めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

戦争の足音

2017-07-31 16:12:18 | 戦争

真夜中のミサイル発射が、世界に与える恐怖は、単に戦争が起こる可能性が
日増しに高くなって来たというだけでなく、またしても、人類の苦しみ憎しみが生れ、
これから、どれ程多くの未来の人々が人としての喜び幸せを感じる事無く、
代々に渡って怒りや憎しみを伝えて行く不幸が続くのだろうと思ってしまいます。
私達日本人が、いまだに近隣諸国から強い反日運動を受けるのは、如何に戦争が
多くの人々の心を傷つけ、その悲しみと怒りは、何代にも渡って受け継がれて行くかが
解ります。

我が国は、世界で唯一、原爆を体験した国で在り、その悲しみ苦しみ怒り憤りは、
半世紀以上過ぎても人々の心に深く刻まれています。
多くの戦争体験者がこの世を去り、日本がアメリカと戦争をしたと言う事すら知らない
若者達も増えていて、近代的な大都市の下に、いまだ焼け焦げた焦土が埋まっている事すら
人々からは忘れられています。

殆どの国民が、戦争に対する実感がわかず、知識としては解っていても、本当の恐怖は
現実のものと成らない限り理解できないのです。
しかし、その悪夢は、ほんの少しミサイルの照準が変えられることで、すぐさま現実と成り
未曽有うの大惨事と成るのは明らかなのです。
当然、目には目にと、戦争は、お互いにどちらがが白旗を上げるまで続けられるものであり、
その間、傷つき殺されるだけでなく、生と死の狭間を逃げ惑う恐怖は、地獄と言えます。

いつの世も、一番の犠牲と成るのは、一般の庶民と言えます。
何も戦う術の無い人々は、ただ虫けらのように殺され、何の罪もないのに、不幸のどん底に
落とされるのです。
中東で行われている悲惨な戦争が、日本で行われる可能性は有るのです。
更には、核戦争とも成れば、これまでの戦争とは比べ物にならない程の犠牲者が想像され、
その影響は、遠い未来まで続くかもしれないのです。
時の権力者の勇み足が、敵国の人々を傷つけるだけでなく、報復を受け、自国民をも多く
犠牲と成る事は明らかなのです。

しかし、一体私達国民は、どう対処したら良いのでしょうか。
戦争と成れば、身近な人たちが犠牲になる可能性が高く、もちろん、自分の命すら
保証が無いのです。
逃げるにも、一体どへ逃げて良いものか、例え、戦争に巻き込まれ無いで生き残っても
その後の生活は、正に生き地獄と言えます。

戦争は、常に庶民を置き去りにし、権力者たちの身勝手な考えで始まりますが、
彼らは、常に、自分達の命の保証が有るからこそ、その危険な渦中の栗を拾います。
より殺傷力の高い武器を多く持てば、勝者と成る可能性が高く、戦争程、指導者の
醜い欲望が露わになるものは有りません。

例え、自国民が犠牲になろうと、勝つことの喜びに優る物は無いのです。
この事が、ミサイル実験を強行し、世界中を恐怖に陥れても構わないとする
聞く耳を持たない権力者を生んでいるのです。
これまで人類は、どれ程多くの独裁者や殺戮者を生んで来たでしょう。
数知れない悲しみを国民に抱かせようと、彼らの欲望は無くなる事は有りません。

とは言え、今回に緊張の焦点は、ミサイル実験を強行しているだけで無く、
そのミサイルの到達点が、アメリカ合衆国にまで至ると言う事になった事です。
これまで、世界中に派兵し、様々な地域の戦争に首を突っ込んできたアメリカですが、
その強硬な手段は、いずれも、戦地がアメリカとは遠く離れた国で在り、直接本土に
被害が及ばなかった事に依ります。

膨大なる兵器を使用する事で得られる利益は、国民の犠牲を考えないで行われ、
アメリカが世界のポリスとして存在できる理由でもありました。
しかしながら、最近では、多くの戦地で、アメリカ軍の犠牲も増大する事で、
次第に、その規模を縮小して来たのですが、今回は、戦えば、アメリカ本土に
甚大なる被害が及ぶ可能性もあるのです。

自国を戦地にした事のないアメリカにとって、アメリカ本土までミサイルが届く
と言う事は、戦えば、アメリカ市民の犠牲を考えなければならないのです。
アメリカにとって、市民が巻き添えになると言う事は、在ってはならないのです。
どんな争いも、国外で戦って来た事で、国民の支持を得て来た事も有り、
現政権の判断は、極めて難しく、アメリカの歴史をも変えかねないのです。

挑発的な北朝鮮の態度に、アメリカがいかなるカードを出すかによって、
我が国の将来も決まりかねない緊急事態と言えるのです。
もし、かつて日本軍が、ハワイを奇襲したように、北朝鮮が、日本国内の
アメリカ軍基地を攻撃した途端、あっと言う間に全面戦争と成り、
日本にとっても、近隣諸国にとっても、もちろんアメリカにとっても、多くの犠牲が
予想されるのです。

核爆弾を装着できるミサイルと成れば、一発でも都市部に着弾すれば、それこそ
これまでのどの戦争よりも多くの犠牲者が生まれると考えられます。
ともかく、近代戦争は、軍事力が高くなれば成程、犠牲者の数は多くなり、
人類全体の不幸へと発展してしまうのです。
この事態を、どちらにせよ、戦争へと発展させた時点で、極東の平和は失われ、
泥沼の悲しみと憎しみが渦巻く暗黒の未来がやってくるのです。
リーダー達の感情に任せた戦争へのスイッチが押されない事を願うばかりです。

 

 

 

 


本当の幸せを得られない現代人

2017-07-29 16:03:58 | 東京

日本人の一般家庭を覗いてみると、ありとあらゆる生活用品に溢れていて、
その全容を把握する事は、家人に於いてもほとんど不可能と言えます。
長年の生活で集められた様々な日用品は、その時々に必要と言えど、
殆どの場合、その後使われる事無く、部屋の各所に置き去りにされていたり、
押し入れや倉庫に居れたまま、何年も陽の目を見ない状態が多いのです。

確かに、生活するにあたって、どうしても必要な物も有るのですが、
いつも使われるものは、殆ど限られていると言ってよく、多くの物が、
その都度買い求められたものであり、今では何の役に持たたない物が
山積していると言えます。
こんな光景は、日本人の家庭に於いては、ごく普通と思われるのですが、
この、使われなくなった日用品や生活用品の量は、国内規模で考えると
それこそ、天文学的な膨大なる量と言えます。

多くの日本人にとって、自らが買い求めた物であり、その溜め込んだ
不用品には、なんの罪悪感も無いのですが、日本に存在する資源と考えると
何も使われなくなった物は、無駄な資源消費の結果ともいえるのです。
高度成長期の様に、経済成長の勢いのまま、欲しいものは何でも手に入れる事が
当たり前の時代に於いては、常に新しいものに目が行き、古い物は捨てて行くのが
日本人の普通の姿でもありました。

しかしながら、その結果が、今や、社会的には負の遺産として問題と成ったり、
資源の枯渇を招き、私達日本人の生活を苦しくしているのです。
日本にある資源が足りなければ、海外から輸入して消費する事に依り、
資本主義国家として、世界でも有数の先進国となったのですが、
何でも手に入れて、消費し続けた事で、私達は、本当に幸せになったのでしょうか。

身の回りにある溢れるばかりの生活物資や機器は、地球の資源を使う事に依り

私達の生活を豊かにしたのですが、使われなくなった品々は、殆どの場合、
元に戻すことが出来ず、ゴミとして自然環境に出される事が多いです。
勿論、燃やしたり、化学処理をしたりして、出来るだけ無害な状態で排出されると
言われているのですが、実際は、完全に処理される事はほとんど無く、経済的不利益と
ならないレベルで妥協しているのが現状です。

その為、人類の生活が便利で豊かになればなる程、地球環境は酷くなる一方であり、
その影響は、私達の未来に大きな警鐘を与えています。
地球温暖化による異常気象は、かつてフィクションの様に思われていた事を、
現実の脅威と感じられる程になってきました。
異常気象による穀物の生産量は、地上からえる食物供給を危うくし、汚染され乱獲される
世界の海からの海洋生物は激減し、海からのたんぱく質供給を次第に難しくしています。

かつて、消費経済を奨励する事で日本の経済力は高まり、日本人の生活が便利で豊かに
なったと言えますが、身の回りの様々な生活物資や生活用品、更には、社会の様々な
近代化は、本当に人々の心を豊かにしているとは言えないのです。
人は何を持って満足するかと言えば、やはり生きている意味、自分の存在価値を
感じられる時、心の平安と満足を得るものです。

どんなに文明が進化しても、生活が豊かになったとしても、しょせん人間は、

少し知能が発達した裸の猿に過ぎません。
生物学的には、地球に生きる動物に過ぎません。
動物は、簡単に病気をし、命を失う事も珍しくないのです。
いずれ、寿命を迎えれば、嫌でも、この世を去らなければならないのです。
それ程にも儚い存在を、様々な文明機器で身を守り、生活環境をあらゆる
脅威から守る事で地球に存在出来ているのです。

もし、その様な身の回りを守る物が無ければ、簡単に、命を失う程弱い存在

と言えるのです。
それ故、生きている事を感じ、その存在を認められることに喜びを感じます。
しかしながら、現代生活は、自分の生き甲斐も存在意味も感じられない、
単に、自分の持ち物や地位、財産でしか評価されえない事が問題です。

日々、自分が生き物として生きている実感を得られる生活は、やはり

環境と人々に生かされている事を感じるしかないのです。
しかしながら、環境は汚染され、人工的に作られた自然は、私達の心を
労り癒すにはあまりにもお粗末です。
更には、人間同士の思いやり労りよりも、より経済的に豊かになる事を
人の価値とする風潮は、人々の心を疲れさせ、自分の個人としての存在価値を
否定されている事と成り、いずれも、人々が、幸せになるには程遠い環境と
言えるのです。

生活用品や生活機器は、生活を便利にするには非常に好ましいのですが、

いずれも、あくまで生活をして行く為の道具であり、心を豊かにするもの
とは言えないのです。
昔から、日本人は、心を豊かに安らぎを与える為に、日常的に様々な趣味を持ち
自然の中で、自らが生かされている事を感じて生活して来たのですが、近年は、
多くの資金をつぎ込み様々なレジャーを楽しむ事により、心の安定を図ろうと
するのですが、それとて消費経済に則ったシステムによって作られていて、
生活を豊かにするにも、多くの資金が必要であり、誰もが楽しめると言うより
一部の人の娯楽と言えるのです。

個人所得は決して低いとは言えないのに、発展途上国の人々よりも幸せを感じる

とする人が少ないのは、その見た目の経済力が、実際には、人々の幸せに
繋がっていないと言えるのです。
今や、日本人は、衣食住を満たす事で精一杯で、とても、人の事を考えたり
自分の心を癒す術を持つまで余裕が無いのが現実と言えます。
多くの国民が、収入をそのまま支出に変えなければいけない社会システムに喘ぎ
心の安らぎを得る生活が出来ずに苦しんでいるのです。

ならば、経済を活性して、所得を増やせば豊かな生活が出来ると言うのは、
企業の言い成りになっている政治家の弁であり、今の日本社会は、どんなに
経済的に豊かになっても、稼いだだけ出て行く様に作られていて、誰もが、
常に欲求不満の状態に置かれているのです。
これこそ、経済社会そのものの在り方であり、その頂点に立つ人達のみが潤う
経済独占国家の在り方なのです。

身の回りにうず高く並べられた生活用品は、多くの企業に買わされた、必要以上の

品物であり、本当に生きて行く為に必要な物は、数分の一と言えるのです。
しかし、この膨大なる消費が、今の地球を壊し、生き物たちが住みずらい環境を
多くしているのです。
生き物達に依存している私達人類が生きていく上でも難しい環境を、私達自らが
己の欲望だけで作って来たのです。

私たち人類は、まるでシロアリの様にあらゆる物を食べ尽くし、いつの間にかに、

自分達の生活環境も破壊しているのです。
自然破壊は、目に見えないスピードで確実に進んでいます。
強欲な人類には、この大自然からの警鐘が子守歌ぐらいにしか聞こえないのです。
今まで、生きる為の糧をすべて大自然に託し、今や自然の許容量すら超えていても
相変わらす甘え続けています。

学者に依れば、6回目の生物大絶滅が、人類の横暴で急速い近づいていると言います。

地球上の殆どの生き物が死に絶えるこれまでと同じ大絶滅が起これば、、どんなに
人類が繁栄していても、生きて行く事は出来ないと言われます。
しかしながら、生き物達の頂点で、やりたい放題の事をして来た人類は、
地球規模のお仕置きを受けない限り反省する事は無いのかもしれません。

 

 




 

 

 

 

 

 

 


お粗末な国会

2017-07-28 14:36:26 | 日本人

日本の政界は、今や末期症状と言っても過言ではありません。
民主主義の名の下に、選挙を行い、国民の代表が国民の為に議論を重ねる場で、
私欲にかられた政治家の見苦しい答弁や、自らの保身を常に考える言い訳は、
ここ何か月にわたって、議会政治の本質から逸脱し、国民にとって何の利益の無い
見苦しい痴話げんかを見る様です。
知らぬ存ぜぬの繰り返しから、遂には、与野党とも辞任劇に至るとは、日本の中枢は
断末魔の声を上げている様です。

国民の代表が、私欲に走った結果、この茶番劇が生れて来たのであって、この問題の
本質を考えずして、単にトカゲの尻尾切の様な事が繰り返されるに過ぎないのです。
今や民主国家と言われていても、日本は、現実には、資本主義国家であり、経済を
牛耳る人たちの国家なのです。
全ての政治は、国民の意見を反映しているというより、その背後に、日本を動かす
企業と政治家によって成されていると言っても過言ではないのです。
日本と同じような形態を保つ韓国に於いても、毎度繰り返される国の代表たち、
更には大統領ですら、企業との関わり合いで様々な贈収賄事件を起こし、政治家の
末期は、悲惨なる収監と成っている事も少なくないのです。

経済至上主義の国家の行き着く所は、欲望が渦巻く、縦社会を生むだけであり、
社会レベルの違いで、人々の幸不幸が決まるという、とても民主主義国家とは言えない
経済的独裁国家と言えるのです。
今や、国の代表とは言え、己の地位と財産を守る為に、与えられたノルマを果たす、
単に公務員としての役割しか出来ず、国民の期待と夢を担っている方々とは言えません。
選挙における華々しいパフォーマンスも取ってつけたようなマニュフェストも、
所詮、自分の欲望を満たすための道具に過ぎず、政治家として何を志すかと言う
根本を見失っている方が多いと言えます。


政治家の活動は、任期を全うするだけのパフォーマーであってはならないのです。
メディアを利用し、自分の価値を高めようも、口先だけの公約では、いずれメッキが剥がれ
自分の地位と財産を増す事のみに明け暮れ、マスコミが待ち望む醜態をさらすだけなのです。
其々の意見の違いから派閥を形成する事は悪くは有りませんが、ただ、お互いに相手の弱点を
見つけ合って突き合っているだけでは、国政は全く進まないのです。
素晴らしい頭脳集団であるはずなのですが、その頭脳を、自分達のテリトリーの確保や、
個人的な欲望に使っている様では、何のために、国民が選挙をして選んだのか解りません。

何かトラブルが有れば、トップが辞任すれば事が済むと考えること自体、余りにも横暴で
国民はそんな安易な解決法を望んでいるのではないのです。
その地位にあるべき働きを期待しているのであって、後は野と成れ山と成れでは、後任に
誰が決まろうが、問題解決には至らないのです。
国の政を行うと言う事は、単に、社会的地位が有り知名度が有っても、国民に具体的な
利益をもたらさなければ、税金の無駄遣いともいえるのです。
政治家としての働きをしているからと言って、それが、直接国民の生活に反映されなければ
ノルマを果たす普通の公務員と同じです。

増して、国の未来を決める地位にある方々の責任は重大です。
数十年に渡って、国民が苦しみ続ける原因は、無能な政治家にあると言っても良いのです。
リーダーシップをとる政治家は、国民の生活健康を担っていると言っても過言ではないのです。
それ程重要な地位にありながら、余りにも私的な問題で国会の運営を止まらせていると言う事は
国民から選ばれて国政を預かる人としては、余りにもお粗末と言わざるを得ないのです。

今や日本丸は、船長が船員たちからの不満にたじろぎ、自ら船を動かす事すらできません。
操舵を任せる優れた船員も見当たらず、更には、各重要なポジションに就く船員も次々に
部署を辞退し、日本丸は、嵐の中で迷走状態です。
そんな船に乗せられた我々国民の心境は、自分事で精一杯の方々には、到底理解できないでしょう。
しかし、そんなことは言ってられないのです。
いつ大波が来るかしれないし、大砲を従えた海賊船に襲われるかもしれないのです。
唯一の、大型船団を持ったアメリカ丸の船長は、極めて自己中心的であり、何か見返りが無いと
中々私達を助けてくれません。

暗く息苦しい船室に押し込められた私達は、彼らの考え方ひとつで、未来が決められてしまうのです。
食料も生活物資も十分にあると言って、安全安心を主張する我が日本丸の船長は、私たちが、
自由にならない船室に閉じ込められている気持ちが解るはずは有りません。
しかも、自分自身の失態を船員たちに問い詰められて、私達に構っている訳にもいかないのです。
もし、突然、砲撃を受けたら、自分達は、救命胴衣を着けているし救命艇を準備しているから
大丈夫なのかも知れませんが、何も持っていない私達は風前の灯と成るのです。
増して、そんな事態に対して、守ってくれるべき船団を率いるリーダーが、戦場離脱なのですから。

経済的に豊かである日本で、安全で幸せな生活を送れるには、必要以上の収入が必要で無ければ
叶えられません。
消費経済を主体とした日本のあらゆる物は、経済的に豊かでないと利用できないのです。
多くの国民は、収入以上の生活を要求され、生きて行く為には、足りない分を補うために
必至に働かなければなりません。
しかし、働いても働いても、端から支出を強要されれば、自らを癒すための生活の糧を見出す事すら
難しいのです。

働き盛りの若者たちが、当然抱くべき多くの希望を捨て、ただ、毎日の生活の追われているだけでは、

とても先進国の豊かさとは踊遠く、見てくれの近代国家と、一部の富裕層を持って、豊かな日本と
誰が言えるでしょう。
社会に貢献すべく心身を削りながら働き続け、リタイアすると、社会的な地位も名誉も失い、
ただ、政府の施しで余生を送るか、何も見返り無く、死ぬまで働くか、いずれにせよ、
日本と言う国に生まれて死ぬまで、自らの存在価値も生き甲斐も知る事無く尽きて行くのです。

一番の問題は、人と人の関わり合いが失われてしまった日本に於いて、日本人が長年培った

人に対する思いやりが生かされない事です。
日本人の素晴らしさは、人によって生かされ育つ事に依って生まれました。
お互いに競争させたり比較させる事に依って、日本人の心のストレスは高まる一方なのです。
経済優先の社会が、人の価値より、外見的な物に変えられる事で、人々は、益々、心を病んでしまうのです。

東京砂漠と言う言葉が有りますが、高層ビルは、いわば、墓石や祖音羽に見えて、その中で働く日本人の

心が失われて行く事が残念でなりません。
他人に対する優しさが持てない社会は、日本人が求める社会では無いのです。
例え、どんなに裕福な生活を行っても、それに伴う、豊かな人間関係が築かれなければ、裸の王様に等しく
いつまで経っても満足できない、より深い孤独が待っているだけなのです。
残念ながら、国の代表として政治を行うか方々に日本人の憂いが感じられない方が多いのです。
札束で簡単に思い通りになるような代表で有ってはならないのです。
経済力ではどうにもならない、日本人の深く繊細な心を理解できるリーダーが生れない限り、
この茶番は、これからも何度も繰り返されるのです。

 

 

 


知らぬ存ぜぬ、記憶にない、の政治家は要らない

2017-07-27 13:50:48 | 日本人

これ程暑い日が続くと、頭の半分は回転していない様で、
ただ大人しく、涼しい部屋に居たいだけの、生産性の無い
つまらない日々を過ごしそうです。

それにしても、日本の政界は、私以上に生産性の無い空論が
続いています。
見苦しい言い訳に始まり、知らぬ存ぜぬ、記憶にない、から始まり
お互いの傷を突っつき合う事による、辞任劇へと、一体何をしに
日本の頭脳が国会に集まっているのか、爺と婆の意地の張り合いでは
日本丸は一向に前に進みません。

日本を動かすべき人達が私欲に塗れ、国民を置き去りにしている頃、
世界は、刻々と深刻な事態へと向かっていて、決して予断を許さない
厳しい状況と成っています。
下手をすれば、もたついている日本丸にミサイルが撃ちこまれるかも
知れません。
周囲の海からは、隣国が無制限に海洋資源を奪い取り、世界中から
輸入すべき食料資源も、日本の立場は、年々悪くなる一方であり
地球温暖化に伴う食糧減少は、日本など、食料自給率の低い国にとって
非常に厳しい事態と成っているのです。

国内では、至る所で大災害が発生し、今や国内外ともに、日本の立場は
風前の灯と言っても良い状態なのに、紙面を賑わせるのは、まるで
痴話げんかのような情けない事態です。
まるで、三流週刊誌がとりあげる様なニュースが、全国紙のトップに
載り続けるこの異常事態は、如何に今の日本は、リーダーを失って
荒海を漂流しているかが解ります。

果たして、日本は、このまま、消費経済を続けて行く事が
国民にとって幸せな事なのか、こんな社会を、日本人は望んでいるのか
一人一人が、自分の生活から考えるべきなのかもしれません。

資源を食料を消費し続ける事で何の問題が無かった時代は過ぎて、

今や、限られた資源を如何に活用し、無駄な消費を控える時代です。
世の中を動かしていく為に、常に消費される化石燃料は、
これから数十年は尽きないとしても、消費する事で生じた二酸化炭素は
既に地球の気象を激変し、その影響は、生活の全てに関わって来て、
人間のみならず地球の生き物全ての生活繁殖に関わって来ているのです。

相変わらずの二酸化た炭素をはじめとする有毒物質の環境への排出、

その一方で、ますます深刻化する地球温暖化に伴う異常気象が
食料だけでなくあらゆる動植物に悪影響を与えています。
この二面性の状況を、どれだけ人類は続けられると言うのでしょう。

食料が足りないと言いつつも、日本に於いての食品ロスは著しく、

大量の輸入で食料を補っている一方、年間800万トンもの膨大な
食料が捨てられている現実を、いつまで続けるのでしょうか。
問題は、この環境の中で、世界の人間は、大きく二つに分けれれている事です。
一部の富裕層と、大多数の貧困層が生れているのです。

この、地球全体の将来を危ぶむ様々な現象は、多くの富裕層にとっては

何の問題とも成らず、むしろ、この環境を推し進めているのが、彼らなのです。
日々の食事もままならぬ数十億の人間に対し、大量の食料を手にしても、
ほんの一部を利用したら大半は捨ててしまう人々がいるのです。

日本に於いても、今や、勝ち組負け組と世間で言われるように、確実に

日々の生活を心配しなければならない庶民と、何不自由なく、自分の
やりたいことだけを考えていればいい富裕層に分かれているのです。
しかも、富裕層が作り出した社会は、庶民から永久に資産を吸い上げ、
常に消費を促すようになっています。

国民は、連日汗を流し、少ない給料で働くも、その殆どが、

一部の人達が望む様に作られた社会に吸収されるようになっていて、
庶民は、いくら頑張っても心が安らぐ生活は出来ないのです。
しかも、消費する事がステイタスであるかのような社会の風潮は、
常に散財する様に作られていて、国が求める経済的に豊かな暮らしと言うのも
この仕組みが円滑に行われるための提案に過ぎません。

そんな中、庶民の声を携えて、国を豊かに国民を幸せにすべく立ち上った方々が

国の為に議論を尽くす場所が国会であるのです。
しかし、今や、国会は、議員たちの、お互いの傷を突き合う場と成って
国民は置き去りと成っています。
しかも問題を起こす多くの議員は、この二極化した日本であって、
私達庶民の代表と言いながら、心は、常に富裕層に向いているのです。

少しでも私欲を満たす事で、自分達の存在位置が、豊かで裕福なものとなれば

何不自由ない生活が送れるという、極めて私的な欲望の政治を行っていれば
おのずと、国を代表する人が行う事とは言えない愚行に走ると言えるのです。
個人的に利益をもたらす側に身を委ねれれば、もはや国民の代表とは言えません。

しかしながら、ニュースのトップに挙げられる政治家の闇の部分とは言え、

問題は、これが、氷山の一角と言うより、たまたま発覚した日常茶飯事の事態として
日本中の自治体等執行機関に多く起こっている事です。
つまり、企業と政治は密接に結びついていて、その結びつきが、今の日本経済を支え
日本社会を作っているとも言えるのです。
表向きには、多くの場合は稀な事件として取り上げられるのですが、潜在的に
隠されている部分は、人間の恥部ともいえるもので、巧妙に隠されていて、
殆どの場合が発覚せず、人間が、人として進化できない我欲の世界と言えるのです。

多くの日本人が、日本は、民主主義国家であり、国民主権の国であると思っています。
しかしながら、これは、極めて、比較的な括りであり、独裁国家や、社会主義国家と
比べてと言えるのです。
簡単に言えば、経済的独裁国家と言えるのです。
日本経済を握る人たちが、自分達に都合の良い様に作っている国と言えるのです。

一見便利で経済的な国の様に思えますが、全てがコマーシャリズムされ、人々は、
多くのメディアを通し、購買意欲を高められ、自然に、お金の流れる道を作っています。
物を買えることで喜びを得るのですが、与える側は、その何倍もの利益を得る様に
しっかりと撒き餌をしているのです。
お金が沢山あれば、好きな物が何でも手に入り、幸せになると言う洗脳が、日本人を
これ程にも不安にさせ、消費から逃れ無くしているのです。
しかも、この流れを先頭立って行っているのが、政治家であるのです。
当然、自分達の利益を増してくれる企業に対しては、優先的に便宜を図るものであり、
この事が、これまで何十年も、政治家と企業の癒着による事件を生み続けているのです。

国民に対し、行うべき懸案を後回しにし、不正を疑われると、保身のために、
余りにも幼稚な言い訳を並べ、知らぬ存ぜぬ、記憶にないという言葉を並べれば、
そんな頭の悪い連中は、国会からまず追放しなければならないと思うのが普通です。
悪い事には頭が回っても、その言い訳は、子供よりも幼稚とあっては、海外の人が見れば
如何に日本人は頭が悪い民族だと言われかねません。

近年、政治家の偉業と思える事が殆ど有りません。
企業の計画を実現する為に、先に立って優位に計らう事は有っても、国民が望む様な
国民を納得させる事業を成し遂げた政治家は思い当たりません。
本来は、企業と庶民の間に立って、国民を幸せにするために事業を企業に依頼するのが
政治家の役割なのですが、いつの間にか、企業側に尻尾を振っているのが気に入りません。


 

 

 

 

 


常に心が不安な日本人

2017-07-26 15:51:10 | 日本人

近頃の日本人は、本当に憶病になりました。
いつも何かに怯えている様で、日常生活に於いても社会生活に於いても
心が満たされる事無く、目に見えない恐怖から逃れるかのように働いています。
しかし、世界の国々の中でも、先進国の1つとして、経済的に豊かな生活を行い、
外見的には、決して苦しい生活には見えません。
何でも欲しいものが手に入り、思い通りの楽しい人生を送っている人が多い様に
思われますが、何故、満たされていると思われるのに、人々の心には恐れと不安が
無くならないのでしょう。

この事は、日本人が、何を持って満足し、安心して生活できるかと考えると
現実の問題が浮かび上がって来ます。
日本人に限らず、人間は、自分一人で生きている様で、実際は、人間によって
更には、大自然によって生かされています。
特に日本人は、太古の昔から豊かな大自然の命によって生かされ、その恵みに感謝する
人々の豊かな心で育って来たのです。
日常的に大自然に触れ合い、自分達が生かされている事を実感して生活していました。
更には、人々の関係も、お互いに助け合い慈しみ合う事に依り、人間関係を豊かにする事で
生きる意味と自分の存在意味を感じていました。
この、自然と人間同士の豊かな関係が、日本人の、繊細で心豊かな人間性を育てて来たのです。

しかしながら、日本人としての心の基盤が失われている事が、多くの人々の心の不安と成って、
先の見えない恐怖を生んでいるのです。
多くの人々が生活する大都市からは、ことごとく大自然は失われ、人工的な公園や緑地帯、
見てくれのウォーターフロントは、決して人々の心を癒す物では有りません。
更に、小さい頃から、対人関係は、比較対象として優劣の関係を求められ、お互いの評価は
経済的外見的な評価でしか成り立たず、人間関係は、自分にとって、単に、
プラスかマイナスかの、利益不利益の評価しか出来なくなってしまったのです。

自分に経済的にプラスと成る者には、人間的な評価を与え、そうでない場合は、見下すと言う
学校に於いても社会いても、極めて私欲の絡んだ人間関係と成っているのです。
その為、他人は、いつ敵に成るか味方に成るか、常に、不安定な状態であり、社会的に
簡単に立場が変わる事に依り、心の繋がりまで発展する人間関係が薄く、利害関係のみが
人々の繋がりと成って、人は、安らぎの関係とはならず、常にプレッシャーを生む存在と
誰もが感じる様になっているのです。

その為、対人的なやり取りが非常にたどたどしく、社会的地位や職種、更には財産の有無と言った
外見的な要素での繋がりと成り、人々の心のストレスは溜まる一方なのです。
肝心な国の政策は、あくまで、企業優先の、営利を求める社会事業が多く、人々の心の苦しみを
開放するような策は全く議案にすら上らず、国民は、経済的に豊かになれば、幸せになると言った
いつまでもバブルを忘れられない考えしか浮かばないのです。

それ故、国民は、自分や家族の身を守るため、社会的な安定と自分達の神経質な程の保身を図るのです。
メディアが紹介する健康グッズは瞬く間に売れ、様々な保険は、殆どの国民が取り入れようとしています。
身体に良いと言われれば、その食品は、あっと言う間に全国的に不足し、健康に良いとされる運動が
テレビで紹介されれば、猫も杓子も、翌日から日常生活に取り入れられます。
人々の生活の中は、情報によって得られた、自分達を健康で豊かな生活に導くとされるグッズで溢れ
テーブルには、連日、健康になると言う様々な食品が並びます。

更には、健康になる為と、身体の至る所をチェックし、メディアで紹介された健康を害する様々な病に
自分がならない様、検診に明け暮れ、様々な健康のための薬を取り入れます。
しかし、日常的に、自分の健康管理を行うための方法が多種にわたるにつれて、本当に効き目があるのか
不安と成り、またもや新たなる食品や薬を求めます。
しかし、多くの国民は、自分自身のこれらの行為が、一番、自分の心を無駄に弱め、健康な身体を
自ら痛めていることに気が付きません。

様々な病になる事を前提に考える事で、既に心は、不安に満ちた不健康な状態と成っていて、
多くの健康グッズを求めたり、健康になると言う運動や生活を行おうと考える事で既に
健康になるどころか、自分が恐れている日常に近づいている事を知りません。
最近の調査によると、病院に行く回数を減らし、薬を止めた人の方が、心も身体も健康になっている
という報告がありました。
医師にいつも診てもらっていれば健康になると言う考えが、実際は、不健康と成ってしまうと言う
思いがけない結果も生まれているのです。

日本人は、対人的に非常に神経質に成っている事から、益々、対人的なトラブルが増えています。
他人と出来るだけ関わらない事で、余計なトラブルや誤解が生じない様にと考えるのでしょうが、
人間同士の心の繋がりを断つことは、更なる大きな問題を生んでしまう事が有るのです。
人との関わり合いで円滑に行われる対人関係が無くなってしまうと、其々が、勝手な思いで
他人を判断する事に依り、更なる争いが起ったり、間違った解釈により、相手の心を傷つけ
大切な関係を壊してしまう事も多いのです。


昔の人が、穏やかに対人的なやり取りができたのは、常に、相手の気持ちを察し、相手がどの様に
考え、自分に何を求めているかを日頃から感じる事で来たからです。
また、不満や不安が有れば、どの様に対処したら良いかが解り、周囲の誰かが、心の不安を
取り除くことが出来たのです。
家族に於いても友達関係であっても、常に、全員が個々の存在を認め、心の中を察する事に依り
様々なトラブルや不安を回避できたのです。

今や、ネットの発達により、様々な情報が手に入る一方、対人的には、例え家族であっても
希薄である場合が少なくないのです。
単に、利害関係だけで繋がっていて、心の中で繋がっていない人間関係は、家族と一緒に住んでいても
仕事をしていても、精神的には独りぼっちであるのです。
この事は、子供の頃からの育て方にも問題があり、小さい頃から、社会的に豊かな生活をする為の
経済至上主義の教育が主体となり、対人的な心の教育があまりにも貧弱である事にも依ります。
成績が良ければ、優れた学校に進学出来れば、対人的な問題があっても許されると言う風潮が
大人になって社会人と成っても、様々なトラブルを生む事と成り、増して、社会的に地位の有る
職種に就けば、その行動の横暴さは、多くの人々の心を踏みにじるのです。

経済的に豊かと成っても、本当に心を許し、自らを戒めてくれる友や知人がいる方がとても少なく
人間的な繋がりが、利害に依る繋がりに取って代わられ、経済力や地位によって、人としての
許されない行動すら、何の罪悪感を感じることも無い人間と成ってしまうのです。
日本社会のトップを握る人たちだけでなく、殆どの国民が、利害関係を主体にする生活を送れば
その誰もが、心を癒す事も休まることも無く、どんなに経済的に豊かとなったとしても
常に、心から不安はぬぐえず、更なる、豊かな生活を求めても、一向に心が休まる事は無いのです。
自分の心が少しでも安心するのは、誰かに勝った時、更には、自分より上と思える人が、失脚し
自分よりも下になったと思った時だけなのです。
しかし、この喜びは、自分よりも上の人がいる事を確認した途端消え失せ、またいつもの、
不安な生活と成るのです。

もし、豊かな生活を送れる様になれば、社会的に高い地位が得られる様になれば、誰もが幸せになり
心も安心できると言うのなら、人を傷つけたり、騙したりする必要な無いはずです。
多くの人々を落胆させたり、常識では考えられない自己中心の行動は行わないはずです。
しかし、氷山の一角とは言え、次々に、聞きたくない見たくない、見苦しい事実が公表されます。
つまり、いつまで経っても満足できず、陰で隠れても、私欲を満たす事が止められないのです。
端で、それを戒める人も無く、身勝手な行動は、多くの人々を傷つけ、落胆させます。

この事は、資本主義経済の日本に於いて、国内至る所で行われている事であり、
経済を主体として発展して来た日本の恥部ともいえるのです。
より豊かな生活が幸せと考える事に依り、様々な犯罪行為が行われ、人よりも少しでも
利益を得るべく、正当な手段を取る事無く、欲望に任せたままの結果が、
昨今の日本の現状なのです。
経済社会を作る様々な施設は、ほとんど全てが、利益を目論む為に造られたものであり、
多くの人々に、経済社会での楽しみ方を提言します。

しかし、利益を生むために、施設を作る人たちの欲望の目論見から生まれた物は
人々に、餌の様にばらまかれても、本当に人々が求めているものとは言えないのです。
ファションと同じく、より多くの収益を得るために、考え出されたものであり、
そのコマーシャルによって、その価値や有用性を植え付けられるものの、実際の所は、
多くの国民の本当に求める物とは違っているのです。
楽しむためには、更なる出費を強要され、本当に心から満足できない事で、
多くの人々は、欲求不満な毎日を送っているのです。
人として、日本人として、本当に心癒される社会が作られない限り、
日本国民は、かつての様な、心豊かな人生を送る事は出来ないのです。