めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

自分のボールを投げれば道が開ける

2019-11-29 12:34:35 | 生きる力

現代社会はネットの発達も有って、欲しいものは何でも
手に入れられる世の中と成りました。
極端に言えば、お金さえ有れば思うが儘に生きられる
とても便利な時代とも言えます。
煩わしい対人関係も気にせず、自分の欲望のままに生きられる
まさに夢の様な社会と言えます。
例え億万長者でなくとも、普通のサラリーマンで有ったとしても
戦後間もない頃の働き手に比べれれば格段の裕福さであり、
高望みをしなければ大抵のものは手に入れられる社会なのです。

所が、世の中が進歩すればするほど、幸せになるはずだった
多くの人々が、以前にもまして苦界に落ちて行くのは何故でしょう。
何でも好きな事が出来て欲しいものが手に入れば幸せなはずなのに
人々の心は一向に晴れません。
確かに思う様な収入が得られず、中々思う様な豊かな生活が出来ない
とも言えるのですが、多くの人が羨む生活をしている方々でさえ
自分達の豊かな生活を誇れる程心から満足している人は少ないのです。

私達はネットと言う武器を持ち、経済的に進歩したにもかかわらず
ますます思い通りにならないと思ってしまうのは何故なのでしょう。
多くの情報を持ち、どの様に生きたら楽しい生活を送れると
知っていながら、実際には一向に楽しくはならず、日々繰り返される
生活にうんざりとしている方も多いのです。
所が、所得の有る無いに関わらず自らの周囲を見渡せば、目に付く物は
全て自分が望んで集めたものです。そのどれもが自分の心を豊かにし
幸せを生んでくれたものなのです。
この事は、当然頭の中に存在する膨大なる知識も同じであり、
望む物を全て集めて来た結果でもあるのです。

つまり、自分の周囲は欲しいもので溢れているのです。
なのに、何故、いつも心が晴れず幸せが感じられないのでしょう。
今も昔も同じような心境であるならば、この先も変わらないストレスが
付きまとう事は否めません。
年末になりジャンボ宝くじを買い求める為に長蛇の列が見られる様に
成りましたが、彼らは絶対当たるとは思っていないにせよ、もし、
想像もしない様な当選金を得たらどれ程幸せになると言うのでしょう。
これは当たった事の無いものの詰まらない想像に過ぎませんが、
実際は、外見的に豊かに成ったとしても、心は相変わらずと言えます。
そう、決して満たされる事は無いのです。
宝くじは、当たるかも知れ無いという期待感を得たいが為に買い求めて
いると言えるのです。

私達の満足は、自分の行動や言動に対する周囲の反応で決まります。
誰もが自分の存在に不安を感じるのが人間の性であり、生活が豊かで
有ろうが苦しく有ろうが、自分自身の存在を認められ生きる価値を
感じられている時は幸せと思うのものです。
つまり、自分一人の思いからくる満足感で有っては、本当に心から
安心感を得られないのです。

しかしながら、私達は、自己評価によって様々な満足を得ようとします。
お金を使い欲しいものを手に入れるのもその表れであるのです。
本来人類は、動物の中でも極めて弱い存在であり、常に集団で身を守り
お互いに協調し合う事で繁栄して来ました。
何をするにしても集団の中で認められる事が条件であり、生きて行くには
人々に認められる事が必要とされました。
その為、人々が自分の思いを叶える為には周囲の人達から認められる
と言う事が絶対条件でも有ったのです。

この人間としての性は遺伝子の中にしっかりと組み込まれ、例え文明が
著しく進歩したとしても人々の心は変わっていないのです。
お金の力を利用して欲しいものを何でも手に入れたとしても、その事に対し
周囲の人や世の中の人達が認めてくれなければ、心の満足は得られないのです。
今の世の中は便利になったとは言え、そう簡単に自分の事を人々に認めさせ
この世に存在する価値観を得られる事はとても難しい事なのです。
もし自分の思うが儘に行動や言動を行えば、たちまち情報が拡散し、
厳しく非難されるのが落ちなのです。今や便利であるはずのネットが
自らに刃を向ける事にも成りかねないのです。

しかしながら、そうかといって手を拱いていては本当に幸せには成れません。
良かれ悪しかれ、人々からの注目を集めなければ自分の心は躍動しないのです。
その為には、困難だとしても思い切って人々の中に一石を投じなければ成りません。
自分を含め自分の環境の中に異質の考えや行動を感じれば、すぐさま反応し
対処しようとするのが人間の本能と言えます。
当然自分にとって不利益であったり危険と判断されるものに対しては、
対抗処置を施すのが普通であり、もし、自分にとって好ましいと感じれば
進んで受け入れたり協賛したりするのです。

世の中の全ての流れは、この一石を投じる行為で成り立っているのです。
政治経済、芸能ファッション全てが誰かの一石によって動いているのです。
巨大産業は巨大資本の投入によって新たなるテリトリーを広げ、規模を
大きくしているのですが、何の資本も無い個人で有っても、周囲に対し
自分の思いや行動を行い人々の心に反応を生み出す事が出来るのです。

この事は大きな資本が必要とされるのではなく、自分の言動や行動を
伝える事で様々なリアクションを得る事になるのです。
世の中の人々は千差万別であり、自分が絶対不可能と思う事であっても
簡単に賛同し協力してくれる人がいるものです。
もちろん批判的な他人も必ずいるものであり、その中から自分自身にとって
最も相応しいお相手と手を握れば良いのです。

小さなことでも一人でするより二人でする方が大きな力を生みます。
また、同じように認めてくれる方が増えれば更なる進歩と成ります。
自分の生き方に不安を感じ将来に期待を持てない方は、実は、
本当に正しい人生を歩んでいないと言えるのです。
自分の不自由な生活少ない所得は自らが選んでいると言えるのです。
最初から今の生活は変えられないと思い込んでいるのです。

実は、自分の生活は自分だけの努力では変えられないのです。
自分だけの力で行おうとすると、必ず行き詰ってしまう様に
出来ているのが人生なのです。
私達は社会に生かされている様に人に生かされているのです。
世の中には、困っている人を助けたくて仕方がない人が一杯います。
しかし、その状況が知らされないと何もしてもらえないのです。
まず、自分の思いを人々の中に伝える事が大切です。
何かをするにはそれなりの力とお金がなければできないと
思っている方がとても多いのが問題です。

人は、無関心でいる様でいつも周囲の人を観察して生きています。
昨日も今日も同じ生活や言動を行っていれば、その様な人だと
認識してしまうのです。
どんなに心の中で思っていても、それを察してくれる人は少ないのです。
ほんの小さな行為で有っても違いを示すと、直ぐに周囲が反応するのが
世の中の常なのです。自分の思いを公表すれば、必ず誰かが興味をもって
近づいて来ます。
そして同調し合うと更に大きな意思表示と成って、世の中に訴える力が
生まれるのです。

 

この様に次々に人の輪が広まって大きな力が生み出され自分の夢が開くのが
誰にでも与えられた人生を楽しく生きる方法なのです。
今や何でも手に入る時代に成ったのですが、自分の心を本当に満足させる
ベストな物は手に入りません。
手に入れる方法は、ただ自分の石を投げ入れる勇気を持つ事です。
水に投げられた石が作る波紋が大きく広がる様に、他の人の波紋と
同調してより大きな波と成るのです。
誰にでも与えられた力を無駄にしてはいけません。
ほんの些細な事から行動し、新たなる世界に足を踏み入れた人だけが
未来の幸せを得る事が出来るのです。

 

 

 

 

 


人生は、瞬きの様に短きもの

2018-09-23 13:30:45 | 生きる力

いつの世に生きる人も、思い通りならない人生に苦慮します。
高齢となって、長い人生を送って来た人達は、昔を懐かしみ
現実社会の歯がゆさにため息を漏らし、これから社会に巣立って
行こうとする若き社会人たちは、夢と現実の差に翻弄されます。
生きている限り、其々の世代で思い通りに成らない憤りを感じ、
何故、自分だけ、この様な辛い思いをしなければ成らないのかと
思い悩む事も有るのです。

人は、生きている限り、常に環境に左右され、自分の置かれている立場に
不安を抱き易いものです。
小さい頃から、他人と比較されながら生きて来た事も有って、自分よりも
豊かで自由な生活を送っている人達に、常に嫉妬と諦めの気持ちを持って
自らを苦しめている事も少なくないのです。
決して、その様な苦難な人生を望んではいないのに、現実は、常に敗者
であるかの様な感情が付きまとうのが、この比較社会における人々の
共通の心情と言えるのです。

その為、常に、何かを求め、自分の心が癒される物を手に入れた時のみ
自由と幸せを感じるのですが、それも一時、すぐさま、新たなる高みが現れ
いつまで経っても心安らぐ時が来ないのが現実とも言えるのです。
しかし、この満たされない気持ちが有るからこそ、人類はこれ程にも
進歩したと言えるのです。
正に人類の歴史は、この心の不安や負い目と言った、弱者の心理が
人を成長させてきたと言えます。

何かを知る、知らない物を見つける、新たなる考えを持つと言った
自分の中に無かったものを手に入れると言う事が、人々の喜びと成り
人生における生き甲斐にも成ったのです。
つまり、人にとって生きると言う事は、自分とは違うものに触れ
自分の中に新たなる確信を得る事でも有ったのです。
様々な物を発明し、未知の物を発見し、常に心を躍動させる事で
私達人類は、生きる喜びを得ていたとも言えるのです。

しかし、近年、生きる喜びを得られない人がとても多くなっています。
何でも手に入る社会と成っているのに、一向に、心が休まらず、常に
不安が付きまとい、人生の生き甲斐を見失っている人が少なくないのです。
旅行をしたり、目新しい物を手に入れたり食べたりと、常に、心への
刺激を欠かさない人生を送っているにもかかわらず、その喜びは
次々に消え失せ、どんなに欲しい物を手に入れても、何んの感動も
得られない方が増えているのです。

世の中には、溢れる程の魅力的な物が溢れていて、自分の心を感動させ
満足させてくれるのですが、手に入れた途端色あせて行くのです。
日々の生活にあくせくしている人は、億万長者の様な生活が出来れば
どれ程幸せな人生を送れるかと思うのですが、実際に、シンデレラの様な
生活が手に入ったとしても、ほんの数日、数か月もすれば、感動は薄れ
何も手に入らなくて苦しい生活をしていた時と、何だ変わらない心境と
なってしまう事は少なくないのです。

しかし、中には、満たされた環境に対して満足している人もいるのですが
その多くが、自分の生活の豊かさをもって満足しているのではなく、
自分よりも遥かに貧しい人達と比べて、満足している事が多いのです。
つまり、貧しい人達と自分を比較することで、生活レベルの差をもって
自分の心を納得させている事が多いのです。

人は、納得できない事、理解できない事、解らない事に対して不安を覚えます。
どんなに苦しい生活をしていても、その生活をする意味が解っていると
絶えられるのです。誰かの為に、何かの目的の為にと言った理由が有れば
その苦しみに耐えられるのです。
しかし、理解できない状況に置かれると心が耐えられず、耐えられない自分を
責める事に依って、自滅する事も少なくないのです。
戦う相手が有れば戦えますが、戦う相手が無くなると叩く意味が持てず
戦う意思を持ち続ける事は難しいのです。

物事の良し悪しに関わらず、自分が行っている事、頑張っている事の理由が無いと
心を思い通りに保つ事が難しいのです。
誰かと喧嘩している時は、戦う相手がいる為、その相手に対する思いや行動が
自分の中に生まれて来ます。しかし、相手が無いのに、戦う意味が有りません。

世の中の差別やいじめの中で、最も悪質なのは、シカト、すなわち無視と言われます。
子供達のイジメの中でも、暴力以上に心を傷つけるのがシカトです。
同じ環境にいて、その存在を無視されると言う事は、不満を訴える事も戦う事も
出来なくなります。それは、人間としての存在を認められていないと言う事です。

人は、他人に存在を認められて様々な環境で生きて行けるのです。
幸せな毎日も、争いの毎日も、その存在を認められているから継続する事が出来るのです。
私達は、生まれてから100年程、誰かに存在を認められているから生きて来たとも言えます。
両親から兄弟から、友から、生きている価値を見出されている事で生きていると言えます。
その存在を認められる事に因る喜びが生きがいとなっているのです。

若者達が芸能人に憧れるのも、社会人がより地位の高い人間になる事に憧れるのも
より多くの人から自分の存在価値を認められたいからなのです。
社会的地位が高く成ると言う事は、有名になると言う事よりも、自分の心の中に
より多くの人達から認められていると言う満足感が得られると言う事です。

人は、それ程にも、他人から認められたいと思っていて、人生に於いて
どれだけ世の中の人から存在価値を認められるかを求めているとも言えるのです。
今、多くの若者達がハマるインスタは、高齢者にとっては、あれほど夢中になる意味が
解り辛いのですが、彼らは、自分の投稿した写真に、一つでも、いいね!と言う
スタンプが来れば喜びます。どこのだれかも解らない人達から、ただ、一言が
寄せられる事で上がる?のです。

しかし、これこそ、人間の素直な喜びを示しているものであり、誰か解らない人でも
自分の投降した写真を認めてくれたと言う事に大いな意味を感じているのです。
現代社会は、ネットの発達も有って、世界中の人々の生活が身近なものとなっています。
しかし、比較社会は、少しでも他人より勝る生活を望み、他人の事を構っている事は出来ず
他人を蹴落としても、自分の生活を豊かにしようとします。

その為、他人が自分より豊かな生活をしている事に嫉妬を覚えやすく、他人が幸せに成る事に
否定的に成る人が多いのです。他人の不幸は蜜の味、と言われる程であり、自分以外の他人が
幸せに成る事に心の底から喜べない事も少なくないのです。その為、常に、他人からの
行為や信頼の印を得られる事に飢えているとも言えるのです。
その顕著な例が、インスタの、いいね!であるとも言えるのです。

多くの人達が、他人からの賛辞に飢えている時代と言ってもいいのです。
他人を蹴落としても社会的に豊かな生活を手に入れる事がステータスと思われている現代、
自分自身が他人から否定される存在になりやすいと言う不安が、ほんの些細な言葉
いいね!で癒されるのです。
しかし、かつての日本社会には、この、いいね!が日常的に在ったのです。
近所の人と顔を合わせた時も、お相手の良い所を褒めるのが普通でした。
何の魂胆も無く、顔を合わせたら、お互いに気持ち良くなる術として、いいね!が
日常的に在ったのです。

今の若者達の生活の中に、この他人を認め褒めると言う習慣が育っていない事で、
常に、他人からの愛情に飢えているとも言えるのです。
若者達の間に使われる、自分を守る為に使う丁寧な言葉は、時に、慇懃無礼に成ったり
取って付けた様なよそよそしさと成ってしまい、対人関係を疎遠な物にしてしまう
原因の1つにもなっています。
今の若者達の他人に対する言葉や行動は、正に、就職の面接の様に、自分の事を
良く見せようとしている様なわざとらしさを感じる事が有ります。

子供の頃から、他人と競って勝つことを良しとされて来た人生に於いて、
他人を褒めたり認めたりすることが苦手なのかもしれません。
その為、丁寧な所作や言葉は、心からと言うより、対人的なハウツーとしてしか
感じられない事が多いです。
その為、褒める事褒められる事にも成れていないのが現代人と言えます。
社会的な地位や立場に対しては褒められても、本当の自分自身を褒められたり
認められた理する事が少なく、その理由を、より豊かな生活に在ると思ってしまう
心の寂しさが気になります。

他人を認めると言う事は、ほんの些細な事、本人ににしか出来ない事や行動や言動に
その人と成りが現れ、その部分を大切にしてあげる事が、お互いの心を通じさせ
信頼関係を生む事と成るのです。
一期一会と言われる様に、他人との関わり合いは、多くの場合、長く続かないものです。
しかし、一時の巡り合わせで有っても、他人の事を心から思いやる事が出来れば、
その思いが、新たなる、いいね!を生んでくれるのです。

私達人間の人生は、長い様でほんの一時に過ぎません。
夜空を眺めれば、殆どの星は、遠い太古の昔と言うより、地球が生まれる前に光った光が
私達の目に届いているのです。
光のスピードで有っても、何億、何十億という時間を有して地球まで届いている星の光に
たった700万年程しか生きていない人類は、風前の灯火よりも儚いものです。

増して、私達の人生なんて、ほんの瞬き程も無いのです。
憎しみ合って生きるより、他人に喜んでもら人生を送る方が、ずっと幸せと言えるのです。
自分が幸せに生きると言うだけでなく、自分の生き様が、誰かの幸せに成るのなら、
どれだけ充実した人生と成るでしょう。
たった一つの、いいね!が他人の心を和ませるのです。自分の身の回りの人達に
いいね!が出来る人生を送れれば、誰かに、いいね!をもらえる人生が送れるのです。

 

 


病に伏す師に思う

2017-01-11 17:17:15 | 生きる力

 

私の大切な恩師が難病に苦しんでいます。
数年前から、次第に全身が動かなくなり、今では、
一日中ベッドの上で、自らの身体を動かす事すら
出来ない程です。

私が出会った頃は、正に輝く存在であり、
誰もが憧れ、人生の師として心身ともに
偉大な方でした。

上京してからは、一年に一度ほどしかお会いできず、
時折電話から伝わる元気な声に、懐かしさと共に
相変わらずお元気で在られる事に胸をなでおろした
ものなのですが、数年前の病の発症が、これ程にも
悪化しているとは思ってもみませんでした。

誰でも年を重ねれば、思いがけない病を患ったり
想像しないアクシデントに見舞われたり
するものですが、若い頃に人一倍活躍した方が
往年に病に伏してしまうと、驚きと共に
人生の空しさと切なさを感じさせます。

私の年ごろとなると、周囲においても、何人も
旅立つ人が出て来るものですが、それ以上に
病を患ってしまう方が非常に増えてきます。

しかしながら、人は生き物であり、いずれ誰もが
この世を去らなければなりません。
解っているとはいえ、その日が次第に近づいたり
病に伏してしまうと、寂しさは一段と増し、
本人も周囲も、いたたまれない気持ちとなって
しまうものです。

身内や知り合いは、少しでも長く生きて欲しい
と言うのが、誰しも思う事でありますが、
こればかりは、運命のなせる業であり、私たちが
望み得ることとは言えません。

とは言うものの、人の人生は、高齢まで生き抜き
人生を全うするのが幸せなのでしょうか。
この世に生きている人には、残りの人生があり
それが長いか短いかは、後に残された人が決めると
言えます。また、素晴らしい人生であったか後悔の
人生であったかも残された人たちの主観で有ります。

旅立った後の悲しみは、残された人に有り、
旅立った人には有りません。
これらすべての感情は、あくまで、残された人たちの
心に在るものなのです。

私達人間は、様々な方法を使い、人生の長さを感じます。
日時を考え年月を考え、自分が生きている時代を定めます。
人々の人生の長さの尺度から、自分の人生の長さを計り
その生きざまに思いを募らせます。

しかし、どんなに生きようと、思いがけなくこの世を去ろうと
生まれてから死ぬまでの時間でしかないのです。
それが長いのか短いのかは、残された人の判断です。

動物は、生まれて死ぬまで、自分の生きている時間の長さを
考える事は有りません。
生まれてやがて死ぬまで、殆ど変わらない気持ちでいるのです。

人は、自分の生きざまを知る事に依り、生きている事の意味を
感じたがるものです。
具体的な月日、多くの出来事、それらを思い出し、意味を見出し
自分がこの世に存在した意味を知りたがるものです。

私が幼い頃、大災害で多くの人命が失われました。
同級生も近所の人たちも多くが一瞬にして命を奪われ、
残された我々は、言いようのない悲しさを感じたものです。

しかし、それは、あくまで残された我々の気持ちであり、
逝ってしまった人たちの思いでは有りません。
数百の亡骸が並ぶ小学校のグラウンドでなぜか涙も出ず
身元が分かった人から、次々に荼毘に付されても、
ただ感情もなく見守っている事は、悲しみに暮れる人と
同じ気持ちでも有るのです。

旅立った人達に対する思い、重い病に伏した師に対する思いも
人生の末期に対する我々の思いとして如何に感じ取るかは
人それぞれであり、如何なる態度で対処すべきと言う事を
強いるものではないのです。

誰もが悲しみを感じる態度を示すことが正義とするならば、
それは、残された人に対する思いであり、本当の思いは
外見的に見える悲しみの姿とは言えないのです。

かつて、まだ幼い頃に味わった余りにも多くの人々の死は
その悲しさを如何に表そうと、彼らが生き返る訳でもなく、
死という事実が無くなる事でも有りません。
私たち残されたものは、その事実を受け入れ、自分達の
残された人生を歩むしかないのです。

今の医学では回復は望めないとしたら、その現実を受け入れ
この世に存在する限り、心の関わり合いを絶やさない事が
生きている者同士の義務であり、その間に病は存在しません。
もう取り戻せない過去を惜しみ悲しんでも、取り戻せない
本人はもっと悲しいのです。
現実に於かれた状況を、お互いに受け入れ、いつもお互いを
感じ続けることが、まだこの世に生きている事の証と言えます。

ベッドから動けなくなって、数か月が経つようです。
様々な事情から、まだお会いする事が出来ません。
しかし、会う事が出来たとしても、私の気持ちは今と同じであり
師と共に過ごした頃と全く変わらないのです。
輝いていた頃の師とベッドに伏した師は、私には同じです。
例えどんなに風貌が変わっても、生きている限り同じなのです。

余りにも多くの人の死を目の当たりにしたからかもしれませんが、
これまで様々な方の旅立ちに遭遇した時も、涙が出る事はなく、
生前の思いと、亡骸を見た時の思いは何だ変わらず、静かに
次へのステージへ見送るだけでした。
多くの身内の方が泣き叫び、先立つ人を惜しんでも、なぜか
私の心は、静かで、ただ見守るのみなのです。

人の運命は、誰も知る事が出来ません。
この世を去るまで、どんな人生を送るのかは、それこそ
神のみぞ知ると言った感じです。
しかし、その人の人生は、どんなに短くとも長くとも、
その人に与えられた大切な人生なのです。
それを悲しいとするのか素晴らしいとするのかは、残された人々の
心の想いであり、人それぞれの思いであるのです。

今の時代にたまたま数十年間一緒に生きてるのであって、
時代時代の人は、同じ思いで人生を送っているに過ぎません。
今の時代に存在できたことに感謝して、一つしかない自分の人生を
どんな形にせよ終末を目指し生き抜くことを喜びとしたいものです。


 

 

 

 

 


思いは、必ず叶えられる、本当です!

2015-10-30 15:55:40 | 生きる力

人は目的が有って生きて行く動物です。
つまり、いかに高度に脳が発達しても、しょせん環境に左右され
それに反応して行動します。
しかし、知性が有る故に、様々な反応を越し、時に、自分自身を
苦しめたり傷つけたりします。

人間にとって一番の苦痛は何か、と言えば、多くの方々が、

様々な災害や具体的苦しみを上げるかと思いますが、本当の苦痛は
自分以外に何も感じられない環境に入れられた時です。

拷問の中で一番苦しいのが、音も光も何もない部屋に閉じ込められる、

一見、何の苦痛も無いように思える責めが有ります。
戦争の時に、捕虜にしてはいけない最悪の拷問の一つです。
殆どの人が、何日も生きていられず、自分自身で死を選ぶか、
発狂してしまうと言います。

では、何がその様な状態にさせるのかと言えば、自分自身が作り出す音

つまり生体から発する音や感覚と言われます。
音も何もないと言えば、感じるのは自分自身であり、その自分に殺されるのです。

私達は、様々な厳しい環境に生きていますが、怒りを覚えたり、恐怖を感じても

それに反射的に対処する事で、自分の存在を意識しています。
その対象が、怒りであり喜びであり、感じる事によって、自分自身を感じるのです。

つまり、一番生きて行く為に必要な事は、自分自身が一番楽しく思う、喜びを

感じる事を常に目的に置く事です。
その為の、苦痛や苦難は、必ずや克服できるようになっています。

人は弱いもの、少しの苦しみが有ったり、壁が立ちはだかると、直ぐに負けて

その場を立ち去りたくなりがちです。
でも、その壁は、その時感じた壁であり、同じものを別の日や別の環境で感じると
全く違ったモノに感じるのです。

例え、壁がどんなに大きくとも、主観であり、在っても無くても同じものなのです。

ただ立ちはだかる事によって、自分の生きる道を考え選択できる材料となるのです。
人生を長くしていると、思い起こすと、様々な事を乗り越えてきました。と言うより
乗り越えられるようになっていました。

越えられないと思うのは自分の気持ちで、越えられると思うと越えられるのです。

病は気からと言いますが、考え方に過ぎないのです。
今、多くの方々の苦しみ、それは、自分の本当の壁と目的が無い事です。
マスコミや世界の情報に翻ろうされて、自分の道を見つけられないのです。
自分が挑む前に、答えを設定してしまう為、自分が生きる喜びが薄いのです。

世の中で苦しい事は、自分が関われない事象です。

それを、周囲から作られるのが、イジメでありシカトです。
人は、無意識に、周囲の人々から関心をもたれれる様に生きています。
学校に於いても、社会においても、孤立する事が最大の苦しみなのです。

生きる希望は、自分が周囲から関心を持たれ、自分が関心を持つ喜びの目的を

常に失わない事なのです。
どんなに文明が発達しても、私達は、地球上の生き物から命をもらって
生きて行かなければなりません。
同じ様に、地球上のものに関心を持って、または関心を持たれて生きる意味を
感じているのです。

そのやり取りが幸せか不幸かは置かれた環境によって決まってしまうのです。

しかし、その環境の所為で、自分の道を見失う事は愚かな事です。
環境はどんどん変わって行きます。それに対処できる自分を育てて行けば
どんな時代であっても楽しく生きられるのです。

人は目的を与えられると強く生きられる傾向が有ります。
出来るなら、その目的が、人々に喜ばれる事ばかりならばいいのですが、
世の中は、不幸を与える事を目的としている方々もいるものです。
でも、その事で自分の思いを諦めたりする必要は一つもないのです。

自分の思いは、叶えられるから思う事が出来るのです。
1パーセントの可能性でも、諦めなければ、いつか100パーセントの
可能性に変わるのです。
しかし、99パーセント可能であっても、何もしなければ、可能性は
0パーセントになってしまうのです。

もう自分はダメだと思ったのは、その時の自分の思いであり、
沢山の可能性の一つに立ちはだかる小さな壁です。
自分で、工夫したり、時を待ったり、人に助言を求めたり、
窮地を抜ける方法は無数にあるものです。
目的は必ず叶い、その方法は、数限りあることを忘れてはいけません。


生きる事と、死ぬ事

2015-10-17 12:40:26 | 生きる力

私の妻の友人が、今年癌の手術を受け、長い闘病生活を送っていましたが、
最近、全身に新たなる病巣が見つかり、今やかろうじて生きながらえている
非常に辛い状態となっています。
数年前まで、何の病気もした事も無い、本当に健康優良児と言われる程でしたが、
その病魔は、突然に彼女の未来を奪い始めました。

しかしながら、私の知り合いや親せき友人の中に、癌で苦しんでいる人や苦しんだ

経験のある人がいかに多い事か、世界一の長寿国と言われてきた日本の現実は
長生きするにも数々の試練が待ち受けている様です。

私の仕事関係の友人も、私よりもずっと若くして逝ってしまった人が何人もいます。

彼らに共通している事は、昔から病弱であったという訳ではなく、むしろ仕事に家事に
人一倍元気で遭った人たちが多い事に驚かされます。

本人も癌であったことを知らされたときのショックは、想像を絶するほどの辛さと思いますが、

その周囲に人たちも、同じく強烈な悲しみと挫折感を味わうものです。
天寿を全うしてこの世を去るのであれば、本人も周囲もある程度は納得できるのですが、
道半ばにして突然未来の夢や希望を断たれることは、言い知れぬ苦しみと悲しみを
感じる事と思われます。

ともあれ、病気であろうと、事故であろうと、まだ先の人生を歩む可能性が有った人たちが

この世を去ることは、残された人にとっても非常に辛く悲しい事です。
でも、いつこの世を去ることが一番良いのかは、本当は、誰にも解からない事なのです。
人生半ばで、まだ残された多くの年月を奪われた人と、生まれて間もない幼い時期に
何だかの理由でこの世を去らなければならなかった人と、どちらが不幸でしょうか。
いや、どちらとも言えないのが人生の難しさでもあります。

何年生きようと、人はこの世を去れば、その瞬間から、過去の人となってしまうのです。

未来は、残された人の思いであり、それは、想像の域を超える事は無いのです。
ならば、何を持って、自分の生きたあかしかと言えば、生まれて亡くなるまでの、
多くの人々との関わり合いと、その人の心に与えた影響と思い出なのです。
残された人々の生きる糧になる生き様は、人々に勇気や力を与えます。
私達の死は、残された、これからさらに生きて行く人たちの生と変わって行くのです。

地球上のあらゆる生物は、御互いに生き生かされる関係で子孫を繋いでいます。

私達人類は、自然のあらゆる生物から生きる糧を得て、生物達の頂点に生きて来ました。
同じ様に、私達が死ぬという事は、残された人たちに心の糧として生きて行くのです。
何時まで自分が生きられるかは、誰もが解からない永遠の謎です。
しかし、自分の死は、終りではなく、残された人々の次への生きる道への力となるのです。

死は恐ろしく、誰もが避けたいものですが、生まれたからには、生き物として

命を全うする運命であるのです。
その時がいつ来るか、明日なのか明後日なのか、さらには数十年後かは人それぞれですが、
死ぬことによって、自分の人生が初めて完結され、人々の心に残って行くのです。