも成らない生活を求め
自分の事しか考えなくなっています。

対人的な心を育てないで、欲望のままに、社会的に豊かに成る事だけを求めて
自分以外の他人と関われなくなってくれば、勝手な思い込みで、人を傷つけたり
傷つけられたりしがちです。
日本人は、長い歴史の中で、自然と関わり人間同士で心を通わせながら
成長して来た民族です。
人と関わらず、経済的利益を目的とした生き方をする様に成って、
様々なトラブルが生れ、日本の自然環境を破壊する様に成ってしまったのです。
日本国民は、豊かな自然に育まれて、人の心を豊かにしてきたのです。
大自然の様に豊かで優しい気持ちが、人々の幸せを生んできたのです。

現代人が、どれ程経済的に豊かと成っても、一向に心が満たされず、
更なる欲望を募らせるだけの生活をしている事で、いつまで経っても
心休まる日が来ないのです。
常に他人の経済的豊かさを気にして、心が不安定な毎日を送っています。
本当の幸せを求めない限り、安らかな気持ちには成らないのです。
見た目綺麗な果物に、危険な薬品が付着していのに買い求める人はいません。
しかし、見えなければ良いとする横暴な考えの人達が日本を動かしている限り
日本人の心と身体は健康に成る事はなく、日本人の未来は暗いと言えるのです。

 

 


薬害の闇

2016-03-09 18:20:39 | 健康

日本は、世界でも、トップクラスの長寿国であり、
国民の健康に対する意識はとても高く、
日頃から、食品摂取、スポーツと様々な
健康に関する情報に敏感です。

高齢化社会に成るにつれて、この傾向は

増々高くなり、日常の全てが健康志向に繋がり
いかに健康に長生きするかが、日本人に
共通の目的に成りつつあります。

その為、今や、健康に対するメディア情報や

医療に対する興味が、人々の話題の中心となり
いかに健康に関して努力したかが、人々の
ステイタスを決めて行く事にも成っています。

そんな国民性から、これ程にも、医療に関して

自分の健康に関して、強く興味を抱く国民は
世界でも珍しいと言われます。

その事の大きな理由の一つが、世界のトップクラスの

先進国と言われるものの、実際は、多くの人々が
未来に付いて、自分の健康について、多くの
不安を抱いている事にあります。

人生を健康に不安なく過ごしていける保証が無いのが

今の日本における一番の問題であります。
特に中高年になると、様々な病気が発生し、
老化して生活が不自由になるだけでなく、
痛み苦しみを癒す社会システムが保障されていない為
誰もが、自分の健康や生活に不安を抱いているのです。

例え国内総生産が高くとも、国民の一人1人を癒す為に

生かされてい無い為、多くの人が、自分の身は自分で
守らねばならず、何時まで経っても、安心な老後は
迎えられないのです。

そんな社会傾向を反映してか、今や、世の中は、

多くの不安を利用した産業が盛んです。
あらゆる分野で広がる保険医療、国が支えられない
国民の生活を利用し、高齢者医療産業が増々盛んになり
更に国民の不安を煽っています。

特に、高齢者医療は、医療関係や薬品関係の会社にとって

最大の宝の山であり、メディアを通じて、更に治療を通じて
高齢者の不安を増し、必要以上の収益を得ています。

今や、一日に飲む高齢者の薬品の数は膨大であり、

治療と言う名目で、多くの高齢者が薬害に苦しんでいます。
様々な病を発見し、それに対処するための薬物投与の量は
明かに過剰であり、ただでさえ免疫の衰えた、体力の無い
多くの高齢者にとって、薬品を体内に摂り入れる事だけでも
多大なリスクが有るのです。

私は医師では有りませんが、スポーツを通じで、多くの高齢の

健康に関わって来ました。
健康になる為と言う目的で、衰えつつある身体に鞭打って、
頑張る姿は、若者達より遥かに現実的で、少しでも身体が
若返ることを切に願っているのを感じます。

しかしながら、彼らの、運動に関する知識は非常に低く

ただ、身体を動かせば健康になると思っている方が多く
知識が無い為に、間違った運動をしたり、身体を壊したりする
高齢者も多いものです。

そんな人々に正しい運動を教え、より健康になる為の

アドバイスを長年してきましたが、沢山の高齢者を見てくると
トレーニングの過程で、他の人達と、全く様子が違って
あらゆる運動が不自然でしっかりと動けない人が出てきます。

何だかの病によって、体調がおかしくなるという訳ではなく、

運動の過程、応対、様々な反応が不自然に成って来るのです。
これは、中高年に見られる気になる症状であり、本人は
何も変わっていない様に思っているのが問題です。

一見、ぼけてしまったり、痴ほう性の症状と思われがちですが、

その現れ方は非常に極端で、まるで人が違ってしまった様に
思える事も有ります。
特に、一人で運動を行なう時よりも、二人で何かを作り上げようと
協力する事が非常に困難と成ります。

症状としては、自分以外に反応しなくなって、表情がうつろに成り

その姿は、ボケが始まったと思ってしまう方々も多いです。
しかし、これらの人々に共通の事が、私と関わった人々にあります。

何年も何十年も運動して来た人が、突然変わって行くと、

医学的に痴ほうが進んだと判断されるかもしれません。
しかし、その進み方が急すぎるのが気になります。
その為、それらの方の日頃の状態を聞いてみると、驚く事に
殆どの人が、血圧を下げる、降圧剤を飲み始めた時期と
一致しているのです。

医療関係者に聞くと否定的なのですが、現実には、明かに

後遺症としか考えられない変化なのです。
次第に、老化しながら変わって行く方は沢山見ているのですが、
それまで、若者よりも元気と思われた方が、ある時期を境に
高齢者の痴ほうに苦しんでいる方と同じ様になってしまうのです。

健康な方々でしたから、殆ど病院に通う事も無く、会社から

命じられて検査をして、血圧が少し高い事から降下剤を飲んだと言う
それまで薬は殆ど飲まなかった人が、降下剤を飲むようになって
変わってしまった様を目の当たりにすると、これは、薬害としか
言いようが有りません。

私達は、年を重ねると、身体の不調に不安と成り、医療機関を

訪ねた時に医師から言われたことを盲信しがちです。
確かに、患者の事を考える素晴らしい医師も多くいます、
しかし、素晴らしい医師が処方した薬と言えど、体内にいれると
言う事は、異物毒物を身体に入れる事なのです。

どんなに医学が進歩しても、自分の身体を本当に心配するのは

自分自身だけです。それは、痛み苦しみは、本人にしか
解からないからです。
健康と言うのは、本人の身体の力で、不自由なく日常を送れ
医療の力を借りないという事です。

必要以上の薬物を摂りいれたり、身体にとってマイナスとなる

間違った運動をしたりすることは、決して健康には通じず
何時までも、モルモットの様に薬物投与を許す切っ掛けとなり
本当の健康は得られないのです。

良く効く薬も、健康食品も、健康の為のスポーツも、

自分にとって本当に必要な物か、しっかりとした知識と
判断力を持って取りいれないと、目的と反対の苦悩の道を
作る様になってしまいます。


引き算の大切さ

2015-12-09 16:22:40 | 健康

世界のあらゆる情報が手に入る世の中と成り、
誰もが、自分の欲求を満たそうと、必至になっています。
お金、地位、名誉、財産、恋人、美味しい食べ物、と
何でも得られる物は欲しがるのが今の世の中です。
そして、それらを少しでも多く持っている人を幸せと思い
自分もそうありたいと思うのです。

しかし、これら全てを手にしている人は、社会にいくらでも居て

彼らは幸せかと思いきや、より欲求は増し、更なる望みを抱き
更に多くのものを求めている方々が多いようです。

では、いったいいつになったらその欲求は収まるかと言えば

先ず、殆ど限界が無いと言ってもいいのです。
これが人間の性、と言ってしまえばそれまでですが、この事が
様々な問題やトラブルを生んでいる事も事実なのです。

しかし、自分の欲求が満たされると、それにも増して苦しみが

蔓延したり、予想外の苦労や悲しみが訪れる事も有るのです。
ならば、何も求めなければ、幸せになるか、と言えばそれもまた
別の意味で多くの問題を生む事になるのです。

人が一生生きて行くという事は、様々な事に関わり合い、

沢山の人々と共存して行かなければなりません。
その時、誰もが、自分の欲求を前面に出せば,たちまち
トラブルになる事は必至で、それ以上何の利益も上げられないのが
普通です。

自分以外の人々や社会との関係に於いてもそうですが、

更に問題は、自分自身に対する欲求の対処の仕方です。
一番簡単で有りながら、意外と難しいのが食欲に対する考え方です。
私達は、何も食べないでは生きてはいけません。
しかし、必要以上に食べる事が一番の問題です。

世の中のダイエット本が毎年驚くほどの数で出版されるのは

多くの方が、自分の欲求を抑えられず、欲望を果たした後の
苦しみを感じているからです。
昔から腹八分とは言われていますが、食欲の有る方に、このめあすは
有って無い様なものです。

必要を満たしていても、それ以上になると、新たなる問題が現れるのです。

この事は、腹八分と言う数字の問題ではなく、自分の身体が対処できる
トラブルを起こさない数値なのです。
様々な地位や名誉を得たとしても、それを生かせる人には、何の問題も
心配も起きないのですが、せっかく手に入れても、何も使えず役に立たず
ただ、持っているだけでは、荷物が増えたに過ぎません。

自分を生かし、価値ある者とするには、それらの、面倒な肩書や仕事を
出来るだけ減らす事が大切なのです。
有能な人材とは、多くの物を持たず、最小限のもので生きている人なのです。
関わる物が少ない事から、新たな事態に直ぐ対処出来、対応力にすぐれ
本当の意味で役に立つのです。

どんなに大きな部屋でも、家具で一杯であれば、生活が出来ません。

収容能力が大きな冷蔵庫でも、食品で一杯だと、それ以上の食品は
入れる事が出来ず、その結果、食べ物をダメにしてしまいます。

私達は、常に満たされない事が実は健康であり幸せでもあるのです。

満たされない事は、不幸ではなく、悪い事でもないのです。
日常生活に於いても、心の中であっても、常に、スペースが有ることが
新しい事を取り入れたり、新たなる考えを入れる事ができ、
人生をより豊かに出来る事なのです。

今の社会は、長い不景気の影響もあり、人々の心も悩みや苦しみが
消える事が有りません。仕事の事、家族の事、健康の事、友達関係と
あらゆる悩みが絶えません。
誰もが不満を持ち、もっと、幸せと望んでいます。
しかし、これは、不幸では有りません。単に、欲望が満たされていない
と言うだけで、幸せになりたいと思う事は、自分の心が満たされる余裕が
まだあるという事です。
その対処法がなかなか見つけられないという事です。

問題は、欲求が満たされた時です。満たされて、心がいっぱいになった時
もうそれ以上は何も入らなくなり、新たな物を受け入れなくなります。
仕事は出来なくなり、身体は太り始めます。

幸せな未来を創っていくには、常に、マイナス状態の心を作り
何でも入れられる空間を確保して行く事が大切と思えます。


上手く息が吐けますか?

2015-08-15 16:54:45 | 健康

健康診断を受ける時、必ず行われるのが、肺活量の検査です。
各年齢に応じて、肺活量の平均値が決められていて、
検査の値は、健康の数値とも言えるのです。

しかし、この検査を受けてみると、検査の機械に死ぬほど

息を吐く事を要求されます。
普段、それ程、肺の空気を出したことが無いので、医師や
看護婦に急かれても、差ほど沢山出す事は出来ません。

私達は、風船を吹いたり、スポーツをしない限り

自分の呼吸に関心を持ったりはしないものです。
しかし、何故、肺活量の検査が要るのでしょう。
確かに空気が吸え無くなれば、私達は生きてはいけません。
日常生活では、まったく気にも留めない事が、実は、健康に
大きく影響を与えているのです。

心臓と共に、肺の機能は、私達の生活において、絶対に

止む事のない命を掌る器官とも言えます。
詳しい医学的な説明は、医師に任せるとして、
私達が普段気を付けなければならない呼吸のポイントは
実は、空気を吸う事ではなく、いかに息を吐けるかという事です。

特にスポーツをするにあたって、上手く息が吐けないと

格段にパフォーマンスが落ちてしまいます。
私達は、息を吸わないと酸素を取り込めず、直ぐに命が失われると
思いがちですが、吸う事よりも、いかに吐けるかのほうが大事です。

身体の構造上、息は吐けば自然に吸える様になっています。

しかも、血液に取り込まれる酸素は瞬時に肺胞から血管に入り
常に新鮮な空気が肺に取り込まれることが大切です。

沢山息を吸っても、そのままでは、直ぐに酸欠と成ってしまうのです。

特に、緊張すると、肺の周囲の筋肉が緊張をしたままと成り、
呼気の自然なタイミングが無くなってしまいます。

そのため、運動をする時は、身体をリラックスし、常に肺の中の

空気を外に出すようにしなければなりません。
このため、肺活量の検査の時、いかに確実に強く息が吐けるかが
ポイントであり、肺活量の数字がうんぬんでは無いのです。

スポーツを行なう時、運動能力が中々上がらない人の多くが

呼吸法が悪いと言われます。
下半身で素早く移動して、上半身で力強く運動をしようとしても
上手く息が吐けないと、素早い上体の動きが出来ません。
そのため、大きな運動をする時、叫び声をあげ、意識的に
強く息を吐いている選手も多いのです。

最近は、繁華街を歩いていると、至る所にスポーツジムを見かけます。

以前は、スポーツを専門にする人のトレーニング場として造られたのが
今では、老若男女、誰でも利用するようになりました。
様々な機械を使って身体をトレーニングしている方が多くなりましたが,
一つなおざりにされている事が、呼吸です。

スポーツのエキスパートは、その身体の機能や外見も素晴らしいですが、

実は、呼吸の仕方がまるで違うのです。
自分の目標とする運動やスタイルを創る時、呼吸を常に考える事が
良いパフォーマンスを生み、素晴らしい体型を創るのです。


いつの間にか、老眼が、、、!

2015-08-08 13:32:16 | 健康

老眼はいつの間にかやって来ます。
学生時代は、多少近視気味で、メガネをかけるか迷ったのですが、
社会人となると、あまり勉強をしなくなった所為かも知れませんが、
目が見にくくて苦労する事は有りませんでした。

しかし、40代の後半を迎えると、活字を読もうとすると、もう一度

確認をしたり、手元を動かしたりする様になってきました。
いよいよその年代か!? と思いましたが、それ程不自由とは思わず
遠くが良く見えるから良いのでは、と勝手な解釈で過ごして来ました。

子供達や家族には、そろそろ老眼鏡を付けてみては!?と言われても

差ほど生活に支障が有る訳でない事もあり、そのままにして来ました。
しかし、最近、日記を書いたり、ノートに記録を取ったりする時、
文字を書こうとして記憶をたどりペンを動かそうとするのですが、
近くの文面が少し霞んでいると、突然書いている文字がはっきり確認できず
解りきっている字が書けなくなる事が出てきました。

記憶していれば書けそうですが、どうも、書きながら書体を確認しつつ

覚えている文字を確定している様で、字面がはっきり見えていないと、かえって
文章や文字は上手く書けない事を知りました。

つまり、手元を見ないで、覚えている感じを書こうとしてもあまりうまく書けないのです。

文章を書いたり絵をかいたりする行為は、ただ見ているだけでなく、出来上って行く
書体や絵を無意識の内にしっかりと認識しながら書いている様です。

目に限らず、耳も鼻も、舌も、その器官のみの機能で動いているのではなく

様々な全身の機能が関わっている事が良く解かりました。
つまり、大切な事は、私達の身体は、どんな部分も沢山の部分の繋がりで
機能していて、その部分だけに気を付けていてはいけないという事です。

私達が生活をするにあたって、様々な道具や物と関わって生きている様に

自分の中の機能も、全身の健康が有ってこそ、成り立つことを認識しました。
老眼は目の問題ではなく、全身の機能の老化に関わっている事、
そして、健康でいつまでも若くいる為には、心身共に健康であり、
心も身体も深くかかわっている事が大切であると思いました。