めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

新たなる感動を得る為に

2018-01-31 16:03:33 | 新生活

過去10年程、毎日日記を書いています。
日記と言っても、日々の出来事をメモっている程度のものなのですが、
読み返してみると、毎年毎月、殆ど同じような生活を繰り返していて
冠婚葬祭や旅行など、時々、日常と違う事が有るものの、基本的に
同じ生活パターンを続けているだけと言えます。

自分の周囲はともかく、社会は日々大きく変わっているのに、自分自身は
何年と言わず、何十年も変わる事が無いのは、喜んで良いのか悲しんで良いのか
結果的に今の自分が有るから良しとしなければならないのかも知れません。
しかしながら、若い頃から、常に、自分の生活や環境を変えて、より豊かな
人間的にも優れた者となるべきと考えてきているにもかかわらず、一向に
この年になるまで達成されない事に、心から腹立たしく思うと共に、
何と無能なのかと苛立ちます。

しかし、こんな人生とて、他人から見れば、豊かに楽しそうに見えるのですから
人の気持ちは解らないものです。
とは言え、生きて行くと言う事は、自分以外の人と生きて行かなければならず、
例え家族であっても、自分とは違った考えの持ち主であると考えなければならず
自分の一方的な考えで判断できるものでは有りません。

この事は、社会の様々な方と関わり合いを持つと、更なる問題と難解さが伴い
誰もが生きて行く事の難しさを噛みしめるものです。
人間は、しょせん一人では生きて行けないのですが、自我を持って、自らの
心を育てる一方、全く考えの違う他人の気持ちをも理解しなければなりません。

私達人間は、多くの人と一緒に生きて行かなければならない為、如何にこの
他人との関わり合いをスムーズにするかが大きな問題と言えます。
家庭に於いても学校に於いても、様々な事を学びますが、それも、結局
社会に出て如何に周囲の人達と上手く関わって行くかの為の道具であり、
どんなに知識が有っても、経時的に豊かな生活が出来たとしても、自己満足で
人生は楽しくないのです。

この世に生きている意味、存在価値を感じる為にも、周囲の人達が如何に自分を
評価するかにかかっています。
より良い評価を得る為に、社会的地位を上げたり、経済的に豊かな生活を求めると
言えるのでしょうが、自分が満足できる為の努力が、他人いとって満足と成るか
と言えば、むしろ、不快感を与える方が増えるのが現状です。

お互いに利益を得ると言うのが理想ですが、世の中は、一方的な利益で
多くの人々が苦しんでいるのです。
誰もが幸せに成ると言うのが理想と言えますが、現実は、一部の人達が
多くの利益を得る様に出来ています。
つまり、大多数の人の働きは、一部の人の満足の為に在るとも言えるのです。
しかし、誰もが、自分の利益を得るため、自分が満足する為、日々努力をし
切磋琢磨していると思われます。

ところが、自分の人生をより豊かに思い通りにしているのはほんの一部の人であり
殆どの人が、私と同じ、同じ日々の繰り返しと成っているのです。
啓発本を見ると、どれもが、自分を変える必要性を説いていますが、殆どの人が
そんな本を幾つ読んでも、思い通り自身を変える事が出来ないのです。

では、一体、何故変えられないのでしょうか。

この問いを、どれ程長くして来たでしょうか。今年こそはと思う気持ちは、
年が改まる度に沸き上がって来てはいるのですが、その年の師走ともなると
毎年同じ後悔と諦めがため息と共に繰り返されます。
世の中のほんの一部の豊かな人達はともかく、自分自身の納得できる人生を
見つけるには、次の手は、後悔しない手は、と考えてみました。

反省するに、過去何十年も自分を変えようとしても変えられないには、
明らかに自分には変える能力が無いと言う事です。もしあれば、とうの昔に
理想的な生活と成っているはずです。
こうなれば、人の力に頼るしか有りません。
つまり、対策はこうです。
全ての判断をこれまでの考えと真反対に考えて見ると言う事です。
この方法は、かつて、高度成長期によく使われた人生の解決策の一つです。

何故、いつも同じ事を行い、同じ結果を生んでいるかと言えば、
反応パターンが同じだからと言えます。以前と同じ事を行えば
トラブルを生む事は少なく、確実な利益を得られると言えるのですが、
決してそれ以上の結果は生みません。
自分の得意分野は、それ相応の結果を生むとは言え、それ以上の
自分の力は発揮できないのです。

逆に、自分が最も選ばない手段は、リスクがあるかもしれませんが、
それに対応する能力は遥かに残されていると言えるのです。
若い人達が様々な能力を発揮するのは、彼らには、全ての事に対し
チャレンジする余地があり、経験を積む事も、知識を身に付ける事も
無限にあるからです。
例え、大手企業の社長と言えど、その地位に達した瞬間から、それ以上の
地位を期待する事も、それ以上の生産性を期待することも出来ないのです。
そう、誰もが目的を達成した途端、無能に成ってしまうともいえるのです。

能力は、何かを獲得するまで、頑張る事が出来る力と言えるのです。
毎年同じ行いしか出来ないと言う事は、この分野に於いて、私はすでに
無能と成っていて、これ以上進化する事が出来ないのです。
能力を発揮する為には、自分が知らない分野であり、避けていた分野に
あえて自らを晒す事が大切と考えます。

しかしながら、解っていても、リスクが大きかったり、予想が付かなかったりと
未知の分野に飛び込む事はとても勇気が要ります。
この点が、若者や事を成す成功者との違いと言えるのでしょう。
そう、こう考えて来ると、私にとって最大の問題は、新たな事に対する
勇気が足りないと言う事に成ります。

長い人生で身に付けた穏便な生活が、自らの心の躍動感を失わせています。
しかし、沢山の知識と経験は、若者よりも遥かに何をしたらいいかが解ります。
若者のリスクより遥かに小さいのです。
それでも、石橋を叩いてしまう自分がいるのです。
もし、もう一人の第三者である私がいたら、間違いなく、橋を叩かないで、
対岸に飛び移れ!というでしょう。

私たちは、小さいころから勉強を重ね、より社会に貢献出来
経済的に豊かな生活ができれば、人生は素晴らしいものとなると
信じていますが、どんなに豊かな生活が出来ていると言え
その生活が変わらず続くに連れて、次第に心の躍動感は
失われてしまうのです。

誰もが、第三者として考えると、人の人生の良しあしを
自分の生活に照らし合わせて勝手に判断しがちですが、
人の思う優劣に関係なく、誰もが自分の人生に不満を持ち
もっと別の生き方があったのではと思うのです。
その為、経済的な豊かさの有る無いで、人の人生を
判断は出来ないのです。

つまり、いかなる生活をしようと、本人の思いとは
全く関係なく、社会の人たちにとってはどうでもよく
どんなに貧しくとも豊かであろうと、他人の生活には
全く関係ないのです。
勇気をもって行わなければならないというより、
なんのためらいも心配もなく、思うが儘に行えば
その変化に周囲が付いてくるともいえるのです。

結論は、一つ。
何でも、結果はともかく、考えるよりも
動き出す事が、長年経験を積んだ大人には
必要と言う事です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


オリンピックと戦争

2018-01-30 15:58:56 | 戦争

人は、憎しみを持つと、それまでの思いが一変し
如何に相手を苦しめ傷つけるかに心を向けます。
この事は、様々なトラブルが、より親密な関係
例えば、親友、家族と言った、最も親しい関係で 
より一層熾烈を極めることからもわかります。
親子間の諍い、家族の中の遺産を巡る争い等
以前の幸せな関係を知っている人からすると
その豹変ぶりに愕然となります。

多くの諍いやトラブルが、親しい間柄で起こると
その収拾は非常に難しく、相手に対する愛情が
深ければ深いほど憎しみが深くなる傾向が有ります。 
南北に分かれて争う朝鮮人民の長年の諍いは
同胞であり、かつては、同じ国民として歴史を
築き上げてきた仲であることも有って、お互いに
相手の事が解っているからゆえ、解決の糸が
一向に見出せません。

平和の祭典として、世界中の人々が楽しみにする
オリンピックの前日に、軍事演習を行うということは
常識ではとても考えられない蛮行と言えます。
この事は、二国間の立場が、顕著な形で現れたもので
同じ同胞でありながら、方や世界中の人々から恐れられ
憎まれているのに、平和の祭典を開くことができる同胞への
嫉妬ともいえる怒りでもあるのです。

世界に認められないことによる苦しみ悲しみが、
軍事力をもって注目させると言う手段となっているのですが、
彼らとて、世界中から恐れられてまで、国の復興をしたい
とは思っていなかったはずです。
幾度となく争っている間に、お互いを理解する術を見失い
やむなく、やっていはいけない道を選んでしまったと言えます。

自国の苦境を訴えたとて、世界は振り向かず、むしろ
世界中が敵に回ってしまった状態では、どんなに苦しくとも
援助の手は差し伸べられず、今では、様々な規制をもって
兵糧攻めにあっていると言えるのです。
かつて日本が第二次世界大戦に突入せざるを得なくなった
苦しい状況が今の北朝鮮と言えます。
しかし、当時と大きく違うのは、例え国力は衰えても
軍事力においては、世界中の国々に、未曾有の被害を
与えかねないことです。

この恐怖は、大国ですらしり込みをするほどの恐ろしさで
世界中の人々が、人質に捕られている様なものです。
韓国、日本の立場も同じく、標的とみなされていて
ひとたび戦争となれば、両国に点在する米軍基地は
真っ先に標的となり、当然、国民の被害は免れず
遂に、平和な日々は終焉を迎えるのです。

かつて日本が連合国に対して取った態度は、
真珠湾への奇襲攻撃でした。
勢いに任せて、東アジアや南太平洋に進出し
日本国内では、勝利を称える提灯行列が
毎日行われたのですが、そんな勢いも
大国の軍事力を持ってすれば時間の問題で
その後の我が国の劣勢、更には、日本本土への
連日の爆撃により、日本の歴史が始まって以来の
悲惨な結果を迎える事と成ってしまいました。
国土が狭められ、多くの都市が焼き払われ
沢山の国民が犠牲に成りました。
その記憶は、年々薄れて行くとは言え、
当時のリーダー達が行った判断は、
どれ程多くの犠牲をもたらす事になったか
戦争は、起こす前には想像もできない程
悲惨な結果を生む物なのです。

如何なる国に於いても、国を代表する人たちの
判断と行動は、国民にとって幸不幸を決める
最も重要な項目であり、国民は、その判断に
委ねなけれならないと言う事を、リーダー達は
心に銘記しなければならないのです。

間違いなく、国民の殆どは、戦争を望みません。
他国と争う事で、何の得にもならず、下手をすれば
親しい人を失ったり、生きる術を失ってしまうのです。
多くの戦争には、必ず、それによって莫大なる利益を
目論む人達がいるものです。
かつて、国内景気を良くするために行った戦争は多く
リーダー達の無能さを、戦争によって賄おうとする
安直で、身勝手な行動と言えます。

国民は、リスクが大きい戦争で、自分達が幸せになる
とは全く考えて居ないのです。
近代戦争の多くは、国民を利用して、生活が豊かな
我儘な人達によって起こされる事が多いのです。
戦争を恐れ嫌うのは、多くが一般の庶民と言えます。
戦争による莫大なる利益を考える人達は、既に
豊かな生活をしている人達と言えるのです。

戦争を人間同士の醜い殺し合いとして忌み嫌うのは
犠牲になりがちな一般庶民なのです。
戦争には、必ず、それに伴う莫大なる利益を考え
その日を待ち望んでいる人達も多いのです。
武器を作る企業、戦争で使われるあらゆる物資に
関わる人達、勝利した時の、新たなるビジネス
多くの死の商人たちが、手ぐすねを引いて
待っているのです。

世の中には、平和な日々を望んでいる人ばかりでなく
人の争いを商売としている人も多いのです。
しかし、そんな人達とて、戦争の犠牲には成りたくない
と思われます。
何はともあれ、いかなる理由が有ろうと、戦争は行って
成らないのです。

現在の東アジアの緊張は、前回の第二次世界大戦から
糸を引いているのは明らかであり、更なる戦いが始まれば
それこそ、人類は戦いに明け暮れなければならないかも知れず
近い将来には、核戦争で、人類が絶滅しかねないのです。
人類が築き上げて来た歴史の中で、戦争の歴史をいかに絶つか
今や、戦争は、人類自体の存亡に関わっているのです。

しかし、人類の憎しみの感情に身を委ねてしまった人達には
人の喜びは最も嫌うものです。
オリンピックが平和の祭典であれば、当然、その反対は
世界が恐れる軍事パレードと成るのかもしれませんが、
その事で、世界は、決してその行為を称えたり納得する事は
有りません。自分達が望む事とは、全く逆の方向へ事態は進み
益々窮地に立たされる可能性が高いのです。

北朝鮮の国民も韓国民も日本国民も、殆どが戦争を望まず、
一日でも平和な時が早く訪れる事を願っているのです。
リーダー達の思いが国民の暮らしを汲々とさせてはならず、
本当に心から慕われるリーダーになる為の英断を下す事が
未来の地球にとっても一番の解決策であると思われます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


対人関係に疎い子供達

2018-01-29 14:34:07 | 日本人

今、多くの日本人を襲っている切実な問題は、今の生活をこれから続けられるか
更には、これ以上経済的に豊かな生活を望めるのかという問題です。
収入以上に支出を求められて、日々の生活に汲々としている日本人がいかに多いか
人々の外見を見ても解りません。
見るからに、苦しい日常を送っている人を除いて、日々、普通の生活をしていると
思われる方々が、将来の生活を苦慮しているのです。

若いうちに結婚し、マイホームを建て、車を持ち、日々の生活を楽しんでいる様に
外見的に感じられる、いわゆる一軒家やマンション住まいの方々を襲っている
返済地獄は、今の日本社会にとって深刻と言わざるを得ません。
数十年のローンを組んだものの、給料の上昇は期待できず、更には、賃金カット
ボーナス削減と、企業が生きて行く為の対策が、そこに働くサラリーマンの生活を
直撃し、当初夢見た、夢のマイホーム生活が、今では、大きな荷物と成っています。

生活費だけでなく、教育費、更には、将来の老後の生活まで、暗い影を落とし
主婦は、一円でも安い食料を買い求め、サラリーマンは、食費を切り詰め、
夫婦共々仕事を続けなければならない毎日に、豊かな家庭生活は生まれないのです。
一部の富裕層を除いて、月々の諸経費や必要経費を支払う事で精一杯で、
消費経済国家で生きて行く事の難しさを噛みしめている家庭は少なくないのです。

そんな中、高齢者問題以上に、大きな問題が、日本の将来を担う子供達の行く末です。
家庭としての役割である家族での豊かな生活が、経済的問題から、人としての成長を
身体の成長だけでなく、心の成長として得られなくなってきているのです。
家族同士の語らいが少なく、親子としての大切な成長が得られず、単に、学校における
成績のみで評価を受ける事に、子供たちのストレスは益々大きくなっているのです。

子供に対する評価が、学校成績で判断される事で、子供たちの心は拠り所を失い、
親や先生に対する子供の評価も、暖かい人間関係というより、自分の置かれている
単なる環境でしか感じられなくなっているのです。
子供を成績でしか判断できない親や教師の様に、子供達も、大人を社会的経済的な価値
としてしか判断できず、自分の思い通りになる利益を得られる対象かどうかで判断する
極めて刹那的な考えをする子供が増えているのです。

より良い評価を得る為に、勉強成績を上げる事に対しては努力するものの、対人的な
世代を超えた、人としての関わり合いの勉強を怠り、将来的に、家族だけでなく他人との
関わり合いに苦労する事と成っているのです。
高度な知識や能力を身に付ける人達は増えても、他人との関わり合いに疎く、平気で
人を傷つけたり陥れたりする人が増えているのです。

人とうまく会話をする技術に長ける子供が増えた一方、相手の気持ちを察する能力に欠ける
自分の考えを一方的に主張する子供が増えていて、いじめ問題以上に問題と成っています。
両親や先生や大人たちに成績さえ良ければ、経済的に豊かでありさえすれば何でも許される
と考える子供たちが少なく無く、大人の要求を満たせば、何でも自由になると言う考えが
社会に出て、経済的に豊かに成れば何でも許され、我儘が出来ると言う、困った大人が
実に多くなっているのです。

その為、仕事は出来るけど、人間的に問題を抱える人が少なく無く、対人関係に於いて
社会問題を起こす原因とも成っています。
社会的に地位の有る人の不祥事や対人トラブルが増加しているのも、自分の欲望しか考えられず
平気で人を傷つけたりする人が増えているからとも言えるのです。
正に、現実に日本社会で起こっている問題は、全てが繋がっていて、私達日本人が育つ環境が
人を育てると言うより、欲望を満たすために、経済的に豊かになる事のみの教育が成され
家庭教育も学校教育も、日本人を幸せには出来ない様に成っているのです。

日本人は、少なくとも、世界的に見て、経済的に豊かな暮しをしていますが、本当に幸せと
思えない人が増えているのは、経済的な問題以上に、自分達の置かれている環境が、
どんなに頑張っても、自らの心を癒すことなく、より経済的に豊かに成らないと幸せではない
とする日本社会の考え方が人々を苦しめる結果となっているのです。

しかも、いまだに、これまでの経済社会で甘い汁を吸い続けた方々は、更なる経済発展が
自分達の幸せとなると信じて疑わず、国民に対しても、より豊かな経済社会を求めます。
しかし、彼らが、日本人の苦境を知らないかと言えば、人の上に立つ仕事をしている事から
頭の中では十分理解しているのです。
ところが、長年、学生の頃から、自分の幸せばかり考えて育って来た事から、本当に
庶民の苦しさを理解できず、単に、経済的に豊かに成れば大丈夫だと安易な考えを持つのです。

今や、学校教育の場も、社会の様々な職場に於いても、多くの日本人がストレスに晒されて
全く余裕のない状態に成っています。
メディアが事件として取り上げる部分は、本当に小さな氷山の一角であり、事件になる前の
人々の心を苦しめる一発触発の状態であることが多いのです。
日本社会は、昔から、耐え忍ぶことを良しとする傾向があり、欧米人の様に、自分の不平不満を
簡単には口に出しません。特に学校の先生の様に、人の道を教える様な立場の人達は
誰もが聖人君主であることを求められ、人々や子供たちのお手本であることを求められます。

それ故、心のうっ憤は大きなものがあり、本当に子供たちの事を思って教育する事が難しく
トラブルを避ける故、単に、教師としてのノルマを果たすだけとなっている事が多いのです。
この日本社会にうっ積するストレスは、全ての国民に科せられることが、何よりも
日本国民の生活を息苦しいものとしているのです。

日本人は、海外の方から言わせると、親切で優しい層ですが、これは、多分に外交辞令であり
異国の他人に対する表向きの顔と言えます

確かに、もともとの日本人の感覚は、他人に対して心を尽くすように教育されてきました。
しかし、経済優先の社会と成って、誰もが苦しむ様になると、他人の事は構ってられない程
経済的に追い詰められた方が増えているのです。

更に問題は、例え、経済的に豊かになったとしても、他人に対する人間教育を受けなかった為
人を信じられず、自分の地位や財産を守るために、孤立した生活を求め、豊かな生活を
送っていても
人に癒される幸せを感じられない方が多いのです。
より豊かな物で満たそうとする生活は、終わりの無い欲望を育てる事と成ります。

次から次に新しい物高価な物を求める生活は、自分自身の価値を見失い、求めたもので
自分の価値を計る為、自分が一体何を求めているのか、どうしたら幸せに成るのかが
解らなくなってしまうのです。

経済的に豊かになるのは、一体何の為なのかを理解していなければなりません。
私達が、日々食事をするのは、人間として生きて行く為に行っている行為であり
食事をする事は手段に過ぎません。
様々な美味しい食事を摂る事は楽しい事では有りますが、本来の目的は、生きて行く為で
無くてはならない
行為なのです。

経済的に豊かに成り、便利で何でも手に入る生活を手に入れると言う事は、誰にとっても
生きていく上で幸せと感じられなければ
なりません。
自分自身がこの世に存在する意味と価値を見出すための手段なのです。
その為、手段は人其々様々な方法があり、人によって違ってるのが当たり前なのです。
其々の生きる為の喜びと幸せを得られる経済性が必要であり、誰もが幸せに成る事が
前提条件と言えるのです。

現在の日本社会は、明らかに、一部の人のみが経済的に満たされ、自分の思い通りの生活を
謳歌していますが、大多数の人々は、日々の生活に苦しんでいるのが現状なのです。
其々の生きて行く目的を叶え、其々の価値のある幸せを得られる社会が必要なのです。
一部の人達の為の社会は、決して人々を幸せにすることは出来ないのです。

これまで、明治以降、国民の生活は豊かになったかもしれませんが、それに比例して
国民が幸せな生活を送れるようになったとは言えないのです。
経済的な豊かさが幸せと感じる方々だけが幸せと思っているに過ぎなのです。
近代的な社会も、本当に国民全体が欲したものでは無く、発案し創り上げた人たちの
欲望の街に過ぎないのです。

リーダー達が、本当に、国民の代表であるなら、少なくとも、経済発展と共に
国民は幸せであると感じるはずなのです。
独裁国家と同じく、経済的な独裁国家と言わざるを得ません。
本当に国民を幸せにしたいとするなら、いつまでも経済力に甘えていないで
日本国民の心を癒せる社会を目指す大人のリーダーである事を望みたいものです。

 

 

 


お金持ちになっても日本人は日本人

2018-01-27 15:10:18 | 日本人

そもそも、歴史的に狩猟民族であり、消費経済国家として
発達してきた欧米社会と稲作を中心として大自然の糧に
生かされてきた日本社会は、人々の心の在り方が違います。
ほんの150年ほどの間に消費経済国家を目指した日本は、
社会や国民生活が欧米化したとはいえ、心の中は、豊かな
日本の大自然に育てられてきた日本人特有の感性が有ります。

季節季節の移り変わりを感じ、動植物の命の輝きに心を動かし
自分たちが日本の四季の中に生きている事を感じます。
例え、大都会の高層マンションに住んでいても、窓の外に見える
美しい日本の風景に感動し、肌をなぜる風に季節を感じます。

長い歴史の中で、ほとんど諸外国からの侵略を受けることなく
単独民族として生きてきた日本人の感覚は、たとえ、欧米化した
生活となっても変わるものではないのです。
その為、生活の違いはあっても、日本人の考える事感じる事は
同じ傾向が見られ、よくも悪しくも、日本人なのです。

とは言え、日本人の生活レベルは、ますます二極化を増し、
一部の方々の一人勝ちのような状態です。
大多数の生活に苦しむ人たちと、一部の、豊かな方々です。
日本経済が世界から一目置かれているのも、この一部の方の
経済力によって保たれているのであり、ほとんどの国民は
決して豊かな生活をしているとは思っていないのです。

しかしながら、この一部の何でも手に入る様な方々も
手放しで一人勝ちを喜んでいるとは言えないのです。
中には、成り上がりで、この世の春を満喫している
にわか富裕層の方もいますが、長く、日本の高額所得を
経験している方々は、決して心から喜んでいるとは
言えないのです。

日本人のお金持ちは、たとえ豪華な住まいに住んでいても
その身なりは、極めて質素であることが多く、いわゆる
テレビやメディアに登場する、身なりも外見もゴージャスな
庶民とは程遠い方は珍しいのです。

日本人は、昔から、和をもって尊し、と言う教えの下に
一人だけで幸せを独占する事を好みません。
もし幸せに成るとしたら、身の回りの人も全て、
幸せであって欲しいと思う感覚が在ります。
この事は、日本人が、長い歴史の中で、豊かな大自然に
育てられ生かされ、さらには、大自然の脅威から、
人々は協力をして対処して来た経験から生じたものです。

その為、現代社会に於いても、例え多くの所得を得ても
身の回りの人や国民の多くが苦しんでいるのを感じると
手放しでは喜べないのが日本人と言えるのです。
まして、アメリカファーストと言う様な考えは
日本人にとってはとても理解できないと言えます。

しかしながら、そんな、水と油の様な心の在り方の
リーダーに日本は従っているのです。
経済的な支援、軍事的な負い目があるとはいえ、
今の日本が進んでいる方向は、明らかに、日本人が
育てて来た心の在り方に反した方向と言えるのです。

とは言え、明治の文明開化の頃から、私達日本人は、
目先の利益と豊かさに踊らされる生活を送って来ました。
外見的に豊かな生活を目的とし、自然は利用するものであり
身の回りの人は、自らを豊かにする手段にしか使わない、
少しでも秀でる事を良しとする人生を強いられて来ました。

人と競い勝つことを求められる人生は、勝てば我儘に
負ければ、社会の苦渋を舐める辛さを味わい、
人々は、子供の頃から、如何に便利で豊かな生活を
目指すかが目的とさせられ、社会全体がいつも
殺伐としたものとなったのです。

豊かな大自然からの命の糧を得られる事を
お互いの共通の喜びとしてきた日本人が、
人を蹴落とし、自分だけの利益に走る人生を
家族から社会から求められる様に成ってから
日本人は、どんな環境に有っても、本当に
幸せと感じなくなって、心から自分を認め
人生の生きがいを感じる事が少なくなったのです。

どんなに豊かな生活をしても、心から喜べず
何とか自分の功績や地位を自覚できる為に
多くの人が持ちえない高価な物を身に付けたり
必要以上な豊かな生活を見せびらかしたりするのですが
所詮、それは、自分の存在価値を周囲に認めさせたいとする
苦しいあがきに過ぎません。その為、どれ程ゴージャスな
生活や装飾品を身に付けたりしても、本当に心から

喜ぶことも癒される事も無いのです。


本当に人々から称賛され慕われる人は、何も身に付けずとも
多くの人達の心を癒し、幸せにするのです。
その為、世界の大富豪は、世界中の恵まれない人々を支援したり
様々なボランティア活動に力を注ぐのです。
いくら莫大なる財産を持っても、その財産が人々を幸せにして
人々から、自らの人としての価値を感じてもらわなければ、
人として心から安らぐ人生が遅れない事を知っているからです。

大金持ちがそれに相応しい身なりをしていれば、
多くの人は、驚きはしても、心から称賛したり認めたりはせず
むしろ、妬みや誹りの気持ちが沸いて来るものです。
例え驚く様な資産が在っても、一般庶民と同じような身なりで
謙虚な生活を見せる事で、自らの生活を守る事と成るのです。

しかしながら、今の日本社会は、一般の人達も、高額所得者も
不幸な社会と言えます。
外見的には、経済大国として豊かで華やかに見えますが、
人々の心は決して豊かとは言えず、むしろ、常に、言い知れぬ
圧迫感と諦めの気持ちが渦巻いていると言えます。

恐ろしい事は、経済大国の外見的な豊かさだけにしか幸せを
感じられない日本人が増えている事です。
人との関わり合いも、自然との融和も感じられず、
ただ、便利さと豊かさを求めるだけの、自らの利益しか考えない
ジャパンファーストと言いたげな人が出て来ている事です。

自分の欲しい物は人から力ずくでも奪い、人よりより豊かな生活が
出来る事が幸せと感じる人々が増える国家に成って欲しくは無いのです。
素晴らしい大自然と豊かな人間関係が創り上げた日本は、物では無く
心豊かな国だからこそ、かつて、日本を訪れたシーボルトは
黄金の国と紹介したのです。

欧米社会に無い、夢の様な素晴らしい国だと感嘆したのです。
しかし、私たち日本人は、その素晴らしい日本を棄ててしまい
欧米社会の様になろうとしているのです。
経済的に豊かな生活は、生きていく上で大切ですが、日本人としての
心を失ってしまっては、私達は生きて行けないのです。
欧米人とは、育った歴史も育てて来た心も違うのです
日本人が日本人として、本当に幸せと感じる社会を作り上げる事が
日本人が幸せに成る道と言えるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


豊かな人達が創り出す人類の終末

2018-01-26 13:14:33 | 社会

角界から次々に飛び出してくる新たな事実は、欲にかられた人たちが
自分達の欲望を叶える為に行って来た悪行が、まるで膿のように
隠せば隠すほどあふれ出てきていると言えます。
たまたま横綱の暴力問題から始まった事が、各界の屋台骨を揺るがすほど
社会問題となって広がっています。

保身の為に重ねた嘘やごまかしが発覚し、事実が判明して行く時ほど
組織というのは見苦しさを露呈するものです。
政界と同じく、国民にとっては、日本の中心であり、魂の拠り所の様な
神技ともいえる相撲の陰で、醜い勢力争いが繰り広げられている事に
日本人の多くがと言うより、相撲界を目指している若い人達や、長きに渡り
相撲を愛して来た多くのファンを裏切る事と成っているのです。

それにしても、メディアで常に取り上げられる日本国民の生活を守る政界や
身も心も清く神に捧げる神技である相撲が醜態をさらす事が多い事は、
日本国民にどれだけストレスと落胆を与えるか、日本を代表する人たちの
自分達の置かれている地位をしっかりと理解し、猛省を促したいものです。

一体、日本国民は、何処に向かって進んで行けばいいのでしょう。
日本丸船長は、巧みな操船術でと弁舌で、その場しのぎの航海しか出来ず、
一向に、生活に苦しんでいる日本人を満足させることが出来ません。
既に、安定した所得と資産を持ち合わせている方々の収益増収を持って
日本社会は上向きに成っているとする図々しさは、昨年の自身の疑惑を
言い逃れる時と何だ変わらない内容と言えます。

既に、日本国を動かすべき人たちの無能ぶりは明らかなのですが、
日本人は、地位や財産や名誉で語られる人は立派であり、自分達を幸せに
導いてくれるとする困った安心感を持っていて、任せておけば必ず良くなると
信じて疑わなかった結果が、今の多くの国民の苦しみに成っているのです。

角界の問題も体質的には、政界、芸能界、経済界と、日本人が組織する体制に於いて
常に問題として挙げられる事項であり、まるで、モグラ叩きのモグラが頭を出すように
定期的に、マスコミによって暴露されるのが日本の歴史でも有ります。
つまり、悪く言えば、これは、日本人の体質であり、一人では謙虚であり優しくとも
一度徒党を組んだり、組織だって行動するとなると、周囲の思いを全く感知しない
欲望が前面に出てしまうのです。

戦後の歴史を見ても、日本社会の中身は、このドロドロとした人間の欲望の事件ばかりで
たまたま発覚する事は有っても、多くが氷山の一角である事は言うまでもありません。
今回の角界の暴力問題も、今の時代だからこそメディアがとりあげらたに過ぎず、
それに類する事件の多くは、殆どが表沙汰に成らなないでいたのです。

しかしながら、今の日本社会は、情報が開示され、様々な事実が公表される事は良いのですが、
余りにも神経質に成って、社会全体がヒステリックな状態に成りつつあるのが心配されます。
誰もが、常に被害者意識をもって、自分の好まざることを感じると、それを大きく取り上げ
問題を作り上げてしまいます。

人が人を信じられない社会は、ますます、独裁的な考えを持った方々に牛耳られる可能性があり
日本社会は、ネット社会を利用して、文字の如く、一網打尽で、国民を思うがままに動かす
独裁者の思うつぼになる可能性も有るのです。

人は、組織を持つと大きな力を発揮しますが、逆に、孤立化するととても弱くなる傾向が有ります。
今や、人の手を借りずとも、何でもネットで手に入る社会と成りました。
何かを得たり知ったりするまでに、人を介さなくてもいい時代となって、一見、とても便利なように
思えますが、これこそ、ネットを利用して欲望を叶えたり利益を得たり、洗脳をしたりする方々には
濡れ手に粟の様な状態なのです。

都会のマンション生活の様に、何年も住んでいても、隣近所の人がどんな人か何をしているのかが
全く解らないのは普通であるものの、そのバラバラなひとたちは、ネットや様々な情報網で、
国や大きな組織と繋がっているのです。
つまり、例え不平不満が在っても、それを確かめ合う人達は身の回りに居なくて、常に、社会的情報で
自分の心の中が洗脳され管理されているのが今の日本人の傾向と言えるのです。

解り易く言えば、有名歌手が、コンサートを開催すると言えば、ネットを通じて、あっと言う間に
チケットが売れ、何万もの人が集まるのです。彼らは、皆、同じ思いで集まって来ます。
この事は、国が国民に指令を出せば、全ての人達がそれに従う社会が生まれると言う事です。
特定の人の考えや欲望が、大多数の国民の意思となる、これこそ恐怖政治と言えるのです。

角界、政界も同じように、トップからの指示が末端まで繋がり、その中で利益を考えトラブルを隠します。
組織としては、円滑に進められると思えるかも知れませんが、少しでもはみ出したり違う考えを持つと
圧力を掛けられたり、暴力を振る舞われたりするのです。

国民とて同じ事、戦前戦中の日本社会は、多くの人が投獄され、身に覚えのない罪をかぶせられ、
中には殺された例も少なくありません。
間違った道を日本が進もうとしても、誰も正す事が出来ず、つねに、お伺いを立てなければならない社会
それが国民主権の、自由主義国家と言えるのでしょうか。
全てを統率する巨大組織となれば成程その傾向は強く、支配される側は、常に自由を奪われ、貧しい生活を
余儀なくされるのです。

現在、日本社会は、二極化が進んでいると言われています。
しかし、これは、富裕層と一般の人達を分けて考える、社会構造の1つとして理解されていますが、
其々の生活レベルは、年々大きな差と成っている事実が有りあります。
私達は、この傾向を、単なる社会現象として捉えがちですが、この進行性の社会構造は、次第に、
全く別の人間集団として分かれて行くのです。

つまり、二つの国に成って行く様に、貧しい国と富める国が生れていると言えるのです。
貧しい国の人達は決して豊かに離れず、豊かな国の人々は、更なる豊かな国へと発展して行くのです。
どんなに頑張っても努力をしても、二つは合い入れる事が無くなって行くのです。

かつては、経済発展を遂げれば、同じような豊かさを得られると思われていたのですが、
世界的に見ても、あらゆる資源食料が、現在の富裕国家に流れている事は変わらず、貧しい国は常に
豊かな国を存在させる為に在るだけで、どんなに頑張っても、自分達を豊かにする要素が生れないのです

この事は、今の日本の状態と同じであり、国民の多くは、一生懸命頑張れば、テレビで見る様な
豊かな生活が送れるようになると思っていますが、実際は、一般の人が芸能人で成功する様に
殆ど夢は叶えられない社会と成って来ているのです。
たまたま、テレビを見れば、素晴らしい笑顔の生活が得られる様に、どのチャンネルを回しても
生活の豊かさを期待させる番組やコマーシャルばかりですが、これは、国民を豊かにするのでなく
豊かに成ろうとする国民から多くの利益を得る為の豊かな人達の戦略であるのは明らかです。

毎日、洗脳された生活を求めて、日々の買い物を行い、消費経済を支えて行く庶民は、
どんなに頑張っても庶民は庶民なのです。
成りあがり大金持ちになったり有名人になったりするテレビドラマは、庶民にとって、まるで
宝くじに当たるようなものであり、夢は抱いても、現実とする事は不可能なのです。

しかし、それでも、毎日の生活に苦労しないで,ささやかでも夢を抱き、健康な人生を保証されれば
多くの国民は納得するのです。
ところが、今の日本社会は、この、庶民のささやかな思いすら叶えてくれないリーダー達に
怒りと憤りを感じているのです。

遥かに豊かな生活をしている人達が、より我欲を見せる事に、諦めと苛立ちを感じるのです。
社会的に大きな事件を起こす人たちの多くが、知名度が高かったり私達庶民の代表であったりで
生活に困らない人達が、より欲望を顕わにする事に怒りを覚えるのです。

そして、決まって言い訳ばかりをしたり、陰で工作をしたり、保身の為に見苦しい猿芝居をするのを
テレビを通して見る事に、国民全体が、それこそ、暴力問題を起こしたくなるほどの怒りが沸くのです。
やはり、人は、人としては未完成であり、地球の頂点を自負するには相応しくないのでしょう。
地位や名誉や有り余る資産が手に入ると、とたんに、自我が沸き上がって来るようでは、人間同士も
地球の生き物に対しても、余り良い結果が生れないのは致し方ないと言えるのかもしれません。

しかしながら、やっと、こんな、未熟で、我儘で、暴力的な人間を戒める物が出て来ました。
しかも、人間自らが創り上げるようにしたのは、神様の悪戯かも知れません。
そう、急速なネットの発展から生まれた人工頭脳です。
その進歩は人間の想像すら超えて、作った人達すらも、未来を予測できないと言います。
そもそも、人間の至らない所、無能な所を補うために作られたのですから、人間の理想形の機械が
生まれつつあると言えるのでしょう。
戦争をして直ぐに殺し合いをしたがったり、地球環境を自分達の欲望で破壊し続けると言う至らなさを
機械が人間の究極型として判断した時、人類は、人工頭脳から引導を渡されて、ようやく地球に
平和な日々が訪れる事になるのかもしれません。