めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

相互監視国家の行方

2020-07-05 14:11:32 | ネット社会

日本国民が総ナンバーかされて何かと国の業務が都合よくなったものの
国民が本当に便利で豊かな生活となったかと言えばそうとも言えません。
昨今のコロナ禍に有って、益々国民一人一人の行動が確実に視覚化され
生活の全てを監視される社会に移行しつつあります。
確かに今回の様な目に見えない恐怖と戦う時、感染者の行動が如実に
確定されれば早急に事態が収束に向かうかの所為も有り、国民全体が
安心して日々を送れる大きな力と成ると思われますが、その一方で
自分達の行動や考えが常に知られる事に因る恐怖があるのです。

民主主義国家と言うのは、国民一人一人の権利と自由が守られる事で
健全な生活を営む事が出来るのですが、自分達の考えや行動に
国家や行政機関からの干渉が入る事は、私達の心と身体に大きな
ストレスと恐怖を与えます。
政府にとって都合の悪い考えや行動が起こる事を常に監視する事で
抑えるだけでなく、一部の執行部の人達の考えを強制的に啓蒙し
統治者達の思い通りにコントロールする事も出来るのです。

歴史的に見ても多くの独裁国家の実態は、国民が完全に監視下の元
自由を失い、辛く悲しい生活を強いられて来ました。
これからの日本にその様な暗い社会が待っているとは考えられない
と言うのが殆どの国民の思い出しょうが、想定外の事が当たり前
と成る時代なのです。
新型コロナウイルスが想像もしない世界を与えた様に、更なる危険な
ウイルスが生れるかも知れないのです。

しかしながら最も恐ろしいのは、人々の心に宿る醜い欲望の心です。
全ての元凶は人類の心が生み出したものですから。
人々が互いの心に不信感を抱き疑心暗鬼と成った時、もう互いに
協力する事も労わる事も無くなってしまいます。
感染しないかと言う恐怖が他人を疑い傷つけ、更には社会不安と成って
憎しみや不安を生んでしまいます。
暴力の始まり戦争の始まりは、人々の心の中に生まれた他人に対する
不安や怖れが元と成っている事が多いのです。




新型コロナウイルスが生んだ先の見えない世界

2020-05-05 09:40:26 | 災害

今や世界中が新型コロナウイルスの汚染に依て、全く違った世界に
変わってしまいました。
私達の当たり前の日常が否定され、誰もが未来に不安と恐怖を抱いて
日々の生活を送っています。
そもそも、人類の歴史は、人が集まり英知を結して発展してきました。
何事をするにしても文明が生れる所には必ず多くの人々が集い
互いに助け合いながら新たなる未来への道を築いて来たのです。

文明の利器は、私達の思いの延長として発明され発展してきました。
より豊かで生産性のある生活は、人々の思いが集結し互いの力を
より大きくする事で生まれて来たのです。
しかしながら、今や、私達は集まる事を否定され、生産活動を止められ
人類としての基本的な生き方を放棄せざるを得なくなっています。
長い歴史の中でこれ程人々が不自由と不安を感じた事は有りません。

例え戦争の最中であっても、その先に平和な日々が訪れる事を
人々は知っていました。朝の来ない夜は無いと思って来ました。
しかし、今回の惨禍は、暗いトンネルの先に灯りが見えないのです。
人々の心の中にある、いずれ必ず元の暮らしが出来ると言う思いが
打ち消されるかも知れないのです。
毎年世界のどこかで生まれる危険なウイルスは、次第に凶暴さを増し
人類の存続を否定するかのような変異を見せています。
必ずや治療法が見つかり、汚染は無く成ると言う心からの願いは
長く続く戦いの間に消え去ってしまう可能性も有るのです。

街を歩けば、ただ多くの店が閉じていると言うだけでなく、マスクを
着けながら歩く人々の表情と行動にただならぬ気配を感じさせます。
閉められた多くの店がいずれ元通りに繁盛すると言う期待も予測も
頭に浮かんでこない程、繁華街の街並みはゴーストタウンへの気配を
漂わせています。
一か月程の自粛ならばまだしも、もし、このウイルスが更なる猛威を
ふるう事と成れば、私達の忍耐も限界に達し、耐えかねた人々が
予期せぬ行動に出たり様々な場所で争いが起こる事も考えられます。

数千年数万年に渡って続けられて来た基本的な人類の生き方を
変えなければならない時代と成って来たのかも知れません。
日常生活の場に於いても、これまでの様に多くの人々の中で
生産性を上げる社会を築く事を目的としていた衣食住の形態を
全く異なった形態に移行していく事が必要となるかも知れません。
学校や会社と言った人々が多く集まって社会生活を営む形式が
否定されると言う事は、これまでの文化形態を維持する事が
出来なくなると言う事です。

人類が集団で行動する事に依って様々な能力を発揮し素晴らしい
文明を築き上げて来たのですが、人類の生き方とも言える様々な
集団活動が出来ないと言う事は、人類の存続にも関わる事なのです。
この事は社会生活だけでなく、種を繋ぐ為の生き物としての行動も
制限され、生きる意欲も本能も否定されない由々しき事態と言えます。
一体何のために生きて行けば良いのか、ただ、食べて生命活動を
維持していくだけでは豊かなメンタル活動を行って来た人類は
生きて行く意欲も失われてしまいかねません。

地球の生き物の頂点に立ち、あらゆる資源と食料を我がものとして
君臨して来た人類は、今や最大の窮地に立たされたとも言えるのです。
近年の地球温暖化や環境汚染がいずれ私達人類の絶滅の引き金に成ると
考える学者の警告が、思いもしない目に見えない敵によってもたらされる
かも知れないのです。
大気汚染や海洋汚染に伴う食糧不足そして異常気象が私達の未来を脅かし
いずれ絶滅への道を辿ると言うシナリオに更なる脅威が加わる事で
そのデッドラインは一段と近づいて来たとも言えるのです。

多くの人々の努力でいずれこの不安な日々が解消されるかも知れませんが
近年の異常気象と同じく、次なる想定外の恐怖がやって来る可能性も
否定できないのです。
毎年繰り返される想定外の災害は、私達人類にもう安穏とした日々を送る
夢を持つ事すら許されないのかも知れません。
このまま多くの店が開く事も無く街がゴーストタウン化するとは誰も
思っていないのですが、想定外が現実と成る時代なのです。
私達人類の生活が一変する時代がやって来る可能性も有るのです。

既に地球温暖化や異常気象で地球で居住する事が出来なく成る事を想定し
火星移住計画を考える人々がいますが、それ以前に、地球に住む我々が
全く生活形態を変えなければならない事態になる可能性が出て来たのです。
毎年変異して生まれるコロナウイルスやインフルエンザウイルスが、
更なる脅威をもって世界中に蔓延するかも知れません。
感染すればその多くが命を落としかねない危険なウイルスが近い将来
現れる可能性は多分にあるのです。

戦争によって多くの命が奪われる以上に恐ろしい人類絶滅へのシナリオが
始まっているかも知れません。
いずれその日がくるにせよ、それは遠い未来の事と思っていた人々の脳裏に
明日にでも訪れるかも知れないと言う一抹の不安が次第に広がって来ます。
未来が見えないと言うより末期の世界が目の前にやって来ているとする
終末の時を私達が迎える可能性すらあるのです。

自粛をして汚染を止まらせ終息を期待する今の生活はまだまだ平和な時
なのかもしれません。
コロナウイルスで人々が亡くなるニュースを他人事のように思えている今は
私達の心はまだ余裕があり、夢を語る事が一番のカンフル剤と言えます。
しかし、身の回りの人達だけでなく自らの命も危うくなった時、私達は
一体どの様な気持ちで過したらいいのでしょうか。
それこそ神にでもすがりたい気持ちと成ってしまうのでしょうか。
恐怖は自らが被災する事で感じる以上に周囲の人達の惨状で高まります。
私達人間は、自分の心も身体も周囲の環境に反応して生きています。
文明を進歩させたのも人々が互いの寄り添いお互いに反応し合って
進化して来た証です。
自分が目の目の当たりにする惨状は、人類にとって最も不幸な事です。

ウイルスが蔓延しない様にする対策は当然な事なのですが、その事で
人類が築き上げて来た生活基盤を失っては成りません。
私達は互いに寄り添い思いを繋ぐ事に依てこれ程までに繁栄出来たのです。
今こそ私達が互いに寄り添い絆を強く保ち、更には生かされている
地球環境を真剣に危惧する時なのです。

新型コロナウイルスを蔓延させたのも私達人類の驕りで有り我儘なのです。
豊かな地球の富に生かされているのを忘れ自分達の喜びのみを求めた結果
次々に異常事態を生んでいるのです。
この機に、これからも地上の頂点の生き物として君臨したいのか
かつての恐竜の様に滅び去りたいのか試されているのかもしれません。

昨年の今頃、来年は東京オリンピックが開催されると日本中がその日を
期待していたものですが、今の世界を誰が想像できたでしょう。
一年後に延期されたとして、果たして、以前の様な安全な社会に成っている
誰が断言できるでしょう。
更なる想定外の惨禍が訪れるかも知れません。

人類滅亡の日は遠い未来の事と考えていたのに、その最中に自分がいる事を
一年後に思わないと言う保証は有りません。
想定外と言い訳できる時はまだ平和な世の中なのです。
いつかその時は必ずやって来ます。しかし、その時に遭遇すれば誰もが
思い返す事もやり直す事も新たなる日々を想像する事も出来ないのです。
それは突然やって来た恐竜時代の終わりの時と同じなのです。

 

 

 


自分のボールを投げれば道が開ける

2019-11-29 12:34:35 | 生きる力

現代社会はネットの発達も有って、欲しいものは何でも
手に入れられる世の中と成りました。
極端に言えば、お金さえ有れば思うが儘に生きられる
とても便利な時代とも言えます。
煩わしい対人関係も気にせず、自分の欲望のままに生きられる
まさに夢の様な社会と言えます。
例え億万長者でなくとも、普通のサラリーマンで有ったとしても
戦後間もない頃の働き手に比べれれば格段の裕福さであり、
高望みをしなければ大抵のものは手に入れられる社会なのです。

所が、世の中が進歩すればするほど、幸せになるはずだった
多くの人々が、以前にもまして苦界に落ちて行くのは何故でしょう。
何でも好きな事が出来て欲しいものが手に入れば幸せなはずなのに
人々の心は一向に晴れません。
確かに思う様な収入が得られず、中々思う様な豊かな生活が出来ない
とも言えるのですが、多くの人が羨む生活をしている方々でさえ
自分達の豊かな生活を誇れる程心から満足している人は少ないのです。

私達はネットと言う武器を持ち、経済的に進歩したにもかかわらず
ますます思い通りにならないと思ってしまうのは何故なのでしょう。
多くの情報を持ち、どの様に生きたら楽しい生活を送れると
知っていながら、実際には一向に楽しくはならず、日々繰り返される
生活にうんざりとしている方も多いのです。
所が、所得の有る無いに関わらず自らの周囲を見渡せば、目に付く物は
全て自分が望んで集めたものです。そのどれもが自分の心を豊かにし
幸せを生んでくれたものなのです。
この事は、当然頭の中に存在する膨大なる知識も同じであり、
望む物を全て集めて来た結果でもあるのです。

つまり、自分の周囲は欲しいもので溢れているのです。
なのに、何故、いつも心が晴れず幸せが感じられないのでしょう。
今も昔も同じような心境であるならば、この先も変わらないストレスが
付きまとう事は否めません。
年末になりジャンボ宝くじを買い求める為に長蛇の列が見られる様に
成りましたが、彼らは絶対当たるとは思っていないにせよ、もし、
想像もしない様な当選金を得たらどれ程幸せになると言うのでしょう。
これは当たった事の無いものの詰まらない想像に過ぎませんが、
実際は、外見的に豊かに成ったとしても、心は相変わらずと言えます。
そう、決して満たされる事は無いのです。
宝くじは、当たるかも知れ無いという期待感を得たいが為に買い求めて
いると言えるのです。

私達の満足は、自分の行動や言動に対する周囲の反応で決まります。
誰もが自分の存在に不安を感じるのが人間の性であり、生活が豊かで
有ろうが苦しく有ろうが、自分自身の存在を認められ生きる価値を
感じられている時は幸せと思うのものです。
つまり、自分一人の思いからくる満足感で有っては、本当に心から
安心感を得られないのです。

しかしながら、私達は、自己評価によって様々な満足を得ようとします。
お金を使い欲しいものを手に入れるのもその表れであるのです。
本来人類は、動物の中でも極めて弱い存在であり、常に集団で身を守り
お互いに協調し合う事で繁栄して来ました。
何をするにしても集団の中で認められる事が条件であり、生きて行くには
人々に認められる事が必要とされました。
その為、人々が自分の思いを叶える為には周囲の人達から認められる
と言う事が絶対条件でも有ったのです。

この人間としての性は遺伝子の中にしっかりと組み込まれ、例え文明が
著しく進歩したとしても人々の心は変わっていないのです。
お金の力を利用して欲しいものを何でも手に入れたとしても、その事に対し
周囲の人や世の中の人達が認めてくれなければ、心の満足は得られないのです。
今の世の中は便利になったとは言え、そう簡単に自分の事を人々に認めさせ
この世に存在する価値観を得られる事はとても難しい事なのです。
もし自分の思うが儘に行動や言動を行えば、たちまち情報が拡散し、
厳しく非難されるのが落ちなのです。今や便利であるはずのネットが
自らに刃を向ける事にも成りかねないのです。

しかしながら、そうかといって手を拱いていては本当に幸せには成れません。
良かれ悪しかれ、人々からの注目を集めなければ自分の心は躍動しないのです。
その為には、困難だとしても思い切って人々の中に一石を投じなければ成りません。
自分を含め自分の環境の中に異質の考えや行動を感じれば、すぐさま反応し
対処しようとするのが人間の本能と言えます。
当然自分にとって不利益であったり危険と判断されるものに対しては、
対抗処置を施すのが普通であり、もし、自分にとって好ましいと感じれば
進んで受け入れたり協賛したりするのです。

世の中の全ての流れは、この一石を投じる行為で成り立っているのです。
政治経済、芸能ファッション全てが誰かの一石によって動いているのです。
巨大産業は巨大資本の投入によって新たなるテリトリーを広げ、規模を
大きくしているのですが、何の資本も無い個人で有っても、周囲に対し
自分の思いや行動を行い人々の心に反応を生み出す事が出来るのです。

この事は大きな資本が必要とされるのではなく、自分の言動や行動を
伝える事で様々なリアクションを得る事になるのです。
世の中の人々は千差万別であり、自分が絶対不可能と思う事であっても
簡単に賛同し協力してくれる人がいるものです。
もちろん批判的な他人も必ずいるものであり、その中から自分自身にとって
最も相応しいお相手と手を握れば良いのです。

小さなことでも一人でするより二人でする方が大きな力を生みます。
また、同じように認めてくれる方が増えれば更なる進歩と成ります。
自分の生き方に不安を感じ将来に期待を持てない方は、実は、
本当に正しい人生を歩んでいないと言えるのです。
自分の不自由な生活少ない所得は自らが選んでいると言えるのです。
最初から今の生活は変えられないと思い込んでいるのです。

実は、自分の生活は自分だけの努力では変えられないのです。
自分だけの力で行おうとすると、必ず行き詰ってしまう様に
出来ているのが人生なのです。
私達は社会に生かされている様に人に生かされているのです。
世の中には、困っている人を助けたくて仕方がない人が一杯います。
しかし、その状況が知らされないと何もしてもらえないのです。
まず、自分の思いを人々の中に伝える事が大切です。
何かをするにはそれなりの力とお金がなければできないと
思っている方がとても多いのが問題です。

人は、無関心でいる様でいつも周囲の人を観察して生きています。
昨日も今日も同じ生活や言動を行っていれば、その様な人だと
認識してしまうのです。
どんなに心の中で思っていても、それを察してくれる人は少ないのです。
ほんの小さな行為で有っても違いを示すと、直ぐに周囲が反応するのが
世の中の常なのです。自分の思いを公表すれば、必ず誰かが興味をもって
近づいて来ます。
そして同調し合うと更に大きな意思表示と成って、世の中に訴える力が
生まれるのです。

 

この様に次々に人の輪が広まって大きな力が生み出され自分の夢が開くのが
誰にでも与えられた人生を楽しく生きる方法なのです。
今や何でも手に入る時代に成ったのですが、自分の心を本当に満足させる
ベストな物は手に入りません。
手に入れる方法は、ただ自分の石を投げ入れる勇気を持つ事です。
水に投げられた石が作る波紋が大きく広がる様に、他の人の波紋と
同調してより大きな波と成るのです。
誰にでも与えられた力を無駄にしてはいけません。
ほんの些細な事から行動し、新たなる世界に足を踏み入れた人だけが
未来の幸せを得る事が出来るのです。

 

 

 

 

 


超大型台風がやって来る!

2019-10-12 16:17:45 | 東京

いまや超大型台風が関東を目指して北上しています。
昼の明るい内から庭にある飛散すると危険な様々な物を片付け
道路に通じる扉に浸水を考えてバリケードを築きました。
まだ遠い海上に在ると言うのに、時折吹き付ける風は傘をさす事も
儘ならず、殆どびしょ濡れの状態での作業でした。
十数年前、梅雨時の大雨で床上浸水の経験があり、今回はその時以上の
悪い事態も予想され、いつになく緊張感が漂います。

目の前を流れる目黒川は次第に水位を増して、つい先ごろ避難を促す
スピーカーの声が流れました。
浸水が懸念される降水量の倍が予想され、殆ど間違いなくその時が
やって来ると思われると、妻や娘の不安は高まる一方です。
私の場合は、遠い昔危機一髪で家族全滅を免れた伊勢湾台風の記憶があり
差ほど不安と成る事もない一方、あの時と同じく油断していると
とんでもない事になる事を知っているので、明日になるまで決して
油断は出来ません。
外は時折横殴りの大粒の雨が降って傘も差せない様な風が吹いて来るものの
至って静かであり、本当にこれまで経験したことの無い様な台風が直撃
して来るとは思えません。

伊勢湾台風で甚大なる被害を被った時も、誰もがそれ程大きな被害となるとは
思っても居ませんでした。
あの時は九月の下旬であり、秋の気配が漂っていた頃であり、晴れた日は
秋晴れの真っ青の空の下は黄金色の稲の穂が豊作を期待させていました。
大潮で満潮と重なっていた時も今回と同じであり、夕方暗く成る頃から
猛烈な風と雨が古い田舎の家をきしませていました。

台風が通り過ぎた午後10時頃、辺りが静かになった事も有って、
皆座敷で就寝する事と成りました。
母屋の裏の風下になる平屋の大部屋に近所から避難して来た親戚と共に
2家族が部屋いっぱいに布団を敷き、子供達は明日にまた遊べるからと
早く寝る事を促されました。

寝る前に私と父は手を繋ぎ、母屋までの長い廊下を静かに歩きます。
既に寝ている者達を起こさない様に玄関に置いてある踏み台の上の
百目ロウソクの火を消しに行くのです。
100年以上になる我が家は至る所が老朽化していて、そっと歩いても
廊下の至る所からきしむ音が聞こえます。
玄関に来ると大きなロウソクが半分ほど溶けていましたが、まだ明るく
縁先を照らしています。

ロウソクの火を消そうとしたとその時、父が大声で叫びました。
堤防が切れた!!
自分の下駄が黒い水に浮いてぐるぐる回っています。
玄関の隙間から縦に水が流れ込んでいます。
急いで廊下を走り奥の部屋へ飛び込み、寝ている全員を
叩き起こし階段まで走ります。
廊下のきしむ音や雨戸が押さ膨らみ畳が浮き始める中
何とか全員が二階まで駆け上がると、雨戸が破れ
真っ黒な水が流れ込んできました。

ほんの一分ほどでしょうか、天井ぎりぎりまで
黒い水が押し寄せ、誰もが最後を覚悟しました。
二階に挙げたのは、翌日の為に準備していた電気釜一つ
でした。
全員腰ひもや縄で縛り、流されてもバラバラにならない様に
固まって手を合わせました。

窓の外は漆黒の闇で後30センチほどで自分達の所まで
水が到達しそうな勢いです。
懐中電灯で照らそうも目の前の家はすでになく、まるで
川の中に家が建っている様です。
窓の外に向かって助けを求めようも、流れる川の音しか
聴こえません。

しばらくすると、何処からか助けを求める声がします。
急に目の前に大きな影が現れると、それは屋根の部分で
何人もの人が摑まっています。
助ける事も出来ず下流へ流され屋根が突然水の中に
引き込まれて行きました。

屋根に摑まっている人達がパラパラ落ちて行く様は
今でも思い出されます。
翌日は快晴で抜ける様な青空、何機もの自衛隊のヘリが
周囲を飛んでいるのが見えました。
しかし、それから一か月、地獄の日々が続いたのです。

今でこそそれ程の大災害は起こらないと思いますが、
近年想定外の事が当たり前に起こります。
今回の台風がどれ程の被害をもたらすか、明日に成って
状況が解るにつれてまた悲しいニュースに心が痛むと
思われます。
近年、日本は災害列島とも言える程全国規模で災害が
頻発しています。
傷がいえない内に更なる災害に見舞われている地域も多く
日本国民誰もが被災者と成る可能性も高く成っています。

現在、妻と娘はバッグに最低限の生活必需品を詰め込んで
避難の準備をしています。
その時は刻々と近づいています。
願わくは、何のトラブルも無く被害を受ける事無く
明日が迎えられる事を願わずにいられません。
妻たちが避難した後、出来るだけ家の中を片付けて
避難するつもりです。
庭の入り口と玄関に水止めの土嚢をつくったものの
実際に防げるかは自信がありません。
身の危険を感じる前に避難する様にこれから準備します。

 

 

 

 

 


人類の幸せも地球の未来も、ほんの限られた人達によって決まる

2019-09-26 15:50:27 | 東京

私達は誰しも、自分自身の考えで毎日を生きていると思っていますが、
自分の行動も考えも全て誰かの考えによって左右されているのです。
人類が地球の支配者と成って全ての生き物達の頂点に立っていると
言われていますが、実際に頂点に立っているのはほんの一部のごく
限られた人達なのです。
そして、その他の絶対多数の人間は、彼らの考える社会の一部と成って
何をするにしても思い通り動かされていると言っても過言では有りません。
20世紀になって、世界的な民主活動が高まり、人類は平等であると言う
考えが広がりましたが、自分の考える様に自由に行動が出来る社会となった
とは言え、自由と思って生活をしていても、社会で生きる事は常に誰かに
管理し続けられるという事なのです。

この世の中は権力を有するごく一部の人達の我儘によって成り立っていて
多くの人達に様々な権限を持たせると言っても、その背景には必ず
支配者たちの利益と成るシステムが組み込まれているのです。
最新のファッションを纏って都会の街を闊歩する若者達も、その姿は
既に何年も前から計画されていて、最も収益が得られる様にメディアを使い
人々に公表しているに過ぎないのです。
毎年メディアに登場する最新のファッションや流行も、殆どが仕組まれた
意図的な考えのもとにごく一部の人達が考え出したものなのです。

とかくこの世は全てが社会を支配する様々な分野の人達の目論見で出来ていて
便利で豊かな暮らしと言っても、それは、人々が想像もできない程の利益を
得る為の一部の方々の策略と言えるのです。
確かに有識者で有ったり様々な分野に長けた人達が考える事は、多くの人々の
生活を豊かに便利にすると言えるのですが、提案される方法以外にも、
数知れずのもっと楽しく豊かな生活が出来る方法があるのです。
アイデアと言うのは人の数以上あるものであり、ほんの一部の人達の考えに
盲目的に従うと言う事は、大多数の人類にとって良くない事であるだけでなく
莫大なる利益を得ている人達にとっても決して良い事では無いのです。

人類の歴史を見ても、いつの世も支配者と大多数の隷属する人達で社会は成り立ち
人々の生活はほんの一部の人達の我儘によって翻弄されてきました。
支配する立場と成れば何でも思うが儘に出来ると言う事実が、歴史上何度も
世界中の人々を苦しめ、人々の欲望は、如何に支配する側になるかが夢であり
生きる事の目的であるかのように思われて来たのです。
戦争をして武力によって支配するだけでなく、日常的にも如何に他人の上に立って
権力を誇示できるかが求められ、いかなる場に於いても人々の争いは尽きる事無く
人類の歴史は人間の欲望の歴史とも言えるのです。

しかしながら、これ程までにも文明が発達し、人々の生活は究極の豊かさと便利さを
手に入れられる様に成ったにもかかわらず、いつまで経っても心が満足することなく
常に欲求不満の状態が続いているのは如何なものでしょうか。
次々に欲しいものを手に入れてもその終わりは無く、多くの物を手に入れるにつれて
益々自らの存在価値が薄れてい行く方が多く成っています。
一部の支配者層によって作られた近代国家は、人々に夢の様な生活を提供したのですが
その価値観は決して多くの人達を満足させるものではなく、より経済的に豊かな生活を
求め続ける事しか喜びを感じられない人々を多く生んでしまったのです。

今や日本人の家庭の中を覗けば、溢れんばかりの便利グッズに溢れ、人が幸せに生活
する空間と言うより、手に入れた様々な欲望の品物の置き場所と成っているのです。
手に入れた喜びは一瞬で色あせ、更なる欲望の品物を手にする事に心は移って行きます。
まさに消費経済社会を作った人々の思うが儘の生活を強いられる事と成り、消費者として
彼らを豊かにする為の一生を送る事を強いられます。
目先の喜びにしか幸せを感じない大衆は、支配者たちの思うが儘に動く打ち出の小槌であり
日々膨大なる利益が彼らの元に流れ込みます。
この仕組みは、人類の歴史に於いては、いつの時代にあっても同じ様な仕組みであり、
人間が人間を支配する構図は人類の生き方の象徴とも言えるのです。

所が、近年、我々の生活に貧富の有る無いに関わらず、人類全体にとって大きな問題が
生じている事が気になります。
例えごく一部の人達の支配であっても進化して来た人類の歴史が、今や未来を描けない様な
深刻な事態と成っているのです。
先日、国連の場で子供達が自分達の未来を愁い、涙ながらに訴えていましたが、私達が
思っている以上に地球の大自然は破壊され、この先人類の豊かな暮らしが保障されない事態が
起って来ているのです。

最も問題と言えるのは、もちろん地球温暖化が挙げられますが、この事は子供達が訴える
までもなく、解決の糸も見つけられない状態と言えます。
何故一向に問題が解決される事無く悪化の一途を辿っているかと言えば、この原因の殆どが
地球を支配する一部の富裕層によって作られているからに他なりません。
子供達の未来が保障されず、今生きている支配者的な大人たちの我儘が地球全体の生き物に
更には人類にも破滅的な危機を齎していると入れるのです。
この問題に対し、アメリカを代表とする温室効果ガスの大量放出を行っている国々は、
本当に解決する意思はなく、より経済の発展を望む発言が多くの人達の心を逆なでしています。

このままでは、明かに人類だけでなく、地球上に住むあらゆる生き物が絶滅の危機に瀕して
しまう事は否定できません。
可哀想なのは、まだ幼い子供達がこれから生きて行く将来に夢も希望も持てない事です。
国連で訴えた子供達の声は、世界中の子供達の声であり環境の悪化に晒されている多くの
人類の声と言えるのです。
最早、議論をするまでもなく事態は悪化している事を世界を支配している一部の人達は
理解し、早々に英断を下さなければ成りません。

経済的発展が滞っても、人類と地球の未来を守るために何をすべきか、考えるまでもなく
実行に移さなければ、今や全くの猶予も無いのです。
また、支配されている殆どの人類も、自分達の未来を考えるならば、消費を主体とした生活を
大きく改める必要が有るのです。
地球環境を破壊したのが人類であるならば、元に戻すのも人類でしか出来ないのです。
今現在豊かな生活を行っている人達も、本当の豊かさは何なのか、もう一度よく考えて
子供達の為にも、新たなる生き方を選択する事が必要と言えます。