めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

日大を変えるには、日本全体が変わる政策を

2018-05-31 12:40:41 | 日本人

日大アメリカンフットボール部の不祥事は、解決するどころか
次々に新たなる問題をメディアに暴露される事態と成っていますが、
この事は、日大のアメリカンフットボール部の問題と言うだけでなく、
日本のスポーツ界全体に蔓延している昔からの事実です。
大学のみならず、教育の場に於けるスポーツ全般に内在する
遠い昔から黙認されて来たスポーツ界の歴史でもあるのです。

激しいスポーツの中で戦い、勝利を収めて行く為には、生半可な
練習や考えでは成し得ません。
その為、選手もコーチも、例え練習であっても実践的な緊張感と
勝利への執着心が必要と成ります。
その為、目的を達成するには、時に、選手の為と言う口実の元
暴力で事を解決しようとする場合が有るのです。

精神的にも経験的にも弱い若者を戦いの場で勝利に導くには、
練習の過程で暴力すらいとわないとする空気が生れるのです。
スポーツ経験者なら、特に、熾烈な戦いを要求される選手ならば
コーチ、監督、上級生からの暴力を体験したり、暴力の場を見た
記憶のある方はとても多いと思われます。

特に高度成長期に於いては、戦いに勝利するには、科学的な裏付け
と言うより、根性やガッツと言った精神論的な考えに基づいた
選手への暴力は日常的で有りました。
しかし、その後、科学の発達により、運動生理学や運動理論が
一般的に普及して来ると、単に、頑張ってがむしゃらに練習する
と言うより、科学的理論に基づいた練習カリキュラムが作られ
選手達も、その理論に基づいて、練習するようになりました。

しかしながら、それでも、いまだに、多くのスポーツの世界に於いて
暴力問題が頻発するのは、大きく練習方法が変わったと言え、
教える側や教育する側の精神的な成長が成されていないのが目立ちます。
この事は、スポーツだけでなく、一般社会に於いても同じ傾向があり、
地位の上の人が、自分の欲望と感情に任せて、自分の下に付く人や選手を
一人の人間としてではなく、まるで、部下の兵隊を扱うように、
旧態依然の我儘な扱いで苦しめます。

この事は、職場に於いても地位の上下間に於いても、上の者からの
部下への様々なハラスメントとして発生しています。
階級的資本主義社会を作り上げて来た日本社会に於いて、表向きは
自由平等と言っても、現実に於いては、経済的な格差、地位の上下と言った
差別が日常的になされていて、下の者は、上から経済的に支配されている事で
上司の無理難題に従わざるを得ない状態となっています。

この事が、セクハラ、パワハラを生む温床と成っていて、日本社会全体が
巨大なるピラミッド構造と成って、常に上の者が下の者の支配する風潮が
生まれているのです。
その為、様々な圧力や暴力を受けない為には、少しでも上の地位を目指す事で有り、
人の上に成りさえすれば、自分の我儘な行動や言動が許されるとする甘えが生れ
日本中の人々が、常に、対人的にストレスを感じ、そのストレスを、より弱い者に
向けると言う悪循環を生んでいるのです。

発展途上国から見れば、素晴らしい進歩を遂げた日本と言えど、人々の心の中は
常に不安が付きまとい、その不安の解消の為に地位や名誉や財産を求めるのですが、
それでも心は相変わらず休まりません。そんな時、自分の心のうっ憤を晴らすために
自分より弱い対象を自分の思うが儘に扱ったり理不尽なハラスメントを行うのです。

かつて、テレビや映画のヒーローを表す言葉に、弱きを助け強きをくじく、と言うのが
知られていましたが、現代社会に於いては、弱きをイジメ、強きに従う、というのが
実情と言えます。
様々な社会で生きる日本人が、自分の社会的地位を上げる為に、自分より上の生活を
行っていると思われる人には媚び諂い、自分より経済的に豊かでないとすると、自分の
我儘を前面に出し、傷つけたり悲しませたりします。

多くのいじめっ子がかつていじめられっ子である事実が有り、子供達の世界に於いても
上に立つと言う事は、子供達から怖がられる存在になる事なのです。
多くの人達が、かつて理不尽と思える経験をしても、その事でその事を自分の上司や
先生に訴える事は有りません。多くの場合、じっと耐えて、自分が理不尽の事が出来る
地位に成る事を目指します。つまり、自分の我儘が出来る地位に成る事を目指すのです。

 

この事は、人間が成長して行く過程において、極めて不自然な事であり、人の上に立ち
人々をリードし、幸せにしなければいけない立場の人が、人々を苦しめると言う、
自分の喜びが多くの人を苦しめる結果と成るのです。
この行いは、正に、子供のイジメの輪廻と同じと言え、社会に於いては、誰が上に立とうも
常に、被害者が出る事を繰り返すだけなのです。

今の日本社会は、例え、正当な意見を持ち、常識を唱える人であっても、一度、自分が
人々の上に立つ地位に成った途端に、自分が批判していた人と同じ道を辿る事に成りやすく
日本社会が、経済発展を遂げて便利で豊かに成ったとしても、人々が、中々、心の安住を
得る事が出来ず、常に誰かからのハラスメントを受け、また、誰かを苦しめる事に成るのです。

この永遠に続くかの様な、悶々とした心の晴れない日本人の気持ちを変えるには、
やはり、経済的な発展と言うより、日本人一人一人の考え方を変えて行かなければならず、
特に、子供達の教育現場に於いて、未来の経済的豊かな子供を育てると言うよりも、
人間として周囲の人達の事を考えられる心豊かな子供を作る教育が求められます。

暴力問題を起こす人や、人々の上に立って様々なハラスメントを起こす人達は、
最初からその様な問題を起こす人では無く、むしろ、大人しくて、周囲の大人や
先輩の話を良く聴く子供で有った事が多いです。
問題を起こすと言うより、決められた事を良く守り、先輩たちの言う事を良く聴く
極めて扱いやすい生徒で有った事が多いのです。

しかし、子供の中で目立たたないとしても、大人たちに従順の子供達は、楽しい学園生活を
していたかと言うと、じっと耐えていたり、様々な虐待を受けている事も多いのです。
いつも心に大きなストレスを抱えていた子供が、いつの日か、人々の上に立った時
教育者と成ったり監督として選手を育てるようになった時、そのかつての苦しい思いが
自らの存在価値を高める為ハラスメントとして発揮される事が有るのです。

かつて、イジメられて虚弱な子供が、大人になて、素晴らしい格闘技の選手と成った例は
とても多く、日本を代表する選手が、かつては、いつも周囲の子供達のイジメの対象と
成っていたことをカミングアウトする事は珍しくありません。
しかし、この、子供の頃の苦い思い出を、暴力として自分の支配する人達や生徒に対し
パワハラやセクハラとして発散させようとすると大きな問題と成ります。

パワハラやセクハラと言った、タイムリーな話題であるならば、マスコミも取り上げるのですが、
一般社会に於ける様々なイジメや差別、ハラスメントはなかなか表に出ることは無く、
現実に自分の会社にある事実を黙認している視聴者は数多くいると思われます。
加害者で有ろうと被害者で有ろうと、マスコミが取り上げる問題に対して、他人事のように
周囲の人達と話していても、現実には、根の深いハラスメントが横行している事実が有ります。

日本社会全体が、精神的には、いまだ発展途上国と言え、経済的な著しい進歩を持って、
自分達の価値が上がったとするおごりが、様々な場面で、対人的な問題を起こしているのです。
日本が、明治以降、欧米の資本主義経済を目指したことで、著しい発展を遂げたと言えますが、、
見てくれの社会は、世界に秀でる経済大国として知られる様になりましたが、日本人としての
資質は失われ、単に、外見的な欲望に走る民族と成った事が、多くの日本人を苦しめるのです。

しかしながら、日本を代表する多くの方々が、この資本主義経済を土台に生活している事から
自分の地位や名誉や経済力を使って、我儘な行動を行ってしまう可能性が高いのです。
己の価値を、外見的な価値を持って見せようとする事で、既に、人間としての心の優しさや
思いやりを感ずる気持ちを失ってしまうのです。

今や、如何に地位が高くとも、経済的に豊かであっても、たとえ日本を代表する人であっても
それらの外見的価値を取り除くと、人間として何の魅力も無い方がいかに多いか。
地位や財産が有っても、少しでも財を増やそうと目をぎらつかせる人が目立ちます。
そんな方々が、つまらない欲望から事件を起こしマスコに付きまとわれる様に成るのです。

現代社会に於いて、いまや、師と仰げる人が如何に少なくなったことか。
師となるべき人達の心の狭さや精神的な心の狭さは、子供達が人として目指す大人の姿には
ほど遠いと言えます。
問題を起こしても、自らの至らなさとして釈明するならいざ知らず、あくまで自分の正当性を
主張する個人や組織の保身的態度は、個人の問題に止まらず、日本社会の組織全体に及ぶ
日本人の質の低下を示していると言えます。

自分の利益の為に部下を利用し、上手く行かなければ部下の所為とし、事が発覚すると
知らぬ存ぜぬとは、かつてのヤクザ映画を見る様です。
一連の問題は、政界のリーダー達を含め、現在の日本社会に内在する大きな問題を提起しています。
これらの事件を、他山の石とせず、自らに当てはめ、日本人一人一人が、もう一度
日本人としてどうあるべきか考える大切な課題と言えます。

 

 

 


言い訳しか出来ない大人

2018-05-30 13:33:13 | 日本人

大人の見苦しい言い訳を子供達が正さなければならない日本社会は、
やはり、大人達や社会的に地位のある人達の我儘によって
作られているとしか言いようが有りません。
日本社会をリードしている人達は、外見的には立派に思えても、
実際の人間的な進歩は期待できないと言うより、むしろ、何でも
思い通りになる事が多くなって、人の上に立っていると言う意味を
自分の欲望を叶える地位に有ると勘違いしている人が多い様です。

今やネットの発達と共に、誰もが情報を共有できる様に成って
自分の欲しい物知りたい物は何でも手に入れられる様になりました。
その為、お金さえあれば、経済的に豊かでありさえすれば、何でも
好きな事が出来きると思っている人が多くなっているのです。
非常に便利で経済的な時代に成った事で、豊かな人はより豊かに
という一極集中型の社会が世界中に広がっています。
経済的な力と権力が有れば、自分の望む物は手に入れられるという
非常に自己中心的な考えが、経済的に豊かな生活が出来れば
許されると言う考えが蔓延しているのです。

この事は、対人的な関係に於いて、様々なトラブルを起こす原因となり、
最近マスコミが取り上げる多くの話題や事件は、少なからず、この
人間の持つ身勝手で我儘な心が引き起こしていると言えます。
問題は、対人的に未熟な子供の頃に起こる問題ならいざ知らず、
大人の社会に於けるリーダー的存在の人達によって引き起こされる事が
ただ、事件を起こした人達の問題と言うより、日本社会全体に広がる
誰にでも起こり得る問題と言えます。

一国の長である者の疑惑、学校の先生、スポーツの監督やコーチ、
国技のトップと、日本を牽引して行く様な立場にある人達が
自分の身勝手な考えや欲望によって問題を起こし、マスコミに
頻繁に取り上げられる事は、日本人全体の質を落とす事にも成り
海外からの見方も変わってしまう心配が有ります。

これまでも各界のトップやリーダー的存在の方々の不祥事が有りましたが、
最近の傾向は、問題が発覚すると、誰もがマスコミの前でどうどうと
自分の正当性を主張し、どんなに間違いをとがめられても、平然と
潔白を主張し、しらを切り続ける人が多いです。
この事は、若い人や子供達にもその傾向が多く見られ、悪い事をしても
謝らないで、逆に逆上してしまう事も多い様です。

人々の望みが、より経済的に豊かな生活で有り、人間の価値も、社会的に
豊かな生活が出来る事とする人が多くなるにつれ、人としてのモラルも
常識も無くなっているのかもしれません。
今や、学校の試験の成績のように、一点でも多くの高価な品物を持ち、
少しでも人の羨む生活が出来れば満足する人が多いのかも知れません。
しかし、この世には、上には上がいるものであり、お互いの地位や財産
持ち物を比べあっている姿は、外見的に豊かな生活をすればするほど、
寂しい人に感じてしまうのは私だけでしょうか。

 

しかしながら、今の世の中、経済大国と言われながら、経済的に豊かさを
比べられない程苦しい生活をしている人も多いのです。
ほんの一部の人達の経済力で、国の大半の経済が支えられられている現実は
明らかに平和国家とは言えず、外見とは裏腹に、経済的独裁国家とも言えます。
年々増え続ける高齢者は、日本全体に於ける労働者不足を助長し、ますます、
経済を圧迫しています。
減少する若い労働者が、増大する無職の高齢者を支える構図は、日本社会が
今以上に発展するとは考えられず、巨大資本による大都市改造計画は、
単に、一部の高額所得者達の間での進歩で有り、多くの国民にとっては
全く自分達の生活を豊かにするものでは有りません。

正に、都市部における開発事業は、経済大国を示すパフォーマンスの様なもので
豊かな人達をより豊かにすることは有っても、多くの国民にとっては
高嶺の花ともいえる、更なる消費を促されるだけの、より所得差を見せつけさせる
無用の長物とでしか有りません。
マスコミを利用した様々なコマーシャルは、豊かな消費経済を続ける事が、
幸せに成る方法とばかり、連日国民を洗脳していますが、求められる生活をするには
今以上の出費が必要であり、華やかで楽し気な生活すら出来ない人達にすれば、
ただ、羨ましく思うだけなのです。

今や、日本社会は、国民生活を豊かにすると言うのではなく、日本社会で生きて行くには
全ての生活を、自分の為と言うより、要求される物を手に入れたり消費する為に有るのです。
高価な持ち物自慢をする人達は、それを作り出した人達をより湛えているに過ぎず、自分自身の
人間としての価値は全く上がっていな事を知りません。
単に、物の価値を他の人に伝えるメッセンジャーのように、そのものを作り出した人達の
広告塔と成っている事に気が付きません。
誰もが、その商品の価値を見ているのであって、持ち主の価値を見ていないのです。
その為、多くの場合、持ち物が豊かであればある程、持ち主を心の中で蔑んでいる事が多く、
社会的に地位や財産が有っても、その地位や財産が無くなれば、あっと言う間に、
多くの支持者たちは、蜘蛛の子を散らすように居なくなってしまうのです。

この様に、社会的な価値で有り、社会的に利用されているだけの人達は、どんなに多くの人が
周りに集まっているとしても、実際は、誰からも信頼されない孤独な人でも有るのです。
また自分自身も、自らが求める物を所有している人に対しては、慇懃無礼な態度を示すのです。
つまり、誰に対しても、自分が欲望を満たす対象であるかどうかが問題であり、相手の方が
どの様な思いをしようと考えであろうと関係ないのです。
人としての心のやり取りが出来ず、利益が得られる事を常に第一と考えているのです。

正に商人的な感覚であり、人間としてお互いの価値を考える事が出来ません。
この様な人が、人の上に立ったり、世の中のリーダーとも成ろうものなら、その下に付く人や
国民は、不幸に成らざるを得ないのです。
生活が豊かであれば幸せに違いないとしか考えられず、唯世の中の経済性が高まれば、
国民は幸せに成ると考えて居るリーダーは、その典型と言えます。
しかしながら、今の世の中、そういった人が主権を握っている事が多いのが問題です。

日本のみならず、その典型とも思えるアメリカに於いても、人と人の繋がりは経済性による
利益で決まると思っているリーダーが実権を握っています。
当然、その傘下にある日本も、同じ考えのリーダーが追随している事は言うに及びません。
自分の利益の為に、様々な駆け引きを行って、危険な外交政策を続ければ、そのリスクは、
自分だけでなく、多くの指示をしている人や国民に及んで来る事は明らかです。

人の上に立つリーダーは、多くの人々を幸せにする為に、その地位を与えられた事を
忘れてはならないのです。
自分の独断的な一言や行動で、多くの人が傷ついたり悲しい思いをする事をシッカリと
認識して、本当に国民の利益となるのかを考える事が重要です。
日米どちらのリーダーも、自己中心的なパフォーマンスがあまりにも多く、
しかも、自分の地位を、国民の為と言うより自分の欲望の為に使っています。

こう考えると、今やネットやマスコミを賑わす様々な事件の発端は、同じ問題から
生まれているのが解ります。
すなわち、地位を利用した個人的欲望が様々な事件を起こしているのです。
パワハラ、セクハラ、スポーツ界の暴力問題、政治家の不祥事と、全ての出来事が
人間としての根本的な心の成長を怠った結果起こっているのです。
経済的な発展を人の価値とした事で、人々の心の中に、自分の欲望を叶える為には
人の心を傷つけても悲しませても厭わないという考えを生んでしまったのです。

人間の行いで最も醜いとされる戦争に於いても、その背景には、領土略奪であったり
資源食料確保が有るのです。そして、戦争を生み出すのは、戦争から巨大利益を
得ようとする死の商人たちの暗躍があるのです。
人と人との殺し合いの陰には、巨大な資本が動いている事が多く、例え、
国民の多くを殺したとしても、莫大なる利益を得るにはいとわないとする背景が
これまでの戦争には必ずあったのです。

すべからず、人間の欲望は、多くの人達を傷付ける事になる事が多く、
人類の歴史を紐解くまでもなく、如何に、争いを生まないかと言う事を考える事が
人々を幸せにする方法と言えるのです。
その為、人々は、幼い頃から、様々な知識を身に付け、人として他人を傷つけない様
対人関係のモラルを身に付けるのです。
自分の欲望を通す事が、如何に争いを生み、他人を苦しめるかと言う事を学ぶことで、
社会に出ても、争うことなく、人間として心豊かな人生を送る事が出来るのです。

しかし、今の日本における社会風潮や子供達の勉学の内容は、全てが、経済的豊かな
生活をする為のものであり、周囲の人達とお互いの心の理解を深める物では有りません。
少しでも成績が高い子供が優先され、より有名な進学校へ進む事が子供の価値と成ります。
そして、社会に於いても、より地位が高い、いわゆる、勝ち組となる事が、人生における
最大の目的と成っている事が、様々な社会問題を生む温床となっているのです。
例え、マスコミがニュースとして取り上げても、それは、ほんの小さな社会のトラブルで有り
氷山の一角である事は言うまでも有りません。

更に、不祥事や不正を働いたとしても、日本中で行われている事とされれば、
自分の主張を繰り返し、ほんのしばらく禊を行えば、また社会復帰できるとする大人が多く
これまで過去の前例を見ても、その温床が無くなることは無いのです。
今の日本社会が、日本人にとって相応しいものでない事は誰もが心の中で感じているのです。
しかし、現実の生活から逃げられない、国や会社に拘束されて、心の自由が得られないのが
現代日本人の姿と言えます。
時たま、たまたま、マスコミが騒ぎ立てても、世の中を動かしている人達が、トラブルを起こしても
言い訳をして、しらを切り続ければどうにかなると言う考えを持っている限り、どんなに
経済的に豊かに成っても、日本人は心から幸せを感じる事は出来ないのです。

 

 

 

 

 

 


罪悪感を持った事の無い人々

2018-05-28 16:08:05 | 日本人

国の長たるものは、国民に対して、常に、誰にでもわかる明快な説明が
出来なければなりません。
国民の命と生活を守り、未来への希望を持たせる義務が有ります。
所が、最近の国会審議や答弁を見ていると、出て来る言葉は全て曖昧で
国民を煙に巻いている様な弁舌ばかりです。
誰が見ても不可思議で理解できない言葉の数々に、周囲の国会議員だけでなく
テレビの前で見ている国民も首を傾げたくなる事ばかりです。

ハッキリ説明できないで、話術で誤魔化そうとしているのは、誰の目にも
明らかで有るにも関わらず、のらりくらりとつじつまの合わない言い訳は、
保身以外何物でもなく、我欲で自らの立場を見失った哀れな末路と言えます。
また、嘘に嘘を重ねる為に、大きく崩れている天守閣を、張りぼてで補修
しようとする側近の見苦しさは、とても国会議員とは言えない見苦しさです。

それにしても、最近の大人達の醜態は目に余ります。
社会的地位が有るにもかかわらず、子供達や若い人達のお手本になるどころか
リーダーとしての資質に欠ける、我欲ばかりが目に付く人が多いです。
上に立つ人の条件である豊かな人間性を感じる人が少なく、ただ、我儘が目立ち
不祥事を起こせば言い訳ばかりです。
人々の上に立つ人は、夢を託されている訳ですから、まず第一に国民や部下の事を
考えるのが普通であり、自分に付いて来てくれる人達の思いを実現するために
その地位や名誉を与えられているはずです。

日本社会に於ける様々な職種に於いても、信頼できる上司に恵まれない人は多いです。
一部の人の幸せの為に、多くの人が犠牲に成ってい居る事実が多く有ります。
ただ、殆どの場合、闇に葬られて、その多くが、犠牲者たちの泣き寝入りで済まされています。
近年、パワハラ、セクハラと、メディアが取り上げてはいますが、これとて、
氷山の一角に過ぎず、多くの場合、生活の為や家族の為に黙認を強いられる人も多いのです。

人間として許されない行為を、地位が高いからと言って許される様であれば、人々は、
心も身体も苦しい生活を余儀なくされるのです。
日本のトップクラスの不義や不祥事が許されるとすれば、世の中の人達は、一体何を信じ
何を求めて行けば良いのでしょう。
誰が何と言おうと、自分の欲望の為なら、人を踏み台にして犠牲にしても構わないとする
殺伐とした社会を認めてしまう事と成ってしまうのです。

昔から、子供達は、大人の世界を見て育ちます。
どんな手を使っても、勝ち組に成れば幸せな人生が送れると思っている子供も多いのです。
成績さえ良ければ、自分の行動や言動が顰蹙をかっても許されるとする甘えが大人に成っても
続いているのが現代社会の大人の世界であるとすれば、日本の未来は、暗黒と言えます。
誰もが、他人の事を信じられなく、銃の保持を認められないと安心できな社会となるかも
知れません。

自分の思い通りに周囲を従わせようとする為に、地位や名誉を目指す人が少なくないのです。
また、地位や名誉、財産が有れば、自分のわがままが許されるとする考えがある事が、
つまらない国会審議を繰り返す事と成っているのです。
国民は、国会議員としての資質に乏しい人の言い訳を聞きたいのではないのです。
一日も早く、通常の国務を果たして欲しいのです。そして、苦しい国民生活を緩和する為の
具体的な対策を講じて欲しいのです。

今や、多くの国民は、如何に生活の糧を得るかで日々苦悩しています。
高齢者のみならず、若者まで、月々の生活費を如何に都合するかで、殆どの国民は苦しみ
何とか食べて行ける様にする事しか考えられず、人間として心の余裕を持った生活が出来ません。
何故なら、生きる目的が、如何に多くの所得を得て消費するかとしているからです。
どんなに経済的豊かに成ったとしても、多くの物を手に入れる事が幸せとされるため、
常に、限りない消費を求められているからです。

自分の心や身体を健康に豊かにする為ではなく、少しでも高価で豊かな物を手に入れる事に
生きる為の価値観を見出すようになっている事から、自分の心が満足する事が無いのです。
永遠と続く消費地獄は、まるで、麻薬患者のように、世界中の物を手に入れたくなるほど
欲望の炎が高まるのです。
この事は、社会的に高い地位に成ったとしても変わらず、欲望が様々な問題を起こします。
しかし、問題は、彼らが、自分がなぜ咎められるのかが解らない事です。
小さい頃から、欲しいものは何でも手に入れて来たから、悪い事をしているとは感じず
問い詰められても、反省するどころか、訳の分からない言い訳を続けるのです。

 

外見的な豊かさだけを求めて成長した大人は、多くの人達に嫌な思いをさせて来たとは
決して思っていない為、常識的な考えやモラルが全くありません。
対人的な成長をしてこなかった事から、一体、自分が何故とがめらければ成らないかが
解らないのです。
この欲望のままに育った大人が日本に増えているのです。

財産や地位、名誉と言ったものが自分の価値としている事から、常に他人の持ち物と
比較する事で自分の価値を決めています。
その為、他人の気持ちを理解する事が苦手で、自分より外見的に豊かな人にしか
頭を垂れず、見た目でしか人をする事が判断が出来ません。

利益をもたらしてくれる人、自分よりも地位や財産が高い人としか付き合いません。
少なくとも、自分より生活が豊かでない人には、心から蔑みます。
歯の浮いたような選挙演説はその表れとも言えます。
国民の味方の様な笑顔溢れる親近感は、当選するまでの事で有り、一度当選すれば
その笑顔は、自分に利益をもたらしてくれる人に向かいます。

この事は、日本国民全体にも言える事で有り、何か間違いを犯したとき、自分の行いに
シッカリと否を認め謝る事が出来る日本人がとても少なくなっています。
かつて、日本人は、何かにつけ、自分に否が無くとも、まず謝る習慣が有りました。
その事は、共同生活をしていく上で、物事の良し悪しは、十分に周囲の人との関わりを
考えた上で行わなければならず、自分の身勝手な主張をする事で、信頼関係を失う事が
無いようにいように考えていたのです。

トラブルが生じた時は、まず自分に否が無かったかを考える事で、人間関係がスムーズに
共同生活が豊かに成ったのです。
所が、最近の日本人は、メディアの影響か、まず、自分の主張をする事から始まります。
例え、自分が間違っていると解っていても、自分の正当性から主張する人が多く、
間違った行動や言動をしていたと周囲から知らされても、なおかつ弁明をする人が多く
最近マスコミを賑わす困った大人たちはその典型と言えます。

その最たる人が、いま言い訳三昧で国会答弁をしていますが、国の長と言える人が
言い訳しか出来ず、常に保身ばかりを考えて居る様は、余りにも見苦しいといえます。
今や、東アジア情勢は究極の事態を迎えているというのに、日本が、蚊帳の外に置かれて
自力でなにもできない状態は、一体何故でしょう。誰に責任を取ってもらったら良いのか
日本の将来を考えるとため息しか出ません。
親方トランプの言い成りで、彼の言葉で日本が振り回されている事を、日本のトップの
方々はどの様に思っているのでしょうか。やはり、自分達の利益が最優先されて
いるのでしょうか。

後、2,30年もすると、日本人の人口比率は、高齢者が多くを占める棺桶型と言われます。
若手労働力が更に減って、この問題は、日本だけでなく世界の先進国にとって深刻です。
若い労働者不足は、身の回りを見ても気に成ります。
低賃金の重労働に携わる若い人が少なく、そこに、海外からの労働者が増えています。
コンビニで働く人がアジア系の人達である事は、既に珍しくは有りません。
槌音が響く建築現場に於いても、高齢者施設に於いても、海外からの働き手が目立ちます。
しかしながら、それでも、日本は多くの規制を設け、若手労働者達の不足は解消できません。

とはいっても、日本が海外からの労働者達で支えられる時代は遠い話ではなく、現状から
多くの労働者を受け入れないと日本社会が成り立って来ていないのです。
東京オリンピックに向けて、政府は、海外からの観光客の受け入れを全面的に押し出して
日本を世界に誇る観光大黒にしたい意向ですが、その観光大国を支えるのは、日本人ではなく
海外からの労働者達に成る可能性も有るのです。

日本人は、昔から、海外からの文化や風習、更には、移民を受け入れない国です。
しかし、一度受け入れると、盲目的に突っ走る傾向があり、その事で、明治以来
消費経済社会が美しい日本を破壊したとも言えるのです。
これまで、日本を支える政治家や財界の人々は、目先の利益に囚われて、
日本の未来を考えない傾向が有りました。
己の欲望に任せて、大局を読めないリーダー達が招いた不幸は数知れずです。

その事が、社会に於いて、政界に於いて、様々な問題を呼んでいるのです。
地球温暖化と共に、これから数十年に渡って、地球は、人類の力ではどうにもならない
窮地を迎える可能性が有ります。
資源や食料が不足し、人々は、また、世界的に争いの中に突入して行くかも知れません。
それ程にも大変な時代に進もうとしているのに、個人的な欲望の結果齎した不祥事や不義
己の身から出た錆を一生懸命取り繕っている様では、日本の未来と言うより、日本国民を
幸せに導くなど、全く不可能としか言いようが有りません。

日本人全体としても、これら上に立つ人達のみじめな姿を見て、批判し追求するだけでなく
同じ環境に生きる者として、我が身に置き換えて考えなければなりません。
人の振り見て我が振り直せ、と言う諺が、私たち国民の対処の仕方とも言えます。

 

 

 

 

 

 


豊かな生活をする為のお金を得るには

2018-05-26 13:36:17 | 日本人

仕事の都合で昼間から渋谷の繁華街を歩く事と成りました。
駅近くで荷物を受け取ってから職場に戻る事と成るのですが、
オフで、これから遊ぶのなら、渋谷の喧騒も何の気にもならないのですが、
行く先々を塞ぐ驚く程の人の波は、これから仕事だと思うとため息が出ます。

所で、渋谷は駅周辺が都市開発に伴い、至る所で工事が行われ、10年程前の
慣れ親しんだ街並みは有りません。
見上げる程の高層建築が次々に渋谷の空を狭くして、膨大なる人の波を飲み込み
未来都市への期待と言うより、個人ではどうしようもない時の流れを感じます。

しかしながら、それにしても、土曜の昼の所為か、この人の数は尋常では有りません。
どちらを向いても人に囲まれていて、まるで朝のラッシュアワーに遭遇したみたいです。
お天気も良くて、多くの若者が集まって来て、渋谷は、東京の街の中でも若さに溢れ
建築中の巨大ビルの姿と相まって、非常に力強い未来を感じさせられます。

所が、この驚く程の賑わいも、東京の環状線内に留まっている事を知ると、
この恐ろしい程の賑わいは、、まるで、ロウソクの最後の光の様に感じてしまいます。
東京を離れて、一度、地方都市に行けば、その様相は一変します。
各県の主要都市周辺や観光地を除いて、日本は、本当に、寂れた国と成ってしまった事が
ひしひしと感じられます。
目に付くのは、シャッターが下りた街並みと高齢者ばかりです。
広い空に、人の気配が殆ど無い、出会う人は殆どが高齢者という街ばかりです。

そして、近頃、地方都市で目立つのは、海外からの労働者です。
中南米や東南アジア、アフリカと様々ですが、確実にその数を増していて、
公共機関を使うと、乗っているのが全て外人である事も珍しく有りません。
日本の現実は、いまや、日本人の労働者だけでは支えられないようになっているのです。

かつて、3K、4Kと言われた、若者達が嫌った職種に、今や、多くの海外からの
労働者たちが働いています。
身近なコンビニなどでも、外人の店員が目立っています。
いまや確実に、日本を支える若い労働者が減っているのが身近に感じられます。

この事は、日本だけでなく、今や先進国に於いて深刻な問題と成っていて、
かつての豊富な労働者が、今では高齢化し、世界中で、若い労働者が不足しています。
日本に於いても、日本経済を支える若い人達が確実に減っている事も有って、
海外からの低賃金ではたらいてくれる若い労働者が無くてはならない状態です。

しかしながら、日本に於いては、海外からの労働者には様々な規制があり、
直ぐに日本の需要を満たす事が出来ません。
その為、慢性の労働者不足は、日本の高齢者達に様々な問題を生んでいます。
中でも、高齢者介護は、家族や身内の人で出来ない所をデイサービスなどで
補っているのですが、その介護をする人達が深刻な人手不足となっています。

その為、若い働き手の不足分を高齢者で補わなければならず、いわゆる
老老介護の様に、福祉事業で働く人すら高齢者に頼らなければならない現状です。
この事は、非常に深刻で有り、福祉事業を行いたくとも働き手が居なければ
高齢者達は安心して余生を生きる事が出来ません。
この問題は、高齢者と言うより、経済的にどれだけ満たされれているかで決まり、
今の社会情勢を反映して、一部の富裕層には何の問題も無いのが問題です。

日本社会で生きて行くには、あらゆることで、いわゆる、勝ち組でなければ
安心と安全は得られないのです。
小さい頃からどちらの世界に生きて行くかで、将来の生活が決まると言えるのです。
問題を起こす多くの政治家は、勝ち組であるから故、我儘な行動や言動が出来、
大多数の苦しむ高齢者や若者の事が心から理解する事が出来ないのです。

例え、苦学生であっても、社会をリードする立場と成れば、どんな我儘も許される
それが日本社会で有り、いつまで経っても、多くの国民が幸せに成れない原因
とも言えるのです。
如何に自分の地位と名誉、財産の確保が出来るか、その為には、周りの事など
構っていられないと言うのが、日本社会で生きて行く術ともいえるのです。

しかし、その様な教育を受け、その様な社会を作って、一体誰が幸せに成るのでしょう。
自分だけ良ければ良いとする生き方は、本当に自分の心を満たし幸せに成れるのでしょうか。
どんなに豊かな生活が出来る様に成っても、止まる事の無い欲望を抱き、自分の目的は
人から羨まれる生活だったのでしょうか。
それは、他人も求める物であるならば、自分が最高と思った生活をしたとしても
更なる豊かな生活を見せられれば、途端に色あせて、自分の心は不満で一杯と成ります。
そんな繰り返しで、自分自身の心を豊かにして行く事が出来るのでしょうか。

現代社会は、欲望を満たすべく、様々な魅力的な商品や生活をメディアが提案します。
その為、今日の満足は明日の不満足へなる事は当たり前であり、与えられたものを
次々に手に入れ続けなければ、安心と満足が得られない状態と成っています。
働く事は、人々が求める物を手に入れる為と思っている方がとても多いです。
その為、手に入れられない物に対しては羨望の気持ちが常に働き、手に入れている人を見ると
憧れと言うより妬みや誹りと言った負の感情が芽生えてしまいます。

つまり、何でも手に入れて欲望を満たしていく社会は、常に他人の心を荒立て、
心の平安を得る事が出来ないのです。
しかし、社会は、消費経済で成り立っている事から、国民に、消費をする事を勧め
少しでも多くの物を買い求める様に仕向けます。
常に自分の心に問いかけない人は、自分の所有物は、いつも満足できるものではなく
求める物は誰かの所有物であったり買い求めなければ手に入れられない物ばかりです。
毎日の生活は、心をに不満を抱かせるもので満ちているのです。

消費経済国家は、一見、豊かで魅力的ですが、自分の欲しいものが常に手に入る時は
良いのですが、一度、欲求を満たせなくなると、自分の生き甲斐が消えてしまい、
自分自身の価値を感じられなくなってしまうのです。
外見的な価値を自分の価値とする人生は、豊かな様で、それは、裸の大様と同じです。
今の日本社会は、国民を全て、裸の大様にする社会と言えます。

他人の持ち物が欲しくなり、他人より少しでも高価な物を身に付ける事がステイタスで有り
自分の価値と思っている人がとても多いのです。
外見的な価値が人の価値と考えがちな為、自分以外の人と接しても、その人の心を理解出来ず
見た目でしか判断できない事で、大切な人間としての心の交流を無くしてしまう事も多いのです。

お金も地位も財産も、全ては、この社会で、人々がお互いに心豊かに生活するために在るものであり
手段であり道具に過ぎないのです。
どれだけ自分の心を豊かに幸せにするかが、人間として共同生活をしていく上で大切で有り
人の心の価値を感じられなければ、自分の欲しい物すら手に入れられないのです。

お金があれば何でも手に入ると思うのは錯覚で有り、お金を手に入れようと様々な策を
練ったとしても、自分自身だけの欲望で手にしたお金は身に付かず、直ぐに消え去ってしまいます。
お金は、自分の心が他人の心を理解した時、自然に自分に集まって来る物なのです。
自分の欲望だけで手に入れたお金は死に金といって、直ぐに自分の外に逃げて行きます。

私達は、お金を使う時、欲しい物の価値と魅力を感じるからお金を出すのです。
それは、商品に限らず、他人からお金を頂く時も、自分自身の魅力がありさえすれば、
他人はお金を与えてくれるのです。外見の豊かさを見て、人間の豊かさを感じられないと
無駄なお金を使ったり騙されたりするのです。

バブル崩壊後、多くの方が生活する事に苦しみ、少しでも給料の高い仕事を探します。
しかし、高額の給料を得られる仕事は、それに似合った働きを求められます。
その条件は、昔から同じであり、健康な身体と健康な頭脳です。
健康な頭脳とは、何かに長けているというだけでなく、様々な事を受け入れられる
人間としての柔軟性のある頭脳です。

自分の考えだけでなく、多くの人の考えを受け入れられる頭脳を指します。
唯、高い給料だけを求めている人は、一時的には働けても、他人との関わり合いで
トラブルを起こしやすく、長くその仕事を続けられません。
例え、特殊な技能が無くとも、雇い主の心を理解し、それに相応しい仕事をすれば
より多くの所得を得る条件とも成るのです。

現代社会は、生き馬の目を抜くと言われる程、熾烈で厳しいものがあります。
その為、多くの労働者は、常に肩ひじを張って、自分のテリトリーを守り、
必至にノルマを果たす事に精力を注いでいます。
しかし、この努力が、単に、給料の為だけでは、もし、その仕事が無くなった時
次なる仕事への転換が難しく成ります。

どんな仕事も、対人的な人としての力を磨かなければ上手く行かないのです。
経済的な欲望だけでは、雇用者は、部下として信頼できないのです。
今の世の中は、自分に合う仕事を見るける為、人々に転職を勧めます。
しかし、給料が良いと言うだけで転職していると、本当に長く働きたいと思っても
反対に解雇される現実があるのです。

人は、どんなに進化して、経済的に豊かな暮らしをしても、中身はさほど変わりません。
やはり、生きて行くには、お互いに心が許し合えるか、理解できるかという原点が
見つからなければ、一緒に仕事をする事は出来ないのです。
豊かな暮らしは、豊かな人間としての心が裏打ちされていなければ、直ぐに、周囲から浮いて
いつまで経っても認められないのです。

お金が足りない時こそ、お金が集まる自分を磨かなければならないのです。
その方法は、身の回りの人の心が幸せに成るように頑張れば良いのです。
人は、自分が一番求める物を与えられると、何でも欲しいものを与えてくれるのです。
人が本当に求める物は、物や、外見的な物でない事は言うまでもありません。

 

 

 

 

 

 

 


上に立てば何でも許されるとする日本社会の甘え

2018-05-24 15:46:36 | 日本人

日大のアメリカンフットボールの監督とコーチの会見を見ていると、
正に、現在の日本が抱える社会情勢を反映している様です。
これまで、この手の会見を、どれだけ見て来た事か、責任逃れと言うか
保身の為としか考えられない我儘な言い訳、これは、最近の誰かの
会見によく似ています。

そう! 我が日本丸船長の不祥事に対する言い訳とそっくりです。
人の上に立つ者が不義や不正を行った時は、如何に言い逃れをするかを
国民は、苛立ちと情けなさで何度も目にし耳にしたことでしょう。
日本の頂点に立つ人がする事は、ある意味、お手本なのかも知れません。
メディアの前で自分の正当性を主張するリーダー達の姿や言葉は、
国民への何の説明にも謝罪にもなっていなくて、その言葉や態度の裏に
常に、己の行った事への正当性と我儘な考えが見え隠れしています。

問題は、この手の人達が、特別ではない事です。
一般社会に於いても、政界財界に於いても、日本社会を形作っている
多くの人々の中に、ごく当たり前に存在していて、少しでも地位が高かったり
経済的立場が強かったりすると、途端に、自分より下とみなす人に対し
高飛車で高圧的で我儘な態度や言葉を使います。

この事は、日本社会に於ける人々の価値が、成績や社会的地位や財産で
決められている事に依り、他人の価値を、その人の肩書や外見でしか
判断できない日本人が多い事からも言えます。
少しでも自分より上とみなせば、必要以上に媚び諂い、下とみなせば
パワハラ、セクハラは当たり前、自分の思い通りに動かせることを
自分の価値と考える人が少なくないのです。

まるで、昔の兵隊の様に、位が一つでも下であれば、どんなに乱暴な
態度や言動を行っても許されるとする縦社会の悪の極みとも言えます。
その為、子供の頃から、社会人と成ったとしても、自分の成績や
社会的地位が全てであって、他人との人間的関わりには、何の
興味も示しません。

自分の利益になる事しか関心がなく、人間関係は、自分が思い通りに
する事が出来るしもべの様な人と、相手の人格に関係なく、自分の利益となる
尻尾をふる対象の人でしか有りません。
どちらも心の繋がりは無く、自分にとって好む者とは、自分に利益を与えてくれる
と言う事が一番で有り、財界政界を問わず、美味しい餌を与えてくれる人達には
すぐさま膚を摺り寄せて行く性質が有ります。
この社会体制は、ピラミッド体制そのものとも言え、多くの底辺を成す人々の
思いは、頂点を成す方々の知る由では有りません。

人が共同生活をしていく上で、人類が創り出した豊かな対人関係は、
人間の欲望の前では、単に、利害関係と成ってしまい、憎しみや
争いは起こっても、豊かな人間形成は築かれれません。
人々は、外見的な豊かさを目指し、自分の利益を得る為の
外見を取り繕う事には長けても、人としての心の成長は見込めません。

人間の価値を、経済的で社会的な価値としてしまった日本社会の歪が
社会の至る所で噴出し、人々の心を苦しめ、様々な暴力や争いを
生んでいるのです。
自分の利益さえ得られれば、他人はどうなろうと構わないとする
欲望しか感じられない日本人が実に多くなっているのです。
現代社会の豊かさが、日本人の人間としての豊かさを示していると
言えなのが、多くの日本人を苦しめる事と成るのです。

小さい頃から、成績を人間的な価値として教えられて育った事で、
人を見る目も、成績や外見的な価値でしか感じられないのです。
例え、自分が裸の大様で有ったとしても、外見的に支持されるならば、
日本社会で大手を振っていられるというのが、大きな問題と言えます。
特に、人々の上に立つ人が、その地位を利用して、我儘な行動言動を
行ったり、パワハラ、セクハラを行っているのが、昨今、多くのメディアが
取り上げる理由でもあるのです。

しかし、社会全体が、この様な常識を疑う様の行動言動に怒っているかと言えば
日本社会の本質が、同じ様な風潮を生んでいる事も有り、極めて批判的な
言葉を発したり怒りを覚える人達であっても、その様な体制の中で育って
来た事も有って、たまたま、自分以外の他人が批判されている事に、自らも
正しい人生を送って来たとして怒りを発する立場をとっている事も有るのです。

つまり、資本主義社会の元で、消費経済社会で生きる事を強いられて来た
多くの日本国民は、誰しも、加害者になる可能性が高いと言えるのです。
パワハラ、セクハラ事件を見る多くの日本人の中にも、もしかしたら、
自分が同じ責められる立場に成ったかも知れ無いと思いながら、
テレビ画面やメディアの報道を見ている人も多いと思われます。

人間は、正悪と二つに分けれれるものではなく、一人の心の中には、
常に善悪のどちらにもなり得る未熟な部分が多いと言えるのです。
その気持ちは、環境によって、自分の心のコンディションで、
どちらにも簡単に変化してしまう程、いい加減な物でも有り、それこそが
人間の持っている特性であり、人類が進化出来て来た証でもあるのです。
特定の考えしか持てなければ、その思いが断たれれば、その先には進めません。
しかし、その時、別の考えを持つ事に依り、多くの生きる為の選択権を
手にした事が、人類繁栄の歴史でもあるのです。

いえ、これは、間違った事をした人を肯定しているのではありません。
人間は、自分の思いの変化、周囲の環境の変化で、簡単に、善人にも
悪人にもなり得るのです。
その為、環境が変わり、自分の間違っていると思われる事を行う事が
社会的に認められる事も有るのです。
そう、戦争で、敵を一人でも多く殺せば、褒められる事がそうです。

大切な事は、人生にとって正解は、常に流動的で変化に満ちていると言う事です。
算数の計算の様に、答えが決まっているというものではなく、その時の状況や
社会女性によって様々に変化するのです。
昨日の常識は今日の非常識と言うのは、珍しい事ではなく、その時々の社会環境や
周囲の情勢に如何に反応して行くかが大切なのです。

そん中でも大切な事は、対人的なセンスを常に磨く事です。
多くの人の中で生きて行く為には、自分だけの身勝手な考えでは
トラブルは生んでも友好関係は生まれません。
家族の中でも、学校の中でも、社会人に成っても、如何に周囲と
やり取りがしっかりと出来るかが、人間として成長して行く過程で
最も大切と言えます。

正に、家庭教育、学校教育の最も大切な部分であり、どんなに学力が
優れようと、対人的なやり取りが出来ず、周囲に人に迷惑を掛けたり
辛い思いをさせる事は有ってはなりません。
人は、自分が楽しく幸せでありたい様に、他人も同じ思いである事を
知っていなければなりません。
つまり、自分が幸せに成る為には、自分の関わる人達も幸せと成る事が
一番大切なのです。

友好関係とは、お互いに相手に対して幸せと喜びを感じさせる事が出来るか
という一点で成り立っているとも言えるのです。
最近の社会問題は、様々な世界で起こった問題とは言え、本質的な問題は、
身勝手な、自分だけの欲望や行動言動が、多くの人を傷つけたり、国民を
怒らせ苛立たせたりしているのです。

日本社会が持つ、根本的な問題と言え、セクハラ、パワハラも、身勝手な
自分の行動や言動が他人を傷つけた結果と言えるのです。
日本人が、経済的な価値を自分の価値と考えるようになったことで、
人と人との関わり合いに歪を生じているのです。

本来の豊かさとは、人の心に有るものです。
外見的な地位や財産と言った、社会的な価値を自分価値と勘違いする
日本社会の風潮がこれらの事件を生んでいると言えます。
日本人が、本当に豊かな暮らしが出来るには、見た目の発展以上に
国民の心の成長が大切と言えるのです。