めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

もしもの時に備えて

2018-06-30 11:43:07 | 日本人

いよいよ今日から本格的な工事が始まりました。
時間通り朝からコンクリートを壊す音が響き渡り、玄関から
一番遠い部屋に退避しているも、床から伝わる重機の音は凄まじく
これ程うるさいものとは思いませんでした。
とりあえず、作業が始まる前に、朝食や出勤の準備を整えていましたが、
実際、工事となると、物を切る音、コンクリートを壊す削岩機の音と
離れていても、思わず会話が途切れてしまいます。

何とか耐えながらも、どうなる事やら、何時までかかるのか不安な気持ちで
寛いでいると、突然、扉の隙間から白い煙が大量に侵入してきます。
驚いてリビングに入ると、中はまるで煙で包まれた様に真っ白の状態です。
どうやら、コンクリートを砕く際に、大量の粉塵が舞っている様です。
急いで工事関係者に伝え、玄関からの扉にテープで目張りをし、トイレの
窓も閉めてもらう事と成りました。

妻は、今日も、家にいて工事の進行状況を見守るのですが、私は、仕事で
家を出なければなりません。
玄関は封印されているので、庭の裏扉から出る事と成りました。
所が、今度は、扉が開きません。
力任せに押し広げると、そこには工事関係者の道具類が積み上げて有り、
外出するだけで大変でした。

少し早めの出勤でしたが、仕事場は、静かで空気も良いのですが、我が家は
まるで中東の戦地の様です。
妻は、家にいてもトイレが使えず、近くの公共施設までいかなければなりません。
トイレが使えなくなってもう2週間です。都会生活は、一皮めくれば
本当に危うい状態である事がよく解ります。

たった一軒のトイレが使えなくなってもこの状態です。
もし、大震災と成って、街中がこの状態と成った時、人々は、どれ程ショックを受け
うろたえる事かと思うとゾッとします。
近年、大震災を想定して、日本各地で様々な訓練や準備が行われていますが、
震災と言わず、我々現代人の生活は、一度ライフラインが失われれば、その影響は
地域だけでなく、日本中に影響すると思われます。

近代的な生活をしていると言っても、災害に見舞われれば、あっと言う間にその便利な
都会生活も、自由を失われ無能状態と成ってしまうのです。
私達の生活は、どんなに進歩したからと言って、様々な危険に見舞われる可能性がある事を
常に予想していなければならないと言う事です。
地震が来た時の準備と言っても、それは、ほんの初期段階の命をまもる術に過ぎず
それから長きに渡って、苦しい復興への道がある事を覚悟しなければならないのです。

今、ワールドカップで注目されているポルトガルは、かつて、大航海時代に於いて
ヨーロッパの強国の1つであり、世界中に植民地を持ち、多くの富で栄えました。
かつて、日本にも、多くの宣教師が訪れ、歴史の中で名を成す人が知られています。
しかし、そんな大国が、あっと言う間に、世界の列強から姿を消した原因が
地震であったことはあまり知られていません。

絶頂期に有ったポルトガルを襲った大地震は、国の経済を傾ける程の被害をもたらし
その後の国力を大幅に減少させる事と成ったのです。
ポルトガル・リスボン大地震と言われたこの地震は、リスボン市内の85%を破壊し
街を襲った津波の高さは30mと言われています。
この大地震の影響は、大航海時代の絶頂期に合ったポルトガルを、その後250年に渡り
ヨーロッパの小国へと強いる程の規模でした。

こんなすごい地震と同じ規模を想定しているのが、今や、危ぶまれている、東海沖
南海、そして千葉房総沖を震源とする大地震です。
しかし、もっと恐ろしい、東京直下型の地震がいつ来てもおかしくない状況と言えるのです。
プレート型の地震は、ある程度研究が進み、対策が考えられているのですが、東京都の真下の
断層が起こすとされる大地震は、全く研究が進んでいないのが現状です。

あの江戸の街に大災害をもたらした元禄大地震が、もうタイムリミットと言われています。
しかし、都会の真下は、全く地震計に依る計測が出来ず、また、関東ローム層の下は、
複雑に地層が走っている事から、調べる事も予測をする事も難しいとされ、近々起こるとされる
プレート型の大地震のニュースは有っても、東京都の下にある時限爆弾については、学者も
政府も全く無視していると言っても良いのです。

つまり、プレート近くで起こる大陸型の大地震も、日本列島の地下に数多く存在する断層地震も
いつ起こっても不思議でない状態で有り、今後、東日本大震災や大阪地震、熊本地震といった
巨大地震に因る大災害が確実に日本人の生活を破壊すると言えるのです。

更に、地球温暖化がもたらす巨大台風や集中豪雨、更には、竜巻や大豪雪、かつては、世界の
特殊な地域にしか発生しないとされた気象災害が、日本中のどこにでも起こる可能性が高いのです。
となると、近々起こるかも知れないと言う、大地震の為の準備というのは、余りにも安易とも言え
明日来るかもしれない、あらゆる災害に備えると言うのが、日本人のこれからの生き方と言えます。

かつて、ノストラダムスの大予言がメディアに盛んに取り上げられ、日本も、将来核戦争に巻き込まれ
多くの命が失われるとした報道に、ある方が、庭に大きな穴を掘り、当時としては珍しい避難カプセルを
埋め込みました。家の周囲に大きな青いビニールシートを張り、家の改築修理と言って、夜中に、
畳6畳ほどの大きさのカプセルを設置しました。
しかし、その後その部屋は、カラオケ部屋に成り、更には、倉庫と成って、多くの荷物置き場に
なってしまったと言います。

もしもの時に、そこに避難すれば、一週間は、危険な空気から命を守れると言っていましたが、
当の本人は、殆ど海外にいて、自宅にいるのは数える程と言う事で、もしもの時も役に立たない
と言う事でした。
東日本大震災を始めとする大災害が頻発する事で、災害準備グッズは飛ぶように売れていると
言いますが、それらの物を、確実に使えるかどうかは疑問です。
まるで保険の様に買い揃えても、いざと成った時、果たして、冷静に利用できるのかは疑わしく
我が家に於いても、停電に成った時には、懐中電灯の置き場所すら何処だったのか忘れています。


一応、ポリタンクに水を満たし、各部屋に数本ずつ置いていますが、果たしてそれで足るものか
はたまた、その前に家人が怪我をしないで避難できる状態なのか、起って見ないと解りません。
つまり、どんなに準備しても、最終的には、その緊迫した状態に置かれた時、如何に冷静に
最も適切な判断が出来、命を守る事が出来るかという事です。

目的の避難道具がない時、自らが負傷した時、逃げ道を閉ざされた時、様々な可能性が
予想できない事態が起こる事が考えられるのです。
地震対策というのは、非常に冷静な状態で、頭の中で想定したものです。
人々の心が身体が特殊な環境に晒された時、日頃は冷静に判断できても、多くの人達が
パニックに陥るのが現状と言えます。

こんな時、やはり、最後は、人間同士の絆が一番大切と言えます。
日頃から、人として、如何に周囲の人達と関わって行くか、お互いに相手の状況を見守り
助け合う事が一番大切と言えるのです。
便利で豊かな生活が出来ているからという油断が、もしもの時の災害を大きくするのです。
常に、現代社会の便利さ豊かさが失われた時、如何に冷静に判断して、協力し合い
家族を周囲の人を守る事を考えて居なければならないのです。
災害と言わず、日常生活に於いてピンチに立たされた時、如何にリスクを減らし、
如何に早く元の生活に戻るかを日頃から考える事が大切と言えます。

 

 

 

 

 

 


蓋を開ければ、非常事態の復旧工事

2018-06-29 12:46:19 | 東京

10日以上に渡る我が家のトイレの不具合は、遂に配管の中を
ファイバースコープで調べ、その原因を突き止める事と成りました。
二度にわたる洗浄作業で、下水管の破損が問題なのではという事で
ハッキリと目視して確認する事と成りました。
早朝からの工事とあって、妻が家に残り、復旧工事の状況を
確認する事と成りました。
しかしながら、玄関周りの私物の片付けは大変で、昨日は、大きな水槽を
寝室に置き換え、靴や傘などを全て別の部屋やベランダに移し替えるのは
思ったよりも疲れる作業と成りました。

今朝は、引っ越しをしてきた当初の様な、がらんとした玄関となって、
業者を待ち受けました。
ほぼ時間通り数名の業者が様々な器具を持って、トイレの中を調べ始め
ようやくトラブルの無い生活が送れるようになるとホッとしました。
しかし、しばらくすると、様子が変です。
業者たちの作業の手が止まり、何やら困り顔です。

一体どうしたものかと尋ねると、ファイバースコープで覗くと、
我が家から出た配水管が傷んでいると言うより、その先の、
本管に繋がる部分が塞がっているとのことです。
そこは、上の階からの汚水が流れ落ちる場所で有り、我が家からの
下水管と合流する場所です。
そこが、上からの固形物で塞がっているとのことです。
つまり、その部分に上の階の人達の落とし物が溜まっているとの事です。

その為、我が家からの水が流れない状態に成っているとのことです。
一軒の問題と思いきや、マンションの複数の家庭を撒き込んだトラブルに
発展したのです。
修理するとなると、エントランスの通路を剥がしての大工事と成ってしまいます。
数週間前、上の階の下水が流れない問題が起こったのも、その部分が
詰まってしまっている事が原因の様です。

しかしながら、それにしても、近代的な都会のマンションに於いて、
下水管の水が詰まっただけで、この大騒ぎです。
私は仕事が有るのでそのまま出勤と成りましたが、玄関先には、
関係したお宅の住人が出てきて、業者を含め、どうしたものかと苦悶の表情です。

当たり前の生活が、簡単に崩れてしまうのが都会生活とも言えます。
ライフラインを完璧に整えても、その生活は、非常に微妙なバランスで保たれていて
ほんの少しの道が閉ざされても、私達日本人は、簡単に無能である事を知らされます。
先日の大阪地震だけでなく、ここ数十年の間に起こった様々な大災害は、殆どが
寝耳に水と言った状態で、人間の予想を遥かに超えた地獄絵図と成ってしまいます。

この事は、私達が、集団で暮らしていながら、周りの人の事、社会の仕組みの事に
何の知識もないと言う事を表しています。
沢山の人が同じ地域に住んでいたり同じ会社に働いていても、個人的な生活に関し
殆どの方が孤立していると言ってもよく、社会的な繋がりをもって、それぞれが
自分の目的の為に働いていて、周囲の人に関しては殆ど関心がないと言えます。
その為、社会システムが途切れてしまえば、一機に、人々は孤立してしまい、
多くの人が個人では修復できない状態と成ってしまうのです。

社会が巨大化するに連れ、其々の専門職が発展するものの、生きていく為には
殆どの部分を他の人に委ねたり、経済的に手に入れる事に依っている事に依り
災害などで関連したシステムが破壊されたり利用できなくなると途端に、
多くの人々は無能をさらけ出す事となるのです。
備えあれば憂いなし、と言いますが、普段は、この備えが、社会的に、常に
満たされている事も有って、頭の中では解っていても、殆どの人達は、
出来るだけ必要最小限の備えしか考えられないのです。

その為、どんなに社会的に地位が高くとも、経済的に豊かであろうと
一度、それらの力を封印されると、本当に無力な人間である事を知らされます。
現代人は、日常生活の道具持たずして、無人島に置き去りにされたら、
殆どの人が、生きていく術を考え出す事が出来ないのが現状です。
人間は、卓越した頭脳の進化によって、地球上のあらゆる物を手に入れ、
自分達の生きる為の術を身に付けました。
しかし、一つの生き物としては、極めて環境に弱く、裸のまま生活する事は
殆ど不可能と言えるのです。

人類は、この生き物として弱点の塊のような存在を、如何に未来へ繋いでいくか
太古の昔からこの命題に取り組んできた結果が現在の大繁栄と成ったのです。
しかし、それ程にも進化したと言っても、人間の肉体は、他の哺乳類と大して
変わるものでなく、チンパンジーとは遺伝子の3%ほどが違っているだけです。
つまり、残りの97%は、他の生物と同じように生きる為の生態活動を繰り返して
行かなければならないのです。

食物連鎖の頂点として、生き物達の繋がりを守って行かなければならず、
自分達が生き残る為には、食料と成る多くの生き物達の環境を守らなければ
ならないのです。
所が、実際は、全ての食料は人類に集まり、地球上の生き物達の生活環境を
悪化させているのが人類なのです。
自分達の命の糧を守らなければならないのに、命の糧を絶滅させる方向に
社会生活を営む人類は、本当に、自分達の未来を考えて居るのか、
余りにも矛盾した生き方が、地球の生き物達のバランスを壊してしまい
遂には、自分達の命の糧が得られない環境まで生んでしまったと言えるのです。

どんどん悪化する地球環境が与える影響が解っていながら、殆どの国が
根本的な対策を講じる事が出来ず、日本の様に、環境対策を考えると言っても
殆どの場合、経済発展を前面に押し出した上での、人間に都合のいい環境対策です。
高度成長期に、欲望のままに経済発展をした結果、日本中の自然が破壊されましたが
その後、様々な汚染対策を講じ、環境運動を広め、多くの場所で、かつての様な
目立った汚れや汚染が見られなくなりました。

東京湾も、高度成長期のゴミや油がいたるところんい浮いていた状態が嘘のように
殆どの海岸で、目立ったゴミも油も見られません。
来るべき東京オリンピックに向けて、環境庁や環境運動を推し進める機関は
こぞってその成果を口にします。
東京湾は、とても綺麗に成って、湾奥ですら海水浴が出来ると胸を張ります。

しかし、これらの詭弁がまかり通っている事が非常に問題です。
海や川の浄化を示す酸素溶融量の上昇や透明度の高さは、視覚的数字的な
パフォーマンスであり、現実には、一向に生き物達が増える傾向は無く
東京湾のいずれの護岸周辺の海も、殆ど生き物が見られず、ただ、プールの様に
透明度が高く成った水際に、汚染に強い外来種の生き物が目立つだけです。
海も川も全てが護岸で固められた日本は、陸からの栄養が全く水界に至らず
魚達の栄養と成るプランクトンが全く増殖していないのです。

つまり、プランクトンを食べる小魚や様々な海洋生物が育たす、その結果
私達が食料として利用する魚介類が激減しているのです。
また、水質基準も、大型魚介類が生きていける汚染濃度を基準としていて
これは、企業の思惑が反映されたものです。
金魚を水に入れて生きられる綺麗な水というのは、正にパフォーマンスで有り
本当に生き物達が喜ぶ水では有りません。

見た目綺麗に成ったとしても、東京湾に毎日流される何百万トンもの浄化水は
大型海洋生物にとっては生きられても、プランクトンが増殖するには、
余りにも汚れているのです。
食物連鎖の元、アジやサバも、プランクトンが大量に繁殖しなければ
餌となる小魚が育たず、その結果、東京湾の生き物が一向に復活しないのです。
この人間本位の汚染基準は、企業基準とも言え、この事が、世界的にも
多くの生き物達を絶滅させ、挙句の果てには、私達の食料不足を作り出すのです。

私達が、日頃排出する汚水は、毎年新しい化学薬品が発明され、生活するには便利でも
生き物達にとっては地獄とも言える成分が大量に含まれているのです。
取り除けない様々な危険な薬品がそのまま海や川に流されているのが現状です。
透明度をもって綺麗と言う浅はかな考えでは、地球環境を良くする事は出来ません。

私達の便利な生活も、その利便性ばかりを訴えるコマーシャルを信じて使うだけでなく
その陰に隠された危険な要素を知る事が大切です。
強力に昆虫を殺せる薬品は、どんなに安全と言っても、危険性が零とは言えないのです。
学生の頃にアルバイトでゴキブリ駆除を行った経験が有りますが、住居のあらゆる場所に
撒かれる薬は、乾くと透明になるのですが、その上を歩いたゴキブリは、内臓組織が
破壊され、しばらくすると死んでしまいます。

人間の身体の大きさから考えれば、殆ど影響は無いとしていましたが、当時の業者は
信じられない程の防護服で身を纏い、撒いた所には決して近づきませんでした。
私達学生は、マスクとビニール製の手袋だけでしたが、その危険性について聞けば
一番大切な事は、目に見えてゴキブリが居なくなる事だと言いました。

レストランの厨房、旅館、ホテルの客室等、様々な所に薬品を散布しましたが、
その場所は、ゴキブリが通る場所で有り、薬品効果が3か月ほど続く事も有り、
決して素手で触ったりしてはいけないと言われました。
その為、今でも、旅行をしてホテルや旅館に泊まると、その場所が気に成ります。

しかしながら、最近売られている様々な強力な家庭用殺虫剤が有りますが、
明らかに残留性により多くの害虫を殺す効果が有ります。
しかし、これらの薬品は、かつての散布剤よりも遥かに強力で有り、その薬を
一般の人が平気で使っているのが不思議です。

小さな子供が、部屋の隅や畳の縁などを触ったり舐めたりしないか心配です。
でも、日本社会に於いては、歩いただけで死んでしまう程の効果の方が重要です。
残念ながら、近代的な日本社会は、家庭内も外も、偽りや嘘で満ちています。
安全、安心、健康、簡単、効果てきめん、と様々な目を引くフレイズが巷に溢れ
その言葉に魅かれて様々な物を買い求めたり食べたりしますが、本当に
自分にとって、人間の身体にとって良い物か疑ってみる事は大切です。
緑あふれる都会の公園は、殆どの生き物が生きられない外見だけの美しさで有り
透明度が高く成って一見きれいな東京湾は、実は、海の中は生き物にとって
いまだに地獄である事を知って欲しいものです。






復旧工事は四苦八苦

2018-06-28 12:45:45 | 日本人

現在の住まいに成って40年近くに成りますが、1週間ほど前からトイレの水が
逆流するように成り、上手く流れません。
古いマンションなので、至る所が痛んできているのですが、今回は、道具を使って
流そうとするのですが、用を足す度に、大量の水が必要で四苦八苦しています。

当然、マンション管理の事務所に電話するのですが、直ぐに対応してくれません。
二日後に、原因究明と言う事で業者が下水管を調べるも、原因がはっきりせず、
その二日後にまた、排水が滞る様に成り、日常生活もままなりません。
緊急の事なので、何度も修理を頼むのですが、マンションの組合との関係で、
話が進まず、その後、更に訪れた業者が調べると、本管へのパイプがどこかで壊れていて
その途中で砂が落ちてきているとの事、大掛かりな工事をしなければ治りそうもないとの
結論が二日前、遂に一週間、我が家のトイレはほとんど役に立たない状態です。

そして、いよいよ、明日から工事と成ったのですが、トイレだけでなく玄関の壁から
床から穴を開ける大工事と成ってしまいました。
そして、その工事を明日から行うとのことで、今日は朝から玄関の道具の片づけで
家族全員が大忙しです。
中でも、玄関に置かれている金魚の水槽の移動は思ったよりも大変で、水を換えるついでに
寝室に移し替えです。
朝からの作業で、出勤して来ると妻はすでに疲れぎみ、少し休憩してから仕事です。

所で、トイレが使えなくなっただけで、これ程にも不自由すると言う事は、様々な
災害に見舞われた人たちの苦労は想像できない程過酷と言えます。
ライフラインが使えなくなり、衣食住の全てを失われた時、ニュースを見た視聴者は、
その惨憺たる被害に驚き、様々な支援の手を差し伸べるのですが、その様な目に見える
支援以上に大切なのが、被災者たちに対する心のケアと想われます。

日常の何の支障もない生活から、突然、まるで手足をもがれたかの様な不自由さを感じ
現実のショック以上に、未来に対する希望を失ってしまうのです。
メディアを通じて知った多くの人々にとって、その大変さは、やはり視覚的な物であり
一人一人の心を大きく傷つけた目に見えないストレスを感じ取る事は難しいと言えます。

私達が被災者達の事を感じる時は、やはり、情報を通じて、時たま流れる現地の報告です。
しかし、被災者たちは、災害に遭ったその瞬間から、一日中まるで傷口を触れられ続ける様に
悶々とした日々を送らなければならないのです。
例え、多くの救援物資が届いたとしても、復興工事が始まったとしても、被災者たちの心が
元の平安で安らぎのある状態に戻るには、どれ程の時間がかかるか解りません。

問題は、復旧工事が終了して、ハード面での生活が整ったとしても、被災者たちの心の復旧が
成されない限り、本当の終了とは言え無いのです。
とかく、災害で壊れた街やライフラインを早急に復旧しがちですが、それと並行に、傷ついた心を
いち早く回復させるメンタルケアの援助を強力に推し進める事が重要です。
特に、近年の日本は、地域における人の繋がりが希薄と成り、特に都市部に於いては、周りは
全て知らない他人と言った生活事情が普通であり、一度、大規模災害に見舞われると、誰もが
心の孤立を強く感じて、災害の物的被害以上に大きな心の傷を作ってしまうのです。

特に、近代的な都市に住んでいて大地震などの巨大災害に見舞われると、一瞬にして
近代的な生活から、原始的な生活に投げ出されるような事態となるのです。
衣食住が、何の苦労もなく出来ていたのに、突然、無人島に投げ込まれたような
生命の危機を感じてしまうのです。
都会人は、とかく、便利な生活に成れている事から、一人の人間として、食を手に入れ
雨露をしのぐ場を見つけ、動物の様に排泄の場を人前に晒される事は殆ど無理と言え
例え、数日間とは言え、原始的な生活を強いられる事に大きなストレスを感じるのです。

更に、病気持ちで有ったり、怪我をしたりしていればなお更であり、安心安全の生活に
慣れているが故、病を重くしたり、怪我を癒す事が出来なくなるのです。
私たち人類は、どんなに進化しても、自然の生き物達から命の糧を手に入れて、
食物連鎖の中で生きて行かなければならない様に、私達の日頃の生活も、生き物としては
石器時代の身体と何だ変わりないのです。

文明の進化と共に、様々な便利な品物によって、本来の弱点を補って来ただけで有り、
その文明の力をはがされれば、単なる裸の猿に過ぎないのです。
回りに危険な動物を気にしながら、集団でお互いに助け合い、危険を回避していた時の
人間としての深い絆を現代に於いても失ってはならないのです。

多くの人が、安心安全を図る為に、経済的に豊かな生活を求めます。
しかし、その事で、本当に心の平安を保てるかと言えば、そうとも言えず、多くの方が
豊かに成れば成る程不安を覚え、周囲の人に対し更なる心の壁を築かなければ、安心して
生きていけない状態と成っています。

大切な事は、人類が如何なる進化をしたとしても、生き物として人間として、より豊かな
心の進化を遂げなければならないと言う事です。
人を信頼できる心を育て、他人を労わる心を育て、人の心の痛みを知る心を育てる事です。
小さい頃から競争を強いられ、他人の上に立つ事を人生の目的の様に教えれれて来た事から
多くの日本人が、他人との関わり合いに疎く、自分の存在を人との比較でしか感じられず
他人よりもより豊かな生活をすれば社会的に認められると信じています。

しかし、その結果が、現代日本の病の根源とも言えるのです。
多くの立派な人が、常に我欲を前面に押し出し、外部の人から指摘を受ければ、決まって
保身に走ります。それは、日本のリーダーにしても同じ穴のムジナと言えます。
人は、何故進化できたのか、それは、優れた知能で、他の生き物達を圧倒し、素晴らしい文明を
創り上げたからではなく、素晴らしい人間関係を育てる為に様々な物を網だし、生き物達との
共生を図って来たから進歩できたのです。

近年、人間の一方的な地球資源や食料の略奪が、人類の暴走を生んでしまったのです。
その結果、人々は、お互いに疑心暗鬼と成り、信じられるものは、経済的な豊かさと成ってしまい
ますます、自分達の首を絞める結果と成ってしまったのです。
地球に生きる生き物の1つとして、他の生き物との関わり合いを無視して、自分達に都合のいい
人間社会を作った事で、人間として心豊かな生活を送る事が出来なくなてしまったのです。

今回、トイレの修理が、これ程にも長引いた経緯は、管理会社、組合、業者と言った関係が
全てバラバラで、お互いに自分の業務でしか考えられなかった事に有ります。
トイレを直すにも、その役割を果たす機能が全く繋がらず、その一つ一つに私達が電話をし
強く要望して、ようやく工事と成りましたが、これからしばらくまだ使用は出来ません。

マンションの管理室にあるトイレを利用するように言われても、夜中に起きて、マンションの
外に出向いて鍵を開けトイレをする事は如何にストレスが有るかが解っていません。
トイレが利用できないと言う切実な思いが、利害関係を考える人達には全く伝わらず、
あと何日この様な不便な生活を強いられるか解りません。
都会だからと言う事ではなく、人間の生活が全て利益を求める事から成り立っている事から
その間に立つ人間の心を大きく傷つけるのです。

もうすぐ梅雨が過ぎれば、また暑い夏がやって来ます。
豊かな生活の至る所が不備を生じ、それに関連した経済的修復が必要と成りますが、
本当に直さなければならないのは、日本人の豊かと言われる生活の陰に隠れた
貧しい欲望の考えと言えます。
お金が有れば幸せになり、無ければ不幸になると考える日本人が増えて行く事が
日本にとって最大の損失である事を、国をリードする方々は考えて欲しいものです。

 

 

 

 

 


復興という名の利権

2018-06-26 13:54:03 | 日本人

大阪に、正に、寝耳に水と言える大地震が来て数日が過ぎましたが、
人々の関心は、次回行われる、日本とポーランドの試合に移っています。
昨日のニュースは、今日には過去の出来事として、忘れ去られて行くものですが、
災害に見舞われた被災者たちにとっては、その日から時が止まった様になって
先を考えられなくなってしまいます。
この事は、毎年、日本のどこかで起こる災害で被害を受けた人達に共通の思いで
以前の様な生活を取り戻すには、途方もない時間と費用が必要と成ります。

どんなに酷い災害に見舞われても、いつかは人々が忘れる様に成るのですが、
それでも、心に受けた傷は、いつまでも消える事無く、時に、未来へと受け継がれ
大きな心の痛手と成って残ってしまいます。
天災は、どうしようもない事として諦められても、人災は、人々の心を苦しめ続け
悲しみと憎しみが更なる不幸を呼ぶことも多いです。
その代表が戦争で有り、一方的な欲望の元行われた、いわゆる、侵略戦争は、
何世代も後にまで、人々の心から侵略者への憎しみが消えません。
東南アジアの多くの国が、第二次世界大戦以降も、日本に対して憎しみを抱くのは、
一方的な欲望が、多くの人々の命を奪い心を傷つけた事に依ります。

戦争であろうが震災であろうが、被災をした人達が一番願う事は、一日も早い心の
平安で有り、対人的な心の優しさを取り戻す事です。
災害に見舞われた人たちは、多くの支援と労りと安心を求めているのですが、
それ以上に大切な事は、被災しなかった大多数の人達、更には、日常的に接する
様々な人に対して優しい心を持てると言う事です。
災害に見舞われた人たちは、自分達が、他の日本人に多くの負い目を感じるものです。
助けてもらう事は嬉しいのですが、この状態が長く続くと、常に自立できない気持ちが
自信を失わせ、生活が安定して来ても、心は晴れないのです。

人は、自立する事を、他人を助けたり守ったりすることで感じるものです。
家族を持ったり、困っている人を助けられる力を持った時、人として初めて自信が
生まれると言っても良いのです。
しかし、常に助けてもらう存在で有る時、自分の弱さや至らなさを感じ、時に、自らを
責めてしまう事も有るのです。
どんな事でも、誰かの為に成っているとか役に立っていると感じる事が大切で有り、
年齢に関わらず、対人的に自分の存在価値を感じられると未来への勇気が生れるのです。
今や、被災者だけでなく、高齢者達にとっても、自分達の存在価値が感じられず、
周囲の人や社会に対して負い目を抱いている人が少なくないのです。

例え、長い間仕事で頑張ってきたとはいえ、会社から必要でないと言う三行半を与えられ
年金や貯蓄が多く有ったとしても、それは、単に命を長らえる為の手段と言え、その事で
充実した余生を楽しめるとは言えないのです。
そんな贅沢なと、仕事であくせくしている若い人達は思うかもしれませんが、高齢者達の
最大の敵は、有り余る時間であり、自分を必要としない社会の空気なのです。

例え社会の1つの歯車で有ったとしても、自分を必要としてくれる場があると言う事は、
自分が生きる意味を感じられるのです。
この事は、若い人達にしても同じ事が言え、就職できなくて困っている人達も、
仕事が無いと言う事よりも、自分が必要とされない悲しみと苦しみがあるのです。
学生の頃は、成績を上げさえすれば周囲の人は、優れた人間として認めてくれたのに
卒業した途端、そんな優秀な過去も、何の力もなく、ただ、生かされているだけの日々に
言いようのない悲しみが広がって来るのです。

人は、この世に生まれたからには、生きていく意味を感じたいと思うものです。
素晴らしい環境も、経済的豊かな環境も、自分の存在価値があってこそ満足できるものであり
どんなに豊かな生活をしていても、人として認められないと、深い孤独に襲われるのです。
学校成績も、学歴も、社会的な地位も、己の価値として考えがちですが、人は人の心で癒され
存在を認められるものです。

自分を称える多くの喝さいが、自分自身ではなく社会的な地位や財産であったなら、その賛辞は
自分自身でなくて、他の誰でもいい事に成ります。
自分の周囲に集まる人達が、自分の価値というより、自分の持っている社会的価値が目的と成れば
当然、その人達と心から許し合える仲に成る事は出来ず、単なるビジネスパートナーに過ぎません。

しかしながら、名を成す多くの日本人が、現実には、その人達の社会的価値によって持てはやされ
一度、人々の関心が無くなったら、まるでぼろ雑巾の様に捨てられる運命と言えるのです。
自分自身も、同じように社会の人達と関わっている事から、多くの場合、捨てられない様に、
より豊かな生活を目指し、果てしない欲望の繰り返しと成るのです。

私達は、持って生まれた環境と、その後の歩んだ道によって、全く違った人生を歩みます。
その為、有り余る財産に恵まれる生活をする人もいれば、日々の生活を送る事で精一杯の人もいて
一人として、同じ道を辿る事は無いのです。
例え、同じ職種についていたとしても、人々の心が違う事から、全く違った価値観をもって
生きる事となるのです。

その為、共通の価値観で有る社会的な財産を持ったとて、必ずしも満足が出来ず、多く持つ事で
むしろ心が安心できない場合も有るのです。
如何なる環境に於いても、自分が誰かの為に成り、心が癒される生活が出来る事が幸せに繋がり
人生を有意義に生きる術を見出す事が出来るのです。
一人一人に、其々の価値観のある人生の道が開かれていると言えるのです。
その為には、誰かを助ける事が出来る自立した心を持つ事が大切と言えます。

東日本大震災で避難生活を余儀なくさせられた多くの人達は、日本中から、また世界中からも
多くの支援を受けてこれまで頑張って来ました。
新しい街が建設され、ようやく日々の生活が安心して送れる様には成って来たのですが、
彼らの心には、これまで受けた暖かい人の心に如何にお返しが出来るか苦しんでいます。

日々の生活が出来る様に成れば良いと考えがちですが、被災者たちは、自立できるだけでなく
自分達が、多くの援助の手を差し伸べてくれた人達だけでなく、様々な災害や事件や災難を受け
苦しんでいる人達の力に成れるまで至らない事で、まだ心の負い目が無くなっていないのです。
何とか、お返しをしなければと思うも、故郷はすでにどこの街か解らない程変貌していて、
自分達が唯一自慢できる豊かな自然や豊かな海産物も、多くが失われたままです。

大地震に見舞われる前は、今より遥かに苦しい生活をしていたとしても、自分の生まれ育った
大自然から得られる多くの糧を振る舞う事が出来、そんな素晴らしい環境を見せる事が出来ました。
自分達の心が癒されるだけでなく、この地を訪れる観光客達も、その人を含めた素晴らしい自然を
堪能する為に東北各地を訪れたものです。

しかしながら、その地は、例え津波に強い街とは言え、全く以前とは似ても似つかない、
人工物がやたらと増えた、自分達も観光客も、心を癒す地で無くなってしまったのです。
被災者たちは、故郷を訪れる人達を癒す術を失っているのです。

街を作った人達にすれば、近代的で以前よりきれいな街で、自然も残っているから十分だと
思うのは、当事者たちの気持ちを考えない部外者の勝手な言い分で有って、例え、津波の被害の
危険性が有ったとしても、もう少し、地元民の意向を考えた街づくりを考えて欲しかったのです。
日本中の被災地は、殆ど同じような復興傾向で有り、何処も似通った、日本中どこにでも有る
生活するだけの、何の魅力もない街ばかりです。

支援者と言う上から目線が作る街は、一方的な建設計画で、住民というより、建設に関わる人と
より経済的利益が得られる事を第一に考えた街づくりを行います。
その為、外見的に美しくとも、未来に続く魅力的な街は殆ど無くて、いずれまた作り直さなけれが
成らない、立て直しが前提の消費経済に則った街づくりと成っているのです。

例え古い町並みで有っても、数百年の街並みが残っていると言う事は、それだけその地にとって
大切で有り人々の暮らしに深く関わって来たからと言えるのです。
ヨーロッパのポーランドは、戦争で、街の殆どを焼失してしまいましたが、戦後、ブロックの1つ1つ
レンガの1つ1つ、屋根の形、街の姿を戦争以前と同じに再現しました。
その美しさは、現代に於いて、素晴らしい観光都市として世界に知られる様になりました。

日本における復興とは、その時々の、企業や政府の思惑で、利権に絡んだ街づくりが主体です。
その典型が、災害で破壊された街の再建です。
地震に強く津波から守られる街づくりという単純な考え方で、その地に住む人の心を無視した街は
単に物理的に創り上げた建築物で有り、人が生きていく心の居所では有りません。

常に経済的利益が優先する近代的な街づくりは、何の魅力のない、ただ、便利で豊かであるとする
消費経済国家を作っているに過ぎないのです。そこに、住む人の心が反映されない街は、いずれ
また破壊され、欲望に満ちた新たなる街に作り替えられるのが落ちと言えます。
そんな街に住む人達が、心から豊かな生活を送れる訳が有りません。
そこは都会の様に、ただ、消費活動を高め利益を生むだけの、人の心を手玉にする欲望の街なのです。

海や川を汚し、美しい日本お国土を金の為に破壊し続けた結果が、高度成長と遂げたとする日本です。
しかし、物は増え豊かな消費が出来たとしても、人々の気持ちは癒える事無く、常に欲望のままに
お互いに傷つけあっているのが現状と言えます。
本当に弱者が守られ、人々が夢を抱きながら、自信をもって自分の人生を進める国になる為には、
日本人が、本当の日本人になる事に目覚めない限り考えられず、欲望のままに人を傷つけ
己の利益の為に社会を動かそうとする人達がリーダーであるかぎり、未来の日本人に幸せは有りません。

 

 

 

 

 


人生のヒーローになる為に

2018-06-25 16:08:09 | 日本人

連日の熱戦に、世界中がロシアワールドカップに注目しています。
特に、母国の戦いとなると、そのボルテージはマックスと成り、
普段スポーツにあまり関心の無い人達でさえ、まるで熱病に罹った
かの様な熱狂ぶりです。
我が国に於いても、試合が深夜に及ぶも、様々な会場で映し出される
濃紺のユニフォームに、老いも若きも声を枯らして叫びます。

スポーツは、世代を超え、宗教、種族を超え、誰の心にも熱い思いを
溢れさせます。
誰もが、思いを一つに出来ると言う事は、共通の価値観を持つ事が出来
スポーツは、良きに有れ悪しきに有れ、政治にビジネスに利用されがちです。
世界中が注目する所で認められれば、多くの人から信頼を得る事が出来
政治を司る人や多くの商業的利益を得ようとする人達にとっては、
絶好のチャンスと言えます。

特に知名度が高い選手で有ったりチームであったりすると、彼らの商業価値は
格段に高く成り、企業の広告塔として多くのスポーツ選手が莫大なる利益を
得ている姿に驚くと共に、彼らに憧れる子供達にって夢の存在と成っています。
例えマイナースポーツであっても、オリンピックや世界選手権で有名に成れば
その競技に関する商業的価値は天井知らずと言え、スポーツに憧れる子供
だけでなく、世界中の企業がその行方に熱い視線を注ぐのです。

とは言うものの、スポーツが人々が平等に戦える素晴らしい祭典とは言え
子供達の置かれた環境によって、未来が大きく変わっていく事実も有ります。
サッカーは、世界中で親しまれるスポーツと言え、選手が育つ環境は
著しく違っていて、同じ舞台に立つまでに、国によって環境によって
選手が育つ条件が著しく違っているのが現実です。

戦火が絶えない地域から、経済的に厳しい国内事情の発展途上国が有れば
近代科学の粋を集めた理想的なスポーツ環境から出場する選手もいます。
戦いの中では、ルールの下で平等とは言え、彼らの育つ環境の差は
想像を絶する程の違いがあるのです。

しかしながら、それでも才能を見出され、世の中に認められる選手は
良いのですが、才能が有っても、どんなに努力をしても、道が閉ざされ
折角の才能を開花させる事が出来ない人も多いのです。
スポーツは、実際に戦う時以上に、育っていく環境に於いても平等で
有る事が望まれます。
スポーツの中には、一人前になるには、莫大なる資金が必要で有ったり
継続するには、個人負担があまりにも大きいものも少なくありません。
華やかな舞台に立つまでに、選手のみならず、周囲のサポートが無くして
素晴らしい才能は育たないのです。

その為、多くの選手は、企業の広告塔として資金を得ているのですが、
スポーツをする事が、純然たるスポーツを楽しみ人々にその魅力を
伝える事から如何に多くの利益を得るかという方に偏ってしまう事が
様々なスポーツの分野で見られ、スポーツが単なる金儲けの手段として
利用される傾向が見られます。

現に、プロスポーツ選手は、如何に稼ぐかという事が目的なのですが、
その為に、不正を行ったり、社会的トラブルを生んでしまう事に成れば
多くの批判を浴びる事と成り、そのスポーツに関わる人達や憧れる
子供達をも落胆させる結果と成ってしまうのです。

この様に、スポーツのみならず、社会の先端に立ったり、社会的な
知名度を持つように成れば、おのずと、その経済的社会的価値だけでなく
人間としての評価も受ける事となるのです。
しかしながら、現代社会の於いて、スポーツの世界のみならず、政界
経済界に於いても、個人的な利益の為に、多くのトラブルを起こしたり
周囲の人達に苦しみや悲しみを与える人が少なくありません。

しかも、周囲を取り巻く人達も、その弁護をしたり、忖度をしたりと
自分たちの利益を目論む対象に対しては、事の善悪を考えられない
極めて人間として恥ずかしい言動や行動を平気で取ったりします。
仕事であろうが、スポーツであろうが、人の上に立つと言う事は
単に、経済的な地位や名誉や利益を得ると言うのではなく、
人間として、その地位に相応しい振る舞いや言動が出来ると言う事
つまり、人々は、いかなる人であっても、自分達の上に立ったり
自分達が理想とする事を叶えてくれる人には、人としての
豊かな人間性と、それを目指したり憧れる人達に幸せを
与えなければならないのです。

今の世の中、人々の上に立つ人や人々を導く立場の人達の
我儘な行動や言動が目立ち、社会的にも、自分の欲望を主張し
結果さえ良ければ何をしても構わないとする傾向が有ります。
頻発するハラスメントも政治家たちの疑惑の行動も、実のところ
自分の欲望の事しか考えず、自分の地位や名誉に対する責任や
義務を果たせず、目先の欲望に流されてしまう、人間的に未熟で
無能である事を暴露しているに過ぎないのです。

スポーツに於いて、観衆の面前で、正々堂々とルールに則って戦う
と言う事は、自分達が、不正な手段を使って勝利を勝ち取るのではない
と言う事を示していると言えるのです。
たとえ苦しい戦いで有っても、その結果、敗戦の憂いを背負ったとしても
その様な態度は、観衆に喜びと勇気を与えるものなのです。

スポーツの本来の目的は、選手も観客も、人間としての価値を見出す為に有り
その評価は、経済的利益ではないのです。
選手としての素晴らしい活躍が有り、それから得られる多くの感動があるからこそ
その見返りとして高額な報酬が支払われるものなのです。

しかしながら、多くのスポーツ選手の価値が、彼らの得た収益の大小によって
評価される事に依り、人々の選手に対する価値観も選手自体の考え方も
全てお金が基準となる事に依って、様々なトラブルや不幸が生れるのです。
商業的価値が有る時は、多くの人達にもてはやされるも、一度、価値が見いだされなくなると
まるでぼろ布の様に捨てられる現実は、選手すらも消耗品に過ぎないと言う事です。

あくまで企業利益の為の存在であり、見捨てられれば、自分の大好きなスポーツさえ
続けられないという現実があるのです。
ほんの一部のスポーツ選手が華やかな選手生活を送れるものの、多くの選手の行く末は
余りにも悲惨で有り、スポーツ界の夢と現実の差が、経済的にも人間的にも、多くの
有力な選手に悲惨な人生を辿らせる事にも成っているのです。

スポーツで利益を得るだけでなく、スポーツに関わった事で、その後の人生を
見失っては成らないのです。
オリンピックや世界選手権でヒーローとなる選手も、それを目指していた多くの選手も
人生に於いて、スポーツは、一生を通じて心の金字塔と成らなければなりません。

その為にも、いかなる仕事に就こうと、人生を安心して進める保証が必要なのです。
莫大なる利益を得なければ幸せな人生を送れない様な国では、国民は、いつまで経っても
幸せに成れないのです。
地位や名誉を得た人達、人々の上に立って社会を動かしていく人達が、自分達の地位を
自分達を支えてくれている多くの人達の支えになる様にしなければなりません。
誰もが、人生に於いてヒーローと成らなければならず、一生を通じて、自分の足跡に
胸を張れる国が人々の望む理想郷と言えるのです。