めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

明日から何をしたらいいの?

2013-04-27 02:10:16 | 日記
四月も今日で終わり。
今年も三分の一が過ぎてしまう。
光も風も夏のムード。
あと一か月もすれば蒸し暑い季節だ。

一昨日内輪の楽しいイベントを企画する。
昼少し前にいつもの様にバスに乗る。
乗客のほとんどは中高年。珍しくはない。

会場に着くといつもの様に淡々と準備を始める。
家族中心の集まり。各自がノルマを遂行していく。
息子の彼女が体調不良で参加できず。
それでも皆で協力、夕方には準備が整い、本番スタート。

数十人が集まって楽しいイベントが進む。
四時間ほどで全ての予定が終了。
途中から熱が下がった息子の彼女も参加。

ゲストが帰って全身脱力。
この瞬間がこの企画の本当の目的。
何もなくても時は過ぎていくが、同じ時間で
非常に濃密な体験をしていく。

時に思う。お金と暇が十分あったら、こんな
苦労やストレスは無いだろうと。
だが、同じ満足感は果たして得られるだろうか。
いや、お金と暇が無くて自分たちの思いがある時、
胸の中が熱い時、心がときめく時、満足感を得られる
瞬間がやって来る。

となると、もっと苦しみ悩み葛藤をすれば
より充実した人生になるのか。
いやいや、それは困る。
まだまだこんな緊張した生活が続くのか。
本心、何もかも忘れてのんびりしたい自分が居る。

いやはや、人の生き方は面倒くさい。
地位も名誉もお金も要らない、のんびりと残りの
人生を楽しみたい、願うのは所詮無理なのかな。

地位も名誉もお金もなくて、あくせくして一生終わる。
それが空の上で笑いながら見ている神様の教えか。
地上の一匹の蟻に過ぎない自分なんて一生を語るには
とるに足りない存在なのかもしれない。





躑躅が真っ盛り!

2013-04-25 16:36:20 | 日記
先月の末頃は桜の花に酔いしれたものだが
今や都内の歩道や公園が躑躅で色華やかに
彩られている。

日本は春夏秋冬様々な花が咲き誇り、周年
その可憐さと美しさで,この国に生まれた事を
幸せに思う。もう少しすれば菖蒲やカキツバタ
更には鬱陶しい梅雨にも、雨に濡れた紫陽花が
日本の四季の美しさを教えてくれる。

以前都内にある大木を紹介した番組を見たが
日本各地にある巨木や古木に我々人は何か
神々しさや偉大さを感じてしまう。

植物に限らず山や川にも、さらには家の中にも
多くの神を祭ったものだ。神々しさや雄大さ
偉大さに共通する事、一つにはそこに変わらず
ずっと長きに渡って居続ける事だ。

この変わらずそこに居る、同じことを続ける
という事が苦手なのが人ではないだろうか。
何かを成し得た人や人々から称賛される者は
決まって長い間努力をしたり耐えてきたりして
人々に一目置かれる様になっていく。

道路端に咲き誇る躑躅が美しさだけでなく
存在感と偉大さを身に着けるには多分に
果てしない時間が必要だ。
躑躅のみならず日頃目に付くところに育つ
多くの植物はその行く末が他の物に変わっていく
可能性が大きいから美しいだけで終わってしまう
のかも知れない。

今や都会の生活は日々物凄いスピードで変わっていく。
それに付いていけないと社会から取り残されていく様で
誰もが必死に頑張っている。
だが、多くの人が挫折をし自分の無能さに苦しむ。

でも、考えてみよう。周りに取り残されない様に
一生懸命付いて行ったことでどれだけ自分が変わった
だろうか。どれだけ人として成長しただろうか。
人と競い多くの収入を得て社会的な地位を得て
本当に偉くなったのだろうか。
いずれ老後が訪れ、短い一生を終える。
1人の会社のメンバーとして家族の一員として
平和な一生だったかも知れない。
でも、大木の偉大さ海山の雄大さにはとてもかなわない。
本当にちっぽけな短な人生に過ぎないのだ。

ならば、どうしよう。
そうだ、大木や海や川のように自分を思ってみよう。
大雨が来ても大風が吹いても変わらずそこに居るように
自分の心を信じて前を見て何があっても動ぜず生きる。
信ずるものを一生自分の心に育てて行くこと、それが
自分が生き続ける、周囲が自分を生かしてくれる
一つの条件になるのでは私は思う。


綺麗な花には毒がある

2013-04-17 13:38:30 | 日記
今や都内の公園は色鮮やかな躑躅の真っ盛りだ。
赤、ピンク、オレンジ、白、どの花も緑をバックに
美しく咲き誇っている。
都内の幹線道路の中央分離帯や歩道には、穏やかな
桜の花とは違った初夏の力強い花の帯が続いている。

花と言えば何か足りない様に思わないだろうか。
私が子供の頃は、花が咲くところには沢山の蝶や虫が
一生懸命蜜を吸うために飛び交い、花の色だけでなく
飛び回る蝶たちの美しさに酔いしれたものだ。
春と言えば植物も動物も新しい命を産み育てる時期で、
山も畑も田も生き物で溢れていた。

最近日本中の都市は綺麗に整備され、道路も歩道も
公園も春となれば美しい花が咲いている。
本当にゴミもなく絵に描いた様に綺麗な都市が多くなった。
しかし、どこの街に行っても植えれれている植物や花は
限られている。しかも虫が食うこともなく、その時期が
過ぎると直ぐに次の植物が植え替えられ住む人にも訪れる
観光客にも飽きる事なく楽しませてくれている。

しかし、どうも不自然でならない。
この疑問はもう数十年に渡って私の頭から離れない。
自分たちにとって都合のいい植物動物のみを育てて行くことが
本当に幸せな未来を作るのだろうか。
海も綺麗になってきたが、美しい海と言うのはサンゴの海の様な
見た目に綺麗な海ではない筈だ。

最近都内のグリーンベルトや公園に植えられている植物を
よく見てみると、多くが動物や昆虫にとって食べられない種類が
目に付く。躑躅にしても実は毒があり春先に綺麗な水仙も
クリスマスにはつきもののシクラメンも毒がある。
今の時期ちょっとハイキングに行くと沢山の白い花を咲かせている
馬酔木は山の動物も手を出さない。

つまり動物も昆虫も食べない毒の植物が我々の周りに多くあるのだ。
大体動物が美味しい植物は生き残れないし綺麗な花壇には向いていない
のかもしれない。さらには定期的な消毒などの薬剤散布でやっと
我々の目を楽しませているにすぎないのだ。

我が家の近くを流れる目黒川も30年前は春ともなると土手に蕗の薹が
沢山芽吹き、土筆やタンポポが桜の下で歌っているようだった。
子供たちと土筆を摘んで、卵とじや混ぜご飯にして食べたものだった。
自分が子供の頃は潮干狩りに行くと天然のアサリが沢山獲れて、
水の中にあるわたしの足の周りには小魚が群れていたものだ。

海も山も川も生き物で満ち溢れていた。
目先の美しさに感動して満足してしまう今の自分が情けない。
こんな自然しか残せないわれらの未来はあるのだろうか。
将来に残すべき本当の美しい自然とは?
もう一度考え直す時期に来ているのかもしれない。






庭の山椒の木

2013-04-13 13:42:00 | 日記
春になると桜を楽しみにすると共に、もう一つ
首を長くして待っているのが春の山菜です。
一番最初に食べるのがフキノトウです。
少しえぐみがあるのが春先に出てくる山菜で、
その他コゴミ、タラの芽、うるい、セリ等
次々に春を感じさせる山菜が続きます。

なかでも毎年楽しみにしているのが、山椒の
鮮やかな若葉です。毎年若木を買い求めたり、
以前庭に植えていた山椒の木から新芽が出て
来るのを、桜の花が咲くように今か今かと
まだジャンバーを着ているころから待ってます。

山椒の素晴らしいのは、和食だけでなく洋食や
中華にもよく合うことです。
最近の研究によると山椒の成分が脳を刺激して、他の
食材の味をより強調するというのです。

我が家では、刺身を食べるときにも、ハンバーグを
食べるときにも、その一口にこの若葉を一枚乗っけます。
その芳香成分と独特の辛みがより料理の味をを高めます。
山椒は単なる飾りではなく、立派な食材でうま味増強食品です。
そんな訳で、後一か月もすると緑の塊に黒い枝が目立つように
なってしまいます。

今日も暖かくて、もう五月の陽気です。
歩道に連なる躑躅の生垣は、先月末の
桜と完全にバトンタッチ。今度は赤や
白やオレンジの帯が歩く人々の目を楽し
ませています。







繰り返される自然の安らぎ

2013-04-11 16:55:28 | 日記
目黒川周辺は春からいよいよ初夏へと移り変わり
美しいピンクのベールから爽やかな緑の帯へと
ステージを移しています。

可憐な花のトンネルから緑の美しい並木道へと
足早に装いを変えるその見事さはいつも我々を
感動させます。

花見の時にその美しさをライトアップした提灯は
その役目を終え、来年の出番まで静かに倉庫に
眠ります。

沿道の脇に植えられた躑躅はいよいよ出番と
ばかりに日に日にその存在を強めていますが
その根元や空き地には可憐な春の花達が今が
盛りと色とりどりの花弁を太陽に向けています。

毎年繰り返される自然のドラマ、その中に生きる
我々の平和がいつまでも失われないことを祈るばかりです。