めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

出口の見えない福祉政策

2015-12-29 15:21:10 | 高齢化社会

今年も残り数日と成りました。
仕事は今日までで、明日からは、田舎に帰省します。
久し振りに両親に会いますが、子供達が遠く離れて
生活している為、会える日は限られます。

父は、90を前にして、非常に危険な状態になりましたが、
どうにか山は越えて、今年91と成りました。
同じく母も米寿と成り、2人そろって後期高齢者です。

周囲で見てくれる家族がいない為、公的な機関や民間の
ヘルパーを利用して、どうにか二人で生活をしていますが、
寄る年波には勝てず、二人共1日の多くの時間を睡眠に
費やす事と成り、生活の範囲が著しく狭くなっている様です。

日本は、世界的な長寿国となってはいますが、我が家の様に
年老いた両親が、二人だけで生活している家庭が、全国に
どれ程いるか、単に長寿を喜んでいるだけではいけない、
大きな問題が山積しています。

本来ならば、長年社会で働き、年を重ねて職を辞した人は、
その後の人生を、悠々自適に暮らす事が理想ですが、
今の日本の現状は、高齢者たちに安心感を与えることは無く、
若者達と同じく、未来を夢見ることも出来ず、国民全体が
余裕のない、夢を持てない状態に置かれています。

人の心を察し、御互いに助け合って生きていた日本国民は
一体何処に行ってしまったのでしょう。
高度成長期の、消費経済は無くなったものの、人々の物欲は
より一層増し、見た目の生活に憧れる殺伐とした人が増え
いかに経済的に豊かな勝ち組になれるかが、豊かな生活と
考える人が多くなったのが残念です。

また、社会の有り方自体も、物欲をかき立てる情報が多く流れ
与える事より得る事に喜びを感じさせ、人々の消費意欲を促す、
生産者中心の世の中となっています。

しかしながら、どんなに世の中に物が出回っても、それを何でも
得られる人は少なく、今の社会を十分に利用できる人は、
ほんの一握りの人々、つまり、限られた高額所得者に限られ
日本社会は、あらゆる分野で、格差が大きくなっています。

生活をするにも、介護を受けるのも、所得差は歴然であり、
高齢になって、日本の素晴らしい医療や介護を受けられる人も
やはり限られた方々となっています。
その為、今や、高齢者にとって、歳を重ねることが罪悪と考え
自分の存在を否定する様な考えを持つ方々もいます。
更には、病気になる事は、更なる苦労を周囲や家族にかける
と考える高齢者もあって、高齢者の自殺は、ニュースに乗らない
深刻な問題ともなっています。

日本における高齢者は、これからも増加が見込まれています。
確実に老人大国になって行くのが解っているのに、その対策は
遥かに遅れています。
問題は、様々な福祉対策では有りません。
高齢者が置かれている、日本人の中での立場です。

ただ、高齢者が生きて行く為に便利な物を揃えたとしても

それは幸せには繋がらないのです。
50年前に比べ、確実に福祉設備は整い、様々なグッズが生まれ
社会に於いて、高齢者が安全に無理なく生活できる施設は増え、
我が国は、先進国の中でも、トップクラスの老人対策が出来ていると
関係者は、自負していますが、これは、日常生活を送るにあたっては
便利かも知れませんが、高齢者を労わる、本質的なケア設備とは
言えないのです。

老人医療産業、老人福祉産業にとってはメリットは大きいかも知れませんが

こんな事で、高齢者が喜んでいると思ったら大間違いです
一番の問題は、高齢者と就労者、若者達との、人間的格差です。

何もできなくなったから、仕事が出来なくなったから、病気をしているから、

その対策をすればと思うのは、頭の固い政府役人と関連事業者だけであり、
高齢者はの心を労わるのは、そんなハードの部分ではないのです。
今の日本に一番欠けているもの、それは、来たるべき東京オリンピックで

日本が掲げている、おもてなし、という言葉に類する、思いやりです。
本当に高齢者の事を思うなら、歳を重ねて、身体が不自由になってきた人が
本当に求めているのは、何なのか、が解るべきなのです。

日本より遥かに福祉が遅れているベトナムなどの、東南アジアの諸国の

高齢者が、家族の長として、大人から孫まで尊敬され、大切に扱われ
いかに素敵な笑顔で余生を暮しているか、設備が充実した、養老施設で
ただ、1日のノルマと介護を受けているだけの笑顔のない高齢者と
どれだけ幸せ度が違うでしょう。

日本人は、高度成長の引き換えに、日本人としての大切な物を

沢山見失ってしまった様な気がします。
その結果、若者たちは夢を失い、高齢者は、生きる喜びを失いました。
これからの時代、更に、日本は高齢化社会に突入して行きます。
そのたびに、福祉設備を増やして、高齢者が便利な生活が出来る様に
街を変えて行っても、この問題は一向に解決しません。

私達の生活が、一向に改善されず一部の人の生活のみが潤う現代は、

いずれ、予期せぬ混とんとした苦しみの次代へと突入して行く様で
高齢者のみならず、日本国民の未来が危うくなる気がして成りません。


医師も教師も信頼を持てない日本人

2015-12-26 15:41:45 | 社会

厚生労働省としては、医療費の削減を目的として、
医療機関の改善を図り、高齢者に対する治療費の負担を
軽減する方向に努力をしている様ですが、高齢者にとって
医療費と言うのはいまだに大きな負担となっています。

特に、処方される薬に対する出費は、決して軽いものではなく
中には、十分な処方を受けられない高齢者もいるのです。
しかし、昔から大きな問題となっているのは、必要以上に多い
治療薬です。

様々な医療機関に関わると、そこから処方される治療薬は
膨大なる量であり、それを、随時摂取するという事は、
治療と言うより、薬害と言ってもいい状態です。
患者にしてみれば、良くなれば嬉しい事から、先生の言う通り
一日中様々な薬を摂る事になります。

確かに、様々な治療に対する処方箋は、医学的に正しいと
言えるのかもしれませんが、その量は一人の人間が摂りいれる
安全値とはとても思えない多さです。
また、中には、何とも無かったのに、会社で受けた人間ドックで
普通より高血圧と診断を受け、血圧を下げる薬を飲むようになって、
それまで感じた事も無い、身体の不調に苦しんでいる人もいます。

また、最近の治療は、受診すると、医師が、コンピューターの数字と
検査結果を見ているだけで、患者の方に殆ど向かないで、受け取る
治療薬と、次の受診日を決めているだけと嘆いているお年寄りもいます。

健康であるための治療や、健康な身体を保つための定期健診で、
医師から病気の可能性を伝えられ、何とも無い身体に薬物を投与する
この、医者は算術を地で行く日本の医療は、明かに不快と言えます。
そもそも、例え検診で、身体の中の病魔の兆候が解ったとしても、
治療を受けるにつれて、不健康に成ったり、他の病気が現れたりと
考えられない様な状況が結構あるのです。

病気になれば、誰でも気弱になり、医者のいう事に頼りがちですが、
言われるがままに、様々な治療を受け続ける事により、医者側の
臨床例は多くなっても、本人の欲する健康が得られない場合があり、
病気の慢性化に伴い、長きに渡って、医者のモルモットの様な、
検査の為に医療機関を回っている高齢者も少なくありません。

最近では、病院間の患者の取りあいも珍しくなく、過当競争に負け、
止む無く、撤退を余儀なくされ、その地域の患者に大きな影響を
与えている場合も有ります。

患者を客として扱い、より、豪華な設備を作り、その負担を患者に
向けるなど、近年の医療姿勢は、とても崇高なる医師の姿とは
程遠い状態です。

その為、患者側からすると、本当に患者の事を考えてくれる医師を
見つける事は非常に難かしく、単なるコマーシャリズムや噂では
自分の健康を託すことは困難なのです。

また、最近は、欧米並みに、日本も医療訴訟が多くなり、
医者側も、リスクを負った治療や、ノルマ以上の診察を行なわず、
常に、医療過誤を考えた、保身を伺わせる処方がうかがえます。
診察にしても、治療にしても、薬物投与にしても、全ての行為が
医療訴訟の対象となる事も有って、医者自体が患者サイドに
深く関わることを避ける傾向が有ります。

今や、医療関係も、学校関係も、自分の行いに自信が持てない、
常に、周囲の事を気にしたり、訴訟を想定した、保身としか
考えられない、自己中心的な医師、教師が目立つことが気になります。

より安全に、安心にと思う余り、自分の考え行動に自信が持てない
様々な事に疑心暗鬼となっているのが、最近の日本人と言えます。
長引く不況、社会不安が、豊かな感受性を持った日本人の心を
殺伐としたものに変えている様に思えます。

人が信じられない、家族が信じられない、更に、学校や社会が
信じられなくなっている日本の現状は、夢ある未来と言うより、
暗い将来を抱かせている様で、この負のジレンマが何時まで
続くのか、そして、どこかで爆発してしまうのか、日本人の未来に
大きな不安がよぎります。


祭りは人々のカンフル剤

2015-12-25 16:14:32 | お祭り

今日は、クリスマス。
12月初めの頃からのクリスマス商戦もついに楽日を迎え、
関連商品を売りつくさんと、街中の商店がイルミネーション以上に
賑やかです。

クリスマスは、キリスト生誕の日であると、長きに渡って信じられ

クリスチャンでもないのに、様々なイベントに於いて、キリスト生誕の
お祝いにあやかる催しが行われてきました。
しかしながら、実際は、キリストはこの日には生まれていない事が
人々の間に知れ渡っています。

でも、日本人にとっては、今や、誕生日であろうとなかろうと

どちらでもいい事であり、経済効果の高いお祭りの一つとして
何のためらいも無く楽しまれているのです。
その為、多くの方は、このお祭りをきっかけにして、自分の中の
テンションアップに利用しています。

来年二月早々に予定されるセントバレンタインデーと同じく、

今や、年間行事の一つであり、このような国民的イベントを利用し
商売の展開を考えたり、人との出会いを考えたりと、何だかの形で
自分の生き方にメリハリを付けたいと思うのが人の常なのでしょう。

とは言え、日本人に限らず、人類は、太古の昔から、生活に潤いと

張りを持たせる為、様々なイベントを作って来ました。
基本は食を得た喜びと感謝の踊りであり、狩猟生活が主体の
太古の昔から、欲を満たした喜びを、身体で表した事の名残
とも言えます。

人々は、生きるための食が満たされると、それ以上の食を得る為

獲物を狩ることが無くなり、狩る時の高揚感を得る為にも
何だかの形の刺激が欲しかったと思われます。
大勢で力を合わせ動物を狩る様に、大勢で、焚火の回りで踊れば
その連帯感と高揚感で、狩りと同じように満足感が得られたのです。

農業が盛んになり、直接狩りに行かなくても、食料が得られる様になると、

収穫の喜びとして興じられた豊作祭りが、食を満たした後の喜びの
イベントと変わって行ったのはうなずけます。
私達は、どんな形にせよ、皆で祝うという事に喜びを感じるのです。
その理由はともかく、祝う事が実は高揚感を増し、自分たちをより
豊かな気持ちにさせるのです。

また、満足を得られた喜びのお祭りと言うだけでなく、不幸な時も

不況の時も、人々はお祭りを欠かさなくなるのです。
祝う事により、悲しい気持ちも楽しい気持ちになり、日常的に
生活が苦しい時代であっても、祝う事で変わる可能性を信じて
よりイベントは大きくなっていくのです。

現代の日本に於いて、お祭りは、全国で3000を超えると言われています。

各市町村には、必ず昔からのお祭りが残っていて、人々の生活が
それらのお祭りと共に在った事が伺えます。
確かに、豊作など、喜びを祝う祭りが多いですが、不幸を祭るお祭りも
数多くあります。

例えば、沖縄のお葬式は、巨大な石の墓の周囲で、家族親戚のみならず

知らない通行人まで、誰もが参加して飲めや歌えの大宴会です。
人々にとって、お祭りと言うのは、生活のカンフル剤の様なもので、
皆で祝う事により、地域の活性化や経済効果に繋がって行くのです。

家族や友達、恋人間で行う、クリスマスのプレゼント交換は、正に

この効果を表すもので、例えそれが、義理チョコであっても、
少なからず、心の中は高揚するものなのです。


心を満たす術を育てる

2015-12-24 15:44:38 | 人生

一週間ほど前までは、暖かさの所為か、都内のイチョウは黄色く
青い空に映えて、晩秋の風情でしたが、ここ数日で、ついに力尽き
殆どの枝から、褐色に変わった少し乾いた葉が、風が吹く度、歩道に
カサカサと音を立て散っています。

街ゆく人々も、襟を立て、少し厚めのダウンコートを身にまとい、足早に

歩いています。
今年も残り数日になったとはいえ、毎年の事ながら、一年が記憶から
消え去って行くほど、早く感じるのは、決して年齢だけの所為では
有りません。

充実した、思い通りの一年を過ごした方もいるとは思いますが、この一年は

ある種、日本中の人々に、不安を抱かせるような一年でした。
中々景気が回復せず、一部の企業の業績を持って、景気が上向いていると
言うのは、そう思わせたい人たちの考えであり、国民の多くは、少なからず
息苦しい年であったと思われます。

また、将来の日本を想うに、単に、経済的な不安や、社会的な行き詰まり

だけではなく、どうしようもない、不可避な出来事に巻き込まれてい行くのではと
思われる日本の未来に、より一層、不透明で、やるせない我が国の現状を
感じている人たちも多いと思われます。

長引く不況に、経済的な復活を期待する人は多いようですが、今の日本に

例え新たなる好景気の時代が訪れたとしても、人々は本当に豊かな気持ちで
生甲斐を感じられるとは言えません。
最近の日本人は、経済的な苦しさより、心の余裕の無さに、本当は苦しみ
行きる術を失っている様に感じてなりません。

元々、日本人は、昔から、春夏秋冬、様々な自然の中に、心の拠り所を見出し

季節の移り変わりに、人生の機微を感じてきました。
様々な自然現象、動植物の自然の中での有り方に、自分の生きる道のヒントを
見出し、心の糧を求めてきました。

ただ、食べることを求め、喜怒哀楽を感じるだけで過ごす毎日は、私達日本人の

心豊かな人生を育てないのです。
生活して行くだけで精一杯と成ると、食を満たし、所得を増し、自分の望む物を
手に入れる事が幸せと勘違いしてしまします。
自分の欲を満たす事が幸せと思ってしまうと、周りが見えなく成り、自分が
人々や自然に生かされている事を見失います。

今や、世界はネットの時代と成り、あらゆる情報や物品を手に入れる事が

可能な時代と成りました。
その為、少しでも多く、自分の欲望を満たすことが出来る人に憧れ、
欲望を満たせる人が、人としての価値が有ると勘違いされる時代となっています。
つまり、中身はどうであれ、自分の求める物をより多く所有する人が、
社会的に望まれる人となっているのです。

この事は、特に若い人たちの間で蔓延していて、対人評価が、人としての

素晴らしい人格ではなく、その人に付随する、持ち物や地位、財産となって
本質を見抜けない人々が多くなっているのです。

かつて、古い時代に、武士は食わねど高楊枝、と言う言葉が有りましたが、

食事が出来ない程貧窮していても、武士は、そのプライドを捨てず、食の為に
心を変える事は無い、非常に気位の高い様を表していますが、この言葉は
今では、全くの死語と成り、欲を見せ、欲を満たせる人が称えれれる様に
様変わりしてしまっているのです。

そんな事を見越してか、今のメディアは、いかに人々の欲望に訴えるか

手を変え品を変え、人々の心を操ります。
世の中の流れを意図的に作り、人々の欲望を利用して、あらゆる流行を
生み出す事により、莫大なる収益を得るシステムを作り上げています。
視覚的にも、誰もが求めている様に働きかけ、莫大なる収益は、一部の
大手企業に流れ、増々生活の格差が生まれる結果となっています。

今の教育から生まれる子供達は、人として育てられていると言うより、

より豊かな生活をする為の、社会的優位な職を得るために教育され
豊かな人間性を持つ大人に育ちにくい環境にあります。
かつて受験戦争と言われた頃の、点数至上主義から、今や、いかに
将来、社会的な地位と資産を得るかに、子供たちの教育の目的が
変化させられてきています。

しかしながら、大切な事は、地位名誉肩書きと言った社会的順列を

感じさせる事で生きている人は、それらを取り去ったら何も魅力が無く、、
簡単に人々から見捨てられ信用されない事を知っている人が少なく、
単に、殺伐とした社会に居る事を思い知らされるだけなのです。

人として幸せに生きて行くには、様々な人の心を理解できる力が

必要です。誰でも、外見と同じ人は滅多にいません。
心の中は、非常に複雑で、外見や行動からは全くうかがい知れず、
自分にとって本当の理解者を見つける事は難しいのです。

物事を深く考え、人の心を察する人は、目先の欲望に触手を

伸ばしたりはしないで、御互いの思いをしっかりと感じ取り、
将来的にいかにお互いが満足できるかを考えます。

とは言え、欲を持つことはいけないと言っているのでは無いのです。

欲と言うのは、自我から生まれますから、そのまま、吐き出すと
トラブルに発展しやすいのです。誰にも有る事ですから、
いかにお互いが満足でき、進歩できるかを考えて、欲を
夢に変えて行かなければならないのです。

今の世の中は、生きる事で精一杯の人が増えていて、

自分の欲を得る為には、人の気持ちを考えられない人も多いのです。
しかし、そんな人々は、心の満たし方を知らないのであって、
心の中はいつも不満だらけなのです。

そんな時、そんな気持ちを察して、その心に安らぎと満足を

与えられる人が、これから将来、人との関係に喜びを得られ
その結果、多くの方が憧れる沢山の夢が、いつの間にかに
集まって来る人生を送れるのです。


何でも受け入れられる日本人

2015-12-23 16:18:16 | 日本人

今日は、天皇誕生日の祭日であり、明日は、クリスマスイブ、
年末で一番賑やかで、人々の気持ちが高まる時です。
家族で、友達同士で、恋人同士で、この数日をいかに過ごすか、
頭を悩ませている人と、期待に胸を膨らませている人が多い事でしょう。

クリスマスにしても、バレンタインデーにしても、ハロウィンにしても

これ等は、全て日本のお祭りでは有りませんが、いつの間にか
誕生の国よりも大きな催し物となっているのは驚きです。

私達の住む日本は、海に囲まれ、昔から、海外から隔離され

独特の文化が生まれている様に思いがちですが、実際は、
古墳時代から多くの大陸文化が日本に浸透していて、
日本独自の文化と思われている事も、ルーツをたどると
かつて海を渡って伝えられて来ている場合も多いのです。
その為、日本独自の様に思われる様々な文化も、
長い歴史の中で、日本本来の文化と融合し、新たなる文化と
変わってきたのです。

そんな歴史の中で育ってきた日本民族は、じつは、世界で長い

歴史を持つ国々の中でも、断トツに、海外からの文化を
抵抗なく受け入れられる国民なのです。

その為、例えば、お正月の初詣にしても、神社で手を合わせ

その後、お寺に参ると言っても、誰も不思議に思わないのです。
海外においては、異宗教同士は、長きに渡って、骨肉の争いを
繰り返していたりするのは珍しくなく、日本人の心が、いかに
柔軟で異文化に対する許容量が大きいかと言えるのです。

日本が、戦後、急速に復興した事は、あらゆる世界からの支援や

援助を受け入れ、なんでも自分たちの進歩の糧にしたから
とも言われ、日本人がいかに世界に門戸を開いているかが
解ります。


しかしながら、そう言いつつも、海外の人からすると、日本人は

なかなか心を開かず、感情を外に表さず、ミステリアスな民族と
長きに渡って思われて来ました。
海外の方からすると、日本人の真意はなかなか読み取れず、
一体何を考えているのか解り辛いと言われます。

この事は、日本人同士でも、同じように感じる事が有り、

いかに、相手の本音を探り、相手の意図を読み取るかが
社会生活を円滑に行う術とも言えます。

でも実際は、海外の人が思う、日本人は何を考えているのか、と言う真意は

多くの場合、何も考えていないと言う場合の方が多いのです。
一般的に、日本人の頭の中は、世界でも優秀な脳に、膨大な情報が
有ると言えるのですが、実際に、周囲の人と接する時は、
どちらかと言えば、頭を空にしている時の方が多いのです。

これは、日本人が、情報に敏感で、常日頃、新しい情報に飢えていて

いつも、何かしらの話題を入れるスペースを空けているのです。
その為、自分の主張をする前に、新たなる情報をキャッチする為
先ず、相手からの情報をそのまま受け入れる為に、感情の
起伏を抑え、無表情に成りがちなのです。

その為、テレビ番組に於いても情報番組が目白押しで

新しい情報を提供する番組は、ゴールデンタイムを独占しています。
日本人が海外の人と接触したり、海外の文化を取入れる時は、
自分たちの主張を全面には出さず、先ず、そのまま受け入れてみて
その後、必要とあらば自分の中に取り入れ、同じような物であれば
選択して、入れ替えたりしているのです。

その為、私達の意見は、日常的に流動的で、自分が気に入ると、

簡単に自分の思いと入れ替え、新たなる自分を作ります。
食卓に和洋折衷の状態が有っても、平気で食べられるのが日本人です。
何を考えているのか解からない民族と言うのではなく、常に、新しい
自分にとって有益な方法、考えを模索しているから、考えが固まらず、
常に流動的と成り、理解しがたいように思われたりするのです。

しかしながら、この日本人の性格は、時に、特定の考えに洗脳されやすく、

例え間違った考えでも、受け入れてしまうと、後に引き返せない傾向が
歴史の中の史実に多くあります。
日本人にとって素晴らしい考えを主張するリーダーが現れれば、
その考えを元に、日本中が1つになって、大きな力を生むのですが、
間違った考えを主張するリーダーを受け入れると、そのまま、
国民もろとも、泥沼に入って行く可能性が有ります。

戦争下の日本人の考え行動が、今思えば、あまりにも理解しがたい

状態であったか、戦争の異常事態で有ったにせよ、国民すべてが
その奇行に走っていた事を見ても、一度、誤った道の入ってしまうと
解っていても引き返せず、国民すべてに苦しい思いをさせる可能性が
考えられます。

私達日本人は、善しに付け悪しきに付け、大きく染まってしまう可能性が

有る民族と言えます。
本当に未来永劫、日本人が傷付かず、苦しまず、夢を持って生きられる
不安を抱かないで生きていける道を示せるリーダーの出現が
幸せな日本の未来を創ると思われます。