めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

幸せに成れない日本人

2017-12-19 14:32:36 | 日本人

私たち人類は、地球に生きる生物の中で、最も優れた
英知と知識を持って、この世を支配してきました。
単なる食物連鎖の頂点にあるだけでなく、文明を発達させ
より住みやすい世界を作り上げて来ました。

様々な思想や考え方は有るものの、世界中の人々は、
お互いに助け合い地球上のあらゆる所に進出し、
人類は、他の生き物の追随を許さず、地球の全ての
食と資源を独占する事が出来るようになったのです。

しかしながら、それ程にも優れた人類が、残念ながら、
地球そのものを破壊し、他の生き物だけでなく
自分達までも絶滅に追い込む可能性が出てきているのです。
未来を創造し、自らを律する事に依り、間違いを起こすとは
考えられないのに、私達の生活には、様々なトラブルが
絶える事は有りません。

優れた頭脳は、人間同士だけでなく環境に対しても、
問題を生じさせることが多く、本当に生き物の頂点にある
とは言い難い言動行動が後を絶ちません。
この事は、社会的に人の上に立つようになったり、
リーダー的な立場となった方々に目立ちます。

多くの人達が、地位や名誉を手に入れたり、人々の代表と
成ったりすると、途端に、自分の思い通りになるような
錯覚に囚われがちです。
ひとたび自らを優れた人間と位置付けた途端、欲望は限りなく
何でも思い通りになる様に思ってしまいます。
その為、地位を守る為、自尊心を守る為、益々、保身に走り
周囲の人達の言葉が耳に入りません。

特に、自由主義社会と言われる日本は、自由というのをはき違え
我儘を通せると思っている人が多いです。
地位が上がる程、名声が高まる程、欲望の虫が疼き出し、
守銭奴とはなり得ても、人々に喜びを与える術を知りません。
常に、自分の欲望に目が向いている事から、人の気持ちや
心の機微に気が付きません。

社会に於ける様々な環境に於いて、対人的なハラスメントが
日々増え続け、弱者に対し横暴な態度しかとれ無い方が
とても多くなっています。
この事は、明らかに、日本社会が、一部の人達の欲望で
組み立てられ、多くの人々が、その支配下で喘いでいる
と言うのが現状です。

しかしながら、欲望で繋がる社会は、得られる物が無くなれば
簡単に崩壊してしまいます。
例え、社会的に地位や名誉、更に莫大な財を築いたとしても、
それに群がる人が多く、ひとたび、その地位を失墜すれば
あっと言う間に人々の嘲笑の対象と成ってしまいます。

現代社会は、巨大資本によって築かれているものの、
人々の根幹は、人の心に無く、見てくれの試算にある為、
誰もが、常に不安であり、どんなに裕福な生活をしても
心が満たされることは無いのです。
その為、より豊かな生活をすれば、心が満たされると思い
ますます資産を増やし、名声を得ようとするのですが、
残念ながら、経済力が増せば増すほど、人間的な価値や
魅力は失せて行くのです。

この事は、社会一般の人々も同じ傾向があり、日本人全てが
今だ、バブルに踊らされているともいえるのです。
より経済的に豊かに成れば幸せに成るとしか言えない
世のリーダー達は、自分達の価値観でしか物事が判断できず
日本人が本当に求めている事が解りません。

今や日本は、かつての経済大国の力は無く、国民は貧窮し
経済活動は停滞気味です。
唯一活発なのは、やはり、日本を動かす大手資本であり、
国民総生産の殆どを生み出す事からも、ほんの一部の人に
日本は牛耳られていると言えます。

とは言え、この人達もに、日本人として例外ではなく
唯、一般の庶民に比べ、膨大なる資本を保有しているだけで
資産では満たされない、本人自身の心に悩んでいるのです。
豊かな生活をすれば、幸せであると言う時代は終わっていて、
その過去の時代を謳歌しているのが、今の中国国家と言えます。
個人的にも莫大なる資本を融資、世界中に中国マネーをばらまき
今や、中国が風邪を引けば、世界中が風邪を引く程の影響力です。
しかし、この状態は、正に日本の高度成長期と同じであり、
彼らが世界中でもたらす数多くの問題は、かつて日本人が行った
悪行と同じなのです。

日本は、バブル経済がはじけて、苦しい時代になったとは言いますが、
日本人の心を満足させるのは、経済力ではないのです。
確かに、生きて行く為には、豊かな生活が必要かも知れません。
しかし、一部の豊かな生活をしている人達も、少なからず自分達の
何でも手に入る生活を幸せとは思っていないのです。

彼らの幸せは、単に、庶民との比較でしか無く、自分達が選ばれた
生活をしていると言う自己満足であり、比較による幸せでしかないのです。
その為、常に彼らの不安は、その地位が脅かされ、資産を失う事なのです。
財力を考えれば、自分より幾らでも豊かな人は世界中に居て、そんな中で
庶民とは程遠い生活をしていても、いつまで経っても不安は尽きないのです。

人間にとって幸せとは何なのでしょう。
他人より、便利で豊かな生活をする事ではない事は、聡明な方々は
理解しているのです。
人々が不安に思う第一の事は、実は、自分自身の存在価値なのです。
自分の価値は、財産や地位であるとすれば、それ程寂しいことは無いのです。
地位や名誉や資産を取り除けば、何の魅力も無いとされた時、
一体何を持って、人々から存在価値を認められるのでしょうか。

この世に生きていると言うのは、人間ほど知的な生物に成れば、
単に、餌を食べて生きているだけでは満足しないのです。
つまり、食べるために生きている、自分の持ち物の為に生きているのでは
余りにも辛いと言えるのです。
多くの資産を持ったり地位を得たりすれば、それらを守るため生きる事が
自分の目的と成ってしまいます。

つまり、自分の価値は、資産や地位、名誉を守るための管理人に過ぎず、
自分よりも外見的な物の方が価値が有ると言う事です。
幸せに成る為に手に入れた莫大なる資産の方が自分よりも遥かに価値があり
自分自身を癒すために成っていないと知った時、自らの生活環境に押しつぶされ
苦しみを生む事と成るのです。

私達は、普段から、外見的な豊かさに目を奪われ気味です。
その為、この経済社会を維持する為には、常に、人々から注目を浴びる為
新たなる商品を作り続けなければならず、人々も、消費し続ける事が
生きて行く証であるかのように思ってしまうのです。

しかし、次々に与えられたものを手に入れ、消費して行く事で
本当の幸せがやってくるのでしょうか。
昨日の喜びは、翌日には捨て去られるごみの様に価値が消えて行く社会で
人々は、何処に心の拠り所を見つけられるのでしょうか。

確かに、与えられた新製品を次々に手に入れられる人は良いかも知れません。
しかし、どんなに豊かな人であっても、全てを手に入れる事は出来ません。
しかも、手に入れたものが次々に価値を失って行く社会に在って、
この無地獄の様な生活を誰が幸せと思うのでしょうか。
一時手に入れたものの価値で自分の存在価値が判断され、本当の自分は
いつまで経っても正しく評価されない事に、人々は果ての無い悲しみと
寂しさを覚えるのです。

私達人類は、健康であり、食を満たされれば、生き物として生きながらえる

条件を得る事が出来ます。
しかし、それ以上のものを手にしたとして、果たして、自分自身の価値が
上ると言えるのでしょうか。
当然、経済社会に生きる人たちの多くは、より多くの資産や豊かな生活が
ステイタスとなると考えるのかもしれませんが、その価値は、可変であり
いつ変わってしまうかもしれないのです。また、自分自身は、認めても
多くの人々は、何の魅力も感じない事も多いのです。

私達は、どんなに進化しても、しょせん、少し進化した、一匹の裸の猿

に過ぎないのです。
しかし、たまたま、地球上のあらゆる生物より知能が勝り、自分達の
文化を発展させ、テリトリーを広げただけなのです。
肉体的な価値は、哺乳類の中でも上位にあるとは言い難いのです。
となると、私達の一番の価値は、多くの文化や経済歴史を生み出した
私たち自身の心に有るのです。

その心の価値を認められた時、全ての財産よりも大きな宝物を

手に入れたと言えるのです。
現代社会は、個人的な価値よりも付加価値を他人の価値とする傾向があり
この事が、人々の心がいつまで経っても癒されない原因とも言えます。
外見的には何不自由ない生活をしていても、心の中は真冬の空っ風が
吹いていると言う人は多いのです。

私達は、母親の体内からこの世に生まれた時、少なくとも、望まれて
喜ばれて、新たなる家族として、その存在を認められていたはずです。
しかし、成長するに従い、自分の存在価値は、自らの付加価値に変わり
特に社会的に地位や名誉が得られるようになると、もはや、個人的な
価値も魅力も失せてしまうのです。

多くの人が、社会的な肩書きが自分の存在価値となってしまうのです。

しかし、それ程自分の外見的な価値が社会に認められれば、その一方
自分自身へのそれ以上の価値を認めてもらいたいと思うものです。
現代社会の不幸であり、様々なトラブルの根源は、この実際の思いと
現実との差から多く生まれます。

多くの人が、この作られた価値を守ろうとする事で、自らの心を
崩壊させてしまい、深い悲しみの淵に立たされるか、はたまた、
その欲求不満から、多くの人々を傷つけてしまう事になるのです。
金持ちであろうと貧乏人であろうと、どんな社会生活をしていようと
其々の心が満たされる事が、一番人々の幸せに繋がるのです。
例え、自分が幸せな環境に有るからと言って、その事を他人が
同じように幸せと感じることは無いのです。

自由主義社会とは、其々の心の価値観が満たされる社会なのです。

経済的に豊かだけでは、人々の心は癒されることは無いのです。
人を幸せにするとは、その人にとっての価値観である心を
認めてあげ、出来る限り愛してあげる事なのです。




人間が呼び寄せる大絶滅

2017-12-12 18:58:34 | 自然災害

かつて、地球の歴史の中で、5度有った大量絶滅は
地球上の生き物の殆どを絶滅させる程の大惨事であり
地球規模の天変地異や隕石落下と言った、自然現象が
原因と成ったものでした。
しかしながら、そのサイクルは、人類の歴史以上に長く
その惨事を私達が体験する可能性はほとんど無いと
言われていました。
次回もいつの日かやって来ると言われてはいますが、
その遥か未来を心配する必要は有りませんでした。

所が、最近、その時期が非常に間近に迫っているのではと
懸念する学者が増えて来ました。
確かに、世界的に地殻変動が活発化し、各地で地震や噴火が
頻発していますが、それとて、地球規模の時間の流れからして
それ程、緊急に心配する事とは言えません。

では、一体、何が問題なのでしょう。
従来通りの地球のサイクルからすれば、次の大絶滅まで
人類が心配する事が無いと言えるのに、一体どんな災害が
訪れると言うのでしょう。
多くの学者が心配する要因は、私たち人類が、過去100年
程の短い間に、地球環境を変えてしまった事です。

化石燃料を大量に使い、空気も水も汚染してしまった事に始まり
私たち人間だけでなく、地球上のあらゆる生物を絶滅させる程の
環境を作ってしまったのです。
未来を懸念する最大の問題は、地球温暖化です。
化石燃料の大量使用による大気中の二酸化炭素の増加は、
単に、気温を高くしたと言うだけでなく、その事に依り、
地球上のあらゆる生物の生態を変えてしまう事になったのです。

気温の上昇は、生き物同士の食物連鎖のサイクルを壊し、
人類にとっても最も大切な、食料確保を難しくしてしまったのです。
年々砂漠化は速度を増し、近い将来、穀物が非常に不足すると言われ
人類の食料だけでなく、家畜の食料も不足する事と成るのです。
現在に於いても、多くの発展途上国に於いては、深刻な
食料不足が争いの原因とも成っています。

この事は、先進国に於いても、決して他山の石とは言えず、
近年世界中に頻発するテロや戦争の原因の多くが、
食料とエネルギー資源を求めて起こっています。
更に問題は、多くの食料が先進国に集まっていて、
食料不足の国々が、一向に潤う事が無い事です。
同じ地球上に住みながら、富める国と貧しい国の生活差は著しく
その差は縮まるどころか、益々、大きくなっています。

世界には様々な文化や思想、宗教が有りますが、
様々な考え方の違いは有っても、根本的には、その考えに生きる
人間たちが幸せな生活が出来ると言う事です。
その根本が、食料が満たされていると言う事です。
人間は生き物ですから、誰もが、食料無くしては生きられず、
生きる原点は食に在るのです。

しかしながら、この食の原点が満たされない国々や地域が
増えているのです。
しかも、その原因が、先進国による食糧や資源の搾取であり、
一方的な繁栄なのです。
資源を持つ貧しい国は、昔から、列強の餌食となり、
先進国による略奪行為は、国の経済を根本から破壊しました。
多くの発展途上国は、かつての植民地と変わらない境遇で
国民の多くが飢え苦しんでいるのです、

そんな中、自分達の国の惨状を回復させるために使われるのが
軍事行動であり、テロであり、核兵器による脅しなのです。
このどれにも共通な事は、貧困であり、食糧難です。
一方的な富の搾取に、最後の手段を使っていると言えるのです。
世界各地で頻発するテロは、その事で、決して体制は変わらずとも
豊かな生活を妬み憎んでいる人間がいる事を示しています。

自分達の土地を奪われたり、資源を盗られたり、国を分断されたり
戦争で国民を傷つけられたり殺されたりした事への怒りが、
世界中で勃発していると言えるのです。
さらに最近は、世界のリーダー達のエゴイスティックな行動や発言が
多くの問題を生んでいます。
世界は、平和になるどころか、益々混沌として、多くの国々では
必要以上の緊張が生れていて、更なる争いが生れています。

限られた資源を大切に未来に繋げて行こうと言う考えから、
未来の事より今の利益を考える、独断的な風潮が高まって、
世界の平和は、風前の灯と成っているのです。
中でも、大国のエゴは、世界の緊張を高める事と成っていて、
テロの心配だけでなく、核戦争をも辞さないと言う強硬派が
幅を利かせてきているのです。

過去、100年程の地球の温暖化は、過去数千年に渡る変化よりも
遥かに著しく、その上昇率を見ると、第六の生物大絶滅が
近々やって来るのではと懸念してしまいます。
既に、地球上の生き物達は、毎日絶滅速度を増していて、
身近な生き物以外の、普段私達があまり気に留めない多くの
生き物達が居なくなっている事が解っています。

この事は、たまたま、周期的に動植物の繁殖率に波が有って
また、回復すると言う期待感が有るのですが、過去50年程
生き物達の復活はと殆ど知られていなくて、多くの場合、
絶滅危惧種となったり、絶滅してしまった種の方が断然に多く
地球の平均気温が1~2度上がれば、生き物達の半数は、
生きて行けない、と言われています。

しかし、学者たちの予想は、その程度の上昇にとどまらず、
近い将来、生き物達が生活繁殖できない程に気温が上昇し
それに伴い、様々な異常気象が人々を悩ますと予想しています。
今や、富める国と貧しい国に世界は分かれているのですが、
これも、将来、全ての人類が、生活して行く事に苦労する
食の奪い合いの時代が予想されています。

当然、この混乱は、世界中で起こり、人々の争いは日常的となり
食料と資源を求めて、世界大戦に発達するかも知れません。
核のバランスも崩れ、世界中が核兵器で戦う事と成れば、
既に、地球上の生き物の住む場も生きる場も失われるのです。
数少ない食料を奪い合うも、いずれ、全てが砂漠の様に成り、
地球上の生き物と同じく人類も絶滅と成ってしまうのです。

どんなにあがいた所で、地球温暖化は止めれれないからと言って
残された資源を無駄に使う事は、より、その日を近づくだけであり、
人類にとって得策とは言えません。
使う事を前提とした生き方は、いずれ、争いを呼ぶことは明らかであり
食糧危機やエネルギー不足以上に悲惨な日々がやってくるのです。

私たち人類は、たかだか600万年程生きているに過ぎません。
しかし、その殆ど、99%以上は、安定した大気の下で、
食物連鎖に則りながら、大自然の中の生き物の1つとして
生きていたのです。
たった1%にも満たない間に、地球を破壊し、自分達の命をも
縮める蛮行を働いたのです。
人類の進歩というのは、明らかに、人類の驕りであり横暴です。
自分達だけでなく、地球上の全ての生き物を道連れにする事は
地球に生きる生き物としては有っては成らないのです。

しかし、人類の英知と言うならば、もう少し進歩すれば、
その英知の象徴ともいえる人工頭脳が私達の生活を変えてくれる
はずです。
究極の経済性を持った便利な世界が訪れると考えられるのです。
人間の全ての仕事を引き受け、人類が最も幸せでいられる方法を
AIが見つけてくれると言います。

となると、地球温暖化と言った危惧は、それ程心配しなくても
良くなるのではと思われる方も増えて来るでしょう。
しかし、そんなに事は上手く行くとは言えません。
今や、AIの進歩は、劇的と言われ、数年後には、人間の知能を
遥かに超えてしまうと言われています。

これまで、感情や対人対物のセンスを持つ事は、難しいとされ、
究極のスピードを持った処理能力ロボットの様に思われていましたが
既に、感情を抱き、心の機微すらも感じ取るAIも開発されつつ
あると言われています。
つまり、人間以上に人間の感情を持った、パーフェクトともいえる
機械が完成されつつあるのです。

今でも、多くの学者は、管理するのは人間なのだから、人間に不都合な
ロボットやAIは生まれないとしていますが、その一方、人類の予想を
遥かに超えたAIの誕生も夢では無いとしています。
問題は、この人類を超えたAIは、自らで物事を判断し、人類の思い
を遥かに超えた知的感情を持つ可能性が有る事です。

つまり、地球にとって、最も相応しい状況を導き出したとき、
果たして、私達人類は必要とされるのでしょうか。
いや、地球にとって危険な生き物として排除されるのでしょうか。
機械ですから、その判断は即決であり、あっと言う間に、人類は
抹殺される可能性も有るのです。

すべからく、生き物は、遺伝子の中に、絶滅への道を持っていると
言われています。
多くの種が地球に誕生し繁栄し滅びる仕組みは、既に決められて事として
遺伝子に組み込まれていると言います。
ならば、人間の遺伝子に組み込まれた絶滅への道はいったい何でしょう。

そう考えると、私達は、AIを何故作ったのかが解るような気がします。

私たち人類は、人類の英知を持って、自分達を絶滅させる機械、そう
AIを作ったのかもしれません。
全ては、私達の遺伝子に組み込まれた人類の発生から絶滅への
ストーリーなのかもしれません。
ならば、様々な独裁者が生れ、世界を恐怖に陥れるのは、
決して本人達が異常なのではなく、既に、絶滅への遺伝子が
働きかけているのかも知れません。

 

 

 

 

 

 





 


攻撃的な表情の人々                             

2017-12-09 18:54:10 | 日本人

長く人生を生きていると、楽しい事も多いものの
人の心の苦しみや悲しみが見えてくる事が少なく無く、
外見でだけでは解らない事が実に多い事に気が付きます。
若い頃は、目で見える状況や印象が気になるものですが、
その背後にある物語は、外見とは裏腹であることが
実に多いのです。

特に、人の心は千差万別であり、多くの人達は、
誰から見ても、本心が悟られない様に、社会的に
無難と思われる表情を示します。
人は、他人からの評価を非常に気にするもので
如何に、自分の存在価値が認められ、自分が
社会の人達に受け入れられるかを求め、逆に
否定的な評価を受ける事を嫌います。

その為、まず、自分の心を傷つけられない様に
心を見透かされない様、防衛的な表情で固め、
知らない人に対しては、常に、否定的な表情で
対処する様に成ってしまうのです。

所が、かつて、日本人は、周囲の人達と
仲良くする為に、常に、人と顔を合わせれば
にこやかな表情で対応したものです。
それは、日本人が、にこやかな表情をする事で
自分は、貴方の敵では無いと伝える事で、
余計なトラブルを呼ばないで、平和な毎日を
過ごしたいと言う願いが有ったのです。

その為、初めての人と顔を合わせる時も、
言葉の前に、笑顔で対応する事が当たり前であり、
お互いに、安心感を持って物事にあたったのです。
この事は、本当に心から嬉しくての表情ではなく、
誰に対しても見せる事から、欧米の方々からすると
一体、日本人は何を考えて居るのか、ミステリアスに
感じる事も多いのです。

しかしながら、日本人も、世界の人々と多く接する
機会が増えて来ると、欧米人の様に、まず、自分の
意見、欲望を、全面的に出してくる人が多くなりました。
特に若い世代に成程この傾向は強く、誰に対しても
まず自分の事を主張する事から、高齢者や目上の人に
嫌な思いをさせている事も多いのです。

テレビなどに出て来る子供達も、小さい頃から
自分の意見をシッカリと言えることを求められ、
大人顔負けの言動に、驚かされる事も少なく有りません。
とは行っても、日本社会に於いて、常に、自分の主張を
唱える事は、余り好まれず、やはり、日本人の特性として
人の意見を良く聴き、相手の気持ちを察する事が出来る
社会的に大人である人が信頼を得ると言えるのです。

今や、この二つのタイプの日本人が混在していて、
如何に、時と場合に応じて、対人関係を構築できるかが
自らの未来を決めると言っても過言では在りません。
問題は、常に自分の能力を高め、自分の事だけを考えて
育って来た、社会的に地位の有る人達です。
消費経済社会で生きて行く為のノウハウを身に付けるものの
対人的な勉強が疎かになっている社会人が増えているのです。

確かに、人よりも優る能力を身に付け、社会的に高い地位を
勝ち得たとしても、その事で、多くの人達の祝福を受けられず
むしろ、妬みや嫉妬を生み、心からその存在を認められない
リーダー達が少なくないのです。
何でも手に入れられる地位や財産が有れば、自分の思いは
達成されると思っている事が、不幸を味わう、最大の欠点
とも言えるのです。

経済性を主体にした生き方は、経済性を取り除いたら、
何の魅力もない事が多く、むしろ、人から嫌がられる存在
でしか無い場合が有るのです。
多くの人が集まったり、自分の仕事を手伝ってくれるのは
自分自身の価値ではなく、作り上げた社会的地位や財産が
有ってこそという場合が少なくないのです。

その為、面と向かっている時は、王様の様に称えられようと
オフレコでは、誹謗、中傷、罵声が飛び交うのです。
この事は、日本中の地位ある方々にありがちな事であり、
更には、日本を代表する政治家や企業家にしても同じです。
多くの日本人が、本当に心から支えたいとする政治家や
リーダーが少ない事が大きな問題であり、利益を伴えば
まるで、砂糖に集る蟻の様に集まって来るだけの支持者では
どんなに優れた企業であっても、砂上の楼閣なのです。

日本人は、今の様に、経済的豊かな時代を生きて来たのは
ほんの最近の事であり、数千年に渡り、食べる事さえ苦しく
日々の生活で精一杯の時代が多かったのです。
度々起こる天災は、日本人の生活を根本から破壊する事も有り
歴史的に言っても、苦しい時代が多かったのです。

しかしながら、それでも、日本人は、置かれた環境で
逞しく生きて来たのです。
何度災害に苦しめられても、互いに助け合って、
全ての人が幸せに成る様、助け合う事が当たり前だったのです。
人の不幸を見た時、まず、笑顔で苦しい気持ちを癒し、
お互いに幸せに成る事を考えたのです。

この事は、災害をもたらす自然に対しても、
どんなに苦しめられようと、自分達が自然に生かされている事を
心から感謝し、憎む事は有りませんでした。
時に、災害で生きる術を失ったとしても、自然の懐で生きれば
新たなる喜びと命の糧を得られる事を知っていました。

その為、自然を、人間の都合で変えて行こうとする事はほとんど無く、
自然とも共存する事を、日本人の生きる道としてきたのです。
この生き方は、対人関係に於いても生かされていて、人々は、
家族の間に於いても、他人との関係に於いても、お互いに
幸せに生きる事を前提としていたのです。

つまり、人を押しのけ、傷つけ、自分の事だけを考えると言う事は
日本人には考えられない生き方と言えるのです。
単に、便利で豊かな生活が出来るからと言って、日本の自然を傷つけ
周囲の人々に嫌な思いをさせてまで、自分の欲望を満たそうとするのは
真の日本人の姿とは言えないのです。

この、私達の心が欲しない日本人の考え方で政治をしても、社会を
経済的に豊かにしても、日本人の心は決して幸せにはならないのです。
多くの日本人が、社会が求めている生き方をすれば、経済的に便利で
豊かな生活となるからという理由だけで、大切な日本人の心を
忘れてしまっているのです。

当然、自分が嫌な思いをする事を他人にすれば、同じような態度で
周囲から見られるのです。
日本人の表情が、年々横柄に成ったり、敵対的に成ったり、無関心に
変わって来ているのは、如何に、今の日本の教育、社会の価値観が
日本人にそぐわないかと言う事です。

経済的に豊かな生活が出来るようになったのに、一向に日本人が
心から幸せを感じられないのは、幸せの基準を、経済性に求める
社会に苦しんでいるからなのです。
相変らず人の物を欲しがり、少しでも経済的に豊かになれば
幸せに成ると信じている人達が多いのが問題です。

私たち日本人は、人を幸せにして自分が幸せを感じる民族であり、
自然を愛し、自然に抱かれる事で、心豊かな人間になれるのです。
今の生活が、どれだけ人を幸せにしているのか、どれだけ
自然を大切にしているのか、殆どと言って出来ていない事に
日本人の一人として悲しみと憤りを感じてしまいます。


消費経済国家に生きて

2017-12-08 17:29:38 | 日本人

部屋を見渡せば、これまで、自分が手に入れて来た
様々な物が、目に飛び込んできます。
そのどれをとっても、必要であったら、欲しかったから
手に入れた物ばかりです。
もちろん、今住んでいる住居も、必要であるからこそ
長きに渡って住み続けているのであって、私の人生は
これらの品々が語っているとも言えるのです。

かつて手にするには余りにも高価であった物が、今では
部屋の隅で埃を被っているこの現実は、昔は、全く
思いもしない光景と言えます。
例え、高価でなくとも、家中に集められた物すべては、
手に入れたその時は、自分にとってとても価値の有る
欲求を満たすものであったのは間違いありません。

しかしながら、今思うと、その多くが、今の自分にとって
全くと言って良い程価値観が感じられず、今でも、
生活に役に立っているもので、無くなっては困る物で
有ったとしても、心が動かされる事はほとんど無く、
唯、当たり前にそこに存在しているに過ぎません。

この様に、自分の身の回りにある、自分が関わって来たものが
月日と共に、その存在価値が薄れて行く事は珍しく無く、
この事実が、満たされた生活をしている様で、実は、
何の感動も呼ばない、どちらかと言えば、退屈でつまらない
日々と成っているとも言えるのです。

この事は、対物的な事のみならず、対人的な場合に於いても
同じような傾向が見られ、例え、身近に生活している仲間や
家族に対しても、月日と共に、その存在を感じなくなってしまい
部屋に溢れる生活物資と同じく、自らの心から薄れて行くのが
果たして良いものなのか、これが、人生における、心の
成長と共に衰えとも感じざるを得ません。

私達は、何十年も同じものを食べていても、その味覚は、
年と共に衰え、食べる事の欲求も感動も失われると言われています。
同じ味の食べ物であっても、子供の時に食べた時の感動と、
大人になって、更には、高齢と成って食べた時とは、
大きく変わっていると言われれます。
ただ、月日の長さに比例して、様々な知識が蓄積され、
感じられない味わいを、知識を足す事に依り、若い頃と同じく
新鮮な感覚として表現する事は出来ると言います。


問題は、男女の関わり合いと言えます。
ただでさえ、水と油の様に心も身体も違っている男女が、
本能の力らも有って、お互いに求め合って、家族を作るまでに
発展したにもかかわらず、その時の気持ちが、何十年も続き
常に、同じ気持ちを維持する事は、非常に難しいと言えます。

しかしながら、知的動物である人類は、最も素晴らしい
関わり合いを持っていた時の心と身体にすべく、様々な努力を
重ねる事で、多くの夫婦が、何十年も連れ添って生きて行く
良好な関係を保つことが出来るのです。
例え、若い頃の蜜月の日々と同じ生活をする事は出来ないにしても
その年齢に応じたお互いの理解は出来るものなのです。

人間と物とを同じように考えるのは良くない事かも知れません、
しかし、時に、人は、人間以上に物の価値を優先する事もあり
単に、人間の価値は、地球よりも大きいと言うのは、現実では
感じられないのが普通と言えます。

とは言え、私達の生活は、多くの物に溢れ、その中で生きている
事実は変えられません。
一度手に入れてしまえば、その後の価値は薄れるとは言え、
持っているという思いは、自分の気持ちを安心させる事も有り
何も持たない生活よりも、遥かに豊かであるともいえるのです。

私たち人間は、生まれてから死ぬまで、計り知れない程の
生活物資を得る事が生きている証であるとも言え、この事が
自分の存在価値を知らしめることに成っているとも言えます。
その為、誰もが、より多くの欲望を満たす事を生きがいとし
欲しい物が何でも手に入れられる生活を求めます。
上手く思いが遂げられる生活とも成れば、社会的にも
人々から羨望の目で見られるほどの財を得る事が出来ます。

これこそ、多くの人々が目指す姿と思えるのですが、
果たして、その目的を達し得た時、人は、どれ程の感動を
得る事が出来るのでしょうか。
かつて、何も手に入れられなかった時代からすれば、
それこそ、もう死んでも良いと思う位の喜びに満ち溢れ
人生の勝者として胸を張るのでしょうか。

しかし、その時は有るにせよ、次第にその感動は薄れ、
今、自分の周囲を見渡す気持ちと同じく、私達は
歓びも達成感も感じられなくなって行くのではないでしょうか。
この、消費経済国家の中に生きて、何かを得る事に依る
歓びを繰り返す事で、満足感を得続けているのかも知れません。
得る事への強い思いが有り、その思いを達成するたびに
想いが消えて行く、その気持ちをもう一度味わいたく
更なる欲求を生んでいくのが、人生の繰り返しと成って
生きる満足感と成っているのかもしれません。

ならば、次々に新たなる欲求を満たす人生を送れば
どれ程幸せであるか、誰もが、欲しい物を手に入れる事で
幸せに成って行くはずなのですが、その様に単純に、
事は進みません。
次から次へと、欲求を満たしながらも、満足できないとは
いつまで経っても、心が満たされず、幸せを感じる事が
出来ないとも言えるのです。
そう、永久に、欲求不満の状態が続くのです。

現代社会の最大の問題。
それは、人々に、次々に物欲を満たさせようとする事であり、
手に入れたものが直ぐに色あせて行く事です。
例え、誰もが羨むほど高価な物を手に入れても、
次の瞬間、もう、それは光り輝く事が無くなり、
新たなる欲求を生むと言う事です。
つまり、消費経済社会を持続する為には、
常に、国民が、欲求不満の状態を生む事が必要であり
国民が、新たなるものを求めたくなる社会を作る事です。
この事に依り、国内経済は留まる事のない発展を呼び、
膨大なる資産が生み出される事と成るのです。

この仕組みは、消費経済国家としての在り方の基本であり
如何に、人々に、物を買わせ、飽きさせるかがポイント
と言えます。
しかし、現代の日本の象徴ともいえるこの社会形態は
はたして、本当に国民を満足させ、幸せにさせている
と言えるのでしょうか。

子供の頃から、この形態に準ずるように教育されて

育ってきたとはいえ、どんなに豊かな生活をしても
心から満足できない生活に、幸せは有りません。
いつもつま先立ちの安らぐ事の無い人生は、
死ぬまで、本当の幸せをつかむ事は出来ないのです。

私達の社会には、どんどん消費される物があるものの

長きに渡って残っているものも有ります。
歴史的に価値を認められ、何百年の年月の間、
人々に親しまれ、大切にされているものも有ります。
つまり、捨てられないで残る物の価値は、人々の
心に安心と幸せを生んでいると思われます。

私たち日本人は、経済的に発展して来たとは言え

この過去から未来に続けるべき物達のお陰で
心を安らぎ、自分自身をもう一度見つめなおす事に依り
現実の苦しさから逃れる事が出来るのです。

中でも大切な物は、日本の大自然です。

私達日本人を育て来た、日本人の心を創り上げて来た
最も大切な物が、日本の美しい自然なのです。
生きる為の命の糧を得る事も、生活する為の様々な
物資を作り上げる事が出来たのも、自然が有ったからこそ
と言えるのです。

しかしながら、ここ100年程の日本の経済発展は

この大自然を破壊する事で成り立って来たのです。
便利で豊かな生活をする為に、大切な日本の自然を
ことごとく破壊し続けて来たのです。
日本中の海も山も、川も平地も、全てが、人々の行った
むごたらしい傷跡で見るも無残な姿をみせています。

いつもそこに在る物として、利用する事は簡単と言え

ひとたび破壊してしまうと、その復活には、破壊以上の
遥かなる時間が必要です。
しかし、便利で豊かになったのだから、自然が壊れようが
問題ないと思われがちですが、過去から未来に続く日本の
心の遺産が消えて行く時、私達の心を癒すものは無くなり
日本人は、一生、消費経済に振り回され、生きる価値も
生きる目的も見失い、欲求不満の苦しい人生しか
送る事が出来ないのです。

足りない物は、経済力に任せて買えば良いと考えても
所詮、それは、一時の満足を満たすに過ぎず、
常に、買い続ける人生を送らなければならないのです。
幸せな生活、豊かな人生とは、一人一人の心の欲求を
満たすものであり、誰もが欲しがるものでは無いのです。

増して、直ぐに消費してしまう様なものは、心を満たし

満足させる事は出来ないのです。
この事は、物だけでなく、対人関係に於いても同じ事で
便利に存在しているだけの友や家族であってはならず、
生きる為の心の糧を得られる相手でなければならず、
自分もそうである事が大切なのです。
消費経済大国である日本に在って、物に対しても
人に対しても、果たして、自分の存在は、何なのか
改めて熟考してみる事が必要と思われます。




情報操作の怖さ

2017-12-07 17:13:11 | 日本人

師走と成って、世の中が慌ただしくなって来ましたが
クリスマスが近い事も有って、夜ともなりますと
都内の至る所で、美しいイルミネーションが輝き
紅葉がひと段落したとはいえ、夜の華やかさは
私達の心を興奮させます。

最近は、LEDの進歩と共に、様々な輝きが演出され
昼間以上に、都内の何処に行っても、色とりどりの
光の海が、夜遅くまで人々を釘付けにしています。
世の中が不景気と成って、都内の飲食店やイベント場も、
夜ともなると、早々と店を閉める事が多かったのですが
最近は、各地にイルミネーションの観光スポットが増え
それに伴い、多くの店舗が、夜遅くまで店を開けていて
少しづつ、人々の気持ちも明るくなっている様です。


しかしながら、私達の置かれている現状は、そんな光景に
浮かれてばかりは居られません。
最近の東アジア情勢は、益々予断を許さない状況となって
下手をすれば、一発触発の異常事態となる可能性が有るのです。
近年では最大規模のアメリカと韓国の共同軍事行動は、
まじかに戦争の火蓋が切られても不思議ではない程の
緊迫感を漂わせています。

とは言うものの、ここ1か月程のメディアの情報は、
私たち日本人が不安を抱えるほどのものでは無く、
その代わりに、相撲界の不祥事が、盛んに取り上げられ
多くの人々の関心が国内事情に向いている様に思えます。
この事は、情報統制が敷かれているのでは、と思わせる程
メディアで取り上げる国際情勢への関心の薄さが感じられ
国民の多くの心から、戦争への不安が消えています。

もちろん、国民の不安を取り除くのも政府の役割と言えますが、
正しい情報が国民に伝わっていないのではと、思ってしまいます。
これまで、明治以降、日本政府が国民に示した戦争までの態度は
国民への不安を全く感じさせないものであり、例え戦争に成っても
我が国の勝利しか報道されないものでした。

この情報操作は、敗戦の日まで行われ、多くの日本国民が、
天皇の玉音放送を持って、初めて日本が負けたことを知ったのです。
私達の生活は、常に、政治家や企業家によって守られ、世の中は
国民を幸せにするために進歩しているというのは夢物語で、
現実は、常に、一部の方々の都合に合わせて作られていると
言えるのです。

世界の先進国の1つとして挙げられているとはいえ、
日本社会は、日本を市場とする、多くの利益を目論む人達で
作られているのであり、その社会を維持するために、国民が
存在していると言っても過言ではないのです。
例え、発展途上国よりも遥かに豊かな生活が出来ていると言え
日本国民が、常に生活不安や、環境不安にストレスを抱えて
生活している事実は、日本人の心に、安心と幸せが無い事を
示しています。

外見的な美しさ豊かさに常に惑わされて、現実の苦しみから
逃避しているに過ぎず、心から余裕を持って生活している日本人が
如何に少ないかが大きな問題です。
基本的人権が守られていると言いながら、生活や人生に不安を感じ
将来を愁う日本人はいかに多い事か、豊かな生活を営む事が出来る
政治家たちが実感する事は無いのです。

経済的に豊かな国と言いながら、生きていく上で、自らの生活や
健康を保証される事無く、常に、未知の不安におびえながら、
病に伏さない様に健康食品や日常生活に気を配り、保証されない
暗い未来の為に、幾つもの保険に入っている方はとても多いのです。
豊かな社会で生活するために必要な経費は多く、常に、つま先立ちの
生活を強いられている日本人は、自分達の生活を豊かにすると言うより
多くの収入をそのまま、国や企業に費やす毎日です。
また、社会も、政治家や企業家により、より出費するように仕向けられ
収入よりも支出の多さで苦しむ家庭が殆どと言えるのです。

しかしながら、メディアの情報は、日本経済の復活、国民生活の向上を
国民に伝えます。いったい、どこの誰が、豊かに成っているのだろうかと
思ってしまう記事が並びます。
確かに、様々な分野で、年々進歩がみられる様ですが、その事で、国民が
幸せに成っているという情報は、ほとんど入って来ません。
それもそのはず、多くの黒字を出している企業は、殆どが大手であり、
中小企業や、一般の小売店舗は、相変わらずに厳しさなのです。

街の商店は、大手のスーパーやホームセンターと言った大規模店舗に
客を捕られてしまい、殆どの市町村で、進出して来た企業により
益々衰退しているのが現状であり、シャッター街が減ることは無く
その跡地に、巨大店舗が出現しているのは珍しくありません。
しかしながら、この大型店舗が、地域に多くの利益を生んでいるというのは
便利さという点だけであり、老舗店舗の閉鎖や中小店舗の閉店は
相変らずであり、職を失った人達、更には、その家族の悲惨さは、
メディアに登場する事は有りません。

地方都市を訪れると、メディアに常に登場する大型企業が多く、
何処の街に行っても、その街の主要産業が、新たに進出した
大規模店舗である事が多いです。
しかも、全国規模の店舗が多く、何処に行っても同じものが手に入り
非常に便利とは言え、その土地の特性も歴史も無い、ただ、大量販売を
目的とした商品ばかりが並びます。

つまり、日本中の街が、一部の大型企業に独占されて行く傾向が有り
そこに住む人達の生活は、自分達の生活を豊かにする為というより
大型企業をより豊かにする為に在ると言えるのです。
世の中全てが、日本を動かしている一部の大型企業や富裕層によって
作り変えられて行く事は、日本人にとって、決して幸せな事とは
言えないのです。

かつて、高度成長期には、日本中に巨大コンビナートが作られ、
膨大な利益を生むために、海岸の干拓地には、巨大工場地帯が作られ
多くの製品を生むために、膨大なる産業廃棄物や汚染物質が
日本中の自然を破壊しました。
その結果は、今でも、日本中に残る悲惨な破壊跡に見られ、多くは
負の遺産としていまだに国民生活を脅かせています。

日本の自然が破壊され、海は汚染され、多くの日本の生物が絶滅し、
人々の健康も損なわれました。
この原因も明らかに、一部の暴利をむさぼろうと暴走した大手企業と
その恩恵に預かろうとした政治家たちにあり、いつの世も、日本人は
自分だけの利益を目論む人達のより苦しめられてきているのです。
今や、大切な消費者であり、自分達の豊かな生活を守るために
国民一人一人に番号を付け、囚人の様に管理する事で、その収益を
確実のものにしようとする計画が着々と進められ、日本国民が
幸せに成る糸口すら失われているのです。

安定した消費社会を維持するには、国民い余計な不安を抱かせない
と言うのが、日本政府のやり方なのでしょうが、今起こりつつある
日本人の危機を正しく伝えない事は、もしもの時に、より多くの
日本人の不幸を呼ぶ事と成るのです。
第二次世界大戦に於いて、日本国民の多くを犠牲にし、国中を
廃墟としてしまった原因は、明らかに、当時の企業家と政府
更には日本軍の自分達の利益しか考えなかった結果であり、
あれほど多くの犠牲を出しながら、またもや、自分体の事だけを
考えた政策を行っているのは、如何に国民の代表としては
相応しくない人達であると言えます。

とは言え、彼らも、最初からその様な守銭奴の様な人間では

無かったと思われますが、経済的豊かな事を生活基準とした時から
人としての道を見失ってしまったのでしょう。
経済的に豊かになれば、日本国民は幸せに成ると考える輩が
如何に、自分達の愚かさを理解していないかが解ります。

私たち国民は、何も伝えられないままに、いつの間にかに

恐ろしい戦争に巻き込まれて行く可能性が有ります。
今、この極東の情勢に最も注目しているのは、彼らでしょう。
国民に伝えられない多くの情報を手に入れ、如何に自分達は生き残り
この危険な状況にあっても、利益を得られる事を考えているのでしょう。
私たち国民は、年末にかけて、美しいイルミネーションに見入っている時
彼らは、着々と、自分達の身を守り、生き残る術を考えて居ると思うと
日本国民は、またしても、彼らの犠牲に成らなければならないかと
腹立たしさを通り越して、この国に生まれたことを情けなく思います。