めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

不幸せな偉い人達

2018-03-09 13:11:42 | 日本人

機密文書を改ざんしたり、消去したりという話は、テレビの刑事ドラマには
よく出て来る事であり、その悪の根源を主人公が世に知らしめ、事件を解決する
と言うお決まりのストーリーが有りますが、正に、今や、国会は、この事で
揺れに揺れています。
毎度、政府幹部の歯切れの悪い答弁と、この時とばかりに熱が入る野党との攻防は
今に始まった事では有りませんが、本当に、いつまで経っても、この手の姑息な手が
日本政治の中核で行われていると言うのは、本当に嘆かわしい事です。
しかしながら、これも、氷山の一角と言ってしまえばそれまでですが、如何に権力者は
国民の事よりも、自分達の利益しか考えていない事が解ります。

民主主義国家として、その在り方その理念を子供達に教えたとしても、それは単なる
受験勉強の為の様なもので、本当に、日本に於いては、正義というものは存在しない
如何に将来、欲望のままにい生きられるかを目指して子供たちが育てられているのだと
言う事を実感します。

消費経済社会で生き抜くと言う事は、生き抜いた証には、何でも自分の思い通りになる
と言う我儘な身分が保証されている様で、地位が高く成れば、人間的に優れると言うより
我儘で姑息になる人が多くなるとも言えます。
人と競いより人間として魅力的な人格を身に付けると言うのではなく、子供の頃には
許されない世の中の様々な欲しい物を手に入れ、我儘に成れるという事なのでしょうか。

日本社会に於いて、毎年メディアを賑わせるニュースの多くは、世の中の代表であったり
高い地位を有する方々の不祥事や不徳の事態です。
子供たちにとっては、お手本になるべき人たちの、極めて幼稚で我儘な行為は、これか
大人になって社会を担って行かなければならない子供達にどの様に映っているのでしょう。

日頃口うるさい両親や、学校の先生、そして、社会を動かしている人達が、子供達に対して
人の道を説いても、正義を叫んでも、馬の耳い念仏と成るのが落ちです。
しかしながら、そんな大人達に怒ろうとも、彼らは、同じような環境で育ってきているのです。
日本社会の一番の問題点は、毎年凝りもせず子供たちのお手本になるべき人たちの不祥事や不義が
ニュースに成っていると言う事です。
つまり、事件を問うよりも、その様な事件が起こる日本社会の温床を愁う事が大切です。

本質的には、戦後の社会と、現代社会は何だ変わっていません。
高度成長を遂げ、人々は、世界でも有数の近代的な生活を営む事が出来るようになったのですが、
人々の心の在り方は、何だ変わっていないのです。
ただ、大きく変わったのは、人々が目の色を変える欲望の対象が増えただけなのです。
人々の生き方は、様々な地域の違い、生活環境の違いは有っても、何を目標に生きるかと言えば、
より便利で経済的で豊かな生活なのです。
人の中で生きて居ながら、人間が生きて行く為の手段や道具を得る事に目標が定められ、
自分の周囲の人や、学校や仕事に於ける人間関係の豊かさを第一に求めていないのです。
例え、周囲の人達が困っていようと、自分の利益に成らない事には手を拱き、利益が生じると
進んで参加しようとします。つまり、自分の欲望が満たされない事には手を出さないのです。

この事が、日本中に蔓延している限り、いつまで経っても、他人との間には豊かな人間関
育つことなく、例え、血縁関係であっても、利害関係で繋がっている事が多いのです。
人々が、お互いに利益を得る時には手を取り合い、利益が得られないと、たとえ相手が
困っていても中々協力する気持ちに成らないのです。
また、何かの不祥事が有ると、お互いの馴れ合い的な利益関係が、その事実を抹殺する方向に
働くもので、今、問題とされているニュースも、根源はそこに在ります。

しかしながら、日本人は、昔から本音と建て前をうまく使い分ける民族では有りましたが、
それは、人間関係をよりスムーズにして、相手の事を考えて使い分けていたのです。
それがいつの間にか、自分の利益の為に使われる様に成り、個人的な関係のみならず、
国家の行方を決める様な場であっても、国民の利益を考えると言うより、自分達の利益を守り
不利益を包み隠すと言う行為に転じているのです。

最近、メディアで報じられる、スポーツの世界、角界、芸能界等、様々な国を代表する機関で
内輪揉めの様な事件が頻発しています。
しかし、その内容は、常に二つの主張が有り、食い違ったまま、第三者に解決を促すと言う
まるで子供の喧嘩に親が出て行かなければならない様な事態が目に付きます。
この事は、事件そのものの問題というより、その様な温床を作り続けている日本社会の問題と
言えるのです。

如何なる地位にあろうと、立場にあろうと、如何に人より秀でて、自分の利益を守るかという
考えを持った国民が多く育っている事が一番の問題なのです。
ニュースになるようなものは、ほんの氷山の一角に過ぎない事は明らかであり、日本中で
同じような諍いが日々起こっているのです。
多くの場合、より権力が強い、地位が高い側の圧力で抑えられ、いわゆるパワハラは当たり前
パワハラ社会が日本社会であると言っても良いのです。

自分の考え欲望を相手に押し付けて、無理やり自分の思い通りに動かすと言うのが、日本社会で
年功序列の世界、男尊女卑、差別、イジメ、といった様々な問題を生み出しているのです。
しかしながら、誰もが平等と言っても、唯、能力が有るからと言って、同じ環境に有る人達を
無理やり引き下ろし、能力のままに自分の考えを主張する事は、やはり、パワハラと何だ変わらず
時代に逆行していると言えるのです。

様々な分野に於いて、より素晴らしい能力を発揮する事は、社会の発展に於いても素晴らしい事
と言えますが、例え、高い地位を手に入れたとしても、その事を、自分の関係している人達に
心から認められていなければ意味が有りませんし、これまでの日本社会の問題を、そのまま
続けているのと何だ変わらないのです。
大切な事は、上の地位に立つ人達は、自分を多く支えてくれている人達の事を考え、
先ず、利益は、それらの人に還元する事を考えなければなりません。

多くの人々の力が有って、自分の地位が有るのであって、支えてくれる人達が元気であり、
自分の存在価値を認めてくれなければ、その地位は、有って無い様なものであり、まして、
高い地位にあって、我欲に走って、ニュースに取り上げられるような人は、人の上に
立つ価値も無く、更には、人としては、かなりレベルの低い方と言えます。
もちろん、そんな人を擁護したり、証拠隠滅を図ったりする様な人は、クズと言えます。

私たち人間の繋がりは、具体的に生きて行く為の衣食住が目立つと言え、一番大切な事は
人と人との関わり合いを如何に健全に保つかと言う事です。
ある時は絆として、ある時は愛情として、また、ある時は、相手を思う怒りとして、
人としての関係を、常に幸せへ導く指標としなければなりません。
自分の欲望の為に、人を利用したり、人を欺いたりすれば、当然、同じ事を他人は返します。
自分自身が目指す夢が叶えられる為にも、信頼関係が非常に重要であり、その為には、
常に相手の気持ちを察し、自分が何をしたいかというよりも、相手が何を求めているのかを
感じる能力を身に付けて行く事が大切です。

昨今、欧米並みに、自己主張して、自分の考えを人に臆することなく言える人が求められます。
子供たちにしても、大人の様な発言をしたり、積極的に活動すると、多くの大人は目を細め
その子の将来に期待します。
しかし、子供達が皆全て、同じように主張をする最近の傾向は、決して自然な事では有りません。
学校の先生にしても、成績が良くて、発言力が有り、大人の思う様に何でもできる子供を好み
学校は、そんな子供を中心に、全ての子供たちが同じ様になる事を求めがちです。
でも、まるで、金太郎飴の様に、何処を切っても同じ顔が出てくるような子供社会は、
決して、好ましいものでは無く、非常に画一的で、気持ち悪いと言えます。

人間は、本来、様々な環境で育ち、その個性は、十人十色であるのが普通です。
大人になる為の、基本的な知識を学ぶことは大切ですが、其々の子供たちの個性を
如何に伸ばし、大人になるにつれ、個性の違いを認め、自分以外の人達とお互いの
夢をはたすために、協力できる人間を育てる事が一番大切なのです。

確かに、受験体制が社会の基盤となっている現代日本に於いては、高得点を取り
より高度の学校に進み社会へ巣立つことで、将来の豊かな生活が保障されると言えますが、
子供たちの価値が、この成績のみで判断され、社会への道が、成績によってクラス分け
されて行く事が大きな問題です。
より高い点数を取った者が、社会の上に立ち、彼らは、下の人達に自分達の我儘を
主張できるとする今の日本社会が、多くの社会問題や、政界の不祥事を生んでいるのです。

多くの国民は、そんな社会的に地位の高い人を裁く事が出来ず、解決方法を、同じような
環境の人達に託さなければならない事は、日本国民の不幸とも言えます。
地位が高く成り、世の中のリーダー的存在に成れば、我儘が出来、例え、不祥事が発覚しても
同じ様な立場にある人達によってもみ消されたり、うやむやにされるのが実情です。

例え、メディアで大衆に晒されても、一時の我慢をすれば、直ぐに、自分の地位で胡坐をかける
そんな甘い社会がまかり通っているのが日本なのです。
どんなに悪質な犯罪行為であっても、日本のリーダーともいえる人の不祥事であっても、
その殆どが、マスコミの一時的なニュースになる事は有っても、国民全体の問題として
取り上げられず、多くの場合、同じ利害関係の人達によって処理されている為、
一般国民と同じように裁かれる事無く、闇にその事実が消されて行くのです。

ともあれ、今や、メディアの発達、ネットの広がりは、例え、雲の上の様な人達であっても
誰もが身近に、その人となりを知る事が出来ます。
手が届かない様な人であっても、同じ人間であり、私達と何だ変わらないのです。
この事は、社会的地位が高くても、人として許されない事は、同等に裁かれなければならず、
私達国民は、彼らの我儘と不義を、黙認してはならないのです。

地位が高いから、世の中のリーダー達だから許されると言う甘い考えが、様々な社会に於いて
その下に働いている人や、周囲の人達を苦しめ悲しませるのです。
近年の日本人が、生活が豊かであっても、いつも、何かに怯え、不満を抱いていると言われます。
つまり、満たされないと言うより、常に、自分より豊かな生活をしている人が基準に成っていて
怯えているのは、今の地位が失われないか、今の生活が失われないかという不安が有るのです。

自分の生活地位は、常に仮のものであり、より豊かな生活が別にあるのです。
本当に自分が求めて居るものが何なのか解らない、誰かの持っているものをいつも欲しがって
いる様な子供の様な日本人が非常に多いのです。
そんな子供の様な考えの持ち主が日本社会を動かしいるとしたら、当然、国民が幸せに成る事は
不可能と言えるのです。

先ずは、自分の足元をしっかりと見て、自分がこの地球に立っている事を確認して、
一体自分は何を求め、何をしたいのかをしっかりと見極めなければなりません。
この事は、決して、社会的に人々が求めている様なものでは無く、極めてメンタルなものです。
そして、これこそが自分自身を作り、人格を形成して行くのです。

常に、自分を見失わない為には、その存在を、周囲の人達に認めてもらわなければなりません。
その為には、同じように生きる事を望む他の人の生き方を尊重し、認めなければなりません。
この事が、大人への道を作るのです。
人から羨ましがれる生活をしたり、人が持っていない物を沢山身に付けたとしても、
自分自身の心の宝物が無い方は、いつまで経っても欲求不満で不幸なのです。
人の上に立つと言う事は、幸せでなければなりません。幸せな人は、人の物をあまり欲しがらず、
人に与える事に喜びを感じます。
日本を動かす方々は、経済的に豊かな人が多いのですが、心が常に寂しく不幸である方が
多い事が、多くの情けない犯罪や不義を起こす原因とも成っているのです。