日大アメリカンフットボール部の不祥事は、解決するどころか
次々に新たなる問題をメディアに暴露される事態と成っていますが、
この事は、日大のアメリカンフットボール部の問題と言うだけでなく、
日本のスポーツ界全体に蔓延している昔からの事実です。
大学のみならず、教育の場に於けるスポーツ全般に内在する
遠い昔から黙認されて来たスポーツ界の歴史でもあるのです。
激しいスポーツの中で戦い、勝利を収めて行く為には、生半可な
練習や考えでは成し得ません。
その為、選手もコーチも、例え練習であっても実践的な緊張感と
勝利への執着心が必要と成ります。
その為、目的を達成するには、時に、選手の為と言う口実の元
暴力で事を解決しようとする場合が有るのです。
精神的にも経験的にも弱い若者を戦いの場で勝利に導くには、
練習の過程で暴力すらいとわないとする空気が生れるのです。
スポーツ経験者なら、特に、熾烈な戦いを要求される選手ならば
コーチ、監督、上級生からの暴力を体験したり、暴力の場を見た
記憶のある方はとても多いと思われます。
特に高度成長期に於いては、戦いに勝利するには、科学的な裏付け
と言うより、根性やガッツと言った精神論的な考えに基づいた
選手への暴力は日常的で有りました。
しかし、その後、科学の発達により、運動生理学や運動理論が
一般的に普及して来ると、単に、頑張ってがむしゃらに練習する
と言うより、科学的理論に基づいた練習カリキュラムが作られ
選手達も、その理論に基づいて、練習するようになりました。
しかしながら、それでも、いまだに、多くのスポーツの世界に於いて
暴力問題が頻発するのは、大きく練習方法が変わったと言え、
教える側や教育する側の精神的な成長が成されていないのが目立ちます。
この事は、スポーツだけでなく、一般社会に於いても同じ傾向があり、
地位の上の人が、自分の欲望と感情に任せて、自分の下に付く人や選手を
一人の人間としてではなく、まるで、部下の兵隊を扱うように、
旧態依然の我儘な扱いで苦しめます。
この事は、職場に於いても地位の上下間に於いても、上の者からの
部下への様々なハラスメントとして発生しています。
階級的資本主義社会を作り上げて来た日本社会に於いて、表向きは
自由平等と言っても、現実に於いては、経済的な格差、地位の上下と言った
差別が日常的になされていて、下の者は、上から経済的に支配されている事で
上司の無理難題に従わざるを得ない状態となっています。
この事が、セクハラ、パワハラを生む温床と成っていて、日本社会全体が
巨大なるピラミッド構造と成って、常に上の者が下の者の支配する風潮が
生まれているのです。
その為、様々な圧力や暴力を受けない為には、少しでも上の地位を目指す事で有り、
人の上に成りさえすれば、自分の我儘な行動や言動が許されるとする甘えが生れ
日本中の人々が、常に、対人的にストレスを感じ、そのストレスを、より弱い者に
向けると言う悪循環を生んでいるのです。
発展途上国から見れば、素晴らしい進歩を遂げた日本と言えど、人々の心の中は
常に不安が付きまとい、その不安の解消の為に地位や名誉や財産を求めるのですが、
それでも心は相変わらず休まりません。そんな時、自分の心のうっ憤を晴らすために
自分より弱い対象を自分の思うが儘に扱ったり理不尽なハラスメントを行うのです。
かつて、テレビや映画のヒーローを表す言葉に、弱きを助け強きをくじく、と言うのが
知られていましたが、現代社会に於いては、弱きをイジメ、強きに従う、というのが
実情と言えます。
様々な社会で生きる日本人が、自分の社会的地位を上げる為に、自分より上の生活を
行っていると思われる人には媚び諂い、自分より経済的に豊かでないとすると、自分の
我儘を前面に出し、傷つけたり悲しませたりします。
多くのいじめっ子がかつていじめられっ子である事実が有り、子供達の世界に於いても
上に立つと言う事は、子供達から怖がられる存在になる事なのです。
多くの人達が、かつて理不尽と思える経験をしても、その事でその事を自分の上司や
先生に訴える事は有りません。多くの場合、じっと耐えて、自分が理不尽の事が出来る
地位に成る事を目指します。つまり、自分の我儘が出来る地位に成る事を目指すのです。
この事は、人間が成長して行く過程において、極めて不自然な事であり、人の上に立ち
人々をリードし、幸せにしなければいけない立場の人が、人々を苦しめると言う、
自分の喜びが多くの人を苦しめる結果と成るのです。
この行いは、正に、子供のイジメの輪廻と同じと言え、社会に於いては、誰が上に立とうも
常に、被害者が出る事を繰り返すだけなのです。
今の日本社会は、例え、正当な意見を持ち、常識を唱える人であっても、一度、自分が
人々の上に立つ地位に成った途端に、自分が批判していた人と同じ道を辿る事に成りやすく
日本社会が、経済発展を遂げて便利で豊かに成ったとしても、人々が、中々、心の安住を
得る事が出来ず、常に誰かからのハラスメントを受け、また、誰かを苦しめる事に成るのです。
この永遠に続くかの様な、悶々とした心の晴れない日本人の気持ちを変えるには、
やはり、経済的な発展と言うより、日本人一人一人の考え方を変えて行かなければならず、
特に、子供達の教育現場に於いて、未来の経済的豊かな子供を育てると言うよりも、
人間として周囲の人達の事を考えられる心豊かな子供を作る教育が求められます。
暴力問題を起こす人や、人々の上に立って様々なハラスメントを起こす人達は、
最初からその様な問題を起こす人では無く、むしろ、大人しくて、周囲の大人や
先輩の話を良く聴く子供で有った事が多いです。
問題を起こすと言うより、決められた事を良く守り、先輩たちの言う事を良く聴く
極めて扱いやすい生徒で有った事が多いのです。
しかし、子供の中で目立たたないとしても、大人たちに従順の子供達は、楽しい学園生活を
していたかと言うと、じっと耐えていたり、様々な虐待を受けている事も多いのです。
いつも心に大きなストレスを抱えていた子供が、いつの日か、人々の上に立った時
教育者と成ったり監督として選手を育てるようになった時、そのかつての苦しい思いが
自らの存在価値を高める為ハラスメントとして発揮される事が有るのです。
かつて、イジメられて虚弱な子供が、大人になて、素晴らしい格闘技の選手と成った例は
とても多く、日本を代表する選手が、かつては、いつも周囲の子供達のイジメの対象と
成っていたことをカミングアウトする事は珍しくありません。
しかし、この、子供の頃の苦い思い出を、暴力として自分の支配する人達や生徒に対し
パワハラやセクハラとして発散させようとすると大きな問題と成ります。
パワハラやセクハラと言った、タイムリーな話題であるならば、マスコミも取り上げるのですが、
一般社会に於ける様々なイジメや差別、ハラスメントはなかなか表に出ることは無く、
現実に自分の会社にある事実を黙認している視聴者は数多くいると思われます。
加害者で有ろうと被害者で有ろうと、マスコミが取り上げる問題に対して、他人事のように
周囲の人達と話していても、現実には、根の深いハラスメントが横行している事実が有ります。
日本社会全体が、精神的には、いまだ発展途上国と言え、経済的な著しい進歩を持って、
自分達の価値が上がったとするおごりが、様々な場面で、対人的な問題を起こしているのです。
日本が、明治以降、欧米の資本主義経済を目指したことで、著しい発展を遂げたと言えますが、、
見てくれの社会は、世界に秀でる経済大国として知られる様になりましたが、日本人としての
資質は失われ、単に、外見的な欲望に走る民族と成った事が、多くの日本人を苦しめるのです。
しかしながら、日本を代表する多くの方々が、この資本主義経済を土台に生活している事から
自分の地位や名誉や経済力を使って、我儘な行動を行ってしまう可能性が高いのです。
己の価値を、外見的な価値を持って見せようとする事で、既に、人間としての心の優しさや
思いやりを感ずる気持ちを失ってしまうのです。
今や、如何に地位が高くとも、経済的に豊かであっても、たとえ日本を代表する人であっても
それらの外見的価値を取り除くと、人間として何の魅力も無い方がいかに多いか。
地位や財産が有っても、少しでも財を増やそうと目をぎらつかせる人が目立ちます。
そんな方々が、つまらない欲望から事件を起こしマスコに付きまとわれる様に成るのです。
現代社会に於いて、いまや、師と仰げる人が如何に少なくなったことか。
師となるべき人達の心の狭さや精神的な心の狭さは、子供達が人として目指す大人の姿には
ほど遠いと言えます。
問題を起こしても、自らの至らなさとして釈明するならいざ知らず、あくまで自分の正当性を
主張する個人や組織の保身的態度は、個人の問題に止まらず、日本社会の組織全体に及ぶ
日本人の質の低下を示していると言えます。
自分の利益の為に部下を利用し、上手く行かなければ部下の所為とし、事が発覚すると
知らぬ存ぜぬとは、かつてのヤクザ映画を見る様です。
一連の問題は、政界のリーダー達を含め、現在の日本社会に内在する大きな問題を提起しています。
これらの事件を、他山の石とせず、自らに当てはめ、日本人一人一人が、もう一度
日本人としてどうあるべきか考える大切な課題と言えます。