めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

転機の訪れをチャンスとするには

2018-11-30 12:47:15 | 社会

長く生きていると、幾度かの人生の岐路に立たされるものであり、
卒業、就職と言った、喜ばれる事も有りますが、病に伏したり
職を辞したりと言った、余り喜ばしいと言えない場合も有ります。
今や、私は、新たなる人生の岐路に在り、しかも、長く行って来た
仕事を辞すると言う、心苦しい立場にあります。
定年退職と言った、新たなる未来を考えられる辞職というものではなく
若い頃から築いて来た職場を畳まなければならなくなったのです。
いわゆる倒産の様なものであり、新たなる職を見つけなければならず、
十年以上に渡って綱渡りの様な状態を続けて来た事もあって、
新たなる仕事を見つける事も、それまでの生活の猶予も有りません。

世の中の変化についていけなかったと言えばそれまでですが、
これまで幾度となく仲間内の辞職、退職を見て来ましたが、
遂に自分の番が回って来るとは、うすうす感じてはいましたが
いざと成ると、様々な思いが沸き上がって来ます。
バブルの頃が花であったとも言える我々の仕事は、それから
どんどん右肩下がりと成り、同期の仲間たちも、まるで歯が欠ける様に
この道から去って行きました。

バブル以降、多くの企業や会社が倒産し、日本中が不景気と成って行くに連れ
人々の関心も、全く違う方向に向かい、忙しさで食事をする暇もない程の頃が
まるで遠い夢の世界の様に思い出されます。
国民生活が豊かな時と苦しい時とでは、全く人々の関心の方向が違って来て
どんなに努力しても、以前の様な収益が得られれないのは、私達の職種だけでなく
高度成長期に大きく成長した産業に共通するものと言えます。

力のある大手企業は、合弁合併を繰り返し、会社組織を社会のニーズに合わせながら
変化して行く事でこの難局を乗り越えているのですが、多くの中小企業にとって
更なる投資を行って復活すると言う事は非常に難しく、日本中で倒産が無くなる事は無く
いまだ社会は豊かに成っていないと言えるのです。

とは言え、他人の事はともかく、自分達の生活を本気で考えなければならないのです。
若い頃であれば、新たなる目標を見つけるまでに、生活を安定させるアルバイトや
繋ぎの仕事を見つける事が出来るのでしょうが、人生の後半を迎える高齢者が、新たに
仕事を見つける事は至難の業と言え、条件に合っていると言え、実際に、長きに渡って
努めらるかと言えば、とても難しい職種が多く、仕事を高齢で辞めて、新たなる職を
見つける事は、若者達よりもかなりのリスクが有るものです。

現実社会を見ても、かつて大会社の役員をしていたり経営をしていた人達でさえ
起業の下請けの仕事をしたり、日雇いの仕事をしている事も多く、生活の為とは言え
思う様な収益を得る事は困難と言えます。
こんな、マイナス要因が多い高齢者が、一般の人と同じ利益を得ると成れば、若者以上に
社会に望まれる魅力や能力を持つ以外には無いと言えます。

それまでの仕事以外の事を行った事が無ければ、社会の中では、何事においても新人であり
しかも、高齢と有れば、その職種は限られると言えます。
問題は、例え、就職できたとしても、働く地位は最下層と言う事と成り、自分の意思で
仕事を変える事は出来ず、言われるがままに働く事しかないのです。
しかし、多くの高齢者は、既に、他人に使われて頑張る体力と気力が無いのが実情です。
一時的な戦力と成っても、長きに渡って会社を支える程の力は無いのです。

高齢者にとって、働くと言う事は、自分の心と身体を生かせるものでなければならず、
例え、思い通りの収益が有ったとしても、心と身体にストレスが掛かる様では、すぐさま
体調不良と成り、職を辞さなければならないのです。
ただ、幸いなことに、今の世の中は、ありとあらゆる職種がネットを通じて開示されていて
自分に最も相応しいと思われる職種を探す事が出来るのです。
また、多くの職種を知る事に依って、現代社会が要求している人材が如何なるものかも解り、
社会の要求にどの様に応じて行けば良いかの対策が出来るのです。

数えきれないほどの職種が在ると言う事は、それだけ人々の欲望の数が多いと言う事でもあり
裏を返せば、それまで、仕事とは考えられなかった事でさえ仕事と成っていると言えるのです。
つまり、人間の生きざま生活の全てが仕事として成り立つ社会と成っているのです。
思いつく事、考えられる全ての事は、仕事に結びつくと言っても過言ではないのです。
仕事に関しても、人々の個性と同じく、様々な種類が考えられ、世の中に在るものでなくても
自分が考える事は仕事として成立すると言えるのです。

文化の発展と共に、人々は、それまで想像もしなかった事を仕事として来ました。
新たに生み出された仕事が次の社会を担ってきたと言えるのです。
この事は、個人的な働き口に関しても、常に既成の職種にこだわる必要はなく
無ければ、自分が思う事望む事を仕事としても何だ問題はなく、むしろ、自分の考えが
反映されている事から、かえって長く続けられる可能性も高いのです。

私が行って来た仕事も、30年を超える月日と成りました。
その間、様々な窮地に立たされたり、転職を考える程追い詰められた時も有りました。
しかし、それでも、それまで行って来たこのに対する固執は、自分の新たなる挑戦を拒み
今に至るまで、変わる事を否定して来ました。
確かに、長く継続できたことで生活は潤い、現在まで仕事として人生を支えて来たのですが、
同じ事を続ける事に何の疑問も感じないでいると、いつの間にか、様々な歯車が狂って来て
思いがけない窮地に立たせる可能性が高く成って来るのです。

しかし、潤っている時、あえてその仕事を否定する事はとても難しく、冷静に客観的に
考えられなくなることで、問題を見過ごしたり後回しにしてしまい、次第に、傷口を
広げてしまう事も少なくないのです。
転職は、今の仕事が上手くいっている時に行うべきとする言葉が有りますが、
仕事や生活が傾いてから新たなる道を見つける事は非常に困難と言えます。

禍福は糾える縄の如し、と言う諺が有りますが、幸不幸は交互にやって来るように言いますが
現実は、幸福は幸福を呼び、不幸は不幸を呼んでいる事が多いのです。
辛い事が有ってもいずれ良い事がやって来ると、先人は人々を慰めているのかもしれませんが、
どちらかに偏った生活をしている人が実に多いのも事実です。
日本社会に於いても、金持ちはより豊かに成り、貧乏人は更に貧乏人と成っている
事実が有るのです。

この事は、金持ちとか貧乏人とか言う事ではなく、人は与えられた環境に準じて生きるという
性質があって、同じ環境を求め続ける傾向が有るのです。
つまり、金持ちは金持ちの環境を求め続ける事からお金が集まり、貧乏人は貧乏人の環境を
続ける事から散財して行くとも言えるのです。
また、人は、その外見姿に応じて人間的地位を決めやすく、人間としての内面の豊かさよりも
外見的豊かさに注目する傾向があるのです。
その為、外見を上手く取り繕い、それらしき態度で接しられると、簡単に騙されたり、詐欺に
思うように動かされたりするのです。

多くの人達が、お金持ちに成りたい、豊かな暮らしがしたいと思うものの、いつまで経っても
願いが叶えられないのは、多くの場合、求める生活を実践しないで、自分の現実の生活を続け
考え方も貧乏人の考え方である事から、自他共に豊かな生活に成る為の生活設定が成されず、
人からも自分自身も、現実から変わる力を得られないのです。
貧乏人は貧乏人に、豊かな人は豊かな生活をするのは、その生活を求めているからであり、
環境や境遇が影響しているのではないのです。

自分は、金持ちになれない、豊かな生活が出来ないと思って嘆いている人は、お金持ちの人の
生活や考え方が全く解っていなくて、自分の現状の不満だけを唱えているだけなのです。
宝くじを買って一獲千金を願っている人も同じであり、たとえ当選したとしても、
自分の日頃の欲求を満たす事だけで、生活の豊かな人達の生き方を実践しない事から、
ひと時の夢で終わってしまうのです。

大切な事は、まず自分自身が、豊かな心の持ち主と成る事です。
お金は、不平不満の気持ち、妬み嫉妬と言った、人の心を傷つける様な感情を持っている人には
集まって来ません。なぜなら金持ちは、その様な感情をあまり持ちませんから、お金が集まるのです。
また、自分自身を大切にしない人には、人とは違う自分自身が理解できず、他の人達の違いを
認める事ができません。その為、自分自身の心を大切に育てて来た豊かな人達が近寄らず、
おのずとお金も集まって来ないのです。

つまり、自分の生活は、自分自身が選んでいる事が多く、他人の生活を認める事が出来なければ
自分の思いを認めてもらう事は出来ず、だれも、思いを達成する事を助けてくれないのです。
もし自分が大金持ちだったら、身近な事で何をしたいのかどんな考えを持っているのかを想像し
手の届く金持ちの生活をしてみる事です。

お金がないから求めると言うのではなく、お金が沢山あったらどのような心境で何を求めるかを考え
それを実行して行くと、お金持ちの生き方が次第に解って来るのです。
すると、人の生き方の習慣性により、いつの間に本物の大金持ちと成る可能性があるのです。
多くの方が、お金持ちに成りたいとするも、求める事はしても、現実の自分を変えていない事から
やはり薄給で散財する生活が繰り返されるのです。
この事は、新たなる仕事を始めるにあたっても大切な事であり、自分が求める仕事に似せた生活を
行っていれば、次第に自分自身も周囲も変わって来るものであり、より夢が身近と成って来る
と言えるのです。


 

 


個性と才能が育たない現代社会

2018-11-29 04:20:09 | 社会

人が持っている才能とは、本来優劣を決めるものではなく
其々の個性として伸ばされて行くべきものです。
しかしながら、多くの場合、人々の関心を集めたり
利益を生じる場合に認められ、それ以外のものは、特異なもの
無駄なものとして社会から排除されることが多いです。

その為、うまく育てられれば、人々にとって社会にとって
素晴らしい貢献をする可能性のある人が、才能の芽を摘み取られ
時には異端者として排除されることも有るのです。
私たちの社会は、長い歴史を経て、近代文明を築いて来ましたが、
その真価は、多岐に渡るとはいえ、人々の英知が全て発揮された
結果とは言えず、人の持っているほんの一部の部分、社会的な
利益を生じる部分のみが発展してきたと言えるのです。

特に子供たちの才能は、現代教育のもとで発揮されるとされ
多くの国に於いて、将来の社会貢献を考えた経験的教育が
子供たちの未来を創り上げていきます。
しかしながら、子供たちが持つ個性や才能が現代教育で
全て養われると考えるのは早計であり、子供達を教育しようと
する事に因って、子供一人一人が持っている能力を失わせ
育つべき大切な才能ともいえる個性を消してしまうのです。

学校教育を行うことで、子供たちは成長していくと思うのは
大人たちの勝手な思い込みであり、例え、長年培われてきた
教育法とは言え、全ての子供を立派な大人に成長させるとは言えず
むしろ、教育によって、子供の持っている豊かな才能を
失わせている可能性が大きいのです。

多くの子供たちは、大人が決めた教育方針に従い、言われるがまま
勉学に励むのですが、本当に自らの興味を持って行っていると
言うより、誰もが行っているから、親に薦められるからと言った
周囲の目を気にした他者の考えで行っている場合が多く、
当たり前と思われる子供の教育が、子供の心の成長を阻み
豊かな才能の開花を抑えてしまう事が多いのです。

この教育の問題点が、子供たちの心をゆがめてしまい、ある者は
大人の期待通り優秀な成績を収め、自分の思うが儘の生活を行い
またある者は、自分の思いと大人の与える教育に大きな溝を感じ
激しく抵抗したり、登校拒否をしたりして苦しみます。

学校における様々な子供たちの問題は、子供達の持っている
才能や個性を無視した、一方的で押しつけがましい大人の考えで
生まれる事が多く、子供たちの能力の差ではないのです。
しかし、この時点で、子供たちは、比較社会の洗礼を受ける事と成り
成績の良し悪しで、人間としての価値を決められてしまうのです。

将来の社会的貢献が期待できる子供は優遇され、反発する子供や
勉強に付いて行けない子供たちは、大人たちによって差別され、
心の中に傷を負っていくののです。
人の成長は、其々の持っている人としての資質によって様々な形態を
示すものであり、一律に育てると言うのは、本来無理ともいえるのです。
社会で生きる為の基本的能力や知識を身に付ける事は大切ですが、
その中で、個人の持つ個性を如何に育てていくかが、社会にとっても
とても大切であり、個人の才能こそが人類の未来を創ると言えるのです。

所が大きな問題は子供たちと言うより、彼らを教育する教育者や親達
更には、社会の大人たちに有ると言えるのです。
多くの大人たちは、子供の頃から、親や先生の教えに従って、社会の
一員として消費経済国家を支えるように育てられてきたことから、
同じように子供たちを自分たちの考え通り育てようとしてしまいます。

特に学校の先生は、教育委員会や上司たちの監督のもとに、ノルマに
沿った教育をしなければならず、例え、子供たちの個性が失われ、
豊かな才能が損なわれようと、自分の生活を守る為、子供たちの
大切な個性や才能を摘み取ってしまいます。

子供の事を本当に考える熱血教師と言うのは、ドラマの中だけであり
現実は、縦社会に組み込まれたサラリーマンに過ぎません。
更に問題と成るのは、日頃生活を共にする親たちの身勝手な考えであり
自分の子供の将来は、学校などの教育者が責任を担うものとしていて
子供としっかりと向き合わないで、親としての役割を果たさず、
ただ学校の成績のみで我が子を判断してしまう事が多いのです。

子供達も成績さえよければ、何でも我儘が出来るとしたり、
悪ければ、一方的に怒られることから、親との関わり合いは
学校成績の良し悪しで決まってしまうのです。
この外的評価は、その後の人生に於いて付きまとうものであり、
大人になっても大きな心の負担と成ってしまうのです。

消費経済社会の人間評価が、社会的地位や財産によってなされ
個人の人間的価値ではかられない事に因る苦しみが続くのです。
日本人は、世界的に見て教育が行き届き、博学な人が多いと言えます。
しかしながら、その知識は、誰にでも共通な社会的な価値を図る
知識であり、個人の能力を示すものでは有りません。

その為、日本人と言えば、誰でも少数のサンプルを見れば解り
物事の考え方が非常に共通化しているのが特徴と言えます。
かつては、人より目立つことを控え、常に右に習えが日本人であり
この特性は、いかに日本人が社会に管理されて教育されているかが
解ります。確かに、人々が統一されて行動したり、同じ考えでいる事は
社会にとって都合が良いのですが、その反面、間違った方向に進んだり
行き詰まったりしたときは、混乱を生じたり暴走したりする事が多く
これまで日本が多くの窮地に立たされたり暴走した時の原因が、
日本人の個性が失われた教育に有るとも言えるのです。

過去の砂鉄を反省することなく、日本人は、経済社会に組み込まれる
個性を育てない教育を行い続ける事は、社会にとって安定となると
思われるのは過去の事であり、この昔からの考え方が、現代社会の
閉塞を生んでいる事を考えなければなりません。
同じ考えを持った者同士が意見を出し合っても、新たなる道は開けず
日本社会が一向に明るくならない原因とも言えます。

ネット社会と成って、世界中の情報が誰にでも手に入る様になった様に
社会も、あらゆる可能性を求めて世界に開かれて行かなければならず、
これまでの方法を周到し、過去の豊かさを求めていているだけでは、
一向にらちが明かないと言えるのです。

教育とは、特定の人達に委ねるのではなく、社会全体が社会を担う
人材を育てて行く事が重要です。多岐に渡る社会システムを発展させ
より豊かな社会を創っていくには、多方面にわたる能力を持った
才能豊かな人材を育てて行く事が必要です。

その為には、学校や家庭に子供たちの教育を託するのではなく、
様々な地域社会が一体と成って、子供たちの個性を発見して
才能として育てる事が重要です。
将来の日本を支える人達は、私たちの生き方を参考にしても
そのまま周到していては、何の進歩も生まれないのです。

才能豊かな子供たちは、大人達の思惑に多感に反応して
大人の欲するようにするもの、反発して自分の個性を主張するもの
全く無視して自分の世界に引きこもるものと、様々な反応を示し
自分たちを守ろうとするのですが、その外見的行動をもって
子供を評価している事が、大人たちの浅はかさと言えます。

様々な子供の態度は、自分たちが持っている個性や才能を
守りたいが故の行動であり、大人たちの都合で子どもの価値を
決めている事から、様々な問題を持った大人にしてしまうのです。
世の中には、多くの国が有るように、様々な社会形態が有り
その地で生きて行くには、それぞれの地域で作られた社会規範や
ルールを守る事は必要ですが、個人の個性が失われることは
どの社会にとっても損失と言えるのです。

日本人は、まじめで博学であるにもかかわらず、知識を、使えない
道具として持っているだけで、自分自身を生かすものと成って
いないのが問題です。
肩書を得るための知識を得るために多くの時間を費やしたところで
自分自身の個性や能力を育てる事になっていない事が多いのです。

今や、海外から多くの人達が日本に訪れる時代と成りました。
観光客だけでなく就労の為に沢山の人が日本を目指しています。
街を歩けば外人だらけとも言えます。
まさにこの事は、強烈な個性が集まって来たと言えるのです。
世界は個性と才能で溢れているのです。

なのに、日本は、その大切な個性を無くしてしまう社会を創ろうとし
従来の縦社会を堅持する為の教育を国民に強いているのです。
先進国と言いながら、実際は、過去を見ているのが日本社会と言えます。
一部の人達が、自分たちの社会を守るために、世界と異なった生き方を
国民に支持しているともいえるのです。

今や日本国民のすべてが、自分の個性を見失って、与えられた価値観で
苦しんでいるとも言えます。
例え社会的地位を得たとしても、自分自身の価値を認められたと思えない
不安と悲しさが日本人の心に有るのです。
なぜ、経済大国となったのに、何時も欲求不満で心が安心できないのか
それは、私たちが、自分自身を信じられない生活を行い、社会的な価値を
自分の価値として置き換えてしまった事に有るのす。

 

 

 

 

 

 


不安が先行する日本人

2018-11-28 18:41:22 | 日本人

便利で豊かな暮らしは、本当に私達にとって幸せをもたらすのであろうか、
最近ますますこの疑問が膨らみ続け、これまでの人生が、自分にとって
周囲の人達にとって、どうだったのかが気になって来ました。
社会に出て働く様に成って、自分だけでなく家族をも豊かな生活をする事で、
自分達は幸せな人生を送れて来たと思っていたのですが、本当に、
この生き方が、幸せに成るためのベストの手段であったのか、考えると
自分の選んだ道はともかく、無事、これまで生きて来れたのだから、幸せで
有ったと考えるべきなのかも知れません。
世の中には、様々なアクシデントや不幸に見舞われて、辛い人生を送って来た
幸せとは程遠い人達も沢山いるのですから、その様な人達に比べれば、どれ程
恵まれた生活を送って来たか、ある意味、贅沢とも言えるのかもしれません。

しかしながら、幸せと、一言で言っても、それを感じるのは個人であり、
考え方感じ方が其々違っている事から、誰もが同じ思いと成る事は有りません。
人によっては、人生無上の快楽と感じても、一方では、そんなに感動する程でなく
むしろ、不快に感じてしまう事すらあるのです。
つまり、幸せとか喜びとかは、極めて個人的な感覚であり、自分が幸せと思っても
他人は同じく幸せと感じないのです。

多くの人達は、この世に生を受けてから、幸せに成る為に生きているとも言えます。
苦労を重ねるのも、幸せを感じたいが為に我慢しているのであって、苦労を目的と
している人は殆ど無く、幸せへの過程でたまたま苦労しているに過ぎないのです。
他人も動物も、自分の欲望を満たすために戦い、苦しい中にいながらも、その先に在る
楽しさや喜びを求めていると言えるのです。

つまり、いかなる生活をしていても、幸せに成りたいがために生きているのであって、
ただ、終末を迎えるまでの命の火をともしているだけではないのです。
しかし、幸せの定義が余りにも曖昧である事から、私達は、幸せに成りたいとするも
自分にとって本当の幸せは何であるかが解っていないのです。
なぜ、苦しいのか、生活が豊かでないから、収入が思い通りに増えないから、身の回りの
人達と楽しく過ごせないから、と様々な理由を並べても、では一体どの様な事が出来たら
どの様な物を手にする事が出来たら、本当の幸せが掴めるのか、それが解っていないから
私達は苦しんでいると言えるのです。

貧乏であること、思い通りの仕事が出来ない事、欲しいものが手に入らない事等、
不幸と思える項目は幾らでも挙げられます。しかし、その理由は、殆ど、他の人との比較で
生まれているものであって、自分自身の境遇が本当に不幸であるかは、解らないのです。
人も羨む生活を行っていても、本人にしてみれば不幸と思っている人もいるのです。
何と可哀想な生活と思っても、本人にしてみれば、非常に幸せと思っている場合もあるのです。

世界的に見ても、豊かな経済大国とされる日本は、誰もが幸せに暮らしていると思われがちですが
当の日本人からすれば、自分は幸せな人生を送っていると心から思っている人は少なく、
外見的には幸せそうでも、本人からすれば、もっと幸せに成りたいと思っている事が多いのです。
では、何をもって不幸と思うのか、その多くは、やはり、自分より豊かな生活をしている人を見て
自分がその生活を得られないとして、それは不幸と思っているのです。

人の持つ幸不幸観は、本人の心の中で育つものではなく、自分以外の人間と比べて価値観を定め
自分の幸福度を計る事で、いつまで経っても幸福になれないと言えるのです。
つまり、比較する事で、自分の心の高揚感は一気に落ちてしまう事が多いと言えるのです。
自分自身の心の中に幸せの尺度が在るのでは無く、その値は、他人が決めていると言えるのです。
その為、本心ではなくとも、人が自分を幸せと認めてくれれば、自分は幸せであると納得するのです。
より経済的に豊かな生活をしたり、多くの高額の物を身に付けたがるのは、それらを見て、他人が
自分が幸せであると決めてくれる事が生きる為の目的であり、自分が、幸せな人生を送っていると
初めて理解するのです。

しかし、この様な生き方は、人々が幸せとする社会的に価値の有る物を身に付けている時は良いのですが、
一度、その幸せの衣を脱ぎ棄てれば、全く逆の評価を受け、不幸のどん底に落ちてしまうのです。
何故、幸せと思えないのか、それは、幸せと評価される基準が自分で決められず、簡単に評価が落ちて
不幸せな自分を知らされる恐れがあるからです。
その不安が、本当は、人々の心を苦しめ、自分にとって本当の幸せを見つけられない原因と成っているんです。
多くの日本人が、消費経済社会で生きて行くにあたって、常に幸せの基準を社会に求め続けている事とで
いつまで経っても不安な生活から抜け出す事が出来ず、どんなに豊かな生活をしても不幸と感じるのです。

では、本当に幸せを感じるにはどうしたら良いか、それは、まず、自分の生き方を他人と比較しない事です。
学校生活で学んだ、テストの点数に依る自己評価を棄てる事です。
日本人の最大の不幸は、物事を比較する事でより豊かな生活が出来るようになった反面、自分自身の評価を
社会的価値と比べる事に依って、自分をいつも不幸と評価してしまうのです。
高い山に登って、頂上から周囲を見渡すと、遥かに高い山が幾つもそびえている事が有ります。
そんな時、自分の登った山が低いからと言って、自分が苦労して登った事を否定すれば、自分の努力を
否定する事になるのです。まずは、自分が登った山の高さとその頂上に至った自分を評価する事が
大切と言えるのです。

多くの日本人は、世界的に見ても真面目で努力家と言えます。
先進国の中でも、国民全体の知識レベルは非常に高く、如何に教育が行き届いているかが解ります。
しかし、その努力を自分自身で認められない人が多いのです。一生懸命頑張っても成果が上がらず
自分より少しでも上と感じる人がいれば、自分の努力の過程を否定してしまう人が多いのです。
この事は、他人に対しても、成果が上げられなかったり成績が伸び悩んでいる人を見ると、その数値を
他の人と比較して、酷評してしまう人も少なく在りません。

多くの日本人が、他人の評価が気になり、自分自身の努力に否定的と成りやすいのです。
しかし、自分自身が納得する為には、自分の生き方や努力の結果をシッカリと受け止め、自分の生き様として
肯定的に評価しなければならないのです。なぜなら、自分自身が認められなければ、その努力は、自分の
力として定着しないからなのです。
良いとする他人の評価を自分自身の評価として受け入れていると、いつも、他人の考えが心の中に在って
安心した生活を送れないのです。
日本人が、繊細と言うかどちらかと言うと気弱な民族であるのは、常に、他人の評価を気にする傾向があり
自身の考えや行動に自信をもっていない事に因るのです。

私達は、年齢性別に関わらず、心が豊かである以上に、安心でなければならないのです。
日本人の不幸は、この安心が持てない人がとても多い事です。つまり、自分が信じられれない人が多くて
常に他人の評価を気にして、人の行いを真似て生きよとする傾向がある事です。
特に、社会的地位のある人達や、マスコミやテレビに出てくる人が言う事には、盲目的に従う事が多く
テレビのゴールデンタイムに放映される健康番組に登場する医者や著名人の言う事は神の言葉であり
健康に良いとする食品が紹介されれば、翌日のマーケットでは、何処に行っても品切れとなっています。
医者やスポーツ専門化が健康にいいとする運動法を紹介すれば、猫も杓子も真似をします。
しかし、過去の様々な健康法や健康食品が、今や誰も見向きもしない事が多く、如何に、私達は、
自分自身に自信がなく、生活に安心が無い事が解ります。

大切な事は、まずは自分を信じる事です。なぜなら、これまで生きて来れたのも自分自身の努力だからです。
周囲の人達からの助けも有りますが、それを参考にして決定したのは自分なのですから。
自分自身に自信がない人が多い日本では、自分に自信がある人は注目されます。
その為、様々な特技を持って芸能界に君臨する人が多いのですが、誰でも、自分の生き方を信じていれば
いつの間にかにその姿に魅力を感じて人が集まり、その結果経済社会を生きる糧が手に入るのです。

昔から、努力をする事を私達は求められますが、この事は、自分の考え方生き方を長く行う事を言っていて
他人より勝る事をしなさいと言う事ではないのです。努力は、自分にとって辛く大変な事をする事と
思っている人が多いですが、それは長続きするものでなく、直ぐに、辞めてしまうのです。
出来るなら、自分が一番楽しい事やりたいことを、自分のペースで長く続ける事を努力と言います。
他人が一週間でする事を、頑張って一日で行う事を努力とは言いません。それは、心身共に疲れが
残るだけでその後の生活にマイナスと成ります。自分のペースで、一年かけても続けられる事が大切で
その変わらない自分の方法を長く続ける人が努力家であり、他人に認められるのです。

現代人は直ぐに答えを見つけたがり、利益が無いと不満と成ります。
答えは人によって違い、利益は、時と場合によって得られる事も得られない事も有るのが普通です。
この様々な答えや様々な結果が人を成長させ、豊かな人生を送らせる事と成るのです。
誰かが決めた答えに従って生きる事程詰まらない事は有りません。
まずは、自分の人生をシッカリと認める事であり、自らの生き方を人生の指針とする事が大切です。
自分の心を育て自分の生き方を信じて行く事が自分自身の安心につながり、他人からは、心豊かな
人格者として認められる人生を創り上げていく事と成るのです。
誰もが、人としてその価値を認められる事が大切で有り、人間として人の上に人は無いのです。
私たち日本人が一番足りないもの、それは自分自身に対する自信と安心の心と言えます。

 


日本の政治家の怠慢と無能

2018-11-27 17:04:11 | 日本人

抽象的でのらりくらりと質問に的確に応えられない首相やその取り巻き、
重箱の隅を突っつく様な、確信を捕まえられない、攻め手に欠ける野党の面々。
最近の国会中継は、本当に詰まらなくて、じっくりと耳を傾けようと思えません。
各自のノルマは果たしているのでしょうが、国会の質疑応答が、国民の為に成っているか
と言えば、無駄な税金を多く使っているとしか言いようが有りません。

審議しなければならない懸案は山とあるにもかかわらず、まるで牛歩の如く、たとえ
審議を尽くしていると言っても、その内容は余りにも一人一人の意思が感じられず、
多くの質疑が、誰かに言わされている様な、代弁させられている様な内容であり、
常に、各議員のその場に於ける社会的地位を失わないが為の、当たり障りのない
意見交換会に過ぎません。

政治家と言うのは、多くの国民の気持ちを代弁し、より人々の幸せを目指す為に
孤軍奮闘すべきなのですが、近年の政治家は、いずれも、自分の身が可愛いのか
常に保身的な態度が見られ、如何に、政治家としての地位を失わないかの為の
姑息な政治活動が目立ちます。
この事は、一国の長と言えども同じ匂いがしていて、昨年から多くの疑惑を取り沙汰され
マスコミを通じて、国民の前にその実態を暴露された時も、のらりくらりと言い訳三昧で
その姿は、現在の国会審議の場と何だ変わりません。

国の代表として、国民に対してしっかりとした国家の指針を示す事が出来ず、常に
親方アメリカの顔を伺いながら、かつ、自分の地位を保持する為のパフォーマンスは
本人だけが納得していて、国民の多くは、うんざりとしているのです。
しかしながら、彼らのバックには、巨大な国内産業の実力者が控えていて、正に
虎の威を借りるキツネの如く、周辺を煙に巻いているのが実情と言えるのです。

毎年の様に繰り返される大災害に対しても、国の立場を国民第一主義と言わんばかりに
力説しますが、現実では、東日本大震災以来から変わらず、被災者たちの本当の気持ちが
解っていなくて、ただ、天に向かって、自分達は救世主の様な主張を繰り返すだけです。
なぜ、多くの災害に苦しめられる国民が、一向に心も身体も元の健全な状態に戻らず
いつまで経っても、苦しい生活を強いら得るのか、それは、成すべき人たちが、
自分達の勝手な考え方で行った復興計画に酔いしれているからなのです。

災害に見舞われた人たちが、本当に欲している事は何なのか、その答えを被災者から
直接感じるのではなく、復興計画を行う事業者や企業との話し合いを主体にして
利益を目論む復興計画を行う事に依って決めている事から、何時も空回りの
国民の気持ちを逆なでする結果と成っているのです。

この事は、消費経済社会の勝利者としてトップとしての驕りが常にその様な国民との
スレ違いを生んでいるのであって、災害復興だけでなく、多くの国内事業が、その地で
住んでいる人達にとって本当に利益と成る方向に進んでいない事が多いのです。
常に、自分達の利益と、それを齎してくれる更なる豊かな人達の方に心が向いていて
国民の代表と言いながら、それは単なる肩書きであり国民にとって、的外れの政策を
実行する事で、多くの無駄な税金を使い、作られたものは、国民の意としない、単に
リーダー達と企業者達の自己満足を生むだけなのです。

日本は、世界的な高度経済社会と言えますが、それは、外見的な豊かさであって、
それは、国民を豊かにするものではなく、一部の社会を創り上げている人達の作った
我儘な作品でしか有りません。
天をつく高層建築も、近代的な巨大都市も、それらを創り上げた人達の満足で有って
それによって多くの利益を得るのはほんの一部の人達であって、多くの国民は、
その施設を使う事に依って、まるで働きアリの様に、豊かな人達をより豊かにしている
と言えるのです。

華やかな都会に生きていても、その殆ど全ては自分の作り出したものではなく、
美しい巨大な他人の庭にお邪魔している様なものです。
その為、国民は、そこで消費する事は有っても、多くの利益を得る事は出来ないのです。
人は、視覚からの情報が90%以上を占めると言われ、目に飛び込んでくる華やかで
驚愕な世界に居ると、あたかも自分がその世界に生かされている様な錯覚をするもので
その魔力は、いつの間にか、膨大なる消費を行う事と成るのです。

もちろん消費経済社会に生きているのですから当然とも言えるのですが、問題は、
その華やかな都会で消費する為の資金が得られない国民が非常に多いと言う事です。
大都会に在って、自分の欲しい物を何でも手に入れられる人は、ほんの僅かな富裕層であり
殆どの人々は、欲しくとも指を咥えて見ている事しか出来ないのです。

しかし、高価な品物ならまだしも、一般庶民が日頃消費するものであっても、経済的理由で
簡単には手を出せない多くの国民がいる事を国のリーダー達は知っていません。
何しろ、自分達がその様な場を訪れれば、目に入る物の殆どが手に入る地位にいるからです。
経済的に豊かな一般の職種に就いている人ならともかく、国の政を行う地位であるならば、
その様な華やかな場に在っても、その華やかさを身に付ける事も手にする事も出来ない
多くの国民がいる事を感じられなければ、国民の代表としての資格は無いのです。

選挙の時ばかり、国民に顔を向け、さも悩み苦しむ国民の見方の様な顔をしていながら
一度、政治家としての地位に付くと、そんな気持ちはいつの間にか失せてしまい、目指すは
より地位の高い椅子であり、その為には、自分の利益を満たしてくれる人に笑顔を見せ、
忖度を計ると言うのが現実なのです。

官僚が作った文面を読み、各地のリーダーに任る議員からその地の説明を聞き、客観的な
知識ばかり詰め込んだ政治家が、国民の真の思いや苦しみが解る訳ないのです。
如何にその場を凌ぎ、自分の地位を不動のものにするかのパフォーマンスを見せられても
何の感動も生まれず、直ぐにチャンネルを替える国民が殆どと言えるのです。

今や、経済的に豊かな人も増えて、この豊かな社会で楽しく生きている国民もいるのですが、
いまだ大多数の国民は、生きて行く為に必至に働き、身を削って生活しているのです。
特に、社会に出て、これから日本の社会を支えて行こうとしている多くの若者達が
自分達の能力を生かす場を与えられず、高学歴を得たとしても、日々の生活すら困窮し
未来を夢見られない現状を、審議は出来ても、具体的に改善できない無能ぶりが、
現代の日本の政治家の実態と言えます。

もちろん、毎年増える一方の高齢者問題、日本国民として生まれても、その後の心と身体の
成長を守れない教育対策、子供を産むよう薦められようも、生んだ後の生活教育が不安で有れば
当然、多くの若い人達は前に進む事をためらってしまいます。
問題は山積しているのに、知識が有っても、具体的に結果を出せない優柔不断の社会政策は
日本社会の抜本的な改善が行われない限り、常に、国会審議の様に堂々めぐりと成るのです。

今や、親方アメリカのトランプ大統領は、自分の身勝手な考え方を貫いて、強引にアメリカ社会
自分が思うが儘に動かしていますが、日本は、その顔色をうかがう事は有っても、リーダーとして
具体的な国策に踏み出す人がいません。どの面々も、自分の事しか自分の欲望しか考えられず
社会的地位を守る事に必至です。

トランプの様に国民を置き去りにするような行動言動はもっての外と言えますが、日本人なら
国民全体の為なら英断を行っても大丈夫と言えます。
日本人は、大自然に生かされ大自然から学んだ豊かな心で国民全体を繋いできました。
和をもって尊し、と言う様に、全ての人と繋がる幸せを求める国民と言えるのです。

資本主義社会と成って、経済的豊かさを自分達の幸せの基準としてしまった事から
様々な問題が生れて来たのです。日本人同士がお互いに傷つけ合い、足を引っ張りながら
自分の事だけを考える生活に疲れているのです。
人の事を考えられないから、他人から常に報復を受ける可能性を考える様に成ってしまい
常に保身を前面に打ち出したおく病な日本人と、そのプレッシャーを耐えられないで
暴発して人々に苦しみや悲しみを与えてしまう日本人が多くなっているのです。

国民の代表と成ったならば、国民が目指す事望む事を自信をもって審議して欲しいものです。
官僚の作り上げた原稿を、ただ、棒読みして意見交換をしている様なつまらない政治家は
これからの日本を担っていく事は出来ません。
世界は、ネットの広がりと共に日々進化しているのです。
なのに、日本の中枢である国会は、いまだ、前世紀の遺物の様に、遅々として審議は進まず
国民のいら立ちを増すだけと成っています。

一体、今の政治家は、何を怖がっているのでしょう。自分の周りの政治家からの圧力?
自分を守り育ててくれる陰の富裕層?、はたまた、リーダーと成れば親方アメリカのトランプ?
ほんの少し周りの考えと違えば、突っ込まれて自分の未来が危うくなるから?
いやいや、一番の問題は、自分のその様な保身でしかない考えで、のらりくらりと政治家を
務めているからにほか有りません。
政治家は、一体何のために存在するのか、本当の政治家としての価値は何なのか。
日本国民がいつまで経っても不安から抜け出せないのは、日本を変える立場にある人達の
我儘な自己満足にある事を、詰まらない国会中継を見せている責任を痛感して欲しいものです。

 

 




世界の流れに逆行する日本の輸入食品安全基準

2018-11-26 18:21:28 | 健康

世界的な経済大国と成った日本は、元々資源が少ない事も有り
経済発展の為には、多くの食料や資源を輸入しなければ成らず
中でも、私達国民が消費する食料は、国内生産が需要に追い付かず
常に大量の食料を諸外国から輸入しなければ成りません。

戦後の経済発展は、国内産業も私達の食生活も、輸入が有ってこそ
成り立って来たと言えます。
大量輸入に依り、価格の安定を図り、経済的な豊かな生活が出来たと
言えるのですが、その一方で、海外からの輸入品に依るトラブルも多く
中でも、食品に使われる薬品が、国民の健康に大きな不安を与えて
いる事を知っていることは大切です。

特に、最も大量に食料を輸入しているアメリカからの輸入食品の中には
私達日本人の健康を損ねる、危険な薬品が多く使われている事実が有ります。
中でも農産物に多く使用されるポストハーベストと言われる、防カビ剤や
除草剤は、規制緩和により、危険な薬品と言うのではなく、食品添加物として
輸入された農産物に付着したまま輸入されているのが現状です。

レモン、オレンジ、グレープフルーツなどは、海上輸送による長旅で
商品価値が落ちない様、防カビ剤が大量に使われていて、既に
EUでは、発がん物質として禁止さえているにも関わらず、
日本政府は、国民の健康を損なう可能性があるにもかかわらず、
アメリカの外圧に屈し、規制緩和すらしているのです。

その為、農産物に残留する農薬基準は、これまでの100倍以上認められ
国民の殆どは、その危険性すら伝えられず、日々、大量の農産物を
摂取する事と成っているのです。
この事は、今に始まった事ではなく、かつて、レモンから検出された
危険な農薬を規制するとして日米が争った時も、日本製品の輸入に
圧力を掛けられ引き下がった例もあり、日本政府の実態は、決して
国民の為に有るのではなく、自分達の利益を守る為、自分達の権力と
財産を守ってくれる人達の為に在ると言えるのです。

この事実に、憤慨される方も多いかと思いますが、日本社会の
真の姿は、明治以来、何だ変わっていないのです。
様々な制度が生れ、幾度も行った戦争を経ても、本質的な姿は変わらず
表向きは、国民主権の自由平等の国と言われながらも、相変わらず、
社会は、豊かな人達の為に有り、多くの国民は、その下働きと言えるのです。

消費経済社会であり自由主義国家である事から、個人としての生き方や
働きもさまざまであり、当然、その生活レベルは変わって来るのですが、
人間的な扱いを考えれば、経済的レベルを持って人間の価値が決められ
豊かな人達の我儘によって日本社会は築かれていると言えます。
街の姿もあらゆる流通も、日本社会を牛耳っている人達により
より都合よく作られていて、殆どの国民は、その社会形態を維持する為
働かされていると言っても過言では有りません。

自分の為、家族の為、幸せの為に働くと言うより、この社会で生きる為
必至に成って働いていると言えます。
働いて得た所得の多くは、自分達が心豊かに幸せに成る為に使うと言うより
社会的に支出する事で、辛うじて自分達の存在を保っていると言えるのです。
働いて得た収入の殆どを、自分自身の為に仕えると言う人は、ほんの僅かで
中には、常に、借金を重ねなければ生きて生きない人も少なくないのです。

問題は、大量に輸入される庶民が利用する品物や食品が、不良品であったり
危険な薬品に侵されていると言う事実です。
この規制緩和を行い、国民の身体を傷つける食品を平気で輸入する事を
認めている人達は、安全な食品を食べられると言う現実です。
当然、その事実を知っているのですから、わざわざ危険な食品には手を出さず
多くの国民が被害を被るのを高みの見物しているだけなのです。

いつの世も、庶民は、あらゆるリスクを負わされ、まるで、モルモットの様に
扱われて来たのです。
大量輸入された食品は、日本中に広まり、少しづつ国民の健康を損なって行きます。
高度成長期の頃から、国民は、危険な食品を食べさせられ、豊かな人達の犠牲と成って
苦しんできているのです。
数々の公害は、国民全体を陥れた、高度成長と言う名に隠れた犯罪と言えるのです。

しかし、この犯罪紛いの事は、過去の事ではなく、現実にも行われていて
多くの場合、まだ発覚していないだけと言えるのです。
日本人の身体に蓄積する危険な化学物質や重金属類は、世界一と言われています。
多くの食品添加物を口にし、長年に渡って健康を害してきた事実をひた隠しにし
更なる欲望の触手を伸ばし、国民を苦しめようとしているのです。

症状が出なければ、病人が出なければ良しとする基準は、人間だけでなく、環境中にも
様々な問題をおこしています。
豊洲問題はなぜ起こったのか、その原因も、多くの欲望に駆られた人たちが作った
負の遺産であり、日本中にいくらでも隠されていて、多くが見つかっていないだけ
と言えるのです。

冬が近くなると、海や川は、一段と澄み渡って、東京湾も護岸から見下ろせば、
海底が見える程透明度が高く成っています。
季節的には、水中のプランクトンが減って、透明度が増すのですが、実際は、
一年中、変わらない透明度で、多くの人が水が綺麗に成ったと思っています。
しかしながら、これは、一年中、多くの微生物やプランクトンが発生できない
死の海と成っている事を表していて、春先の、多くの生き物が水辺に集まる時も
殆ど生き物を見つけられない事からも解ります。

つまり、一年中排出される工場廃液や家庭汚水は、国が定めた水質基準で浄化され
毎日海や川に流されているのです。
この水は、完全に毒物や化学薬品が取り除かれたものではなく、魚が生きて行けるとする
酸素溶融量が在ると言うだけであり、小さな生き物達が生きて行ける値ではないのです。
浄化水の中で魚を飼って見せるパフォーマンスは、自然環境の中での生き物達にって
安全な基準と言うのではなく、水中のあらゆる生き物が生活繁殖が出来るレベルの
栄養豊かな水ではないのです。

プールの水の中で金魚は飼えても、殆どの微小生物は生きて行けません。
金魚ですら、卵から稚魚に成って小魚に成長するまでは、多くのプランクトンが
必要であり、そのプランクトンが増殖できなければ、透明度が良くても死んだ水
と言えるのです。
この様に、人間社会の様々な場で、嘘がまかり通り、誰が傷つこうが利益を目論む
自分の事しか考えられない人が社会の上に立てば、国民は、いつまで経っても
本当の幸せをつかむ事は出来ないのです。

常識的には、上に立つ人達は、精霊潔白であり、下で支える人達の事を常に思い
社会全体を幸せに導かなければならないのですが、現実は、その全く反対で
上に立つ事で、自分の我儘がより大きくなり、より多くの利益を得る為に
自分を支える人達の気持ちを無視し、例え、苦しむ事が解っていても
欲望のままに物事を決めてしまうのです。
この事は、近代国家になっても変わらずと言うより、近代国家そのものが
豊かな人達の欲望で作られていて、利益さえ得られれば、国民は、たとえ
戦争で多くの犠牲を被ったとしても構わないとするのです。

外見的には、社会的地位を成す事で、人々の幸せを担っているかのように見せて
実際は、自分の欲望の為に地位を利用し、人々を自分の思うが儘に動かして
膨大なる利益を目論んでいるのです。
発がん性の高い農薬が付着しているとされる農産物を、国民の健康被害が
予想されるとしながら、平気で規制緩和と称し、食品添加物として認め
何のためらいもなく輸入できると言う事は、本人の常識を疑うと言うより
その事で、膨大なる利益が得られるという事実が有るからです。

より多くの品物を輸出する為に、危険な品目を認めるという信じがたい策は
国家間における貿易バランスを考えてと言うより、それを利用したり
摂りいれたりする国民の事を全く考えていない事を示しています。
例え危険だとしても、目で見た限りは解らないとして、危険な食品を
平気で店頭に並べさせると言うリーダー達の横暴さにあきれます。

負の遺産に代表されるように、見えなければ解らなければ大丈夫とする
醜い考え方が社会に横行すれば、国民生活は、今以上に殺伐としたものと成り
次第に心豊かな日本人が消えていく事と成ります。
欲望に駆られた人間が、うっ憤を晴らすために社会に向かって銃口を向けたり
多くの人を傷つける危険性が高まるのです。
ただでさえ、国民は、他人に怯え、被害者にも加害者にも成らない生活を求め
自分の事しか考えなくなっています。

対人的な心を育てないで、欲望のままに、社会的に豊かに成る事だけを求めて
自分以外の他人と関われなくなってくれば、勝手な思い込みで、人を傷つけたり
傷つけられたりしがちです。
日本人は、長い歴史の中で、自然と関わり人間同士で心を通わせながら
成長して来た民族です。
人と関わらず、経済的利益を目的とした生き方をする様に成って、
様々なトラブルが生れ、日本の自然環境を破壊する様に成ってしまったのです。
日本国民は、豊かな自然に育まれて、人の心を豊かにしてきたのです。
大自然の様に豊かで優しい気持ちが、人々の幸せを生んできたのです。

現代人が、どれ程経済的に豊かと成っても、一向に心が満たされず、
更なる欲望を募らせるだけの生活をしている事で、いつまで経っても
心休まる日が来ないのです。
常に他人の経済的豊かさを気にして、心が不安定な毎日を送っています。
本当の幸せを求めない限り、安らかな気持ちには成らないのです。
見た目綺麗な果物に、危険な薬品が付着していのに買い求める人はいません。
しかし、見えなければ良いとする横暴な考えの人達が日本を動かしている限り
日本人の心と身体は健康に成る事はなく、日本人の未来は暗いと言えるのです。