めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

お金持ちになりさえすれば

2017-05-31 16:02:01 | 社会

幸せと思う気持ちは、自分が誰かによって生かされている時
また、誰かを生かしている時感じる事が多く、いずれも、
どちらが欠けても、成り立たない事が多いものです。
人は、欲しいものが何でも手に入ると幸せと感じ、
病気もせず健康であることも幸せと感じます。
これらの事は、いずれも、何だかの方法で心が満たされ
安心を得られた時生まれるものでもあります。

しかし、今や、幸せと感じられない人々が増えています。
この事は、世の中が不景気であり、生活が安定していないから
更には、お金と自由が手に入らないから不幸せと思う方が多いです。
ならば、お金と自由が手に入れば幸せかと言えば、必ずしも
そうとは言えず、人間の心は極めて面倒で不可解と言えます。

お金が無い人から見れば、お金持ちは幸せに違いないと

思えるのでしょうが、それは、お金が無いからそのように
思うのであって、実際に、何不自由ない生活をしている人は、
お金を持つことの幸せは感じていなくて、お金を考えない
生活をしている時幸せと自由を感じているのです。

本当にお金に不自由してない人の多くは、現金を持ち歩かず

現金を直接使う事もほとんどありません。
つまり、現金を与える事与えられることで、人との関わりを
持ちたいと思わないのです。
どんなに大きな買い物をしても、自分のサインの価値がある事に
喜びとステイタスを感じるのです。

現実ではお金のやり取りがあるとはいえ、本人にとっては

自分自身の価値が欲しいものを手に入れていると思うのです。
しかしながら、このお金に直接かかわらないで生活できると
お金の授受が、自分の存在価値であり、自分の地位や名誉が有れば
何のためらいも罪の意識も無くなってしまう事も有るのです。

お金が無くて、不正なやり取りをするのではなく、自分の地位や

価値観がお金を手に入れる理由と成ってしまうのです。
上手い話があれば、何の抵抗もなく、悪事に手を染めてしまうのは
決してお金に不自由しているからと言うのではなく、自分の地位を
何でも思いが叶えられる我儘が許される身分と思い込んでしまう
錯覚が生まれるのです。

周囲の他人は常に自分を立て、自分は上から目線の生活を送れば

何でも自分が思う物は、何でも手に入れられると錯覚するのです。
自由主義社会に於いて、社会的地位が上がり、所得が増えて
望む物が何でも手に入れられるようになると、地位が有れば
何でも許されると思い込んでしまうのです。

お金が無ければ、お金を得るために周囲の人達に気を使い

生活を切り詰め、如何に生きて行くかを考えるのですが、
一度、お金に不自由がない生活を送るようになると、お金を通した
周囲の人々との関わり合いや思いやりが無くなり、自由に我儘を
貫くようになってしまうのです。
それ故、成金的な人生を送っている人の、荒っぽい対人関係が
周囲の人々を傷つけたり、更には、自らの計画性の無さが
短期間で生活破綻を生んでしまう事も有るのです。

しかしながら、問題は、最初からお金に不自由しないで育ち

そのまま、社会的地位に就いてしまった問題児たちです。
お金に不自由していませんから、生活に苦労している人たちの
気持ちが解るはずが在りません。
更に問題は、自分の地位に寄り添ってくる金の亡者たちを
お友達としてしまう事です。

亡者たちは、地位と名誉をよりくすぐり、自分達の利益を

より得る為に甘い汁を用意します。
所が、金銭的な駆け引きに弱い問題児たちは、簡単にその甘言に
乗ってしまうのです。

社会的に地位がある事、お金に不自由しない事で、自分の周囲に

集まって来るよかならぬ人たちを見分けることが出来ないのです。
地位や名誉が、自分の欲を通すための道具と成ってしまえば
悪友たちの思うつぼです。

まるで操り人形の様に、成すべき仕事を忘れ、亡者たちの欲望を

叶える為に、自分を支えてくれている多くの人々の思いを無視し
小手先の政を行うのです。
連日集まる貢物は、自分が行うべき仕事の報酬とは、比べ物に
成らないものと成ります。当然、足の着く現金の授受は極力隠され
人々の目に付かない所で、大金が舞っていると言えるのです。

こんな漫画の様な世界が、自由主義社会の頂点に於いては

当たり前に行われている事を私達は知らないだけであり、
時たま、その尻尾を掴まれておたおたしているのを、マスコミや
国民に非難されるだけなのです。

本当にお金の価値を知っているお金持ちは、私的な金銭の授受には

非常に気を配ります。その事で、自分の地位や財産を失ったり
多くの人々の信頼を無くしてしまったりするからです。

お金は天下の周りものと言われるように、いつの間にかに集まって

来たり、あっと言う間に消えてしまったりと、人々を悩ますもの
なのですが、お金は、人々の経済的なやり取りを便利にするのであって
やり取りの結果は、お互いに幸せでなければなりません。
一方的に利益を得たり、陰で膨大な利益のやり取りを行う事は
それに関わる多くの方々の信頼を失う事と成るのです。

昔から、本当のお金持ちは、ケチであると言われます。

それは金の亡者と言うのではなく、お金の価値と恐ろしさを
良く知っていて、お金の扱いに厳しいだけの事なのです。
お金は生活を便利にし、幸せにしなければなりません。
お金によって、人々が苦しんではいけないのです。

つまり、お金持ちになると言う事は、お金のことをより知って

お金がもたらす人々の関わり合いの意味を知ると言う事です。
お金が単なる欲望を満たすものとなった時、お金に自由を奪われ
地位も名誉も、人間としての価値も失ってしまう事が有るのです。

 

 

 

 

 





 


欲望を棄てられない人間の甘さ

2017-05-30 13:40:31 | 人生

何故、我が国は、上に立つ人達や社会をリードする人たちの
不祥事や事件が多いのでしょう。
今に始まった事では無いにせよ、国民が未来を託している人たちの
有ってはならない私利私欲に満ちた著名人有名人の悪行が目立ちます。

中でも、国民のトップに立つリーダーに次から次に降りかかる疑惑は、
本人の全面否定と取り巻きの保護弁護の姿を見ると、日本人として
情けないだけでなく、今の非常事態で、一体何をしているのかと、
怒りが沸いて来るのを止められません。

今や、隣国からのミサイル実験はどどまる事を知らず、それに対抗すべく
連合国の動きも一発触発の事態と成っています。
私たち国民は、一体どうしたら良いのかと不安に思う毎日であるのに
国民を安心させるべく人たちが、己の不祥事のもみ消しに躍起と成るとは
日本人は、戦争にまき揉まれる以上に苦痛を強いられる事と成っています。


それにしても、何時から日本人は、これ程にも、大人になれない、我欲に満ちた
餓鬼の民族と成ってしまったのでしょうか。
他人の事をより考え、人々の為に生きる事を常とする方々が、一方では、
自分の欲望に負けて、悪事を働くと言うのは、映画やドラマの世界だけで
十分であり、現実でない事だから面白いのです。

しかし、事実は小説より奇なりと言うべきか、現実の世界の方がはるかに
ドラマチックで悪質です。
国民から吸い上げた税金のもと、自分達の私腹を肥やす事に頭を使って
人々の幸せは一向に実現されない、そんな国を誰も求めていません。
とは言え、連日メディアで伝えられる不祥事は、余りにも茶番であり、
日本人を代表する人々のする事とは言えません。

この長たる人達の事を真似ていると言うのでは在りませんが、社会的に
尊敬されたり、人々を助けたり導いたりする職にある方々の不祥事も
絶える事が有りません。
教育者が、医者が、弁護士が、役人が、次々に私欲にかられた事件を起こし
新聞の三面記事や週刊誌を賑わせない時は有りません。
スキャンダルや不祥事は、滅多に無いから注目されるのですが、最近は
その手の悪行が殆どの紙面を占める事も有り、国民としては、驚きすら無く
毎度のことに、無反応と成ってしまいます。

この事は、暗に、国政に対する興味や、政治に対する関心を失わせる
大きな原因と成っていて、上に立つ人の行動言動がいかに多くに人々に
影響を与えるかを再認識して頂きたいものです。
自分の身の回りについては関心があっても、自分を支えてくれた人々には
表向きの応対をして取り繕っている方々が少なくないのが問題です。

事件や問題を起こした人たちは、自分達の行いが、如何に社会的に大きな

影響を与えているかを考えて欲しいと思いますが、発覚を免れて、陰で
ほくそ笑んでいるキツネとタヌキが実に多い事が更なる問題であり、
これらの腹立たしい事件が、氷山の一角であることが、日本国民の不幸と
言っても過言ではありません。

とは言え、この問題は、昭和の歴史においても、同じようなスキャンダルや
事件は有ったもので、今に始まった事では有りません。
現代に於いてこの手の不祥事を起こす方々も、かつては、子供であり、
大人たちを見て育って来たのです。

その当時も、多くの新聞週刊誌テレビに連日報道され、社会問題として

とりあげられたのですが、その後、子供たちが成長して大人と成り、
今の日本をリードする方々になった時、一体、彼らは何を勉強して来たのか
今更ながら日本の教育に憤りと共に情けなさを感じます。

人間故、間違う事や失敗をする事は多々あるものです。

しかし、それを改め二度と同じことを繰り返さない様にするのが教育であり
未来への幸せな国家を約束する事と成るのです。
所が、同じような不適切な人々を生む現代社会は、何十年もたっても
全く成長をせず、国民は相変わらず苦しい生活を強いられて来たと言えます。

一部の人の幸せの為に日本の豊かさがあるとしたら、経済大国と言われるのは

幻であり、自由主義社会と言う偽りの衣をまとわされて、彼らの為に働く
多くの日本人は、まさに奴隷と言わざるを得ないのです。
こう考えると、今の非常事態も、彼らにとっては、自分達の安全が確保されれば
多少の国民の犠牲はやむを得ないと言う事でしょう。
そう、これまでの戦争も、全てが、彼らの様なリーダー達を守るために有り
多くの国民が犠牲に成って来たのですから。

今の危険な状態を作っている方々は、思想は違っているにせよ、本質的には

我欲を満たすために、国民を犠牲にしていると言えるのです。
圧力をもって恐怖を与え従わせる者、膨大なる国力と軍事力で従わせる者、
表向きは国民の為と言いながら、真綿で首を絞める様な息詰まる政策で
じわじわと人々を萎えさせている者、どれもが、本質は、自分の幸せしか
考えていないのです。

つまり、争いは、いつも、独裁者たちの欲望と我欲で生まれるのです。

様々な思想が有ろうと、宗教が有ろうと、人が人の上に立つと言う事は、
自分の欲望がすべて叶えられる様な錯覚に陥ると言っても良いのです。
我欲を抑え、全て人の為に行える人、それは人では無く神の領域と言え
それが出来ないからこそ、神を称え、神に縋るのが人間なのかも知れません。
人それぞれの神を持つことで、己の不甲斐なさ無能さ、それに伴う不祥事を
許されるとする人間の我儘がある限り、歴史は繰り返されると言えるのです。


平和な日本の空に、ミサイルが飛んでくる日

2017-05-29 16:48:20 | 戦争

日本近海に、アメリカ軍の空母が三隻集結し、更には、ハワイから
一隻が向かっていると言う情報が入って来ました。
今や、北朝鮮との戦争の可能性は、朝鮮戦争以来最悪の状態と言え
日本が置かれている立場は、非常に危険であり、この余りにも平和な
初夏の日本は、明日にも起こるかもしれない危機的な状況が訪れた時
想像を絶するものと成るかも知れません。

例え、アメリカ軍や韓国軍、更には、日本の自衛隊が応戦したとして
日本国内に火の粉が降りかからないと言う保証はありません。
当然、連合軍が包囲して圧力を掛けながら戦うと言う事は明らかですが、
その時に、どの様にしたら最大のダメージを与えることが出来るかと
考えるのが戦争であり、戦力的には劣っていても、敵の一番弱い所を
叩く事が戦いのセオリーともいえるのです。
つまり、一番無防備な日本が犠牲になる可能性は高いと言えるのです。

戦後、戦争を想定した国内防衛網を作ってこなかった事が、一番の問題で
例えアメリカ軍が条約の元、日本を守るとしても、守れない所を狙って
攻撃をするのが戦争です。
たった一発の核ミサイルが日本国内に着弾しただけで、社会機能は失われ
多くの人々が殺害され傷つけられ、これから先長きに渡って、苦しみを背負い
怒りと憎しみが募る事と成るのです。

絶対的な軍事力をもって挑んだベトナム戦争を見ても、大国アメリカが
どれだけ多くの犠牲を払い撤退する羽目となったか、条約の元、日本が
戦争の脅威から守られるとは言い切れないのです。
世界中を敵に回した北朝鮮が、戦争に勝ち、世界を支配するとは言い難い
と言えますが、例え、連合軍が勝ったとしても、無傷で終わるとは考えられず
日本もアメリカ軍と自衛隊で守られるとは考えられないのです。

ならば、どの様にこの危機を乗り越えるか、例え、戦争となったとして
どうやって生き残るかと考えるのですが、答えは、NO、としか言えません。
何故なら、政府の呼びかけも、絶対助かるとは言えない、極めて消極的
運任せだからなのです。

具体的に、この様に行えば、被害を免れると言う規模のものでは無く、

もし、核ミサイルが着弾したら、何処に居てもその周辺は、生き残る事は
非常に難しいのです。
物影に隠れたり、地下に隠れたり、ビルの中に逃れたりと言うのは、
あくまで、着弾地より遠く離れた、直撃を免れた地域のことであって、
もし、落下点に居たら、何処に隠れても、無駄だと言う事です。

あえて、何もしないと言うより、何も出来ないのが今の日本政府なのです。

つまり、アメリカ軍が、先制的に、いち早く、ミサイルの発射基地を壊し、
ミサイルを飛ばせる状況を作らない事に限るのです。
しかし、その事は、敵も解っている事であり、戦争は相手の裏をかく事から
始まっているとも言われ、必ず、対抗策を幾つも作っていると思われます。

お互いに、自らの軍が被害を受けない様にする訳ですから、すぐさま

戦争が終わると言う事は難しく、その間、攻撃を免れたミサイルが、
我が国や連合軍の基地に飛ばされる可能性は大きいのです。
要は、どんなに考えても、我が国が被害を被る事を免れる事は出来ず、
今や、最小限に抑えると言うのが、政府の方針と言えるのです。

度重なるミサイル実験に対し、何度圧力を加えても、一向に応じない

と言う事は、どちらかが何時戦争の火蓋を開けるかに成ってしまいます。
このまま、実験が続き、より性能が良いミサイルが作られ、アメリカ本土まで
その射程範囲となった時、今より遥かな脅威がアメリカのみならず、世界中に
広がる事と成るのです。

今や、いつ始まっても不思議ではなく、いつ、日本の空にミサイルが飛んで

来ても不思議でない状況なのです。
出来るだけ、平和的に回避しようとしたものの、全く聞く耳を持たない状況を
どの様に打破するか、世界の平和は、両リーダーの一声に掛かっているのです。

刻一刻と戦争の準備を重ねる北朝鮮に対し、どの段階で戦争を仕掛けるのか
そして、最小限度の被害に抑えるかが、トランプ政権の考える所と言えます。
如何なる脅しや圧力に対して、ひるむことなく、より一層軍事力を高めれば
いずれ、世界中の脅威と成る事は明らかであり、その事を、一番危惧して
神経をとがらせているのがトランプと言えます。

この危機的な状況で、外遊を行い、しかも、必ずしもアメリカに好意を持たない
中東諸国を目指したことは、ある意味、今後の展開に対する布石なのかも
知れません。
同じく外遊から帰った我が国のリーダーも、帰国後の応対に、単なる外交の
緊張感からと言うより、これから起こるべく事態に対しての不安と恐れが
見て取れる様でした。

おりから、日本の排他的経済水域まで達するミサイルは、我が国に対して、
その時が来たら、確実にミサイルの標的にすると言う意思表示なのかも
知れません。
アメリカの巨大空母が三隻集結したと言う事は、確実に戦力を集中し
空からの力をもって北朝鮮国土を攻撃する体制と言えます。

日本国民の殆どが、戦争を知らない世代と成っています。
しかも、戦う事を知らない世代です。正に、羊の群れに飢えたオオカミを
放つ様なものです。
オオカミを射殺する前に、どれだけの羊が殺されるのか、そんな日が来ない事を
心から祈るしか在りません。


いまだ進化できない、エコノミックアニマル達

2017-05-27 14:33:21 | 東京

日本が経済大国として世界に知られるようになって半世紀ほどになりますが、
人々の暮らしは豊かになったかと言えば、経済的には物が溢れ、ほしいものが何でも
手に入る世の中になった様に思われますが、その反面、人々の心は、決して豊かに
幸せになったとは言えません。

経済的に豊かになったように見えて、それは、決して本人が望んだことではなく、

様々なメディア情報や周囲の環境から、そうせざるを得なくなったというのが
実際の状況と言えます。
多くの国民が、なんでも手に入れられるというのではなく、世の中の流れに
付いていくだけで必死の状態であるのです。

この消費経済国家において、本当に思うがままに何でも手に入れて、経済的に

何不自由なく生活できているのは、ほんの一部の富裕層にすぎません。
国民全体が、所得を上げながら、豊かになる事を実感していたのは、高度成長期であり
経済大国に成っていくことが幸せと感じさせられていただけで無く、国民全体の気持ちが
前向きであり、人々に夢と未来がありました。

しかしながら、今や、日本人の生活は二極化され、有り余る資産の元、消費経済を

楽しんでいる一部の方々と、日々の暮らしに苦しみ、明日のことを考えられない
大多数の国民に分かれているのです。
しかも、国民総生産の多くをこの一部の人たちが作り出し、外見的には経済大国と
みなされていても、実際は、発展途上国の人々よりも幸せと思えない方が多いのです。

しかし、この一部の富裕層の方々は、より多くの消費を国民に求め、社会の流れを

さらなる消費優先の国へと誘っています。
彼らによって操らられた時のリーダーたちは、自分たちの個人的な私欲を満たされ
生活を豊かにしてもらう事により、個人の欲望を満たすために、国民に全体に
苦難の生活を強いる事となっています。

高齢者に対する福祉と言いながら、その背景は、高齢者事業による利益の目論見があり

多くの高齢者がすべてその恩恵に預かれるということはありません。
今や、福祉という巨大事業が、高齢者たちに重荷となっているのです。
全国に数多く作られた福祉施設も企業参入による利用者負担が大きく、経済的に
余裕をもって安心の生活を送れる高齢者は少ないのです。

若者たちの就職率を上げ、国民の所得向上を図るとしながら、今では、より賃金コストを

下げることができる外国人就労者が年々増えていて、日本の若者たちのが就職できない
事態も起こっているのです。
問題を上げればきりがないのですが、日本経済を豊かにし、国民生活を余裕のあるものにする
と言う文言は、国民に向けられているように見えて、実際は、日本を牛耳っている大手企業や
富裕層に向けてのものであることが分ります。

本当に国民のことを考え、弱者の気持ちになった政治が行われて来たというなら、

現実の国民の生活が豊かになっているはずなのですが、表向き派手な都会を一歩離れて
日本の地方都市周辺にある昔ながらの市町村を訪ねれば、その生活は、悲惨を通り越して
日本人の生活の崩壊が見て取れます。

福祉の恩恵を受けられない多くの高齢者、人の消えた町、荒れ果てた田畑、豊かに思えるのは

都会の一部であり、テレビ画面に映し出される架空の世界なだけなのです。
日々変わっていく大都会の街並みに対し、何年何十年と変わらない朽ち続ける街並み、
歯が抜け落ちて行く様な地方の商店街、その空き地には何年も野ざらしになった事を思わせる
分け入ることも難しい雑草が生い茂っています。

日本中に展開する日本人の生活の崩壊、何十年も日常生活が止まってしまった町の姿が、

訪れた人の第一印象となる日本の現状を、国をリードする人たちはどのように考えているのでしょう。
問題は、日本経済が衰えたことではなく、日本人全体の経済を考えたのではなく、一部の人たちの
優先的な利益を基準に世の中を作ってしまったことです。

豊かな人たちを支えるために、多くの生活に苦しむ人たちがより苦しむことになっているのです。

リーダーたちの提案する社会に、経済的に苦しむ国民が合わせることが、国民の苦しみを増す
原因となっているのです。
豊かと思える映像を、日夜テレビを通じ国民に流すことで、より多くの消費を促すことが
幸せへの道であるかのような洗脳を行います。

華やかな生活、満面の笑顔で幸せであるかの様なコマーシャルを流し、国民の生きる目的を

より多くの物を獲得することであるかの様に感じさせます。
しかし、たとえ、目的のものが手に入ったとしても、さらなる魅力的な物があることを提案し
止まる事はありません。
次なる物が手に入れば、以前の憧れは過去のものとなり、まんまと消費経済の罠にかかるのです。


この、国家的な詐欺のような手法で、日本経済を豊かにするというのが、いかに陳腐であり
国民を愚弄しているかが分ります。
人々は、他人より、より優れたもの、社会的に認められる物を持つことをステイタスと考え
まるで裸の王様のように、次から次へと新しいものに手を出していきます。
しかし、その手に入れた物は、次なるもので価値を失ってしまうことから、自らの心を
本当に満足させ、幸せにさせるものではなく、単に、欲求不満が募るばかりなのです。

日本国民は、そんな外見ばかりを気にする民族だったのでしょうか。
経済的に豊かになり、身に着けるもの、生活用品が発展途上国に比べ、より便利で魅力的と
なったのかも知れませんが、日本人の中身は、どんどんつまらない者となってはいないでしょうか。
幼いころから、お金と、身にまとうもので自分の評価をし、地位と名誉と言った社会的外見で
勝ち組になったかのような気分になっている様では、人として自らを慕ってくれる人や、
本人の才能として認めてくれる人はいなくなってしまうのです。

今の日本人に多くなっているのは、まるで、宝くじが当たった様な生活が幸せと思う人たちです。

つまり、自分の人としての才覚人格ではなく、お金が自分の欲求を満たす一番の物であり、
幸せを手に入れることができると思っている人が多くなっているのです。
お金で手に入れた望むものが自分の幸せを生むと思っているのです。

しかし、人間は、どんなに素晴らしいものを持っても、すぐに飽きてしまうのです。

更には、より素晴らしいと思えるものが見つかると、それまで思っていた幸せの元が
あっという間に消えて、急に不幸となってしまうのです。
その時、さらなる高額の宝くじが当たって、より素晴らしいものが手に入れば良いのですが、
それができる人は、ほとんどいません。

その結果、自分が不幸と思う多くの物品と共に生きていく事となり、不幸からは逃げられない

宝くじが当たる以前より遥かに悲しい人生となるのです。
しかし、このような夢のような幸せでも、何とか手に入れたいと思うのが人の常です。
というより、そのように日本社会が国民を洗脳して来たからなのです。

幸せは、常に、与えられる物であり、そのためには、より多くのお金を使う事とする

消費経済社会を作ってきたからに他ならないのです。
日本国民が不幸となってしまったのは、経済的に豊かでなくなってしまったからではなく
経済的に豊かなことが幸せと思うようになってしまったからです。

多くの人々が、メディアから提案された経済的な豊かな生活を幸せと思い、

それを手に入れることが幸せを手に入れることであると、いつの間にかに
洗脳されてきたことが問題です。
人と同じような生活、さらには、人より経済的に豊かと思える生活をすることが
人生の目的の様に思ってしまい、自らの人としての心を育てる事も、周囲の人の
心を察し労わる気持ちも失ってしまった日本人が多くなってしまったのです。

人の不幸は蜜の味であり、環境が汚れても何とも感じられない、自分だけが

幸せと思えれば安心すると言う、物が溢れた国であっても、人間的に全く
進歩のない国民になって来ているのです。
リーダーや日本を動かしている方々は、単に、自分たちの欲求を満たすこと
だけでなく、自分たちを支えている多くの国民の幸せを考えなければ
日本の国を代表する人たちとは言えないのです。

国民の所得を増し、生活レベルを増せば、国民が幸せになるなんて考えは

本当に人の気持ちが考えられない、我儘な考えと言えます。
日本人のみならず、人の幸せとは、いったい何なのかを深く考えず、
見てくれと、外見的な豊かさで育っていると、なかなか理解できないのでしょう。

しかし、人の心を知り、人々を心から幸せにできてこそリーダーと言えるのです。

外見的な豊かさを求めて、国民に経済的な豊かさだけを与えようとすれば、
自分たちも、しょせん裸の王様であり、リーダーとしての資格も、日本経済を
導いていくトップとも言えず、かつてのエコノミックアニマルから全く
進化していない無能集団であるとしか言えないのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


滅亡から逃れれられない人類

2017-05-26 14:09:39 | 戦争

私達は、世界で起こる様々な悲劇に対し、悲しみ怒りを覚え
その事件を起こした者たちに対し、心から憤りを感じます。
しかしながら、物事には、原因と成る事が必ずあり、単に
その時の現象を捉え一喜一憂するものでは有りません。

マスコミやネットによって伝えられた情報は、その内容が
事件の真相全てではなく、ほんの断片的なものであり、
その原因背景は、我々が殆ど知り得ないものも多いのです。
これまでの多くの戦争や様々なテロは、突発的に起こったと
言う事はまず考えられなく、様々な理由があったからこそ
起こるべくして起こったとも言えるのです。

しかし、その理由の多くは、それ以前の民族、宗教、思想の違い
歴史的軋轢等、様々な背景があるのです。
戦争の武器がどんどん性能を増し、より殺傷能力を増していくも
それまでの戦果の状況を踏まえて、更なる殺戮を目指しているのであり、
人類の進歩と言うより、人心の非道化ともいえるのです。

様々な民族が、それぞれの考えを主張し、より自分たちのテリトリーを
広げていくのは世の常と言えるのですが、同じ地球で生きていながら、
他の考えを受け入れず、自らの主張のみを高めて行く事が問題です。

ただでさえ、地球上には、70億を超える人間が住むようになっています。

これ以上人口が増えれば、様々な問題が起こる事は明らかなのですが、
その問題を、お互いに話し合って平和的に解決すると言う物ではなく、
力をもって違う考えの人達を制圧しようとする世界の傾向は、少なからず
人類を破滅に追いやる可能性が大きくなるのです。

お互いに殺し合う兵器を開発すると言う事は、人類が自滅をする方向に

自らが向かっていると言え、ただでさえ多くなった人類を、共倒れさせ
絶滅させる為に、遺伝子的に仕組まれた生き物の運命なのかもしれません。

私達人間は、生き物の頂点として、優れた英知の元進化してきたと

信じていますが、どんなに進化しようと、生き物は、他の生き物達の生活を
邪魔したり破壊したりするようになると、自然に、自滅する様に成っている
のかも知れません。

これ程にも、頭脳が発達した人類が、数々の争いから何も学ばず、相変わらず

お互いに殺戮を繰り返す事は、進化と言うより、すでに自分達の滅亡の為の
カウントダウンを行っているのかもしれません。
このまま進めば、確実に世界の平和は損なわれると思っても、それを阻止する
手立ても手段も講じない様に、人類の頭脳は仕組まれているのかもしれません。

私達人類が、世界中の資源を消費する様に成り、更には、化石燃料を手に入れ

次には、原子力エネルギーにまで手を伸ばすまでになりました。
これ程までに、地球の資源を自分達の為だけに利用して、他の生き物たちを
犠牲にしてきた生き物は居ません。

しかしながら、世界の資源が尽きようとする時、遂に、人類の末期が見えて

人々は、その為への加速を強める為、危険な争いを止めないのかもしれません。
いずれにせよ、地球にとって人類は、全く必要ないと言ってもよく、
進化していると思っているのは人間だけで、実際は、地球を破壊するだけの
他の生き物にとって悪魔としか言いようが無い存在なのかもしれません。