めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

国民の心を動かせないリーダー達

2018-02-28 16:53:27 | 日本人

数々の感動を生んだピョンンチャンオリンピックもあっという間に過ぎ
茶の間のスターたちが、成田空港に笑顔で凱旋帰国しました。
記録的なメダル獲得数と成り、関係者だけでなく、日本中の人達に
歓びと勇気を与えました。
ただでさえ、余り国民の気持ちを奮い立たせない近年の日本社会は
中々、この国に生まれて良かったと思わせる事が起こりません。

どんなに豊かな生活を行っていても、生きて行く事に余裕を失った
最近の日本人は、唯、他人よりも豊かな生活が出来ると言う事でしか
満足できなく成って来ました。
他人を気遣う余裕も無く、勝ち組を正義の様に思いながら、
上だけを目指す事に情熱を燃やす様は、まるで、高栄養価の餌を
待ち受ける養殖ウナギの様で、餌が投じられたら、我先に腹を満たす
自分だけが生き残る事に一日を費やしている様です。

教育が行き渡り、平均的な国民の知識量は、先進国の中でも
トップクラスと言われるのですが、その豊かな知識や経験が
自分の事にしか使われない事が多く、日本人全体の幸せに
繋がっていないのが大きな問題です。
日本を動かす政治家であっても、一介のサラリーマンであっても
基本的に、我欲を満たす事が前提であり、其々の立場に於ける仕事や
パフォーマンスを行っても、最終的には、個人的な欲望しか有りません。

昨今、政治家の不祥事や不義がマスコミに多く取り上げられますが、
この現象は、決して、政治家の質の悪さや無能さを示すものでは無く
日本中の多くのリーダーを成す方々に共通と言えるのです。
個人的な欲望を満たす事、経済的利益を期待させる事に関しては
触手を伸ばすものの、そうでない事や、他人が利益を成す事に関しては
極めて消極的であり、常に何だかの個人的な報酬を求めがちです。

人々は、子供から大人まで、積極的に自分の意見を述べる様に成り、
消極的で意思表示が上手く出来ないと言う昔のタイプの日本人は
非常に少なくなりました。
しかし、主張したもの勝ちの様な、まずは自分の欲求を前面に出し、
他人の考えを押さえつける様な会話は、かつての日本では余り見られず
自己主張ばかりが一人歩きする、つまらない人間関係が少なくありません。

テレビに出て来る人達の多くは、様々な出来事に対して、表面的な知識で
意見を述べるだけで、知識を羅列した評論家ばかりです。
余りにも内容が乏しい事から、有識者ではなく、芸能人であろうが
一般人であろうが、誰でも、感想を述べる事で番組が成り立ってしまう
何の情報も知識も得られない、何か他のニュースソースからの請負でしか
有りません。

ただ、博学であり、物知りだけでは、人間としての魅力に欠け
知識だけならば、必要なだけ、ネットで調べれば見つける事が出来ます。
今や、日本社会が一番足りない物は、正しい情報であり、個人だけでなく
国民全体を動かす共通の感情です。しかも、それらは、日本国民の未来を
明るく幸せにするものでなければなりません。

オリンピックは、何故、多くの人々を感動させるのか、それは、誰もが求める
歓びの感情をかきたてるからです。
選手にとっては、自分が勝ち得た勲章なのですが、その事で日本国民の多くが
夢や希望を持つことが出来たのです。
今や、日本社会には、人々全体を鼓舞する出来事が非常に少なく、ただ個人的に
経済性を増し、所得を増やせば幸せに成るとする、リーダー達の自分達の義務を
放棄した様な発言で辟易しているのです。

日本人は、太古の昔から、大自然と共に生き、人々がお互いを気遣って
生きて来た民族なのです。
和をもって尊し、と言われる様に、人々全体の幸せを願う民族だってのです。
個人的な欲望を煽り立て、常に競争をさせ、消費経済を優先させる様な社会は
本来苦手とする物なのです。

家庭に於いても、学校に於いても、社会に於いても、様々な対人的トラブルが
絶えないのは、日本人が長い歴史の中で育て上げて来た人間関係を無視して、
個人能力によって差をつける社会を作り上げたことが原因と言えます。
独占的階級社会の頂点に君臨する事を望む人達にとっては、理想的な
社会構造と言えますが、殆どの日本国民にとっては、極めて隷属的であり
決して国民を幸せにするものでは無いのです。

例え、この社会方針い従い、社会の上層部に入る込む事が出来たとしても
その中で、自分に優先的に便宜を図ってくれるのは、利益を目論む人達であり
いつまで経っても、自分の地位を守るために戦わねばならず、どんなに豊かで
経済的な生活が出来たとしても、心の中が安らぐ事は無いのです。
競争社会に敗れた殆どの国民は、与えられた消費経済国家で生きて行く為に
ただ、少しでも多くの所得を求めて働き続けるだけであり、勝ち組に成ったと
思っている人も、同じように勝ち上がって来た人達に足を引っ張られない様に
片時も休まる日々は無いのです。

つまり、日本国民は、いかなる生活を送っていても、幸せを実感する事無く
社会的に豊かであると認められた時、初めて、自分は、幸せなのだと、自らを
納得させるしかないのです。しかし、納得させたとしても、自分より遥かに
経済的に豊かな人がいれば、自分自身の幸せは、色あせてしまうのです。
私達人間は、自分より豊かな人を見れば、あのように生きれば幸せだろうと
心では思うのですが、いざ、その地位を得た途端、その環境は一気に色あせ
次なる上の世界を羨む事と成るのです。

私達は、他人よりも豊かな生活を競うののではなく、自分自身を満足させる
生活を見つけなければ、いつまで経っても欲求不満が募るのです。
その為には、自らの生活や行動に納得が出来る心が無ければなりません。
常に、自分自身を否定したり、不満を感じる様では、自分自身を救う事は
永久に出来ないのです。
そして、自分自身が心から喜べることを見つけなければならないのです。
人が喜ぶことは自分も喜ぶと言うのは多いな間違いであり、自分自身を
本当に喜ばせる物は、他人が持っているものでは無く、他人が認めてくれ
喜んでくれる事なのです。

正に、オリンピックのメダルは、自分が喜ぶだけでなく、他人が認めてくれて
喜んでくれるものだから価値が有るのです。
どんなに豊かな生活をしても、その生活を他人は喜ぶどころか、妬んだり、
持ち主を蔑んだりする事の方が多いのです。
何故なら、その豊かな生活が他人を豊かにしないからです。
つまり、その生活を誰もが認めていないからなのです。
私達の幸せは、本来、他人が認めてくれなければ、いくら自分が満足しても
心からは喜べないのです。

自分の幸せが、他人を幸せにすれば別なのですが、殆どの場合は、
一方的に豊かさや幸せを独占する事に問題が生じて来るのです。
今や、日本社会は、一部の企業による独占的な階級社会と成っています。
一部の富裕層の所得が、残りの国民の所得を上回っているのです。
問題は、この一部の人達が潤っている事が、多くの庶民の幸せに繋がらず
富裕層をより豊かにする社会機構が出来上がっている事なのです。

国民から吸い上げた膨大なる利益が、一部の人達の幸せに成って行く構造が
日本人の多くを不幸せにしていると言っても良いのです。
例え、彼らが、経済力が有り、高度な知識や経験が有り、人々をリードする
能力に満ちていたとしても、その事で多くの国民の生活が豊かに成り
幸せと成らなければ、意味がないのです。

つまり、日本人の国民の殆どが、富裕層を否定する事と成るのです。
国民から認められない人達が、国民のリーダーとはなり得ないのです。
例え経済的に豊かであっても、人として認められなければ、
日本に存在する価値は無いのです。
現在の日本は、国民に認められない勝ち組が政権を取り、社会を動かし
経済を担っているのです。
当然、国民からは、不満しか生まれません。
人々の上に立つと言う事は、人々に豊かさを与え、幸せを感じさせる義務が有り
その時初めて、社会的に地位が高い事を認められるのです。
上に立つ人達の未熟さ、日本人としての心の豊かさが無い事が、
これ程にも、日本社会を低迷させ、国民を疲弊させる原因なのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


格差社会が生む食糧危機

2018-02-27 13:10:49 | 日本人

今や、日本の食は、危機に立たされていると、一体どれだけの日本人が
感じているでしょう。
街に出れば、至る所に飲食店が軒を並べ、市場やデパートの地下食品売り場、
更には、マーケットを見ても、様々な食品が所狭しと並べられています。
高度成長期からバブル崩壊を経て、日本は決して豊かな社会とは言えませんが、
食に関しては、何処に行っても新鮮な食料が手に入ります。

しかも、一年間に捨てられる廃棄食品の量は、800万トンにも及ぶと言われ、
この量は、アフリカの飢餓で苦しむ国の年間食料消費量をも上回ります。
これ程食べ物が溢れていて、一体どこに食糧危機が存在しているのか、
考える事すらない日本人が殆どと思われます。

しかしながら、一家の食を任されている主婦や食品関係者は、年々、日本の食が
危うくなっている事を肌で感じ始めているのです。
一番の原因は、地球温暖化に伴う、異常気象と言えますが、この異常気象が人類に
及ぼす影響が、気象的な変化としては誰もが感じている事なのですが、この事が
私達の食にどれ程影響を与えているかが解りません。

何しろ、今も昔も、飲食店に行けば希望の食べ物はすぐ出てきますし、市場や
コンビニに行けば、常に、様々な食品が変わる事無く陳列されています。
お金さえ払えば、何でも食べられる現状に、食料が無くなると言う危機感は有りません。
しかしながら、今や、世界中で、食糧危機が起こっている事を知らなければなりません。
農林水産全ての分野に於いて異常気象の影響が、まるで、ボクシングのボディブロー
の様に、じわじわと人々の生活を圧迫し始めているのです。

近年、世界中の国や地域に於いて、戦争やテロが頻発しているのは、単に、思想的な
違いや長年の諍いからと言うだけではなく、人間生活の根本である食料が手に入らず
食を得る為の争いが起こっているとも言えるのです。
一年間に四国程の大きさの面積の土地が砂漠化している事実も有り、人類は、より豊かな
生産性豊かな土地を求め争い始めたと言えるのです。

ここ数年、日本近海に大量の外国船団が集結するのも、豊かな水産資源を求めていて
背景に食料が不足している事実が有るのです。
東アジア諸国の人口の爆発に伴う食糧不足は、異常気象により益々深刻さを増し、
かつて日本に大量の魚介類を輸出していた国々も、自国の食料自給の為に、輸出量を減らし
足りない食料を、かつて日本が世界の漁場を目指したように、日本近海に求めたのです。

今、日本の漁業は、危機的な状態と成っています。
漁獲量は激減し、汚染や乱獲で、近海漁業は壊滅的となり、多くの漁業従事者が廃業に
追い込まれています。
日本の領土ともいえる漁業専管区域の水産物は、ことごとく激減し、大型船団を有する
大規模漁業経営者以外の中小の漁民たちは、日本の平均的サラリーマンよりも低い所得で
苦しい生活を強いられています。

黒潮親潮と言った海流に乗って移動する多くの商業利益となる魚は、専管水域の外にも
回遊するとあって、日本船団が漁獲する以前に一網打尽にしてしまう為、四季折々の
大衆魚の大幅漁獲減少が大問題と成っています。
しかしながら、更なる問題は、水産物も農産物も多くを輸入に頼っている事実です。
更に、農林水産物を大量輸入していた中国の食糧減産が深刻さを増して来ていて、
農産物の大幅な減産は、我が国の食に大きな影響を与え始めているのです。

今年の冬は非常寒く、我が国の農業生産に大きな影響を与えているのは、誰もが
知っている事ですが、一向に野菜が安くならないのは、寒さで野菜が取れないからと
思っている人が多いですが、この野菜の高騰の陰には、中国の農業危機が有る事が
全く報道されていません。

魚介類だけでなく、日本は、中国から大量の野菜を輸入していて、冷凍食品に使われる
殆どの野菜は中国産であり、生鮮野菜であっても、大量の野菜が輸入されているのです。
かつて、異常気象の影響で何度も野菜不足になった時、それを補っていたのは、
中国からの野菜であった事が知られています。
飲食店で使われる野菜が安く手に入った事から、日本国内の野菜が不作であっても
飲食店の料理の値段が上がらなかったのです。

今や、飲食店の競争は熾烈を極めています。
財布のひもが固い消費者に少しでも安い食品を提供する為にしのぎを削っています。
お昼時に1コインで食べられる料理も、輸入食品が安定して手に入る事で成り立ち、
このまま、世界の食糧輸出国である中国で凶作が続けば、当然、日本に輸入される
農業生産物は激減すると思われます。

その影響は、真っ先に、消費者に回って来るのです。
野菜が肉や魚と変わらない値段で取引される日は近いとも懸念されています。
既に、日本は、食料を輸入で補う事が難しくなっているのです。
食料は、誰でも手に入れられると言うのは過去の時代と言えるのです。

つまり、食べる事に関しても、日本は、格差、差別の社会となって来ているのです。
国民が、全て、安全で安心な生活が出来ると言う時代は終わったと言えるのです。
限られた食料を手に入れられる人達だけが生き残れる時代が始まっているのです。
生きる基本である食を得られないと言う事は、既に、日本に於いて、多くの人が
飢餓への道を進んでいると言えるのです。

格差社会というより、階級社会が出来上がっているのです。
当然、上の階級に位置する人達は、下の人達の事を真剣には考えません。
自分達の利益となる事でしか関わらず、その典型が、今の政治なのです。
国民の事を考える様なパフォーマンスは有りますが、結局は、自分達の生活を
まず第一に考える政治と成っています。

しかし、歴史的に見ても、一部の人だけが潤う社会は、いずれ崩壊を生み
指導者たちは憂き目を見る事と成るのです。
残り少なくなった食料や資源を独占できる時期は非常に短いと言えます。
大多数の人々が不満を訴え始めた時、国の体制は崩壊するのです。

とは言え、現実はどうなっているのかを、しっかりと見極めるのが
国民の義務と言えます。
日本政府が、アメリカ政府に尻尾を振っている様に、日本政府の力を
期待していても国民は幸せにはならないのです。
自分達は、何をもって幸せに成りたいのか。一人一人の思いが達成され
其々の環境で納得できる人生を送るには、一体どうしたら良いのかを
考える時期がやって来たと思われます。


東京マラソン

2018-02-25 20:57:23 | 東京

数年振りに沿道から声援を送りました。
昨日は、年に一度、東京都内の幹線道路が封鎖され
3万を超える選手が其々の思いを胸に走りました。
42キロを超える道のりに、あるものは記録を狙い
まるで疾風のように駆け抜けます。
しかし、殆どの参加者は記録よりも参加することで  
熱い思いを人生に記します。

私も長い間スポーツに関わる仕事をしていたことも有り
一度は走ってみたいと思っていますが、走る以前に
幾つかの条件が有る様で、簡単に参加できない事から
その日は、かなり先の事になりそうです。
とは言え、若いころならともかく、人生も後半を過ぎ
体力に不安が出て来ている為、例えその日が来たとしても
思い通り走りを楽しめるとは言えないでしょう。

しかしながら、高齢であったり、体力がなかったり
何かしのハンディがある人達が多く走っている後半の
ランナー達は、その姿に、それぞれの生き様が見て取れ
走りに対して余裕がない故、それを補おうとする心の
喘ぎが、見ている人の心を震わせます。

ランナー一人一人の人生は、それぞれの重みが有り、
川の流れの様に、次々に押し寄せて来る様々な表情は
見ている観客の人生に問いかけます。
ただ、自らの人生と戦っている為、そのまま見えた様に
受け取ろうとすると、単なる印象となってしまいます。
間近で応援する観客に答えようと、最後の頑張りを
見せようとするのですが、本音は別にあります。 

しかし、人は堪えられない程の苦しみに出会うと、
自分を取り繕うことは難しくなります。
心に余裕がある間はまだしも、自分の心を
コントロールできないようになると、誰しも
本音の姿を見せようとします。
スポーツの素晴らしさは、自分でもわからない
本当の自分を見つけることが出来、その姿に
見ている人は感動します。

フルマラソンも、参加している人たちに、
この感情を制御できないストレスが与えられる為
走るにつれて苦しくなると、表情や走る姿に
其々の人となりが出てきます。
走ることに特化して、記録を狙っている選手は
ランナーとしての美しい走り姿なのですが、
一般市民ランナーの多くは、走ることで
各人の心の内が垣間見られるのです。

私たちは、普段から、楽な生活を求めている為
理性を失う程必死になることはあまりありません。
例え、スポーツをするときであっても、苦しさより
むしろ、楽しさを優先するため、なかなか本気で
戦うことがなく、常にテクニックを身に付ける事が
スポーツを楽しむ事と思いがちです。

様々なテクニックを使えれば、自分が思うがままに
楽しめると思いがちですが、その楽しみは、自分が
誰かの演技や運動を見た時の外見に感動したため
その様な運動表現を身に付ければ、自分も、同じような
楽しさを体験できると思ってしまうのです。

しかしながら、いくら技術を身に付けても、
中々納得できる運動と成らない事が多いものです。
自分が観戦した時に感じた喜びは、更なる技術と
勝利に在ると考え、一生懸命努力を重ねるのですが、
多くの方が、目的の思いを感じる事無く挫折します。

しかし、本当は、誰もが、自分が見たもの以上の感動を
体験する事が出来るのです。
何故、出来ないのか、それは、自分の運動能力や努力の足りなさ
ではなく、何をもって、自分の満足としているかで決まるのです。
スポーツの楽しみ歓びは、本来、誰でも得る事が出来、その喜びは
極めて個人的な物なのです。

第三者から見て、その素晴らしさに感動する事は有っても、同じ感動を
得ようとしても、それは、演者が創り出した物であり、自分の喜びではなく
客観的な印象に過ぎないのです。
人の心の中の価値観は、十人十色であり、誰にも共通の喜びが
自分自身のものとなるとは限らないのです。

確かに偉業を成し遂げた選手の姿は素晴らしい物が有ります。
しかし、本人が一番に感動しているのは、勝ち得た地位やメダル
ではなく、自分がそこまでたどり着いた事に感動しているのです。
自分自身のそれまでの努力が認められたのであり、長い間、
自分が行って来た事が間違っていなかった事が証明された事に
感動しているのです。

つまり、誰もが、自分の努力を認められたり、自分自身で納得できて
心が救われるのです。
人により様々な試練が有ります。スポーツのみならず
社会の様々な仕事に於いても、自らの努力が認められた時、
誰もが、自分の存在価値を知り、生きて来た意味を知るのです。
大切な事は、社会的に認められる以上に、自分自身が自分の行いを
認められる事であり、自分自身を褒められる事です

この、自分が自分自身を評価すると言う事が、現代人にとって
非常に難しい事であり、多くの人が、長い人生の中で、常に誰かと
比較する事でしか生きて来なかった場合が多く、他人の評価も
自分の評価も正しく出来ない人がとても多いのです。
しかも問題は、自分の評価が、比較する対象によって変わってしまい
自分自身の心の成長を阻んでしまうのです。

社会的に自分の居場所が解らず、自分自身の評価も出来ず、ただ、
誰かの成し得た成果や環境を夢見て、自分自身の生活を否定する事は
頂上の無い山を登り続ける様なもので、心の安らぎも、他人に対する
優しさも生まれて来ないのです。

そんな中、マラソンは、長い時間、自己との戦いを強いられ、
殆どの人が、人と比較する事ではなく、自分自身と向かい合います。
普段に無い、自己評価を求められるとき、本当の自分が見えて来るのです。
誰からの助けも、他のランナーとの比較も無く、ただ、自分と向かい合い
自分自身の存在価値を高めて行くのです。
リタイアしたくなるほどの長い苦しみを与える事で、自分の本音を聞き出し
自らの本当の目的を知ろうとするのです。

この自己との戦いに私達観客は心を打たれるのです。
ランナー其々の人生が如何なるものかは、見ている人には解りません。
しかし、そこには、乗り越えて来た苦しみ喜びが感じられるのです。
マラソンは、唯、多くの人が走っているだけと感じる方も多いでしょう。
しかし、そこには、多くの人生が流れているのであり、ランナーの姿は
一人一人の人生そのものとも言えるのです。

 

 

 

 

 

 



 

 

 

 

 

 




孤立をしない為に

2018-02-24 15:00:38 | 東京

近年、日本人の高齢化に伴い、国内経済の停滞が問題視されていますが、
ただ、就業者人数の減少だけでなく、マンパワーとしての、個人的な力が
弱くなっているのが気に成ります。
世の中の活況は、経済的な面ばかりに目が向けられがちですが、その陰では
個人的な人としての力の強弱が影響していて、どんなに世の中の景気が落ち込んでも
人々の心が元気であれば、いずれ、社会は右肩上がりと成って行くものなのですが、
個人的、特に、メンタル面での力が衰えて来ると、どんなに好景気であったとしても
いずれ、坂道を下り始め、いつの間にか、社会は暗く沈んでしまう結果となるのです。

この人としての力は、個人差が有り、一概に、社会の力としては量り辛いものですが、
人の心は伝染しやすく、ほんの一部の人達の不幸が、国民全体の意気を消沈させ
国内景気にまで影響を与える事も有るのです。
如何に、人々の活気を保ち、個人的なエネルギーを増す事が出来るか、
この難題を解決し、国民を明るい未来に導くことが出来る人こそ、
一国のリーダーとして相応しい人と言えるのです。

しかしながら、我が国において、人々も個人的にも求める、この力強い社会が
年々疲弊して行く様に思えるのです。
例え、経済的に豊かな生活が出来る様に成ったとしても、個人的な心の強さや
安心感には繋がらず、その不安から逃れようと、更なる経済的な豊かさを求め
比較社会にのめり込んでいく人が多く、終わりの無い競争に疲れ果てるのです。

そもそも人の力とは、決して、小さな個人的な能力を指しているでは有りません。
人類が集団をもって、様々な問題を解決し、文化を発展させてきたように
人の力は、一人の力のみで生み出されるものでは無く、多くの人の協力で
個人の能力が発揮されると言えるのです。


現代社会は、子供の頃から社会人に至るまで、集団で物事を解決して行く様に
出来ている事から、人類がより進化する条件が備わっています。
ところが、近年、人々は、集団で生活していながら、その中でのお互いの絆が
失われ、社会的機能的に複数の人達が同じ場所で勉強したり仕事をしたり
しているのですが、心の中の繋がりは、お互いに利害関係が生れない限り
同じ感情や価値観を共有する事が少なくなってしまいました。

つまり、例え同じ仕事をしていても、同じ学校同じクラスにいたとしても
集団としての繋がりは、単に、お互いの利害関係とその場に於ける必要性に過ぎず
この事は、たとえ家族の間であっても、血縁関係が有ろうと、同じ傾向が見られ
従来の強い家族としての絆が失われた、形だけの同居と成っている場合も有ります。
この事は、簡単に分裂してしまう可能性が高く、特に、高齢者ともなると、
其々の目的によって家族が分解し、独居老人と成ってしまう事も多いのです。

この事は、高齢者が一人でいつの間にか亡くなってしまうと言う社会問題も
気に成りますが、意外にニュースと成らないのが、若者たちの孤立化です。
夢を抱き、大都会に来たものの、会社に馴染めず、都会に馴染めず、友も無く
一日を誰と話すことも無く、無言の生活を強いられている若者が多いのです。
アルバイトをしたり、派遣で働いたりと、仕事場で言葉を発する事は有っても
個人的に心の内を語れる人がいません。

彼らは、物価の高い消費を多く求められる都会にあって、一日一日を食べる為に
必至に働かざるを得ず、大都会の一角で貧困にあえいでいる場合も有るのです。
また、逆に、今の社会の波にうまく乗り、若くして膨大なる財産を得た人もいますが、
彼らが、思い描いたような幸せかと言えば、そうとも言えず、むしろ、日々の暮らしに
退屈し、心の躍動を失って、生活に不自由していた頃よりも、生きる喜びを得られず
同じように喘いでいる場合も有ります。

この様に高齢者だけでなく、若い世代であっても、しかも、貧富の差に関わらず、
現代の日本国民は、孤立化している事が大きな問題と言えるのです。
例え、大きな事業が出来る資産を持っていても、心が躍動しなければ、新たなる
夢を持つ事も、具体的に形として成す勢いも生まれません。

今や、社会的な繋がりを持つ人は多いものの、個人的な繋がりが失われて来たのが
日本人全体の力を弱めていると言えるのです。
日本社会は、経済的に大きな発展を遂げ、人々の生活は、先進国の代表の様に
便利で豊かと成っていますが、外見とは裏腹に、人々の心は益々孤立化し、
特に、世代間の意思の疎通が失われているのが様々な問題を引き起こしています。

かつて、日本人は、他人の心を察し、自然の中のあらゆる生き物達と共存をし
自分達が自然の中に生かされている事を肌で感じる生活をしていました。
日本人の豊かな感性は、大自然と人々との間で、自分の心を育てる事で成長し
自然の中で、人々が全て幸せに生きる事を生きがいとして来ました。

しかし、現代社会は、この、日本人の生き方の原点ともいえる部分を失い
全ての国民が、心の拠り所を失っているとも言えます。
何十年も同じマンションで住んでいても、一体誰が同じマンションで
生活をしているのか、知らないのが当たり前の日常と言えます。

個人的にプライバシーが守られ、お互いに関わらない事が便利かも知れません。
しかし、人間の幸せは、身の回りの人からの評価で生まれて来ます。
お互いに、関わる事で、お互いが切磋琢磨して成長する事が、より豊かな生活を
手に入れられるだけでなく、関わっている人達から守られ、自分の生き方を
認められる事で、安心した生活を送る事が出来るのです。

他人より便利で豊かな生活を願う様に社会は組み込まれていますが、それは
あくまで手段であり目的では有りません。
便利で豊かな生活が、より人間関係を豊かにしてこそ、初めてその経済力が
生かされると言えるのです。

今や、多くの日本人が、この手段に当たる所を自分の目的としてしまっていて
本当の自分の幸せが何処に有るのか、見失っているのが現状と言えます。
人は、どんな世界にも順応して生きて行けるようになっています。
しかし、何処で住もうと、誰と共に生活しようと、その与えられた環境で
心が安らぎ幸せである事が一番大切です。
道具ばかりを集めて、見せびらかせても、心は満たされないのです。
先ずは、自分が本当に求める事、自分が本当に幸せと感じる事が何かを
シッカリと見極める事であり、同じような思いを、他人も抱いている
と言う事を理解する事が大切と思われます。

 

 

 

 

 

 

 


見た目の豊かさに、日本人の心は満足できません

2018-02-23 16:50:31 | 日本人

私達の生活は、何かにつけ、慣れると言う事が重要です。
つまり、周囲の環境に的確に反応して、トラブルが無いの様にすることで
余計なストレスを感じたり、無駄な行動を行うことなく、日々の生活が
平和に過ぎて行くと思われるのです。
その為、一年を通して、同じ生活習慣を持つことが多く、周囲の変化に対し
自分の日常があまり変わらないのを実感します。

しかしながら、この変わらない生活が、自分の望む物であるならば良いのですが、
多くの不満を感じて、如何にすれば新たなる理想の生活を送れるかを日々考えながら
悶々としている方も少なくないのです。
ところが、自分の生活は、そう簡単に変えれれるものでは無いのです。
長年の習慣は、たとえ生活環境が悪くとも、すぐさま改善できないのが現実です。

困った事に、生活環境の悪さは、他人に対しては直ぐに指摘出来、助言も出来るのですが、
我が身の事と成ると、途端に、消極的に成って、改善した方が良いと解っていても
中々変えられないのが人間の性とも言えます。
とは言え、この同じ生活習慣を、良い悪いに関係無く、長く続けて行くのが人間の特性であり
この習慣性が生むのが、様々な文化でも有るのです。

国によって地域によって、様々な生活様式が有るのは、その地で生まれた人々の生き方が
例え、より豊かで便利な生活に変えたいと思っていても、長きに渡って続けられる事で
その地域にしかない伝統的な文化となる事も多いのです。
人類の遺産ともいえる様々な文化は、人類の発展の結果とも言えますが、人類の持つ
習慣性により、変わらず続けざるを得なくなる事に依り、特有の文化として名を成す事も有り
一言で、優柔不断が良くないとは言えないのです。

ところが、この習慣性が私達の生活を苦しめる事も多いのです。
特に、国民性とか多くの人々が共有する社会形態は、問題が生じたとしても、中々変えられず
例え、殆どの人達が不満を持っていたとしても、それまでの習慣や風習を変える事が難しく
長きに渡って人々を悩ませる事と成る事も少なくないのです。

高度成長を遂げた日本に於いても、国民の多くが、世界的に見て豊かで経済的な生活を
行っているとは言え、今の日本社会に満足している人は少ないのです。
先進国として、発展途上国に比べれば、日常生活は、豊かであると言えるのですが、
人々の暮らしは決して楽とは言えないのです。
変えられない生活が、人々の心を苦しめ、将来的に豊かになるとは思え無くとも、
現在の自分の苦しい生活に慣れてしまい、改善したり、別の仕事を見つけると言う事に
疎くなってしまっていのが問題です。

不満が有るものの、現在の苦しい生活を受け入れて、惰性の様に続けている日本人は
実に多いのです。
改善策や、理想の方法は解っていても、それをあえて実行するまでに至らないのが
多くの国民の悩みでも有るのです。
この事は、人々が、生きていく上で、苦しい生活にも慣れてしまうと、生活苦で悩む日々を
自分の生き方として受け入れてしまう事が問題と言えます。

どんな状況であろうと、慣れた環境を維持する事が、一番ストレスが掛からないのです。
と言うより、その様な生活を受け入れなければならないのが、現代日本の現状なのです。
多くの人達が夢を持てず、未来の生活をより豊かにしようとは考えず、現状を維持する事が
自分の気持ちを安定させ、満足させるものと、自らを納得させているのです。

一部の人達は、より豊かで新たなる夢を達成しているのに、殆どの日本人の生活は、
日々、同じ生活の繰り返しと成っていて、躍動感の無い日常に、多くの人々は、
諦めの境地と成っているのです。
常に想像した夢や道を目指す事が出来る環境ならいざ知らず、現代の様に失速した社会は、
お金が回らないだけでなく、人々の気持ちも意気消沈してしまうのです。

自分の生まれた環境、社会的地位は、覆す事が出来ず、置かれた環境で生きて行く事が
人生の目的であるかのように思っている若者達も珍しくないのです。
世の中は、たとえ経済的に豊かであっても、人々の心が消沈していれば、いずれその国は
国力を衰えさせ、人々が年齢を重ねる様に、生気を失ってしまうのです。

私たち日本人は、世界的に見て、生活を豊かにする為に、実際の衣食住を豊かにするだけでなく
生活環境に豊かさを感じながら生きて来ました。
特に、日本人は、自然と一体となって、自然から命の糧を得るだけでなく、自然の中に
様々な神を存在させ、生き物を大切にし、自然環境の保全を図って来ました。
その為、自然は、日本人にとって、生活の一部と言うより、自然に生かされている事を
当たり前の様に感じて生活してきました。

ところが、文化の発展を、人間の経済的な活動や生活の中で、人工的な物を主体にした事で
日本国民の豊かな感性が失われてしまったのです。
ただ、経済的に豊かになる事が人生の目的であるかのような社会は、人々を競わせ、
戦わせるだけで、心からの安らぎと潤いを生む事は難しいのです。

生きた自然と心を通じて来た日本人であったからこそ、万物に対して愛情を注ぎ
人々の生活も、お互いに相手の事を考え、共に幸せに成る事を目的としていたのに
いつの間にか、他人よりも豊かな生活をしたり、社会的に地位が高い事が人間の価値で
あるかの様な社会基準が生れ、日本人の心がいつも圧迫され疲弊し、いつまで経っても
心から安らぐ生活が無くなっているのです。

西洋社会の様に、自然からの糧を全て人類の為に利用し、自然は、自分達に都合の良い様に
作り変える事が目的とされた社会を、そのまま日本に取り入れたことが、日本人が
いつまで経っても幸せに成れない原因と言えます。
経済的に豊かな生活をしたとしても、日本人に流れる血は、ここから満足する事無く
ただ、自分の社会的地位や持ちうる財産で、自分は幸せであると納得させているに過ぎず
豊かな心とは程遠い生活を送っている人がとても多いのです。

戦争に負けて、日本中の街が焼き払われ、日本国民は、全てを失ったともいえるのですが、
それは、経済的な事であり、日本の豊かな自然は十分に残っていたのです。
ところが、戦後、日本のリーダー達が選んだ道は、欧米社会の様な近代国家でした。
高度成長期には、日本中の自然を破壊し、海も山も自分達に都合の良い様に作り変え
自然だけでなく国民にも多くの被害を与えました。

長足の進歩を遂げ、世界でトップクラスと言える経済大国となった時、日本は、
太古の昔から守り続けて来た美しい豊かな自然を失い、日本人の美しい心を失いました。
目先の欲望に囚われ、他人より経済的に秀でる事を日本人の目的とした時から
日本人の心の苦悩は始まったのです。

バブルが崩壊したとしても、いまだ、先進国の一因として君臨しているとはいえ
それは、経済的な地位であって、日本国民は、人間として、常に個人的な欲望を目指す
卑しい地位に落ちたと言えるのです。
外見的な美しさや豊かさに満足し、人としての心を育てなくなった日本人の生活は
いつもストレスが溜まり、他人との間に諍いは生まれても安らぎは生まれません。

全ての問題は、お金で解決できるとする人が増える事で、私達の生活は、益々ギスギスして
どんなに豊かな生活をしても満足できず、方や、他人を信じられなくなる事から
自分の生活を守る事しか考えなくなっているのです。
正に、他人を見たら泥棒と思えと言わんがごとくの、不信感が漂っているのが日本社会で
それに伴い、悪質で信じがたい犯罪が増えているのも事実です。

私達は、欲望を満たすための社会を目指した事から、国民の心の平和は失われ、
アメリカ社会の様に、いずれ、銃を持って自らを守らなければならなくなるかも知れません。
日本人は、自然に生かされ、あらゆる生き物と共存して歴史を作って来ました。
その日本人の長い歴史の習慣は、ほんの100年程の目先の豊かさに満足はしません。
今だ、経済的に豊かに成れば、日本人は幸せに成ると考えている人達が、戦後、これまで
日本の自然を破壊し、日本人を苦しめて来た事を忘れては成りません。