めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

台風がやって来る!

2018-09-30 17:35:38 | 日本人

今日も列島は巨大台風の襲来に怯えています。
近年、台風や集中豪雨は特別のものではなく
被害を忘れる間もなく、次々にやって来ます。
かつて、災害は忘れたころにやって来ると
言われていて、被害を受けて慌てて日頃の備えを
反省したものですが、最近は、災害は、けっして
特殊な物でなく、誰もが明日にも被災する
可能性が高い時代となったのです。

よく、時代が変わったと世の中の事を言いますが、
今や地球環境が、日本の気候が変わってしまったのです。
しかしながら、多くの方が、異常気象と言うように、
いまだ、かつての温暖な時が戻ってくると信じています。
30年ほど前ならば、最近の荒っぽいお天気は、まさに
異常気象と言えるのでしょうが、昨今は、穏やかな
日本の四季を感じられる日々が懐かしく思えます。

そう、もはや、日本の四季は過去のものになりつつあります。
幼い頃から、人生の半分以上を素晴らしいに日本の四季に
育てられてきた高齢者たちは、残り少ない人生を、
日本中の自然を訪ねて全国を渡り歩き、遠い良き時代を
懐かしむのです。

しかし、現代に生きる子供達若者たちは、素晴らしい
日本の四季を体験できません。
生まれた時代が、誰にとっても最も相応しい季節と成って
将来懐かしむものと言われますが、近年のように
毎年、異常気象に悩まされて、災害に怯える思いでは
決して素晴らしい思い出とは成りません。

私たち人間は、生物学的にはとても脆弱な生き物ですが
これほどまでに進化して、地球を支配するまでなったのは
いかなる時代に於いても、自分たちの置かれた環境に
素直に立ち向かい、努力を重ねてきたからです。

ところが、近代、私達人類は、大自然の富を、全て
人間が独占することを目指しました。
経済的豊かな生活をする事を至上の目的として、
生き物の頂点となるべく、全ての生き物の命の糧を
奪い去るまでに成りました。

この事は、化石燃料を手に入れる事で長足の進歩を遂げ
人類のテリトリーは、全地球に及びました。
しかし、私達人類は、地球の生き物たちの食物連鎖の
一つの生き物であることを忘れていたのです。

私達人類が、地球環境に与えた物、それは、すべての
生き物たちにとって生活と命を奪うものでした。
過去100年に絶滅した生き物の数は、かつて、恐竜が
絶滅した生物大絶滅の時代をはるかに上回る規模です。
すでに、第六の生物大絶滅が始まっているするとする
学者も多くいます。

当然、この危機を招いたと言えるのは人類なのですが、
現実に、この激動の時代に我々は生きているのですから、
はっきりと、この状況を理解し、災害が当たり前の時代に
災害が誰にでも降りかかる事を前提とした、国民全体を
守る国策を考える事が重要です。

つまり、災害に対して、全ての国民を守る社会保障を
確立することです。
災害に見舞われるたびに、被災者対策を考えている様では
これからの時代は生きては行けないのです。
この事は、近い将来、超高齢者社会が来て、高齢者福祉が
大問題となる事を解っていながら、国民にその対策を委ね
日本の高齢者を苦しめる結果と成ってしまっている今、
全ての国民に襲い掛かる災害に対して、いまこそ、
抜本的な対策が求められるのです。

経済的に豊かな人達をまもる政策を行い続ければ、
いずれ国民の多くの生活が破綻し、日本は、日本人同士で
大きな確執を生むことになるかも知れません。
すでに日本社会は、経済的豊かな人達を生かすための
社会構造と成っていて、消費者として位置づけられた
大多数の国民は、大災害に見舞われても、自分たちを
守る事も、災害から復興することも自力では出来ず
ひとたび被災すれば、一生その苦しみを背負い続けねば
ならないのです。

つまり、日本社会に於いて、どの階層にいて生活しているかで
将来、災害に見舞われた時の被災レベルと復興レベルが
決まると言っても過言ではないのです。
今の日本社会に於いて、豊かな暮らしが出来るのも、災害から
どれだけ身を守れるかは、自分が置かれた環境で決まると
言える時代と成ってきたのです。

台風や地震と言った広域災害を受けて、誰もが同じように
苦しい復興の日々を過ごしているかと言えば、実際は
人々のその後の生活は、社会環境で決まると言ってもよく
メディアは、より不幸な部分をとらえがちですが、
復興レベルは、人によって驚くほど違っています。

ニュースソースとしては、より悲惨で苦しい生活を
強いられている被災者を取り上げますが、現実は
やはり、苦しむ国民は、普段の生活でも苦しい国民であり
日本の社会構造は、災害に於いても、豊かな人達は、
いち早く復興し、日々の生活に苦しむ人たちは、より
苦しい日々を送らなければならないのです。

民主主義社会と言うのは、大多数の賛成をもって
物事が薦められ、国民の殆どが幸せであることが
国家を進める条件と言えます。
しかし、今や、国民の大多数が日々の生活に苦しみ
外見的な豊かさを演ずることに疲れています。
社会的に豊かでなくても、豊かであるようにしなければ
生きて行けない現代社会は、多くの国民が顔で笑って
心で泣いているのです。

この弱者の心が解らない政治家が多く、彼らの顔を
向ける方向には、常に、経済的に豊かな人々がいて
自分たちの興味の対象は、彼らもより豊かな生活です。
政治家としての使命は、いつの間にか私欲にとって代わり
何時まで経っても国民は幸せに離れないのです。

いよいよ紀伊半島に台風は上陸し、あと数時間もしないで
関東地方も暴風圏に入ります。
全ての交通機関が止まり、ニュースは絶え間なく警報を
流しています。
台風はスピードを増して、日本列島を北上しようとして
居ますが、その勢力は衰えず、明日になれば、またもや
各地で大きな被害が伝えられるでしょう。
いつの日か、どんな災害に見舞われようと、安心して
明日を迎えられる国になる事を心から願いたいものです。

 


満たされない気持ちが人を不安にし凶悪にする

2018-09-28 17:06:12 | 日本人

不安を取り除いてくれるのは、人の気持ちである事を
現代人は忘れがちです。
経済発展を遂げた日本であっても、国民の不安は
消え去る事無く、年々増していると言っても良いです。
風雲急を告げると言っても良い程に、国際情勢には
不穏な空気が漂っていて、我が国の立場も、極めて
微妙であり、将来、世界で如何なる状況に立たされるのか
全く予想が立ちません。

世界における日本の在り方の問題も有るのですが、
日本に住む国民の、日本人としての在り方に、
誰もが不安を抱き、これと言って明るい未来を
確信できる人は少ないのが問題です。
一体何のために働いているのか、経済的に豊かと
なっても、不安が消え去る事は無く、日本国民は
一応に日々難しい顔をしています。

この事は、経済的なレベルに関係なく、日本人は
共通の不安を抱いていると言え、それは、社会に対する
不信感に他なりません。
自分を取り巻く人々に対しても、社会生活を行う上での
やり取りは有っても、その存在価値は、街中を歩く
赤の他人と何だ変わらないのです。

この事は、集団における孤立化の高まりを示していて
例え人々で溢れる大都会に住んでいたとしても
誰もが、自分の存在を認めず、自分自身も周囲の人を
まるで空気の様に感じているのです。

文明が高度に発達し、個人的要求が、他人を介さなくても
ネットを通せば何でも思い通りと成り、便利に成った一方
個人としての生き方が、誰にも評価されず、果たして
正しい判断であったのか行動であったのかが、自己判断で
行わなければいけない事に、他人から余計な事を言われない
というメリットの反面、自分の行った事が正しかったのかの
判断が出来ず悩むのです。

私達は、日頃、自分一人の考えで生きている様に見えて
常に第三者の評価を判断基準としています。
その為、世の中の動向や流行に敏感で、それに準じて
生活方式を変えている事が多いのです。
テレビなどのマスコミからの情報に左右されやすく
自分の行動を決定しているのは、様々な社会評価である事は
とても多いと言えるのです。


日常生活のみならず、仕事に於いても、周囲の状況に対する
自己判断である事が少なく無くて、何でも自分で決めている様で
実際は、多くの社会評価によって、自分の行動や考えが
決定される事が多いのです。
しかしながら、何でも手に入る現代社会は、思い通りになると
思える一方で、自分の行っている生活や仕事に対しての
評価が得られず、果たして、自分の生き方考え方が正しいのか
判断に苦しんでいる人は、世代を問わず増えているのです。

中には、何をしても思い通りになり、思い通りの生活が出来ている
と思っている人もいますが、その思い通りに生きて来れた事自体が
果たして正しかったのか、例え成功者と言われても、大きな不安を
抱く人もいるのです。
多くの方が、何をしても思い通りに成らず、苦労して人生を歩んで
いるのですが、誰かに道を阻まれたり、批判されたとしても、
いかなる道を歩めば良いかというアドバイスは得られず、
単に、社会評価を得ただけで、何だ進展はしていないのです。

多くの人と人との関わり合いは、利害関係は有っても、対人的な
相手の心を左右する関係では有りません。
つまり、誰もが、個人的な利益には関心は有っても、他人に対しては
出来るだけ立ち入らず、単なる社会評価しか出来ないのです。
それは、現代社会の特徴であり、誰もが、被害者にも加害者にも
成りたくないとしているからです。

小さい時から、他人より秀です事を良しと育てられて来た事から
自分の利益に成らない所で、人と関わらない様になっているのです。
まるで評論家の様に、理路整然と、批判する人は居ても、それが
相手の生き方考え方に対する考えではなく、世の中の通念として
話す事しか出来ないのです。

人の気持ちを考えるよりも、自分の身の安全を図る事が第一であり
目の前の人が溺れていても、手を差し伸べないで、何故そのような
状況になったのか、溺れている人を窘める事が先に成るのです。
何も考えず、まず、手を差し伸べ、助ける事が人間として先決です。
しかし、人としての優しさが持てない現代人が多いのです。

つまり、対人的な教育が成されず、人と競い打ち勝つ事しか習わず
人の気持ちを感じる心の成長を怠って来た事に因るのです。
これまで、自分を助けて来たのは、自分自身を高める為の努力であり
人とは関わらず成長して来た事で、様々な場で、人と関わる術が
解らないのです。
対人的トラブルが有ったとしても、その解決法は、常に自分の関わる
情報でありネットワークであり、その時に相手との関わり合いは
第三者の客観的判断に任されます。

極めて冷静に処置が成されますが、自分の感情は、全く相手とは
繋がる事無く、相手の心情も客観視でしか出来ません。
あらゆる対人関係がビジネスワークの様に、情報処理になって
益々、対人関係が希薄になって行きます。
同じ利害関係をもって組織で働いていても、自分の役割として
その場にいるのであって、周囲の人は、街を歩いている人達と
何だ変わらないと思っている人が増えています。

しかし、自分の処理能力を持って、あらゆる仕事を熟したからと
言ったとしても、その評価は、自分の心を満足させなければ
具体的な労働力では満足できないのです。
しかしながら、多くの仕事を行った事の評価は高いとしても
それを行った個人の人間としての評価は無いのです。
つまり、社会的経済的評価は、人間評価ではないのです。

人は、自分自身の価値観を認められて、この世に生きている意味を
感じられるのです。
どんなに豊かな生活をしても、膨大なる仕事をこなしたとしても
人間の価値として誰も認めてくれなかったら、その寂しさは
はかり知れません。
現代社会に於いて、日本人の多くが、自分の頑張った事に対しての
心への評価や労りを感じられず、常に、何のために頑張っているのか
心を痛めているのです。

日本社会は、何かにつけ人を批判する事は長けても、人の気持ちを察し
癒す力を持っている人が非常に少ないのです。
人は、お互いに、生かし生かされ、癒し癒されて、生き甲斐を見つけます。
どんなに社会的に地位が有る人であっても、個人的な心の中を理解し
他人から癒されなければ、自信をもって生きていけないのです。

どんなに辛い事でも、誰かの為にと思い、誰かが自分の事を信頼して
いてくれると思うからこそ頑張れるのです。
しかし、信頼してもらう為には、他人を信頼する事が出来なければならず
自分の気持ちだけを癒そうとする事から、他人から無視されると
言えるのです。

現代人は、人の気持ちを察し、その人の心を癒す術を持ってない事が
いつも孤立して、寂しい人生を送る原因ともなっているのです。
社会的地位のある方や、政治家が、人の上に立ったとしても、
多くの国民を喜ばせる事が出来ず、自分の欲望の果てに詰まらない
不祥事を起こしたりするのは、たとえその道のプロであったとしても
人間としての価値は、下手な言い訳と保身の言動行動で、誰もが
呆れかえる事からも解ります。

とは言え、彼らだけでなく、日本人は、経済的豊かに成ったにせよ
人間としての大切な成長を忘れて来た事は事実です。
自分さえ良ければ、他人よりも豊かな生活をしさえすれば、
幸せな人生が送れると教えた側も習った側も、ともに寂しい人生を
歩んでいると言えるのです。

どんなに豊かな生活をしていても、しょせん人間は、パンツを履いた
猿に過ぎないのかも知れません。
ただ問題は、お腹いっぱい欲しい物を食べたとしても、それ以上、たとえ
他人の物でも手に入れなければ気に要らないのは猿以下とも言え
お互いの気持ちを察する事が出来なく成れば、核ミサイルのボタンを
押したくてうずうずしている連中と何だ変わらないのです。

 

 

 


対人関係の大切さを学ばなくなった日本人

2018-09-27 12:52:27 | 日本人

勝ち組、負け組とは、まるで戦国時代の戦いの最中の日本の様で
民主主義国家と言われる現代日本に於いては、余り、好ましい
考え方とは言えません。
今や、世の中は、より経済的に豊かに成った者が支配できる
地位や財産名誉を勝ち得た者は、自分より下と見なした者に対しては
何でも我儘が言える時代と成ってしまいました。
人としての優しさや思いやりは、いつの間にかに消え失せ、ただ外見的な
豊かさをもって人の価値とする考えが、世の中全体をギスギスとした
息苦しいものに変えています。

どんなに正しい事を訴えようと、社会的な力をもってねじ伏せる事は
当たり前であり、力を持つものが正義であるかのような社会になっています。
民主主義とか自由平等というのは、いつの間にかに死語となってしまい
世の中は、格差差別によるクラス分けが行われ、常に、社会的に優位と成った
豊かな生活を有する人達が、より豊かに成る様に作れれています。

日々の暮らしにあくせくする多くの庶民は、与えられた、常に消費を促される
生き辛い社会で必至に耐えて行くしか有りません。
表向き華やかな都会は、大金持ちの敷地を散策している様なもので、全ては
自分とは無縁であり、そこで楽しむには、常に、浪費するようい仕向けられ
豊かな暮らしをしている様な錯覚を抱かされています。

国民は、国に守られ、幸せな生活をする権利があるのですが、多くの人は
一部の豊かな人達の生活を守る為に働かされているのです。
先進国の豊かな暮らしを満喫している様で、実際は、日々の暮らしに苦しみ
将来を危惧しながら生きて行かなければ成らない国民は、刹那的な喜びは得ても
未来へ続く安心安全を感じる事は有りません。

この国を支配している人達は、自分達の未来を心配しなくていい人達です。
それなりに不安はあるとはいえ、多くの国民に比べれれば、他愛もない事です。
怪我を仕様が病気に成ろうが、案ずる事の無い生活を手に入れている人達が
病気すら出来ないと必死に働いている人達の気持ちが解る訳ないのです。

例え、国民の代表と言われる政治家と言え、誰もが、国民の為に身を削って
政治を行っているかと言えば、多くの場合、NO!と言わざるを得ません。
素晴らしい弁舌を行えても、それは客観的知識であり、ただ政治家の仕事の
ノルマを果たしているだけであり、自分の為の仕事である方が多すぎます。

選挙の時だけ国民に向かい合い、歯が浮く様な甘い言葉で煙に巻いたとて、
国民生活が現実に良くならなければ、彼らは政治家として無能と言えるのです。
いまや、国を代表する人達の能力は己のパフォーマンスに向けられ、政治家
というより政治屋と言う自分達の利益追求の為の政治が目立ちます。

国民から吸い上げた血税は、ほんとうに国民が一生懸命働いて、何とか提供した
汗の結晶であるという意識は程遠く、その税金で自分達の給料が上がる事しか
興味が有りません。
命を懸けて国民の為に政治を行うと言った政治家は数知れずいましたが、
いずれも、口だけのパフォーマンスであり、誰一人、言葉通りの仕事をした人は
記憶に有りません。それ以上に、彼らの怠慢と保身が目立つばかりでした。
国民は、見てくれの豊かさでは本当に満足は出来ず、まして、幸せに成る
というのは程遠い事なのです。

民主主義古国家というのは程遠く、民主主義の衣をまとった経済的独裁国家と
言うのが正しいと言えます。
日本人が世界中に誇れる豊かな人間関係がいつの間にかに常に己の利益しか
考えられない守銭奴の様な国民が増えた事は、国民が悪いのではなく
その様な社会に子供のころから仕向けた、自分の利益しか考えられない政治家と
日本をリードする人達の欲望の結果なのです。
未来を築き、日本を担っていくべき若者達を、自分達の社会的地位を保つための
道具に使うよう教育して来た事が、日本社会全体を殺伐としたものに変えたのです。

ビジネスは厳しいもので、他人の事を構っていては生きてはいけないと叫ぶ人もいますが
その結果どんなに豊かな暮らしを手に入れようと、人間関係を損ねていては、いずれ
誰かに裏切られるか、寝首をかき切られる事になりかねません。
豊かな生活を手に入れれば入れる程、他人が信じられなくなる傾向が有ります。
それは、豊かな生活が自分だけの豊かさに偏ってしまい、自分の豊かさの陰で、
多くの人の苦しみと涙が有る事を知らないからです。

幸せとは、自分が幸せと感じる時は、自分の周囲の人達も同じく幸せに感じなければ
意味はが無いのです。
多くの日本人が、個人的な幸せを目的として、いつまで経っても心安らがない人生を
送らざるを得なくなっています。
どんなに豊かな暮らしをしても、自分の財産や家族のセキュリティを考えないと
安心して生きていけない人が多いのです。

日本の昔の家屋は、普段から鍵を掛けないでいる家庭が普通でした。
今でも、田舎に行くと、寝る時以外は、鍵を開けたままの民家は多く見られます。
近所の人が勝手に家に入って来て、何かを借りて行く事も珍しく無く、地域の人を
心から信頼しているからこそ、何の不安も無く、家も心も開け放っていたのです。
今の時代、特に都会に於いては、その様な事は絶対に考えられないのですが、
日本人の心は、それ程にも、他人に対して信頼を寄せ、思いやりをもって
生きていたのです。

今や、何でも手に入り、他人と協力しなくても生きていける時代に成りました。
しかも、社会的に地位が有れば、それだけで見ず知らずの人に対しても我儘ができ
経済的に豊かであれば、何でも思い通りに出来る様に成ったのです。
他人と関わる煩わしさも無く、欲しいものが手に入る事は、相手の思いを考える
必要もなく、自分の欲望だけを満たせるのです。
しかし、この事は、人間関係に於いて多大なる迷惑やストレスを与える事になり
その結果、良い思いをしている人に対して、様々な報復が行われるのです。
世界中で頻発する内戦の原因も、一方的な利益の搾取である事が非常に多いのです。

日本人は、お互いに、相手の事を思いやる事で、お互いの幸せを考える民族でした。
それが、いつの間にか、経済的に豊かな国になった途端、自分の欲望のみを求める
我儘な民族になってしまったのです。
マスコミも、自己主張できる人を優秀と決め、心の叫びを上手く言い表す事が出来ない
傷ついても声を上げられない人達を抹殺してしまいました。
日本中に、テレビタレントの様に、自分の欲望を主張する人を良しとする社会を生み
経済的力だけでなく、人々を押さえつける力を持つ人を社会の前面に押し出し
少しでも、社会的に地位が有る経済的に豊かな人を正義とする社会を作ったのです。

この事は、自己主張をし、自分の欲望を通した者が人々を支配できるとする、
独裁社会を創り上げる原因ともなっているのです。
まるで相撲社会の様に、番付が一つ上がれば、全ての環境が変わる様に、少しでも
経済的に豊かに成り社会的地位を成せば、下の者や周囲の人達に、気を遣うことなく
我儘が出来ると言う風潮を世の中に広める事になったのです。
しかしながら、この縦社会が世の中の基準となって来ると、まるで下克上の様に
人間関係は簡単に主従が入れ替わり、如何に自分が上に立つかの争いは
対人関係を、殺伐としたものに変えてしまうのです。

人の価値を、経済的価値社会的価値に変えた途端、人間関係は地に落ち、
思いやりも気遣いも消えてしまいます。

お互いに相手の欠点を見つけ足を引っ張り合う人生は、いつも心安らぐことは無く
自らも、自分の価値を経済的価値としてしまい、自分自身の人間的成長を失って
対人的に益々孤立する事と成るのです。
豊かな暮らしをしているのに、心の底から許し合える人がいないと言う人が多いのも
現代社会の特徴でも有るのです。

日本人は、経済的に豊かになったものの、多くの人が、孤立する事になったのです。
どんなに豊かな生活をしても、自らの心を認めて信じてくれる人がいなくなったら、
自分の価値は、持っている経済的価値でしか有りません。
つまり、人としての価値は無いと言う事です。外見的な豊かさを取り除いたら
誰も寄り付かないと言う現実がとても多いのです。

私達は、何をもって幸せとしたらいいのでしょう。
その答えを経済的豊かさとした事が、日本人を不幸にしてしまった原因と言えます。
今や、自分の主張や欲望を語る日本人は多くいますが、他人の気持ちを感じられる
豊かな心の持ち主が激減しています。機有らば、相手を倒したい、他人よりも秀でたい
といつも目をぎらつかせている日本人がとても多く成りました。

自分の夢を見る事将来を語る事はとても良いのですが、その為に、他人を苦しめたり
傷つけたりする事を何とも思わない事が問題なのです。
他人を傷つければ、同じように傷つけられるのが世の中です。
人は、キャッチボールをする様に、相手から与えられた感情を投げ返します。
自分の夢を果たそうとする為に他人に嫌な思いをさせれば、同じように報復されるのが
世の中の仕組みとも言えます。

どれだけ他人を幸せに豊かな気持ちにさせる事が出来たか、というのが成功者の条件です。
その為には、自分の思い以上に他人の思いを理解できる力を育てなければ成りません。
現在の学校教育に於いて、もっとも足りない部分であり、より有名校に進学するために
最も削り取られた部分と言えます。

建前だけの道徳教育は何の役にも立ちません。学校だけでなく、家庭内に於いても
生きる為の様々なルールやマナーが教えられていないのが現状なのです。
というより、大人たちがそういった教育を行けて居ない事から、如何に子供を、人間として
立派に育てるかが解らないのが実情です。
学校の先生も塾の先生も、有名校に入れる技は良く知っていても、子供達を人間として
立派に育てる方法を知りません。

つまり、親も、先生も、政治家も企業家も、経済的に豊かに成る術は知っていても、
人を育てる為の方法に疎いのです。自分の欲望を如何に叶えるかと言う事に関しては
天才的能力を持っていても、個人的な人としての能力を育てる事には無能と言えるのです。
人間の価値を、より豊かな生活が出来ると言う事に於いている限り、人々は永久に
幸せに成る事は出来ず、常に不安が付きまとう人生を送らなければ成らないのです。

 

 


日本社会では正義は成立せず、権力が制する事実

2018-09-26 15:14:45 | 日本人

日本社会における正義とか真実は、権力を有する者によって決められる
と言う事が、どんなに不正な事を行っても、人々を傷つけようと
社会的地位が有れば許され、間違った事を行っても認められるとする
社会風潮に現れています。
この事は、如何に、日本社会が、様々な不正に溢れていて、多くの人が
自分の欲望を満たすためには様々なハラスメントを行い、周囲の人を
傷つけているかが解ります。

例え、マスコミに取り上げられ、連日ニュース番組に取り上げられようと
のど元過ぎれば許されるとする、長年にわたる日本社会の闇が見てとれます。
社会的不義理を行って公共の場で国民から咎められようも、制裁を受けようも
ほとぼりが冷めれば、いつのまにかに復活しているキツネやタヌキは、これまで
嫌という程見て来ました。

私たち国民は、多くの真面目に働いている人達の中から、突然変異の様に、
社会人として人間として相応しくない人が現れて来たと思いがちですが、
実際は、その周囲には、同じく暴利を貪って来たり、多くの不正を働いてい
地位を成している人が蠢いているのです。

いや、日本人はまじめで、正義感が強く、礼儀正しい国民だと言う人もいますが、
その反面、素晴らしい能力を、自分の欲望の為にだけ使って、多くの人々を
欺いている人がとても多いのです。
とても巧妙な手口で、地位や財産を確保している輩は幾らでもいて、表向き
人格者であり人々の代表であると思える人であっても、その親しみやすい顔は
幾重にも仮面と成っていて、その下には、獣の顔が潜んでいる事は珍しく有りません。

彼らに言わせれば、不正や不義理が見つかった者は、運が悪かったのであり
上手く自分達の様に立ち回って、表沙汰に成らない様に出来なかっただけであり
火の粉が自分に降りかからない様に、より一層巧妙な手を考えるだけなのです。
様々な不正を行ってマスコミのやり玉と成ったり逮捕された人に対して、
辛辣な批判を行い、如何に誠実に他人の為に生きる事が大切かと正している人が
しばらくして、マスコミに囲まれて弁解している様は珍しくありません。

人に見つからなければ、上手く罪に問われなければ、自分の好きな事を
して良いとする共通の思いが多くの名を成す方々に見られ、彼らの仕事上の
能力以上に、欲望を満たそうとする努力と能力には舌を巻きます。
ただでさえ、日本国民は、他人を蹴落としても社会的地位を得る様に育てられ
日本経済社会を作って来たのですから、誰もが、マスコミの槍玉と成る条件は有り
ただ、誰かに対して社会に対して不正やハラスメントを行わない事で
発覚を免れている事が多いだけなのです。

その為、国民同士の信頼関係は、益々疎くなり、たとえ家族であっても友達であっても
心から許せる関係に成らない事が多いのです。
多くの人々が、人間関係に計算がはいり、他人の為に何かを行う時には、必ずと
行っていい程、利益を求めます。表向きは、親し気な心の交流を感じさせても
何かを手に入れる時は、如何に自分の利益が増えるかが第一と成ります。

そんな極端なと思われる方も多いかも知れませんが、私達日本人が子供の頃から
身に着けて来た知識や考え方は、誰かと比較して優るというものです。
学校成績にしても、自分の実力として優れた結果であっても、誰かと比較すると
その価値観は大幅に落ちる場合があり、常に、目に見えぬ敵と戦いより勝る事を
人生の目的とした教育を受けて来ているのです。

当然、自分の利益となるようなものが有れば、反射的に手を出す人が多く、
あらゆる社会層に於いて、その欲望は、子供の頃から変わりません。
特に、社会に於いて組織を持てば、多人数を持って利益を図る事は常識と成り
利益の為には、他の人や会社の事など構ってはいられません。少しでも気を緩め
努力を損うとたちまち他の人や組織に蹴落とされてしまうからです。

つまり、この弱肉強食的な社会で生きる為に子供の頃からの教育が有るのです。
どんな手を使っても利益を得る事は、社会的な地位を上げる事と成り、たとえ
顰蹙を買うような方法で有っても、社会的に地位を成せば、社会正義と見なされ
同じようにして地位を成した人や会社と更なる提携を持ち、より力を得られると
多くの人々は、のし上がる為の様々な不正やハラスメントを容認するのです。

どんなにあくどい手を使っても、法律で取り締まれ無ければ、全てが正当化され
例え、一時社会的制裁を受けようも、しばらくすれば、国民の多くはその事実を
忘れてしまう事から、日本社会では、やったもん勝ちという荒っぽい下克上が
頻繁に行われるのです。
現代日本社会に於いては、正義も倫理も常識も無いと言えるのです。

何しろ、自分達の生活を豊かにする為には、平気で国民を戦争に巻き込むのですから。
この社会的地位のある人たちに依る我儘な考え方が、日本社会だけでなく、日本中の
美しい自然を破壊し、公害をまき散らし、いまだに、負の遺産として国民を苦しめ
続けているのです。

この事は、決して日本だけに限った事ではなく、これまでの人類進歩の歴史は、
常に醜い争いであり、絶え間ない略奪行為でした。
地球資源に対する先を考えないエゴイスティックな消費は、今や、食糧危機と成り
地球温暖化を生んでいるのです。

人類の未来だけでなく、地球上の生き物全ての未来を失う結果になりかねない
人間のエゴイズムは、いまや、大国の居直りで、ますます、その危機感が高まります。
大気汚染を止めるどころかより一層の経済発展を目指し、自国の発展のみを考える
最悪のシナリオを選んだトランプは、地球や人類を救うどころか、大絶滅を早くする
危険なボタンを押してしまいました。

今の時代を生きるだけなら良いとしても、この先幾代も人類は命を繋いでいかなければ
ならないのです。その未来を消し去ってまでも、自分の欲望にまい進する姿は、正に
我欲の王とも言って良いでしょう。人類は、とんだ疫病神に憑りつかれたものです。
とは言え、世界規模の問題と言わなくても、日本国内に於いても、この様な、自分の
欲望しか考えられない人が何と多い事でしょう。

しかも、社会的地位を成している人や、国民を未来に導かなければ成らない人達が
平気で、我欲に身を投じているのです。知られなければ、見つからなければ良しとする
人間としてはクズの様な輩が、私達の生活をリードしていたり、多くの人達を従えて
巨大組織を動かしている事実は、日本社会がいまだに人間としての成熟が出来ず
欲望のみを目的として生きる餓鬼の様な人達で動かされている事が解ります。

しかし、中には、正々堂々と、正直に生きている人達も多いです。
人間として如何に生きるべきかを自らに問いかけ、他人との関わり合いを大切にして
生きて来た人も日本人の中に沢山いるのです。
所が、その様な生き方は、日本社会に於いては、決して生き易いものとは言えず、
他人の気持ちを察する事が出来ず、邪魔者は平気で蹴落とし、自分の欲望のままに
生きて来た者達からの様々な洗礼を受ける事と成るのです。

日本社会に於いては、正直者は損をする、というのが常識と成っているのです。
道義的に正しい事を学んでも、生きていく為には、目をつぶらなければ成らない社会が
多くの善良な日本人を苦しめているのです。
どんなに人間として正しい事を行おうとしても、それを判断するのは、欲望のままに
社会的地位を成した人達ですから、正しい事を行っているのに、制裁をうけることに
なってしまうのです。

日本社会に於いては、ハラスメントを訴えた側が、社会的に辛い思いをする事は
少なく無くて、様々な不正や悪事を働いた者達を訴えようも、逆に、社会的に制裁を受け
圧力を持って押さえつけられる事も多いのです。
権力を持つものが正義であるとする風潮が、清く正しく生きようとする人達を傷つけ
日本社会を益々生き辛い見た目だけの豊かさにしてしまっているのです。

生き馬の目を抜くという諺が有りますが、国民生活は、その様な争いの場で有っては
心豊かな国民は育たないのです。誰もが、お互いに疑心暗鬼と成って、自分の欲望しか
考えられない社会が素晴らしいはずが有りません。
しかしながら、現代社会は、社会を牛耳っている様な人達に都合がいいようにし
創られていなくて、辛い思いをしたくなければ、どんな手を使っても、社会的豊かな人達
つまり勝ち組に成らなければ成らないのです。

今の世の中のシステムを自分の為に役立てるには、経済的に豊かな地位に就かなければ
成し得ない様になっているのです。
本来ならば、国民全てが幸せであるような社会であるべきなのですが、その様な社会は
正に夢の世界であって、日本社会は、どんどん二極化を進め、豊かな人達が、貧しい
多くの国民を支配する社会と成っているのです。

社会のあらゆるシステムは、豊かな人達をより豊かにする様に、貧しい人達からは
骨の髄までお金を吸い上げる様になっています。
テレビで放映される様々なコマーシャルは、幸せで著名な人達を登場させ、同じ商品を
使えば自分も同じ思いが出来ると洗脳します。
誰もが笑顔で美しく、画面の向こうには、自分の理想とする世界が有る様に思わせます。

常に、他人よりも豊かな生活をする事が幸せであると子供の頃から育てられて来た
多くの国民は、言われるがままに餌に食いつきます。
次から次へとメディアを通じて流される魅力的な商品は、より興味をかき立て、
考える間もなく、消費者は企業の思うがままに買い求めるのです。

しかし、欲しい物だけでなく、生活するための様々な出費が国民の多くを苦しめています。
しかも、生きる為の基本的な保障をされていない国民は、常に、不安が付きまといます。
国民は、より多くの消費が出来れば幸せに成ると思い必至に働いても、安心した生活を
国から保障されていない事から、どんなに利益を得ても不安は消えません。

幸せは、心と身体の不安が取り除かれてこそ生まれるのです。
将来に対する不安、老後に対する不安、病気に対する不安、家族に対する不安と
数え上げたらきりがない程日本人は不安を背負って生きているのです。
いまや、多くの大手企業には膨大なる資産があふれています。その為、巨大プロジェクトが
目白押しであり、街の様相は大きく変わっています。

しかし、その資産は企業の発展には使われても、国民に還元される事は有りません。
国民は、いつまで経っても豊かな人達の生活を満たす消費者に過ぎず、社会は、国民から
常に利益を生む為に作られているのです。
唯一の国民の見方である政治家が、選挙の時以外国民に背を向け、更には私欲を満たして
いる現状に於いては、日本国民の多くは、決して、経済的に幸せに成る事は出来ないのです。

 

 


不安ばかり助長する日本社会

2018-09-25 12:59:21 | 日本人

今や都会の至る所で、巨大なビルが建てられていて
まるで高度成長期の時の様な建設ラッシュです。
来るべき東京オリンピックに向けて、様々な施設が作られ
街の景色も大幅に変わって来ました。
現実的に、各種企業の業績は右肩上がりと成っていて、
日本経済が、着実に成長しているのが伺えます。
世界中の投資家が日本にお金を注ぎ、今や、高度成長期の様に
ビッグマネーが日本に集まっています。

しかしながら、この著しい発展が、かつての高度成長期と違うのは
日本人多くが、この恩恵を受けていないと言う事です。
巨大プロジェクトを行う様な主要産業や大手企業の業績は
甚だしいものの、中小企業や一般の国民には、お金が流れて来ず
多くの人々が、豊かさを実感できないのです。
国民は、ただ、消費を促されるだけで、消費をする為の個人資金が
一向に増えて来ないのです。

そう、現在の繁栄は、日本国民の、経済的に豊かな人達の豊かさであり
国民の多くは、その恩恵に預かれないのが実情です。
金融緩和による企業優遇処置は、豊かな人達を潤しているものの
一般消費者には、殆ど感じられない、一部の人だけが潤う処置に過ぎません。
この事は、国全体の経済力を増しているとはいえ、多くの国民にとっては
何の恩恵とも成らず、豊かな人々が提供した、様々な消費システムを使う事で
益々、生活が苦しくなっているのが現実です。

給料が上がらないのに、支払いばかりが増えると言うのが、一般庶民の
最大の悩みであり、多くの国民が、生活が豊かに成らないとする理由です。
所得が多い少ないにかかわらず、生活する為の保障が一生守られている
と言うのが、本当の福祉国家であり、豊かな生活を送れる条件なのです。

日本政府の方針は、人々の生活を支援するとしても、保証する事は無く
多くの国民は、自分の生活は、全て自分で守らなければならず、
少ない給料や未来を保証されない生活に、常に不安を抱いているのです。
もしもの時の為に財を蓄える事が自分の命と生活を守る最大の目的と成り
国民全てが、消費を抑える傾向に有るのです。

この事は、豊かな生活をしている人達にしても、かつてのバブル崩壊や
リーマンショックの苦い経験からも、出費をしなと言う事を仕事の
第一と考え、企業に於いて、膨大なる利益を得ているにもかかわらず、
それを、一般庶民に還元する事無く、資産を蓄える事を優先しているのです。
世の中が豊かに成る為には、お金は全ての国民に流れて行く事が重要で
高度成長期は、お金の流れがスムーズであったことから、日本国民全体が
潤っていたと言えるのです。

しかしながら、現代社会は、一向にお金が一般庶民に流れず、
経済的に豊かな人達の所で止まっている事が問題です。
今や、豊かな人達はより豊かに、貧しい人達は貧しくと言う
社会の在り方としては、極めて変則的で、不平等となっているのです。
バブルで多くの資産を失った大企業や中核企業の業績は大幅に
上ったにせよ、彼らの間でお金の流れが滞っている事から、
一般庶民の生活は、相変らず豊かに成らないのです。

日本社会を支える大手企業に対する優遇措置は、街に見られる
巨大建築物の増加に見られる様に、功を奏しているのですが、
その周囲に蠢く、多くの庶民たちには、更なる消費の場を
提供されるだけで、個人的に幸せに成るとは言えないのです。

低額所得者であったり、高齢者であったりと、所謂、弱者に対する
優遇措置が非常に遅れていて、国民の多くが、日々苦しい生活を
強いられているのです。
特に、高齢者の合言葉は、ぴんぴんころり、という死ぬ瞬間まで元気で
寝たきりに成らないで直ぐに死ぬと言うものです。
これは、正に、健康に生きる意味が、個人的な生きがいと言うよりも、
病気をしないでいる事で、無駄な出費をしたくないと言う事なのです。

闘病生活を送れば、自分だけでなく周囲に大きな負担を掛ける事を
心配しているのであって、如何に、誰もが、経済的な不安から
死ぬまで逃れられないのが現実なのです。
歳を重ねても、健康でいたいと言う願いは、個人的な願いである一方
社会保障制度が日本社会では期待できない事を示しているのです。
少しでも金銭的余裕をもって老後を送らなければ、現代の日本社会では
苦しい人生を送らなければ成らないのです。

高齢者は、いつまでも健康でいて、素晴らしい家族に囲まれていたい
と思うよりも、経済的負担を如何に無くすかと言う事に主眼がもたれ
何をするにも、日常生活全てが、お金に支配されていると言っても良く
悠々自適といった、自分の事だけを考えて自由気ままに生きている高齢者は
経済的豊かな層にしか無く、殆どの日本の高齢者は、如何に健康である事が
出費を抑える事になるかが解っているからこそ、ぴんぴんころりを
求めるのです。

人は、様々な個性の元、幾多の目的をもって生きて行くものです。
その目的に対して、膨大なる資金が必要である事も有りますが、ほんの
必要最小限度のお金で済む事も有り、達成した時の満足度も、人其々
と成るのです。
国民一人一人が満足した人生を送れるには、様々なな目的を達成する為に
生き物として生きていく為の、基本的人権が守られた、経済的心配のない
生活が送れる事が大切です。

その生活を提供するするのが国家であり、その為に、膨大なる税金を
国民から吸い上げているのです。
しかしながら、その税金を還元する方向が、一部の人達だけを優先する
事に依り、多くの国民が不安な人生を辿らなくてはならない原因と
なっているのです。

自由平等の社会に於いて、国民は平等に豊かな生活を送れる権利が有ります。
一部の人達だけが優遇されている事が、一番日本社会を不安にしているのです。
このまま格差社会が続けば、当然、多くの人達の不満が募り、国内における
争いが多くなるのです。
今でさえ、多くの高額所得者達は、自分達の身を守る為にセキュリティを
一層強化し、自分達のプールした資金を流出させない様にしています。

社会は、豊かな人をより豊かに貧しい人を更なる貧しさに、と言う方向に
進んでいると言わざるを得ません。
様々な巨大施設を作ろうも、それを利用できる人は限られ、そこに投資される
膨大なる資金は、そのまま豊かな人達の懐に収まると言う構図は、現代の
日本社会を象徴するものであり、国民が、益々、二分化される事で、
人間として豊かな心を持った日本人が、次第に、経済的な尺度でしか
人を見る事の出来ない、アメリカ社会の様になってしまうかの様な
不安を呼んでいるのです。

私達の世代は、この差別社会の始まりが日本国民を苦しめる程度であったのが、
近い将来は、日本人同士がお互いを信じられず、欲望だけを目的とした
自分を守る事を先決にする、銃社会が生れる可能性が心配されます。

いまや、豊かな人達は、同じような人達と新た有る社会を作り、一般の人と
住み分けをする時代となっています。
子供達の教育も、大人に成るまで、全く違った環境で教育されるのは当たり前で
様々な環境の子供達が一緒に勉強する時代は終わったと言えるのです。

沖縄がアメリカの軍事基地と成っても、見て見ぬふりをしている様に、
今の政府や富裕層は、日本人が、二極化してしまっても、自分たちの生活が
守られれば、何の手立ても行わず、消費者は永遠の消費者と成る政治を
今後も行い続けるのです。

頑張れば豊かな幸せな生活が出来ると言うのは過去の話であり、極端に言えば
貧しい家庭に生まれれば一生、働いただけ消費する生活から逃れられず、
豊かな家庭に生まれれば、何もしなくても、一生自分の好きな事が出来る
と言うのがこれからの日本社会と言えるのです。

かつて、勝ち組負け組、と言うのが有って、経済的に豊かな層に如何になるか
が若者達の目的でも有ったのですが、これからは、戦う前に、自分が如何なる
環境に居るかで将来が決まる時代と成って来るのです。
かつては、豊かな人達は、努力する人達に大きく門戸を開いていたのですが
近年、豊かな人達は、豊かな社会の人達から人材を集める傾向が有るのです。

つまり、どんなに頑張っても、貧乏人は、富裕層に成れないのです。
もし、豊かな生活をするとしたら、自分の環境の中で、豊かな生活を求め
貧しさの中の豊かさを求めるしかないのです。
日本人全てが、働いただけ出費をしていたバブルの頃とは異なり、誰もが
保守的な人生を送る事を良しとしているのが、日本社会をいつまでも
豊かに出来ない大きな原因でも有るのです。

この分けられた社会が、今後、トラブルなく進んでいくには、豊かでない人達が
基本的人権が守られ、経済的に未来を不安視しないでいられる社会を築く事です。
豊かでない人達を富裕層の人達の様にすると言うのは現実的ではなく
経済的に豊かでない人であっても、生活の事健康の事を心配しないで生きられる
死ぬまで衣食住の基本が守られる社会をつくることです。

リーダー達は、基本的に、一般社会の生活に疎く、頭の中の知識としては
知っていても、実感としては描けない方が多いのです。
ただ、多くの施設を作り、資本を投じれば、多くの国民は喜ぶと思っているのが
残念な所であり、国民のメンタルを理解できなければ、本当の国民の望みを
叶える事は出来ないのです。

そもそも、この二極化を生んだ日本社会は、日本人が、本当に日本人にとって住みやすい
豊かな日本を築こうとしなかった、各人の欲望の元に作られた事が原因なのです。
競争社会を創り上げ、他人の事は構わず、己の欲望の為に生きる事を良しとした社会が
人々の中に差別を生み、いじめを始めとする様々なハラスメントを生んだのです。

自分の欲望の為には、他人を不幸にしたり苦しめても構わないとする風潮が
我儘で身勝手な日本のリーダーを生み、多くの国民を苦しめる日本社会を作ったのです。
組織が大きく成れば、反対する者を力でひれ伏させ、社会的力で葬り去ると言うのが
日本社会の在り方になり、人々の関わり合いも、常に利害関係が伴う事で、誰しも
他人に対して身構えなければ成らない、生きにくい国にしてしまったのです。

豊かな人達は、貧しい人達の反感を買わない様にセキュルティーをより高め、
貧しい人達は、豊かに成れば幸せに成れると、ますます、自己中心的な考えを
持つよ様になっているのです。
豊かに成れば他人が信じられない社会が人々の生活を苦しめているのです。

人間不信の塊の様な著名人やリーダー達が日本社会を担っていて、国民を、本当に
幸せに出来る訳が無いのです。
案の定、ニュースやメディアに暴露される著名人の我儘な振る舞いは、
常識からはかけ離れた、我儘で、幼稚で身勝手な行動や言動が目に付きます。
彼らは、その地位を維持するための様々な知識や術を持っているものの、
社会的な常識や対人的な思いやりに疎く、常に、自己中心的に生きて来たのが
良く解ります。

日本社会が本当に豊かに成る為には、経済的な豊かさよりも、対人的な豊かささ
自分とは違う考えを持つ他人を理解する感覚を育てる社会を作る事です。
経済的に豊かに成ったものの、他人を恐れる社会に生きる事は、争いの社会に
生きているのと何だ変わらず、心が休まる事は有りません。
他人の気持ちを察し、自分の気持ちと相手の気持ちを知る事に依って、
安心した社会生活が営めるのです。
人によって守られ人を信頼できる社会は、豊かな心を育てます。
日本人が、表向きだけ幸せの振りをしなければ成らない社会がこれ以上続けば
豊かな感性も失われ、高齢者と言わず、全ての世代が不安な人生を
送らなければならなく成ってしまうのです。