花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき、とは、林芙美子の短詩として有名ですが、
桜の花を見ていると、本当に、その儚さが伝わって来ます。
黒いか細い枝で寒さに耐え、ようやく蕾と成って花を咲かせたと思ったら、あっと言う間に
流れる川に身を任せる、日本に咲く数々ある花の中で、これ程、私たち日本人の心を
震わせる花は有りません。
たかが花とは言え、その咲き姿に多くの人が我が身を当てはめ、人生を思います。
桜だけでなく、四季を通じて、日本の自然は、日本人に多くの感動を与えます。
しかし、桜の花は、中でも特別な存在と言えます。
日本人の心に有る自然の美しさの中でも、富士山と同じく、私達の心に深い感動と
歓びを与えてくれます。
日本列島は昔から自然災害に見舞われ、豊かな自然に恵まれているとはいえ、
先人たちは、その猛威に苦しめられてきました。
耕作地が少ないだけでなく、幾度となく自然災害で命の糧を失い、更には、
人畜の被害も少なくは有りませんでした。
その為、如何に、災害から逃れ、多くの糧を得るかを考え、常に、大自然の変化に
敏感に対応するようになったのです。
季節の移り変わりをつぶさに感じ取り、生きて行く為の術を学びました。
しかしながら、大自然の力は凄まじく、時には、大飢饉に見舞われる事も珍しく無く
日本人は、自分達ではどうにもならない自然の力に、神々の存在を信じたのです。
後に、仏教や儒教、更にはキリスト教などの宗教が人々に信仰される様に成っても
日本人の心の奥には、常に、大自然を作り出す神の存在が有るのです。
この事が、日本人が、世界のトップクラスの経済大国となっても、国民の心の中に
大自然に対するノスタルジーを失わない理由とも言えます。
例え、遠い昔の日本を知らない現代人であっても、DNAには、先人から受け継がれて来た
大自然に対する深い思いが有るのです。
資本主義経済大国となった今でも、日本人が本当に求めている世界は、単に物欲に塗れた
消費経済社会では無いのです。
多くの日本人が、経済的に豊かになった時求める物は、かつてのに日本人が生きていた
大自然と一体となった生活です。
自然と対峙し、自然と共に生きる事で、日本人の多くが求める心の安らぎを得ようと
するのです。
本来、人類は、大自然の食物連鎖の中で生きて来たのです。
大自然に生かされている事を感じた時、最も人間らしい心の豊かさを感じるのです。
しかしながら、日本人の生活は、相変わらず、消費経済社会の中にいます。
幸せは、如何に多くの消費が出来るか、欲しい物を何でも手に入れる為の財を成すか
に在るのです。
巷に溢れる煌びやかで豊かな消費物資を求めて、日本国民は、あくせく働きます。
それらを手に入れられる事が幸せと思っているからです。
そして、経済成長に伴い、多くの人が、欲しい物を手に入れられる生活を得る事が出来
次々に欲望に任せて買い求めます。
自分が知る限り、自分の財が許す限りの贅沢を試みます。
人が羨む高級品を身に纏い、高級な車、そして憧れの大邸宅をも手に入れる事に成ります。
自分が憧れた物を手にした時、その価値は、一体誰が認めるのでしょうか。
残念ながら、どんなに高価な物を手に入れても、それを羨み妬む人は増えても、
自分自身の価値と共に評価してくれる人は少ないのです。
物の価値とすれば、遥かに豊かな人は、世界にいくらでもいるのです。
世界の大富豪からすれば、日本で多少豊かな生活をしたとしても、同じ程度の日本人と
何の感動も無く見定められるだけなのです。
そんな時、またもや、更なる高価なもの、他人の羨む物を手に入れようと頑張るのでしょうか。
多くの日本のお金持ちが陥る豊かな財産所有と寂しい孤独の毎日です。
いくら多くの財を成しても、地位や資格を手に入れても、その事で、人間としての価値を
感じてくれる日本人は少ないのです。
何故なら、日本人の価値観は、個人的な経済力や社会的な地位、財産ではなく、
お互いに共有できる、日本人としての生きる為の価値観に有るのです。
その共通の価値観が、日本人が、桜を代表とする大自然に対峙した時に感じる
自然と日本人の一体感なのです。
ただ外見的な美しさであるならば、多く訪れる海外からの観光客と同じであり、
単なるフェスティバルに過ぎません。
楽しさだけを求め、刹那的な喜びに浸るだけなのです。
しかし、桜に対した時、日本人は、まるで、荘厳な神社に参った様な感覚と成り
心の底から感動するのです。
寒さに耐えて美しく咲くだけでなく、散る事にも感動し、川の流れに美しい帯を成し
最後まで私達を感動させる姿に、心が動かされ、生きる為の力を感じるのです。
桜だけを見ても、これだけの心の感動が有るのです。
日本は、四季を通じて、様々な大自然の営みが有り、その全てが、私達日本人の
心の糧となっているのです。
生きる為の食料としての糧だけでなく、人間として成長する為の心の糧として
日本人は、大自然と共に生きて来たのです。
何でも手に入る世の中に成ったと言え、実際は、物欲を満たす事ばかりが増えて
一番大切な、日本人の心を豊かにする糧を見失っているのです。
その代償として、経済的に豊かな生活を求めたのですが、日本人の心は
経済成長と反比例して、次第に疲弊し、生きる事に苦しむ事と成ったのです。
しかし、日本経済は、日本人に心の糧を提供する事無く、更なる散財をする事で
豊かな生活が出来るとしています。
日本人を幸せに導くはずのリーダー達の多くも、経済発展こそが、日本人を
幸せにすると信じて疑いません。
しかし、その経済性を求めた人たちの豊かさとは、地位や財産とは比較に成らない
貧しい心と狡猾な考えです。
日本を代表するような方々が行う事とは思えない、余りにも幼稚で我欲に満ちた
犯罪行為が蔓延しています。
例え、優秀な成績をもって優秀な学歴で日本の中心となる仕事に就いたとしても
肝心な人間としての成長が出来なかった人達が多い事を示していると言えます。
この事は、消費経済国家の最大の問題であり、どんなに豊かな生活が出来ても
人として成長できない事実を如実に表していると言えるのです。
桜の花を見た時の感動を、一年を通して得られていたのが本来の日本人なのです。
日本人は、美しい日本の自然に生かされ育てられ、人間として成長して来たのです。
物の価値をお金でしか判断できなくなった時から、日本人の苦悩が始まったのです。
日本人の生きる為の価値観を経済的豊かさに求めた時から、日本人の心は、
どんなに豊かな生活をしても満たされず、成長しない心は、幼稚な犯罪や安直な
書き換えに走ってしまうのです。
現代日本人は、今までで一番、日本人同士での心の交流を失っていると言えます。
常日頃、周囲の人達や家族の心を気遣う事で、お互いに心の平安を保って来たのですが、
今や、他人とは関わらず、たとえ家族であっても、お互いに孤立をしている人が多く
関わる時は、何か利害関係が生じた時だけであり、対人関係は常に緊張した
ギスギスとした他人行儀の様な方がとても多くなりました。
自分が傷つかないために、他人と関わらないと言う人も多く、やたらと丁寧なだけで
心が籠もらない応対しか出来ない若者も少なく有りません。
心が弱く、ちょっとしたストレスで病んでしまう人も多く、相手が何を考えて居るか
察する力も無く、おく病に成ったり、逆に暴力的な成ってしまう人も見られます。
人の心は、決していつも同じではなく、まるで春の天気の様に次々に変化して行きます。
例え、対人的なハウツウを習ったとしても、それは営業対応にしかならず、心から
お互いを理解する事には繋がりません。
日本人は、次から次に変化して行く大自然と共に生きて来た事から、対人的にも
お互いの心の変化に敏感に対応できる力を持っていたのです。
言葉のほんの小さな言い回し、語調、表情、仕草と、様々な変化を感じ取る事から
深く心の底からお互いを理解する能力を身に付けて来たのです。
しかし、現代社会は、ほんの表面的なやり取りで、経済的な利益のみを求める対応となり
人々が、お互いに深く相手を理解する術を見失ってしまったのです。
近年、盛んにニュースに取り上げられる、セクハラ、パワハラと言った対人的トラブルは
お互いに相手の気持ちを察する能力に欠けて来た事から、自分勝手な考えが先行し、
他人を傷つけたり傷つけられたりするようになったのです。
日本人の桜の花に寄せる思いと他人に対する思いは、かつて同等だったのです。
それ程にも繊細で優しさ溢れていたのが本来の日本人なのです。
今や、喜びや幸せはお金で買うものとする社会が日本人を苦しめているのです。
人の心は、桜の花の様に美しく儚いものなのです。
一人一人が持っている心の花を理解しようとする社会となる事が、
日本人が幸せに成る道と言えるのです。