めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

体験した事の無い集中豪雨!

2014-06-30 16:21:38 | 自然災害

朝から多少蒸し暑いものの、床屋で頭をさっぱりとした後、
決まった目的の無いときの時間つぶしに、行きつけの
カラオケショップに入る事となりました。

何も用事がなくとも休みの日に家にいる事は、私にとって
一番のストレスの原因となります。
妻とは水と油位性格が違いますから、当然、妻は家にいて
のんびりと休日を過ごすことが大好きです。

そんな妻に、あてもなく都内をさまよう事は苦痛に他ならず、
結果、歩かないで、家にいる様に寛げるカラオケが定番と
なっているのです。

そんなカラオケを歌い始めて早15年程になります。
2人とも歌は大の苦手でしたが、言葉に自分の気持ちを
託す事に楽しさと喜びを覚え、休みとなればまず歌ってから
次の目的地に向かうと言うのが我々の休日コーストなりました。

昨日もいつものように歌って外に出ると、天気予報では
にわか雨の警報が出ていたのですが、見上げると、青空が
ビルの間に広がっています。
妻は用事があったので、その後別れて帰宅となりました。

家に帰った頃、何やら怪しげなゴロゴロという音がしてきました。
窓の外を眺めると、辺りが暗くなって、時折、光が見えます。
不穏な空気に、とりあえず洗濯物を庭から取り込みました。

それから、10分も経ったでしょうか。
突然、猛烈な叩きつけるような雨音と、稲光が飛び込んで来ました。
ついさっきまで静かだった庭先に横殴りの雨風が滝のように
風景を遮断して何も見えません。
窓に叩きつける大粒の雨に開ける事すらできません。

すると、妻からのメールが、バスに乗ったのに周囲が川の様で
あっという間に立ち往生している、との悲痛の文面です。
先ほど何ともなかった渋谷のバスロータリーが池のように
周囲からの水が集まって溢れているとの事です。

雨が降る前にバスに乗った様で、幸い濡れていないとの事でしたが、
このままでは我が家の近くのバス停に着いた後は濡れ鼠です。
とりあえず、バスナビでバスの場所を確認して、時を待ちます。

いよいよ到着の時間です。意を決して予備の傘を片手に外に出ると
道路は川のように濁流が流れ、バス停の方から猛烈な雨と風が
私の傘を押し戻します。
やっとのことでバス停の近くのビルにたどり着くと、
私の身体はすでに濡れ鼠、ビルの陰から霞む道路の先に
妻の乗ったバスを待ちます。

数分すると、豪雨で霞んだ先からバスが浮き上がって来ました。
バスが到着すると同時に駆け寄り傘を渡すも、アッと言う間に
2人とも濡れ鼠となってしまいました。
家に帰り着くと迎えに行った意味がない程、二人の姿は全身から
滴が滴り、濡れた事よりもこんなことが東京で起こる事への驚きが
2人の口からため息と共に吐き出されました。

それにしても、最近の日本の天気は荒っぽくなってきました。
春夏秋冬のそれなりの季節の移り変わりが、いつの間にかに
極彩色の油絵のようにインパクトが強すぎて中々ついていけません。

日本人の穏やかな奥深い性格は、長い間の風土から培われて
育ってきました。特に、四季の移り変わりを感じる心は
日本人独特の優しい国民性を育てたとも言えます。

季節感の無い現代生活が次第に人々の気持ちを変えて行ったように
私達の生きる自然環境が変わって行けば、この先未来の日本人が
日本人で無くなって行きそうで不安になってしまいました。


2人で一緒の40年、でも、解から~ん!

2014-06-28 17:04:51 | 家族

妻と付き合う様になって、更には結婚をして40年を超えました。
子どもたちも立派に?成人して、一人の社会人として責任なある
仕事を任される様になりました。

2人だけでまた生活するようになって、新婚当初の様にとはいきませんが、
毎日を明るく元気に、病気せず頑張って行こうと考えています。
しかしながら、はた目には幸せで何のトラブルもない夫婦のように思えますが、
この波風が立たない生活を維持するにはやはり何かと大変なのです。

はっきり言ってしまえば、女は解らん!の一言に尽きます。
長く結婚生活をしていればお互いに理解しあえると言うのは全くの嘘で、
根本的な問題、つまり、男と女の感性は全く異なっているのが事実です。

一心同体なんて、結婚する前の理想にすぎません。
本来、男と女は水と油のようなもの。
無理に混ぜ合わせて一つには出来ないのです。
まあ、乳化剤の様な役目を子供がすることはありますが。
スムーズに行っている結婚生活は、相手に対する忍耐力で
保たれている事も多いと思います。

仕事の関係上、何千人もの女性に関わってきましたが、それでも
女性は不可解な生き物です。
その点、男は単純で、行動も性格も一括りで考えやすく、
何か事を起こすにも非常に扱いやすいものです。

女性は、一見弱くて、直ぐに集まりやすいウサギの様に思える事が有りますが、
そんな事に騙されてはいけません。女性は何人集まっても、基本は一人です。
扱いを間違うと、とんでもない反感をかってしまいます。

長年付き合っている妻も、最初は爪を隠していましたが、
今では決して隠そうとはしません。
2人の関係を維持するには、私の鋳型に当てはめるのではなく、
妻の複雑な鋳型に私が当てはまる様にすることが平和の条件となりました。

結婚当初は私のする事言う事に合わせてくれていたのですが、
あの頃は柔らかい肉球に爪を隠していただけだったようです。
男も大きな爪を持ちたがるのですが、この爪はもろくて、簡単に
折れて使えなくなります。

でも、女性の爪はサメの歯のように、折れても直ぐに後にスペアーが控えていて
爪の無い幼気な姿に油断すると、直ぐに新しい爪で引っかかれてしまいます。

私達夫婦は、年間を通して普通のサラリーマンより何倍も一緒にいて
仕事も遊びも殆ど一緒です。
しかし、それでも理解に苦しむことが多いのです。

そんな中で上手くいく秘訣は、爪の存在を否定するのではなく
爪があるのが妻であると思う事が大切だと思いました。
男はどうも女の外見と仕草に騙されがちです。
上手くトラブルなく生活していくには、相手の行動、姿を否定しないで
受け入れていく努力が大切の様です。

しかしながら、時に、何の前触れも無く言動や行動が変わる事もあり、
これも、女性の特性と認めていかなければ、男の脳は付いていけません。

そのような生活の中で、私が感じた女性への対処法の一つが、
凧を揚げる時のように、その時の風向きや強さに応じて
糸を上手く引いたり出したりたりする事が大切であると言う、
極めて確立の悪い方法で、これからも妻への理解に苦しむ日々が
続いていくものと思われます。


しまった!? 財布が無い!

2014-06-26 20:47:49 | 社会

出勤する途中、バスの中に財布を落としてしまいました。
その中には、免許証から生活に必要なカード類が入っていて
もし失うと途端に身動きが出来なくなってしまいます。

私が物を落としたのは、30年程前に靴を入れたシューズバッグを

タクシーの中に置き忘れた時以来の事です。

バスの行先は解っているので、バスセンターに問い合わせをしましたが、

最終地点に着くまで連絡が取れないとの事でした。
多少お金も入ってはいたのですが、早速仕事に差し支えてしまいます。
ともかく仕事場に行かなければならず、その後の問い合わせは妻に任せ
一抹の不安を抱きながらその場を後にしました。

それから、30分もしなかったでしょう。

突然、妻からの電話、妻の元気な声で見つかった事が解りました。
一時間ほどして妻が受け取りに行くと、中身は全く紛失することなく
私の手元に戻ってきました。

よく、海外で物を無くすと、ほとんど戻る事は無いと言われます。

日本以外の国々がすべてとは言えませんが、日本人がいかに誠実で
困った人の事を自然に考えられる民族だと、思わず誇らしげに思いました。

かつて、他人の財布やバッグを拾った事が有りますが、何も考えず

ただ、普通に届けたものです。
ひょっとしたら多額の現金が入っていたかも知れません。
いや、入っていたとしても、それを取ろうなんて考えも浮かびません。
多くの日本人はそうやって育ってきているのです。

でも、いざ自分が落とした時の不安と焦りは相当なものです。

それゆえ、直ぐに戻ってきたことが、本当に幸せに思えたのです。
こんなにも素晴らしい国民性を持った日本人が、人を傷つけたり
憎んだりする民族にならない様、国のかじ取りはしっかりと
考えて欲しいものです。


美しい自然と日本人の心を引き裂くコンクリートの壁

2014-06-26 13:32:22 | 日本人

近い将来の大津波に備えて、今や太平洋側の海岸では
巨大な堤防の建設が計画されています。
東日本の大災害を目の当たりにして、日本中がその恐怖におののき
人命と財産を守るべく、国、地方共に対策に追われています。

確かに、3年前、テレビに映し出される大津波の恐ろしさは

日本人の多くの人に未来の不安を抱かせました。
でも、近年私達が災害に対して行なってきた対策は、
必ずしも私達日本人にとって相応しいとは言い難いと思えます。

明治から西洋の文化が怒涛のごとく日本の文化を変えていきました。

生活のみならず、物事の価値観も随分変化して行きました。
開発と言う名目で、日本中に重機の音が鳴り響き、戦後至っては
日本の国土がことごとく壊されて行きました。

高度成長期には経済成長は著しいものの、その引き換えに失った

素晴らしい日本の自然は取り返しのつかない状態になってしまいました。
河川や沿岸はことごとくコンクリートの壁で覆われ、川は下水道に
海は汚れきった巨大な池へと変わって行ったのです。

私達は、太古からすべての自然に対し畏敬の心で接し、人々は

お互いに相手を尊重し、自分を中心に考えるのではなく
周囲の人や自然を大切にする心で生きてきました。
その結果、世界に類を見ない、万物に優しい心が持てる民族として
世界中の人々から称賛される様になったのです。

この素晴らしい民族を育てたのが、太古から続く美しい自然であることは

言うまでもありません。
私達は自然から沢山の恩恵を頂き、共存する事によって生きてきました。
特に、水に対する思いは強く、自分たちを生かす水をいかに大切に扱うか
歴史を紐解くまでもなく、日本人の身体も心も育てられてきた事が解ります。

ところが、今や日本中の河川がコンクリートで覆われ、水辺と私達の間に

日本人の心を踏みにじる壁が出来ているのです。

人類は太古の昔から水際に生活をしてきました。

陸と水界に住むあらゆる生物の接点でもあります。
単に食料を得たり交通の手段にするだけでなく、人類の心のよりどころ
成長の場として大切な聖域でもあるのです。

確かに、地震による大津波で昔から沿岸地域は多大な損害を受けてきました。

もし、その地の生活が苦であるならば、遠い昔にその地から人々は去ったでしょう。
何故、そんなにも危険な地域に留まり、次に確実に来る大津波から逃げないのでしょうか。

それは、その地が、人々にとって、単に生活するだけでなく、沢山の自然の恵みや

心の安らぎを得られるからです。
私達は、もし、水が無くなり空気が無くなるとしたら、どれ程うろたえてしまうか
考える事も出来ない程恐ろしい事です。
でも、いつも命の糧は気が付かない自分たちの周りでいつも守ってくれているのです。

時に大自然は猛威を振るい、私達を傷つけ苦しめます。

でも、それは地球が出来た時から繰り返されている自然な事なのです。
その中で私達は生かせれ、工夫して生活してきたのです。

被災者の人達が一番恐れているのは、津波によってまた災害が起こる事ではありません。

巨大なコンクリートの堤防が自分たちの街と自然を隔て、さらには、そこで育てられてきた
人々の心にも壁を作ってしまわないかという事です。

安全な生活は必要です。でも、刑務所の様な心の交流が人々にも自然にも無くなって

故郷が消えてしまう事を案じているのです。

私の故郷は伊勢湾台風の後、街をぐるりと巨大なスーパー堤防が取り囲み、川を幾つも埋め

護岸で固めました。素晴らしい自然の溢れた街が、都会のベッドタウンのようになり
昔から住んでいた人も多く去り、いまでは、いったいどこの街なのか解からなくなりました。
建設にあたって巨額の金が流れ、人々の心も荒れてしまいました。

経験者だから言うのです。未来に、本当に残せるものなのか。

目先の恐怖におびえて、日本を草木も生えない要塞島にしたいのか。
将来の日本人が私達を誇りに思えるように、じっくりと考えた対策を講じて欲しいものです。


生徒も先生も苦しんでいます

2014-06-24 15:56:44 | 日本人

昨年数十年ぶりに大学の寮で一緒だった仲間たちと会いました。
20代前半の、夢や野心に溢れた友たちも、過ぎ去った月日の長さを
その姿に見ることが出来ました。

ロングヘアーで未来を熱弁していた彼も、艶やかに光る頭にその面影は無く、
スポーツで成らしたイケメンの彼は、すっかりメタボで横幅が目立ちました。
憧れの女子は今では孫の世話をする年齢、彼女たちの母親が出席したような
不思議な情景でした。

そんな中で、教育関係に仕事を求めた仲間たちが、今では教職をリタイヤしたり
校長に成ったりで、人を育てる素晴らしい人生を送ったのでは、と多少なりとも
羨ましく思ったのですが、実際は外から思うよりもはるかに複雑で苦痛に満ちた
教職であったことに驚かされました。

私達が若い頃よく見た番組には、熱血教師が学園を変えていくと言うストーリーが
定番でしたが、そんなことはまず不可能と彼らが言っていたのが心に残ります。

最近の国が提唱する教育方針は、増々教師にとって苦しい立場を作っている様で
生徒を守ると言う為に作られた教師の指導方法が、先生を拘束している現状が
気になります。

長い教職の仕事を終えた友が、いかに現実の教育が難しく、ともかく、教職が終わって
ほっとしている事に安心感と現状の不安を感じました。

今、教育の現場で問題になっている事が、家庭内の問題であり、更には社会での
問題である事に繋がっている事に、日本の教育問題の根の深さを感じました。

経済的にも豊かになった高度成長期、更に、バブル崩壊で社会全体が停滞気味の
現在の日本、どちらも根本の問題が解決されずにいる事に日本の未来の危機を
案じざるを得なくなりました。

インターネットの発達と共に、あらゆる通信機器が進歩して、世界中の情報が
何でも手に入る様になりました。知らない事、解からない事は、目の前の人に
尋ねることなく何でも知ることが出来る事が、実は、自分の周囲の人々の情報を
遮断しかねない事を心配してしまいます。

先生に聞かなくても、親や周囲の人に尋ねなくても、自分が欲しい回答は
簡単に手に入れる事が出来る世の中です。
なのに、今の教育は、増々教師が必要でない様に変わってきています。
先生や大人が教えなければならない、ネットでは得られない教育方針が
打ち出されていない事に、先生たちの存在価値を無くす原因があるのではと
思えてなりません。

今や、受験勉強で必要な知識は学校に行かずとも手に入ります。
子どもたちは私達よりもずった冷静で知識を振り回す先生にはシカトします。
はっきり言って今の先生の知識ではコンピューターには敵いません。

先生たちが生徒に勉学の大切さを諭すには、一人一人の持つ知識の
本人たちが成長するための意味を教えなければならないと思います。
つまり、生徒の勉強の価値観と先生の価値観はあまりにも隔たりがあるのです。

私達は生まれた時、誰もが渇いたスポンジのような状態で生まれてきます。
外部からくる情報をどんどん吸収して大きくなっていきます。
大体2~3歳位までは誰でも可愛いものです。
でも、保育園に入り小学校に行くようになると、途端にこ憎たらしくなったりします。
それは、彼らが沢山の知識を身に着け、自分にプラスになる事を選択し始める、
つまり大人への成長を始めるからです。

小さいうちは急速に脳も身体も発達します。それは、ほとんどの物が自分にとって
成長にプラスになると感じているからです。
しかし、小学校の高学年ともなると、必要でないと判断できる、知識だけの
教育が主体になって来るのが問題です。

あんなにも、素直に育ってきたのに、いつの間にか我ままで暴力的な子供が増え
結局社会問題へと発展していきます。
問題は大人の言う事を聞かない子供達ではありません。
子どもたちが学ぶことが彼ら一人一人にどの様に大切であるかを
子どもたちのレベルで考えられない教育方針に在ると思います。

かつては、無理矢理でも学校の授業を受けて勉強しないと大人になれない様な
同じレールに乗っている様な社会でした。
でも、今は、かつての学生の何倍もの知識を持った、しかも解からなければ
世界中から答えを得られる生徒ばかりなのです。

彼らは、大人になる為のハウツーを知りたいのではありません。
自分が生きていくための自分のハウツーが欲しいだけの事なのです。

先生も苦しいですが、生徒も苦しいのです。
それは、先生と生徒がキャッチボールするハウツーが無いからです。
たとえそれを持っていたとしても、今の教育方針では逆にマイナスとなります。

先生や親を師と仰ぐ事は、教える事ではなく育つことです。
幾つになっても習うときは先生であり教えるときは生徒です。
この柔軟性を持った現代の子供たちに即した教育を考え、
生徒も先生も生かされる教育方針が打ち出されれる事を
切に願いたいものです。