今や、ハロウィンは、バレンタインデーを上回る国民的行事となって
この時期、日本人のお祭りの一つとして認識される様になって来ました。
そもそも、年末になると当たり前の様に日本中が浮かれるクリスマスも
元はと言えば欧米から伝わったものであり、ハロウィンが、日本に定着しない
理由は何もありません。
土曜日、日曜日は、奇抜な衣装とメイクで着飾った、お化け、ゾンビ?達にとって
絶好のお披露目の場であったはずなのですが、残念ながら台風の直撃で、その姿は
雨に濡れて、本物のお化けの様に成ってしまいました。
それでも、雨の中を歩く彼らの姿は、お化けなのに生き生きとしていて、恐ろしい
メイクと衣装を身に付けているものの、楽しさに溢れていました。
そもそも、日本には古来から幾多のお祭りが有り、いまだにその数は世界的に見ても
とても多くて、根っからのお祭り大好き国民と言えます。
日本各地で催されるお祭りの数は数千を数え、日本人は、昔から、お祭りをする事で
自分達の喜び悲しみを表していた事が解ります。
感情豊かな日本人も、普段は慎ましくその気持ちを心に封印しているのですが、
お祭りとなると一気に溢れだす思いが様々な表現と成っているのです。
とは言え、現代の日本と言えば、この長きに渡って親しまれて来たお祭りが、
様々な理由で無くなって来ているのです。
特に、地方都市に於いては、人口の流出や経済的理由から、昔通りのお祭りを開催する
人も予算も限られて来て、街の萎縮と共にお祭りも減ってきているのです。
しかしながら、人は、ただ働いて食べて行くだけでは、心が次第に疲弊して行きます。
様々な遊びを行う事に依り、心も身体も前に進める様に成るのです。
現代社会は、ネットの発達も有って、様々なゲームが開発され、巨大なレジャー設備が
作られる事もあり、多くの人々は、その中で心と身体を癒そうとするのですが、
与えられた遊興設備では、やはり、本当に心から楽しむ事は難しいのです。
お祭りの最大の楽しさは、自分自身がそのお祭りそのものに成って、同じ思いの人と
心から楽しめる事です。
与えられる楽しさよりも、自らが楽しむ、しかも、目の前に同じ思いで楽しんでいる人が
何人もいる事に、喜びと共に連帯感も生まれるのです。
秋になると、昔から、日本各地で行われる豊作祭りは、生きる為の恵みを与えられた
歓びの思いを確かめ合う、地域の人々の心の癒しでも有ったのです。
苦労して育てた作物が収穫された喜びを祝う気持ちが、お互いの喜びの姿として
踊りに現れたと言えるのです。
農作物を収穫できた喜びをお互いにねぎらい確かめ合い、大自然からの恵みとして
感謝する、人々の心を一つにする大切な行事だったのです。
今の日本で、人々を喜ばせる物や施設は山とあります。
欲しいものは何でも手に入り、一日ではとても遊び尽くせない様な施設は幾らでも
有ります。しかし、殆どのお祭りは、ゲームの様に客観的に参加したり、施設の中で
遊ばせてもらったりと、どちらかと言うと、楽しさを提供されて満足するものです。
その為、楽しさのレベルは、殆どの場合、提供側の尺度によって決められ、自分の
心のままに楽しむことはできません。つまり、商業的利益が伴うのです。
日本で昔から行われて来たお祭りは、本来自然が対象であったり、神前祭り
で有ったりと、人々が、生きている事の喜びをお互いに感じ合うものでした。
誰でも同等に、感謝の気持ちと確かめ合う物であって、人と人が喜びを
表現するのが目的で有ったのです。
経済的に豊かと成って、何かを勝ち得ることが目的であり喜びであるとすると
その喜びは、人によって全く異なっていて、誰もがお互いに喜び合うものでは
無くなって来たのです。
しかも、目的によって、その喜びは常に変わって行き、さらなる喜びを得る為には
より豊かな経済力が要求されるため、極めて自己満足的な喜びと成ってしまうのです。
豊かな経済社会に在って、益々人は孤立化して行く事に、多くの人がストレスを感じ
何のために生きているのか、自分の存在意味、存在価値すらわからなくなってしまう
心が病んだ現代人が非常に増えているのです。
欲しい物が手に入れば入る程、自分の求めるものが、自分以外の物である事に
大きな不安と恐れを感じ始めるのです。
お祭りの本来の役割は、人と人との心の交流であり、普段会う事が少ない人同士が
同じ場所に集う事で、お互いの気持ちを確かめ合う事が出来るのです。
生活環境や仕事が違っていても、お祭りに参加する事で、同じ思いを抱く事に成り
歓びを共有できるのです。
もちろん、スポーツをしたり、コンパをしたり、イベントで集まる事も思いは同じであり
様々な行事を通じて、人は、お互いに思いを知り確かめあい、心が癒されるのです。
そんな中で、ハロウィンは、顔にお化けのペイントをし、ゾンビの様な衣装を着る事で
誰もが同じ価値観や思いを共有できるのです。
外見的には恐ろしい姿であっても、普段では考えられない姿に成る事に依って
現代社会の様々な軋轢を拭い去る事が出来るのです。
もちろん、日本で催される様々なエンターテインメントや遊興施設に於いても
レジャーとして楽しめるのですが、自分達が主人公に成り、しかも人間から恐れられる
ゾンビやお化けに成る事で、身分の差や経済的な差別等、現代社会で人々を苦しめる
人間関係から逃れられるのです。
とは言え、これ程にも発達した近代社会に於いて、経済的に豊かになれば心が癒され
幸せに成ると思いきや、様々な社会問題が生じ、心から癒されないのです。
社会的に望まれる生活をすれば、多くの人から称えられると思いきや、妬み、そしり
嫉妬、更には、攻撃を受ける事も有り、経済的に豊かに成って来ると、自分達を
良からぬ人から守るための術を考えなければならないのです。
自分や家族を守るためのセキュリティーを考えなければならない社会は、本当に
誰もが求める社会なのでしょうか。
人は、人から存在価値を認められ、生きる意味を知る事に依って、未来を夢見る事が
出来るのです。その価値とは、人としての心の豊かさ、そして他人の心を癒せる事です。
生まれた時、両親から絶対の存在価値を勝ち得ていたのに、成長し、豊かな生活を
送れる様になった時、誰からも自分自身の価値を認められず、自分の作り出した
社会的価値にしか人々が価値を見出さない時、一体、自分は、何のために存在し
何を持って生きている価値を見出して良いのかが解らなくなるのです。
周囲には、数えられない程の人々が集まっているのに、その誰とも心を許せず、
誰も信じられなくなったとき、自分がこの世にいる存在価値は無くなるのです。
多くの著名人、有名人が、ボランティア活動に興じたり、世界中の恵まれない人に
援助の手を差し伸べたりする傾向が有るのも、地位や名誉財産が有るからと言うより
本当に自分の存在を認め、自分を求めてくれる人が身の回りに居ない事もあるのです。
現代社会の大きな問題の1つは、この人間関係に悩む人が余りにも多い事です。
何でも手に入れられる豊かな社会に於いて、人々が求めるのは、地位や名誉、財産であり
自分を人間の価値として認めてくれる人がいないと苦しんでいる人が実に多いのです。
まだ経験の浅い若者だけでなく、人生の様々な経験を経た高齢者の自殺が増えていて
その多くが、満たされた環境の中での自殺である事が問題です。
死を選ばざるを得なかった人の周りには、その行為を止められる人がいなかったのです。
生きる意味価値をもう一度考えさせ、自殺を止まらせることが出来る人がいなかった、
一度苦しめば、最終手段を選んでしまう方が非常に多いのです。
最も弱い心の部分が、守られている事に依って、私達は生きて行けるのです。
つまり、自分が傷つきやすいように、他人もこの部分が有って、傷つきやすいのです。
如何に、この心の部分を守るかが、生きていく上での最大の課題と言えるのです。
何故、多くの人達が、豊かな生活をしていても、心の奥が満たされず、日々苦しみ
時に自らの命を絶ってしまうのか、この心は、人間が創り出した物や、地位、財産、では
守れ無いからです。
人の上に立つ生活をすれば、自分の心は満たされるとし、経済的に豊かな生活を行い
地位や名誉を勝ち得ても、この繊細でひ弱な部分を守ってもらい認めてもらわないと
人の心は安心をする事も癒されることも無いのです。
世界で一つの自分の本当の心を理解し、認めてくれる人がいる事が、生きている上で
一番大切なの事なのです。
自分自身の社会的な地位や名誉、財産等、全てを取り除いた自分自身を認めてくれる人が
いる事が、どんなに苦しい時でも、最後の手段を択ばないで生きて行ける方法なのです。
経済優先の社会は、この一番大切な部分を得られないのです。
認めてもらう為には、素の自分と成り、相手の心に触れなければなりません。
誰もが、一人の人間として向き合うのが、実はお祭りの原点でも有るのです。
人の社会的価値をすべて捨て去り、人が恐れる最も醜いゾンビやお化けの姿に成って
お互いの気持ちを確かめ合う事、これこそがハロウィンの最大の目的と言えます。
誰もが、自分自身の存在を認めて欲しいものです。
その為には、人間社会の姿を捨て去る事に依り、心の壁を取り除く事に成るのです。
大自然を敬い、神の前で自らを姿をさらす事で、生きている事の感謝を示す日本の祭りも
人々が、お互いに助け合い労わり合う事の重要性を確かめる儀式ともいえるのです。