自分が果たして幸せであるのかそうでないのか、
私達は、中々決められるものでは有りません。
この事は、幸せとは何かという答えが有れば
簡単に答えられるのでしょうが、一人一人の
考えが違う事も有り、何を持って幸せと考えるか
決められないと言うのが答えなのかも知れません。
この事は、物事に対する価値観の違いの様に、
人によって全く異なっている事から、多種多様の
生き方が有り、人それぞれの個性として、
個人としての判別が生まれるのです。
つまり、この個人的な価値観が社会的に認められ
害される事無く生きられる事が、幸せと言える
のかも知れません。
人類の歴史は、人間が常に集団で生きて来た事から
個人的な行動よりも、集団としての行動が求められ
仲間と上手くやって行く為にも、自分の行動が
ただ良いか否かを周囲の動きや考え方で判断し
自分自身の在り方を決めて来た傾向が有ります。
自分が集団の中でトラブルなく生活できる為に
正しい判断決定が周囲の環境に大きく影響され
いかに、上手く集団の意向に合わせられるかが
自分自身を生かす術でも有ったのです。
この集団の中での個人の心理をうまく利用すれば
沢山の人々の考え方を思い通りに操る事が出来
人間社会にに於ける大きな権力と資産を得る事が
可能と成るのです。
つまり、個人個人の考えが何であれ、全体としての
価値観を作りさえすれば、多くの人達は、自然に
思い通りに従うと言えるのです。
人々の進化の過程において、多くの人々の英知を
上手く利用し、文化や産業を発展させる為には
如何に、人々の価値観を上手く操れるかと言うのが
リーダー達の能力と言えるのです。
世の中の流行であり、人々の共通の考え方は、
個人個人の考えが反映されているというより、
誰かが、人々の心理を操っているとも言えるのです。
多くの利益を得たいと思われる人達の思惑で、
人々の嗜好や行動が決めれれていると言えるのです。
メディアに於ける特定商品のコマーシャルや流行は
人々の考える価値観を扇動する事に依り、より多くの
利益を得る様に作られていて、同じような物や流行を
手に入れたり、自分の生活に取り入れる事に依って
幸せであると思わせるのです。
この事は、資本主義社会に於いて、人々が生きていく
基準と成り幸せの判断と成って受け入れられていくのですが、
この、誰かによって決められる幸せの価値観が、果たして
本当に、本人の幸せに結びついているかと言えば、
殆どの場合、一時的な満足とはなっても、恒久的に
幸せを得られるというものでは有りありません。
何故、世界でもトップクラスの経済大国に住んで居ながら
日本人の心はいつも不安であり、不満であり、常に
満たされないで、幸せを感じられないのは、この社会の
経済的な仕組みと洗脳に有るのです。
生産者にしてみれば、常に、消費を繰り返してくれなければ
継続的に収入を得る事が出来ません。
しかし、個人に完全なる満足を与えてしまえば、経済社会が
成り立ってはいかないのです。
つまり、不完全で有り、更なる魅力のある商品を求め続ける
社会の流れが必要と成るのです。
どんなに素晴らしい商品でもファッションでも、次には
もっと素晴らしい物が出回って来ると言う期待感を持たせる事が
消費経済社会を維持する大切なシステムと言えます。
国民に常に満足をさせず、人々の満足は、新たなる製品にある
と思わせる事が重要と言えるのです。
消費経済社会に於いては、如何に、欲求を継続させられるかが
社会を成り立たせる術でも有るのです。
所が、この世界は、誰もが、常に欲求不満の状態であり、
本当に心が癒される事は有りません。
常に新製品が紹介され、街は、次々に新しい店舗が生れます。
この新たなる期待が人々の心を高揚させ、自分達は幸せであると
勘違いしてしまうのです。
人類の発展を身近に感じる事は嬉しい事では有るのですが、
自分自身が、個人的な価値観として満足する事が大切です。
一人一人の異なった価値観を満たす事が出来て、社会的な
進歩や発展を喜ぶことも出来るのです。
今の日本社会は、国民の一人一人の価値観を満たす事が出来す、
社会的な価値観を持って、個人の満足に変えているのが問題です。
他人の作った物、他人の成し得た事業、他人の作り上げた街を
買ったり利用したりすることを自分が生きている満足であり
価値観として感じる様に仕向けられているのです。
幸せに成る為の価値観をメディアを通して提供し、人々は
自分が本当に幸せに成ると思い、様々な商品に手を出します。
映像から流れる理想の生活や理想の生き方は、あくまで、
多くの利益を得る為に造られた提案であって、言われた様に
見た様に自分が試してみたとて、決して自分自身の心を満足
させることは無く、与えられた価値観で納得するだけなのです。
殆どの場合、経済社会に於いて、人々の行っている事は、
自分ではなく、誰かの生き方や生活の模倣であり、
幸せそうに見えるから自分も同じことを行えば幸せに成ると
思い込んでいるのです。
様々な日用雑貨や日用品を買い求めるのも、身の回りを
着飾るのも、その様な生活をすれば、自分が見た様な感じたような
幸せが得られると思っているに過ぎません。
私たち日本人は、身の回りの物や人との関わり合いを、自分の
心と身体を喜ばせる物として深く考える事無く、安易に、
世の中の流れや価値観に身を委ねて、刹那的な満足をしている
と言えます。
その為、あらゆる物が一時的な満足を与えても、自分自身の心と
身体を育てる事にはならず、常に、満足を自分以外に求める様に
成ってしまっているのです。
その為、本来ならば、一人一人が様々な個性を持ち、様々な
考えと感情が育っているはずなのに、多くの人が、同じ考え
同じ感覚で生きているのです。
当然、幸せの価値観も同じように成り、求める物も生活も、
他人から提供されたものを安易に利用するだけなのです。
しかしながら、本来、誰もが違った感情感覚を持っているはずなのに
同じ様な考え感覚で自分を納得させる事から問題が生れるのです。
そう、何をしても本当に満足する事無く、いつまでも本当の幸せを
見つける事が出来ないのです。
集団の中で生きている事から、全体としての行動や考え方を持つことは
社会人として大切と言えますが、それ以上に、個としての自分の本心を
見失ってはならないのです。
私的な事と公的な事がバランスよく存在する事が大切で有り、
今や、私的な事を社会的な事で乱用したり、公的な事を私的な欲望で
満たそうとしている人が多くなっているのです。
つまり、個人的な欲望を公的な場で乱用したり、公的な場に於いて
個人的な欲望、つまり我儘を通そうとする人が増えているのです。
特に、社会的に地位のある方々の見苦しい姿が目立つのです。
多くの人々に影響を与える人が、私欲に走る事が珍しく無く、
期待して送り出した人々を落胆させてしまうのです。
これらの問題の根は、本人が如何に、自分の本当の気持ちに向かい合わず
世の中の価値観に踊らされているかと言う事です。
本当の自分の心の満足は、他の人々の気持ちと代える事は出来ず、
非常に個人的な部分と言えます。
この部分は、殆どメンタルな部分であり、社会的な地位や名誉、財産で
置き換えられるものでは無く、増して、メディアの商法で、簡単に
満足させられるものでは有りません。
この個人個人を作り上げる心の元が、一生の間、いかなる状況に陥っても
前に進める大きな力と成るのです。
社会的に考えたとしても、この自分の幸せを作り上げる事が出来る部分を
持っている方は、誰からも信頼され、人間社会では人として、多くの人に
認められ尊敬されるのです。
信頼できる自分自身を見つけ育てられる事が幸せへの道と言えるのです。
世の中を見渡せば、誰もが本当にちっぽけな存在であるのですが、
目に映るもの聞こえるものすべては、自分自身を育てる道具であって
目的ではないのです。
どんなに社会的な価値の有る物であっても、自分の本心を育てる道具に過ぎず
地位や名誉、財産も、社会的価値であって、自分自身の価値ではないのです。
私達は、様々な環境境遇で生きていますが、どんな生活を行っていても
個人としての価値は変わりません。
その個人としての価値を満足させるのは、決して社会が創り出したものでは無く
自分が様々な世界で生きて行く事で育て上げて来た、唯一無二の心なのです。
どんなに豊かな生活をしても、心から幸せに成れないのは、その生活を
誰かの生活と比較するからであり、他の者に価値を見出した途端、
自らの持ち物は、色あせて不満足の対象と成るのです。
つまり、自分が幸せの素と思う社会的な価値は、様々な形態が有り、
どんなに素晴らしいと思っても、簡単に価値観は変わってしまうのです。
人は宗教の世界に入ると、あらゆる俗世間の私物を捨て去り、
いわゆる、裸の人間として出家の形を取ります。
この事は、自分の心を惑わすあらゆる欲望の元を取り去る事で
頼れるのは自分自身の心だけと言う事を悟らせるのです。
つまり、本当の自分に向き合うことで、人としての生き方を学び
自分にとっての幸せとは何なのかを見つけるのです。
宗教と言うのも一つの方法と言えますが、自分自身の心に向き合えば
如何なる方法をとっても、本当の幸せを見つける事が出来るのです。
俗世間の幸不幸は、自分自身の心を育てる為の試練ともいえるのです。
如何なる環境に居ても、幸せを見つける事は出来るのです。
自分自身の本当の幸せを見つけた時、初めて心が安らぎ、
自分が生きている意味と価値を見出す事が出来るのです。