私たち人類は、地球に生きる生物の中で、最も優れた
英知と知識を持って、この世を支配してきました。
単なる食物連鎖の頂点にあるだけでなく、文明を発達させ
より住みやすい世界を作り上げて来ました。
様々な思想や考え方は有るものの、世界中の人々は、
お互いに助け合い地球上のあらゆる所に進出し、
人類は、他の生き物の追随を許さず、地球の全ての
食と資源を独占する事が出来るようになったのです。
しかしながら、それ程にも優れた人類が、残念ながら、
地球そのものを破壊し、他の生き物だけでなく
自分達までも絶滅に追い込む可能性が出てきているのです。
未来を創造し、自らを律する事に依り、間違いを起こすとは
考えられないのに、私達の生活には、様々なトラブルが
絶える事は有りません。
優れた頭脳は、人間同士だけでなく環境に対しても、
問題を生じさせることが多く、本当に生き物の頂点にある
とは言い難い言動行動が後を絶ちません。
この事は、社会的に人の上に立つようになったり、
リーダー的な立場となった方々に目立ちます。
多くの人達が、地位や名誉を手に入れたり、人々の代表と
成ったりすると、途端に、自分の思い通りになるような
錯覚に囚われがちです。
ひとたび自らを優れた人間と位置付けた途端、欲望は限りなく
何でも思い通りになる様に思ってしまいます。
その為、地位を守る為、自尊心を守る為、益々、保身に走り
周囲の人達の言葉が耳に入りません。
特に、自由主義社会と言われる日本は、自由というのをはき違え
我儘を通せると思っている人が多いです。
地位が上がる程、名声が高まる程、欲望の虫が疼き出し、
守銭奴とはなり得ても、人々に喜びを与える術を知りません。
常に、自分の欲望に目が向いている事から、人の気持ちや
心の機微に気が付きません。
社会に於ける様々な環境に於いて、対人的なハラスメントが
日々増え続け、弱者に対し横暴な態度しかとれ無い方が
とても多くなっています。
この事は、明らかに、日本社会が、一部の人達の欲望で
組み立てられ、多くの人々が、その支配下で喘いでいる
と言うのが現状です。
しかしながら、欲望で繋がる社会は、得られる物が無くなれば
簡単に崩壊してしまいます。
例え、社会的に地位や名誉、更に莫大な財を築いたとしても、
それに群がる人が多く、ひとたび、その地位を失墜すれば
あっと言う間に人々の嘲笑の対象と成ってしまいます。
現代社会は、巨大資本によって築かれているものの、
人々の根幹は、人の心に無く、見てくれの試算にある為、
誰もが、常に不安であり、どんなに裕福な生活をしても
心が満たされることは無いのです。
その為、より豊かな生活をすれば、心が満たされると思い
ますます資産を増やし、名声を得ようとするのですが、
残念ながら、経済力が増せば増すほど、人間的な価値や
魅力は失せて行くのです。
この事は、社会一般の人々も同じ傾向があり、日本人全てが
今だ、バブルに踊らされているともいえるのです。
より経済的に豊かに成れば幸せに成るとしか言えない
世のリーダー達は、自分達の価値観でしか物事が判断できず
日本人が本当に求めている事が解りません。
今や日本は、かつての経済大国の力は無く、国民は貧窮し
経済活動は停滞気味です。
唯一活発なのは、やはり、日本を動かす大手資本であり、
国民総生産の殆どを生み出す事からも、ほんの一部の人に
日本は牛耳られていると言えます。
とは言え、この人達もに、日本人として例外ではなく
唯、一般の庶民に比べ、膨大なる資本を保有しているだけで
資産では満たされない、本人自身の心に悩んでいるのです。
豊かな生活をすれば、幸せであると言う時代は終わっていて、
その過去の時代を謳歌しているのが、今の中国国家と言えます。
個人的にも莫大なる資本を融資、世界中に中国マネーをばらまき
今や、中国が風邪を引けば、世界中が風邪を引く程の影響力です。
しかし、この状態は、正に日本の高度成長期と同じであり、
彼らが世界中でもたらす数多くの問題は、かつて日本人が行った
悪行と同じなのです。
日本は、バブル経済がはじけて、苦しい時代になったとは言いますが、
日本人の心を満足させるのは、経済力ではないのです。
確かに、生きて行く為には、豊かな生活が必要かも知れません。
しかし、一部の豊かな生活をしている人達も、少なからず自分達の
何でも手に入る生活を幸せとは思っていないのです。
彼らの幸せは、単に、庶民との比較でしか無く、自分達が選ばれた
生活をしていると言う自己満足であり、比較による幸せでしかないのです。
その為、常に彼らの不安は、その地位が脅かされ、資産を失う事なのです。
財力を考えれば、自分より幾らでも豊かな人は世界中に居て、そんな中で
庶民とは程遠い生活をしていても、いつまで経っても不安は尽きないのです。
人間にとって幸せとは何なのでしょう。
他人より、便利で豊かな生活をする事ではない事は、聡明な方々は
理解しているのです。
人々が不安に思う第一の事は、実は、自分自身の存在価値なのです。
自分の価値は、財産や地位であるとすれば、それ程寂しいことは無いのです。
地位や名誉や資産を取り除けば、何の魅力も無いとされた時、
一体何を持って、人々から存在価値を認められるのでしょうか。
この世に生きていると言うのは、人間ほど知的な生物に成れば、
単に、餌を食べて生きているだけでは満足しないのです。
つまり、食べるために生きている、自分の持ち物の為に生きているのでは
余りにも辛いと言えるのです。
多くの資産を持ったり地位を得たりすれば、それらを守るため生きる事が
自分の目的と成ってしまいます。
つまり、自分の価値は、資産や地位、名誉を守るための管理人に過ぎず、
自分よりも外見的な物の方が価値が有ると言う事です。
幸せに成る為に手に入れた莫大なる資産の方が自分よりも遥かに価値があり
自分自身を癒すために成っていないと知った時、自らの生活環境に押しつぶされ
苦しみを生む事と成るのです。
私達は、普段から、外見的な豊かさに目を奪われ気味です。
その為、この経済社会を維持する為には、常に、人々から注目を浴びる為
新たなる商品を作り続けなければならず、人々も、消費し続ける事が
生きて行く証であるかのように思ってしまうのです。
しかし、次々に与えられたものを手に入れ、消費して行く事で
本当の幸せがやってくるのでしょうか。
昨日の喜びは、翌日には捨て去られるごみの様に価値が消えて行く社会で
人々は、何処に心の拠り所を見つけられるのでしょうか。
確かに、与えられた新製品を次々に手に入れられる人は良いかも知れません。
しかし、どんなに豊かな人であっても、全てを手に入れる事は出来ません。
しかも、手に入れたものが次々に価値を失って行く社会に在って、
この無地獄の様な生活を誰が幸せと思うのでしょうか。
一時手に入れたものの価値で自分の存在価値が判断され、本当の自分は
いつまで経っても正しく評価されない事に、人々は果ての無い悲しみと
寂しさを覚えるのです。
私達人類は、健康であり、食を満たされれば、生き物として生きながらえる
条件を得る事が出来ます。
しかし、それ以上のものを手にしたとして、果たして、自分自身の価値が
上ると言えるのでしょうか。
当然、経済社会に生きる人たちの多くは、より多くの資産や豊かな生活が
ステイタスとなると考えるのかもしれませんが、その価値は、可変であり
いつ変わってしまうかもしれないのです。また、自分自身は、認めても
多くの人々は、何の魅力も感じない事も多いのです。
私達は、どんなに進化しても、しょせん、少し進化した、一匹の裸の猿
に過ぎないのです。
しかし、たまたま、地球上のあらゆる生物より知能が勝り、自分達の
文化を発展させ、テリトリーを広げただけなのです。
肉体的な価値は、哺乳類の中でも上位にあるとは言い難いのです。
となると、私達の一番の価値は、多くの文化や経済歴史を生み出した
私たち自身の心に有るのです。
その心の価値を認められた時、全ての財産よりも大きな宝物を
手に入れたと言えるのです。
現代社会は、個人的な価値よりも付加価値を他人の価値とする傾向があり
この事が、人々の心がいつまで経っても癒されない原因とも言えます。
外見的には何不自由ない生活をしていても、心の中は真冬の空っ風が
吹いていると言う人は多いのです。
私達は、母親の体内からこの世に生まれた時、少なくとも、望まれて
喜ばれて、新たなる家族として、その存在を認められていたはずです。
しかし、成長するに従い、自分の存在価値は、自らの付加価値に変わり
特に社会的に地位や名誉が得られるようになると、もはや、個人的な
価値も魅力も失せてしまうのです。
多くの人が、社会的な肩書きが自分の存在価値となってしまうのです。
しかし、それ程自分の外見的な価値が社会に認められれば、その一方
自分自身へのそれ以上の価値を認めてもらいたいと思うものです。
現代社会の不幸であり、様々なトラブルの根源は、この実際の思いと
現実との差から多く生まれます。
多くの人が、この作られた価値を守ろうとする事で、自らの心を
崩壊させてしまい、深い悲しみの淵に立たされるか、はたまた、
その欲求不満から、多くの人々を傷つけてしまう事になるのです。
金持ちであろうと貧乏人であろうと、どんな社会生活をしていようと
其々の心が満たされる事が、一番人々の幸せに繋がるのです。
例え、自分が幸せな環境に有るからと言って、その事を他人が
同じように幸せと感じることは無いのです。
自由主義社会とは、其々の心の価値観が満たされる社会なのです。
経済的に豊かだけでは、人々の心は癒されることは無いのです。
人を幸せにするとは、その人にとっての価値観である心を
認めてあげ、出来る限り愛してあげる事なのです。