めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

新たなる歴史となるのか、フェイクか

2018-04-30 17:29:27 | 人生

人の一生は、短くも有り長くも有り、人によって、おなじ年数を過ごしても
其々の感じ方で、その長さはまちまちです。
子供の頃の一年はとても長く、大人に成ると次第に短く感じられるのは
心の成長に伴い、時間の長さが、変わって来ることによると言われます。
しかし、誰しも、思い起こせば、時の移り変りを感じるものですが、
普段の生活に於いては、ただ、その瞬間に生きていると言っても良いのです。
見る物聞く物感じる物が、瞬時に過去のものと成り、まるで、時間と言う
乗り物に乗っている様です。

この乗り物は、一生を通じ走り続け、止まる時は、当然、あの世に召される時です。
そんなことは解り切っている事なのですが、その時がいつ来るのか、自らが
決める事はほとんどできません。
この世に未練がない限り、ずっと続いて行くものと、漠然と感じているのが
普通と言えます。

では、一体、どの様な立場で、この列車に乗って行けば良いのか、確信が持てず
たまたま現状に甘んじている事で、いつの間にか月日が過ぎて行ってしまいます。
未来には確信が持てないものの、過去の記憶は頭の中に長く残っているもので、
私たち人間は、過去に振り回され拘束されがちです。

人類の歴史は、その時々に起こされた様々な出来事の積み重ねと言えるのですが、
その過去の記憶が、現実に生きる人達の心に大きく影響を与えます。
対人関係も国と国との関係も、未来に向かって進んで行くものですが、実際には
過去の出来事に大きく影響を受け、中々、思った様に進まないのが現状です。

今や、歴史的な事態が起こっています。
これまで、一発触発の状態であった朝鮮半島情勢が、両首脳の劇的な歩み寄りで
驚く程の進展を見せています。
数か月前までは、正に、東アジアは、世界大戦への引き金に成らんとする程の
緊迫した事態となっていて、我が国に於いても、核ミサイルが飛んで来るのではと言う
恐怖が有りました。
これまで、何十年に渡る交渉も、ことごとく期待を裏切られ、残りは軍事行動しか
解決の余地は無いのではと思えるほどの事態となっていました。

しかし、韓国大統領と金正恩の固い握手は、世界中に衝撃を与えると共に
新たなる道を期待させ、東アジアの人々に大きな夢を与えました。
想像もしなかった平和へのかじ取りは、いまだに多くの人々にとっては疑心暗鬼で有り
思わず、その裏を考えたくなるほどの驚きです。

一体何が有ったのか、まるで180度の政策転換ともいえる北朝鮮の態度は、
これまでの過去の歴史を見ると、信じるより疑う方が先とも言えます。
何度も平和への道を提案しようもことごとく拒否され、年々勢いを増す軍事力強化、
中でも、核兵器製造への躊躇なき取り組みは、誰の目にも、暗い未来を想像させるに
十分な危険な道と考えられていました。


次なる手段は、経済制裁の包囲網を強め、それでも、屈しなければ、軍事的解決しかない
とする考えが一般的となり、我が国も、戦争に巻き込まれるのではないかと言う憶測が
流れる様に成っていました。
しかし、次なる歴史の一手は、想像もしない平和への決断でした。
そこには、独裁者の横顔は無く、両首脳の固く結ばれた手と笑顔が有りました。
この南北朝鮮の歩み寄りが、後に控える米朝首脳会議にどれだけの影響を与えるか
そこで交わされる其々が取り出すカードが、次なる世界への答えとなるかもしれません。

しかし、それにしても、私達庶民にとって、世界の動向は、自分たちの考えで
どうなることも無く、ただ、その行く末に従うだけしかないのです。
自分達とは直接的に全く関係無いと思える事であっても、どの様なカードが
示されるかによって、有無を言わさず、従わざるを得ないのです。

この事が、平和への導きであるならば良いのですが、前回の戦争の時の様に
日本政府と日本軍がアメリカと戦争すると決めた瞬間から、日本人に耐えがたい
不幸が襲って来た事は言うまでも有りません。
国際情勢と言うのは、国民の意思に関わらず、大きな歴史の汚点を作る事も有るのです。

とは言うものの、人生における様々な出来事は、自分の歴史となるものの、
過去の苦い思い出として現実の自分を不自由にするもので有ってはなりません。
私達も国も、まるで、足かせの様に過去に引きずられて、身動きが取れなくなることが多く
現実に不満や不平が有っても、何の解決の糸も掴めないでいる事が多いのです。
その為、何もできない歴史も築かれ、未来で悔いの残る日々を送る事も有るのです。

国と国との関わりあいだけでなく、私達の日常に於いても、自分自身には新たなる事態が
起こる可能性が有るのです。
予想もしない事態に、悲しみ苦しむ事も多く、その為に、日頃から心構えをする事が
現代人に多い生き方と言えます。
病に伏したり、思いがけない経済的破綻、更には、人間関係の悪化と、思ってもみない
苦しみを抱いてしまう事も珍しくないのです。

その為、現代人は、いつも不安と戦っていて、備えあれば患いなしと言われる様に、
未来への不安を払拭するために、様々な保険に手を出すのです。
今や、日本における保険業界は、不況知らずです。
人々の不安が高まれば高まる程、大きな収入が期待され、世の中が混とんとすればするほど
安心を求めて多くの人が加入するのです。

しかし、保険に加入したからと言って、惨事やアクシデントに見舞われないとも言えないのです。
その日は突然やって来るのです。ただ、その日の心のと経済的な負担から逃れたいだけなのです。
メディアも、不幸を想像させるコマーシャルを流す事で、国民の不安を高め、より多くの
加入を目指すのですが、安心を得た様に思えて、逆に、更なる不安を植え付けられるとも言え
様々な不安材料を心に植え付ける事になり、幸せな毎日を送れるとは言えないのです。

どんな対策をとっても、未来はどうなるか、誰も解らないのが事実なのです。
その未来に、不幸が起こると想像して保険を掛ける事は、既に心が怯えている状態であり
保険によって不安な人生を送る事にも成るのです。
人間は、幸不幸関係なく、起こった事には、従わざるを得ないのです。それが生きる事であり
人生を築き上げて行く事と成るのです。

問題は、起こった事に対して、いちいち一喜一憂する事です。事実に対して、
比較評価をしない事です。起こった事が良い事か良くない事かは、長い人生を終える頃に
ようやく解る事も少なくないのです。
ならば、どうしたら良いのか、それは、人生は、自分の判断で創り上げて行くものなのです。
次々に過ぎ去って行く現実に、自分でハンドルを握り運転をして行く事です。
列車に乗っている様に、周囲や社会の流れに任せない事です。

何もやらないで後悔するよりやって後悔した方が良い、様々な方々が口にしますが、
後悔と言うのはどちらにせよする必要は無いのです。後悔したところで現状が変わる訳ではなく
ただ、自分を納得させ落ち着かせようとしているの過ぎないのです。
人生における自分の判断は、いつも正しいのです。
それの良し悪しを決めるのは社会で有り、どりらの判断を付けられても、自分自身は変わらず、
自分の行いが自分の歴史となるだけなのです。

この世に、そもそも本当に正しいというものは無いのです。
人間が生きて行く都合で、損得を付けたり、良し悪しを決めているのであって、その判断も
時が立てば、全く逆転してしまう事も珍しくは無いのです。
その為にも、自分にとって正しいと思える事、未来への希望となる事をためらいも無く行う事です。

その時、他人に迷惑が掛からなければ何でも自信をもって行って良いのであり、結果の良し悪しは
自分の尺度で有り、社会の尺度と同じではないのです。多くの人とトラブルなく生きて行く為に
緩衝作用として様々な決め事や法律があるに過ぎないのです。

人生にとって一番の問題は、多くの知識や記憶をもって、現実の自分の判断を鈍らせる事です。
これこそ、生きていく上で一番の難敵で有り、自分の中に在る最大の敵と言えます。
どんなに博学で有っても、社会的に地位が有っても、世間が求める社会的な力を使って
自分の行動や考えを決めようとすると、自分にとって一番素晴らしい人生が送れないのです。

人は、十人十色と言われる様に、一人として同じ者は居ないのですから、当然判断の方法も
一人一人違っていて当たり前と言えるのです。
過去の記憶や歴史は、判断をする材料にはなりますが、未来への切符となるとは限らないのです。
現実を見極められる過去に囚われない判断が、自分の未来も国の未来も創ると言えるのです。

 


死を恐れない人生

2018-04-27 12:44:06 | 日本人

どんなに豊かな暮らしをしても、素晴らしい環境に於いても
どうしようもないのが、老化です。
私達は、生まれた瞬間から、死に向かって進んでいるとも言われ
大人に成るまで、身体は成長するとは言え、殆どの人が、百歳を
待たずして一生を終えます。

とは言っても、生きているという意思がある時は、誰でも、少しでも
元気で若く有りたいと思うものです。
何不自由しない生活を送っていて、欲しいものをすべて手に入れられる
としても、唯一思い通りに成らないのは、老化と死という宿命です。
歴代の君主も、巨大国家を納める王も、あらゆる手段を尽くして
命を長らえようとしますが、その行く先は、人類共通の黄泉の国とえいます。

高度に文明が発達した日本に於いても、その事実は変えられず、
経済的に豊かな生活を望む事以上に、健康に長生きできることが
国民全ての願いであると言っても良いのです。
人類の長い歴史の中で、様々な時代で、人々は生きる為の努力をしてきました。
この事は、現代社会に於いても何だ変わるものでは有りません。

美味しいものを食べたいとするのも、お金を多く稼ぎたいとするのも
我が家を持ちたいとするのも、根本的には、いつか訪れる死への恐怖が
本能的に在るのかもしれません。
最後の最後まで、この世で生きている喜びを感じていたいとしているのです。

しかしながら、限られた人生であると知っていながら、日常的には、その事を
頭に描く事は全く無いと言って良く、多くの人達が、日々の喜びを噛みしめ
自分自身が思うがままに動ける事に、死とは真反対の心境を持っているのです。

所が、私達の人生は、順風満帆というのはまず考えられなくて、生きていると
言う事は、常に、思い通りに成らない日々や、思いもよらぬトラブルに驚き
苦しむ事が多いと言えます。
当たり前に衣食住が、ある日突然、外的内的の問題で覆り、それまで描く未来図が
大幅に書き換えられる事は珍しくないのです。

現代社会に於いては、自分の経済的基盤を支えている収入源が途絶えたり
滞ったりすると、たちまち、日常生活は滞ってしまうのです。
ただでさえ日常生活に苦しむ国民が多い日本に在って、収入減が無くなる事は
人生設計が失われる事にもなるのです。
更には、自分自身や家族の健康が損なわれれば、同じく、楽しいはずの日々が、
苦悩の日々と成ってしまう事が多いのです。

現代日本社会は、外見的には先進国の1つとして、非常に豊かであると言えますが、
現実は、多くの国民が、近代的生活に付いて行く為に苦しい生活を強いられていて
街を行き交う楽し気な人達の笑顔の下にも、他人に言えない苦しみが潜んでいて
日本人は、経済大国と言え、決して幸せでないと言えます。

便利な物に囲まれて、最新の家電製品に囲まれ、美味しいものに溢れている生活は
海外の方からすると、本当に幸せで夢の国で在る様に思えますが、現実に於いては
多くの不満や不安に溢れている人がとても多いのです。
しかし、日本人の気質として、他人に嫌な思いをさせまいとする心が働き、
表向きは、笑顔で満たされている様な振る舞いをしてしまうのです。

しかしながら、この日本人の優しさも限界であると言わざるを得ません。
何故なら、今や、日本人の多くは、この国で暮らすための支出に似合った収入が得られず
豊かな生活をする為に働くのではなく、支出を補うために働いているからです。
一人で生きても、家族で生きても、常に経済的問題が付いて回り、私的にも公的にも
がんじがらめに拘束された人生を送らざるを得ないのです。

自分の未来を築く為、現在の生活を維持するために、多くの負債を追っている人が
とても多く、大人から子供まで、何かを得る為には、その為の資金を得る事が
必要と言え、それを準備できない人が少なくないのです。
今や、簡単に借金が出来る事も有って、安易に、信販やファイナンス、銀行と言った
金融機関からお金を借り、返す事が出来なくなって、更なる苦しい生活を送っている
日本人は、実に多いと言えるのです。

結婚をするにも、子供を生むにも育てるにも、全てに支出が強いられ、その額は
上がる一方で有り、収支のバランスが取れない家庭が珍しくないのです。
かつては、物価の上昇に対して節約したり控えたりすることで出費を控える事が
出来たのですが、21世紀に入って、節約する事が出来ない公共料金や必要経費と言った
削る事が出来ない経費すら払えなくなってしまっている人も増えています。


多くの会社や店舗が破産宣告に追い込まれ、家庭に於いては、一家離散状態と成って
人生の憂き目を思い知らされている人達も多いです。
メディアは、事件性と話題性が無ければ、これらの問題を取り上げる事無く、
テレビ画面に映し出される日本人の生活は、豊かな資本主義社会の象徴の様な
笑顔となっているのです。

しかし、会社だけでなく、家庭内に蔓延する、日本社会の陰の苦しみは、
なかなか表に出る事が無く、多くの人々が、息が詰まる生活に耐えているのが現状です。
人々の繋がり家族同士の繋がりが希薄になるにつれ、自分の心を癒してくれるものは
外見的な豊かさと自分の欲望を満たす娯楽でしかなくなるのです。
日曜祭日だけでなく、行楽シーズンともなると、心の癒しを求めて、多くの人々が
観光地や遊園地に出向きます。

華やかで煌びやかな観光地は、自分の心に躍動感を与え、満たされない欲望を癒して
くれると言えるのですが、多くの場合、これは、心が満たされない事に対する
代償に過ぎません。
様々な娯楽設備を利用し、美味しいものを食べ、美味しいお酒を飲む事の意味は、
より豊かな人生を送る為であるのですが、現実生活に於いて、心が満たされず
物や仕事で補っている事も有り、ただ、新しい刺激を得ただけで、帰ってくれば
心も身体も疲れ果てるのが落ちと言えます。

確かに、高度成長期に於いても、日本人は、多くの観光地を訪れたり遊興施設を
利用して楽しんだのですが、その頃は、経済的に常に満たされる状況が続いていて
レジャーで楽しむ事が、次への仕事のエネルギーに成っていたのです。
ところが、現代社会は、日本国民の多くの生活力が衰え、何をするにしても、
資金不足で有り、たとえ、楽しい観光に行ったとしても、その事が、次への
ステップとなる事は非常に難しいのです。

つまり、現代社会に於いて、この社会を満喫するには、日本人の多くは、
余りにも資金が無さすぎるのです。高度成長期の様に、無心にレジャーを楽しむには
日々の生活に何の支障もない程の経済力がなければならないのです。
すると、多くの方が思う事は、経済的に豊かに成れば幸せに成ると考えるのです。

そして、政府も、経済が発展すれば、国民は幸せに成るとして、経済力を高める事が
日本人を幸せにすると唱えるのです。
これまで、バブル崩壊の後、数十年に渡って、経済力こそ日本人を幸せにする信じ
政治家も、日本国民も頑張って来たのですが、どうでしょう、日本人は幸せに
成ったのでしょうか。

一部の富裕層を除き、殆どの国民は、益々苦しい生活を強いられ、経済的に豊かに
成れた人は、一体どれほどいたというのでしょう。
政府も、国民の生活を豊かにするとして、様々な公共機関を充実させ、子供達が
安心して進学できる様に、授業料を只にし、経済的にも支援をしてきました。
更には、高齢者対策も積極的に行い、年々増える高齢者を守るための、様々な設備を
作り続けて来ました。
本当に、至れり尽くせりと言う国による支援が続いてきましたが、はたして、
国民は、本当に幸せに成ったのでしょうか。

確実に、日本中の公共施設は増え、あらゆる便宜を図った設備が作られてきました。
便利な公共機関や施設を利用して、多くの高齢者は、より安心な生活が出来る様に
成ったと言えます。
しかし、高齢者のみならず、若い人達が、便利で豊かと成った社会によって、
自分達の生活が満たされたと思っているのでしょうか。
便利で豊かが、日本人の幸せに繋がったのでしょうか。

残念ながら、バブル崩壊以降、日本人の心は、まるで花がしおれる様に、年々
生気を失っていると言えます。
外見的な豊かさで自分の心を慰めているとはいえ、本当に満たして欲しい所が
いつもがらんどうであると言えるのです。

それは、日本人が一番幸せと感じる心の部分なのです。
その部分は、物の豊かさでは到底満たす事は出来ず、日本人同士の心の労りや思いやり
によって満たされる所で有り、その部分を、外的な豊かさで満たそうとしたことが、
いつまで経っても、日本人が本当に幸せを得られない理由でもあるのです。

学校教育に於いても、対人的な心の在り方感じ方伝え方と言った、生きていく上での
他人との様々な関わり合いに対して、表面的な道徳教育程度しか行えない事から、
比較競争社会に多くの対人的トラブルが生じているのです。
如何なる地位にある人であろうと、著名人であろうと、人の気持ちを量る能力に疎く
簡単に人を傷つけたり、悲しませたりするのです。

如何に他人を喜ばせる事が出来るか癒す事が出来るかと言う事が、逆に、自分にとって
豊かな感情を育て、自分を人間として成長させると言う事が解らず、一方的な
欲望で他人を傷つけるハラスメントが増えるのです。

人間社会には、様々な考えを持った人がいて、物の価値観も考え方も違っていて
自分の尺度で相手を判断してはならない事を知らなければならないのです。
特に、男女の関係は、正に、水と油の様に違っているのであって、自分価値観と
相手の価値観は違っていて当たり前であり、その事を理解できない限り、
長きに渡って楽しい思いは出来ないのです。

今や、自己主張を行う事が、人としての能力の様に思われ、他人を差し置いた能力や
世代を超えた能力を見せる人がもてはやされます。
しかし、人は、様々な特性を持ち、能力差が有るからこそ、お互いを思いやり、
楽しい人生が送れるのです。
お互いに相手の事を理解できるから、一緒に生活が出来たり仕事が出来るのです。

所が、個人的な能力に優れる事が、人間の価値の様に感じさせる社会は、
争いは生まれても、幸せは生まれません。
例え、社会性が優れ、より多くの利益が得られるとしても、その事で、多くの人が
苦しむ様では、その利益は、いずれ、争いの種と成ってしまうのです。

人間は、死ぬからこそ、生きている意味が有るのです。
例え運命として、避けられない事であったとしても、何時か来る死を受け入れる事で
生きている今を大切に出来るのです。
生きる価値、それは、人間社会で生活すると言う事に有り、他人に生きる価値を認められ
人々の中で生きる価値を見出される事です。

つまり、他人にとって自分の存在が役に立っていると言う事です。
生れてから死ぬまで、単なる生き物の一生ではなく、生きる事で、周囲の人達に
多くの喜びや生き甲斐を与えられる事が出来る事です。
そして、その様に感じた時、人は、生きている事の喜びを感じるのです。

しかしながら、多くの人が、自分の欲望を満たす事を生きがいと感じ、
少しでも、他人よりも豊かな生活をする事を目的としがちです。
社会の要求も、その様な人間を求めていて、多くの人が生きる事に苦しみ
自分の存在価値を見出せなくなっているのです。

本当に心から許し合える友や家族がいれば、幸せな人生を送ることが出来
死を恐れることは無いのです。
現代日本に於いて、人々は、死どころか、日頃の健康すら心配で有り、
自分の人生にいつも不安と恐れを抱いています。

その苦しみから逃れる為に、少しでも多くの所得を得て、多くの保険にかかり
他人よりも豊かな生活を望むのですが、自分の欲望を満たす事ばかり考えると
いつまで経っても心は満たされず、社会的に地位が上がっても、多くの所得を得ても
他人からは称えられるどころか
、妬まれたり、嫌われたりするのが落ちなのです。

自分が生きている事が疎ましく思われたり、煩わしく感じられて生きる事は、
例え、経済的に豊かな生活が出来ても、自分の心は到底癒されず、端から見て
羨ましい程の生活を送っていても、心の中はいつも孤独と不安が渦巻いているのです。



 

 

 

 


政界芸能界の不祥事は、日本人の問題

2018-04-26 12:54:49 | 日本人

連日、芸能人、政治家と言った著名人の不祥事がマスコミを賑わせています。
各界の、人々から崇められたり憧れられたりする部分のメッキが剥がれる様に
国民を落胆させる醜態ばかりが目につきます。
というより、我が国の隠された実態が、著名人によって、如実に暴かれている様で
日本社会の陰の問題が浮き彫りとなっているのかもしれません。

経済成長を遂げる日本社会に在って、その社会を支えるべき子供達の問題が
長きに渡って取り沙汰されてきました。
消費経済国家を支える為の未来の労働者を育てるた為に、より優秀な子供達を育てる
学校のシステムは、何より、成績が重要視され、成績によって子供達の価値が決めれ
教育の中心は、大人たちの思惑通りの成績を上げられる子供達を中心に作られました。


しかしながら、誰もが、与えられたノルマをこなせるわけではなく、様々な個人差により
多くの子供達が、教育という名の差別を受けるようになったのです。
将来社会に貢献できると思われる子供が優遇される学校は、多くの思い通りの成績を
上げられない子供達にとって苦痛の場と成りました。
次第に、イジメや暴力が吹き荒れる教育現場は、当時のメディアの中心的存在となり
荒れる子供達を愁う大人たちが連日コメンテーターとしてスタジオで議論したものです。

そんな教育現場も、メディアが注目しない程に鎮静化し、表向きは健全な教育現場と
成っている様に見えて、その遺恨は、決して無くなる事無く、大人に成って社会人と成っても
更には、日本社会を牽引して行く各界の人達の中にも蔓延しているのです。
子供の頃から植え付けられた、成績が全てであり、大人たちの要求を満たせば、我儘が許され
身勝手な行動をして見逃されると言う、日本人の根本的な心の甘さが有るのです。

この事は、例え、どんなに高い身分を得ても、社会が注目する地位や財産を得たとしても
根本的考えは変わらず、子供の頃には大人が、大人に成れば、社会が望む様な人間に
成れば誰でも、自分の我儘が通ると思ってしまうのです。
良い成績が得られなければ、経済性豊かな地位が得られなければ、望みは叶えられないものの
親や先生が望む成績を得られれば、社会的では、人々が憧れ望む地位や名誉や財産が得られれば、
自分の欲望や我儘を押し出しても許されるとする風潮が日本社会には流れているのです。

つまり、誰もが、成績さえ良ければ、地位や財産さえあれば、我儘が出来ると思っているのが
経済性だけ増して、人間としての成長を忘れてしまった日本社会の実情と言えるのです。
有名な政治家や芸能人が、驚く様な不祥事や不義、事件を起こしても、何の不思議ではなく
例え、何不自由ない生活が出来ているのに、何故!というより、その様な生活が出来るから
不祥事を起こすと言っても過言ではないのです。

今や、日本社会は、人類の進歩というより、人間の我儘を満たすために在ると言ってもよく
経済的に豊かに成るのは、自分の我儘や欲望を満たす為と言うのが根底に在るのが問題です。
例え、メディアからの情報を見て、眉を顰める人達であっても、もし同じような立場であったら
我が身を戒めると言う事は無く、多くの場合、欲望の我獣を解き放ってしまう可能性が有るのです。

成績が上がれば、社会的に地位が得られて多くの所得が得られれば、何でも思い通りになるといった
餌を吊り下げられて勉強をしたり仕事をしたりしている日本人が増えているのが問題です。
集団で、如何に富を分かち合って、幸せにトラブルなく生きて行くかという術を長年に渡って
育てて来たのに、資本主義経済社会と成り、更には消費経済国家を目指すようになって、
例え、集団で生活していても、自分の欲望を満たす事がステイタスとなってしまったことから
対人的トラブルが増えてしまったのです。

1つは経済的トラブル、もう一つは対人的、特に、一方的なハラスメントが増えたのです。
経済的トラブルは、政府の方針が国民を幸せにするものではない事から解決の糸が無いのですが、
対人的トラブルは、日常的に共同生活をしていく上で大きな問題と言えます。
基本的にパワハラもセクハラも、その問題の根は同じであり、日本人の対人センスが育っていなくて
人と人との繋がりが、勝手な自分の思い込みであったり、情報による知識であったりで、直接
目の前の人の心と身体を感じる能力が疎くなっているのが根底にあります。

いわゆる、相手の気持ちを察する能力がない日本人が非常に増えていて、まず、利益を考え
自分の欲を満たす事が前提となった対人関係が多い事がトラブルを生みやすくなります。
道徳教育の基本は、相手の立場に成って考えられると言う事ですが、それは、マニュアルが有って
それを覚えて、習った通りすれば良いと言う物ではなく、対人的に訓練されて、時と場合、
更には、お相手の人間的な条件や性質と、様々な要素が加わって生まれるのです。

簡単に察すると言いますが、その奥は深く、人間愛に溢れたものでなければなりません。
自分の都合や思い込み、知識だけで行われると、単に丁寧だけな慇懃無礼な態度と成って
相手の気持ちを苛立たせる結果と成ります。
いわゆる、ファーストフードの店員の応対と同じで、マニュアルで丁寧な言葉と行動を
行っているだけで、そこには、何の人間的な優しさも思いやりも有りません。

この事は、社会全体の人々のやり取りにも多く見られ、仕事を円滑にする為の術として
利用される分は良いのですが、プライベートで有っても、友達同士でも、家族間であっても
口先だけで本心と程遠い対応をする方も少なく有りません。
この典型が、多くの問題を起こしたり、国民から顰蹙をかう政治家と言えます。

この様々な対人的な問題は、多くの場合、その当事者同士の問題でもあるのですが、
この事が、社会的に風潮として定着して来ると、人々の生活に様々な問題が生じます。
先ず、男女間の関わりが、どの程度まで許されるか、対人的に相応しい応対はどうするのか
全てがマニュアル化された、益々、生きづらいつまらない社会と成ってしまうのです。
他人に接する事に怯え、男女の付き合いを恐れ、人付き合いに苦痛を感じる人も出て来るでしょう。

更には、様々な問題を取り締まり管理すると言う名目で、社会全体が誰もが監視されている様に思い
人々の感情的な思いのやり取りが自由に出来ず、まるで、戦前の恐ろしい社会と成ってしまう可能性が
高いのです。
ただでさえ、街中には監視カメラが置かれ、人々は、ナンバー制度で管理され、唯、国と富裕層の為に
奴隷の様に働く社会と成っているのに、国民は、自由主義国家とは名ばかりの、管理社会で、
心も身体も鎖でつながれたような息苦しい社会に生きて行かなければならなくなるのです。

今や、日本人は、目に見え無い様々な鎖で拘束され、顔で笑って心で泣いている様な状態です。
働いても働いても、殆どのお金を返済に充てなければならず、未来が全く見えない国民がとても多く
お金に不自由がない政治家や富裕層が想像もしない程の極限の生活を綱渡りの様に送っている人が
非常に多いのです。
もちろん、年々増える高齢者たちの生活も大変ですが、今、働き盛りの若者達の悲惨さは、
かつての、高度成長期の頃の若者とは比べ物に成らない程です。
大学を出ても、教育費として借りた奨学金の返済でいつまでも苦しんでいる人は多く、
社会人と成っても、自分が生きて行くだけで精一杯で、新たに家庭を持つことは考えられない
好きな人がいても、結婚には到底踏み切れないという若者も多いのです。

子供達の教育は、資本主義社会を維持するためのものであり、子供達を心豊かな人間として
育てる事を目的としていないのが現状です。
この事に関して、教育関係者や文科省は、子供達を立派な大人に育てる様にしていると言いますが、
現実は、子供達の姿や生き方を見れば一目瞭然で有り、イジメも暴力も相変わらず内在していて
その先には、社会的人間的な差別がある事は否めません。

韓国経済界での富裕層の暴言暴力問題が取りざたされていますが、彼らほど、感情的暴力的でないにせよ
日本社会も何だ変わってはいないのです。と言うより、日本の場合は、その事実が、深く潜行していて
なかなか表に出ていないのが現状なだけなのです。
戦後、日本も韓国も同じような高度成長を遂げて来ましたが、その内容はほとんど同じと言ってよく、
子供達は受験戦争で苦しみ、少しでも利益が得られる企業に就職する事を願っています。
この当たり前のことに、何だ問題が無い様に思えて、大人に成った人達の人間的成長が見られないのは
どちらの国も五十歩百歩と言えます。

著名人の不祥事やハラスメントが続きますが、この事は、決して特別な人達の出来事ではなく
日本中どこでも起こる事であり、現に起こっていてもマスコミが取り上げていないだけなのです。
残念なことは、何も知らない子供達が、大人たちの都合で、他人の気持ちが解らない人間に育つ事です。
教育は、国の将来をつくります。どんなに経済的に豊かな国と成っても、国民同士の信頼関係がなく
お互いに自分の利益だけしか考えられない様では、対人的トラブルは決してなくなる事無く、
人々の心に苦しみや悲しみ、更には怒りや憤りを生むだけなのです。





 

 


偽物の人生

2018-04-25 11:23:34 | 日本人

果たして、私たちの人生に於いて、本物が有るのだろうか。
自分が正しいと思うことでも、社会が正しいと認めることでも、
時が経てば、月日が過ぎれば、間違っている事も多いのです。

日常生活に於いても、見るもの聞くもの触れるもの全てが、
自分自身が認識しているつもりでも、他の人からすれば
間違っている事や理解しがたいことも多いのです。

つまり、自分から見て、この世のすべてのものは、たまたま
自己判断によって、正当化しているのであって、そのどれもが
私たち人間にとっては、真実とは言えないのです。

しかしながら、生きていくということは、自分自身を納得させ
意志のもとで正当化していかなければならないのです。
例えそれを他人が否定したとしても、自らが正しいと判断しなければ
自分の人生は進んでいかないのです。

その為には、他に答えが有るとしても、自分が正当化することが
重要であり、その判断基準に基づいて、生きていくことが出来るのです。
それ故、昨日の真実は今日の間違いとなる事が多いのです。
では、自分の判断が常に間違っている事を反省すべきかと言えば
この間違うことで、新たなる方法や真実を求めようとするのです。
この繰り返しが、人間の進歩であり進化であると言えるのです。

人は、常に間違いを起こすものであり、失敗を繰り返すものです。
それは、いかなる場合に於いても、自分が正しい判断をすることが
非常に難しく、より正確な判断を求めるには、余りにも知識が少なく
その中で、最も適切なものを、自分の正解としなければならないからです。

つまり、私達は、日頃から、本当に正しいと言う考えや行動をする事は出来ず、
常に、その場に於ける状況判断によって、より的確であると思える行動や
言動を行っているのです。
その判断が、自分の周囲の環境や社会に於いて正しいと評価されたとき
初めて、自分自身の判断が正しかったと思い、更には、認められたとして
生き甲斐を感じる事と成るのです。

しかし、自分の判断が、いつも的確であると言う事は無く、例えその場に於いて
上手く事が済んでも、しばらくすれば、間違っている事は多々あるのです。
この後に成っての間違いを少しでも少なくすることが、人生を楽しく有意義に
送る術であると言え、多くの人が、小さい頃から勉学に励み、多くの知識や
経験を積み重ねるのです。

とは言っても、人間が自分の知識や経験として身に付けられる量は非常に少なく
日常に於いても、働いていても、あらゆることが新たに起こり、それに対処する
判断を常に求められるのです。
知識や経験ではとても補いきれない事が起こる為、日常的に多くの間違いを犯し
苦しんだり悩んだりするのです。

その為、人々は、対人的なルールを持ち、出来るだけ間違わない様に、お互いの
考え方を理解し、例え違った考えで有っても出来るだけお互いの考えを認め
双方が利益となる様に社会を作り上げて来ました。
1つはステムをスムーズに行う為に、もう1つはは対人的にトラブルと成らない様
考えの違う人間同士が生活を共にしていても問題を起こさない様にしているのです。

この二つの考え方がスムーズに言っていると、人間は、文化的に平和的に進歩出来
幸せな毎日を送れると言えるのですが、近代的な生活をしていても、トラブルは起こるもので
多くの場合、自分の考えを主張して相手の気持ちを考えなかったり、自分の考えを
押し付けたりする事に依って発生します。

文明の進化と共に、近代的な社会が築かれて来たと言っても、人間同士の関わり合いが
伴わない事に依るトラブルが起きているのです。
この事は、著名人に様るトラブルだけでなく、一般社会い於いても頻繁に起こっていて、
唯、メディアが、取り上げる、政治家や芸能人のスキャンダルや不祥事が問題というより
それは、日本社会の、ほんの氷山の一角で有り、日本中の都市で会社で学校で、頻発している
問題と言えるのです。

誰もが、自分が正しいと思えることを見つけられず、社会的に価値があると思われる事に
価値観を見出そうとする為に、対人的な人間としての価値観を感じる事が出来ず、
様々なトラブルやハラスメントを生じているのです。
自分の欲望を満たす為に、経済社会で生きて行く為には、他人の事を構っている場合ではなく
成績として示すか、社会的な地位、財産と言ったもので自分を守るかしか出来ず、
いつまで経っても、どんなに利益を得て経済的豊かな暮らしが出来ても満足できないのです。

自分が社会的に地位を得た方法が、対人的に見出されたと言うより、社会的外見的な価値を
身に付ける事で在った為、対人的なやり取りが成長できず、まずは、自分の欲望願望が
前面に出てしまう事から、人を傷つけたり国民を落胆させたりするのです。
対人的関係とは、自分を生かし自分の価値を高める事にのみ使われ、他人を生かし人を認める
という道徳的考えが身に付いていません。

人々が協賛して集まる時は、常に、自分の欲望が満たされる時であり、欲望が満たされなければ
まるで潮が引いて行く様に散って行くのが常と言えます。
それ故、対人関係は、如何に利益が関わるかで決まり、相手の気持ちと深く関わる事が出来ず
他人の心が理解できず、自分の欲望だけで関わろうとしてトラブルを起こしているのです。
今や、社会的に地位が有る人や政治家と言った、日本を牽引して行く様な人達の人間としての
未熟さを感じさせる事件が目に付きます。

この事は、その様な有名人が問題を起こしているというのではなく、たまたまメディアが
暴露しているのが有名人で有って、同じような事件は、日常茶飯事で起きているのです。
つまり、日本人全体が問われていると言って良いのです。
学校だけでなく社会に於いても、イジメや差別と言った問題が多い事から、文科省も
子供達の教育の一環として道徳の授業を考えて居る様ですが、その授業を行う先生も
日本の消費経済社会で育ってきているのですから、事務的に教える事は出来ても、
道徳の先生として教える事は難しいのです。

対人的なトラブルがひんぱつする日本社会は、学校で教えると言うより、むしろ、大人たちが
自らの襟を正し、如何に社会を運営して行くかを、人間サイドに立った考えで作り直す事が
大切と言えます。いくら子供達を教育しようと、社会のシステムが、対人的問題を起こす様に
作られていれば、社会に巣立っていった子供達は、唯、旧来のシステムに組み込まれるだけなのです。

今や、日本人は、世界的に見ても豊かな生活を送れていると言えますが、これはあくまで経済的な
外見的な豊かさで有り、日本人の多くの人達の心を覗けば、不満で一杯の、幸せとは程遠い
精神的に満たされない人が実に多いのです。ただ、消費経済国家の見てくれの豊かさで、何とか
心を慰めているに過ぎません。
経済的に豊かに成ると言う事は、生活や健康に関して不満や不安を抱かない社会になると言う事です。
基本的に経済的な事で心が囚われない生活が出来て初めて、人々は安心した毎日が送れます。

この不満や不安を日本国民が個人的に満たさなければならない、しかも、経済的に豊かに成る事で
満たさなければならない事が問題です。
今や、日常的に安心な毎日を送れる日本人は、数パーセントに過ぎません。
大多数の国民が、衣食住、そして健康に関して苦しみあえいでいるのです。
その数少ない富裕層を基準に日本の政治が行われているのが最大の問題と言えます。

あらゆる社会事業が、まず、国民というより、社会的に大きな利益を得ている人達の考えを基準に
行われている事が、国民がいつまで経っても幸せを感じられない原因でもあるのです。
例え、多くの被害を出し、多数の死傷者を出した東日本大震災の復興事業に関しても、その方法は
企業中心の、被災者後回しの対策でした。復興したとする街や故郷は、既に、何処の街の姿か
全く解らず、見るからに、多くのお金が動いて利益が生れているかが解るのみです。

この事は、日本で行われる事業の基準が、国民全体の利益というより、国としても多くの利益が得られる
大規模事業者や富裕層の考えを元に作られているからです。
21世紀と成って、日本中の街が、地震や台風と言った自然災害に襲われ、多くの街が破壊されましたが、
復興した街並みは、いずれも同じような都市計画で有り、同じような考えを持った方々によって
作られたことが良く解ります。被災地の特徴は、同じような作りの街並みで有り、多くの利益が
特定の企業に流れているのが良く解ります。

被災した人々は、物的人的な被害を受けて、心も身体も打ちひしがれているのに、出来上がった街並みに
故郷の面影は全くありません。被災地に群がる多くの企業が、其々の利益を目論み作り上げられた、
昔からの心安らぐ故郷では有りません。
東日本大震災で破壊された東北の街の復興状況を見ても同じであり、例え、近代的な設備と住居ができても
昔からその地に住んでいる人にとっては異国の地であり、長く親しんできた県外からの観光客にとっても
進んで遊びに行きたくなるところでは有りません。

日本で行われる事業は、常に、経済的な価値をもって行われ、住む人や使う人の事を考えて、未来を見据えた
人々に夢を抱かせるようなものでは有りません。
ただ、奇抜で近代的な設備や建物を作れば、日本人の多くが集まり楽しいと思うと言うのは、高度成長期の
日本人がまだ敬座的に満たされない、発展途上国であった頃の考えです。

今や、家庭内に於いても、経済成長によってもたらされた過去の遺物で一杯であり、人々の生活は、
与えられる便利で豊かな品物を消費する事にのみ仕事を頑張っているに過ぎません。
次々に作られる新製品を買い求める事で、自分自身の心を誤魔化しているに過ぎないのです。
日本国民の本当の幸せを考えないで、消費経済を豊かな象徴として推し進める日本の政治は、
既に、国民の心を疲弊させ、他人の心を傷つけてもなんとも思わない様にしてしまっているのです。
一部の将来の生活や健康に不安の無い方々はまだしも、殆どの庶民にとって、日常生活を送る事は
益々心を苦しくしてしまうだけなのです。

日常的に沢山の日本人の中で生活していながら、例え隣の人であっても、何の関わり合いも持たず
心のやり取りが出来ない日本人がとても多いのです。
自分だけの利益を考える生活は、当然、対人的な思いやりも気遣いも出来ません。
様々なトラブルやハラスメントが起こるのは当然と言えるのです。
日本人の素晴らしさは、対人的に豊かな感情のやり取りと思いやりであったはずです。
例え、欧米的な経済国家と成ったとしても、長い歴史の中で培われて来たこの心の豊かさを
見失ってしまっては、もはや、日本人としては生きてはいけないのです。
しかしながら、心の豊かさよりも、経済的な豊かさを優先している方々によって日本は動かされ、
国民は振り回されているのが現状と言えます。
日本人一人一人が、自分にとって一番相応しい生活が送れ、自分自身の価値観を見いだせる
他人とに比較や、経済的な豊かさを追い求めないで生きられる社会が求められます。



 

 

 


米朝首脳会談に参加できない日本

2018-04-24 12:52:03 | 日本人

いよいよ米朝首脳会談が行われることに成りました。
今年に入って、東アジア外交は、北朝鮮を中心に、大きく動き、
北朝鮮と韓国の対談だけでなく、中国政府と金正恩の直接対談が
行われたり、急速な展開に、世界が注目をしています。

しかしながら、東アジアの経済発展のトップを走っていた日本は、
今世紀に入っても、一向に主導権が握れず、地球の裏側の親方の
顔色ばかり窺っていて、東アジアの国々にも、信頼を得られません。
案の定、今回の北朝鮮と韓国の接近に関しても、蚊帳の外に置かれていて
それを利用するアメリカにすり寄り、拉致問題という懸案を頼み込む事しか
出来ないのが現状でした。

とは言え、この平和への進展?は、東アジア、更には、世界の平和への
スタートとなるのでしょうか。
これまで何度も、平和と成るかもと期待した歩み寄りは、ことごとく
北朝鮮によって裏切られ、まんまと甘い汁を提供するに止まりました。
この事は、韓国も、アメリカも、そして世界の国々も良く解っているのですが、
それでも、戦争を回避できる可能性が有れば、と言う儚い期待の元、やむなく
北のペースに乗ってしまうと言うのが実情です。

 

北朝鮮がこれまで行って来た数々の悪行は、近隣諸国が嫌という程味わったのですが、
平和を脅かすこの国の存在を無にする事は出来ず、もし、軍事力で力をもって
政権を打破したとしても、それまでに、どれ程多くの犠牲者を生むかも知れません。
まして、世界中どこにでも到達すると言うICBМの開発は、世界中の国々にとって
脅威としか言いようが有りません。

既に、その開発は終わっていて、次は、量産体制に入ると言うのが筋で有り、たとえ
まだミサイルの数が少ないとは言え、一度、何処かの国に打ち込まれれば、その被害は
広島長崎の被害を見るまでも無く、過去の戦争を遥かに上回る可能性が高いのです。
まして、戦争による直接の被害を受けた事の無いアメリカに有っては、自国の大都市に
地球の裏側から核ミサイルが飛んで来ると言う恐怖は想像を絶するものと言えます。

北朝鮮にしてみれば、良い条件を得る為の切り札がしっかりと揃ったわけですから、
後は、出来るだけ沢山の要望を叶えるだけなのです。
もし、言い分が通らなければ、また、核実験を始めたり、核ミサイルを量産すれば
更なる脅しに成る事が解っていて、今や、世界中が、金正恩に振り回されている
と言って良いのです。

彼らの最大の目的は、国内経済の立て直し以上に、自分達の政権維持と安全確保で有り
北朝鮮に恒久的に金体制を確立する事に有ります。
自分達の身の安全と体制維持、更には、国内経済の安定と経済大国への道へと、
その全てを叶えるのが、核開発で有り、世界を射程に於いた核ミサイルの存在です。
当然、核開発の断念、ミサイル放棄というのは、自分達の条件を有利に導くための
はったりに過ぎません。

この様な平和路線に方針を変えたと言う事は、核戦術がすべて整い、アメリカなどの
核保有国と対等に肩を並べる事が出来ると判断したことで有り、北朝鮮の核開発計画が
金正恩の思惑通りに成っていると言えるのです。
それにしても、蚊帳の外に置かれた日本の立場は惨めとしか言いようが有りません。
世界が、東アジアの動向に注目する中で、身内から出たサビで振り回され、リーダー達は
国民の事を考えるどころか、保身に走るばかりで、連日、子供の様な言い訳三昧で
ますます世間の顰蹙をかっているいます。

こんな日本を世界はどう思うのでしょう。
ただでさえ、アメリカの傘の中で、一人前に成れないのに、自分達の国の中のことも出来ず
更には、リーダー達の国民を裏切る不貞、不義、言い訳、言い逃れと、良い所は全く無く
とても国際舞台で胸を張れる状態では有りません。

一体いつまで、親方の保護の下で生きて行かなければならないのでしょうか。
アメリカの言い成りで、いつまで経っても植民地状態から抜け出る事が出来ない沖縄は、
日本であって日本でない、アメリカの防衛基地に過ぎません。
国内の至る所に作られた米軍基地は、アメリカ本土並みの設備で、その周辺の貧しい人々とは
比べ物に成らない生活を送っています。

もちろん、この軍事関係者に対する莫大なる援助も、日本政府が、税金を充てているのです。
ヘリコプターが落ちても、オスプレイが不時着しても、小学校に飛行機の部品が落ちても
何の抗議も出来す、唯、泣き寝入りの状態を生んでいるのが日本政府です。
自分達は、政治家として生活も身の安全も守られて、例え有事と成っても真っ先に安全な
施設に逃げ込めるのに、基地の近くの人達は、真っ先にミサイルの標的になるのです。

この不条理を、戦後半世紀以上に渡って耐えている日本人が多くいるのです。
つまり、日本のリーダー達は、アメリカ政府の子分で有って、日本人の政治家の顔をした
トランプの子分たちに過ぎないのです。
何故、彼らは、もっともらしい愛国心を口にしても、陰でアメリカの言い成りに成っているのか
彼らの正義は何処に行ったのかと言いたくなりますが、残念ながら、彼らは、親方に尻尾を振る事で
様々な利益を得ているのです。

先ずは、アメリカとの関わり合いの強い企業に対して優遇をし、その恩恵を受けると共に、
アメリカと日本企業との取りまとめを行い、どちらからも優遇を受けると言う甘い汁を味わう事で
一般庶民には想像もつかない豊かな暮らしを送れているのです。
例え、アメリカの腰ぎんちゃくと言われようが、企業の言い成りと言われようが、自分達の懐が潤い
何不自由なく生活できるに越したことは無いのです。

国民の代表という政治家は、単なる社会的な地位を示す看板に過ぎません。
本当に国民の事を考えていると言うならば、これ程までに一般の国民が苦しい生活を強いられて、
半世紀以上もアメリカの植民地に甘んじなければならない沖縄の人々の気持ちが解らないはずは無く
国民は、所得の差は有っても、幸せな毎日が送れているはずです。

働けど働けど楽に成らない生活が、日本国民の全てが感じている日本で生活する事の苦しみです。
日本政府が言う様に、経済的に豊かに成れば幸せに成れるとする考えに従って、必至に働いて
経済的に豊かと成っても、心が満たされる事無く、常に、比較する事で、より豊かな生活を
目指さなければならない、心の安らぎの無さに、多くの日本人が悩み苦しんでいるのです。

少しでも外見を取り繕い、より豊かな生活をする事で、あたかも、自分は幸せであるかの様に振る舞い
心の中は、いつも癒されず、満たされず、自分の本当の幸せを見つけられないでいる日本人が
非常に多い事を、リーダー達は全く解っていません。
選挙をする時だけ国民に笑顔を見せ、当選すれば、背中しか見えず、高い位置から見下ろしている
強い者に常に従い、弱い者を虐げる典型ともいえる政治家が、日本の未来を創れる訳が有りません。

そんな、寄らば大樹の陰の様な日本の政治家は、より強いアメリカの様な国には、いいように利用され
いつまで経っても独り立ちできない、親方アメリカが居ないと生きて行けない様な国にしてしまった
と言えるのです。
はたして、今度の米朝首脳会談で、どれだけ、日本にとって有利な条件が生れると言うのでしょう。
もちろん、拉致問題を対談の議題とするとされますが、当然、この事も、アメリカの利益の一環として
利用されるに過ぎません。

日本各地で起こるアメリカ軍事基地周辺の事件やトラブルを、常に前向きに考えるとするアメリカ政府が
日本人の気持ちを充分にくみ取った解決策を講じた事は一度も有りません。
常に日本人は、日本国内で起こしたアメリカ軍の事件も、アメリカの言い成りであやふやにされて、
どれだけ多くの日本人が泣き寝入りをした事でしょう。
国民を平気で苦しめて何とも思わない日本人の代表ともいえる政治家が日本を動かしている事に
限りない憤りと無念さを感じている人は数多く居るのです。

ハッキリ言って、誰が、どの党が日本を担って行っても良いのです。
本当に国民の事を考えられる政治家が、日本の政治を行って欲しいのです。
私利私欲に満ちた、外ずらばかりを取り繕う政治屋は要りません。
今や、日本社会は、自由平等の世界ではなく、将来を保証された経済性豊かな人達と
生きる事生活する事で精一杯で、未来を考えられない、ただ、豊かな方々の為に働く
勤労者に分かれています。

常に出費を強いられ、未来を保証をされない、夢を抱けない人が多く存在するのが日本社会です。
今や、豊かな人達によって作られた近代的な社会で背伸びしながら生きているのが日本国民です。
私たち日本人の家庭を覗けば、そこかしこにコマーシャルによって買わされた消費物質で溢れています。
寝る場所も無い程、使われなくなった商品に囲まれて生活する人も多くいます。

本当に自分にとって必要で有るかを考えられない程、魅力的な商品説明の元、まるでダボハゼの様に
餌に飛び付き散財しているのが多くの庶民たちと言えます。
近代的な生活を送れると思って買い求めた品々は、直ぐに役に立たなく成ったり、流行遅れとなり
直ぐに新たなる商品を買い求めた結果、自分が一体何のために働いているのかが解らず、
いつの間にか、売り手の生活を豊かにしているだけなのです。

日本経済は、常に、消費者にとって最も相応しいものを与えず、求める物が常に商品としてあるという
考えを持たせる事に依り、永久に散財させ続ける様に出来ています。
この事は、消費経済国家で豊かな生活をしている人達の考えで有り、日本社会の仕組みとも言えます。
しかしながら、これ程にも、生活の格差が付いて来ると、同じ日本人でありながら、日本人であることを
喜べない人も多くなって来ます。

不祥事やハラスメントで追及を受けている間はまだしも、日本人の多くが、その事実に気づき
自分達の立場と幸せを主張し始めた時、日本の政治は、終末を迎えるかも知れません。
沖縄は日本から独立し、日本には新たなる統治家が現れるかもしれません。
ぬるま湯の様な政治を行って私欲に走っている内に、蚊帳の外に置かれるだけでなく、
いつの間にか、日本が日本でなくなってしまうかも知れないのです。