数々の感動を生んだピョンンチャンオリンピックもあっという間に過ぎ
茶の間のスターたちが、成田空港に笑顔で凱旋帰国しました。
記録的なメダル獲得数と成り、関係者だけでなく、日本中の人達に
歓びと勇気を与えました。
ただでさえ、余り国民の気持ちを奮い立たせない近年の日本社会は
中々、この国に生まれて良かったと思わせる事が起こりません。
どんなに豊かな生活を行っていても、生きて行く事に余裕を失った
最近の日本人は、唯、他人よりも豊かな生活が出来ると言う事でしか
満足できなく成って来ました。
他人を気遣う余裕も無く、勝ち組を正義の様に思いながら、
上だけを目指す事に情熱を燃やす様は、まるで、高栄養価の餌を
待ち受ける養殖ウナギの様で、餌が投じられたら、我先に腹を満たす
自分だけが生き残る事に一日を費やしている様です。
教育が行き渡り、平均的な国民の知識量は、先進国の中でも
トップクラスと言われるのですが、その豊かな知識や経験が
自分の事にしか使われない事が多く、日本人全体の幸せに
繋がっていないのが大きな問題です。
日本を動かす政治家であっても、一介のサラリーマンであっても
基本的に、我欲を満たす事が前提であり、其々の立場に於ける仕事や
パフォーマンスを行っても、最終的には、個人的な欲望しか有りません。
昨今、政治家の不祥事や不義がマスコミに多く取り上げられますが、
この現象は、決して、政治家の質の悪さや無能さを示すものでは無く
日本中の多くのリーダーを成す方々に共通と言えるのです。
個人的な欲望を満たす事、経済的利益を期待させる事に関しては
触手を伸ばすものの、そうでない事や、他人が利益を成す事に関しては
極めて消極的であり、常に何だかの個人的な報酬を求めがちです。
人々は、子供から大人まで、積極的に自分の意見を述べる様に成り、
消極的で意思表示が上手く出来ないと言う昔のタイプの日本人は
非常に少なくなりました。
しかし、主張したもの勝ちの様な、まずは自分の欲求を前面に出し、
他人の考えを押さえつける様な会話は、かつての日本では余り見られず
自己主張ばかりが一人歩きする、つまらない人間関係が少なくありません。
テレビに出て来る人達の多くは、様々な出来事に対して、表面的な知識で
意見を述べるだけで、知識を羅列した評論家ばかりです。
余りにも内容が乏しい事から、有識者ではなく、芸能人であろうが
一般人であろうが、誰でも、感想を述べる事で番組が成り立ってしまう
何の情報も知識も得られない、何か他のニュースソースからの請負でしか
有りません。
ただ、博学であり、物知りだけでは、人間としての魅力に欠け
知識だけならば、必要なだけ、ネットで調べれば見つける事が出来ます。
今や、日本社会が一番足りない物は、正しい情報であり、個人だけでなく
国民全体を動かす共通の感情です。しかも、それらは、日本国民の未来を
明るく幸せにするものでなければなりません。
オリンピックは、何故、多くの人々を感動させるのか、それは、誰もが求める
歓びの感情をかきたてるからです。
選手にとっては、自分が勝ち得た勲章なのですが、その事で日本国民の多くが
夢や希望を持つことが出来たのです。
今や、日本社会には、人々全体を鼓舞する出来事が非常に少なく、ただ個人的に
経済性を増し、所得を増やせば幸せに成るとする、リーダー達の自分達の義務を
放棄した様な発言で辟易しているのです。
日本人は、太古の昔から、大自然と共に生き、人々がお互いを気遣って
生きて来た民族なのです。
和をもって尊し、と言われる様に、人々全体の幸せを願う民族だってのです。
個人的な欲望を煽り立て、常に競争をさせ、消費経済を優先させる様な社会は
本来苦手とする物なのです。
家庭に於いても、学校に於いても、社会に於いても、様々な対人的トラブルが
絶えないのは、日本人が長い歴史の中で育て上げて来た人間関係を無視して、
個人能力によって差をつける社会を作り上げたことが原因と言えます。
独占的階級社会の頂点に君臨する事を望む人達にとっては、理想的な
社会構造と言えますが、殆どの日本国民にとっては、極めて隷属的であり
決して国民を幸せにするものでは無いのです。
例え、この社会方針い従い、社会の上層部に入る込む事が出来たとしても
その中で、自分に優先的に便宜を図ってくれるのは、利益を目論む人達であり
いつまで経っても、自分の地位を守るために戦わねばならず、どんなに豊かで
経済的な生活が出来たとしても、心の中が安らぐ事は無いのです。
競争社会に敗れた殆どの国民は、与えられた消費経済国家で生きて行く為に
ただ、少しでも多くの所得を求めて働き続けるだけであり、勝ち組に成ったと
思っている人も、同じように勝ち上がって来た人達に足を引っ張られない様に
片時も休まる日々は無いのです。
つまり、日本国民は、いかなる生活を送っていても、幸せを実感する事無く
社会的に豊かであると認められた時、初めて、自分は、幸せなのだと、自らを
納得させるしかないのです。しかし、納得させたとしても、自分より遥かに
経済的に豊かな人がいれば、自分自身の幸せは、色あせてしまうのです。
私達人間は、自分より豊かな人を見れば、あのように生きれば幸せだろうと
心では思うのですが、いざ、その地位を得た途端、その環境は一気に色あせ
次なる上の世界を羨む事と成るのです。
私達は、他人よりも豊かな生活を競うののではなく、自分自身を満足させる
生活を見つけなければ、いつまで経っても欲求不満が募るのです。
その為には、自らの生活や行動に納得が出来る心が無ければなりません。
常に、自分自身を否定したり、不満を感じる様では、自分自身を救う事は
永久に出来ないのです。
そして、自分自身が心から喜べることを見つけなければならないのです。
人が喜ぶことは自分も喜ぶと言うのは多いな間違いであり、自分自身を
本当に喜ばせる物は、他人が持っているものでは無く、他人が認めてくれ
喜んでくれる事なのです。
正に、オリンピックのメダルは、自分が喜ぶだけでなく、他人が認めてくれて
喜んでくれるものだから価値が有るのです。
どんなに豊かな生活をしても、その生活を他人は喜ぶどころか、妬んだり、
持ち主を蔑んだりする事の方が多いのです。
何故なら、その豊かな生活が他人を豊かにしないからです。
つまり、その生活を誰もが認めていないからなのです。
私達の幸せは、本来、他人が認めてくれなければ、いくら自分が満足しても
心からは喜べないのです。
自分の幸せが、他人を幸せにすれば別なのですが、殆どの場合は、
一方的に豊かさや幸せを独占する事に問題が生じて来るのです。
今や、日本社会は、一部の企業による独占的な階級社会と成っています。
一部の富裕層の所得が、残りの国民の所得を上回っているのです。
問題は、この一部の人達が潤っている事が、多くの庶民の幸せに繋がらず
富裕層をより豊かにする社会機構が出来上がっている事なのです。
国民から吸い上げた膨大なる利益が、一部の人達の幸せに成って行く構造が
日本人の多くを不幸せにしていると言っても良いのです。
例え、彼らが、経済力が有り、高度な知識や経験が有り、人々をリードする
能力に満ちていたとしても、その事で多くの国民の生活が豊かに成り
幸せと成らなければ、意味がないのです。
つまり、日本人の国民の殆どが、富裕層を否定する事と成るのです。
国民から認められない人達が、国民のリーダーとはなり得ないのです。
例え経済的に豊かであっても、人として認められなければ、
日本に存在する価値は無いのです。
現在の日本は、国民に認められない勝ち組が政権を取り、社会を動かし
経済を担っているのです。
当然、国民からは、不満しか生まれません。
人々の上に立つと言う事は、人々に豊かさを与え、幸せを感じさせる義務が有り
その時初めて、社会的に地位が高い事を認められるのです。
上に立つ人達の未熟さ、日本人としての心の豊かさが無い事が、
これ程にも、日本社会を低迷させ、国民を疲弊させる原因なのです。