めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

一年の計を心に秘めて

2016-01-11 19:18:02 | 新年の思い

初詣の為に明治神宮まで渋谷から歩いて来ると、
お正月とあってか、いつもよりも数倍の人並です。
普段からも参拝客は多い所ですが、前の人を
気づかって歩かないとぶつかってしまう程の人の流れです。
神仏に帰依する人達と言うより、明かに観光で訪れたと
思える方々が多く、最近では、何処を見渡しても、海外からの
観光客が目立ちます。

それにしても、本殿に近づくにつれて増す人混みは凄くて、
途中からは、何度も足止めをされながらの参拝です。
参道には、氷の彫刻が並び、すでに溶けかかった物も
多く見られる中、太陽に輝く姿はとても美しく、氷と言えど
作者の思いが伝わって来るようでした。

本殿の前まで来ると、さすがに、一歩も進めません。
警備員の支持に従い、少しずつ歩を進めると、
本殿の前には、横に広く広がった人の列と同じ幅で、
巨大な賽銭箱が白い大きな布で作られていて、その中に
前列からの参拝客がお賽銭を投げ込み、一年の祈願をします。

ようやく一番前まで辿り着くと、後ろからせかされる様に、
急いで、お賽銭を投げ入れ、思いを込めて手を合わせます。
充分に伝えるまでも無く、直ぐに後ろの列の方と後退し、
慌ただしい参拝となりました。
普段の日に訪れると、これ程にも多くないのですが、
振り返ると、延々と参道に人波が押し寄せてきます。

本殿からの脇道を通り、やっとのことで原宿の駅前まで
辿り着くと、すでに陽は西に傾き始め、真っ青だった空は、
次第に色を落とし、まるで晩秋の様に刻一刻と西の空が
赤く色づいてきます。

先月、イルミネーションに輝いていた表参道は、すっかりと
電飾が外され、元のケヤキの並木道と成りましたが、
歩道は、多くの人達で一杯です。
竹下通りは、入り口からすでに満員電車の状態で、
とても歩ける状態とは言えません。

急きょ、いつもの渋谷への抜け道に入り、ようやくのんびりと
歩を進める事が出来ました。
ここは、かつて渋谷川が有った所で、今では、道路の下になって
その存在すら知られることは少ないのですが、所々に橋の跡や
護岸の跡が残っていて、一般道路と違って、遊歩道になって
車が入って来ない事も有って、のんびりとショッピングを
楽しめます。

歩き続けると、正面に渋谷のビル街が見えてきて、
赤く染まった西の空に大きな黒いオブジェとなって
ノスタルジックな雰囲気です。

中には昭和の風情をした店も有って、どこか懐かしく
大都会の中に合って、落ち着いた雰囲気が素敵です。

30分程で渋谷駅前に着くと、また原宿の様に人混みで
どちら見ても、まるでお祭りの様です。
今日は、渋谷から、原宿の明治神宮に参拝して周回する
いつもの散歩コースで、ゆっくりと新年の雰囲気を味わいました。

今年は、世の中が平和になる事を祈りつつ、自分達の未来に
幸せを願いました。
神頼みをしても、思いがかなえられる保証はないのですが、
思いを新たにこの一年を頑張ろうと心に誓いました。

今年も、予想がつかない多くの事が起こると思われます。
世界情勢を見ても、けっして安穏としていられない状況で、
未来が読めない状態です。

とは言え、また、年の終わりに、一年の短さを感じ、新たな年に
心を引き締める事が出来れば、幸せと思います。
皆さんの一年が、より豊かで幸せであることを願いたいと思います。


先ずは自分の思いにチャレンジ

2015-01-06 15:37:28 | 新年の思い

ゆっくりとコーヒーを口に含ませ、過ぎ去った一年を思い浮かべています。
昨年のこの時期に書いた日記を覗いて見ると、新たなる気持ちで書いた
数々の誓いの思いが、しっかりと書かれた文字の筆圧の強さに読み取れます。

毎年の事ながら、今年こそはと言った思いが一年の計となり、気持ちを新たに

引き締める文章に、その時の決意が思い出されます。
しかしながら、その後の一年を振り返ると、新年の思いとは裏腹に
その半分も成し得なかった決意と、思いもしない予定外の出来事に翻弄される
無能さを知らされる結果になりました。

いつか大人に成り、自分の思う道をしっかりと前を見て歩き

思い描いた成果を上げる事が出来るのでしょうか。
頑張れば頑張るほど自らの無能さが自覚され、自分の存在すら否定されている様で
年を重ねるにつれて、未来に夢を抱く事すら否定的になったしまいます。

子供の頃や学生の頃は、大人と言う存在が、完成品の様に、なんでも自分の思いを

成し遂げて行く憧れの姿として映っていたものですが、現実の自分の姿を見ると、
とても、若い人たちのお手本にはならない事を思い知らされるだけでした。

世の中には素晴らしい先人が数多くいて、彼らの行い全てが自分とは異なった

特殊な能力で有るかのように思えてしまいます。
不平不満、期待と欲望は数々有れど、それを叶える技も力もないのが現状です。

しかし、こんな私も家族がいて、私を慕って付いてきてくれる人もいます。

こんなにも無能の人間から学ぶものが得るものが有るのだろうかと思っていしまいます。

人類は未完成ゆえに進歩したと言う人もいます。

いつも、思いが遂げられず、一生その無能さに苦しまなければならないのでしょうか。
今の生活よりもはるかに苦しく、今の知識や経験の10分の1も無かった若い頃の方が
何倍も心は豊かでした。

でも、こんな思いで毎年振り返ると、いかに自分は進歩していないのだろうかと

心悩んでしまうのですが、足踏みをしているような人生の日々が
思いがけない心を育てていることを最近知る様になりました。

一見マイナスと思われていた様々な行いや結果が、実は、新たなる知識を得たり、

新たなる可能性を知る為の大切な物であることが解って来ました。
沢山の勉強、努力は、良い結果を生む事よりも、自分の行い努力がいかに小さく
狭い物であるかを知る為にあるのです。

多くの知識を得ると言っても、世の中の全てを知ることは不可能であり、

逆に知らない事を自覚させられるのです。
沢山の努力も、その程度の努力では自分の思いを遂げるには余りにも足りない事を
自分自身に知らせる為に大切なのです。

つまり、自分の行ないは、結果の是非に関わらず、自分の求めるものをより明確にし

自分の人生をよりはっきりと自覚する為に有るのです。
一番いけない事は、何もしないでただ時の流れに身を任す事です。
それこそ、思いがけない事に巻き込まれたり、自分の無能さを曝されたりたりするのです。

私達は自分の人生をより明確に自覚する為に、様々な努力を重ねているのです。

自分がこの世に存在する意味は、誰にとっても永遠の未知なる課題です。
しかしながら、様々な努力をして自分を育てる事により、自他共にその存在を
浮き彫りに出来るのです。

今年もいくつかの目標を掲げ、様々な事を成し得ようと頑張るつもりです。

しかし、その結果は問いません。良くても悪くても、自分の行った努力や
行為によって、この1年自分が生きて来た意味が感じられると思うのです。

人類は未完成と言うのではなく、様々なやり遂げられない事を体験する事により

人類として生きて行くための道を見つけているのではと思うのです。