めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

スポーツの祭典は、金の亡者の集まり

2018-06-23 17:11:13 | オリンピック

米朝首脳会談が有り、大阪の震災があり、ワールドカップで日本が活躍すると
マスコミの注目は、まるで猫の目の様に変わって行きます。
ニュースの内容はともかく、世の中の人が注目するものを取り上げる事が第一で、
どんなに大きなニュースで有っても、過去のものと成れば、直ぐに忘れられるのが
世間の姿と言えます。
しかし、この事を良い事として、人々の疑惑の矢面に立たされた人や、不祥事、不義、
更には、パワハラ、セクハラと、民衆が眉をひそめたニュースですら、直ぐに
忘れ去られて行くのが問題です。

この傾向は、日本人の生活の中で生まれた、何かトラブルが有っても、水に流せば
後は何もなかったかのように考える、物事を前に進める為の方法です。
しかし、この考えの中で、何か悪い事をしても、時が経てば、人々が忘れれば大丈夫
とする方に解釈してしまう人達が居る事が、後に様々な問題を生んでしまう原因でも有り
日本が、近隣諸国から嫌われる理由でも有るのです。

日本は、昔から天災が多く、人々の力ではどうしようもない自然の力に苦しめられて
来ました。
年間を通して幾度となく自然災害に見舞われると、そのたびごとに落ち込んでいては
生きていけせん。その為、どんなに酷い被害に見舞われても、直ぐに先の事を考える
前向きな考え方が生れました。
食料を得られるときには出来るだけ多く確保して、例え、災害で生活必需品を失っても
落ち込むことなく前に進む様に成ったのです。

この災害列島で生きる事で、日本人は、熱しやすく冷めやすいと言う性格に成った
とも言われますが、何かトラブルを起こしても、しばらくすれば許されるとか
前に進むために、水に流してもらえると言った、困った考えを生む事にも成りました。

時のリーダーと民間団体との黒い疑惑が取り立たされ、誰もがグレーゾーンから
ブラックゾーンを確信していたのに、今では、多くの日本国民は、地震やサッカーに
興味を映しています。
この時とばかりに、息を吹き返した当事者たちですが、だからと言って、疑惑が消え
罪が無くなったとは言えないのです。
しかしながら、このパターンは、戦後、幾度となく繰り返されてきました。
政治家であり企業で有り、日本を導く人達の欲望は、自分達の利益をより増すために
日本の自然を破壊し、国民を利用し傷つけて来ました。

欲望のままに日本中を巻き込んだ高度成長期は、いまだに、多くの負の遺産を生み、
豊かに幸せに成ったはずの日本人を疲弊させ、多くの負担を強いる様になりました。
今では、国の力ではとても国民生活を豊かにする事は出来ず、ただ、企業の力を借り
より、消費経済を推し進めようとしますが、その事で、国民が幸せに成るとする
余りにも単純で自分達の事しか考えない政策は、国民の生活を豊かにするどころか
ますます、生きる為の負担を増す事と成っています。

企業が推し進める豊かな暮らしをする為には、消費するための費用を捻出する事で
精一杯の国民が多く、一部の人達を豊かにする事は有っても、多くの国民を
豊かにするには程遠い状態です。
マスコミを利用した企業戦術に則た豊かな生活を行える人は良いのですが、
多くの人達は、ただ散財するだけで、個人的な幸せを得る事はとても難しいのです。


今や、豊かな人はより豊かに、貧しい人はより貧しくと言った、両極端の生活が
国民を苦しめます。
一段と格差が広がった階級社会は、お互いに合い入れる事は無く、自由平等と言っても
誰もが比較をする事で生きていて、社会的な地位でしか、人の価値を見出せません。
経済社会で育つ事で、事の善悪よりも、経済的な良し悪しで人を判断する事で、
対人的なトラブルは問題とされず、経済的地位の高いものが、常に主導権を握り
社会を動かしていく事に、多くの人達は憤りと諦めを感じているのです。


正々堂々と、己の実力の身で戦うスポーツの祭典であるオリンピックでさえ、
どんな手を使っても、勝利すればよいと言う考えが広がる事で、オリンピックは
正に商業スポーツの為に有ると言っても過言では有りません。
オリンピックを主宰する国は、オリンピックに依り国内経済を安定させようとし
多くの企業は、ここぞとばかりに、莫大なる利益を目論むために、世界的戦術を図ります。

多くの国民にとって、素晴らしいスポーツの祭典は、戦争とは真逆のものであると
その開催を心から喜ぶのですが、今や、その名誉ある大会に出場する選手ですら
その背後に、膨大なる利益を得んとする大企業が蠢いていて、選手を広告塔として
業績を上げようとする為、スポーツマンシップに則てと言う、クーベルタン男爵の
思いとは裏腹に、ドーピングに手を染めてしまう事が多くなっているのです

名誉の為に金メダルを目指すと言うのは建前の世界と成りつつあり、メダルを獲得すれば
多くのお金を手に入れる事が出来る為、スポーツの世界は、最早、賞金獲得レースの様に
人々の欲望を叶える錬金術の様に成っているのです。
正々堂々と、自分の実力のみで戦うと言うのは理想の世界で有って、様々な企業の力を借り
実力では成し得ない成績を得る選手も増えているのです。

ルールに則て、勝敗を決めるとは言うものの、その陰には、莫大なるお金が動いている事が多く
スポーツは、最早、市場経済の一角を占める、巨大な営利事業と成っているのです。
その為、本当に素晴らしい才能と実力が有ったとしても、強大なバックを持たなければ、
日頃の練習も、遠征も、更には、日常生活を安定させる事すらできないのです。

この事は、あらゆるメディアの世界と共通と言え、視聴者が楽しみにするテレビ番組が
出演者の思いと裏腹に、企業の思惑で内容を変えられたり、視聴率の上下で、簡単に
番組の長さが決められたりと、素晴らしい番組を期待する視聴者達の思いとは裏腹に
全く面白くもない番組が多くなってしまっています。

若者のテレビ離れを懸念して、出来るだけ興味を引く番組を作ったり、視聴者の不安を利用する
健康番組を作ったりと、余りにもスポンサー中心の番組が多くなり、テレビ番組を好んで
見る人達にも飽きられている現状が有ります。
当然、オリンピックや世界選手権と言った世界的なスポーツの祭典に於いても同じ事が言え
企業の広告塔と成った選手が、何を目的に戦っているかと考えると、多くの方がスポーツを
心から応援できなくなってしまうのです。

今や、日本に於いても世界に於いても、国民が行うあらゆるものを自分達の利益の対象と
考える一部の富裕層が人々の生活を苦しめる結果と成っています。
世界経済も日本経済も、一部の富裕層が握っているのが現実であり、その利益が、世界中に
還元されるならばまだしも、より豊かになるべく、多くの人々から利益を搾取するという
一方的な世の中の流れが様々な問題を起こしていると言えるのです。

過去100年程の間に起こった世界中の戦争も、その原因の多くは、世界の列強が、より利益を
得ようとしての侵略戦争が始まりで有ったのです。
一部の人達の我欲だけの暴挙が、多くの人を苦しめ、更には、その悲しみや怒りや憤りが
更なる争いを生み、いつまで経っても世界中からテロや戦争が無くならないのです。
しかも、この悲しみの輪廻を、更に繰り返そうとしているのが、世界を動かす先進国で有り
世界平和を目指すと言いながら、自国の利益を優先する、現代社会の現実を見るのです。

この世界の体質は、日本の体質で有り、日本人の多くが、決して心から豊かに成れない理由です。
豊かな消費経済という餌を与えられながら、その一方、膨大なる私財を失っていくのが日本人です。
働いただけ吸い取られ、与えられた消費物資に囲まれ、ただ、死ぬまで、生活必需品として
消費物質を買い求める事が幸せと思わされている日本人は、やはり、不幸と言えるのです。

他人と比較してより豊かな生活を目指す様に仕組まれ、豊かな人間関係を築く事が出来ず、
人々は常に心がバラバラで、経済的に豊かな方々から与えられる消費物質を買い求める
口を開いて常に餌を求める池の鯉と同じです。
そんな社会を否定する人が出てこない様に法令を定め、出来るだけ国民を孤立した状態に置けば
後は、個人的に利益を吸い上げて行けば、リーダー達の生活は安定するのです。

これが、資本主義経済を目指す富裕層の考えで有り、より豊かな生活を目指し、自分達の生活を
潤してくれる国民は、単なる消費者の階級に留めておくことが重要となるのです。
今や、日本も世界も、一部の富裕層と大多数の日々の暮らしで精一杯の人々に分けられているのです。
そして、それは、差別をもって、常に自分達の世界を守るべく存在するように出来ているのです。

頑張れば、努力すれば夢が叶うと言うのは、殆どの人にとっては不可能と言え、同じ階層の人の中では
叶えられても、底辺の人達が、トップになる事は非常に難しく、一部の人が豊かであると言う事は
利益の分散に成らず、より豊かさを得やすい事から、その形態を堅持しようとするのです。

豊かな人達は、貧しい人達が豊かに成る事を望みません。
例え、選挙により、一般の人から選ばれても、その豊かさに簡単に心変わりし、豊かな人達とのみ
心を通わせるのが、日本における政界の問題を生む原因と言えるのです。
彼らは、選挙で当選する事を、豊かな人達の仲間と成る事の登竜門と考えて居ます。
その為、選挙の時の国民に対する熱意は、当選すれば、豊かな人達へと向かってしまうのです。
この事は、世界中の傾向と言え、貧しい人達は、如何に豊かな人達の仲間入りするかという事が
生涯の夢となるのです。

国民を、世界の人々を動かせる人は、その力を自分の欲望の為に使う事に依って
単なる独裁者の一人に成ってしまうだけなのです。
つまり、人としての価値が失われ、多くの人から憎まれ嫌われる存在と成ってしまうのです。
国民の代表となった人がいつの間にか、戦いを挑んだ人達の仲間になる事は珍しく無く
自分の生活を豊かにするには、国民側に就くより、富裕層に就いた方が楽だからです。
つまり、口先では立派な事を言っても、どんな高い地位についても、本性が我欲にある人は
国民の代表とはなり得ないのです。
庶民の気持ちを背負ってリーダーと成って、その後も国民に常に顔を向けている人は、
世界でも珍しく、そんな人が滅多に出てこない事から、地球上の多くの人々は、
常に苦しみや悲しみ、怒りや諦めから逃れられないのです。

 

 

 

 

 

 

 


政治利用されたオリンピックと選手達

2018-03-02 16:58:31 | オリンピック

スポーツは、本来、戦う者演ずる者達のお互いの運動機能を競うものであり
その競技までの過程において、外部からの思惑や経済的利益目的が働いては
なりません。
選手同士の戦いは、あくまで裁量、力量で行われるべきであり、そこに
外部からの力が働いて、本来の競技の意味が無くなる事は、スポーツの範疇を
超えて、単なる利益者たちの道具に過ぎません。

しかしながら、近年のスポーツは、様々なスポーツに於ける、選手たちの
純粋たる戦いというより、選手を利用した企業の戦いと言えます。
より知名度の高い選手を広告塔として利用し、選手の活躍は、スポンサーの
膨大なる利益となって、益々、商業スポーツとしての意味合いが
強くなっています。

世界中で行われるスポーツは、商業ビジネスの一環として開催される事が
当たり前の事と成って、選手たちも、活躍する事で得られる莫大なる報酬を
自らの目的としている場合が多くなっています。
スポーツの祭典には、莫大なるお金が動く事も有って、企業も選手も
如何に大きな利益を得るかが目的と成って、時には手段を選ばず
スポーツマン精神から逸脱した行為を行う事も少なくありません。

どのスポーツ大会でも問題となるドーピングは、選手が、より良い成績を
得たいが為と言うより、良い成績を得る事で、選手もスポンサー企業も
潤うと言う事から、いつまで経っても無くならないのです。
確かに、近年のスポーツ競技には、賞金や報奨金の高騰化に伴う
醜い争いが問題と成っていますが、選手自体も、勝利する為にも
膨大なる資金を用意しなければならず、スポーツをするにも
賞金を得るまで成長するにも、莫大なるお金が必要と言えるのです。

この事は、誰もが親しめるスポーツが、夢を抱こうも、実現できるのは
ほんの一部の人でしか許されないと言う事を示しているのです。
今回のオリンピックに於いても、戦われた競技の多くをを日本国民が
行っているとは言えず、ほんの一部の人達の中から代表者が
選ばれていると言う事実も有るのです。

例え日本代表と言っても名ばかりで、実際は、マスコミで取り上げ
テレビで紹介されない限り、日本人の殆どは知らないと言う競技が
殆どと言えるのです。
それでも、連日日本代表の活躍を、声も高らかに放映するのは
彼らを日本人の代表とする事に依って、巨額の利益を得る方々が
バックに存在しているからと言えるのです。

私達国民が驚喜する選手であれば、当然、広告塔として利用している
企業の利益は莫大なるものと言えるのです。
単に、テレビコマーシャルで紹介するよりも遥かに大きな利益が得られ
この事は、現代ビジネスが、如何にメディアを利用して、より多くの人々に
訴える事が出来るかで、企業の未来が決まると言っても良いのです。

しかしながら、最近、日本のスポーツ界は、様々な問題が噴出しています。
神技と言われる相撲も、醜い人間関係が暴露され、日本を代表する
国民栄誉賞を得る程の選手を生んできたレスリングの世界も、何やら
人間の欲と業が渦巻いている様です。
昨年から、政界トップの疑惑としていまだに燻っている贈収賄問題と
日本を代表する人々の醜態が目に付きます。

これらの事は、日本社会が如何に人間の欲と醜い争いで作られているか
と言う事を示していて、多くの方を落胆させたり怒らせたりするのですが、
これ程次々に膿が出てくると言うのは、隠された事実が、世間の人達に
知られるようになったとして、喜んで良い事でも有るのです。
戦後社会から高度成長期も、今以上に多くの問題が有ったにも関わらす、
隠され続けて来ただけであって、知らないのは一般国民だけだったのです。

豊洲市場の下にいまだに存在する隠された日本の恥は、負の遺産というより
日本人の醜い心と言えるのです。
もし、新市場が作られなければ、永久に封印されていたと思われるのに、
パンドラの箱を開けてしまったのです。
しかし、東京湾に隠されたこの手の汚染場所は、殆どの干拓地に存在していて
今はやりのウォーターフロントは、その上に有ると言っても良いのです。

見えなければ、欲望のままに利益を求めて良いとする考えが、日本人が誇る
高度成長を作ったとも言え、典型的な隠された場所である東京湾の海底は
いまだに、生き物達が生息できな地獄の様な毒物や化学薬品がヘドロと成って
積載している場所がいたる所に有ります。
外見的に美しい東京湾岸の風景は、高度成長で発展した日本の表の顔と言えますが、
その陰で、どれだけ多くの自然が破壊され、多くの人々が傷ついたか、いまだ
その実態は隠し続けられているのです。

マスコミは、常に華やかな部分しか国民に知らせません。
何故なら、メディアの実権を握っているのは、高度成長を作って来た企業だからです。
国民に、様々な情報を伝え、情報を開示して行くのがメディアの役割なのですが、
企業利益に沿った企画運営をしている事で、あらゆる番組が、益々つまらなくなり
多くの若い視聴者を失っている事を、真剣に考えなければなりません。

一年を通して作られていたドラマが、半年、三か月と短くなって、内容が
著しく短編化される事で、どんなに素晴らしい俳優を使っても、作品の価値が
一向に上がりません。
企業によって、寸断された作品と、大量のコマーシャルスペースが、
視聴者達の興味を更に失わせている事実を、どの様に考えて居るのか、
収益の為に、唯言い成りに成っている番組構成は、視聴者にとって、
余りにもつまらなく、その陰で利益をむさぼる方々の存在を感じてしまいます。

それにしても、今回のオリンピックは、選手にとって最悪と言っても良いでしょう。
明らかに、政治的配慮が有り、政治的に利用されたオリンピックと言えます。
もちろん企業が膨大なる利益を目論むスポーツ祭典であった事は明らかですが、
政治的に次の国家間に於ける政治的バランスを有利に進める為の政策の1つとして
開催された事は明白です。

お互いに相手の出方を伺う為の手札であり、次なる駆け引きの道具に過ぎません。
世界に平和のアピールを強調し、如何に、近代的で民主的な国で在るかを示し、
お互いに敵の国民を受け入れる事で、度量の大きさを訴え、自分達の正当性を
世界の祭典を使ってアピールしたに過ぎません。
しかし、その実態は、お互いに、ミサイルの標的を相手に向けた、憎しみと
欲望が渦巻いているのです。

この事は、日本とてさほど変わるものでは無く、次なる一手に、国を守るだけの
軍事力も経済力も無いだけの事です。
オリンピックの会場で、笑顔で握手しながらも、反対の手に鋭利なナイフを持ち
背中に隠し持っている様な大会でした。
当然、自由と平和の象徴には程遠い祭典であり、選手の活躍とは裏腹に、
次への利益を求める、戦争商人たちの裏の舞台でも有ったのです。

では、戦った選手たちはどうであったかと言えば、勝った者も負けた者も
スポーツ選手としての環境は決して良いものでは無いのです。
一時的にマスコミに大きく取り上げられても、半月もしない内には、
それ以上の利益が得られない物として、簡単に無視されるのが常と言えます。
多くの国民と関わらないスポーツは、またもや、狭い地域の一部の人達の
マイナーな種目となって、人々から忘れられるのです。

彼らが浮かばれるのは、次期大会で、国内外で知名度を増す事しか有りません。
大きな大会で勝利し、マスコミに取り上げられれば、その知名度を利用する
スポンサーが付いてくれます。
上手く行けば、練習する費用も、遠征費も、企業によって負担してもらえます。
しかし、殆どの選手は、自分の所属する企業での一従業員として得られる給料で
自分の選手としてのモチベーションを維持して行かなければなりません。

つまり、知名度が上がらなければ、どんなに能力が有っても、生活を豊かに
練習量を豊富にすることは出来ないのです。
日本で行われる多くのスポーツイベントは、スポーツで生計を立てると言うより
単なる趣味の段階で満足をしなければならない程苦しい選手の懐事情で
支えられているのです。

日本におけるオリンピック出場の権利は、それまでの大会に良い成績を上げる以上に
スポーツを続ける為の経済的条件を生み続ける事が大切なのです。
その為、素晴らしい才能の有る選手であっても、生活環境を援助されなければ
日本の代表まで育たたない現実が問題なのです。

今や、日本社会は、国民も、国も、一体何に向かって生きているのかが解りません。
常に目新しい興味の引く事に飛びつくだけで、本当に将来を見据えた
長く時間を掛けて育てて行く様な文化が失われているのです。
刹那的な突発的な興味で日本人の関心を引くだけで、日本人の心を長く引きつける
魅力ある社会が消え始めているのです。

次々に新しい商品を生み出して消費を継続させる消費経済社会は、有り余るお金が有れば
いつまでも継続する事が出来ます。
しかし、そんな社会が、如何につまらなく、実を成さないか、日本人は、経済成長から
バブル崩壊までの間に学んだはずです。

素晴らしいオリンピックが、一か月もしない内に、日本国民の心から消え去り、
選手への関心も、メダルの数だけしか有りません。
その後の彼らの生活には全く関心を示さないと言うより、ニュースソースとして
マスコミは全く取り上げなくなります。

国民の目が行き届かなく成れば、選手たちの環境も良くはなりません。
選手を利用していた人達は、益々、我欲を発揮し、選手を自らの道具として使おうとします。
様々な対人的な問題が、人の目が届かない所で起こって来るのです。
この事は、決して、スポーツの世界だけでなく、一般の会社社会であっても同じ事が有り
大衆の目を気にしなくなった狭い世界では、様々なハラスメントが横行し、
差別、暴力、破壊と、人々の関係は、醜いものとなって行くのです。

この流れは、対人的な場合だけでなく、国家の体質として生み出されて行くものであり、
世界の目が行き届かない国では、独裁者が出現しやすいのです。
私達の人間の世界は、どんなに進化しても、お互いに関わり合い、相互理解の元
其々の立場を認識し、違いを理解しながら成長して行かなければなりません。

個人レベルであっても世界レベルであっても、人間が幸せに、平和に生きて行く為には
常に、相手の事に関心を持ち、お互いに助け合い、認め合って初めて、
人や国の存在価値が出てくると言えるのです。
今や、個人も国家も、エゴイズムから来る一方的な考え方や思い込みで
お互いに傷つけあっているのです。
相手を、自分の思う様に従わせる事は、お互いに苦しむ事は有っても、幸せとなる事は
決してないのです。
人間が幸せに生きて行くには、太古の昔から、相手と自分の違いを認める事であり、
お互いに相手の幸せを考える事によって成り立つことを忘れてはならないのです。



 


オリンピックで勝つ事人生で勝つ事

2018-02-21 16:09:27 | オリンピック

ピョンチャンオリンピックのスターが、毎日生まれています。
世界中から素晴らしいパフォーマンスをする選手が登場しますが、
やはり、日本人の活躍に目が行くのは、仕方がない事と言えますが、
メダルに輝く選手だけでなく、上手く演じられなかったり、勝利を
得られなかった選手であっても、其々の試合の臨む思いが感じられて
思わず見入ってしまいます。

人間は、生物学的に言えば、極めて不完全であり、弱い生き物です。
運動能力は、同じ哺乳類の中でも、あまり優秀とは言い難く、
例え、100メートルを9秒台で走るボルト選手であっても、
近所の野良猫の方がスピードに優る事も多いのです。
しかしながら、人類の最大の武器は、やはり、断トツに進化した
頭脳と言えます。
様々な弱点を、有り余る知能により補うだけでなく、更に進化させ
地球上のあらゆる生き物の頂点に立つ事が出来ました。


確かに、オリンピックに出場する選手は凄いとは言え、多くの動物の
運動能力からしたら、とても比較に成らない程低いとも言えますが、
同じ人類の中で秀でた人達は、単に強さだけでなく、多くの人々を
感動させる、人間の無限の力を感じさせるものが有ります。
その力は、人々に人間の素晴らしさを教え、人々に勇気と力を与えます。

とは言え、私たち人類は、余りにも知能が発達した故、様々な苦しみを
感じる力も大きくなりました。
多くの喜びを得る事が出来るだけでなく、得られない苦悩を深く感じる事で
自分と人を比較したり、自分自身の生き方に苦しんだりする様に成ったのです。
特に、メディアが発達し、世界中の人々の生活を知る事と成ると、ますます
自分と他人との差を感じ、自分の置かれた環境を悔いたり悲しんだりします。

他人との比較で自分自身の存在価値を感じやすい私達は、他人の生き方や生活に
一喜一憂しやすく、自分自身の目標を失いやすいものです。
正しいと思っていたことが、簡単に覆されたり、自信を持って行った事が
良い結果をもたらさなかったりすると、自身の能力に不信感を抱いたり、
自分自身を卑下したりする事も有ります。

つまり、多くの人が、自分より上と思える人達を目標としながらも
その差を感じた時、自分自身の生き方をも否定したくなるほど、落ち込んだり
悲しんだりすることが少なくないのです。
特に、自由主義社会に於いては、経済的に裕福であり、地位や財産を多く有する人が
多くの人達の目標と成り易く、同じような境遇となる事を目指す人が多いのです。

しかしながら、誰もが、夢を勝ち得る事は出来ず、むしろ、苦渋を噛みしめる結果と
成ってしまう事の方が多いのです。
人生は、成功者と言うより、断然、失敗をしている人の方が多いのです。
何をもって成功と感じるかは人其々かも知れませんが、少なくとも、便利で豊かな
生活を求める現代社会に在って、他人よりも社会的に豊かな生活が出来る事を
目的としている人が断然多いと言えるのです。

その為、仕事だけでなく、あらゆる分野に於いて競争が生れ、勝ち組負け組が
生まれる事と成るのです。
スポーツに於いて、人々が最も注目をするのは、やはり、オリンピックと言えるでしょう。
世界中の国々から選ばれた精鋭が、究極のパフォーマンスで戦い、私達視聴者に
大きな感動をもたらすのです。

しかし、私達は、登場する選手にしか注目しませんが、彼ら彼女らのバックには、
その道を目指した何千何万という多くの選手がいるのです。
オリンピックに出場できなかった人は、ある意味、敗者といえるのです。
勝ち負けという考えからすると、敗者は、マイナスイメージが強い様に思えますが、
勝者は、常に勝ち続けたと言うのではなく、長い選手生活の間に、様々な場で、
負ける事の悔しさ悲しさを味わって来ているのです。

選手生活が長かったり、小さい頃からずっと同じ種目で戦ってくれば、
辛い経験も数知れず有るのです。
競技に於ける惨敗だけでなく、日常的にも様々なトラブルを背負っていたり、
怪我をして競技選手として致命的な試練を与えられた選手も多いのです。
そんな中で、様々な条件を満たし、更には、運にも助けられ、晴れの舞台に上がるのは
ほんの一部の限られた人と成るのです。

私達オリンピックを観戦する者達は、そんな彼らの、それまでの人生に、自分達の
人生をも当てはめて観戦する事が多いのです。
誰もが思い通りに成らない人生を背負って生きていると言っても良いでしょう。
その重みを感じながら、晴れの舞台で表彰台に上がる選手は、自分達の姿でもあり
頑張った先にある勝利を自らが得た様に感動するのです。

人は、未完成で、未熟であり、一生学び続けなければ進歩しないと言われます。
この事は、個人の問題でも有りますが、生きる為に、多くの人と関わって行く事から
結論が出ないとも言えるのです。
生きて行くと言う事は、その都度環境が変わって行き、自分と関わる人々が変わります。
昨日の正解は、今日の正解では無いのです。

日々、周囲の人達との関わり合いを大切にして、その都度、一番最適な方法で関わり
より幸せな時を目指さなければなりません。
例え、オリンピックの勝者となったとしても、それは、過去の金字塔に過ぎません。
時は止まらず、人生は、どんどん過ぎて行くのです。
4年後には、また新たな勝者が生れます。

私達の人生も、例え負け続けたとしても、次の戦いの為に、新たなるチャレンジをする事が
正に生きて行く証ともいえるのです。
時に、思いがけない勝利を得る時も有りますが、殆どの場合、思い通りになる事はなく
心を痛めることも多いのです。
しかし、どんな結果になろうと、それは、自分自身の生きざまであり、生きた証なのです。

他人は、結果に対し賛美を送ったり、批判したりしたとしても、それは、その時の自分への
社会的な評価であって、他人の思いに過ぎません。
大切な事は、いい時も思い通りに成らない時も、その結果は、自分の生きて来た結果であり
次へ続く為の大切な記憶なのです。

人は、いつも幸せな人生であることを望みます。
何故か、それは、私達は、いつも幸せをかみしめる事が出来ないのが普通だからです。
自分の思いと他人の思いが一緒になる事は稀な事の様に、自分が幸せと思っても、周囲が
不幸せでは、本当に幸せを感じないのです。
つまり、多くの人達は、他人も幸せと感じる様な幸せを求めているから苦しむのです。
オリンピックの勝者の様に、多くの人達が褒めたたえる事は、人生に於いて稀なのです。

人類は賢い様で、実際は、多くの失敗を重ねます。いや、むしろ失敗ばかりと言えます。
もし失敗しなければ、争いは起こらないのです。お互いが理解しえない事を行うから
諍いを呼び、戦争も生まれるのです。
しかし、人類は、失敗が有ったからこそ、地球を支配できる程進歩できたと言えるのです。
様々な人類の功績は、多くの失敗の積み重ねから生まれているのです。

私達は、日頃、何も出来ないと言う呪縛に囚われがちです。
競争社会に在って、自分の置かれた環境からより豊かな環境に移る事に苦労します。
何をしても上手く行かなかったり、思い通りに成らない毎日に頭を悩ます事が多いです。
そんな時、自分の無能さを感じたり、自分自身の存在価値を疑ったりしがちです。
比較社会に育っている事から、他人の羨む生活をしていても、心の中は満たされず
自分自身の無力さに、自らを追い詰めてしまう方も居ます。

人間には、自分自身を満足させたり、納得させる場は無いと言っても良いのです。
例え目標を立ててその通り達成したとしても、その瞬間に、新たなる目標や問題が生れ
片時も心を癒す事が出来ないのです。
では、どうやって、心を休め、満足させたらいいのでしょう。
誰もが感ずる、永遠の課題とも言えるのですが、この満足は、個人の力では得られないのです。
自分自身がどんなに満足できると思える環境を作り上げても、自分の行いを自分で評価する事は
非常に難しいのです。

この事は、人類が、数百万年に渡って、集団で生活して来た事に依り、自分自身の評価は
常に集団の評価が優先して来たのです。
現代に於いても、業績や成績は、社会や人々からの評価なのです。
つまり、自分の満足感は、他人からの評価が有ってこそ成り立つと言えるのです。
他人からの評価が多く得られるには、多くの人達の考えが、共通して自らの価値を認める方向に
進まなければならず、人々は、その為に人生の努力を重ねているとも言えるのです。

この事は、自己評価とは全く違っていて、自分では素晴らしいと思っていても、社会的に
否定されれば、何の価値も生まれて来ないのです。
中でも、誰もが長い人生で行って来た努力や周囲からの栄誉は、社会的に何の評価も無く、
メディアで取り上げられない限り、単に、個人的な出来事に過ぎないのです。
もちろん、様々な努力にもかかわらず失敗したことも、多くの人にとってはどうでもよく
多くの場合、話題にすらなる事は無いのです。

私達は、個人的に、様々な努力を重ね、つらい経験をして苦しんだり悲しんだりしても
世の中の人々には、何の影響もなく、例え、時たま、何か栄誉を得たり勝者となっても
殆ど知られることも無いのです。
自分にとって楽しい事も苦しい事も、社会的には、何の影響もないのです。

と言う事は、社会の様々な環境で生きる人々の生活や考え方は、自分の生活と
比較するまでも無く、まして、羨ましく思う事も無いのです。
大切な事は、自分が体験して来た全ての事は、自分にとって正しい事であり、
自分自身を育てる最高の経験なのです。
勝った事も負けた事も、どちらも自分にとって最高の人生の栄養と成るのです。

過去でどんな経験をしようと、自分の道を自分の考えで進む事が一番大切で有り
人生は、他人の生活と比較して作るものでは無いのです。
オリンピックで勝った人も負けた人も、どちらも人生における同じ価値のメダルを
得たと言えるのです。
様々な体験を通して、全てを自分の宝として認め更なる歩みを止めない事が、
人間として納得できる生き方が出来るのではと私は思います

 

 


オリンピックに対する思惑

2018-02-10 17:21:43 | オリンピック

いよいよ冬季オリンピックが始まって、氷点下の寒さの中
各会場では熱戦が繰り広げられています。
国の威信をかけたこの祭典は、開催国に選ばれる難しさだけでなく
如何に、世界に誇れる大会に出来るかが問われます。
これまで、夏の大会冬の大会共に、開催国は、自国の力を
世界に知らしめ、近代国家としての知名度を高めるために
国をあげて、膨大なる予算を組み、多くの施設を作りました。
それ以前の大会に優る為に、その規模は、毎回巨大化し、
今では、国の財政に関わる程の巨大事業と成りました。

オリンピックは、選手達の憧れであるだけでなく、
開催に当たって巨大な資本が動き、オリンピックが
国の未来を変える事も珍しくありません。
前回の東京オリンピックは、戦後の高度成長の起爆剤
とも成り、日本社会の高度成長に大きく貢献したのですが、
近年のオリンピックは、必ずしも、開催する事で
国内産業が発展するとは言えず、世界的な不況も有って
オリンピック開催後にかえって国内経済を苦しめる結果と
成ってしまった国も増えて来ました。


しかしながら、普段は、敵対している国や宗教の違いで
交流が無い国が、スポーツを通じてお互いの気持ちを
確かめ合う事は、オリンピック憲章を見るまでも無く
素晴らしい祭典と言えます。
互いに同じ土俵で、正々堂々戦う事は、勝っても負けても
人々の心に勇気と未来を与えと思われます。

とは言うものの、オリンピックが、純粋なるスポーツの
祭典とは言えないのも事実です。
開催に当たって、多くの企業の力が無ければ成り立たず、
様々な施設も選手の支援も、大手企業の力なくしては
一歩も進まないのが事実です。
その為、どの競技会も、スポンサーのコマーシャルの場であり
企業の為の大会であるとも言えます。
開催者も選手も、企業の力を借りている事から、企業間の
思惑も大きく、時に、選手は、企業の広告塔の役目をする事が
出場する大切な条件となる事も有るのです。

良い成績は選手の誇りであるだけでなく、選手が身に付けた
スポーツグッズを提供した企業の素晴らしい宣伝と成り、
オリンピックが多くの企業の膨大なる収益のカギを握って
いるともいえるのです。
また、選手も、名誉だけでなく、勝つことでスポンサーからの
大きな支援を得る事が出来、近年では、オリンピックに出る事で
社会的な地位を確保する事を目的とする選手も多いのです。
その為、オリンピックだけでなく世界選手権と言った
大きなスポーツイベントは、選手たちにとって生活の糧であり
未来への希望ともいえるのです。

しかしながら、競技成績の裏に莫大なるお金が動いているとなると
人の欲は、純粋なるスポーツ精神を見失い、様々な手段を使って
戦いを制しようとするものです。
代表的な物としては、毎回問題になるドーピングです。
年々新たな薬が開発され、検査官とイタチごっこの様な状態で
選手の潔白が疑わしい場合が出てきますが、それ程までして
成績を上げたいとする裏には、勝った時の莫大なる報奨金が
保障されるだけでなく、その後の人生を変えてしまうほどの
社会的利益が得られるからと言えます。

スポーツの本来の目的を見失い、選手も企業も、オリンピックが
莫大なる収益を生む事を念頭に置いて参加している事が、
近代オリンピックの最大の問題と言えます。
選手が、ドーピングをせざるを得ないその背景には
選手だけでなく企業の思惑もあって、オリンピックでの勝ち負けが
単に、スポーツの勝敗では済まない、スポーツの祭典としては
似つかわしくない人間の欲望の大会であると言えるのです。

また、商業利益として利用されるだけでなく、オリンピックは
政治的に利用される事もあり、過去の大会に於いても、
国の威信を単に経済的な力を示すだけでなく、軍事的な意味合いで
利用された事も有りました。
ヒトラーが、自分自身の権力を世界中に見せつける為に
オリンピックを利用した事は有名であり、今回の冬季オリンピックも
開催に当たっては、政治的思惑が多分に感じられ、開催後の
東アジアの緊張が如何なる方向に変わって行くのか、予断を許しません。

とは言え、オリンピックに参加する多くの選手、そしてそれを応援する
世界中の人々は、この大会を通じて、世界平和を心から願うものです。
例え、その陰に、膨大なる資金が動き、多くの金を目的とした商人が
蠢いている事を知っていても、やはり、この大会の為に、何年も
心と身体を鍛え上げて来た選手は美しく感動的です。
人類の可能性を感じさせ、人々の心に有る豊かな感情を垣間見るとで
多くの感動と勇気を得られるのです。

先の見えない日常に在って、未来に光を見出す事は、誰にとっても
生きる大きな力と成ります。
現実の世界では、一発触発の状態にある国同士であっても
同じ人間として、スポーツとして、心と身体を戦わせることが、
これ程にも美しいと感じるだけでも、絶望的な現実に未来を
見いだせるかもしれません。

今や、世界は、経済戦争の中に在り、如何に豊かな生活を勝ち得るか
地球の資源が次第に枯渇して行く中で戦っていると言えます。
現実に戦火を交えている国や地域もあり、世界中のどこかで、
悲惨な争いが繰り返されています。
基本的な人権と生きる為の食が満たされない国が少なくありません。
一方的な搾取により、多くの国民が飢餓に苦しんでいる場合も有り、
人が人を苦しめ殺める事が如何に醜く未来を失うものであるか
争いの場には、幸せも喜びも無く、絶望のみが広がっています。

私たち人類は、生きていく上で、命の価値を見出すだけでなく
いとも容易く、人の命を奪ってしまいます。
この両極端な性格を持つ人類が、どちらに傾くかで、人々の
幸せが決まります。
現在、世界が向かっているのは、多くの人々の命を奪う方向です。
人々の心を苦しめる方向です。
オリンピックで、誰もが平和を望む方向を見出す一方、
軍事力を強化し、より殺傷力を求める世界が有ります。
この二つが共存しているのが現代社会と言えます。

オリンピックが、全ての人に幸せを与える事を目的とし
戦争は、一方的な欲望を武力をもって果たそうとするものです。
しかし、現在行われているオリンピックは、この両面が
深く関わり合っているとも言えます。
本来のオリンピックの目的が、世界の人々に幸せな未来を
求めさせるのか、はたまた、自分の事だけしか考えられない
独裁者が暗躍する地獄の未来を選択するか、オリンピック後の
世界の動向には目を離せません。

 



 

 

 

 

 

 


東京オリンピックの中身

2016-08-16 14:24:18 | オリンピック

リオオリンピックもいよいよ海を使った競技が始まり
トライアスロンで力強く泳ぐ選手たちの姿が美しく
海の上に白波を立てています。

所で、この海域は、リオの衛生局がサジを投げてから
綺麗になったのでしょうか。
ゴミが流れているのは当たり前、時には死体が流れ
人体に危険なバクテリアが存在している事が明らかになって
地元の人すら泳ぐことをしなくなったと言うのに、
今、世界のスイマーを集め平気で泳がせているとは
いかにおおらかなブラジル国民とはいえ、そこまで、
平気とは信じられない事です。

しかし、この問題は、決して他山の石ではないのです。
4年後の東京オリンピックのトライアスロンやボートの
会場は東京湾なのです。
その事を見越して、昨年、東京湾奥の葛西臨海公園の前の
人口の海岸を、海水浴場として世界に発表しました。
この事は、明らかに、4年後の事を見据えた、東京湾が
いかに綺麗であるかと言うパフォーマンスに過ぎません。

遠浅に作られた砂浜には、大きなゴミもなく、水底に続く
砂の文様は、いかにも美しい海で有るかの様に思えます。
しかし、ここで泳ぐにあたっての注意事項に、出来るだけ
口を付けたりせず、海水を口に入れない様にとの但し書きが
有るのです。
なぜなら、泳ぐくらいなら健康には影響はないとは言え、
そこに流れている水は、臨海公園の左右を挟む、都内を流れる
河川の川が流れ込んでいるからです。

この河川には、都民の生活汚水を科学的に浄化した水が流され

処理されているとはいえ、完全に綺麗とは言えない水が
常に海水浴場に流れ込んでいるのです。

海水中の酸素量は、生物が住むには大丈夫とは言え、

今の浄化技術では取り除けない科学薬品や近年問題の人体から
排出されたホルモンが取り除かれないで流失していて、
湾内の海洋生物の遺伝子に影響を与えている事実があります。

確かに、近年、東京湾は外見的に綺麗になりましたが、

そこに住む生物たちの種類も量も確実に減っているのが実情です。
高度成長期のゴミや油が大量に流れる汚れた海ではありませんが、
その水質は殆ど変わっていないのが現実です。

世界から多くの人々を迎え入れ、おもてなし、として私達の気持ちを

伝えたとしても、外見的には美しくとも、実際の目に見えない所は
汚れていると言うのでは、東京オリンピックもリオと変わらず、
世界の人々の気持ちを裏切ることになるのです。

戦後、私たち日本人は、一日も早く先進国に追い付こうと

経済力を高め、あらゆるものを手に入れてきました。
世界でも一番便利な国とも言われるようになったのですが、
その事に依り、日本の太古の昔から守られてきた美しい自然が
壊され汚され、今や、外見だけの外面だけ美しい国となってしまいました。

日本の美しい海岸線は、ほとんどがコンクリートの護岸で仕切られ

海へ豊かな栄養を運ぶ川は、護岸工事によって、人間の生活のみに
利用されるようになって、海の生物はますます減少と絶滅の一途を
たどっています。

本当の美しい日本は、いったいどこに行ったのでしょう。

私たちは、数千年に渡って、大自然を敬い、大自然と共に生きて来ました。
自然を利用し破壊する経済優先の生き方は、決して私たち日本人の多くが
望む生き方とは言えないのです。

今や、世界の国々は、経済的豊かさや便利さを日本の特徴と思っています。

私たちは、本来の日本人の生き方を忘れ、外見だけを取り繕うような国を
目指して来たのではないはずです。

21世紀は、私たちの本当に美しい日本を取り戻す世紀です。

世界の人々が、私たち日本人の生活が美しい大自然と共にある事に
感動して憧れる様になることがこれからの日本の有り方と思えると共に
私たちの目指す将来をしっかりと考える事が大切と思われます。