めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

日本社会は自由平等ではなく、相変わらずの差別社会を目指す

2018-10-31 15:11:06 | 日本人

私達は、親を選んで生まれて来る事は出来ませんが、同じように
環境を選んで生まれて来ることはできません。
生まれた時から、何不自由ない生活が出来る環境にある方も有れば
食べる事にも事欠く家庭に生まれたり、戦地の中で生まれる事すらあり
私達がこの世に生まれる事は、時の運としか言いようがないのです。

しかしながら、人は、知識を持ち感情を持ち欲望を持つようになると、
自然に、より良い環境を求める様に成るものです。
豊かで安心安全の環境を目指し、様々な環境を克服し、自らの目標を
求め努力をして行くのです。
人生は、求める自分の理想を実現すべく生きて行くものと言っても良く、
其々の思いや価値観によって生まれる目標を成し遂げる為に、自分の
生活環境をより良くする努力をするのです。

しかし、誰もが違った目的を持つならば良いのですが、人間の欲望の本質は
あまり変わるものではなく、理想を達成しようとすると、同じように望む
多くの方々と競い合う事と成るのです。
この人生の競争に勝つ事で、自分の理想を達成できる様に成る為、誰もが
より豊かな生活を目指し、他人よりより上の地位を目指すのです。

つまり、自分のより豊かな生活を勝ち得るには、多くの人を押し退け
人生の勝者と成る事が必要なのです。
子供の頃から、社会人と成っても、この、常に勝者と成る事を求められ
人々と競い合う事が人生の生き方と成っているのが多くの日本人と言えます。
正に、生きると言う事は、誰かと常に戦っていると言うのが現状なのです。

所が、スポーツと同じく、勝者は少なく敗者が絶対的に多いのです。
いや、社会的地位を考えれば、世の中は敗者で満ちていると言っても
過言ではなく、究極の勝利となれば、本当の勝者はいないとも言えるのです。
上には上が有り、どんなに豊かな生活をしても、それ以上の生活をする人は
世界中に居るものであり、その道は、一生続くとも言えるのです。

しかしながら、先の見えない道で、自分自身の勝利を噛みしめる事は難しく
誰もが戦う事に疲れてしまうのです。
その為、常に、自分の生活が豊かであり、自分の能力が優れていると言う
実感を得る事が、自分の心を癒す方法とも言え、多くの人が、それまで勝ち得た
経済的な豊かさや地位の高さを強調しがちなのです。

人と競って社会的地位を得て来た事から、当然、負けた人達は、勝者に対して
心から賛辞を贈ると言うより、悔しさ、妬み、嫉妬がどこかに生まれて来るのです。
多くの社会的地位を得ている人達が、恐れている事が、これらの敗者たちが抱く
自分に対するマイナスのイメージでなのです。

世の中は、基本的に、多くの敗者で溢れていると言えます。
しかし、世の中を動かしているのは、遥かに少ない勝者達なのです。
様々な生活条件、環境によって、努力しても勝者の道を見つけられなかった多くの人が
自分達の境遇に不満を感じ、日常生活を送る事さえ苦労しているのが現実です。

勝者達は、世の中を支配し、自分達をより豊かにする為に敗者たちを利用する
と言う社会構図が有り、いつまで経っても庶民は満足の出来る生活を送れないのです。
一部の勝者達が得た膨大なる富が社会に還元される事が無ければ、いずれ、国民の生活は
破綻する事と成り、そこから利益を得ている富裕層の生活すら末路が見えて来るのです。

私達が地球で生きて行く為には、食物連鎖が健全に行われている大切で有ると同じように
人間社会も、全ての人間がお互いに利益を分かち合い、命の糧を繋いでいく事が
大切なのです。
一匹の小魚が成魚に成って、それを私達人間が食料とするにも、卵から生まれた小魚が
膨大なるプランクトンを食べ、更には、海の中に多く生息する様々な生き物を食べ、
健康に育つことが重要です。

人間社会も、多くの人々が作り上げた命の糧をお互いに与え合う事に依り、
全体の繋がりが生れます。一部に多くの富が集まり、多くの人達に還元されなければ
当然バランスが失われ、多くのトラブルを呼ぶことと成るのです。

今や、国民は、常に消費を促され、より出費を強いられる社会に生きています。
にもかかわらず、社会が要求する消費を熟すには、余りにも収入が低く、支出が優先し
多くの国民が生きて行く事であくせくしている状態です。

益々巨大化する消費社会は、一見華やかに見えて、そこに生きて行くには、膨大なる
支出を覚悟しなければ成らないのです。
その支出の中でも、生きて行く為の最低限度の衣食住の基本的な部分を保証できない
日本政府の不甲斐なさが大きな問題なのです。

今の日本に於いて、高齢者のみならず、ぴんぴんころり、という標語が全国民に当てはまり
誰もが、病に伏せば生活が破綻してしまう程、経済的に行き詰まっていると言えるのです。
高齢者や弱者にとって、外見的に豊かに見えて、日本は、本当に生き辛い国なのです。
安全安心の人生を送ろうとしても、そこには、膨大なる経済的余裕が無ければならず、
全ての事に身銭を用意しなければ、安心した生活を望めないのです。

競争し合う人生を送って来た事から、お互いに協力し合う事が苦手であり、まして
利益が得られなければ、自ら手を下す事は無く、社会的に認められる事としない限り、
公共の利益に関して興味が無い方が多いのです。
その為、自分の生活には非常に関心が有るのですが、他人の事になると殆ど関心がなく
例え豊かな生活を送る様に成ったとしても、自分よりも下の地位とする人達に対しては
まったく気を配る事が無いのです。


つまり、豊かな人達は、自分達の事やそれ以上の生活をする人達に対しては関心が有っても
一般的な日常生活に四苦八苦している様な人には全く関心がなく、たとえ国の代表として
選出されたと言っても、内心ではその地位から得られる多くの特権には興味を持っても
自分を選出してくれた多くの庶民の現実の生活にはほとんど関心がなく、だだ、
経済的に豊かに成れば、自分達の様な豊かな生活が出来ると、常に上から目線の態度を
変えないのです。なぜ、何十年経っても、庶民の生活は豊かに成らないのかと言えば、
豊かな人達は、自分達の生活が豊かであればそれで満足だからなのです。

民主主義国家、自由主義国家、と言った肩書きを見せても、戦後変わらない格差社会が
無くならない限り、子供達の頃から、本当に対人的に平等である事を学ばない限り
現体制に於ける日本社会の在り方は、日本国民を便利な消費者にしたとしても、
安心した生活を営める幸せな国民には成し得ないのです。


豊かな生活をする事への高齢者の戸惑い

2018-10-30 13:39:45 | 日本人

今や、日本の高齢者の多くは、悠々自適の生活をして
余生を楽しく過ごしたいと思っています。
その為、仕事をリタイアすると、第二の人生とばかりに
それまでできなかった趣味や旅行に心を踊らせます。

日本中の観光地は、いずれも高齢者に溢れ、日本は
本当に年寄りばかりが目立つ国になったものだと思います。
その為、多くの企業も、高齢者を対象にしたビジネスを展開し
如何に多くの利益を獲得できるかで、躍起になっています。
日本を支える世代は、バブル期の様な余裕は無く、若者達が
未来の夢を失っている今、ある意味、多くの消費を期待できるのは
高齢者層と言えるのです。

確かに、老後の蓄えとして、多くのお金を持っているのは
現役を引退した高齢者達とも言えますが、彼らが、様々な場所に
観光で訪れたり、多くの特産物を買い求めたりするのは、
単に、物見遊山であったり、欲しい物珍しい物を買い求めたさ
であるのではなく、その様な豊かな老後を体験する事に依って
心を満たし、残り少ない人生を悔い無く過ごしたいと
持っているのです。

高齢者達を見ていると、ひとりで旅をしている方は非常に少なく
数人や数十人のグループである事が多いのです。
素晴らしい景色を見たり、美味しい物を食べたりすると、必ず
周囲の人や友達と確認し合って、同じ喜びを共有しています。
自分が素晴らしいと思った事を、他の人が認めてくれた時
初めて自分の感動が間違いでなく、しっかりと記憶に留める
価値のあるものと成るのです。

すなわち、人を通じて自分の思いを認めてもらう喜びです。
これこそ、高齢者達が一番望んでいる事なのです。
旅の美しい景色も、美味しい食材も、全てが、自分自身の
喜びを得たいが為であり、それを、共有できる事が一番嬉しく
高齢者達の生き甲斐と成っているのです。

この事は、高齢者に限らず、若者達も、現役で働く人も
広く言えば、日本中誰もが、自分を認めてもらいたくて
生きている様なものです。
もちろん、ハロウィンで奇抜な姿のコスチュームで身を纏う人も
暴れて注目を集める人も、それぞれが、自分の存在を、
人々に知ってもらいたいが為に有るのです。

幸い、高齢者の中には、沢山の老後の資金を蓄えていて、
それこそ、残りの人生を、何の苦労もせず生きて行ける人も
多いと言えるのですが、例え、大金を持っていたとしても、
そのお金で、誰もが自分を認めてくれる訳ではなく、何か
高価な物を手に入れたとしても、その事で、自分の価値を
認めてくれる人はいません。

多くの友と感動を共にして、お互いの喜びを感じる事に依って
生き甲斐を見出しているのです。
高齢者の悲哀、それは、社会からリタイアを余儀なくされ、
社会人としての価値を失い、人間としての盛りを過ぎたとする
心の寂しさに有ります。
残り少ない人生の不安を抱える中、自分が存在している意味を
感じさせてくれる環境を求めていると言えるのです。

友と共に、感動を分かち合い、お互いの存在を認め合う事に依り
自分がこの世に存在する意味と価値を見出していると言えます。
しかし、その一方、豊かな生活が無ければ、自分の存在価値を
示す事が出来ないと言う寂しさが有るのです。
仕事をしている時、一家の長として働いている気、常に自分を
リスペクトしてくれる人を感じていたのに、仕事を失い、
子供達も大きくなり独立して生きる様に成ると、自分自身が
この世に存在する意味を感じられなくなってしまうのです。

その寂しさを紛らわすために、旅行に出たり、様々な趣味に
興じたりするのですが、その時、旅や趣味を通じて、周囲の人に
自分の存在を認めてもらう事が大切と言えるのです。
豪華客船の旅を行うのも、全国の景勝地や観光地にでかけ
美味しい物を食べたり見たりする時、旅行者として歓迎される事で
自分の存在価値を確認する事が出来るのです。

しかし、多くの高齢者は、この素晴らしい持て成しが、自分達が
経済的な恩恵を与えてくれるから、行った先々で大切にされたり
丁寧な扱いをしてくれるのを知っています。
つまり、この気持ち良さは、多額の出費を行う事の引き換えであり、
個人的に人の価値としてもてなされているのでは無いのです。
例え、家にいて、孫たちが多く集まって来たとしても、多くが
見返りがある事での結果で有るのを解っているのです。

年寄りは孫に弱いと言う定説は、孫の言い成りに成ったとしても
自分の存在価値を認めてくれる方が、高齢者にとっては幸せと
言えるからなのです。
高齢者の悲哀は、自分達の生き甲斐を見出すためには、
豊かな経済的な基盤が無ければならないと言う事です。
多くの人が集まったり、孫たちがすり寄って来てくれるのは
自分達の人間的な価値と言うより、経済的な価値に依る事を
知りつつも、それが幸せと心に言い聞かせなければ成らない事です。

日本社会の一番の問題は、どんなに豊かな生活を行っていたとしても
多くの日本人には、その豊かを本人の人間的な豊かさとは思わず、
常に外見的経済的な姿で人を判断する事です。
社会もメディアも、外見的な豊かさを幸せとする、消費経済をより
推し進める傾向が多分にあり、日本人は、一生を通じて、常に
人と競い、自分の経済力を高める事でしか幸せを感じられない
人としての豊かさを失ってしまった民族とも言えるのです。

対人的に、お互いの価値を高める努力を怠り、少しでも
経済的に豊かさを競う事を目指す人生は、豊かな生活をすれば
心休まるかと言えば、仕事をリタイアして、悠々自適な生活を
送っていたとしても、相変わらず、心の底は、寂しさが有るのです。

日本人は、一体誰の為に働いているのか、誰の為に豊かな生活を
もとめているか、経済性に基準を置いてしまった事から、
世界のトップクラスの大国と成っても、日本人の心は、本当には
豊かに成らず、常に、誰かと比較してしか生きられないのです。

この生き方をする事で、潤っている人は、やはり、この様な
消費経済社会を自分の糧としている人達であり、彼らの豊かさは
多くの国民の心の苦しみの原因と成っているとも言えるのです。
自分自身の生き方を認め、自らが納得できる本当の幸せは、
経済的な物では得られないのです。


誰もが経済的に不安の無い、未来に対する健康不安も無い社会が
実現した時初めて、国民一人一人が自分の幸せに対して、ゆっくりと
考える事が出来るのです。
個人の幸せの違いが感じられる社会が、本当に豊かな社会であり、
外見的な物を豊かさの基準としている限り、果てしない欲望が
自らの心すら荒んだ状態にしてしまうのです。

日本人の寂しさは、身近に、自分自身の本当の気持ちを理解して
自分の存在を認めてくれる人が少ない事です。
人を見たら泥棒と思え、という程、現代日本は、心寂しい社会です。
そう、今日も、素晴らしいスーツに身を纏った国のリーダー達が
パフォーマンスに酔いしれています。
目先の欲望に溺れて、国民の存在に対して、何の心配りも感じられず
お互いに、ディベートを繰り返しているだけです。

彼らの最終的な答えは、国をリードする企業が推奨する、豊かな消費
経済国家です。
その経済社会の手綱を誰が取るかという関心が有るだけで、国民の
一人一人を如何に幸せにするかという考えは有りません。
昔から、誰が政権を握っても日本は変わらないと言われています。
何故なら、答えはいつも出ているからです。
そう、国民は、豊かな人達をより豊かにする歯車に過ぎないからです。

 

 




渋谷ハロウィン

2018-10-29 17:18:47 | 東京

今年も、渋谷の街はとんでもないこと成っています。
例年の事でも有るのですは、様々なコスチュームに身を纏った若者が
これ見よがしに歩き回るハロウィンは、彼らにとっては、とても楽しいと
言えるかもしれませんが、多くの人達にとっては、とても迷惑な行為と
なっている場合も有るのです。

問題の1つは、数日前から前夜祭の様に集まり騒ぐ連中であり、一夜にして
渋谷の街は、ゴミが溢れ見るも無残な姿と成ってしまいます。
毎年エスカレートする暴徒行為は、一部の人達とは言え、本当にハロウィンを
楽しもうとして集まっている多くの人達にとっても不快と言えます。

昨晩は、日曜日と有って、まだ本番ではないものの道路を埋め尽くす色とりどりの
仮装姿は、参加していない一般の人達にとっても見るだけで楽しいのですが、
中には、明かにアルコールで気持ちが大きくなっているのか、周囲の人達に
蛮行を働いたり、奇声を吐いたりと、取り締まる警察官の声にも耳を貸さず、
挙句の果ては、道路標識によじのぼったり、通りすがりの車を襲って横転させると
やりたい放題の無法状態です。

確かに、お祭りは誰もがテンションが上がり、日頃のストレスやうっ憤を晴らす
絶好の場では有るのですが、自分達の行為が、多くの人達に迷惑や被害を及ぼすと
ただの快楽行為では済まされません。
何人かの逮捕者が出たり、至る所で諍いが起こり、けが人も出ている様です。
しかし、この時、一番腹を立てているのは、ハロウィンに参加している、マナーを
守ってこの日を楽しみにして来ている多くの人達なのです。

何日も前から、中には、昨年のハロウィンの日から、この日を目指して楽しみにして
準備をして来ている人もいるのです。
日頃、全く想像も出来ない様な地味な仕事をしている人や、お祭りとは全く縁のない
ごく一般の人達が、悪魔やお化けに変身して、自分の心と身体を解放させようと
するのです。
誰もが、楽しい思いをしたいが為に、そして、楽しんでいる人達を見たいがために
様々な衣装を身に纏い、奇抜なメークでやって来るのです。

つまり、そんな中に、周囲に暴力行為を働いたり、人々の顰蹙を買う様な事を行う人が
目に付く事が最も嫌な事であり、多くの楽しみたいと思ってきた人達の心を傷つけ
悲しませる事と成るのです。
暴力行為をする人達は、お祭りの中で、自分達のうっ憤を晴らす事で気持ちが良いかも
知れませんが、その行為が、自分達が楽しんでいる楽しいハロウィンのお祭りを
委縮させたり中止させたりする原因になってしまう事が解っていません。

その時だけ楽しければ良いとするのかも知れませんが、その様な行為が、自分達の立場を
追い詰め、更には、社会的に排除される理由になってしまうのです。
ハロウィンをに限らず、日本中で行われる様々なお祭りは、ただでさえ、周囲の人達に
全て受け入れられているとは言えず、開催に当たっては、多くの人の努力が有るのです。
当然、ハロウィンを良く思っていない方も少なく無くて、毎年の様に、ゴミだれけに成ったり
街の至る所で破壊行為が行われれば、渋谷の町に住む人や商店を営む人達からも、不満が
沸き上がるのは当たり前と言え、この様な暴力行為が続けば、ハロウィンが、中止の方向に
進むとも限らないのです。

全国で行われる様々な祭典は、周囲の人達に如何に迷惑を掛けないかと言う事が前提であり
多くの中止に追い込まれる祭りの原因に、参加する人達のマナー不足や乱暴な行為が有ります。
それ故、祭りを楽しみにしている人達は、この様な蛮行が行われる事を最も嫌うのです。
警察や関係者も、お祭りゆえ、大目に見ているのですが、余りにもエスカレートすれば、
主催者側として、強硬な手段に出る事も大いにあるのです。

DJポリスとして、和やかな言葉でお祭りに参加する人達にマナーを呼び掛けている警察は
ネットやニュースで一躍有名に成りましたが、どんなに易しい口調で呼びかけようと、
彼らの仕事は暴徒を取り締ます事です。たまたま、日本の場合は、国情によって、平和的な
取り締まりになっているだけで、国が違えば、迷惑行為をする殆どの若者は、あっと言う間に
逮捕されても不思議ではないのです。

法治国家として、国民を守る事を主体とした警備体制を行っているからこそ、大目に見られ
多くの我儘行為が見過ごされているだけであり、警察も周囲の商店街の人達も、彼らを摘発し
ハロウィンを中止させる事は出来るのです。
マナーの在る日本人として広い心で見ているだけで有って、それらの行為を決して見逃して
いる訳ではないのです。
ほんの一部の人達の悪質な行為が、ハロウィンを楽しみにしている多くの人達の夢を奪い
自分達も我儘な暴力行為により、臭い飯を食い聞きたくもない説教を聞かされなければ
ならなくなってしまう事を考えなければ成りません。

自由主義国家に居ると言う事は、何でもして良いと言う事ではなく、常に、周囲の人に気を配り
互いに相手の思いを知る事で、自分がどの様に振る舞って良いかを考えていなければ成りません。
一人一人が自分の事だけを考えて、自分の欲望だけを満たそうとすると、様々な場で諍いが起こり
挙句の果ては、自分の思いすら叶えられなくなってしまうのです。
この事は、全ての世代に於いて大切な事であり、小さい頃から、人の中で生き人に生かされている
と言う意味を知る教育を受ける事が大切です。

残念ながら、日本の教育は、人間を育てると言うより、欲望を叶える為の術を教える教育が主体です。
人の生きる目的は、他人よりも経済的に豊かと成り、自分の思い通りの生活が出来る事とする考えが
日本国民の中に蔓延しています。と言うより、その様な生活をしなければ、日本で安心した生活を
手に入れる事が出来ないからとも言えます。

誰もが、思い通りに経済的に豊かに成れればいいのですが、それが叶うのはほんの一部の人達です。
多くの国民は、常に欲求不満の状態であり、生きる事で心が晴れない人々が多いのです。
自分の為に働くと言うより、日本経済社会で生きて行く為の出費を稼ぐ為に働かなければならず
様々な形でうっ憤を晴らそうとする人が出て来るのです。

ある者は、ハラスメントと言う形で晴らそうとし、あるものは、より豊かな人達に媚び諂う事で
多くの利益をえようとします。
儘ならぬ日常から、一時で有っても、心を開放する為に、楽しいお祭りが有るのです。
そこに集まる人達は、お祭りに参加する事で明日への力を得たいとする人も多いのです。
お祭りは、人の喜びを身近に感じて自分の生きる糧とする事が出来るのです。

リオのカーニバルに参加する人達は、その日の為に、一年間お金を貯め、高価な衣装に投じます。
生活の全てをカーニバルに費やすのは、その数日間のお祭りから得られる喜びや生きる力が
彼らの生きる糧と成るからです。
例え、一般の人達が、其々の思いで作った衣装で有っても、お互いに思いを感じる事に依り
生きる勇気が湧いてくるのです。

中には、この日が有るから頑張れると言う、リオの人達の様な方々もいることでしょう。
日本中のお祭りも、人々の生活に根付いて、そこに住む人達の生きる糧と成っているのです。
本当にお祭りを楽しみたいのなら、周囲の街の人達や警察に中止させられる前に、
ハロウィンが自分達にとって無くてはならないものであり、街の人達にも愛されるものである
と言う事を示さなければ成りません。

自分達の欲望を出すだけでなく、ハロウィンを支えてくれている多くの人達を納得させる
素晴らしいパフォーマンスとマナーを見せる事が一番大切です。
今や、ハロウィンは、バレンタインデーに優る経済効果があると言われるようになりました。
この事は、渋谷の地元の人達も大きな期待を抱き、更には、ハロウィンを知らない人達も
その存在を知って、更なる参加者が増えて来る事も期待出来るのです。
暴走して警察当局の世話になって、お灸を据えられることぐらいでは済まされないのです。
彼らの行為が、多くのハロウィンを楽しみにしている人達の夢を砕いてしまう事を
参加者全員が心に止めて、マナーをもって楽しいお祭りを楽しんで欲しいものです。

 




日本人は、何を求めて生きているのか

2018-10-27 18:04:31 | 日本人

一体、日本は、何処に向かって進んでいるのか解りません。
経済大国として、世界に名を成すようなって、数十年と成りますが、
一向に、先が見えていません。
ただ、消費経済社会を続ける事を旨として、経済活動を活発にすることが
日本の目的の様になっていますが、この事で、どれ程、国民全体が
豊かに成ったと言えるのでしょう。
間近に迫った東京オリンピックも有って、街並みも大きく変わり
巨大建築物が目立って来ましたが、それとて、本当に経済を活性化し
日本国民を豊かにすると信じて良いのでしょうか。

関連施設を作る槌音も高く成ってきたとはいえ、突然、担当業者が
経営破綻に陥り、途中から投げ出している事実は、外見的には
華やかな建設事業が、様々な所でほころびを生じているのではと思えます。
都内の状況を見ても、膨大なる予算が投じられているとはいえ、全ての
建築施設が滞りなく進んでいるかと言えば、疑わしい所が多分に見えます。

私の自宅の近くを通る山手通りは、10年以上前から、都内の渋滞を緩和するとして
車線拡大や地下トンネルの建設に多くの建設会社が関わっていますが、
その進行状態は、遅々として進まず、渋滞緩和の為と言いながら、これまでずっと
連日の渋滞が無くなる事は無く、何度も道路を掘り返し、様々な業者が入れ替わり
立ち替わり、道路を封鎖している状況は、明かに、早期完成を目指しているのではなく
仕事を増やして長期に渡って利益を得ようとしているようにしか見えません。

この様な建築現場は、都内に於いても多く見られ、業者間でお互いに建築期間を
より長くしている様にしか見えません。
特に、山手通りの様に、多くの業者が関わると、其々の業者が関わる度に、
折角作られた道路が何度も壊されると言う、無駄な作業と資源の浪費が目に付きます。
この事は、縦割り社会の建築業界だけでなく、政府関係者も理解していないと思われ
復興事業と同じく、建設業者への丸投げ状態で行われ、国民の感情を全く無視した
利益のみを追求した高度成長期の街づくりと何だ変わりません。

日本社会は、歴史的に多くの建物や建造物が残っているとはいえ、それらの多くは
限られた地域に限られ、都市部における歴史を感じさせる建物は、非常に少なく
常に、街の形が変わって行く、経済的な事だけを追求した街並みが少なく在りません。
その為、東京の様に、歴史を感じさせる建物や街並みが殆ど見られず、たとえ
戦争で全ての物を失ったとは言え、その後の東京都の再建計画は、ただ業者に丸投げの
将来の事を考えない、目先の利益を考えた建築物ばかりの成りました。

ヨーロッパに見られる、良きものは後世に残そうとする、新たなる個性のある街を
作ろうとする機運は無く、其々の欲望の元に勝手に作られた将来に残る価値の無い
刹那的な建築物が多くなっているのです。
この事は、住民感情に対する配慮があまりにもない事でも解ります。
建築業者や土地保有者達の自分達の利益だけを考えた、周辺の人や建物に対する
配慮が全くない新たなる建造物を作る事を見ても、如何に、東京の街が
身勝手に作られていいるのかが解ります。

国民は、与えられた環境の中で、ただ、多くの利益を考えるだけのための
外見だけ美しい街の中でより消費を促されるだけです。
豊かで華やかな都会の町並みは、国民の為にあるように思えますが、殆どが
巧みに作られたトラップとも言え、巨大施設は、後世に残す豊かな文化遺産
とは程遠いものです。

街中に有る多くの緑地帯と同じく、外見的に美しい町並みは、国民生活を
本当に豊かにすると言うものではなく、一部の豊かな人達をより豊かにする
フェイクと言えます。
公園の植物が、動物たちや昆虫が寄り付かない毒を持った植物が多い様に
全ての国民を幸せにするように見える大都会の華やかさも、人間の欲望を
叶えるための巨大な罠ともいえるのです。

多くの人々が関わる施設や公共物は、国民にとって、本当に幸せとなる
利益を生む場所でなければなりません。
単に儲ける為の施設であってはならないのです。
国民が消費生活を行うと言う事は、そのことで国民生活に利益が生まれ
需要と供給のバランスが図られることが大切です。

しかしながら、高度成長期の頃と変わらず、日本社会は、起業家たちの
膨大なる利益の陰で、国民の犠牲が有り、とめどない消費生活だけでなく
多くの公害や健康被害に苦しんできたのです。
経済的に豊かであり、社会的地位が有れば何でも許されるとする横暴が
常に、多くの日本国民を苦しめてきたのです。
経済成長と言う、あたかも国民が皆幸せになるかのような言葉の陰で
守銭奴たちの欲望が渦巻いているのです。

働けど働けど、自分自身を幸せにすることが出来ず、消費経済社会で
より多くの消費をし続ける事を強いられ続ける日本人が、本当に
幸せになれる訳が無いのです。
資本主義社会における国民生活は、一部の人達だけの利益では成り立たず
常に、消費経済社会を支える国民生活の豊かさが前提と言えます。
一部の人達だけが潤い、大多数の人達が苦しい生活を強いられる社会は
もはや自由主義社会と言うより、商業的独占社会と言えるのです。

戦後の日本社会の最大の間違いは、外見的豊かさを求めるだけで、
本当の国民の幸せを考えず、一部の支配者たちの豊かさを求めた
国民にも日本の美しい自然にも苦しみと悲しみを与えたの事です。
負の遺産の多くは、いまだ解決されることなく日本中に隠され、
国民は相変わらず、見てくれの先進国家の華やかさに騙されて
日々独楽鼠の様に豊かな人達の為に働き続けなければなりません。

私達は、様々な人間社会に生まれます。
どんな親の元に生まれるかわからない様に、どの様な社会で
生まれるかを選ぶことは出来ません。
たまたま平和な日本に生まれただけであり、ひょとしたら
日々爆弾が降り注ぐ戦地に生まれたかもしれません。
しかしながら、如何る地に生まれても、生きている幸せを
感じたいものです。

経済的に満たされるだけの幸は、対人関係に大きな問題を生じます。
国家レベルの事であっても、国民全体に様々なストレスを与え
外見的な豊かさに比べて、人々の心は決して豊かになるとは
言えないのです。
経済的に豊かになる以上に、人類が幸せになる為の社会を目指し
見た目だけでなく、心から幸せな社会を目指すことが今後の
日本社会に於いて最も大切と思われます。

 

 

 

 


心からの繋がりが持てない日本人

2018-10-26 18:59:51 | 日本人

資本主義社会における需要と供給は人々にとっては恐ろしいもので
社会に求められるときは、全てが追い風と成り、何をやっても驚く程
上手くいくものであり、本人の能力如何に関わらず、生きて行く術が
簡単に身に付いて来るものです。

しかしながら、その流れが変わった途端、それまでの追い風はぴたりと止まり
どんなに努力をしても、それ以前の勢いには程遠い、向かい風が吹いて来るのです。
今や、多くの日本人が、と言うより、昭和の高度成長期で生きた人達にとって
正に苦悩の時代と成っているのです。
バブルに至るまでの日本経済の勢いは、正に破竹の勢いと言ってもいい程であり
日本中の企業や会社が、常に右肩上がりの業績に沸き返り、まるで上限が
無いかの様な好景気を味わいました。

日本は、世界で指折りの高度成長国家と成り、国民の生活は目に見えて豊かと成り
留まる事を知らない収入は、多くの国民を消費経済国家の財源として、国を潤し
社会を大いに発展させました。
その後訪れるバブル崩壊と日本経済の低迷を、一体誰が予想したでしょう。
人々の暮らしは一変し、多くの会社企業が倒産し、失業者は溢れるばかり
華やかな日本社会は、暗いトンネルに突入して行ったのです。

あれからもう30年を過ぎようとしています。
日本経済は復活したのか、と言えば、したともしてないとも言えるのです。
と言うより、日本経済の形が大きく変わり、日本国民の生活が変わって
しまったのです。

殆どの国民は、常に出費を抑える事を前提に消費する生活になり、湯水のように
浪費していた
バブルの頃とは打って変わって、質素な生活を強いられる事と
成りました。

しかしながら、日本経済の総生産、総所得と言った、全体的な経済力は、
バブル崩壊後も、
それ程落ち込んでいる訳ではないのです。
最近では、むしろ、増えているとも言える日本経済力の姿が見えて来るのです。

ならば、国民生活はと言えば、殆ど人達は、バブル崩壊後から差ほど豊かに成らず
むしろ、生活苦が進んでいるとも言える状態なのです。
便利な社会になったとは言え、出費は増える一方であり、国民生活が豊かに成ったとは
とても言えないのです。
では、何故国民総生産が上がっているのに、国民生活が一向に豊かに成らないのか、
それは、その内訳が、戦後の苦難に満ちていた時代とは大きく違っているからです。

現代日本を支えているのは、国民総生産を殆ど支えているのが、一部の大手企業であり
巨大経済界であるからです。
つまり、日本人のほんの一部の人達が、日本経済を支えていて、前以上に膨大な利益を
得ているのです。
そして、殆どの国民は、毎年出費は多くなるものの、相変わらず所得が増えず、
ある意味、高度成長期より苦しい生活を強いられているのです。

便利で豊かに成った社会は、その分、大量の出費を求められ、現代社会に
生きて行くには、それ相応の高額所得者でなければ、余裕をもって

生活出来ないのが現状なのです。
バブル崩壊後、多くの中小企業が倒産し、そこから投げ出された多くの
失業者達は、いまだに豊かな暮らしが出来ず、日々の暮らしん四苦八苦

しているのが現状なのです。
大型企業や大型組織は、不況と成ろうも、互いに提携し合併を繰り返し、
より巨大企業として、力をつけて来ているのに対し、殆どの中小企業は

関連企業の倒産も有って、益々弱体化を余儀なくされているのです。

更に問題は、日本企業の主要産業は互いに結び合う事で、更なる利益増大を図り、
一般企業に比べて大きな力を有し、中小企業に大きなプレッシャーをかけ

更なる倒産を招いているのです。
互いに提携する事も出来ず、自力で企業利益を上げる事さえ難しい中小企業は、
次第に力を失い、更には、経営者や社員の高齢化も有って、倒産せざるを

得ない状況となっています。
この事を、政府は知りながら、一向に抜本的な対策を考え出すことなく、
自然消滅を図ったり、大企業に吸収させると言った、二極化社会を

増長させる事しか出来ません。

正に、日本社会は、財源も権限も全て一部の大手企業や財界に委ねる事で、
国民の声は、益々中央に届かず、政治家すら国民に背を向ける国と成って
しまっているのです。

今や日本人は、経済的力を吸い取られ、自分達の不満を爆発させる場も失い、
まるで、去勢された犬の様に、ご主人様の顔色をうかがう国民と成って
しまったのです。

国民総ナンバー制度は、国民生活をガラス張りにし、いかなる不穏な動きも
不審な行動も摘み取る体制と成り、多くの日本人は、ただ、日本を動かしている

一生、それこそ、国の歯車と成って働き続けなければ成らないのです。

多くの国民に見られる覇気のない疲れ切った表情は、自分の為に生きるのではなく、
経済社会を維持するために、豊かな人々をより豊かにする為、夢も希望も
捨て去った姿と言えます。

日本国民が豊かさを感じるのは、自分自身の心の豊かさではなく、社会的価値を 
自分の価値とする、何時まで経っても本当に満足できない、裸の王様の様な
生き方に過ぎません。

見た目、どんなに豊かな暮らしをしていても、それは、社会に見せる外見的な
価値であり、本当の自分では有りません。肩書きも身分も地位も、全てが

この世で生きて行く為の術であり、そこに本当の自分が入る余地は有りません。
それらの社会的価値を取り去った時、そこに、一人の人間としての人々から認められる
個性も価値もなく、ただ、物質として考えられる、数千円の価値の物体でしか
無いのです。


人の命は、地球よりも大きいと言うのは、日本社会では考えられないものであり、
人によっては、家庭の電化製品の1つよりも価値が無いとされる人も少なくないのです。
これは、多くの豊かな物に囲まれていないからと言う事で無く、経済的に豊かな人であっても
現代日本人に於いては、人としての価値がそれ程にも落ちているのです。

その為、社会的経済的に価値があると認められると、まるで、蟻が砂糖に群がる様に集まって
来るのですが、一度その価値が無いとすると、一気に、蜘蛛の子を散らすがごとく、
誰も居なく成り、気が付いたら独りぼっちと成ってしまう事も珍しくないのです。
かつての日本社会は、貧しかろうが豊かであろうが、日本人同士は、お互いの思いを尊重し
生き方をリスペクトして生きていたものです。

誰に対しても礼儀を尽くし、其々の生き方を尊重する事で、対人関係を円滑に豊かにして
来たのです。

しかし、今や、人間の価値が経済的な豊かさに取って代わってしまった事から、日本社会が
大きく変わり、人々は、自分の身の回りの人の気持ちを考える事が無くなり、と言うより、
考える力を失い、ただ、自分の利益が損なわれるか、対人的に常に恐れる、腫れ物に触るような
社会と成ってしまったのです。

肩書きでしか判断が出来ない人が増える事で、本当の人の気持ちが理解できず、様々な生活の場で、
お互いに疎遠に成ったり、傷つけあったりすることが多くなってしまったのです。
かつて、子供達のイジメが社会問題として大きく取り上げられた時は、一般社会においても公然と
イジメや暴力が認められました。経済偏重社会と成って、子供達は自分達の存在価値を認められず、
社会的な価値、すなわち成績のみで差別された事に大きく反発を覚えました。

日本中の学校で暴力の嵐が吹き荒れたのですが、それとて、喚き、叫び、暴力を振るったとて
自分の利益には繋がらないと悟った多くの日本人は、自分達の心の叫びは、経済的な力でしか
得られない事を悟ったのです。
人としての価値を認めてもらおうと叫んだ時代から、社会的な地位や財産を得さえすれば
我儘が出来るとした、人の価値を社会的価値に置き代える人生を選択したのです。

今や日本人は、対人的に相手がどの様な地位の人であり社会的な力を持っているかで
人を判断する為、あらゆる可能性を考え、出来るだけ、個人的な関わり合いをしない様に
成ったのです。

怯える日本人が増えたのは、自分の主張は、どんなに正しくとも、自分より社会的に上の人には
絶対服従と言う暗黙の了解が有るからです。

如何に、自分の価値を上げるかは、より経済的に豊かな人と繋がるかにあるとする日本人が多く
人間同士の心からの繋がり合いは、二の次と成ってしまったのです。
その為、人としての価値はますます薄っぺらな物と成り、人が人を育てたり愛したりすることが
非常に苦手な民族に成ってしまったのです。対人センスが育たない事から、極端に丁寧に成ったり
マニュアル的な話し方しかできない日本人がとても増えています。

相手がその場にいなければ、自分の一方的な考えを主張出来る事から、今や、ネットによるやり取りが
全ての国民に共通のコミュニケーションと成っているのです。
例え、家族であっても、メールでしか話せないと言う若者達も数多くいます。
ネットの発達によって、世界は益々狭まった様にも感じますが、人間同士の心の交流は益々疎遠と
なってしまい、相手の事を考えられないハラスメントがが当たり前の世界と成っているのです。

この見た目だけの、砂上の楼閣の様な日本社会がどんなに経済的に豊かに成ろうとも

国民は幸せに成れる訳が無いのです。
それ程にも不安定な日本に於いて、たとえ、莫大なる利益を得ている一部の人達であっても
国民が足元を浚われそうな砂の上で喘いでいる現状で、更なる利益を手に入れようとするのは
余りにも軽率であり、いずれバブルの崩壊の様に、富裕層で有っても憂き目を見る事になりかねず、
国民の幸せが有ってこそ自分達も豊かな暮らしが出来る事を理解しなければ成りません。

また、国民も、親方日の丸の言い成りに成っていたり、与えられるが儘に消費を続けていては
本当に自分が幸せに成る為の財を失ってしまうのです。
今や、日本人全てが、日本人としての生き方を問われていると言えます。
一体何のために豊かに成りたいのか、何のために生きているのかを、一人一人がしっかりと

自分自身に問いかける事が大切と思われます。