長く生きていると、幾度かの人生の岐路に立たされるものであり、
卒業、就職と言った、喜ばれる事も有りますが、病に伏したり
職を辞したりと言った、余り喜ばしいと言えない場合も有ります。
今や、私は、新たなる人生の岐路に在り、しかも、長く行って来た
仕事を辞すると言う、心苦しい立場にあります。
定年退職と言った、新たなる未来を考えられる辞職というものではなく
若い頃から築いて来た職場を畳まなければならなくなったのです。
いわゆる倒産の様なものであり、新たなる職を見つけなければならず、
十年以上に渡って綱渡りの様な状態を続けて来た事もあって、
新たなる仕事を見つける事も、それまでの生活の猶予も有りません。
世の中の変化についていけなかったと言えばそれまでですが、
これまで幾度となく仲間内の辞職、退職を見て来ましたが、
遂に自分の番が回って来るとは、うすうす感じてはいましたが
いざと成ると、様々な思いが沸き上がって来ます。
バブルの頃が花であったとも言える我々の仕事は、それから
どんどん右肩下がりと成り、同期の仲間たちも、まるで歯が欠ける様に
この道から去って行きました。
バブル以降、多くの企業や会社が倒産し、日本中が不景気と成って行くに連れ
人々の関心も、全く違う方向に向かい、忙しさで食事をする暇もない程の頃が
まるで遠い夢の世界の様に思い出されます。
国民生活が豊かな時と苦しい時とでは、全く人々の関心の方向が違って来て
どんなに努力しても、以前の様な収益が得られれないのは、私達の職種だけでなく
高度成長期に大きく成長した産業に共通するものと言えます。
力のある大手企業は、合弁合併を繰り返し、会社組織を社会のニーズに合わせながら
変化して行く事でこの難局を乗り越えているのですが、多くの中小企業にとって
更なる投資を行って復活すると言う事は非常に難しく、日本中で倒産が無くなる事は無く
いまだ社会は豊かに成っていないと言えるのです。
とは言え、他人の事はともかく、自分達の生活を本気で考えなければならないのです。
若い頃であれば、新たなる目標を見つけるまでに、生活を安定させるアルバイトや
繋ぎの仕事を見つける事が出来るのでしょうが、人生の後半を迎える高齢者が、新たに
仕事を見つける事は至難の業と言え、条件に合っていると言え、実際に、長きに渡って
努めらるかと言えば、とても難しい職種が多く、仕事を高齢で辞めて、新たなる職を
見つける事は、若者達よりもかなりのリスクが有るものです。
現実社会を見ても、かつて大会社の役員をしていたり経営をしていた人達でさえ
起業の下請けの仕事をしたり、日雇いの仕事をしている事も多く、生活の為とは言え
思う様な収益を得る事は困難と言えます。
こんな、マイナス要因が多い高齢者が、一般の人と同じ利益を得ると成れば、若者以上に
社会に望まれる魅力や能力を持つ以外には無いと言えます。
それまでの仕事以外の事を行った事が無ければ、社会の中では、何事においても新人であり
しかも、高齢と有れば、その職種は限られると言えます。
問題は、例え、就職できたとしても、働く地位は最下層と言う事と成り、自分の意思で
仕事を変える事は出来ず、言われるがままに働く事しかないのです。
しかし、多くの高齢者は、既に、他人に使われて頑張る体力と気力が無いのが実情です。
一時的な戦力と成っても、長きに渡って会社を支える程の力は無いのです。
高齢者にとって、働くと言う事は、自分の心と身体を生かせるものでなければならず、
例え、思い通りの収益が有ったとしても、心と身体にストレスが掛かる様では、すぐさま
体調不良と成り、職を辞さなければならないのです。
ただ、幸いなことに、今の世の中は、ありとあらゆる職種がネットを通じて開示されていて
自分に最も相応しいと思われる職種を探す事が出来るのです。
また、多くの職種を知る事に依って、現代社会が要求している人材が如何なるものかも解り、
社会の要求にどの様に応じて行けば良いかの対策が出来るのです。
数えきれないほどの職種が在ると言う事は、それだけ人々の欲望の数が多いと言う事でもあり
裏を返せば、それまで、仕事とは考えられなかった事でさえ仕事と成っていると言えるのです。
つまり、人間の生きざま生活の全てが仕事として成り立つ社会と成っているのです。
思いつく事、考えられる全ての事は、仕事に結びつくと言っても過言ではないのです。
仕事に関しても、人々の個性と同じく、様々な種類が考えられ、世の中に在るものでなくても
自分が考える事は仕事として成立すると言えるのです。
文化の発展と共に、人々は、それまで想像もしなかった事を仕事として来ました。
新たに生み出された仕事が次の社会を担ってきたと言えるのです。
この事は、個人的な働き口に関しても、常に既成の職種にこだわる必要はなく
無ければ、自分が思う事望む事を仕事としても何だ問題はなく、むしろ、自分の考えが
反映されている事から、かえって長く続けられる可能性も高いのです。
私が行って来た仕事も、30年を超える月日と成りました。
その間、様々な窮地に立たされたり、転職を考える程追い詰められた時も有りました。
しかし、それでも、それまで行って来たこのに対する固執は、自分の新たなる挑戦を拒み
今に至るまで、変わる事を否定して来ました。
確かに、長く継続できたことで生活は潤い、現在まで仕事として人生を支えて来たのですが、
同じ事を続ける事に何の疑問も感じないでいると、いつの間にか、様々な歯車が狂って来て
思いがけない窮地に立たせる可能性が高く成って来るのです。
しかし、潤っている時、あえてその仕事を否定する事はとても難しく、冷静に客観的に
考えられなくなることで、問題を見過ごしたり後回しにしてしまい、次第に、傷口を
広げてしまう事も少なくないのです。
転職は、今の仕事が上手くいっている時に行うべきとする言葉が有りますが、
仕事や生活が傾いてから新たなる道を見つける事は非常に困難と言えます。
禍福は糾える縄の如し、と言う諺が有りますが、幸不幸は交互にやって来るように言いますが
現実は、幸福は幸福を呼び、不幸は不幸を呼んでいる事が多いのです。
辛い事が有ってもいずれ良い事がやって来ると、先人は人々を慰めているのかもしれませんが、
どちらかに偏った生活をしている人が実に多いのも事実です。
日本社会に於いても、金持ちはより豊かに成り、貧乏人は更に貧乏人と成っている
事実が有るのです。
この事は、金持ちとか貧乏人とか言う事ではなく、人は与えられた環境に準じて生きるという
性質があって、同じ環境を求め続ける傾向が有るのです。
つまり、金持ちは金持ちの環境を求め続ける事からお金が集まり、貧乏人は貧乏人の環境を
続ける事から散財して行くとも言えるのです。
また、人は、その外見姿に応じて人間的地位を決めやすく、人間としての内面の豊かさよりも
外見的豊かさに注目する傾向があるのです。
その為、外見を上手く取り繕い、それらしき態度で接しられると、簡単に騙されたり、詐欺に
思うように動かされたりするのです。
多くの人達が、お金持ちに成りたい、豊かな暮らしがしたいと思うものの、いつまで経っても
願いが叶えられないのは、多くの場合、求める生活を実践しないで、自分の現実の生活を続け
考え方も貧乏人の考え方である事から、自他共に豊かな生活に成る為の生活設定が成されず、
人からも自分自身も、現実から変わる力を得られないのです。
貧乏人は貧乏人に、豊かな人は豊かな生活をするのは、その生活を求めているからであり、
環境や境遇が影響しているのではないのです。
自分は、金持ちになれない、豊かな生活が出来ないと思って嘆いている人は、お金持ちの人の
生活や考え方が全く解っていなくて、自分の現状の不満だけを唱えているだけなのです。
宝くじを買って一獲千金を願っている人も同じであり、たとえ当選したとしても、
自分の日頃の欲求を満たす事だけで、生活の豊かな人達の生き方を実践しない事から、
ひと時の夢で終わってしまうのです。
大切な事は、まず自分自身が、豊かな心の持ち主と成る事です。
お金は、不平不満の気持ち、妬み嫉妬と言った、人の心を傷つける様な感情を持っている人には
集まって来ません。なぜなら金持ちは、その様な感情をあまり持ちませんから、お金が集まるのです。
また、自分自身を大切にしない人には、人とは違う自分自身が理解できず、他の人達の違いを
認める事ができません。その為、自分自身の心を大切に育てて来た豊かな人達が近寄らず、
おのずとお金も集まって来ないのです。
つまり、自分の生活は、自分自身が選んでいる事が多く、他人の生活を認める事が出来なければ
自分の思いを認めてもらう事は出来ず、だれも、思いを達成する事を助けてくれないのです。
もし自分が大金持ちだったら、身近な事で何をしたいのかどんな考えを持っているのかを想像し
手の届く金持ちの生活をしてみる事です。
お金がないから求めると言うのではなく、お金が沢山あったらどのような心境で何を求めるかを考え
それを実行して行くと、お金持ちの生き方が次第に解って来るのです。
すると、人の生き方の習慣性により、いつの間に本物の大金持ちと成る可能性があるのです。
多くの方が、お金持ちに成りたいとするも、求める事はしても、現実の自分を変えていない事から
やはり薄給で散財する生活が繰り返されるのです。
この事は、新たなる仕事を始めるにあたっても大切な事であり、自分が求める仕事に似せた生活を
行っていれば、次第に自分自身も周囲も変わって来るものであり、より夢が身近と成って来る
と言えるのです。