めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

支配者達のおごりと狡猾さ

2018-03-20 10:20:38 | 日本人

私達人類は、地球上の生き物の頂点となりました。
あらゆる分野に於いて、長足の進歩を遂げ、
何事においてもパーフェクトであると思えるほどの
存在となりました。
支配者となる事で、地球上の全ての食料資源を独占し
自分たちが思うが儘に生きることが出来るようになりました。

この事は、誰もが、支配者になれる可能性を示し、より高い
地位や身分になる事が、自分の思い通りの生活を送れる方法と
考える様に成ったのです。
今や、世界の動きを支配する人類の基本的感覚は、より経済的に
豊かな生活を行い、社会的に高い地位や財産を得る事であり、
幸せに成る方法と信じて疑わない人が多いのです。

しかし、誰もがその様な生活を求めれば、争いが起こるのは当然で
個人の争いから国家の争いまで、その原因の根底には、この人類の
葉てしない欲望が有ると言えるのです。
とは言え、この強い願望は、人類の限りない進歩を生む事になり、
私達が、地球の支配者に成れた理由でも有ったのです。

所が、幸せに成りたいとすると、逆に、トラブルが多く生まれたり
不幸になってしまう事が多いのです。
人類の歴史を見れば一目瞭然で、欲望の果てに争いが有り、多くの人が
苦しみ悲しみに打ちひしがれるのです。
勝者となれば、自分達の欲望を満たす事が出来ても、敗者となれば、
辛い日々を送る事に成るのです。

私たち人類は、協力し合って歴史を創り上げて来ただけでなく、
争いながら、お互いのテリトリーを広げ、略奪を繰り返し、
相反する歴史を続けて来たのです。
この事は、人間の持つ二面性を表していて、本能ともいえる行動は
人々を幸せにするだけでなく不幸にする事も避けられないのです。

出来る事なら、いつも幸せでありたいと思うのが人の常であり、
不幸にならない為の、様々なルールを作り、お互いに監視し合いながら
間違った道に進まない様に作られているのが現代社会と言えます。
しかしながら、全ての人が幸せに成る為には、幸を平等に分け与え
同じ価値観を生んでいかなければなりません。

しかし、人間は、集団で生きるも個の生き物と言えます。
一人一人の感覚は違っていて、当然、価値観や思いも違っています。
更に、協力し合う一方、望む物を少しでも多く手に入れ、更には、
多くの人々からの信頼も勝ち得たいと思うものです。
この、欲望を如何に満たすかで、世の中が楽しくなるか苦しくなるかが
決まって来るのです。

出来る事なら、思う事は何でも叶う豊かな人生を望むものです。
その可能性を多く秘めているのが、現在の、消費経済社会であり、
自由主義社会と言えるのです。
子供の頃からの競争社会、社会人となっても、より豊かな生活を目指し
少しでも多くの所得を目指します。

国民全体が、自らの生活向上を望み、所得上昇の為に頑張って仕事をすれば
当然、国内総総生産も増え、経済は発展して、人々の暮らしは豊かになります。
この社会機構が、明治以来の日本社会の姿と言えます。
世界的な経済大国となり、世界の物流の中心ともなり、欲しい物は何でも
手に入れられる国と成りました。

しかし、日本人は、豊かな生活をする様に成って、幸せな生活を手に入れた
と言えるのでしょうか。
より経済的に豊かな生活が出来るようになった日本人は、本当に心から
幸せであると感じているのでしょうか。
いや、欲しい物が手に入る様に成ったから、幸せに成ったと言えるのでは
と思う方も多い事でしょう。

では、経済的に豊かとなった方々の心の声を聞いたとき、本音はどうなのか、
同じ日本人として知る事は大切と言えます。
先ず、日本人というだけでなく、人間として、幸せと思う項目の中に
衣食住が満たされると言うのが有るでしょう。
当然、生きて行く為の基本であり、誰もが、生活に健康に不安がない事が
一番大切と思う事です。

当然、所得が高ければ、これらを満たしている事が多いでしょう。
では、社会的な満足度はというと、地位が高く身分が高ければ、それ相応に
満足と言え、この事も、幸せの条件に入って来ると言えます。
そして、最大の目的である、有り余る資産が有る事です。

これらの条件を満たしている日本人は、今や、履いて捨てる程いると思われます。
もちろん、絶対的に、毎日生きる事に精いっぱいの国民が多い事は事実ですが。
しかしながら、この豊かな条件を満たしている人達が、日々、心にゆとりを持ち
満足した生活をしているかと言えば、そうとも言えないのが問題と言えます。

他人よりも豊かな生活を行い、一生不安を抱く事の無い生活が出来るにも関わらず、
一向に心が満たされない方々が多いのは何故でしょう。
では、もう少し、この不安な心を覗いてみましょう。
一体何に対して不安を抱き不満を感じているのでしょう。

その原因は、自分自身の心の在り方に有ると言えます。
つまり、満足の基準が自分の心に無い事が最大の問題と言えるのです。
この豊かな消費経済社会に於いて、次々に手に入れる物は全て、一時しのぎに過ぎず
常に新しい価値のあるものを求めなければ満足できないとする心が問題です。

日本人の心の中に存在する、社会的価値が、自らの価値にすり替わっているのが
多くの不安や苦しみを生み、更には、満たそうとする気持ちが、人を傷つけたり
自らの心を苦しめたりするのです。
日本社会は、国民の幸せを作るとしながら、経済発展により、より国民の消費を促し
常に、求める幸せを個人の基準ではなく、経済社会からの提案によって生み出して
いるのです。

つまり、幸せの基準は、経済社会を担う人達によって作られているのです。
常に、新商品や流行という名で、新たなる幸せの基準が生み出され、
従来の基準を破棄させる事で、消費経済国家を創り上げているのです。
簡単に言えば、次々に幸せの基準を乗り換えさせる事に依って、
日本経済を回していると言って良いのです。

つまり、昨日の幸せは、今日の幸せとはならず、新たなる喜びの基準を
手に入れる事がステータスであり、幸せに繋がるとするのです。
国民は、まんまと、企業の戦略にはまっていると言っても良いでしょう。
日々流れるコマーシャルは、常に新しい商品を国民に提案し、国民の
夢と幸せは、その商品を購入する事に依って得られると洗脳します。

どんなに素晴らしいと思っていたものであっても、次の日には、
色あせ捨てざるを得なくなる生活を強いられているのです。
経済社会を発展させるための教育を幼い頃から受け、自分の喜びは
社会的な地位であり財産で有り、膨大なる消費であるとして育つことで
日本人誰もが、自分自身の価値観を持つのではなく、社会的に認められた
多くの人が求める物に幸せの価値感を抱くようになったことが、
日本人が、いつまで経っても、幸せに成れない大きな原因と言えるのです。

では、何でも手に入る様に成った人の価値観はと言えば、自分自身が
本当に求める個人の心を満たすものであり、それは決して高価な、
多くの人が羨望するものでは無いのです。
本当に豊かな人は、極めて質素であったり、多くの人が求める物に
余り興味が無い事が多いのも、何不自由ない生活が出来る様に成って
初めて、本当に求めるものを知るからです。

しかし、これは、金持ちであろうと貧乏人であろうと、心は同じであり
日本人としての根本的な感覚は同じなのです。
お金が無いから不幸だとか、お金が有るから幸せと言えないのです。
一番の不幸は、社会的な価値観に振り回せれて、自分自身を見失い
本当に必要な物が見えなくなってしまう事です。

問題は、個人にとって一番大切な事を見つけられない様に社会が作られ
その事で、多くの国民が苦しむ事です。
経済社会を維持し、消費経済国家として現在の社会機構を維持するために
国民の興味を常に消費に向ける様に社会が作られている事です。

小さい頃から競争させる事も、より豊かな消費経済社会を作る為のものであり、
国民一人一人の幸せを願ってと言う物ではないのです。
しかし、より豊かな生活を求める為、自分の地位や財産、名誉、テリトリーを
守るための諍いが絶えません。
より豊かな生活をする者が我儘出来るとする社会は、パワハラ、セクハラ、暴力を
生み出す事と成るのです。

角界の様に、番付けが一つ違えば天獄と地獄と言われる様に、単に地位や階級だけで
下に居る者を自由にしたり圧力を加えたりできるとする風潮が多くの問題を生みます。
例え、国のリーダー達であろうと、経済至上社会が生み出した驕りの感覚は、
自分達の置かれている地位の責任を忘れ、欲望のままに、恥ずかしい問題を起こす
原因となっているのです。

例え経済的に豊かな国になったとは言え、国民として、我儘で身勝手な人達を
多く生む結果となった事は、日本人として退歩としか言いようが有りません。
社会的に地位のある人たちの不祥事は、メディアが取り上げ問題視されますが
これとて、氷山の一角である事は言うまでも無く、日本中の会社企業に於いて
日常的に起こっている問題である事は否めません。
経済発展によって豊かな生活をしているはずの日本人が、益々不幸になっている
と言う目に見えない事実を、時のリーダー達は全く解っていなのが、日本人にとって
最大の不幸と言えます。