めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

ジェネレーションギャップ

2016-04-29 12:58:04 | ネット社会

いつの世も、世代間の溝は大きいものです。
各時代に生きた人たち共通の考えを変えることは、
思ったよりも難しく、違う世代の考えを受け入れる事は、
中々至難の業とも言えます。
会社に於いても、学校に於いても、また、家庭に於いても
至る所で、いわゆるジェネレーションギャップは無くなりません。

しかしながら、その時代の中心になるのは、やはり働き盛りの
若者達であり、社会を大きく動かして行くのも、彼らの行動と
考えなのです。
この事は、今回の熊本大震災に於いても、その傾向は見られ、
災害に対する取り組み方が、古い世代の指揮の元に動いた
当初の自衛隊の導入から大型支援の組み立ては、執行部の
縦の繋がりから来るものでした。

そのため、現地に於いては、上層部の命令で動く事に因って
臨機応変に被災者を助ける事が出来ず、派遣隊員たちも
被災者たちも気まずい状態が生まれました。
また、同じく震災と共に直ぐに動き出した民間の支援組織や
ボランティアの方々、更には、MSNを通じて動き始めた
多くの支援者には、若者たちの姿が目立ちました。

彼らは、被災者たちの生の声を察知し、各被災地で、細やかな
ネットワークで被災者たちのデリケートな部分まで寄り添いました。
昭和の時代を生きてきた高齢者たちにとって、災害支援と言えば
すぐさま大型の予算による物理的支援を考えがちですが、
その支援は、実際の被災者たちの生の声を反映していない事も多く
支援から漏れた少ない人数の被災地の方々を見逃してしまう事も
有りました。

今の若者たちは、ネットで育てられた事もあって、きわめて個人的で
縦の繋がりが弱く、中々集団的な行動がとれないと思われがちですが、
彼らの抱く支援とは、ネットに反映される無限の情報共有です。
そのため、被災者たちとじかに繋がることが出来、これからの災害で
大きな力と成るのです。

普段の生活に於いても、ネット社会で育ってきた若者たちは、
極めて多くの知識を持ち、しかも、専門分野に長けています。
ただ、その知識を社会の為に、多くの人と共有して使おうと言う意識が
差ほど強くないのです。、
自分の世界を非常に大切に思う傾向が有り、ネットなどで同じ感覚の
人々とは広く繋がる傾向が有ります。

しかし、その様な極めて個人主義的な傾向が有って、他の考えの人とは
関わらないのかと言えば、そうではなく、周囲の人々の事に対する感覚は、
私達以上に強いのです。
ただ、自分以外の人に関わらないと言うだけであり、必要とあれば
直ぐに協力体制に入れる状態にあります。

私達が育った時代は、常に周囲を気遣い、相手の事を考え、言われなくても
自分から仕事を見つける事が大切と習ったものです。
そのため、常に神経を払い、察する能力は有るのですが、気が付かない事は
全く関知出来ないと言う弱点が有りました。

今の若者たちの傾向は、常にオールラウンドに神経が行き届いているものの
必要の無い事には関知しない傾向が有るのです。
知識も情報も、私達の時代の人間より遥かに多く持ち合わせ、しかも
ネットによる巨大な情報網を持って生活しているのです。

私達高齢者は、今の時代を憂い、日本の社会の行く末を案じて、
いかに以前の様な豊かな生活が出来るかと言う事を考えがちですが、
今の若者たちは、以前のバブルの様な生活を望んではいないのです。
自分達だけでなく、グローバルで人々が自分の生活を楽しめる
一人1人が自分の尺度で幸せを感じる社会を望んでいます。
そのため、地位や名誉、財産と言う欲より、いかに自分の生活が
自分自身で幸せに感じられるかが問題なのです。
人と比較したり、人よりも豊かな生活を望むと言うより、自分自身の思いと
生活がいかにコラボレーションするかと言う事です。

若者と高齢者が相いれない事は、今に始まった事ではなく、人類が生まれて
数百万年の間続いてきた事なのです。
生物は育つにつれてそれぞれのテリトリーを持ち、その中で、同じグループの
考えとルールで生活して来ました。
そのため、生まれた時代が違えば、考え方も大きく違って来るのが当然です。

親子の間でも、子供が幼い頃はまだしも、思春期を迎え自我が芽生えてくると
途端に、親の意見を聞かず、単独の考えを主張し始めます。
この事は、困った事ではなく、子供が一人の大人と成って行く過程で作られる
人格形成の一環でもあるのです。

しかしながら、家庭に於いても、学校に於いても、会社に於いても、
世代の違う者同士が生活を共にするのが一般的です。
その中で、いかに、御互いがトラブルなく気持ちよく生きて行く為に
多くのルールや常識が生まれました。
ところが、そんな円滑にするはずの様々な工夫が有るにもかかわらず
問題が生まれるのは、やはり、何の為にその様なルールが有るのかが
認識されていない事に因ります。

そのルールとは、きわめて簡単な事、御互いが幸せな気持ちになれる事です。
それぞれの立場をはっきりさせるためのルールでは、御互いの主張しか生まれず
円滑にするどころか、かえって違いを際立たせ、争いの種と成りがちなのです。

各世代には、それぞれの価値観が有り、その価値観を理解しないで、自分の
尺度で正当性を唱えても、しょせん相手には応えないのです。
人の心は、胃袋の様に、大きさがそれぞれ違い、その消化力も吸収力も違います。
ほんの少しの量で満足する人もいれば、人の数倍食べないと満足しない方も
多くいます。
子供には子供の、大人には大人の満足度や価値観が有り、さらには、その種類は
千差万別と言え、一人1人対処の仕方を違えて行く事が必要と思われます。









日本列島の新たなる時代

2016-04-27 18:07:27 | 災害

季節の移り変わりは早いもので、ほんの少し前桜が散って、
いよいよ初夏に向けて、ツツジが咲き始めてきたと
思っていましたが、ここ数日、都内に至る所で咲いている

美しいツツジが、すでに満開の時期を過ぎ始めています。
外見的には美しいものの、カメラを向けようと覗き込むと
多くの花が、写真として写すにはすでに遅すぎたかのように
縮れて変色を始めています。
私達が気が付かないのか、春から夏へと、自然界は刻々と
その姿を変えています。

考えてみれば、この間、日本中が熊本大地震に釘付けでした。
多くの人々が住む家を失い、野や山も、至る所で傷跡が痛々しく
美しい自然に抱かれた大らかで実直な熊本の人々が、いつまでも続く
悲しみと不安に苦しんでいます。
熊本県民自慢の熊本城のみならず、昏々と沸き出でていた名水が枯れ
見るも無残な水前寺公園至っては、まるで人々の喉の渇きを見る様で
本当に痛々しい光景です。

所で、今や、日本中がこの大地震の行方に注目していますが、
この間も、日本各地で、様々な地震が相変わらず続いているのが
不気味と言うより恐ろしいです。
活断層の数は、専門家ですら解からないとの事、私達東京都民が
心配する直下型の大地震の予想すら不可能と言われます。
かつて、関東を襲った大地震と今回の地震の規模は変わらない強さであり
もし、同じような揺れが東京を襲ったら、この何倍何十倍、いやそれ以上の
甚大なる被害が予想されます。

私達の住む日本列島は、世界的に見ても、きわめて危険な地域であり
一国に4枚のプレートがひしめき合う場所は、世界でも珍しと言われます。
すなわち、私達は地球上でもっとも地殻変動の激しい所に
生活をしているのです。
この事は、今に始まった事ではなく、太古の昔から、日本は地球のエネルギーが
地上に吹き出る所に生まれいて、日本列島そのものが変化しつつある地球の
割れ目の上にあるとも言えるのです。

そんな日本列島に、安全な場所はあり得ないと言うのが地質学の常識です。
今まで、日本で起こった大きな地震の場所を描いていくと、日本列島が
全て塗りつぶされる事から見ても、明かな事実と言えるのです。
しかし、この事は、今に始まった事では無く、私達の生活は、大地が
大きく揺れて、大災害が発生する事を前提として生きて行く事が大切です。

問題は、かつては、大地震の発生間隔が大きく、例え遭遇したとしても、
人生で一度有るか無いかの状態だったのですが、近年になって、その間隔が
縮まり、しかも、同じところを何度も襲う傾向が増えて来た事です。
今回の熊本大地震も、巨大な揺れが二度に渡って襲来し、その後も
余震が頻繁に起こります。

私達人間の尺度と、地球の尺度は著しく違っています。

火山の噴火の歴史に於いても、数千年に一度と言ったものから、数万年
数十万年に一度の噴火と言うのも知られています。
しかし、我々の都合で、長いスパンで考えやすいのですが、
地球の歴史からすると、数年、数十年、更には、数百年も噴火し続けている
火山も多く存在しているのです。

つまり、地震とて、何年も続く可能性もあるのです。

東日本大震災以来、日本列島は新たなる時代に入ったと言われます。
地震の揺れが巨大であったため、日本中の火山に影響が有ったと言われます。
現に、震災以来、日本中の火山の活動が活発と成っています。
と成れば、地震の数も規模も大きくなると考えられます。

かつての、穏やかな日本の四季は、過去のものと考えなければならない

新たなる変動の時期に入っていると言っても過言ではないでしょう。
もしも地震が来たら、と言う考えから、絶対にやって来ると言う事を前提に
日頃から準備を怠らない様な生活が、これからの日本人の生き方として
考えて行かなければならないのかも知れません。



 


 

 


被災された方々の心を察して

2016-04-25 18:45:54 | 地震

多くの友を失い、傷付き、日常の幸せを奪われ、どれ程深い悲しみの中で
苦しみもがいているか、被災者の方々の心を察するも、あまりにも悲惨で
痛々しく、とても言葉に表す事は出来ません。

どうしようもない災害に見舞われると、それまで、第三者の立場で想像した
考えられる状況とは全く異なっているものです。
特に、ほんの少し前まで、普通に暮らしていた肉親や友が、一夜にして
惨たらしい屍となった時、人は、恐れも怒りも全て通り越して、何も考えられず
しばらくの間は、一体何が起こっているのか理解できないものです。
私も幼い頃、伊勢湾台風で、前日、家の前で遊んでいた親友を亡くしました。
近所の方々も多く亡くなり、数日後、変わり果てた姿で、水面に浮いていました。

今や、ネットの発達で、世界中の出来事をライブで知ることができるようになりました。
地球のどこかで毎日行われる戦闘で、沢山の人々が傷つき殺されている光景を
茶の間で簡単に見る事が出来るようになりました。
更には、メディアの発達で、様々な映像がリアルに再現され、多くの映画やDVDが
製作される様になりました。

しかし、画面で見るどんなに残虐な行為も、悲惨な戦争も、災害も、実際の物とは
余りにもかけ離れているのです。
増して、そんな中に自らが投げ出されたとき、人は、この世で一番耐えられない
苦痛を味わうのです。
今や、被災地の方々は、そんな現実を生きているのです。

この事は、これまでの災害に於いても、常に人々を長く苦しめ、心に大きな
トラウマを抱いて生きて行かなければならないのです。
しかし、そんな悲しみを憂う方々ばかりではないのが残念です。
災害に乗じて、被災地から金品を奪う者、戦争に乗じて、多くの利益を生む人々
人間は、やはり、一番美しくも醜い動物なのでしょうか。

今、被災地では、優しい心を持つ多くの人々が集まる一方、どさくさに塗れて
悪事を働く人もいる様です。
多くの人が傷つき集まる場所で、御互いを疑う様な出来事が起こることは、
地震で傷つく以上に悲しい事です。

災害で身も心も傷付き、更には、人が信じられなくなってしまったら、
被災者たちは、一体何を信じて生きて行けばいいのでしょうか。
多くの人達が、苦しみの中で、何とか一筋の光を見出そうともがいています。
そんな人々の気持ちを少しでも癒し、未来への手助けと成ればと思うのが
多くのボランティアや災害地で復興に携わる人々の気持ちなのです。

人の不幸に付け込んで己の欲を満たそうとする人間は、
鬼畜にも劣ると言っても良いでしょう。
私達日本人は、そんな人を生まない、育てない社会を作り上げる事が
大切な事たと思われます。
災害に遭われた方は、今一時を生きる事にも大きな不安を抱き、
止む事の無い地震に、未来の夢も希望も失いかけています。
私達日本人は、そんな人たちを察して、経済的にも精神的にも
ずっと支援を続けて行く事が大切と思われます。


被災者の心の奥を癒す為に

2016-04-23 15:05:26 | 災害

地震、雷、火事、おやじ、と昔から言われていますが、地震以外はともかく
今の時代も、地震の恐ろしさは、被災者のみならず、日本中の人々が
強く感じていると思います。

熊本大地震が中々収まらないものの、日本全国、世界からの援助が差し伸べられ

被災地の方々にも笑顔が見られる様になってきました。
しかしながら、その前途は厳しく、一人一人に科せられた未来への足かせは
無くなることなく続いて行きます。

私達同じ日本人として、少しでもその負担が無くなり、一日も早く元の生活に

戻れる様に援助の手を差し伸べ続けなければならないのですが、この事は、
もはや、一地域の災害と言うだけでなく、近年日本中に発生している地震や
その他の災害で多くの犠牲を強いられた人々に対しても同等に成されて行く事が
重要と思われます。

遠く離れた所から、メディアを通じで刻々と状況が伝えられるものの、災害は

実際に体験した方々しか解からない、心の底からの恐怖や不安が有ります。
日本中の人々が、何とか被災地の役に立たないかと心を痛めていますが、
そんな気持ちも、人々の努力も、一瞬にして消し去ってしまう程の力を持つのが
大地震です。
私達が出来る事は、本当に小さなものかもしれません。
しかし、その力を少しずつでも集め合って、何とか被災地の復興の力とし
苦しんでいる方々の心を癒していかなければならないと思います。

熊本の親友の住んでいたマンションは、老後を静かにゆっくりと過ごすための

大切な場所でした。
今回の地震で、倒壊は免れたものの、亀裂が幾つも入り、今後住む事は出来ません。
最初の地震で家の中は滅茶苦茶に成り、入る事すらできません。
離れた所にある実家に身を寄せてはいますが、今後の見通しは全く考えられず
穏やかに余生を楽しむつもりが、一瞬にして重い十字架を科せられた様です。

しかしながら、私が心配するのを感じてか、いつもよりも遥かに明るく話す言葉に

心配を掛けたくないと言う気持ちと、その裏にある厳しいこれからの生活を感じました。
被災者の方々は、どなたもこれからの厳しい未来をひしひしと感じていると
思いますが、メディアからの質問や放映に対しては、逆に気を使っている様に
感じるのは私だけでないと思います。

被災者としての一人の自分に戻った時、先の見えない家族達と言葉を交わす時、

どれ程苦しくもどかしい気持ちになるのでしょう。
今後、大型重機が日本中から持ち込まれ、街の残骸が次々に取り払われて行く時、
何も残らない我が家や故郷に、人々の慟哭の思いが込み上げて来る事は否めません。
災害から生き延び、怪我を免れたとしても、かつての街も家も消えてしまった故郷に
人々の心の思い出は辛い記憶に変わってしまう事もあります。

復興は、人々の生活のレベルをもって計る事が出来ます。

これまで様々な災害地が新たな街に変わって来ました。
以前よりも便利で機能的な街に変わった所も有ります。
しかしながら、本当の復興は、人々の心の中に有ります。
被災者たちの心の復興は、以前の幸せと変わらない、
更にはそれ以上の幸せを誰もが感じる様になった時、

初めて完了と言えるのです。


ボランティアの大きな支え

2016-04-22 12:59:41 | 災害

地震は収まることなく、連日被災者の身も心も疲弊させ、
昨日は、冷たい雨がそんな不安な気持ちを逆なでする様でした。
しかも、多くの人々が避難している建物でさえ、地震の被害は
免れず、中には、新たなる亀裂が見つかって、せっかく避難した
安全と思われる所から、更に避難しなければならないと言う、
苦渋の選択を迫られる地域もありました。

そんな中で、全国からの支援の手は日々その規模を増し、

中でも、最大の心強さは、多くのボランティアたちの集結です。
国や企業と言った財力をバックに行われる支援に対し、
一人一人の力は小さく弱いものですが、東日本大震災の時と同じく
しだいに大きな力を発揮し、被災者にとって大きな心の支えと
成って行くのです。

大自然の計り知れない力に、成す術を失ってしまう私達人類が

長い歴史の中で、数々の災害や試練に耐え乗り越えてきたのも
人々がお互いに助け合って支え合って来たからです。
災害当初、どうしてもハードの部分でしか援助が行き届かず、
被災者たちは友や家族を失ったり怪我をしただけでなく、
心の中が大きく傷付いたままで耐え忍んでいます。

プライベートが守られた日常生活から、突然に、全てのライブラインが

失われた、自分たちを守る術を取り去られた環境へと投げ出され
精神的に対応できる人は殆どいない状態と成ります。
例え、普段気心が知れている故郷の人達であっても、それはあくまで
社会的な触れ合いであって、一人一人一家族一家族単位の
プライベートな部分で触れ合っているとは言えないのです。

当然、このような非常事態なのですから、例え他人同士であっても

協力し合い我慢し合わなければならないのですが、人々の心は
地震で痛めつけられているだけでなく、普段の状態であっても
極めてデリケートであり個人的な感情に支配されているのです。

そんなとき、とりあえず水と食料の確保とはなるのですが、

普段と変わらず行われる生理現象、病気のケア、高齢者の保護は
続けなければならなのです。
この、各家庭や個人にとってプライベートの部分が、実は非常に大切で
この部分をしっかりと維持して行かなければ、その後に、心身共に
多くの人々のトラウマになったり、病の原因になったりするのです。

そんな中、続々と九州一円、全国から集まる人々の直接的支援は、
物の支援と異なり、被災者の心に直接触れ、その気持ちを共有し
本当に必要な事を知る大切な部分と成るのです。
今後、地震が何時収まるかは誰にも解りませんが、人々の心の支えとなり
未来への希望に繋げる為にも、全国からの物的人的な支援が必要で
今までの地震やその他災害で多くの被害を被った被災者たちと共に
私達日本人が忘れてはならない事と言えます。