めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

幸せを見つけるには

2017-11-17 17:29:19 | 自分

自分が果たして幸せであるのかそうでないのか、
私達は、中々決められるものでは有りません。
この事は、幸せとは何かという答えが有れば
簡単に答えられるのでしょうが、一人一人の
考えが違う事も有り、何を持って幸せと考えるか
決められないと言うのが答えなのかも知れません。

この事は、物事に対する価値観の違いの様に、
人によって全く異なっている事から、多種多様の
生き方が有り、人それぞれの個性として、
個人としての判別が生まれるのです。
つまり、この個人的な価値観が社会的に認められ
害される事無く生きられる事が、幸せと言える
のかも知れません。

人類の歴史は、人間が常に集団で生きて来た事から
個人的な行動よりも、集団としての行動が求められ
仲間と上手くやって行く為にも、自分の行動が
ただ良いか否かを周囲の動きや考え方で判断し
自分自身の在り方を決めて来た傾向が有ります。

自分が集団の中でトラブルなく生活できる為に
正しい判断決定が周囲の環境に大きく影響され
いかに、上手く集団の意向に合わせられるかが
自分自身を生かす術でも有ったのです。

この集団の中での個人の心理をうまく利用すれば
沢山の人々の考え方を思い通りに操る事が出来
人間社会にに於ける大きな権力と資産を得る事が
可能と成るのです。

つまり、個人個人の考えが何であれ、全体としての
価値観を作りさえすれば、多くの人達は、自然に
思い通りに従うと言えるのです。
人々の進化の過程において、多くの人々の英知を
上手く利用し、文化や産業を発展させる為には
如何に、人々の価値観を上手く操れるかと言うのが
リーダー達の能力と言えるのです。

世の中の流行であり、人々の共通の考え方は、
個人個人の考えが反映されているというより、
誰かが、人々の心理を操っているとも言えるのです。
多くの利益を得たいと思われる人達の思惑で、
人々の嗜好や行動が決めれれていると言えるのです。

メディアに於ける特定商品のコマーシャルや流行は
人々の考える価値観を扇動する事に依り、より多くの
利益を得る様に作られていて、同じような物や流行を
手に入れたり、自分の生活に取り入れる事に依って
幸せであると思わせるのです。

この事は、資本主義社会に於いて、人々が生きていく
基準と成り幸せの判断と成って受け入れられていくのですが、
この、誰かによって決められる幸せの価値観が、果たして
本当に、本人の幸せに結びついているかと言えば、
殆どの場合、一時的な満足とはなっても、恒久的に
幸せを得られるというものでは有りありません。

何故、世界でもトップクラスの経済大国に住んで居ながら
日本人の心はいつも不安であり、不満であり、常に
満たされないで、幸せを感じられないのは、この社会の
経済的な仕組みと洗脳に有るのです。

生産者にしてみれば、常に、消費を繰り返してくれなければ
継続的に収入を得る事が出来ません。
しかし、個人に完全なる満足を与えてしまえば、経済社会が
成り立ってはいかないのです。

つまり、不完全で有り、更なる魅力のある商品を求め続ける
社会の流れが必要と成るのです。
どんなに素晴らしい商品でもファッションでも、次には
もっと素晴らしい物が出回って来ると言う期待感を持たせる事が
消費経済社会を維持する大切なシステムと言えます。

国民に常に満足をさせず、人々の満足は、新たなる製品にある
と思わせる事が重要と言えるのです。
消費経済社会に於いては、如何に、欲求を継続させられるかが
社会を成り立たせる術でも有るのです。

所が、この世界は、誰もが、常に欲求不満の状態であり、
本当に心が癒される事は有りません。
常に新製品が紹介され、街は、次々に新しい店舗が生れます。
この新たなる期待が人々の心を高揚させ、自分達は幸せであると
勘違いしてしまうのです。

人類の発展を身近に感じる事は嬉しい事では有るのですが、
自分自身が、個人的な価値観として満足する事が大切です。
一人一人の異なった価値観を満たす事が出来て、社会的な
進歩や発展を喜ぶことも出来るのです。

今の日本社会は、国民の一人一人の価値観を満たす事が出来す、
社会的な価値観を持って、個人の満足に変えているのが問題です。
他人の作った物、他人の成し得た事業、他人の作り上げた街を
買ったり利用したりすることを自分が生きている満足であり
価値観として感じる様に仕向けられているのです。

幸せに成る為の価値観をメディアを通して提供し、人々は
自分が本当に幸せに成ると思い、様々な商品に手を出します。
映像から流れる理想の生活や理想の生き方は、あくまで、
多くの利益を得る為に造られた提案であって、言われた様に
見た様に自分が試してみたとて、決して自分自身の心を満足
させることは無く、与えられた価値観で納得するだけなのです。

殆どの場合、経済社会に於いて、人々の行っている事は、
自分ではなく、誰かの生き方や生活の模倣であり、
幸せそうに見えるから自分も同じことを行えば幸せに成ると
思い込んでいるのです。
様々な日用雑貨や日用品を買い求めるのも、身の回りを
着飾るのも、その様な生活をすれば、自分が見た様な感じたような
幸せが得られると思っているに過ぎません。

私たち日本人は、身の回りの物や人との関わり合いを、自分の
心と身体を喜ばせる物として深く考える事無く、安易に、
世の中の流れや価値観に身を委ねて、刹那的な満足をしている
と言えます。

その為、あらゆる物が一時的な満足を与えても、自分自身の心と
身体を育てる事にはならず、常に、満足を自分以外に求める様に
成ってしまっているのです。
その為、本来ならば、一人一人が様々な個性を持ち、様々な
考えと感情が育っているはずなのに、多くの人が、同じ考え
同じ感覚で生きているのです。
当然、幸せの価値観も同じように成り、求める物も生活も、
他人から提供されたものを安易に利用するだけなのです。

しかしながら、本来、誰もが違った感情感覚を持っているはずなのに
同じ様な考え感覚で自分を納得させる事から問題が生れるのです。
そう、何をしても本当に満足する事無く、いつまでも本当の幸せを
見つける事が出来ないのです。

集団の中で生きている事から、全体としての行動や考え方を持つことは
社会人として大切と言えますが、それ以上に、個としての自分の本心を
見失ってはならないのです。
私的な事と公的な事がバランスよく存在する事が大切で有り、
今や、私的な事を社会的な事で乱用したり、公的な事を私的な欲望で
満たそうとしている人が多くなっているのです。

つまり、個人的な欲望を公的な場で乱用したり、公的な場に於いて
個人的な欲望、つまり我儘を通そうとする人が増えているのです。
特に、社会的に地位のある方々の見苦しい姿が目立つのです。
多くの人々に影響を与える人が、私欲に走る事が珍しく無く、
期待して送り出した人々を落胆させてしまうのです。

これらの問題の根は、本人が如何に、自分の本当の気持ちに向かい合わず
世の中の価値観に踊らされているかと言う事です。
本当の自分の心の満足は、他の人々の気持ちと代える事は出来ず、
非常に個人的な部分と言えます。
この部分は、殆どメンタルな部分であり、社会的な地位や名誉、財産で
置き換えられるものでは無く、増して、メディアの商法で、簡単に
満足させられるものでは有りません。

この個人個人を作り上げる心の元が、一生の間、いかなる状況に陥っても
前に進める大きな力と成るのです。
社会的に考えたとしても、この自分の幸せを作り上げる事が出来る部分を
持っている方は、誰からも信頼され、人間社会では人として、多くの人に
認められ尊敬されるのです。

信頼できる自分自身を見つけ育てられる事が幸せへの道と言えるのです。
世の中を見渡せば、誰もが本当にちっぽけな存在であるのですが、
目に映るもの聞こえるものすべては、自分自身を育てる道具であって
目的ではないのです。
どんなに社会的な価値の有る物であっても、自分の本心を育てる道具に過ぎず
地位や名誉、財産も、社会的価値であって、自分自身の価値ではないのです。

私達は、様々な環境境遇で生きていますが、どんな生活を行っていても
個人としての価値は変わりません。
その個人としての価値を満足させるのは、決して社会が創り出したものでは無く
自分が様々な世界で生きて行く事で育て上げて来た、唯一無二の心なのです。

どんなに豊かな生活をしても、心から幸せに成れないのは、その生活を
誰かの生活と比較するからであり、他の者に価値を見出した途端、
自らの持ち物は、色あせて不満足の対象と成るのです。
つまり、自分が幸せの素と思う社会的な価値は、様々な形態が有り、
どんなに素晴らしいと思っても、簡単に価値観は変わってしまうのです。

人は宗教の世界に入ると、あらゆる俗世間の私物を捨て去り、
いわゆる、裸の人間として出家の形を取ります。
この事は、自分の心を惑わすあらゆる欲望の元を取り去る事で
頼れるのは自分自身の心だけと言う事を悟らせるのです。
つまり、本当の自分に向き合うことで、人としての生き方を学び
自分にとっての幸せとは何なのかを見つけるのです。

宗教と言うのも一つの方法と言えますが、自分自身の心に向き合えば
如何なる方法をとっても、本当の幸せを見つける事が出来るのです。
俗世間の幸不幸は、自分自身の心を育てる為の試練ともいえるのです。
如何なる環境に居ても、幸せを見つける事は出来るのです。
自分自身の本当の幸せを見つけた時、初めて心が安らぎ、
自分が生きている意味と価値を見出す事が出来るのです。


 

 

 


自分が誰かを知る為に

2017-04-27 17:42:54 | 自分

人は、誰かに、貴方は誰なの?って聞かれた時、
中々自分を説明する事は出来ません。
いや、そんな事は無い、自分の名前、住所、年齢
仕事、家族等、様々な自分に関わる事を説明して
自分自身を知らせることが出来ると言う方もいます。

しかし、本当に、それがあなた自身を示すものなのでしょうか。
それは、社会的に、貴方を認識する番号の様なもので、
本当のあなたを示しているのではないのです。
同じように、地位や財産、学歴名誉と言ったものも、
決してあなた自身を説明するものでは無いのです。

これらの事は、全て、自分の周囲の他人が、貴方とほかの人を
区別するための道具の様なものであって、最近政府が使う
国民総ナンバー制度の内容と何だ変わらないのです。

解り易く言うと、私達は、テレビタレントや俳優の、本当の姿を
知りません。プライベートでは、一体何をしているのか、
どんな考えを持っているのかは解りませんが、画面に映る役柄として
その人を認識しているのです。

その為、時に、残忍な役柄をすると、途端に、周囲の見方が変わって
自分を犯罪者を見る様な目で視聴者が見るのに悩みます。
もちろん、役柄と同じ様な性格ではない事は解っているのですが、
演者としての姿が脳裏に刻み込まれると、人は、どうしても、
役柄を本人の実態と見てしまうのです。

この様に、外見的な役柄や、日常の姿、更には、仕事上の姿は、
決して自分の本心でない事が多く、たまたま、周囲との関係で
意としない行動や言動を行っている事が多いのです。
その為、本当の自分と、作られた自分との差にストレスを覚え、
精神的に参ってしまう事が有るのです。

誰もが、日常的に、本当の自分を見せる事は少なく、自分の本心を
偽って、周囲との関わり合いをスムーズにするために努力します。
これは、大人の行動とも言えますが、自由に自分の思いを
発することが出来ないと、本当の自分の存在が感じられず、
一体自分は誰なのか、と思い悩んでしまうのです。

この世に自分が存在する意味や価値が見いだせないと、
人は、生き甲斐を失い、未来を夢見ることが出来なくなります。
そこで、何とか、自分の存在を知らせるために、社会的に
認められる学歴や地位、財産名誉と言ったものに憧れるのです。

誰もが望む物を持てば、自分の存在が認められると思い、
幼い頃から勉学に勤しみ、有名校に通い、有名企業に勤めようと
努力するのです。
そして、誰もが羨む生活を手に入れた時、子供が欲しがる玩具が
手に入った時の様に喜ぶのです。
しかし、もう少し自分自身の存在理由に疑問を持つ人は、
欲しいものを手に入れた途端、全てが砂上の楼閣の様に価値を失い
自分自身の存在価値も消えてしまうのです。

とは言うものの、このオモチャを手に入れた時点で満足せず、より
沢山のオモチャを求めようとする方が、今の社会にはとても多いのです。
消費経済を進める日本社会は、正に、人々の欲望を象徴する社会と言え
人々の目的は、より便利で豊かな生活を得る事と成っています。

この事は、資本主義社会の特性とも言えますが、誰もが、ただ上を向き
落ちて来る餌に飛びつく事しか考えない、自己満足の社会とも言えます。
政治家であろうと、医者であろうと、企業家であろうと、社会を動かす
中心と成る者であっても、目的は私欲が示すものと成り、連日メディアを
賑わす不祥事やスキャンダルは、人間の止まる事のない欲望が示すもので
どんなに地位のある人でも、その腹の内が明かされると、途端に地位も
名誉も剥がれ落ち、みじめな人としての醜い姿をさらすのです。

しかしながら、これも氷山の一角であり、表に出ない事が山積しているのが
資本主義社会の実態とも言えるのです。
確かに、経済的に豊かな生活が出来るのかもしれませんが、その外見だけを
求めた結果、自らの本当の姿を見失い、人として全く成長していません。
社会的地位の有る方々が、余りにも見苦しい失態で世間にさらされると
驚かれる方も多いのですが、実態は、多くの隠れた人たちのほんの断片
が暴露されただけなのです。

問題は、暴露されようが隠されていようが、本人は、長きに渡って、
自分自身の存在に疑問を持たず、世間的な価値に自分の存在価値を
感じ取っていたことです。
つまり、長きに渡って、自分を見失った生活をして来たと言う事です。

例え、人の羨む生活をしていたとしても、人は、生まれてから死ぬまで

変わらないのです。人類として、1生物として生きているだけなのです。
ただ、動物と違うのは、自分自身を知る事が出来るのです。
ただ、餌を求めて生きている動物とは違うのです。

大切な事は、自分の生きざまは、人が決めていると言う事なのです。

素晴らしい人格者とするのも他人であり、魅力的な人間と思うのも
他人なのです。
人が、自分の心の在り方も、他人からの価値観も決めているのです。
自分の存在価値は、他人の心から生まれる事を知っていなければ
成りません。

つまり、肩書がどの様に付けられるかで、存在価値がきまるのです。

大金持ちの誰々と言われれば、大金持ちが主人公で、名前は、単に
後付けに過ぎません。
政治家の誰々と言われても同じです。
それは、社会的な番号と同じであり、その人そのものを示すもの
ではないのです。

命の恩人の誰々と言えば、誰もが尊敬する命の恩人がその人の姿を示し

誰かの大切な人と成って、存在価値が生まれるのです。
要は、どれだけ、他人にとって、価値を感じられるか幸せを感じられるかが
生きている存在価値と言えるのです。

お金や地位や名誉と言ったものは、誰にでも置き換えられ、その人で

無くても良い事であり、個人的な存在価値とは言えません。
私は、一体誰なのと考えた時、様々な経済的付加価値を取り除いて
その人にしかない価値を認められた時、初めて、生きている価値が生まれ
自分が社会に於いて無くてはならない価値のある人間となるのです。

この事は、親子関係や血縁関係に於いてはよく言われる事であり、

家族の強い絆は、お互いに自分の生きる為の存在価値を見出している事で
成り立っていると言えるのです。
しかし、現代社会は、例え家族であっても、その絆が薄れている事が有り
社会全体の繋がりが、単に、個人的な欲望で繋がっているのが問題です。

何時まで経っても、満足できない休まらない心を抱えた人が実に多く

外見ではとてもわからない心の闇を抱えている人が増えているのです。
世界的な経済大国になった日本に於いて、日々の生活に苦しむ
発展途上国の人々よりも、幸せを感じられない、日夜上を見る事しか
許されない苦しい人々がとても多いのです。
本当の幸せとは、一体何なのだろうか。
自分自身の存在を意識できない人は、日夜悩む事しか出来ないのです。

 

 

 



 


身勝手な言い訳です!

2015-07-01 16:35:10 | 自分

当たり前のことかもしれませんが、計画性を持って、
日常生活を送れば、無駄が無くなり、必要ない出費が
抑えられるものです。
その為、何か具体的に自分に目標を与え、その為に
努力するように仕向けると、それ以外の事には興味が無くなり
時間もお金にも余裕が出来ます。

ダイエットをすると、無駄な食費が減り、健康な生活により

医療費削減にもなります、
外見的にもスマートになり、公私ともにプラスになると思われ
誰もが頑張るのですが、目的が達成されると何故かまた
元の生活に戻ってしまうのが困りものです。

年間どれだけの数の健康雑誌が出るでしょう。

私達の夢を達成するためのお手伝いと称して、様々なダイエット本が
本屋さんに並び、そのたび飽きもせず、手にとってしまう私達。

でも、本当に、不規則で怠惰な生活は悪なのでしょうか。

確かに、健康を損ねたりする事や良くありませんが、
ダイエット産業を発展維持し、支えているのは、この一見無駄な生活の
怠惰な生活が在ってこそなのです。

もし、誰もが、健康で、美しく、お金持ちであったら、如何でしょう?

私達の努力も、ダイエット産業も必要でなくなってしまいます。
私達は、お互いに助け合って生きています。
私達が怠惰な生活をして、不健康で醜い身体になる事によって、
目標が生まれるし、それに伴う、経済効果?が生まれるのです。

どんなに頑張って、美しい身体を手に入れたとしても、

私達の心には、人としての努力や、周囲の人々への思いやりから
しっかりと、元の醜い身体に戻っているのです。

これは、決して不規則な生活や怠惰な日常から起こった事では有りません。

多くの人が、何度もリバウンドしながらも新たな目的を持ってダイエットに
身も心も捧げるのは、次の怠惰な生活に戻る為の手段なのです。

もし、全てのものが手に入ったら、人々は努力をせず、怠惰な生活に

成ってしまう様にできています。そして怠惰な生活になると、新たなる
自分を見つける努力の日々が訪れ、自分には、健康な身体と、
様々な恩恵を手に入れる目標が生まれるのです。
つまり、人々は、怠惰な生活と、規則正しい生活をする事によって、
自分にも社会にも貢献しているのです。


連休に動かない自分

2015-05-05 11:26:34 | 自分

今日は、五月五日のこどもの日です。
子供の頃は、床の間の上に五月人形と小さな鯉のぼりを飾り、
家族でチマキを頬張り、男の子の節句として楽しんだものです。
しかし、最近はそんな伝統的な行事は少なくなり、連休をかねて
国内外に出かける人々が多くなりました。

高速道路は渋滞し、各地の観光地は大混雑となるのは解っていても

仕事の都合上、多くの人があえてこの時期出かけます。
我が家も、かつては、大渋滞を覚悟して各地に出かけたものでした。
子供達が小さいと、家でのんびり過ごしているという訳にもいかず、
関東一円の遊園地や行楽施設を巡ったものです。

しかしながら、月日が経ち、子供達は社会人となり、今では、休日は

2人で過ごす事が多くなりました。
出かけると言っても、行きつけの渋谷近辺か日帰りで余裕を持って帰れる
関東近辺の観光地に限られます。

年を取ったと言うより、長年の間に、ほとんどの地を訪れ、心の底から

どうしても行きたいと言える場所が少なくなったことが大きな原因と言えます。
まだ知らないところも多いのですが、自分の好奇心をくすぐる程のものは
殆ど体験してしまい、新たなる胸がわくわくする所が減ってしまったのです。

近年ネット社会となった事も活動範囲が狭まった理由とも言えます。

何故なら、解からない事はすべて調べる事が出来、未知なる世界と言える
好奇心が沸く場所が減ってしまったのです。
世界の様々な場所が一瞬にして目に飛び込み、わざわざ出かけなくても
疑似体験が出来てしまう事が、増々行動を躊躇させているのです。

しかし、便利になった半面、自分の心も身体も躍動しなくなるという事は

生きて行く証を失ってしまう可能性もあるのです。
何時までも元気で人生を謳歌している人の多くが、様々な事に好奇心を抱き
興味を失わない生活をしています。

人間は、自分の外にある事に反応して生きています。

周囲の環境や人々との関わり合いで人生が変わって行きます。
様々な知識を得て、様々な体験をして、必要な物をすべて手に入れてしまうと
人々はもうそれ以上自分以外に興味を失ってしまいます。

渋滞のニュースを見ながら、あんな思いをしてまで行きたくないないなと

思う気持ちは、全てにおいて消極的になっているとも言えます。
若さの定義は、ただ年齢だけでなく、様々な事に反応して行動できる
日常にある様に思えました。


充実した人生を送る為に

2015-04-18 13:17:17 | 自分

昨日、今日と風が強く吹き、咲き始めたツツジの花を震わせています。
あんなに華やかで心ときめいた桜の季節が去って、いつの間にか
ほんの少し前の事なのに、あの感動は薄れてしまいました。

季節が次々に移り変わる日本は、一年を通して様々な感動が有り

ドラマチックな月日を楽しませてくれるのですが、その反面、過ぎ去る
日々の速さと、過ぎ去ったものへの郷愁も残るものです。

私達の人生も、思い起こせば、それこそ光陰矢の如しです。

何十年に渡って生きてきたのですから、それこそ様々な体験をして来たのに、
ほんの一瞬にも思えるのは、私達の記憶が非常にあいまいであり、
自分に都合の良い事のみを覚えているからに他なりません。

日記を読むと、その日その日が蘇ってくるのですが、自分の中の

記憶は、嫌な事は忘れ、覚えておきたいことのみが残っている様に
極めて自己中心的にできている様です。
ともあれ、今生きているのですから、今を大切にと思うのですが、
この思いをはっきりさせるにも、自分の中の五感が常にクリアーで
無ければなりません。

過去の記憶を都合よく覚えている様に、私達は、今自分の周囲に在ることを

自分が好むように感じる傾向が有ります。
つまり、自分が思っている事と、人が思っている事がピッタリ合う事は
先ず考えられないのです。

しかし、狭い土地で多くの人々と共同生活をしていかなければならないので

社会的に、決まりごとのように、様々なルールを作り、感覚的に
同じように感じる様にしているのです。

その為、時に、多くの人の感覚と合わないと、社会的にはみ出てしまったり、

一緒に生活が出来なくなったりしてしまうのです。
様々な人的トラブルは、お互いの感性の違いが大きくなり、事件を生んだり
誤解を生んだりするものです。
私達が社会や家庭で生きて行くためには、この違いを感じる能力を磨き
自分が置かれている状況を常に判断できなければなりません。

人は、年を重ねると、この判断がし辛くなって来るものです。

年寄りが頑固になるのも、新しい事を覚えなくなるのも、年齢からと言うより
自分の置かれている状況、行っている行動が、周囲とどの様に関わっているか
感じられなくなる事から、思ったように考えられなくなったり動けなくなると、
一般に言われる、年を取ったと言う言葉に集約されてしまうのです。
私達は、自分の行動によって、周囲の状況が変わるのを知っています。
その為、人々は、周囲の人々の動きに合わせて、自分の行動を選択します。

どんなに場違いな事を考えていても、行いが周囲の人の喜びに繋がれば

その人は、誰からも善人と取られ、周囲から好かれていくものです。
その代表が、テレビタレントあり、俳優たちであるのです。

私達はドラマや映画で演じられる人格を見て、その人の価値を決めがちです。

役柄とは決して同じでない事は解っていても、その演技に簡単に騙されます。
同じように、どんなに素晴らしい性格であっても、周囲の人々が嫌に思えば
その人への認識は悪くなるものです。

誰もが人から嫌われたくありません。一生健康で楽しく行きたいものです。

しかしながら、思いとは裏腹に、私達は、苦難の道を歩みがちです。
少しでも、納得できる人生を送るには、一体どうしたらいいのでしょう。
沢山の人々に好かれるために、心にもない事を言ったり行動を取ったりすれば
幸せな人生を送れるのでしょうか。
残念ながら、このような行いは、多くの人からバッシィングを受ける可能性が
大きいものです。

私達は、自分の好む者をいつも与えられても満足しません。

桜が美しいからと言って、一年中咲いてたら、誰も興味を示しません。
私達の心は、新しい物、思いもしない事、新たなる感動が大好物です。
それは、自分の心に存在しないものを感じた時に、逆に自分との違いを感じ
心が動くのです。

人々は、同じ物を他人と同じようには感じない様に、自分だけの心を持っています。

その思いは、人と違えば違う程、他の人に大きな影響を与えます。
大切なことは、そんなオリジナリティに富んだ自らの心を大切に育てる事です。
その心を育てるのが、周囲を感じる五感なのです。

自分の人生を充実させるには、実は、自分の五感を磨く事に他ならないのです。

そして得られた様々な情報で自分の心を育てるのです。
自分の五感で育てられた、オリジナリティ豊かな人格は、誰にとっても魅力で、
その価値は、周囲の人が認めてくれるものです。