めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

常に生活向上を求められた日本人

2016-10-31 17:12:36 | 東京

そもそも、私達日本人は、何の為に生きているのでしょう。
幸せになる為、経済的豊かな生活をする為なのでしょうか。
戦後、何もない時代から、世界のトップクラスの経済大国に
名を連ね、国民一人当たりの所得も、先進国に名を恥じない
豊かな国と言えるでしょう。

しかし、何故か、人々顔は晴れません。
かつて、高度成長期には、より所得を得られ、より高学歴で
地位と名誉が与えられれば、多くの方は満足したのです。
その為、どれだけ、地位にふさわしい豊かな生活を手に入れるかで
幸せのレベルが決まりました。

ところが、バブルが弾け、世の中の景気が右肩下がりになると、
人々の生活も右下がりとなり、国民の多くが、明日の生活を不安視し
より安定した仕事や生活を求める様になりました。

世の中全体が守りの大勢となり、多くの産業は、次第に委縮する事で
日本中の経済体制は、委縮倹約が主体となって、益々、世の中の流れは
滞る事と成ってしまいました。

所得が思ったように得られない多くの国民は、節約し、身を削る生活で
この時代を凌ぐ様になり、経済の活性化は、一段と難しくなっています。
この流れを、何とか上向きに変えようと、国は、様々な対策を講じ、
以前の様な、豊かな国を目指しているのですが、その思いと裏腹に
一向に世の中の流れは滞っています。

とは言いつつも、一部の大手企業や高額所得者にとっては、国民の
苦しみは対岸の火事の様で、経済の多くを支える程の資本をもってして
何の生活苦も、心配もないのです。
合併統合を繰り返し、より力を増していく大手企業にとっては、
消費者がいる限り、自分たちの未来は、何の不安もないのです。

いわゆる、負け組勝ち組に分けられる日本社会に於いて、勝ち組達の
心は、如何に不況であろうと、何の心の痛みも無いのです。
しかも、負け組が、身銭を切って買い求める、生活必需品の多くは、
勝ち組の資産と変わって行くからなのです。

と成れば、国民の一部を占める、高額所得者の一人勝ちの様な世の中で
彼らは、日頃から、幸せに満ちたりた生活をしていると思われます。
多くの庶民が持ちえない資産財産を惜しみなく生活の力として使い、
さらなる豊かな生活が保障されていると思われるのです。

しかしながら、実際は、どうなのでしょう。
日本国民の下向きの感覚は、所得の有る無に関わっていないのです。
なぜなら、様々な努力を惜しまず、高額所得者になった人達が、
昔憧れた生活に、以前のような魅力を感じないからです。
より、幸せになる為と、資産をつぎ込んで得た数々の高額の品々も
得てしまえば、一瞬にしてその喜びは消え、さらなるものを求めても
やはり同じ思いをしてしまうのです。

つまり、自分の心が癒され満足できない限り、幸せは訪れないのです。
かろうじて、人と比較する事で、自己満足をしている方々は多いのですが、
それとて、幸せとは程遠く、持つものが多くなるほど、満たされない気持ちで
心がすさんでしまう方も多いのです。

今、日本人に足りないもの、それは、自分が何を本当に求め、自分にとって
いったい何が本当に必要なのかが解らない事です。
経済的な満足は、ほとんどの場合、人との比較や差別化しかならず、
自分の心の満足度ではないのです。

小さい頃から受験勉強に明け暮れ、有名大学から、名の有る企業に就職しても
そこまで成し得た社会的地位による満足では、自分自身の価値ではなく、
社会的な比較に過ぎないのです。

では、自分の価値とは、それは、この世に存在している意味と心の力です。
意味とは、自分で決めるのではなく、社会や人々が決めるものです。
自分がいる事で、人々が生かされることです。
そして、心の力とは、周囲の人々や、自分の置かれた環境にいる人々を
生かす力です。
この二つがあって、初めて自分の存在が確認でき、自分の価値が解るのです。

ところが、バブルに明け暮れた時も、現代の様に、世の中が不景気の時も、
日本人に欠けていたことです。
バブルの頃は、ただ、経済的に豊かであったと言うだけで、何でも手に入り
欲しい物を手に入れる喜びを感じていた、子供の時代だったのです。

今や、人々は、バブルでもない、不景気の世の中でもない、自分たちの

心の奥に足りないものを求めているのです。
その為、どれだけ所得が高くなろうが、満足は出来ないのです。

私たち日本人は、太古の昔から、人と自然の中に、自分の存在理由を知り、

如何に生きて行けば良いのかを学んで来ました。
自然を破壊し、自然との関係を断ち切ってしまった時点で、日本人の心は
失われてしまったのです。

また、経済力を持って、人を評価するようになったことで、相手の気持ちを

読む事も察する事も苦手となり、人々から守られる安心感を失ったのです。
今の日本人は、経済力の衰えと、人々からの信頼を失って、自らの未来を
不安視しているのです。

特に、人の中で守られる事の安心感を得られないストレスは大きく、

自らの中に自分を満たす世界を作る事が必要となっているのです。
この事は、若者たちに多く見られる傾向で、社会的には友好的に振る舞っても
いつも心は寂しく、自分一人の世界に苦しんでいる人が多いです。

人の中で育てられる人間性無くして、自分の価値を見出すことは難しく、

多くの若者が、経済的に豊かになれば幸せになれると勘違いしてしまう事が
未来の日本の不安をより感じてしまう要因と言えます。
この事は、若者のみならず、高齢者も、一般の社会人も同じことが言え
如何に、現代の日本社会に生きる人たちが、心の奥で悩んでいるかが
解ります。

日本は、高度成長を遂げ、世界的な先進国となりましたが、肝心の心は

成長する事が出来ず、経済的に豊かな国と言えど、悩み多い国民と
なってしまったのです。
経済を支えるための国民から、一人一人の心を支える国民になった時
世界で一番豊かな国となるのではないでしょうか。



 


ハロウィンという新たなる文化

2016-10-29 14:36:48 | 日本人

日本は、伝統的な国であり、世界でも名だたる独特の文化が
世界中の人々を引き付けます。
数千年の歴史が作り上げた日本文化は、島国である事も有り
諸外国からの影響が少なく、独自の発展を遂げていると
思われがちですが、実際は、有史以来、世界中からの影響を
多分に受ける事に依り、多くの諸外国の文化が混じりあい、
日本独特の文化となったと言うのが定説です。

この事は、現代社会に於いても同じであり、人々の心は
日本人特有の考え方はみられるのですが、あらゆる外来の事に
極めて柔軟性を持ち、何でもそのまま受け入れる体質があります。

海外の方に不思議がられるのは、お正月ともなれば、神社に

初詣に行ったかと思うと、お寺にもお参りをしたりと、
宗教に関しても極めて柔軟性があり、様々な文化宗教を簡単に
受け入れる体制が在るのです。

お祭りに関しても、クリスマスは、当然キリスト教を崇拝する

西欧の文化圏の行事ですが、いつの間にかに日本に定着し、
今では、宗教とは全く関係のない年末行事となっています。
普段、仏教を信じている人であろうと、クリスマスは普通に祝い
正月には神社に参拝する日本人の感覚に、欧米や諸外国の人々は
驚きを隠せません。

しかしながら、何千年にもわたって、私達の祖先は、世界中から

あらゆる文化や技術を取り入れ生活に役立てて来たのです。
例え鎖国をしている時であっても、諸外国との国交は、
行われていて、その影響は、各時代に色濃く残っています。

所で、最近、また新たな催し物が日本に定着しています。

ご存知、ハロウィンです。
もともとは、ヨーロッパのケルト人が、収穫を祝う祭りとして
悪霊を追い払う行事を行ったようですが、その後、アメリカに広がり
子供たちが近所を回って、飴をもらう行事となったのですが、
キリスト教と言った宗教とは全く関係がないと言われます。

しかしながら、年々、日本における知名度は、クリスマスに匹敵し

各地で様々な催し物が企画されています。
中でも、都心部における若者たちの盛り上がりは異常とも言える程で
今では、各地で交通規制を強いられるほどです。
特に、渋谷近辺は、毎年、日本中から、仮想した人々が多数集まり、
今年は、道路を歩行者天国として、完全に車両を排除する事と
なりました。

今の若者にとっては、自分の時代を謳歌する絶好の場なのでしょうが、

バレンタインデーでさえ、多少抵抗のある中高年にとっては、
祭りと言うより、異種文化を感じるような、異様さを感じるものです。
仮装している人たちは、さぞや楽しいと思えるのですが、その姿は
美しいと言うより、どちらかと言えば、グロテスクであり、これまでの
日本に入って来たお祭りの中でも異色と言えます。

昨年は、ゾンビが流行り、街中を、見るからにおどろおどろしい死体?

が闊歩したのですが、見ていて楽しいとはとても思えませんでした。
その為か、それとも、流行か、今年は、可愛い系のゾンビが多いそうで
いささかホットしています。

とは言え、良しに付け悪しきに付け、日本人は昔から、お祭りを好み、

自分たちの感情を周囲に表したものです。
若者たちが、ゾンビになる事で、日頃のうっぷんや悩み事が、少しでも
発散できれば、それはそれでとても良い事ではないかと思われます。

現実の不景気な社会にあって、様々な抑圧の中で生きて行くにあたって

何かの形で、自分の存在を感じられる事はとても大切な事です。
特に、若い人たちにとって、社会に周囲に認められることは重要で、
自分の存在すら自覚できず、単に、生活していくだけで精一杯の人が
多いと言われています。
とは言え、特殊メイクをして、俺は、私は、ここに居るよ!ここに生きてるよ!
って訴える機会を与えられることはとても素晴らしい事と言えます。

しかしながら、彼らの中に入って、同じようなメイクを施し、

一緒に楽しむのは、まだまだ時間がかかる様にも感じてしまうのは、
単に年を取ったからと言うだけでなく、日本人の新たな事を
受け入れようとする時に生まれる、心の壁の壁なのかもしれません。
今年は、参加するまではいきませんが、彼らの側まで近寄り、
そのほとばしるエネルギーを感じ取ってみたいと思っています。


未完成だからこそ進む勇気

2016-10-28 13:15:08 | 社会

男女の社会に於ける性差別は、昔に比べてかなり少なくなり、
会社の中の重要ポストに、女性が抜擢されることが珍しく無くなり
ました。女性の社会進出が当たり前となって、社会に於ける男女の差は
かなりなくなって来たと言われますが、実際、現場の声を聴けば、
殆ど男社会と言う答えが返って来る事が多いです。

とは言え、女性が社会的に進出してくることは、世界的に見ても
多くの先進国では当たり前の事であり、日本においても、社会全体が
男女平等という考えが、当たり前であるような日本が、国内外においても
求められています。

しかしながら、女性が社会進出するにあたって、男子と同等の条件を
満たすことは難しく、男女の特性に合わせた社会構成が成されることが
今後の争点となって来ます。
男性と同等と言うと、男子と同じ条件である事が同等と考える人も多く
男と同じことが出来なければ、同等は考えられないと言います。

しかし、男女は、本来、まったく違う生き物と言ってもよく、単に、
同じ行動や考えを持つことを同等と考えるのは早計です。
男女が性差が在る様に、お互いに得意とする分野が有り、中でも
女性は、妊娠出産と、男性にはできない大切な能力があります。

この特性は、人類が繁栄していく為に無くてはならないものであり、
女性が社会進出するにあたって、この部分が、しっかりと社会的に
保証されている事が重要です。
この点が、今の女性たちが悩む大きな問題であり、結婚出産育児が
社会的に保障されてこそ、初めて、女性が社会的に安心して進出する
事が出来ると言えるのです。

日本も、いよいよ人口減少の時代に突入してきました。
高齢者が増えるだけでなく、出生率が年々低下し、子供たちの数が
どんどん少なくなっています。
この事は、女性が社会に出て働くことの厳しさを物語っていて、
生活を安定させるための就労と子供を産むことが社会的に保障されず、
多くの若い女性たちの悩みの種となっています。

一部の企業では、育児保障が認められてはいますが、多くの企業では
結婚出産に対する補償が少なく、女性が職場から一時的にせよ、
戦線離脱をする事を良しとする企業は、いまだ多くないのです。
また、男子にしても、結婚して家庭を持ち、家族を養って行くほど
経済的に安定しているとはいえず、男女共、子供を産み育てる環境は
非常に厳しいと言っても良いのです。

とは言うものの、たとえ厳しくとも、全ての条件を飲んでまで、家庭を持ち
子供を育てようと考える若者が減っているのも問題です。
家庭をもって、自分の時間を無くしたくないと考える若者も多く、
あえてリスクを負ってまで、結婚する意味を感じない人も増えています。

社会的にも、男女共に、独身を貫くことを否定的に考える人が減った事や
例え、結婚しても、一生添い遂げると言う思いが無い若者がけっこう多く、
簡単に離婚して、新たなる独身生活を送っている人が非常に多い事も
若者達の結婚離れを増長しています。

しかしながら、人生に於いて、体質的にも肉体的にも、まったく異なった
男女が、一つ屋根の下で暮らすと言う事は、苦労は多いせよ、一人では
決して味わえない、様々な人生の喜びを得られるものです。

お互いに完璧でない者同士が、ぶつかり合いながらも、二人にとって
一番幸せと思われる道を探して行く事は、人として、相手を思いやり、
自分の及ばない世界を学ぶ上で、何にもまして素晴らしい体験です。

本来、男女は、水と油とは言いせんが、まったく違う生き物であり、
恋愛時代は、何でも相手に合わせ、その違いが判らないものです。
しかしながら、長い年月を一緒に過ごすと、その違いが如実に表れ
百年の恋も冷めてしまうほどの憤りを感じたりするものです。

でも、それは、本当に相手の事を知る事が出来るようになったからであり、
自分とは違う、相手の世界を知る事になったのです。
男女が違っている様に、お互いに、考えや感情が違っているからこそ
お互いに自分の事を見つめなおし、相手の事を敬うことも出来るのです。

世界一の絶世の美女であっても、ひとたび一緒い暮らせば、その思いも
あっと言う間に消え去り、現実の女性を目の当たりにするのです。
世界一のイケメンと一緒になっても、やはり、同じく、相手の中に
見たくもない部分が幾らでも出てくるのが現実なのです。

しかし、その部分を感じた時こそ、本当に二人が理解しあえるスタートです。
男女と言う違いがあるから、お互いに引きつけられ、愛し合ったのです。
外見的に感じる違いも、その後に解って来る内面的な違いも、当然の事ながら
自分の選んだ人が持っている魅力なのです。

結婚をする時、牧師さんが、お互いに病める時も、変わらず一生愛し続けますか?
と宣う場合がありますが、これこそ、様々な苦難に巡り合っても、パートナーが
自分の思うような人生を辿らなくとも、いつでも信頼し、愛し続けると言う事です。
つまり、男女が一緒になると言う事は、想定外が次々に生じる事を前提にして
いると言う事です。

人は人によって育てられ成長していきます。
自らの能力も、多くの人々の助けを借りて発揮できるのです。
その力は、自分とは全く違った性格、能力を持った人によってもたらされます。
その最も身近な人は、家族であり、パートナーなのです。
そこで生じる様々なリスクや想定外の出来事は、必ずや、自らの人間性を高め
人生を豊かにするものです。

確かに、現代社会は、長引く不況の元、誰もが、息苦しく切ないものです。
働けど働けど楽にはならないかもしれません。
しかし、自ら選んだ道には、自分を変えて行く大切な要素があるのです。
その中に、人間関係の粋を成す、恋愛、結婚と言う物が有ります。

様々な条件がそろわないと前に進めないと思い込んでいる若者が多いです。
今の世の中、情報が氾濫していて、自分の行動は、常に、社会の状況に影響され
思った通りに行動できなくなっている人が多いです。
仕事も結婚も、そこに人がいる限り、新たなる世界が生まれ、未来へ続く
生活が始まるものです。
全てを整えてから動き出すことも大切かもしれませんが、見切り発車を行う
勇気を持つことも、素晴らしい人生を送れる条件でもあると思われます。


社会が、人々を薬物に向かわせる

2016-10-27 13:38:40 | 日本人

昔の人は、何のために働くかと言えば、食べる為だと
答える人が多く、仕事をする目的は、如何に食べる事に
ウェイトが有ったかが解ります。

戦後、何もない時代を過ごした日本人は、ともかく、
生きる為には何でも食べて行かなければならず、
働くことの目的は、如何に安定して食事ができるかと
多くの方々が考えていました。

更には、経済的にも国を復活する為に、所得倍増計画
日本列島改造論という考えが主流をなし、海外から
エコノミックアニマルと揶揄されるほど、日本人は
働きづめの生活を強いられました。

この事が、日本人の勤勉な性格と伴って、空前の
経済成長を見せるのですが、その成長の陰で、国民も
日本の自然も、様々な、負の遺産を生む事と成りました。

経済優先の社会は、日本の大自然をことごとく破壊し、
海も川も私達の生活汚水や工場廃液で、多くの生物が
死に絶える地獄の環境となってしまいました。

更には、様々な化学物質を摂りいれた日本人の身体は、

病人のサンプルの様に、それまでなかったような病変が
現れ、公害病として沢山の人が死に至りました。
その弊害は、いまだに続いていて、各地で、多くの方が
公害による後遺症で苦しんでいます。

日本の高度成長は、生活を豊かにしたかもしれませんが、

国民の体質を、間違いなく、世界的に過敏で虚弱にし、
この事は、日本人の未来にも関わる重大な問題となっています。

男子に於ける精子量は、年々下がる一方であり、単に

結婚をしない人たちが増える事で子供が少なくなっていると言う
一般論よりも深刻で、日本民族の盛衰にも関わるものです。

長年体内に摂りいれられた化学物質は、現在の食品からも相変わらず

日常的に摂りいれられて、政府の定める基準値をクリアーしていると
言っても、日夜、様々な食品添加物を体内に取り入れ、身体だけ
でなく、心にも影響が出ていると危惧する学者も増えています。

日本人のアトピー性皮膚炎や花粉症と言った、国民的アレルギー症が

海外に比べて極端に多いのは、この戦後数十年に渡って蓄積された
様々な化学物質が、身体のあらゆる組織に影響を与え、私たちが
生きて行く為の食物にさえ、異常な反応を示し、時に、命に
関わる程、重篤な状態に陥る事も少なくないのです。

ごく一般の日本人の身体の成分を検査すれば、間違いなく、

世界のトップクラスの化学薬品が検出されると言うのが、医学界の
常識であり、日本人の身体を見れば、世界で、どんな薬品が使われ
どの様に人体に影響を与えているかが解ると言います。
世界でも、トップクラスの経済力で、便利で豊かな生活をしていると
国民の誰しも思っているのですが、生物学的な人間の免疫力、生命力は
日本民族の行く末を不安視する程なのです。

それにしても、これほど、軟弱になった日本人が、今だ、食べるために

経済的に豊かになる為に、身を削って働いている事に、先進国の中でも
不安視する学者がいます。
働きすぎで、身も心も疲れ果て、自らを死に追いやるサラリーマンは
減ることなく、さらには、全世代に於いても、交通事故者を、はるかに
上回る自殺者が多い事を、マスコミは殆ど国民に伝えません。

日本における様々な企業で働くサラリーマンの多くが、日常的に

多くのストレスを受けながら、長い労働時間に苦しんでいるのです。
辞めたくてもやめられない社会環境は、人々の心をぼろぼろにして、
ただ働いて食べていくだけの、旧態依然の生活を強要しています。

不景気な世の中になったとは言え、仕事を得られて、何とか毎日

生活を保って行く事が出来ている方も多いですが、その内容は、
食べられなかった時代となんだ変わらず、雇い主側の一方的な
就業基準で過剰労働が行われている事も多く、働き手の権利も
健康も守られない、不当就労が目立っています。

しかしながら、戦後の苦しい時代は、国民全体が、国の復興を願い

頑張って来たのですが、現代は、一体何を目的に働いているのか
悩んでいる方々も多いのです。
働けど、経済的豊かになっても、一向に心が癒されない生活に、
社会的に豊かと思える物品を手に入れる事で満足しようとしても、
物を満たすことで心が癒えない事はすぐに解ってきます。

今の日本社会で、高額所得者となっても、本当に心が癒されず、

自分の心を満足させることに悩み続ける方々も多いです。
そんな中、全てのシガラミや不満な気持ちを一瞬に開放してくれるのが
薬物への道です。
欲しいものをいくら手に入れても満たされない心を、簡単に、しかも
思いがけないほどハイな気持ちにさせてくれるのが薬物です。

薬物は、高額所得者にとっては、身の回りの物の中でも、はるかに安く

安易に手に入れられるのです。
取り締まりの網をくぐる方法は、生活範囲が広くなって、あらゆる所に
伝手を持つことが出来る社会的に地位の有る方々は、例え違法であっても
簡単に手に入れる事が出来るのです。

芸能界で次々に発覚する常習者、驚くべき有名人が逮捕されることは

珍しくありません。
しかし、これとて、本当に氷山の一角であり、社会には、表ざたにならず
日常的に使っている常習者はいくらでもいるのです。
余りの多さに、取り締まる事を諦め、法的に使用を認める国も多く有ります。
それ程にも、いまや、薬物は日本人の生活に広がっているのです。

アメリカ社会に於いて、薬物を子供が使用していても、親がとがめる事も

事件となる事もありません。
日本社会が、このようになるとは言えないと思っている方も多いでしょうが、
閉鎖性の強い日本社会に於いて、ただ、発覚していないだけで、一般の家庭や
会社、学校に於いて、多くの常習者、経験者がいる事が知られていないだけです。

世の中が、経済性のみを優先し、個人の身も心も癒せなくなったとき、

薬物は簡単に庶民の中にまで浸透するのです。
追い詰められた人々が、心を癒すために、薬物を使う可能性は高いのです。
しかしながら、その結果を見れば、多くの犯罪の陰に薬物常習を疑われる場合が
日本でも増えているのです。

国民が、自分の心を癒すために薬物を使い、また、身を守る為に銃を持つ様な

一生人を信じられない生活を強いられる国に、日本が進んでいるとしたら、
私達の未来、そして日本人の将来は、一対どうなってしまうのでしょうか。

生活が豊かになればなる程、自分の周囲のセキュリティーを増して、自分の

家族資産を守り、その中で、まるで豪華な刑務所に入っている様な生活に
誰が憧れるでしょう。
しかし、その現実が、今のアメリカ国家の日常にある事は、誰もが知るものであり
毎日、悲惨な事件が起こっている、資本主義社会の末路ともいえるのです。

バブル以来の不況は、日本の経済力の衰えが原因とする、リーダーたちの考えは、

正に、所得倍増計画で鼻息を荒くした戦後の政治家と何だ変わっていません。
日本人は、高度成長期を経て、さらなる不況時代に生きて、誰もが本当の幸せを
心の底から願っているのです。

人を疑わない、傷つけない、お互いに察し思いやれる社会を目指しているのです。

誰もが怯え、傷つけられる事を恐れ、自ら加害者になる事を恐れ、出来るだけ
自分の本心を出さない様に、ただ周囲の環境に合わせるだけの生活に、多くの
日本人が疲れ果てているのです。

幾ら経済力が身に付いたとしても、この疲れた心は、お金や物で癒せるものでなく、

人と人との信頼関係、思いやりによってのみ安らぐことが出来るのです。
自分の事だけでなく、常に周囲を気遣い、助け合って、安心して生きて行ける社会を
日本の国民は望んでいるのです。

自分の心が癒され、満たされた時、その個人の力量が最大限に発揮され、

日本は、新たに、世界で一番と言われる民族と成れるのです。
同じ民族同士、お互いに社会的な力や物を奪い合う事に、本当の満足は無いのです。
日本人は、戦う武器を持たせることで満足するような単純な民族では有りません。

大自然の全てに命を感じ、万物と交流が出来る、繊細で美しい心の民族です。

経済力で優劣を決めるような荒っぽい民族ではないのです。
本当に、日本の社会を、経済的にも、人々の心の中も満足させるには、
自分たちが人として本当に欲しているものを、シッカリと見極める事が
まず第一であり、単に、経済力を増すだけでは、経済
復興も、オリンピック誘致も、
人々を幸せには、導かないのです。


豊かさに惑わされない為に

2016-10-26 16:26:18 | 日本人

世界の歴史に於いて、支配者層と一般庶民の生活格差は、
どの時代を見ても見られる事であり、一部の人達が、
国の富の殆どを所有する事は、珍しい事ではなく、
その事に依るトラブルはそれほど問題とはなりませんでした。

しかしながら、近年のこの所得格差や、生活レベルの二極化は
かつてない不安定な状態を引き起こしています。
非常に国内が安定していた徳川300年の間も、士農工商と言う
身分制度が敷かれていたものの、そのことが、国家の基盤を
揺るがしたり、諸国同士の争いとなる事は有りませんでした。

ところが、現代社会は、この二極化が、国の中のバランスを
大きく変え、どちらの層にも、安定を期待する事は難しく、
例え、地位名誉財産を思い通り勝ち得たとしても、そのことで
安定も安心もできず、精神的には、常に安心する事も、
安らぐことも出来ない、国民全体が、何を基準に生活を
したらいいか、何を求めれば本当に満足できるのか
解っていません。

その為、常に、社会に、人間に、環境に怯えている人が増えて、
かたくなに内に心を閉ざしたり、また、逆に、自分の不安定さ弱さ故
狂暴になったりする人が増えています。

この最大の原因は、ネットによる、感覚の同一化であり、
あらゆる事案に関して、全ての世代が平等に情報を得る事が
かえって多くの不安を生んでいるのです。

これまで、縦社会によって発展した世界の国々は、ネットの発達により
どんな地位の人であろうと、平等な感覚でとらえられるようになり、
様々な不満不安を、簡単に吐き出すことが出来、その結果、
瞬時に、人々の不満が、多くの人の不満に発展する可能性が高まりました。

ネット上では、誰もが、自分の考えを簡単に発言する事が出来る為
簡単に多数の人間の考えが物事を動かす力と成りました。
つまり、ひとたび、ネット上で否定されると、その思いは,一瞬に
膨大なる人の意見となるのです。

この事は、それまでにない、目に見えない暴力を生み、更には、
暴動、紛争すら生む可能性が非常に高まっているのです。
かつて、安定を図った、縦社会の上層部の人々も、ほんの小さなきっかけで
簡単に社会の底辺に引きずり落とされる可能性も出て来たのです。

社会的に安定した生活を送っている人と言えど、ひとたびネット上で
自分の行動や自分の存在が否定されたりすると、あっと言う間に、
社会的に抹殺される場合も考えられるのです。

今や、人々は、家庭においても、学校においても、会社においても、
自分の存在が否定されることに、非常に恐れ不安視しています。
出来るだけ、目立たず、自分の存在を表に出さない様に生きている
怯えた日本人が、年齢世代を問わず、非常に増えているのが問題です。

個人の生き方を尊重する現代社会は、豊かで便利になったとは言え
その人間関係は、益々疎遠さを増し、人と人との繋がりが弱くなり、
お互いの心が読めず、大きなトラブルを抱えてしまう人が多いです。

このトラブルを避けるために、益々、ネットによる情報交換
物品売買が盛んになり、お金が有りさえすれば、何でも簡単に
手に入れる事ができ、どんな地位の人でも、簡単に、社会的に
上位の生活を手に入れる事が出来る様になりました。

経済状態を持って、人間の価値を判断しがちな現代社会に於いて
この、ネット上の平等の売買は、産業界の勢力地図すら簡単に変え
資本に物を言わせ、世界の巨大企業が簡単に買収されていまう
国家の経済を左右しかねない程の流れが起こっています。

個人の関わりから、国同士の関わりまで、今や、世界の動きは
簡単に、その将来を変えられ、例え大企業と言え、いつの間にか
他の企業に乗っ取られてしまう時代となっているのです。

世の中の流れをよりスピーディに効率的にする為に作られた
ネットの便利さは、生活すべてを、他人の感情に関わらず、
最大最速の効率の下に変えてしまいました。
日常生活は、あらゆる社会システムに組み込まれ、
それを管理するネットの力で、あらゆる無駄が配乗され
益々便利で豊かになりました。

しかし、その中に、個人の感情は排除され、社会的に認められる
便利さと豊かさを強要されるようになりました。
世の中の流れは、益々スピードアップし、人々の生活は
あらゆる面で、この社会システムに合う様に強いられています。

自分の心を癒す時間は益々減らされ、効率や生産性のみが
自分の存在価値を示すことになる生活が、人々を、幸せに導く
とは、決して言えません。

私達の生活は、国家に管理されると共に、国民同士でお互いに
監視し合うような、人間として信頼関係を築くことを否定する
恐ろしい社会が作られている様に思われます。

便利な生活、豊かな日常環境に、自分が求める事であると
納得させることで、満足を引き出そうとしても、しょせん、
目に映るすべての物は、誰かによって管理され、その中で
便利と豊かさが自分を幸せにすると言い聞かせる人生が
幸せで在ると誰が言えましょう。

経済的に豊かになれる方法がより簡単になったネット社会、
しかし、その豊かさを手に入れられないと、付いていけない
つま先立ちの人生、どんな経済状態であろうと、本当の
自分に向き合う事も癒すことも出来ず、外見的な豊かさで
自分の威厳を示すことに、何時まで経っても心の安らぎを
得る事は出来ないのです。

いったい、何が自分にとって大切で有り求める物なのかを
常に自覚していないと、自分がこの世に生きている存在価値を
見出すことは、難しいのです。