めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

スマホが、スマホ様になる時

2017-08-30 14:47:23 | スマホ

スマホや携帯電話は、我々の生活に無くてはならない物です。
今や、日本人は、老いも若きも、この電子機器無くしては生活出来ません。
ゲームに興じる人、日常の連絡に利用する人、仕事の段取りに利用する人
あらゆる記憶媒体として利用する人と、私達の生活は、この便利グッズに
支配されていると言っても過言ではありません。

全ての日常的な私事を任せる事に依り、便利で豊かな生活が出来ると思い
大人から子供まで、その機能性に全幅の信頼を寄せています。
あらゆる情報を手にいれることができ、自分の望み通りの日常を
エスコートしてくれる事に、人間以上の価値を感じる方も少なくありません。

更に、その機能は、日々進歩を遂げ、コンピューターが社会に出始めた頃
私達が羨望の目で見ていた最新機種よりも、遥かに凌ぐ性能のスマホを
誰もが気楽に使いこなしているのが現状です。
一体、どこまでこの機能が発展していくのか、想像だにできませんが、
この便利グッズが、いつも、自分の思い通り動いてくれていると
誰もが信じていますが、果たして、これから先、忠実な下部として
私達の生活を幸せにしてくれると言えるのでしょうか。

コンピューターの性能は、人間の機能をすべて賄えるようにと、
年々開発研究が行われて来ましたが、その進歩は、研究者の想像を超える
信じがたいスピードで加速しています。
ただ、人間の機能を代行するだけでなく、それ以上の能力を持って、
人類の遥か先を進んで行く様にさえ思えます。

私達がスマホを利用するとしても、その機能をすべて使いこなす事は出来ず
年々、利用者が使う機能の範囲を遥かに超える能力は、私たち人間の立場を
機械より下に置いてしまいかねない程です。
この心配は、既に、様々な世界で懸念されていて、その能力の高さを示す
パフォーマンスとして、将棋や囲碁の世界で人間と対戦させる事で
実証される事と成りました。

今や、私達人間の便利グッズと思われていた機械が、人間の機能を遥かに上回り
人間に支持をする時代になりつつあるのです。
人間社会をより便利で豊かな社会とする為に考え出された人工頭脳が、人間の頭脳を
遥かに上回り、私達人類を支配すると言う、SFの世界が現実に成ろうとしています。

現に、私達は、街に出向く時、何か美味しいものを食べたいと思えば、ネットで簡単に
近所のお店を検索できます。しかも、その内容から、食べた人たちの感想から知る事が
簡単に出来るのです。
何かをする時、自分達が望む条件で、一番楽しめる方法を教えてくれたり、様々な
アイディアを提案してくれたりと、ネット情報は、生活には無くてはならないものです。

これ程にも便利になれば、居ながらにして最適の情報が得られ、幸せな日常を送れると
思いがちですが、よく考えてみると、私達は、ネットを利用するたびに、自分達の
あらゆる個人情報をコンピューターに知らせている事になるのです。
生活の全てを託す事で、自分の情報が次第に蓄えられ、何かをしようとすれば、一番いい方法を
常に提案されるだけでなく、生活パターンも思考パターンも知られている事から、いつの間にか
人工頭脳の言い成りになってしまうのではないかと言う心配が生まれて来ます。

私達個人個人の違いに応じた対応の仕方で、其々が一番動きやすい方法に導入される事で
いつの間にか、機械の考えるシステムに組み込まれて行く可能性が有るのです。
天文学的な分析を瞬時にできる事から、人類一人一人を自由に動かす事も可能です。
しかも、必要でない人間や、機械にとって危険な行動を取りかねない人物を排除する事も
容易と成るのです。

国が、国民の情報を管理する為に一人一人を番号で処理しようとしたのも、コンピューターを
利用する事で国政を有利に進める思惑が有るのですが、一方で、この国民の情報は、人でなく
コンピューターが管理する事で、機械の支配をより近い未来としたことも事実なのです。
人間には私情が有り、人其々によって、物事の判断基準が違います。
しかし、機械による判断は、基準を定めれば、間違う事なく、はっきりと判断されます。

その判断基準が、何処に設けられるかで、我々の未来も決まるかもしれないのです。
私達は、コンピューターを作ったから、少なくとも、電子頭脳の次には位置されると
考えるのは非常に甘く、もしかしたら、これまでの人類が地球の歴史の中で行って来た
様々な蛮行を否定的に取られてしまうと、動物の中でも、かなり下のランクにされるとも
考えられるのです。

地球の自然を破壊し、あらゆる生物を絶滅させ、地球の生き物にとって最悪の生物と言える
人類に対する判断を、電子頭脳はどの様にするかが問題なのです。
私達の生活を便利にするために生んだ電子機器が、いつの間にかに人間の能力を遥かに超え
人類に指示するように成った時、私達の未来が決まると言えるのです。

今や、子供も大人も、一日の内多くの時間、スマホや携帯の画面と向き合い、更には、仕事や
勉強をする時もネットの画面を眺める事が多くなっています。
私達の生活は、いつの間にか電子機器に支配され、その機能に常に従う様に仕向けられて
いるのです。
気が付いたときは、スマホやコンピューターから流れる指示に従って、日常生活を送る事に
成っているかもしれません。
と言うより、多くの方が、それに近い日常を送っていると言えるのです。

私たち人間は、太古の昔から、お互いに膚を触れ、言葉のやり取りを行い、其々の心を
察する事に依り日常生活を円滑に行ってきました。
対人的にも、自然に対しても、五感をフルに活用し、体感しながら心と身体を育てながら
人生を送って来たのです。
人の心に触れる事に依り、信頼を得たり、自分の生きがいを感じたり、人の気持ちを知りました。

この感覚は、日々変わって行くもので、一つとして同じ心境ではないのです。

様々な環境に於ける対人的な触れ合いを通して、人間として成長してきたのです。
しかしながら、この人との間に様々な便利グッズを入れ、やり取りをする事に依り生活が
より機能的で豊かにはなったのですが、人との関わり合いを通した感情の触れ合いが無くなりました。

増して、ネットを通じたやり取りは、単に、情報交換と意思の伝達に過ぎず、常に、生身の
感情のやり取りが出来ない事から、繋がっていながら、個人的にバラバラな人間関係と成り
豊かな人間関係を失う事にもなっているのです。
ネットを通じれば、いかなる熾烈な言動も人を傷つける汚い文面も平気となって、便利な機器が
凶器と成る事も少なくありません。
相手に直接面していない事も有り、その言動は益々エスカレートする事も珍しくありません。

この事は、人間が、機械と同じような考えを抱くことになり、自分の考えを相手かまわず
強要しても、いかなる相手に対しても、思いやりや慈しみが無くなってしまうのです。
ネットが炎上したりしてニュースになったりすることが多いのですが、これは、不謹慎な
ネット利用者が、誰かを追い詰めた結果であり、普段は、何もできない人間が、ネットを
通じれば信じられない行動や言動を行う事と成るのです。

しかし、これは、人間が行う事ですから、まだ、可愛い物であり、たかが週刊誌ネタで
終わるほどの話題に過ぎません。
ネットによる様々な事件や被害は、人間がネットを利用する事で、悪質な利用者が引き起こした
内輪の事件の1つでしかないのです。

所が、ネットを形成している電子頭脳そのものが独断でネットを利用している人間に支持をしたら

とても炎上どころではなく、人類存亡にも関わる可能性が有るのです。
コンピューターが人類の存在を否定した途端、全ての地球上のシステムは、人類を滅亡させる様に
瞬時に変わってしまうのです。
それまで、人間の生活を支えていたもの全てが、人間を消滅させる方向に動くのです。
ネットで管理されているのですから、瞬く間に、人間の生活が否定される社会と成るのです。

誰が世の中の意思決定を行うかで、地球の未来も決まって来るのです。
これまで、人間が、地球の全てを支配し、自分達に都合がいい様に作り変えて来たのですから
これを、電子頭脳が行う様に成った時、果たして、私達人類は、地球に生きていられるのか
考えただけでも恐ろしい世界が生まれるのです。

私たち人類は、自分達の生活を便利に豊かにする為に、地球上のあらゆる資源を利用して来ました。
しかし、長足の進歩を遂げる過程で、私達人類の犠牲になった多くの生き物が絶滅し、
地球環境も破壊されて行きました。
今や、地球自体の環境も大きく変わり、異常気象は当たり前の時代と成りました。
更には、より機能的で便利な世界とする為開発された電子機器は、私達の生活を、一段と便利で
豊かなものとしました。

しかし、その反面、人類の繁栄の力と成った電子機器は、人類の生活を助ける為の機器から

人類を管理する電子頭脳として急速に進歩しているのです。
人類がこの世に現れて、地球の環境は悪化する一方でしたが、遂に、人類の暴挙を止める物が
現れたと言えるのです。

誰も止められなかった人類の蛮行を、人類自体が創り上げた電子頭脳によって止められるとは

考えもしませんでした。
しかし、その時は、着実に加速的に近づいていると言えるのです。
いまだ、多くの人類や、開発した科学者たちは、コンピューターがの発達が、人類の将来を
切り開くと考えていますが、人類を破滅させるとは、思ってもみない事です。

電子頭脳の進化は、人類が100年を掛けて行って来た事を、わずか数日で行うと言われています。

しかし、それ程にも優れた電子頭脳が、数年もすると、遥かに上回る電子頭脳にとって代わられると
考える学者も多いです。
人間の想像を遥かに超えた電子機器の世界は、私達の想像をはるかに超えて、実は、既に着々と
人類の地位を狙って進化しているのかもしれません。
ただ、私達が気が付いていないだけで、もう、既に、スマホの中にも、私達を操るシステムが
組み込まれていて、有る時、私達の生活すべてがスマホによって支持される時代が来るかも知れません。

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


飛翔体ではなく、ミサイルであり、殺人兵器です

2017-08-29 14:15:27 | 戦争

またもや、日本の上空をミサイルが通過しました。
これまで何度も実験を行い、我々日本人も慣れっこに成っていますが、
ミサイルが日本国内に着弾しなかったとはいえ、この度重なる実験は
戦争と同じ事態であることを認識しなければなりません。
被害が無いから大丈夫と言えることではなく、日本は、常に射程距離にあり
爆弾が搭載されて、標的とされた途端、かつての火の海と成った恐ろしい過去が
現実のものと成るのです。

多くの日本人の今住んでいる地域が、既に、ミサイルの標的と成っていると言う
恐ろしい現実を実感していません。
たった一発のミサイルが飛んで来るのではありません。都市の数だけ、街の数だけ
一斉に私達の街に向かって飛んで来るのです。
アメリカ軍がその前に打ち落としてくれる、自衛隊が防衛してくれると言う幻想は
考えられない事態となっているのです。

そんな大げさな、と思える状態の時、突然やってくるのが戦争なのです。
東日本大震災の前日、誰があの未曾有の惨事を想像していたでしょうか。
戦争も大災害も、全く想像していない時に起るのです。
そして、甚大なる被害を受けた後、その被害から国民を守るべき人たちは
想定外という言葉を並べて、責任回避をするのが常なのです。

その結果は、いまだ多くの人々が悲しい過去を背負い、未来を見ることも無く
日々の生活に追われる毎日を送らざるを得ないのです。
大震災も戦争も、国民が避けることが出来ない悲劇と言えますが、起こる事を
止める事は出来ません。しかし、起こった時、どの様に備え、未来へ繋ぐかは
いつの時代に於いても出来るのです。

一番の問題は、ただ街を再建し、人々が生活できる様にする事だけなく、
戦争が災害が、悲しい思いとして暗い過去の足かせに成らない様に
様々な心のケアをする体制を整える事です。
戦争を行う期間より、終わってからの月日の方がずっと長いのです。
その間、戦争を正しく理解し、二度と悲劇を繰り返さない様な政策を
立案していかなければなりません。
ただ、憎しみと悲しいを背負って行く国民を育てる事と成れば、
人々の心は益々荒み、新たなる争いの火種を生む事にもなるのです。

今回の様な非常事態となっても、リーダー達は、国民の未来を考えた
名案が一向に浮かびません。
ただ、如何に戦争を回避するか、防衛を行い、被害を食い止めるかと言う
目先の事しか考えられません。
空しくサイレンの音を聞いても、突然鳴り響くネット情報を見たとして
一体国民の誰が守られると言うのでしょう。

今の状態で何とか事態の収拾をしようと考えても、もし、開戦と成ったら
次の一手は、アメリカと共同して国民を守ると言うのでしょうか。
今の防衛体制で、日本中の人々の命と財産を守れると言うのでしょうか。
もし、大きな被害が出た時、更なる策は、やはり、日本人を守る為には
軍隊の必要性を説くのでしょうか。
未来を考えれば考える程、我が国は、戦前の悲しい時代に逆戻りして
更なる争いに突入して行く様に思えてなりません。

第二次世界大戦後、近隣諸国は、我が国を憎む方向で国民を教育してきました。
確かに、日本人が犯した様々な蛮行は、多くの人々に耐えがたい苦しみと悲しみを
与える事と成りました。
その事に関して、我が国は、なんの言い逃れも出来ません。
ただ、戦争の不幸は、勝ち負けに関係なく、戦った国の人々に悲しい過去を生みます。
その悲しい気持ちを何かで癒す事は大切です。
とは言え、その気持ちを憎しみに変える事は、新たなる争いを生むだけでなく、
人々の心を人間として豊かに成長させる人生を歩めなくしてしまうのです。

考えの違う人の気持ちを理解したり癒したりする心を育てられなくなるのです。

争い傷つけば、傷つけた相手を憎みたくなるのは解るのですが、人を憎み続け
生きて行く事は、心に大きな負担を与え、周囲に暗い影を落としかねません。
戦争も災害も、人々の心が復興し、人間としての優しさや思いやりのある人生が
歩めるようにする事が大切なのです。
お互いに思いやり、慈しみ合う喜びを知る事に依って、戦争が如何に劣悪で有り
人間にとって最も醜い行為と言えるかが解って来るのです。

これから戦争に成ろうがなるまいが、今の政府の国民に対するケアと言えば、

戦争による直接的な被害を防ぐことしか有りません。
そして、戦争で大きな被害が出たら、大地震の後と同じく、街を復興させ、
前と同じような生活が出来る様にすることしか出来ません。
戦争によって受ける国民の心をどれだけケアできるか、具体的策が無いのが
現実なのです。人が住む街を再建しても、人々が望む街も人間関係も考えられず
その後長きに渡って、国民を悲しい過去の思いから癒す事は出来ないのです。

今の日本国民が置かれている生活環境と同じく、国民は、消費経済を維持するための

消費者であり、新たなる経済社会を作る為の人材に過ぎないのです。
便利で豊かと言われる今の社会で、どれだけ人々の心は荒み苦しんでいるかが
解る政治家が非常に少ないのです。
経済的に豊かになれば、国民は幸せと思っている大人になれない、物でしか満足できない
経済社会の申し子の様な政治家では、国民の幸せは理解できないのです。

大災害が有っても、戦争が起こっても、前よりも立派な街を再建すれば、

国民は、元の様な幸せな日々を送れると思ってること自体、ゲスな考えと言えます。
いまだ、金でほっぺたを叩く様な感覚の人達には、人と人の心の関わり合いは、
理解できないのでしょう。
少なくとも、ミサイルが飛んできても、彼らは、経済力で作り上げた立派な壕に逃げ
事なきを得るのでしょうが、自分達の命と未来を独裁者の一存で決められる国民は
たまった物では有りません。

現在の日本国民は、戦争に成ろうが、このまま事態が収まろうが、どちらにしても

心から満足できる社会に生きていないことは確かなのです。
経済社会を維持するために、働いただけ消費をさせられ、多くの社会的価値が有ると
されるものを身に付ける事で自分の心を慰めている悲しい国民であることを、
時のリーダー達が理解できない限り、この世のシステムを作っている人たちと
彼らに操られる政治家の世界は続いて行かざるを得ないのです。


健康も寿命も医者が決める

2017-08-28 16:05:59 | 日本人

日本国民は、世界的に見ても健康志向が強く、多くの情報が得られる事から
誰もが様々な健康法に長けています。
メディアは、日夜様々な方法を私達に提案し、健康産業は、年々長足の進歩です。
テレビ番組を見ても、夜のゴールデンタイムに健康志向の番組が常に組まれ、
その視聴率の高さは、多くのスポンサーが競って参入する事からも解ります。
その為か、日本人の寿命は、常にトップクラスであり、今や、100歳以上は
全国で6万5千人を超えています。

それ程にも高齢者がいると言う事は、如何に、日本人が健康で長生きをしているか
と言う事にもなるのですが、数字の上では、素晴らしいと言えますが、長生きした人が
実際に心も身体も、納得をした人生を送っていたとは言えません。
この内訳をみると、長生きしたと言うより、医療の力で、強引に長生きさせられたと
言える部分も多いのです。

今や、高度医療が整った日本に於いて、本来ならば、とうの昔に寿命を迎えたはずの

高齢者が、命を終える事無く、生き続けている場合が多く有るのです。
確かに、意識が無くとも、家族の要望で、何とか生きながらえさせている事も有るのですが、
全身にチューブを張り巡らされて、身動きできない状態で一日中天井を眺めている事に
どれ程の方が耐えられると言えるのでしょうか。

病で伏すと言う事は誰でも嫌な事なのですが、それは、健康になると言う前提が有って

苦しい闘病生活も続けられるのです。
しかし、生きながらえたとしても、死ぬまで、ベッドに繋がれていると考えれば
人の身体だけでなく、心が萎えてしまいます。

日本人は、世界的に見ても、高齢者の投薬量が多い国としても知られています。

幾つもの病院を掛け持ちして、毎日大量の薬を口にしている高齢者は幾らでもいます。
医は算術と言われる様に、製薬会社が作り出した薬品は、多くの高齢者によって利用され
膨大なる利益を生んでいます。
それに伴い、医者も、患者を治すと言うより、何か問題を探し、それに適応する多くの
医薬品を投与する傾向が有ります。

近年の医療現場を見てみても、患者が医師の前で問診を受ける時、殆どの場合、患者の目を見て

膚を見て、身体の様子を診ると言うのではなく、多くの時間が、コンピューターの医療システムに
夢中と成って、定期的に訪れる人に対しては、コンピューターを見たまま、次の薬や医療を
決めている状態です。

テレビには、連日健康を謳った医薬品の数々が紹介され、健康保険会社がコマーシャル

スポンサーの中心と成っています。
正に、高齢者や健康不安者は、彼らにとって大のお得意様と言っても良く、医療番組は、
国民を健康にする為と言うより、様々な病気を紹介し、不安感を抱かせ、医療産業を発達させる
営業手段と成っている事が多いです。

ともあれ、これ程にも、多くの知識を得て、医療施設を利用できる日本人は、本当に健康な

人生を歩めると言えるのでしょうか。
病の早期発見の為に、多くの医療機関が、健康調査をする様に勧めますが、何事もなく生活していた
多くの方が、健康基準を少し下回ったとする診断が下ると、途端に、様々な病状が現れて、
診断後の方が、健康でない生活を送っている事も有るのです。

癌の早期発見による治療が大切と言われていますが、がん治療が始まった途端、身体が急激的に

衰弱したり、免疫システムが異常を起こしたりと、思いがけない病気が発症したりして、
癌が治ったものの、その後の人生を縮める結果と成っている場合も有るのです。
医者は、病巣を取り去った事で、正しい治療をしたとし、その後の事に関しては、本人の問題として
早期治療の効果を自負しますが、治療後に、明らかに正常な生活が出来なくなったことに対する
家族の気持ちは、後悔の念が残り、辛い思いを背負う事と成る事も有るのです。

生死にかかわる事でなく、投薬に依る様々な後遺症は一般的に珍しいものでは無く、医者が薦める

薬品類により、健康な人生が送れない事も珍しくなく、この事に対する医療訴訟も少なくないです。
医者から言わせれば、正しい判断で正しい投薬を行ったとするのが常であり、同じように投薬した
患者が何とも無ければ、たまたま発症した例として相手にされない事も有るのです。

つまり、健康になる為に利用する医療機関も、身体を治そうとして摂取する薬剤もすべて、

巨大な医療マーケットに存在するものであり、私達は、そのリスクを考えて利用しなければ
本当に健康を手にする事は出来ないのです。
私達の身体は、誰一人同じではなく、その治療法も人の数ほどあると言えるのです。
実験室でのサンプルを使って人間に当てはめても、効き目が有るからと、誰にでも使用すれば
その殆どが、何だかの問題を起こしていると言えるのです。

しかし、医療産業は、そんな個人の思惑とは全く関係なく、如何に大量に使用し、利益を上げるかに

掛かっていて、一部の人達の訴えや後遺症に対しては、当然の結果として対処しているのです。
そんな算術の中に住む日本人の身体は、少なからず、様々な薬品が流れていて、食害と同じく
薬害が常に起こっているのです。
高齢者とも成れば、様々な薬品を毎日摂取するのが当たり前であり、その薬品が作り出す
後遺症は、本来ならば、治療されるべき高齢者の病の原因とも成っているのです。

高齢になると多くの方の血圧が上昇します。

この事は、高齢者にとって当たり前のことであり、昔は、血圧が高くなった時の症状が
井戸端会議などで語られ、その対処法も人々の話題の1つでした。
しかしながら、血圧が上がり続けた場合や、急激に上昇した時は、直ぐに医療機関を訪ね
治療が必要とも言えますが、最近では、地域や企業で盛んにおこなわれる医療検査によって
多くの方が高血圧として治療を進められます。

しかし、その殆どは、年齢的な自然の上昇であり、生活態度を改めたり、食品を注意したりと言った

日常的な心構えで大丈夫なのですが、医師の中には、すぐさま血圧を薬品で下げる様に指示し、
毎日血圧降下剤を飲まされている方も多く居ます。
所が、この薬は、様々な副作用がある事が多く、私の知っている限りでも、降下剤を飲み始めた途端
行動が緩慢と成り、以前とは違ったやり取りをする様になりました。
明らかに降下剤の副作用と思われますが、身体の調子が思わしく無く、別の医療機関を訪ねると
少し認知症の症状が出ていると判断されました。

しかし、彼は若くて、それまで全くそんな症状が無かったことから、もう一度、検査を受けると、

血圧降下剤による副作用と解りました。
その後、薬も取らず、一か月もすると、血圧も元通りと成り、普通の健康体で仕事がバリバリと
出来る様になりました。
これまで、高齢の方と仕事がらお付き合いをさせてもらいましたが、何名もの方が、
急に、ボーッとしたり、動作が緩慢と成った時、尋ねると、血圧を下げる薬を飲んでいると
答える方が多くいました。

その誰もが、仕事場の検診で血圧が高い事を理由に降下剤を飲んでいると答えました。

この事を身近な医師に尋ねると、たまたまその人の体質に合わなかったからだと言い、
医師の見解としては、様々な疾病を防ぐためにも、血圧は高くない方が良いと言いました。
しかし、高い低いは、人によって基準が異なり、若い頃から常に高い人や低い人がいて
何を持って健康とするのかが非常にあいまいです。

やはり、医療基準を定める事に依って、利益を確定する為としか言いようがないのが、
現代日本の医療体制と思えます。
確かに、世界でもトップクラスの高度医療が受けられるかもしれませんが、常に医者の
基準で健康を左右されてはたまったものでは有りません。
健康と思われる人に聞けば、殆どが、自分の問題点を上げられます。
誰もが、自分の知識から、更には、医療検査からの判断と思われます。

つまり、日本人は、常に健康でないという意識を植え付ける事が、医療産業を発展させ

多くのこの産業に関わる方の懐を満たしているのかもしれません。
しかしながら、医者の力を持ってしか直せない事はともかく、殆どの病は、
人間の本来持っている免疫作用で、大事に至る前に自らの身体を治してくれるのです。
薬と言う名の害毒が、自分の免疫システムを破壊し、身体の様々な病変を悪化させる
大きな原因と成る事も有るのです。
健康とは、様々な薬品の力を借りる事無く、自らの身体の力で克ちえると言う事を
日本人は、もう一度、考える必要がある様に思えます。

 

 

 

 

 


ミサイルが飛んできても、どうしていいのか解らない国民

2017-08-26 13:40:46 | 日本人

日韓合同軍事演習が行われている最中、やはり、北朝鮮は、ミサイル実験を行い、
軍事訓練がもたらす事に依る戦争のリスクを米韓に示しました。
予定通りとは言え、相変わらずの挑発行為は、彼らが一向に歩み寄る事無く、
アメリカと同盟国に対して強い敵意を示していると言えます。
この事は、一発触発とは言いながら、お互いにけん制し合い、如何にどちらが
戦いのイニシアティブを執るかの駆け引きの連続と成っています。

戦いの決断は、いつでも出来ると言えるのですが、その結果もたらされるリスクは
例え勝者と成っても、後々まで強い影響を与え、その後の世界に於ける自国の立場を
決定する事にもなり、その内容によっては、リーダー達の社会的地位も変わる
可能性も考えられるのです。

国と国との戦いとは言え、中身は、彼らの個人的な野望が大きく影響をしていて、
特に独裁的な権限を持って戦争に臨めば、その結果は、自分達の未来に多大な
影響をあたえ、下手をすれば、地位陥落ともなりかね無いのです。
しかしながら、戦争の勝利者と成れば、どれ程の利益を得られれるか、国家としても
個人的にも、願ってもみない結果をもたらしてくれるのです。

戦争の悲惨さとは、そんなリーダー達の思惑の犠牲となる多くの一般の人達なのです。
命も財産も失う可能性が高く、勝っても負けても、戦う事で、多くのリスクを背負い
未来へ重い十字架を背負わされるのです。
戦争が終わって、一見平和な日々が訪れる様に思えますが、人々の心には、終戦は無く
憎しみと悲しみが長きに渡って居座る事と成るのです。

そして、そのはけ口は、対戦国に対する憎しみと成り、代々受け継がれているのが、
我が国の周辺国の現状ともいえるのです。
当然、また新たに戦争が起これば、しかも、より殺傷力の強い兵器による殺戮行為は、
残された人たちに終戦すら感じさせず、泥沼の戦いが永遠に続く可能性すらあるのです。
憎しみが憎しみを呼んで、止めどなく続く争いの悲劇は、いまだに争いが絶えない、
世界中の戦地で見られ、そこに住む人達は、生きる全てを争いに奪われ、ただ、お互いの
欲が満たされるまで永遠に続く戦いに、生きる望みすら見失ってしまうのです。

そう考えると、如何に、今、私達が置かれている環境は、幸せであり、夢に溢れていると
思われるのですが、実際は、その様に感じている人がどれだけいるでしょう。
何でも欲しい物が手に入れられて、何をしようと何処に行こうと自由な我が国は、それこそ
世界中の人々の憧れの地とも言えるはずです。
所が、本当に心から幸せと感じている日本人は、本当に少ないのです。

何でも手に入り、便利で豊かな生活が出来る事が幸せと思っている人は多くいるのですが、

心の幸せは、物ではなく、日本人として他の人々との関わり合いに、不満を抱いている人が
とても多いのです。
沢山物を持っていて、地位や財産を多く身に付ければ、まるで砂糖に群がる蟻の様に集まり
心にもない称賛を口にするのですが、もし、物もなく、地位や財産が失われれば、とたんに
潮が引いて行く様に、誰も周囲に居なくなってしまうのです。

自分自身の価値観ではなく、社会的な経済力や権力を持ってしか自分の価値を認めてもらえない

その寂しさと不満は、日本中の人々の心に存在しているのです。
この事は、家庭に於いても、其々の立場が、お互いに認められず、親子の関係ですら、軽薄と成り
一つ屋根の下に住む意味がない場合も多いのです。
増して、学校や社会となると、一人の個としての存在価値より、成績であったり、経済性や地位
と言った、社会的な価値しか認められ無い事に、あらゆる世代に於いて悲しみや苦しみが
生れているのです。

かつて、交通戦争ともいわれ、交通事故による死者の数が、1万を遥かに超えた年が続きましたが

今では、超えることも無く、交通事故がニュースの中心に成ることが少なくなりました。
しかしながら、その陰で、メディアで伝えられることなく、確実に増えているのが自殺者です。
特に、自分の存在価値を感じられなくなった若者や高齢者が激増しています。
交通事故より遥かに多い死者の数を、メディアは取り上げないと言うより、言わば、国家による
報道規制ともとられる隠され方です。

更に、国民のなかで、世代を問わず増えているのが、心の病に苦しむ方々です。

潜在的には、数百万数千万人いるとも言われていますが、日本社会で、人に言えず、苦しんでいる
膨大なる数の人がいるのです。
メディアは、社会的にマイナスとなる報道を控える傾向が有り、常に、社会の華やかな場面を
報道しがちです。テレビで視覚的に国民に訴える時も、スポーンサーの関係で、多くの人が
喜ぶように番組構成をしがちです。

特に、政府や社会リーダーを批判するような番組は、極力排除される事が多く、テレビを点ければ

常に笑顔のタレントが、幸せいっぱいの表情で消費経済を推し進めるコマーシャルを行っています。
しかし、視聴者の殆どが、羨望の眼差しで商品を眺めたり、素晴らしい環境で生活する富裕層の方々に
憧れと諦めを持ってため息をつくのです。

東南アジア諸国の中で、トップクラスの所得を誇り、生活は、便利で経済的な品物に溢れているとはいえ

現実は、収入をどんなに増しても、次から次へと支出して行く社会システムに汲々としている人が
殆どと言えるのです。
子供たちは、ほんの一部の経済的に満たされたタレントに夢を見て、自分達の未来を託します。
しかし、現実は夢見るまでもなく、若者達に、日本で生きて行く事の難しさを教えます。

子供も大人も、自分の夢を叶える事の難しさに疲れ、ただ、経済的に豊かになれば幸せになると言う

政府の甘言に踊らされ、必至に働くのですが、働いただけ出費して行く日本社会に於いては
欲しいものを手に入れると言う、物欲を満たす事のみで満足をしなければならない、心の満たされない
国民がとても多いと言えるのです。
日本より遥かに低い国民所得の国が、近代的な生活必需品を持たずとも、毎日人として幸せに生きている
そんな光景を見せつけられると、いったい、今の日本の進歩は何んの為であったのかと、考えざるを
得ないのです。

人と人との繋がりが強い国で在ったなら、他国からのミサイルが飛んで来るかも知れないとなったら

あっと言う間に、人々は結集して、その事態解決のために、日本中が沸き立つと思われます。
何度、近海にミサイルが撃ちこまれても、我が国の上空をミサイルが飛ぶかもしれないとしても、
更には、核を搭載したミサイルが、有事と成れば、我が国に着弾するかもしれないとしても、
一向に、日本人は騒ぎ立てず、ただ、その時が来ない様に願っているのは、決して、日本人が
冷静な民族で有るとは言えないのです。ただ、誰もが、自分の事で精一杯の生活を強いられていて、
例え、戦争になるかもと言われても、その不安を周囲の誰にも話す事が出来ないからなのです。

日本人が、他人と口を交わすのは、損得勘定が働く経済的な状況のみであり、周囲の他人と協力して

成長して行くと言う教育課程を踏んでいないからです。
常に自分の事だけを考え、自分の成績を上げる事だけを考え、自分が他人に対して動く時は、会社や
国の方針が決まった時でしかない様に育って来たのです。

個人個人の力量を独立させ、ナンバー化して統制を執る事は、リーダー達にとっては、非常に扱いやすく

経済社会を続けるには好都合の国民と言えるのです。
しかしながら、誰もが欲しがるものを求める事を幸せとしても、自分も他人も、お互いに心の繋がりを
確かめ合って生活しているのではない為、個人としての本当の心の喜びは得られないのです。
自分の価値は、唯一無二の自分の心の満足によって決まります。
それは、同じように、心を持つ人に認められた時なのです。
生活レベルの上下に関わらず、人としての価値は、一生を通じた自分の生きがいと成るのです。
その大切な生き甲斐を損われるならば、誰もが、怒り、お互いの心を守るために戦うのです。

しかし、今の日本人には、この大切な心が育っていないのです。例え、戦争の恐怖が有ったとしても。

一体どの様に対処して良いのか、政府の言い成りにしかなれない様に教育されたのが現代人なのです。
人々の基準は、社会から得た便利で豊かな生活です。
そんな生活をする事が、幸せであると教育されてしまったのです。
消費経済社会を持続し、その社会を牛耳る人たちの生活を守るために、国民は、提案された生活物資を
一生懸命消費する事を目的として生きているのです。

確かに、戦後の高度成長期であるならば、物で満足をする国民ばかりでしたから、誰もが幸せと

勘違いしたのでしょうが、今や、経済的に低迷し、国民も、自らの生活を振り返って、何が幸せか
考えるようになったのです。
そんな時、自分の心が全く満たされていない事に若者たちは反発し、高齢者は落胆したのです。

第二次世界大戦が始まる頃の日本は、物が不足し、国民の生活は汲々としていました。

しかし、人々の生活は、家庭の絆が有り、社会の人と人との強い繋がりが有りました。
そして、日本の非常事態に対し、家族を守り国を守るために、政府に従ったのです。
今や、誰も、国の方針に反応せず、国の為に戦う気にもなりません。
日本人が日本人としての心を育てず、経済を人々の目的としてしまった事に依り
全ての歯車が狂ってしまったのです。
例え、戦争が回避されても、また、戦争に突入したとしても、今の日本国民は、日本を守り、自分を守り
未来を切り開く力は到底なく、アジアの先進国とは程遠い、人としての生き方を間違ってしまった
民族の代表と言えるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 





 


心から楽しめない老後

2017-08-25 17:35:58 | 高齢化社会

ここ数日の猛暑は、これまでになく、生活に支障を来しています。
余りの暑さに、仕事場のクーラーは、何度も止まってしまい、汗だくの中
仕事を行う事と成りました。
部屋の中は、30度を軽く超え、正常な業務が行えない状態となり、早急に
新たなるクーラーを見つけなければなりません。
何しろ、創業以来、30年程頑張って来たクーラーであり、何度も故障し続け
どうにか騙しだまし使って来たのですが、この暑さで遂にダウンしてしまいました。
余りにも古い機種の為、メーカーに問い合わせても部品も無く、修理する事も
殆ど不可能と言われて来ました。
それでも、何度も暑い夏を乗り越えて来たのですが、今回は、どんなに動かそうとしても
すぐに止まってしまいます。
しかしながら、大きな部屋の営業用のクーラーは、価格も高く、そう簡単には交換出来ず
何度も二の足を踏んできました。
いつ壊れても不思議でない状態であったのですが、遂にその日が来たようです。

所で、考えてみれば、同じように耐用年数が過ぎた生活機器や営業機器が増えてきました。
時代時代で新しいものに取り換えて来たのですが、数十年に渡ってそのまま使っている物もあり
部屋を見渡しただけで、昭和の匂いが感じられます。
消費経済社会で生きて行くには、時代に応じて、その都度、社会の流れに付いて行かねば
成らないのでしょうが、クーラーと言わず、様々な時代物が、沢山の思い出と共に
まるで時代に取り残されたようです。

日本が高齢化社会に突入したと言う事は、新たなる時代と成ったともいえるのですが、
時代に取り残された人が非常に増えているともいえるのです。
第一線を退き、悠々自適の生活を送っている方も多いのですが、長く生きている事に
苦慮している人も数多くいるのです。
食べて行くだけで精一杯の高齢者も少なく無く、国からの補助によって辛うじて老後の生活を
繋いでいる人も多く、中には、自力で働いて生きて行かなければならない高齢者もいます。

日本は、決して高齢者にとって過ごしやすい国とは言えず、この事は、生活を保障されている
生活に余裕のある人たちにとっても、決して気持ちよく老後を送れる社会とは言えません。
政府は、衣食住が満たされば、老後は、幸せに生きられると考えている様ですが、
実際は、殆どの方が、息苦しい生活を送っています。
彼らの満たされない部分は、心の中に在り、見た目の生活を豊かにしたところで、
満足できるものでは有りません。

最大の不満は、日本の高齢者たちが、若い人たちの心の中に居ない事です。
厄介者とは言わないまでも、若者たちにとっては、過去の時代の人達であり、自分達とは
合い入れない、別の人種の様な存在と言えるのです。
何故なら、彼らは、小さい頃から、人との関わり合いより、自分の利益を求める教育を受け
周囲の人達を気遣って生きる環境に育っていないからです。
自分の利益となる物には、心を向けるのですが、利益と成らなかったり、関心のないものには
興味すら示さない生活を送って来たからです。

人間関係は、自分の利益となる場合のみ成り立ち、たとえそれが家族であっても、学校で有っても
職場で有っても、同一レベルの感覚であり、高齢者と言うのは、無関心の対象と成っているのです。
社会に出て、高額所得者と成り、沢山の税金を払うようになったとしても、その税金が社会に役立ち
高齢者の生活に役に立っているとしても、それは、社会人の義務として支払っているに過ぎず、
人の為に成っているという感覚は無いのです。
徹底的に、経済的な利益を求め、今の社会にしっかりと適合して行く事を自分の人生の目的とし
人間としての様々な関わり合いには、自分自身の中で価値観を感じる事は無いのです。
社会人としての義務を果たす事で、自分の社会に於ける役割を果たしたとし、人との関わり合いを
持つ喜びは感じないのです。

今や、若者達と高齢者達の接点は益々遠のいています。
新たなる価値観を持った若者達と、過去の時代の人間関係にこだわる高齢者とは
お互いに合い入れない関係であり、同じ日本人として同じ土俵に立っていないのです。
多くの高齢者の孤独は、自分達の年齢が若者達より遥かに高いと言うことだけでなく、
まるで、陸の孤島の様に、日本人の社会から切り離されている事を感じる事です。

日本社会を繋ぐのは、急激に発達したネットであり、人々は、その高速度で動く
コンピューターの世界で生きているのです。
全てのシステムがコンピューターで繋がる事に依り、何でも自分の思いは達成でき
そこに、確実性の低い対人関係は無駄と考えるのです。
ネットの力を最大限に利用すれば、居ながらにして、何でも手に入れる事が出来るのです。

私達高齢者は、何かを手に入れる為には、多くの人の気持ちに触れ合う事が原則でした。
多くの人達との関わり合いを持って、お互いに生活レベルを上げ、地位を築きあげて
来たのです。
立派な社会人と成るには、如何に自分の心と身体を鍛え、様々な知識や経験を身に付け
沢山の人達の思いを知る事でした。

しかしながら、高齢となった今、現役を去った老兵同士の昔話は有っても、現実の戦士との

関わりが断たれているのです。
ただ、餌を与えられ、高齢のペットの様に余生を送っている事で、どれだけの高齢者が
満足できるでしょう。
人々の間で、お互いに切磋琢磨して、自分の地位と価値を気づいて来たのに、今では、
自分の価値を認める人も無く、自分の思いを伝える相手もいない事に、多くの方々が
何の為に生きているのか、生き甲斐を失っているのです。

どんなに美味しいものを食べても、世界中を飛び回っても、それは、自分が持ちえない、

思いが叶えられない多くの世界を知るだけなのです。
人は、どんなに年老いても、生きている限り、この世にいる意味と価値を感じたいものです。
中でも、人としてこの世に存在する価値は、いま、現役で働いている人達から認められないと
生き甲斐とはならないのです。

年をとっても、身体が思うように動かなくなっても、この世に生きている意味と価値を

認められてこそ、長く生きる意味が有るのです。
高齢者だから大切にしましょうとか、労わりましょうと言うのは、そういう事が出来ない方への
メッセージであり、生きている限り、如何に役に立っているかを感じたいのです。
日常的なほんの些細な事であっても、周囲の人たちが感じさせてあげる事が大切です。

高齢者が生きている事で、誰が助かり幸せになるかを解り合える社会が必要です。

ただ意味なく長生きしたとしても、高齢者たちは、本当に心から幸せとは思わないのです。
今や、若者たちの労りの言葉や行動に、高齢者たちは戸惑い、余計に気を使っているのです。
親切にされればされる程、自分達は、社会とは遠く離れた存在であることを自覚して、
寂しさを覚えるのです。

私達は、生まれて死ぬまで、一人の個性ある人間としてこの世に存在し認められたいのです。

その為に、人と違う生活をしたり、ファッションを楽しんだりするのです。
周りの人達に、唯一無二の存在として認められたいのです。
この事は、若者も高齢者も同じなのです。
家庭に於いても、学校に於いても、社会に於いても、自分を認められないで、差別されたり
決めつけられる事に強い反発と怒りを感じるのです。

外見的な優劣を付けられたり、一方的な価値判断をされたりする事は、大きく心を傷つけられ

様々なトラブルを生む原因と成るのです。
今の日本社会は、様々な所で格差や差別が存在し、一部の人達の独占的な社会が存在しています。
欲望を達成できる人々と、欲求不満の我欲に満ちた人たちで溢れています。
そんな人達から取り残されているのが、老人社会と言えます。

新たなる欲望を満たすことも無く、未来の自分を夢見ることない高齢者は、社会の人達とは

隔絶した、人として末期の世界と言えます。
ただ、時間が立つことに身を任せ、その日を待つだけでは、長生きする喜びは無いのです。
新たなる未来を創る力は無くとも、若者たちの夢や未来を助ける力を感じたいのです。
それには、生きている証が必要です。自分が存在している価値が必要なのです。
日本人の高齢者が、経済的豊かな生活を送れたとしても、本当に幸せと思っているのか
理解できるかが、高齢者社会を考える大切な観点と言えるのです。