めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

大人になれない自分

2014-09-13 12:37:25 | 日記

肌に爽やかな風が吹いています。
暑さと湿度でまとわりついていた汗がいつの間にか消えて、
肌着と身体の間に乾いた空気が流れ込みます。
体温と変わらない気温に、うるさいほど朝から騒音の様に
鳴いていたアブラゼミ、そして、信じられない様な土砂降り、
今日の穏やかな天気を感じると、あれは一体何だったのだろう、
と思ってしまいます。

喉元過ぎれば熱さ忘れるといいますが、日本の天気は
一体どうなってしまったのだろうと嘆いていたのが夢の様です。
暑苦しい蝉の声が、コオロギのもの悲しい鳴き声に変わり、
開け放たれた窓から近所の声が聞こえてきます。
暑さや豪雨で街角でおしゃべりする人を見ることが無かったのに、
ようやく静けさを取り戻したようです。

いつも秋となると少し物思いにふけり、身も心も浄化されていく様です。
それと共に、周囲の喧騒に振り回されていた自分が落ち着きを取り戻し
やっと、周りをゆっくりと見渡し、自分の存在を確認するようになります。

一年中自分は何にも変わっていないのに、気温が少し変わっただけで、
大雨や大風が吹いただけで、全く自分が変わってしまったかのように思い
一喜一憂をしてしまう。
少し気温が下がり、爽やかな風と、青い空が感じられる様になると、
途端に自分の心の小ささ浅さを感じてしまいす。
年頭の覚悟は一体なんだったのでしょう。
簡単に周囲の状況に振り回され、自らの冷静な判断が無くなってしまいます。
子どもの時は、大人になれば何でもできると思い、社会人になれば
いつか何事にも動じない大きな人間に成れると信じ、沢山の書物を読み
様々な職業の方に会い、沢山の経験を積んで来ました。

あの時からから何十年が経ったでしょうか。
どんなことにも動じない立派な人間に成れたのでしょうか。
いえ、いえ、残念ながらそれは幻想に過ぎなかったようです。

澄み渡る秋の空を眺め、頬をなでる爽やかな風に心を洗われ、
今年の暑い夏と記録的な豪雨を感慨深げに思っている姿は、
子供の頃、いたずらをして母にこっぴどく叱られて、
裸足のまんま飛び出して、ふと見上げた秋の空を見上げている、
あの幼い頃の心境と全く変わっていないのに気が付きました。

沢山の人生経験を積み、社会で生きて行く術を学び、家庭を築き
人生の後半を迎えました。
他人から見れば、社会におけるそれなりの位置づけを持って
私を評価するのでしょうが、それは社会的な姿であり
本当の私では有りません。

大きな自然に対峙すれば、一個の生物にすぎないのです。
しかし、こんなにも弱くてめんどくさくて扱いにくい生物を
あたかも特別の物として感じるのは、あくまでも周囲の環境との
関わりに過ぎません。

社会の大きな流れの中で生きていると、本当の自分を失って
社会的評価を自分と勘違いしてしまう様に思えます。
爽やかな秋の風に、ふと、本当の自分を感じる様に、
いつも自分の身の丈を感じる人生を送って行きたいものです。


 

 


心の癒えない年月

2014-03-05 19:47:31 | 日記

一雨ごとに春が近づいています。
雪に変わるかもしれない冬の雨から、何となく優しい
人も自然も潤う暖かい雨に変わってきました。

同じ雨でも、心の持ち方で濡れたくない気持ちと
頬にあたる小雨をぬぐう事もせず、雨を待つ植物の様に
身を委ねる気持ちにさせるのは、近づく暖かい春を待つ
心のゆとりがそうさせるのかも知れません。

普段の気持ちもそうありたいもので、家族が暖かい気持ちで
居られる時はいつも相手を思う気持ちが言葉を受け入れる
余裕となるように思えます。

何十年連れ添っても、時に、言葉が鋭く感じたり、冷たく感じるのは
その言葉の裏に相手を思う気持ちが無くなった時のように思えます。
いつもの同じ言葉が優しく感じるかきつく感じるかは、お互いに
相手の事をいつも大切に思う気持ちが無ければならないと思います。

苦しみの中で3年の年月を迎える多くの被災者に、我々はいったい
何をしてきたでしょうか。
多くの犠牲者を出し、故郷の大切なものを失ってしまった人々に
我々は今までどの様に対してきたのでしょうか。

支援をすることがどれだけ彼らの気持ちを癒してきたでしょうか。
確かに、日本中から世界中から沢山の支援が被災地に届けられ
なんとか生活できる状態にはなりました。
しかし、我々が思っている支援は、本当に被災者たちが望んだ
支援だったでしょうか。

家を失った人には仮設住宅を与え、食料を与え、衣類を与え、
生きていくための日常生活のすべは援助してきました。
でも、被災者の心はあの時と変わっていない様に思えます。
と言うより、支援に対する不信感と苛立ちで以前より落胆の表情が
多くの方に見られるのはどうしてでしょう。

殆ど帰還できない故郷に帰る事を熱望する被災者は、
我々災害を体験していない者が思う事ととは違う援助を求めている様で
思ったことを言えない様な口ごもった表情に深い憤りを感じます。

豊かな自然の中で生活してきた彼らが、求めているのは
自分たちを生かしてくれた故郷を思う気持ちが解ってもらえない
もどかしさの様にも思えます。

住む所が除染され、衣食住が満たされても、周囲の自然は
今だ除染されないまま、それは、砂漠の中の刑務所と同じです。
被災者は我々が生活しているような経済的に豊かな生活でなく
周囲の人や自然に生かされている生活に戻りたいと
思っているのではないでしょうか。

我々都会人が忘れがちな繋がりのある生活をもとめているのでは
と彼らの表情を見ていると思えてなりません。
国や支援団体が資本の力で経済を復興しても、
被災者の心は癒すことはできないのではと思えます。
3年の年月が経っても今だ復興しないのは、
人々の心が癒されていないからではないでしょうか。


春の様に暖かい思い

2014-02-26 16:02:36 | 日記

今日も暖かい一日が始まりました。
このまま春が訪れるとは思いませんが、この冬
欠かさず首に巻いたマフラーに手が伸びません。

出勤をする時、目黒川を覗くと、川面を登る海風が
小さなさざ波を作り、キラキラと光りながら上流へと
輝きながら流れていきました。

とは言うものの、いよいよ国民病ともいえる花粉症の季節が
音もなくやって来ました。
雪の降る頃の喉の痛みと咳は、間違いなく風邪の兆候と
思われたのですが、これからは黄色い悪魔への
バトンタッチとなりました。
今から一か月、ヒノキ花粉を考えると、すくなくとも
二か月間は頭の中がすっきりしない季節となります。

ところで、春になると様々な生き物が動き出し、
多くの動物にも春が訪れます。
季節的な事もありますが、もう一つの春、それは
暖かくなることにより生殖活動が盛んになることです。
食べ物が増え気温が上がることによって、この時期は
子育てに絶好の時期となります。

ポカポカと暖かい日、海辺の岩礁地帯に降りたつと
様々な生き物の活動が見られます。
この時期の海洋生物は繁殖の時期となり、至る所で
様々な生殖活動が見られます。

水の中を覗くと冬場から良く茂ったホンダワラや若布の林に
沢山の小魚が群れ、岩の上や隙間には巻貝やアメフラシの
卵を見つける事ができます。

しかし、都内の水族館よりも沢山の生物を見る事の出来る磯場は
毎年少なくなっています。
しかも、そこに生息する生物の種類や数も昔に比べ極端に少なく
春の海に見られる命の営みは少なくなってしまいました。

東京湾も殆どがコンクリートの護岸で固められ、昔の様な磯場が
少し外洋に近い所まで出かけないと見られません。
海も川もすべてが人間の都合で作り変えられ、生きる生物にとって
ますます住みづらくなっています。

我々人間がどんなに進歩しても、基本的に、他の生物から
エネルギーを摂取して生きていかなければなりません。
つまり、多くの生物と同じく食物連鎖の中で生きています。
様々な生物の種の保全が我々の生命を支えているのです。
しかしながら、今や、人間以外の生物の環境が悪化しています。
そう、我々人間の身勝手な生き方が彼らを苦しめているのです。

人が人によって生かされているだけでなく、地上のあらゆる生命は
他の生物との関わりを持って生きているのです。
必要ない生命は一つもないのです。
自分の命を生きながらえさせるには、他の命を生かさねばならないのです。
春に美しい桜を愛でるには、美しい桜が咲く環境を作らねばなりません。
美味しい栄養のある食物を摂取するには、それらを収穫できる環境を
作っていかなければなりません。

どんなに地上で我ままを言っても、人類は生物の一つに過ぎません。
自分たちがこの地球上で生きて行くには、いかに他の生物を
生かすことが出来るかが、我々が地上で生き続ける大切なポイントと
思えます。

我々は他人と生活をしたり仕事をしたりすると、自分だけで生きていない、
自分以外の人の助けで生きていく事を学びます。
オリンピックに出場した選手たちも、そこに自分が日本の代表で出られた事が
多くの方々の力のお蔭であることを実感したと思われます。

生きる事この世に存在する事は、自分以外のすべてのものとの関わりあい、
そしてすべてのものへの感謝で実感できるのです。
先ずは自分の周りの家族を含めた人々、そして生きている環境に思いを抱く
そんな毎日を送れることを願って生活していこうと思っています。


この世に存在する意味

2014-02-25 14:07:20 | 日記

今日は気持ちの良い朝を迎えました。
あんなにも寒かった日々が嘘であるかの様に
青い空と爽やかな風が通り過ぎて行きます。

街を歩くと、人々の首元からマフラーが消えて
お年寄りの手元から手袋が無くなっています。
目黒川の桜の蕾も、気持ち、少し膨らんで
川面から流れてくる風も、快いそよ風になって
軽くなった首筋をなぜていきます。

ソチの冬季オリンピックも終わり、成田空港に
降りたった選手の安堵した顔に、ほっとしたのは
私だけでないと思います。

誰もが生まれて死ぬまで何もしなくても時は流れ
て行くものです。でも、人として生きていくには
多くの人と巡り合い沢山の経験を重ねていきます。

そんな時、自分の存在をふと考えると、その
あまりにも小さな存在に愕然として歩むのを
辞めてしまいたくなることが有ります。
そんな時、自分の生きる意味存在の意味を
教えてくれるのが自分以外の人々の力です。
選手たちも自分の存在を感じる為に、
スポーツを通じて努力をしています。

しかし、その努力が果たして意味があるのかを
知らせてくれるのが周りの人々の気持ちなのです。
スポーツに勝負が付き物です。
自分の努力が勝利の形となって認められると
誰もが自分のやってきたことに対して安心を
します。しかし、努力が報われない時、時に
自分を責め自分自身を否定したくなります。

そんな時、頑張ってきた彼らを人としてもう一度
立ち直らせ夢を持たせるのが周囲の方々の
彼らの存在を認める優しい言葉や思いやりです。

人は努力をして様々な事を成し遂げます。
しかし、その前に多くの失敗を重ね苦しみます。
その時、未来の自分の存在を見つけるには
周囲の人々の力が必要なのです。

人は一人では生きていけないと言われます。
しかし、人は本来一人で生きていくものでは有りません。
何故なら、自分の存在意義を見出すには
自分以外の人からの指摘が無いと解からないのです。

誰もが自分を必要としてくれることに喜びを感じます。
スポーツ選手がスポーツを通じて人々に自分の
存在を認められた時、初めて喜びを感じると思います。

スポーツだけでなくあらゆる世の中で生きる人々にとって
支え支えれれている事を実感するとき初めて
この世に自分の存在する意味を見出すと思います。


明日も大雪!?

2014-02-14 13:41:08 | 日記

早朝から降りしきる雪の中を、すこし心配な足元を気にしつつ
足早に出勤、いつものノルマを果たしながら、お茶を片手に
時たまむせる口元を抑えつつ指を動かしています。

先週の金曜日、あまりの寒さに、、バス停の横の蕎麦屋に

暖を求めたのを思い出すと、その後の鬼のかく乱が
昨日の事の様に蘇って来ます。

それにしても、この一週間は酷かった。

土曜日の早朝から大雪の兆候、しかしながら、その事を
確認する気力は無かった。
寝床で妻たちの撮ったスマホの写真を見ても感動することなく
久し振りに訪れた重苦しい雰囲気と、自分の身体を実感できない
不安と挫折感。日頃、人一倍元気なゆえに、一度伏すと
瀕死の病の様に落ち込んでしまう。

幸い火曜日には熱も下がり、咳は残っているものの

仕事にはほとんど支障はないのですが、その代わり
家庭内は野戦病院の様に至る所で咳き込む声がする。

日頃滅多に薬には手を出さない妻が、自ら引き出しを探し始めた。

幸い、私が使っていた薬や息子のものがあり、それをとりあえず
口にしたみたいだが、次には頭痛が酷いと痛みどめを
バックの中から探し始めた。
その後、今度は鼻水が止まらないと鼻炎カプセルを
引き出しの奥から探し出していた。

家族に発病してもう三日になるが、妻の症状は良くならない。

何を飲んでも良くならないと訴える妻に、
やたらに飲んでも危険だと戒めるも
滅多に病気にならない妻も、一日も早く治りたいと必至の様だ。

明日は先週と同じ大雪のパターンだ。

仕事は明るいうちに切り上げるにしても、交通機関の混乱は
前回を思えば明らかだろう。
ともかく、家族の風邪が完治してほしいものだが、
今月中にはいよいよ黄色い悪魔がやって来る。
我が家の最大の病は花粉症です。
一難去ってまた一難。
次回は鼻をかむ音が一日中聞こえるだろう。
早めにティッシュの追加購入をしなければなりません。