人の一生は、短くも有り長くも有り、人によって、おなじ年数を過ごしても
其々の感じ方で、その長さはまちまちです。
子供の頃の一年はとても長く、大人に成ると次第に短く感じられるのは
心の成長に伴い、時間の長さが、変わって来ることによると言われます。
しかし、誰しも、思い起こせば、時の移り変りを感じるものですが、
普段の生活に於いては、ただ、その瞬間に生きていると言っても良いのです。
見る物聞く物感じる物が、瞬時に過去のものと成り、まるで、時間と言う
乗り物に乗っている様です。
この乗り物は、一生を通じ走り続け、止まる時は、当然、あの世に召される時です。
そんなことは解り切っている事なのですが、その時がいつ来るのか、自らが
決める事はほとんどできません。
この世に未練がない限り、ずっと続いて行くものと、漠然と感じているのが
普通と言えます。
では、一体、どの様な立場で、この列車に乗って行けば良いのか、確信が持てず
たまたま現状に甘んじている事で、いつの間にか月日が過ぎて行ってしまいます。
未来には確信が持てないものの、過去の記憶は頭の中に長く残っているもので、
私たち人間は、過去に振り回され拘束されがちです。
人類の歴史は、その時々に起こされた様々な出来事の積み重ねと言えるのですが、
その過去の記憶が、現実に生きる人達の心に大きく影響を与えます。
対人関係も国と国との関係も、未来に向かって進んで行くものですが、実際には
過去の出来事に大きく影響を受け、中々、思った様に進まないのが現状です。
今や、歴史的な事態が起こっています。
これまで、一発触発の状態であった朝鮮半島情勢が、両首脳の劇的な歩み寄りで
驚く程の進展を見せています。
数か月前までは、正に、東アジアは、世界大戦への引き金に成らんとする程の
緊迫した事態となっていて、我が国に於いても、核ミサイルが飛んで来るのではと言う
恐怖が有りました。
これまで、何十年に渡る交渉も、ことごとく期待を裏切られ、残りは軍事行動しか
解決の余地は無いのではと思えるほどの事態となっていました。
しかし、韓国大統領と金正恩の固い握手は、世界中に衝撃を与えると共に
新たなる道を期待させ、東アジアの人々に大きな夢を与えました。
想像もしなかった平和へのかじ取りは、いまだに多くの人々にとっては疑心暗鬼で有り
思わず、その裏を考えたくなるほどの驚きです。
一体何が有ったのか、まるで180度の政策転換ともいえる北朝鮮の態度は、
これまでの過去の歴史を見ると、信じるより疑う方が先とも言えます。
何度も平和への道を提案しようもことごとく拒否され、年々勢いを増す軍事力強化、
中でも、核兵器製造への躊躇なき取り組みは、誰の目にも、暗い未来を想像させるに
十分な危険な道と考えられていました。
次なる手段は、経済制裁の包囲網を強め、それでも、屈しなければ、軍事的解決しかない
とする考えが一般的となり、我が国も、戦争に巻き込まれるのではないかと言う憶測が
流れる様に成っていました。
しかし、次なる歴史の一手は、想像もしない平和への決断でした。
そこには、独裁者の横顔は無く、両首脳の固く結ばれた手と笑顔が有りました。
この南北朝鮮の歩み寄りが、後に控える米朝首脳会議にどれだけの影響を与えるか
そこで交わされる其々が取り出すカードが、次なる世界への答えとなるかもしれません。
しかし、それにしても、私達庶民にとって、世界の動向は、自分たちの考えで
どうなることも無く、ただ、その行く末に従うだけしかないのです。
自分達とは直接的に全く関係無いと思える事であっても、どの様なカードが
示されるかによって、有無を言わさず、従わざるを得ないのです。
この事が、平和への導きであるならば良いのですが、前回の戦争の時の様に
日本政府と日本軍がアメリカと戦争すると決めた瞬間から、日本人に耐えがたい
不幸が襲って来た事は言うまでも有りません。
国際情勢と言うのは、国民の意思に関わらず、大きな歴史の汚点を作る事も有るのです。
とは言うものの、人生における様々な出来事は、自分の歴史となるものの、
過去の苦い思い出として現実の自分を不自由にするもので有ってはなりません。
私達も国も、まるで、足かせの様に過去に引きずられて、身動きが取れなくなることが多く
現実に不満や不平が有っても、何の解決の糸も掴めないでいる事が多いのです。
その為、何もできない歴史も築かれ、未来で悔いの残る日々を送る事も有るのです。
国と国との関わりあいだけでなく、私達の日常に於いても、自分自身には新たなる事態が
起こる可能性が有るのです。
予想もしない事態に、悲しみ苦しむ事も多く、その為に、日頃から心構えをする事が
現代人に多い生き方と言えます。
病に伏したり、思いがけない経済的破綻、更には、人間関係の悪化と、思ってもみない
苦しみを抱いてしまう事も珍しくないのです。
その為、現代人は、いつも不安と戦っていて、備えあれば患いなしと言われる様に、
未来への不安を払拭するために、様々な保険に手を出すのです。
今や、日本における保険業界は、不況知らずです。
人々の不安が高まれば高まる程、大きな収入が期待され、世の中が混とんとすればするほど
安心を求めて多くの人が加入するのです。
しかし、保険に加入したからと言って、惨事やアクシデントに見舞われないとも言えないのです。
その日は突然やって来るのです。ただ、その日の心のと経済的な負担から逃れたいだけなのです。
メディアも、不幸を想像させるコマーシャルを流す事で、国民の不安を高め、より多くの
加入を目指すのですが、安心を得た様に思えて、逆に、更なる不安を植え付けられるとも言え
様々な不安材料を心に植え付ける事になり、幸せな毎日を送れるとは言えないのです。
どんな対策をとっても、未来はどうなるか、誰も解らないのが事実なのです。
その未来に、不幸が起こると想像して保険を掛ける事は、既に心が怯えている状態であり
保険によって不安な人生を送る事にも成るのです。
人間は、幸不幸関係なく、起こった事には、従わざるを得ないのです。それが生きる事であり
人生を築き上げて行く事と成るのです。
問題は、起こった事に対して、いちいち一喜一憂する事です。事実に対して、
比較評価をしない事です。起こった事が良い事か良くない事かは、長い人生を終える頃に
ようやく解る事も少なくないのです。
ならば、どうしたら良いのか、それは、人生は、自分の判断で創り上げて行くものなのです。
次々に過ぎ去って行く現実に、自分でハンドルを握り運転をして行く事です。
列車に乗っている様に、周囲や社会の流れに任せない事です。
何もやらないで後悔するよりやって後悔した方が良い、様々な方々が口にしますが、
後悔と言うのはどちらにせよする必要は無いのです。後悔したところで現状が変わる訳ではなく
ただ、自分を納得させ落ち着かせようとしているの過ぎないのです。
人生における自分の判断は、いつも正しいのです。
それの良し悪しを決めるのは社会で有り、どりらの判断を付けられても、自分自身は変わらず、
自分の行いが自分の歴史となるだけなのです。
この世に、そもそも本当に正しいというものは無いのです。
人間が生きて行く都合で、損得を付けたり、良し悪しを決めているのであって、その判断も
時が立てば、全く逆転してしまう事も珍しくは無いのです。
その為にも、自分にとって正しいと思える事、未来への希望となる事をためらいも無く行う事です。
その時、他人に迷惑が掛からなければ何でも自信をもって行って良いのであり、結果の良し悪しは
自分の尺度で有り、社会の尺度と同じではないのです。多くの人とトラブルなく生きて行く為に
緩衝作用として様々な決め事や法律があるに過ぎないのです。
人生にとって一番の問題は、多くの知識や記憶をもって、現実の自分の判断を鈍らせる事です。
これこそ、生きていく上で一番の難敵で有り、自分の中に在る最大の敵と言えます。
どんなに博学で有っても、社会的に地位が有っても、世間が求める社会的な力を使って
自分の行動や考えを決めようとすると、自分にとって一番素晴らしい人生が送れないのです。
人は、十人十色と言われる様に、一人として同じ者は居ないのですから、当然判断の方法も
一人一人違っていて当たり前と言えるのです。
過去の記憶や歴史は、判断をする材料にはなりますが、未来への切符となるとは限らないのです。
現実を見極められる過去に囚われない判断が、自分の未来も国の未来も創ると言えるのです。