めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

火山噴火は他人ごとでは有りません

2018-01-24 16:18:14 | 自然災害

突然、予想もしない事が起こる、しかも国民全体が
驚く様な事が、頻繁に起こる時代になって来ました。
春夏秋冬、毎年、決まった様に特徴のある季節が訪れ
季節季節の風情を楽しみ、日本人として、穏やかな
日々を過ごして行く、そんな光景は、もう見られない
のでしょうか。

高度成長期の頂点ともいえるバブルを境に、日本社会は
確実に、それまでの日本人の日々を変えてしまいました。
単に、経済的に苦しい時代となったと言うだけでなく、
日本の自然も、世界的な異常気象と共に、かつての美しい
感動を与えてくれた頃が懐かしく思える程変貌しました。


私たち日本人が、高度成長と言う名目の下、日本中の
美しい自然を破壊したのは、数十年前でしたが、
まるで、そのお返しをするかのように、私達の生活は
毎年、大自然の脅威に晒されています。
一定のリズムで訪れて季節は、著しく変貌し、
極端な季節の変動は、私たち日本人のリズムを狂わせます。

世界的な異常気象による影響は、私達が食を得る自然界を
豊かなものから凶暴で無慈悲なものへと変えてしまいました。
日本中のどこかで繰り返される異常気象は、私達日本人に
豊かな命の糧を与えると言うより、多くの人々を傷つけ、
街を破壊しています。
また、東日本大震災をかわきりに、日本中に巨大地震が
やってくるのは当たり前の様に成り、首都圏も、近い将来
予想される危機が訪れるとして、国民全体の心が
ざわめき始めています。


人間の行う行為は、何とか戒める事は出来ても、
大自然の想定外の動きは止める事は出来ません。
昨日朝、私達は、またもや、自然の脅威を感じました。
轟音と共に、白い雪から沸き上がった真っ黒の煙は
巨大な隕石を伴い、地上の人々に降り注ぎました。
誰も想像しない状況での、地獄絵図です。
瞬間、脳裏を走ったのは、数年前の御岳山の噴火です。
誰もが携帯電をを持つ時代、真っ青な空に昇る黒煙
降り注ぐ火山弾、逃げ惑う人々、その光景は修羅場です。
今回も、静かな白い雪の斜面に降り注いだ真っ黒の火山灰、
そして人々を襲った大きな火山弾、その恐怖は画面から
ひしひしと伝わってきます。


災害列島と言うより、私達は、火山の中で暮らしていると
言っても過言ではないのです。
日本は、太古の昔に、東アジア大陸の端の海底から
火山の噴火によって作られた島国なのです。
しかも、遠い過去に作られたと言うのではなく、現在もなお
新たなる形を求めて変化しつつあるのです。
私達が住む平地であっても、火山の噴出物で作られた所が多く
関東平野にしても、関東ローム層を代表とする火山噴出物で
作られている事は知られています。

当然、日本列島は現在も活動を続けている訳で、私達人間が
勝手にいつまでも同じだと思い込んでいるに過ぎないのです。
地震であろうが火山の噴火であろうが、自然は、私達人間の
都合や予想は考えて居ません。
たまたま噴火したところに、私たち人間がいたに過ぎないのです。

私たち人間にとっては大災害と言えるのですが、自然の営みの
ほんの一部なのです。
大震災にしても、そこに人間がいたことで大災害と成ってしまったのです。
それこそ、私達は、そんな日本に住んでいると言う事を理解して
諦めるしかないのです。

しかし、異常気象も、環境破壊も、環境汚染も、全て人間の成した
悪行なのです。
自分達の利益だけを考え、挙句の果ては、自分達の命の糧まで
失う結果と成っているのです。
これこそ、本当に、反省をし、悔い改めなければならないのです。


ところが、世界の国々、特に人々を支配する方々は、相変わらず
地球の富を消耗し、自然を破壊する事に余念が有りません。
目先の利益に囚われ、未来をの人々と生き物達の事を考えず
いまだに破壊と略奪を繰り返しています。
大災害によって被る被害は、人々の注目を集めますが、
日々繰り返される人災は、ニュースにされる事無く、何年も経って
過去の負の遺産として紹介されるだけなのです。
しかし、多くの人々の苦しみは、後に忘れ去られ、メディアに
取り上げられることなく、文明の進歩の犠牲者として
記憶の外に葬り去られるのが実情です。

メディアは、常に新しい、人々が注目する出来事を追い続けます。
注目する事に依り、それを利用するスポンサーからの利益が
発生するからであり、如何に、商業ベースに乘ったニュースで
あるかが第一条件と言えます。
その為、どんなに悪質なことであっても、庶民の多くが感じていても
ニュースソースとして視聴者が余り関心を抱かない事は取り上げず
まして、慢性的に国民を苦しめている政治や企業家の一方的な
一人勝ちに関しては、ニュースにすらなりません。
何故なら、メディアを司っているのが、彼らなのですから。


どんな大災害が起ころうと、私たち庶民の処遇は、彼らの胸三寸であり
災害からどの様に復興するかは、災害当事者と言うより、政治家や
支援企業の考えで決まると言えるのです。
様々な災害から国民を守り支援体制を作り上げるかと言う事は、
被災者たちには決められず、リーダー達の勝手な思い込みと
上層部の話し合いで決められていくのが日本の災害復興であり、
災害による苦しみだけでなく、その後の苦しみまで味わうのが
日本の被災者の不幸でも有るのです。

日本社会に於ける国民の存在価値は、如何に国民の財を集め
リーダー達の更なる繁栄をもたらすかに在り、例え災害が有っても
彼らの利益となる復興計画でなければ、支援を受けられない
というのが日本の現状でも有るのです。

東日本大震災により沢山の人々が大きな被害を受けました。
しかし、その後、復興計画という事業により、様々な心の
被害を受け続けていると言うのを、計画を立てた人達は知りません。
弱者の弱みとして、思う事も言えず、じっと我慢して応じて来た
と言うのが多くの被災者の本音なのです。

莫大なるお金が動く災害復興事業は、被災者たちにとっては
元の生活を取り戻せれば済む事ですが、事業者達や
関わったリーダー達にとっては、そこから膨大なる利益が
生まれる事が重要なのです。
この陰のやり取りが、メディアに於いては全く伝えられず、
日本社会が本当に自由な社会では無く、様々な規制の下で
成り立っている事が解ります。

つまり、何でも手に入ると言われるネット社会であっても
そこから利益を得る事を考える人達に都合の良い情報のみが
流れていると言えるのです。
この先、日本列島は、地獄の窯の上に居る様なものであり、
地震だけでなく、様々な天変地異に襲われる事からは逃れられず
次々に驚愕する事件事故が起こると思われます。

戦争と言った人的な脅威よりも、遥かに大きな地球規模の災害が
人類を待ち構えているかも知れず、日本列島は、その渦中にある
とも言えるのです。
いまや、日本人は、様々な自然災害と戦争という人類が起こす最大の
不幸の中に見舞われる可能性が有るのです。

禍福は糾える縄の如しと言われますが、幸不幸は交互に来ると言うより
次々に不幸が訪れ、ようやく幸福な時が来るとも言えるのです。
戦争の最中に大地震が来て、更には、大地が割れて日本中が大噴火に
襲われると言う、パニック映画の様な事が現実となるかもしれません。
それ程にも、今や、日本社会は、逼迫した異常事態となっているのです。

何処かのお偉方が、経済的に豊かに成れば国民は救われる、と言った
甘い考えでいますが、関東大震災規模の地震が来れば、北朝鮮から
一発のミサイルが飛来したら、富士山が噴火をしたら、
そんな甘い考えは、あっと言う間に吹っ飛んでしまうのです。
こんな荒唐無稽なことは無いと言えないのです。
何が起こるか、想像もつかないのが現代なのです。

こんな時代、日本人が未来へ生きながらえるには、一体どうしたら
どの様な対策を講じたら良いのでしょう。
津波対策の様に、海岸に巨大なコンクリートの壁を巡らせれば
人々は安全で幸せなのでしょうか。
日本も、軍事国家と成り、沢山の原爆搭載のミサイルで国中を
固めれば安心なのでしょうか。
はたまた、自然災害が起こらない様に、より強固な護岸工事をし
川や海と街を隔てる巨大な堤防を作れば良いのでしょうか。

この様な考えは、多くが、国民の幸せというより、自分達を
守る術を考える方々の利益を目論んだ方法に過ぎません。
例え、この様な要塞の様な日本を作ったとして、もはや日本は
日本でなく、国民は、誰一人幸せとは感じないのです。
人は何をもって幸せと感じるのかを解っていない方々が
社会を動かそうとすると、その結果は、人々を不幸にし、
挙句の果ては、自分達の首も絞めてしまうのです。
そう、異常気象を作った原因と同じです。

何故、私達人間は、自然を受け入れ、共に生きる事を考えず
己の利益だけを考えるのでしょう。
自然からの命の糧を得て、自然を生かす事で自分たち人間を
生かす事を考えずして、人類の未来は無いのです。
地球上のあらゆるトラブルや争いは、自分だけの欲望から
事が起こっています。

他人に対しても自然に対しても、我欲が問題を起こし、
その結果、自分達の環境すら壊してしまったのです。
しかし、人類は欲望が有ったからこそ進化したとも言えます。
地球上のあらゆる生き物の頂点として君臨できたのも、
果てしない欲望の結果と言えます。

ならば、それ程にも強い欲望が有るのなら、自分達が
未来に生き残りたいとする思いを強く持って、一体何をすれば
一番良いのかを考えれば良いのです。
今の多く国が行っている経済活動が、将来の人類生存を危うく
しているという事実を踏まえて、全く違う社会構造に変える
決意を持つことが大切です。

食料が足りなければ、一番増やせる方法を実行し、
人類の未来を危うくする経済活動はすぐさまなくす方向に
推し進める事がベストです。
そんな極端な事は出来る筈は無いと言う方は、現在の
生活と利益を守りたいだけであり、未来を見ていません。
もし、戦争となれば、全てを失う事を考えれば、これしきの事
何でもないと言えるのです。

多くの方が現状の生活を守り、その生活の中で豊かに成りたいと
願いがちです。
しかし、その生活が、未来にとって不幸をもたらすとしたら、
勇気を持って辞めるべきなのです。
この事は、国家レベルの事業や政治に於いても同じ事です。
大気汚染を無くそうとする努力も、其々の国が、現在の国内政策や
事業を変えないで行おうとするから、全く進まないのです。

国も国民も、地球規模の危機を理解していないのが現状なのです。
もしも、突然の噴火の様に、地球の年間平均気温が、2度ほど上がったら
もう、人類の得られる食料は得られなくなってしまうと言われます。
地球温暖化は、人類が耐えうる温度を超えてしまい、私たちの食の糧は
海からも陸からも得られなくなると言われます。
誰もが、そんな日は訪れないと思っています。
しかし、3000年も眠っていた火山よりも、ずっと早く、もうそこまで
人類の危機が迫っていると言う事実を私達は知らなければならないのです。

 

 

 

 

 

 


人間が呼び寄せる大絶滅

2017-12-12 18:58:34 | 自然災害

かつて、地球の歴史の中で、5度有った大量絶滅は
地球上の生き物の殆どを絶滅させる程の大惨事であり
地球規模の天変地異や隕石落下と言った、自然現象が
原因と成ったものでした。
しかしながら、そのサイクルは、人類の歴史以上に長く
その惨事を私達が体験する可能性はほとんど無いと
言われていました。
次回もいつの日かやって来ると言われてはいますが、
その遥か未来を心配する必要は有りませんでした。

所が、最近、その時期が非常に間近に迫っているのではと
懸念する学者が増えて来ました。
確かに、世界的に地殻変動が活発化し、各地で地震や噴火が
頻発していますが、それとて、地球規模の時間の流れからして
それ程、緊急に心配する事とは言えません。

では、一体、何が問題なのでしょう。
従来通りの地球のサイクルからすれば、次の大絶滅まで
人類が心配する事が無いと言えるのに、一体どんな災害が
訪れると言うのでしょう。
多くの学者が心配する要因は、私たち人類が、過去100年
程の短い間に、地球環境を変えてしまった事です。

化石燃料を大量に使い、空気も水も汚染してしまった事に始まり
私たち人間だけでなく、地球上のあらゆる生物を絶滅させる程の
環境を作ってしまったのです。
未来を懸念する最大の問題は、地球温暖化です。
化石燃料の大量使用による大気中の二酸化炭素の増加は、
単に、気温を高くしたと言うだけでなく、その事に依り、
地球上のあらゆる生物の生態を変えてしまう事になったのです。

気温の上昇は、生き物同士の食物連鎖のサイクルを壊し、
人類にとっても最も大切な、食料確保を難しくしてしまったのです。
年々砂漠化は速度を増し、近い将来、穀物が非常に不足すると言われ
人類の食料だけでなく、家畜の食料も不足する事と成るのです。
現在に於いても、多くの発展途上国に於いては、深刻な
食料不足が争いの原因とも成っています。

この事は、先進国に於いても、決して他山の石とは言えず、
近年世界中に頻発するテロや戦争の原因の多くが、
食料とエネルギー資源を求めて起こっています。
更に問題は、多くの食料が先進国に集まっていて、
食料不足の国々が、一向に潤う事が無い事です。
同じ地球上に住みながら、富める国と貧しい国の生活差は著しく
その差は縮まるどころか、益々、大きくなっています。

世界には様々な文化や思想、宗教が有りますが、
様々な考え方の違いは有っても、根本的には、その考えに生きる
人間たちが幸せな生活が出来ると言う事です。
その根本が、食料が満たされていると言う事です。
人間は生き物ですから、誰もが、食料無くしては生きられず、
生きる原点は食に在るのです。

しかしながら、この食の原点が満たされない国々や地域が
増えているのです。
しかも、その原因が、先進国による食糧や資源の搾取であり、
一方的な繁栄なのです。
資源を持つ貧しい国は、昔から、列強の餌食となり、
先進国による略奪行為は、国の経済を根本から破壊しました。
多くの発展途上国は、かつての植民地と変わらない境遇で
国民の多くが飢え苦しんでいるのです、

そんな中、自分達の国の惨状を回復させるために使われるのが
軍事行動であり、テロであり、核兵器による脅しなのです。
このどれにも共通な事は、貧困であり、食糧難です。
一方的な富の搾取に、最後の手段を使っていると言えるのです。
世界各地で頻発するテロは、その事で、決して体制は変わらずとも
豊かな生活を妬み憎んでいる人間がいる事を示しています。

自分達の土地を奪われたり、資源を盗られたり、国を分断されたり
戦争で国民を傷つけられたり殺されたりした事への怒りが、
世界中で勃発していると言えるのです。
さらに最近は、世界のリーダー達のエゴイスティックな行動や発言が
多くの問題を生んでいます。
世界は、平和になるどころか、益々混沌として、多くの国々では
必要以上の緊張が生れていて、更なる争いが生れています。

限られた資源を大切に未来に繋げて行こうと言う考えから、
未来の事より今の利益を考える、独断的な風潮が高まって、
世界の平和は、風前の灯と成っているのです。
中でも、大国のエゴは、世界の緊張を高める事と成っていて、
テロの心配だけでなく、核戦争をも辞さないと言う強硬派が
幅を利かせてきているのです。

過去、100年程の地球の温暖化は、過去数千年に渡る変化よりも
遥かに著しく、その上昇率を見ると、第六の生物大絶滅が
近々やって来るのではと懸念してしまいます。
既に、地球上の生き物達は、毎日絶滅速度を増していて、
身近な生き物以外の、普段私達があまり気に留めない多くの
生き物達が居なくなっている事が解っています。

この事は、たまたま、周期的に動植物の繁殖率に波が有って
また、回復すると言う期待感が有るのですが、過去50年程
生き物達の復活はと殆ど知られていなくて、多くの場合、
絶滅危惧種となったり、絶滅してしまった種の方が断然に多く
地球の平均気温が1~2度上がれば、生き物達の半数は、
生きて行けない、と言われています。

しかし、学者たちの予想は、その程度の上昇にとどまらず、
近い将来、生き物達が生活繁殖できない程に気温が上昇し
それに伴い、様々な異常気象が人々を悩ますと予想しています。
今や、富める国と貧しい国に世界は分かれているのですが、
これも、将来、全ての人類が、生活して行く事に苦労する
食の奪い合いの時代が予想されています。

当然、この混乱は、世界中で起こり、人々の争いは日常的となり
食料と資源を求めて、世界大戦に発達するかも知れません。
核のバランスも崩れ、世界中が核兵器で戦う事と成れば、
既に、地球上の生き物の住む場も生きる場も失われるのです。
数少ない食料を奪い合うも、いずれ、全てが砂漠の様に成り、
地球上の生き物と同じく人類も絶滅と成ってしまうのです。

どんなにあがいた所で、地球温暖化は止めれれないからと言って
残された資源を無駄に使う事は、より、その日を近づくだけであり、
人類にとって得策とは言えません。
使う事を前提とした生き方は、いずれ、争いを呼ぶことは明らかであり
食糧危機やエネルギー不足以上に悲惨な日々がやってくるのです。

私たち人類は、たかだか600万年程生きているに過ぎません。
しかし、その殆ど、99%以上は、安定した大気の下で、
食物連鎖に則りながら、大自然の中の生き物の1つとして
生きていたのです。
たった1%にも満たない間に、地球を破壊し、自分達の命をも
縮める蛮行を働いたのです。
人類の進歩というのは、明らかに、人類の驕りであり横暴です。
自分達だけでなく、地球上の全ての生き物を道連れにする事は
地球に生きる生き物としては有っては成らないのです。

しかし、人類の英知と言うならば、もう少し進歩すれば、
その英知の象徴ともいえる人工頭脳が私達の生活を変えてくれる
はずです。
究極の経済性を持った便利な世界が訪れると考えられるのです。
人間の全ての仕事を引き受け、人類が最も幸せでいられる方法を
AIが見つけてくれると言います。

となると、地球温暖化と言った危惧は、それ程心配しなくても
良くなるのではと思われる方も増えて来るでしょう。
しかし、そんなに事は上手く行くとは言えません。
今や、AIの進歩は、劇的と言われ、数年後には、人間の知能を
遥かに超えてしまうと言われています。

これまで、感情や対人対物のセンスを持つ事は、難しいとされ、
究極のスピードを持った処理能力ロボットの様に思われていましたが
既に、感情を抱き、心の機微すらも感じ取るAIも開発されつつ
あると言われています。
つまり、人間以上に人間の感情を持った、パーフェクトともいえる
機械が完成されつつあるのです。

今でも、多くの学者は、管理するのは人間なのだから、人間に不都合な
ロボットやAIは生まれないとしていますが、その一方、人類の予想を
遥かに超えたAIの誕生も夢では無いとしています。
問題は、この人類を超えたAIは、自らで物事を判断し、人類の思い
を遥かに超えた知的感情を持つ可能性が有る事です。

つまり、地球にとって、最も相応しい状況を導き出したとき、
果たして、私達人類は必要とされるのでしょうか。
いや、地球にとって危険な生き物として排除されるのでしょうか。
機械ですから、その判断は即決であり、あっと言う間に、人類は
抹殺される可能性も有るのです。

すべからく、生き物は、遺伝子の中に、絶滅への道を持っていると
言われています。
多くの種が地球に誕生し繁栄し滅びる仕組みは、既に決められて事として
遺伝子に組み込まれていると言います。
ならば、人間の遺伝子に組み込まれた絶滅への道はいったい何でしょう。

そう考えると、私達は、AIを何故作ったのかが解るような気がします。

私たち人類は、人類の英知を持って、自分達を絶滅させる機械、そう
AIを作ったのかもしれません。
全ては、私達の遺伝子に組み込まれた人類の発生から絶滅への
ストーリーなのかもしれません。
ならば、様々な独裁者が生れ、世界を恐怖に陥れるのは、
決して本人達が異常なのではなく、既に、絶滅への遺伝子が
働きかけているのかも知れません。

 

 

 

 

 

 





 


大災害は人災

2017-07-06 16:01:14 | 自然災害

都議会選挙が終わり、ミサイルの発射にうんざりしていると
またもや災害のニュースが飛び込んできました。
数日前から、西日本各地に梅雨前線が掛かり、局地的に
大雨が降っているのは知っていましたが、これ程にも被害が
甚大と成るとは思ってもみませんでした。
毎年、災害列島と言われるだけあって、日本各地に必ず
様々な自然災害が起こるのですが、いつまで経っても、私達は
大自然の猛威に余りにも無力としか言いようが有りません。

有史以来、日本列島は、毎年、人々に多くの災害をもたらし、
日本人は、その苦しみに耐えながら、この小さな島にしがみ付き
子孫を繁栄させてきました。
世界的に見ても、春夏秋冬、日本人は様々な自然災害を被りながらも
自然と共に生きてきた民族と言えます。
繰り返される自然災害は有れど、日本の自然が人々にもたらして来た富は
その苦しみを凌駕する豊かさで、日本人は、日本の自然に育てられ、
進化して来たと言えるのです。

しかし、私たち日本人は、この大自然の猛威に打ち勝ち、災害に強い
町を作る事を目指し、今日まで、日本列島を改造してきました。
河川を改修し、海と陸とは護岸で仕切り、浅い海は干拓をして
居住区や工場地帯を増やし、より豊かで便利な生活を目指しました。
戦争で日本中の都市が荒廃するも、世界が驚く程の高度成長で
日本は、世界でも屈指の先進国と成りました。

豊かな自然を利用して、自分達の生活をより便利で豊かにすることで
国民はだれもが幸せな生活を送れる様になったのです。
と書ければ、これからの未来はバラ色であり、幸せな毎日が続くと
確信できるのですが、現実は、私達国民の思いとは裏腹に、
生活は苦しく、日本の豊かな自然は、ことごとく破壊され、
人々の心は幸せを感じる事が少なくなってしまったのです。

確かに、私達日本人は、災害の少ない住む事に苦労しない
幸せな日本を築いて来たはずなのですが、現実は、全く思いとは
裏腹の人生を歩まなければならない人たちが多くなっているのです。
毎年起こる地震も集中豪雨も、自然災害と言えるのですが、
本当に、自然が原因でこれ程にも頻繁に多くの災害が生まれるか
と言ったらそうとも言えないのです。

梅雨時の集中豪雨は、近年異常なほどの降水量で、毎年その量は
増える一方で、常に数十年振りと言った言葉で語られる様に
なっているのです。
かつては、数十年振りと言う災害は、本当に数十年に一度のサイクルで
発生するとされていたのですが、近年は、毎年日本のどこかで、
数十年振りの災害と言う規模の自然災害が起こり、しかも、その記録を
毎年更新しているのが問題です。

この原因は、世界的な異常気象とされるのでしょうが、この異常気象を

作り出したのは、他ならない人類であることが更なる問題です。
私達が豊かな生活をしようとした結果、自然が破壊され、更には
それまでなかったような規模の自然災害が頻発するようになったのです。

この事は、他人事の様にも思えてしまいますが、実際は、私達が普段から

生活をしている事そのものが自然を破壊している事も事実なのです。
たった一人の行いは、大した事でない、たわいないものの、その数が
天文学的に増えた人類全体の行いと成ると、地球自体のバランスも
生き物達の生態系も変えてしまうのです。

長い歴史の中で、数百年前までは、人類は自然を利用する事は有っても

破壊したり絶滅したりすることは有りませんでした。
その為、自然災害も、過ぎ去れば、また新たに命を糧を与えてくれる為
人々は、あえて、自然を変えようとは考えはしませんでした。
与えられた大自然の富の中で、生き物達の1つとして、地球環境のサイクルに
準じた生活を続けていたのです。

所が、今や、海も山も、街も、日本列島の人が関わる所全てが

私達に都合の良い様に作り変えられてしまったのです。
危険な山間部深くまで住宅地が広がり、海は広く干拓が進み
生き物達の生活の場はことごとく破壊されたのです。

それまで、山に降った雨は、豊かに育った森林部分や山里で保水され

多少増水しようも、自然景観を壊すことなく、沢山の栄養とミネラルを
含んだ水は、海へとゆっくりと流れ下り、海の生物たちの栄養として
大きな役割を果たしたのです。

しかしながら、今の日本の河川は、人間に都合の良い様に作り変えられ

本来の保水能力も無くなってしまいました。
近年の山間部から続く住宅地での災害の多さは、単に大雨が降っただけでなく
人為的な原因が非常に大きいのです。

また、都会周辺の川は、殆どが下水道化し、本来の川の役割は全く無く、

単なる下水を海に流すだけの放水路と化しています。
その為、山から海、また、都会から川への雨水の流れは常に激流と成り
毎年多くの災害を呼ぶ原因と成っているのです。

災害が起こらない様に行うと言う治水事業は、あくまで人間本位の事業であり

いつまでも自然を封じ込めると言う、自然に対して横暴な考えが見られます。
山や川、そして、海が本来私たち人類にどの様な関わり合いを持ち、どれだけ
豊かな恵みを与えて来たかと言う事を無視して、目先の対策を講じている事が
いつまで経っても、悲しい災害を生む原因とも成っているのです。

かつて、日本列島改造計画と言う、人間の欲望丸出しの政策が成された事で

日本中の自然がぼろぼろになったのですが、今や、日本人の考え方を大幅に
改造しなければ、私達は未来永劫、災害から逃れる事は出来ないのです。
自然に生かされているにも関わらず、自然を破壊する行為を続ける事は
やはり人類は、地球にとって最悪の生き物と言っても過言ではないです。

地球の生き物達の頂点に立っているというのは、明らかに人類のおごりであり

地球の生き物からすれば、悪魔の化身としか言いようが無いでしょう。
しかし、どんなに私達が地上に君臨していると言っても、生き物として
地球からの糧を得なければ生きてはいけない事実が有ります。
その糧を得られない様にする私達人類の生き方が一番の問題と言えるのです。
私達人類が、本当に、この先も、この地球上に存在できる為にも
私達を生かしてくれている自然に対し、利用するだけでなく、
元の豊かな生き物達の宝庫と成るべく、私達自体の生活を変える事が
人類が生き延びる唯一の方法とも言えるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


被災者の不幸は、便利な生活が生んでいる

2016-09-03 15:31:39 | 自然災害

また新たなる台風が九州を襲っています。
鹿児島のトカラ列島の十島村では、50年に一度の大雨が
降っています。

かつて学生の頃、小さな定期船に乗って、大波に揺られ

点在する島の海洋生物を調べたことが有りました。
九州と沖縄の間に多く存在する島々は、その特異な気候から
様々な特有種の生き物が存在し、大自然の宝庫とも言われます。
屋久島や奄美大島と言ったメジャーな島に比べ、観光客も少なく
そこに住む人々は、自然と一体となった非常に穏やかな生活を
送っています。

しかし、そんな島々も、時に大きな災害に見舞われることがあり、

その度に離島の厳しさも味わってきました。
とは言うものの、都会に住む私たちにとっては、本当にうらやましい
人間としての原点を感じられる生き方が有るように思えます。

文明が発達して、私たちの生活はどんどん便利になっていきました。

世界中から欲しいものを手に入れて、これが求める生活であるかのように
大都会の喧騒に身をゆだねる事も有りました。
しかしながら、時に、私たちの力がいかに無力であるかを知らされます。

何百年何千年と築き上げられて来た歴史と文化が、一瞬にして消え去り

身ぐるみ剥がれた私たちは、哺乳類の中でも、最も軟弱な動物である事を
知らされます。
便利なものを取り上げられたとき、私たち人間は、本当に無力となって
あらゆる外界に対応できない様になってしまいます。

どんなに激しい雨風が来ようと、動物たちは、じっと耐えしのぎ、

嵐が去れば、またいつもの生活を送る事が出来ます。
地球の頂点に立った人類はどうでしょう。
そう、ほんの一時の地球の気まぐれであっても、生きて行け無くなる事も有ります。

これほどにも進化したと思われる人類は、実は、何も変わっていないのです。

相変わらず、地球上の多くの生き物のお陰で命を繋いでいるのです。
その命の糧が無くなればすぐに諍いを起こし、他の者を顧みず食を独占しようと
何十世紀にわたって争いは絶えません。
正に、人類の歴史は、食を得るための争いの歴史と言ってもいいのです。

所が、この命の糧が今や底を突いてきているのです。

世界中の至る所で食糧危機が起こり、それに伴い頻繁に争いが起こっています。
地球温暖化の下、近い将来、人類全体が食糧危機となると予想する学者もいます。

しかし、これは、予想がつく事態でもあったのです。

奪う事獲る事を優先して育てる事を考えなかった私たち人類の未来は、
おのずと現在を予見できたはのです。
私たち人類の為にだけ作られた街、私たち人類の為だけに集められた食料は
当然他の多くの生き物たちの生活を脅かし、これまで数知れずの生き物たちを
絶滅に追いやり、今や、あらゆる生物の生息数を減らしているのです。

その結果はどうでしょう、私たちは、自らの食料を失う事と成ってしまったのです。

例え、どんなに備蓄をしようと、文明の利器を駆使しようと、近頃の頻繁に襲う
台風や地震と言った天変地異に掛かれば、一瞬にして地獄へと叩き落されるのです。

確かに、異常気象を作り、数々の天変地異を生んだ原因が人類にある事も解ります。

でも、長きにわたって築き上げられた人類の歴史が、簡単に消えてしまう事には
考える余地が有るのです。
私たちの生活は、たとえ天変地異に合おうとも、動物たちと同じく、すぐに元の
平和な生活に戻らなければならないのです。

私たちが、大自然の中で生かされ、食物連鎖に従い生きて行く為には、

動物たちと同じく、元の生活に戻れる様な生き方が出来なければならないのです。
所が、私たち現代人は、日頃近代的な便利な生活を行っていようも、
いとも簡単に、無能の状態になってしまうのです。

それは、便利と言う名の人類の都合だけを考えた生活をしているからに他なりません。

少なくとも、自然界に生かされているなら、私たちの生活は、自然界を生かす様に
出来ていなければならないのです。

現代の私たちの生活は、自然界を利用して、自分たちに都合のいい生活はしていても

自然界を良くすると言うよりは、汚染したり破壊したりしているのです。
この自然の摂理に反した生活が、私たち人類の未来を明るくするはずが無いのです。
一方的で我儘な人類の横暴は、地球上の生き物の脅威であるだけでなく、
挙句の果ては、私たち人類を不幸にしている事に気づかなければならないのです。

毎年多くの災害に見舞われる日本人が、すぐさま復興して元の生活に戻れることは

殆どありません。何年も苦しい生活を強いられ、元の生活に戻れる人は、本当に
ごく少数でしかありません。

私たちの祖先も多くの災害に見舞われてきました。

しかし、彼らが元の生活に戻る事が出来たのは、日頃から大自然との関わりを
強く持っていて自然の摂理の下で生活していたからです。
自然をねじ伏せ、利用する事のみを考えるようになった生活は、ひとたび災害に
見舞われた途端、自然からは見捨てられ、自らの未来も復元できなくなるのです。

今現在大雨の中で耐えているトカラ列島の島々の人々は、私たち都会からすれば

便利な生活をしているとは言えません。
しかし、自然と一体となった生活を送っている事から、嵐が去ってしまえば
また元の生活に戻る力が、私たち都会に住む者たちよりはるかに強く、
人間として、自然に守られ育てられる豊かな生活が送れるのです。


被災地の復興は程遠く

2016-08-31 16:16:27 | 自然災害

関東をよける様に進んで、ほっとしたのもつかの間、
東北と北海道を縦断した台風は、またもや多くの傷跡を
残していきました。
この夏の台風をどうにか凌いで来た北国の人たちに、
止めを刺すかのように、多くの被害を与えました。

これまで、日本に被害をもたらした多くの災害は、
誰もが、次は我が身とは思ってもみません。
災害を免れると、被害にあった方々に心を痛めるも
いつか自分もそのような目に合うとは思わないのです。
しかし、災難は突然にやって来るものなのです。

テレビ画面を通して見るものとは、まったく異なり、
心も身体も、締め付けられる様な苦しさを覚えます。
特に、死を覚悟したときは、すべてに対して希望を失い
余りの無力さに、恐れも苦しみも消え、自分の存在すら
感じられない程の極限の感覚に陥ります。

どんなに恐ろしい災害の場面を見ても、自分が遭遇して
命の危険を感じない限り、人は、普段の日常的な感覚で
判断してしまいます。
その為、災害に合った人たちの感覚と、災害支援者達の
間の感覚には、大きな意識の違いが有るのです。

一番の問題は、心の問題であり、被災者たちの本音が

支援者たちに正しく伝わっていない事が多い事です。
助けてもらっていると言う負い目から、我がままを言ったり
不満を言う事は出来ず、支援者側の考えで復旧事業が作られ
被災者たちの心にやるせなさや憤りが生まれる事も
少なくありません。

巨大地震の後の復旧工事に於いても、被災者たちの意向が
中々反映されず、人々の思いとは裏腹に、単に、第三者の
思い込みで作られた新しい街は、便利で安全で機能的とは言え
元の思い出の詰まった街とは程遠い、日本中どこにでもある
愛着のわかない白々とした物となる事が多いです。

人々が何故悲しいか、それは、同じ地で、長い間生きて来た
家族や同胞が傷ついたり亡くなったりしただけでなく、
自分が育って来た、思い出の街並みや風景が変わってしまった事に
心から傷ついているのです。

しかしながら、復興計画は、ほとんどの場合、その地に関係ない
その街で住んだことも無い人たちによって、机の上で作られた
人々の思いとはかけ離れたものなのです。
確かに、二度と同じ被害をこうむらない様にと言う考えからの
しっかりとした都市計画なのでしょうが、その完成図は、
殆どの場合、被災者たちがもろ手を挙げて喜ぶものではなく、
新たなる知らない街に住むと言う、まったく心癒されない場合が
とても多いのです。

人工的な便利さを追求したような都会の町を基準にした街では、
故郷の先祖代々生きて来た魅力ある街とは言えないのです。
復興計画を行った人たちから見れば、助けてあげたのに、
喜ばない事は考えられないと思うのでしょうが、
新たなる街を見た住民の笑顔が、本心からと思っている様では
これからも多くの人々を苦しめる事と成ってしまうのです。

弱者に対する縦割り目線によって行われる復興計画は、
人々を助けると言うより、人々の心の中では、不幸計画とも言え
災害に対する根本を見直す事なくして、二重の災害とも
なりかねないのです。

私の故郷も、伊勢湾台風で多くの人が亡くなり、その後の
復興計画で、大幅に街の風景は変わってしまいました。
自然あふれた水郷の町は、単なる地方都市となり、
飲めるほど美しかった川の流れは、護岸工事でことごとく
下水道化され、今では、どこを見渡しても、故郷の形跡は有りません。

決壊した堤防は、倍以上の高さとなり、白い壁となって街を取り囲み
まるで刑務所の様な光景です。
街の自然は殆ど消え、宅地化と共に、都会の周辺都市の一部となって
帰省しても、一体どこの町なのか、地元の人間ですら首を傾げます。

新しい町並みには、他の地域からの移住者が入居し、今では、
殆どが地元民ではありません。
数百年続いた城下町の商店街は、あっと言う間に過疎化と共に消え、
目立つのは、周辺に一日中光絶えない中央から進出したコンビニ位です。

現在復興中の東日本大震災の被災地も、同じような雰囲気が漂っています。
連日土煙を上げトラックが行き交い、新しい街と新しい堤防が作られ
故郷の地が変わって行くのが、とても悲しいです。

いつか、街が完成して、その地を見た時、多くの人々が本当に喜び
新たなる街に住める事を誇りに思うでしょうか。
また、かつての素晴らしい自然に囲まれた美しい街や優しい人々を
知っている日本中の多くの方が、新しい地を心から喜ぶでしょうか。
地震に強い津波の害を受けない街として、胸を張るのは政府関係と
建築を請け負った関係者だけではないでしょうか。

我が故郷は、伊勢湾台風の様な大型台風が来ても絶対大丈夫な堤防が
作り上げられたと、当時の新聞には、大きくその素晴らしさを称えた
文面が載りました。
あれから半世紀を過ぎます。
半世紀の間、我が町は、一体どうなったでしょう。

堤防と復興計画で、故郷の全てを失い、人々の絆も消えてしまいました。

台風から町は守られたかもしれませんが、半世紀に渡り、街はさびれ
多くの人々が去って行きました。
所々に残されたお寺の鐘が時折鳴らされると、見慣れない新し街並みに
不釣り合いな響きとなって響き渡っているのが、一層物悲し気に聞こえます。