めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

異常を当たり前と考えられる日本に生きられるか

2018-07-30 17:19:33 | 日本人

かつて、映画の中で、スーパーマンが地球の回転を逆にして時間を戻し
人類を救うと言うのが有りましたが、SFの世界としては考えられても
現実には到底あり得ない世界と言えます。
しかしながら、最近は、我々の常識を覆す事が、頻繁に起こるもので、
異常気象と言われていた事が、異常ではなく、日常と成って来ています。
50年に一度とか100年に一度と言った大雨が、連日降り続いたり、
超巨大台風が世界中で猛威を振るったりと、20世紀の頃は、半分
興味本位で創り上げたような未来小説や映画が、今や現実となり
私達は、経験した事の無い時代を生きているのだと実感します。

今回日本列島を襲った台風は、正に、目を疑うコースを辿り、
日本中の人々を驚かせるだけでなく、世界の気象学者の常識を覆しました。
北半球に於いて、台風は、偏西風の影響が強くて、日本列島に近づいても
次第に東に流されて離れて行くのですが、今回は、全く常識を破る
誰もが驚愕する西へのコースを取りました。
まるで、偏西風に逆らう様に、東海沖から日本列島を西に沿って進み
最後は、九州を巡り鹿児島沖まで至りました。

21世紀と成って、地球温暖化の影響と思われる現象は、世界中の気象に
大きな変化をもたらし、いよいよ、人類のみならず、地球の生き物全てが
これまでと全く違った環境に晒される事と成ったのです。
この異常事態が突発的な事であれば良いのですが、残念ながら、毎年
私達人類が願っても居ない方向に進んでいるのが心配です。

我が国に於いても、長い歴史の中で、春夏秋冬の季節の移り変わりが
様々な生き物の成長繁殖に大きな影響を与え、其々の季節に於いて、
素晴らしい富をもたらしてくれたのですが、例え、極寒の季節が有っても
いずれ暖かい春がやって来ると言う季節の変化を、私たち日本人は、
寒さに耐えながらも期待していたものですが、最近の日本の四季は、
あの穏やかな移り変りではなく、極端な寒さや暑さが毎年繰り返され
一年中荒っぽい気象条件で振り回されています。

大雪、干ばつ、大雨、酷暑と、いずれも、日本人の生活を苦しめるばかりで
最早、私達は、日本の四季に身を委ねて生活できる時代ではないのです。
地球環境の中で、北半球の中緯度に位置する日本は、海流の関係で、
多くの地域が温暖な気候に恵まれ、更には、春夏秋冬、様々な自然の幸に
恵まれて日本人独特の豊かな感性を育てて来ました。
明治以降の経済発展により、多くの自然が失われたものの、日本人の生活は
世界的に見ても、様々な文化を柔軟に吸収し、豊かな食量に恵まれ、
諸外国に比べるも、心豊かで優しい民族として知られるようになったのです。

所が、消費経済国家として、経済性を優先する事に抵抗しながらも、
何とか日本の自然を守り、日本人としての豊かな感性を育ててきたにも関わらず、
遠い昔から私達を育てて来た大自然の驚異的な変貌は、私達日本人にとって、
いつかまた、あの豊かな日本の自然が戻って来ると言う期待すら失わせる程です。
私達人類は、地球環境によって育てられてきたのですから、その環境が変化する事は、
人類がこれまでの様な生活を続けて行く事は非常に難しく、多くの人達が
この変化に付いて行けず、他の生き物と共に、見捨てられるかも知れないのです。

何しろ、今の世の中のリーダー達は、自分達の生活を差し置いて、貧しい人達を
救おうと考える殊勝な人はほとんど居ません。
もし、地球温暖化で人類の未来が危ぶまれるとしたら、自分達だけでも生き残ろうと
考える我欲で生きている人が多いからです。
地球上の富と食料の大半を、ほんの数%の人達が独占している現状を見れば、
確実に、人類の大半は、犠牲になっても構わないとしているのです。
中には、地球温暖化はでっち上げだとツイートする何処かの我儘リーダーも
いる事ですから。

しかしながら、最早、これまでの常識で生きていては、未来へと繋がらず
過去何百年に渡って続けられて来た消費経済社会は、人類を、豊かな暮らしへと
導く事は無いと言う事実をシッカリと認識して行かなければなりません。
巷に溢れる豊かな食量と物資が、あっと言う間に消えてしまう世界が
やって来る可能性が有るのです。
常識では考えられない気象変化が起こる世の中となって、人類の生活が根本から
変わってしまう事も考えられるのです。
既に、世界中で、食料資源のコントロールが始まっています。
限られた食料と資源を如何に確保するか、この事が世界各国の最大の議案で有り、
どの国のどの民族が生き残るかを考える時代に成って来たと言います。

世界的な気象変化は、既に、これまでの世界を継続する事は不可能であると考えられ、
未来に生き残る為、水面下で、世界中の新たなる指導者を目論む人達が準備を
始めていると言われています。
当然、今の社会を支配しているリーダーや権力者たちは、新たなる時代にそぐわなければ
一掃される事と成り、生き残る為には、常識では考えれれない様な社会形態を構築
しなければならないのです。
一部の人達を優先的に生かすのか、国全体の民を、一様に未来へ繋げるように守るのか、
いずれにせよ、限られた資源食料が確保できなければ成り立たないのです。

しかしながら、この非常事態に気づいていない方が殆どと言えます。
今日は明日に続き、これからもずっと幸せな未来が続くと思っている方が
殆どと言えます。
異常気象や様々な天災で、多くの日本人が被災しようと、自分には決して
降りかからないと信じています。
しかし、地震も集中豪雨も、台風も、近年多く発生した災害に見舞われた人たちは
誰しも同じ考えで、まさか自分が被災するとは思っても居なかったはずです。
ほんの少し前に突然大阪北部を襲った地震で多くの家屋が被害を受けましたが、
その時、テレビ画面を見ながら、驚きと共に、他人事のように思っていたのが
今回の集中豪雨で被災した人達でも有るのです。

誰もが、自分が惨禍に巻き込まれない限り実感できないのが災害の恐ろしさです。
しかし、一度被害を受けると、それは、自分が思っていた事の数百倍数千倍の
ストレスと成って襲ってくるのです。自分ではとても対処できない、如何に、
人間は無力なのかを知らされるのが大災害の実態なのです。
その恐ろしい恐怖が、毎年、日本人の数多くに襲い掛かっているのが
現実と言えるのです。

しかし、どんなに大きな災害と言え、たとえ大地震で有っても、被災する人は、
日本の人口のごく一部であり、殆どの人は被害を受けないのです。
その為、まるで、貧乏くじを引いたかのように、一部の人達だけが
苦しい思いをして、災害に見舞われなければ大丈夫と考えるのは早計です。
災害と言うのは、多くのライフラインを破壊するだけでなく、国中の交通網、ネット回線、
商業回線を麻痺させ、国全体の機能が低下してしまうのです。
特に、現代社会の様に、ネットで全て繋がっていると便利な様で、一度、ネットが
使えなく成れば、たちまち、日本だけでなく世界中の社会活動が大きな影響を受けるのです。

被災した地域の人々や生活が破壊されるだけでなく、その影響は、実際被害を受けなかった
多くの人達に対しても後々長く続くのです。
大航海時代に栄華を極めたポルトガルが、リスボン大地震で国の経済が破たんし、その影響は、
数百年後の現代に於いても、ヨーロッパの貧国としての地位を返上する事が出来ません。
もし、東京や大阪と言った大都会が地震で破壊され、流通網が寸断されたとしたら
それこそ、危急存亡の時が訪れ、日本と言う国が維持できなくなるかもしれません。

一番恐ろしい事は、これから想定される様々な天変地異や異常気象では有りません。
私たち日本人の心が、いつまでも異常気象と思っていたり、何時かまた昔の様な
穏やかな日本が帰って来ると言う甘い考えを持ち続ける事です。
被災しなければ、まるで他人事のように、自分自身は決して被害を被らないと言う
油断です。

もし、災害に見舞われれば、元の生活に戻る事は至難の業で有り、現代の日本社会は
例え被災者で有っても、支援者は、利益を伴わない事業には前向きではないのです。
報道に於いては、人道的な観点からの普及活動が全面的に押しだされる傾向が有りますが
復興事業を行う業者も私たち国民を守ってくれる国も、善意の行動の裏には必ず利害が
働いていて、その復興活動は、常に、上から目線の、一方的な考えで成されるのです。
ボランティア活動も長く期待できるものではなく、最終的には、自分達で、元の様な
街を目指す事になるのです。

しかし、当然、国も企業も出来ない事を被災した人たちが出来る訳がりません。
被災地もそこに住む人達もいずれ疲弊して、外部資本に吸収されるか、過去の歴史として
消え去って行く事となるのです。
本当に人々を守り日本人の文化を守りたいと言うなら、災害以前に、人々の基本的な
人権と安全を守るシステムを構築する事が重要です。
被災した後慌てて作り直す街は、既に、街の機能は無く、過去の美しい姿は有りません。
例え災害から生きながらえたとしても、そんな、自分達の心を癒せない街は、既に
故郷でも憩いの場でも有りません。

これから、恐ろしい予想がされる未来に向かって行きます。
次第に局所的な災害から広域災害となり、更には、地球全体に広がる天変地異となる
可能性が実に高いのです。
街を歩く若者達を見ると、彼らの未来を考えて胸の詰まる思いと成ります。

これから数年後で有っても、どれ程大きな気象変化が起こるかも知れません。
しかし、彼らは、恐ろしい未来が予想される時、その時の世界を体験する事になるのです。
希望に燃える素晴らしい未来ならいざ知らず、正に地獄絵図を想定されているのです。

今私達が出来る事、リーダー達が行わなければならない事は明らかと言えます。
地位や名誉に胡坐をかいて、己の私腹を肥やしている場合ではないのです。
今や、ニュースを見れば、次々に暴かれる政治家や著名人の見苦しい我儘な実態ばかりです。
欲望のままに我欲に走る様は、正に、豊かな生活をする人達が、からならずしも
貧しい人達や苦しんでいる人達の方を向いていない事が解ります。

つまり、私たち日本人は、誰しも、誰からも守られていない事を実感する事です。
例え保険に入ろうと、豊かな生活を行おうと、それは一時的な安心に成ったとしても
根本の安心には程遠いのです。
各自が、自分の身近な人達とより絆を強め、いかなる事態が来ようと、心ぶれない
人としてのしっかりとした生き方を貫く事が重要と言えます。
日本における経済的に身を固めた方々は、決して、苦しむ人達に心から手を
差し伸べる事は無いと心得る事から、初めて、想定外の未来を生き抜ける力と
勇気を持つ事が出来るのです。

 

 

 

 



 


自分以外を信じられない日本社会

2018-07-25 21:17:41 | 日本人

確実に、ここ数年の異常気象は、日本人の生活を狂わせ、日本人の感性に
悪影響を与えています。
ただでさえ、消費経済国家で生きる事にあくせくしている国民が、生きる為の
拠り所としていた日本の大自然を工業化で破壊され、されには、地球自体の
気象変化で、日本人のDNAに刻み込まれた、万物に対する豊かな感性が
狂いを生じ、四季の移り変わりと共に、心豊かな生活をしていた歴史が
殺伐とした、だだ、自分の事しか考えられない、かつて日本人が最も嫌った
生き方を強いられる様に成って来たのです。

外見的な豊かさ、自分達の欲望の為に、自然とも人間とも関わり合いを絶ち
ただ、欲求を満たすために生きる人生は、如何に幼稚で惨めで、人として
あまりにも見苦しいと言わざるを得ません。
常に、周囲の人の気持ちを考え、お互いに幸せに成る方法を常に考える事に
努力をしてきた日本人が、いつの間にかに、自分の欲望を叶える為にしか
努力をしなくなって来ているのです。

しかも、自分以外の人からは利益は得ても、それに似合った還元は考えず、
欲しい物は無理やりでも奪い取る事を良しとた考えが横行しています。
持たざる者は、持っている人から奪い、より豊かな生活をしている人達は、
自分達を守る事に専念する、日本人同士がお互いに信頼がおけない社会は
いずれ、アメリカの様に、各自が銃を持ち、自らを守らなければいけない
殺戮と暴動の社会と成ってしまいます。

正に、人を見たら泥棒と思え、と言う、人を信じられない最悪の社会です。
少し前までは、夜道を子供や女性が歩いても、何の心配もなかったのですが、
今や、日本中で弱者が傷つけられる事件が頻発しています。
しかも、一般の社会に於いても、パワハラ、セクハラは当たり前であり、
日本社会は、ただ経済的に豊かに成れば良いとする、我儘な人間が溢れ
社会全体が殺伐として来ました。

人々は、お互いに他人と関わらない生活をしている事から、自分以外の人が
一体何を考えているのかが解りません。
子供の頃から、ただ、与えられたものを熟し、大人の言い成りに成っている
生活を続けている事から、他人との心のやり取りが解りません。
その為、公共機関や多くの人が集まる場所では、ともかく、お互いに関わらないで
被害者にも加害者にもならない様に心掛ける事しか出来ず、時に、大きな誤解を
生んだり、思いがけず人を傷つけてしまったりすることが多くなっているのです。

かつては、世代の違いで、考えが合わなかったり、相手が何を考えて居るか
理解できなかったりしたものですが、現在は、同世代で有っても、たとえ家族でも
お互いの気持ちを察する事が出来ない人が非常に増えています。
その為、自分自身の生き方考え方に自信を持つ事が出来ず、社会の動きや流れに
簡単に迎合したり、メディアに登場するタレントや有識者の話を簡単に信じ
騙される人がとても多いのです。

この事は、子供の頃から、個人的な人間性を高める教育と言うよりも、大人や
社会に都合の良い子供を作る事が教育の中心となっている事に依ります。
学校や社会の方針に従える子供は優遇され、社会の中心に置かれる様になります。
つまり、社会に出ても、社会を動かしている人達を守り、より豊かにする人材が
常に求められているのです。

その為、上の地位の人にとって都合の良い人間になる事は有っても、他人や
自分の周囲の人には何の反応を示さないのです。
たとえ、多くの人が集まる大都会で有っても、殆どの人が孤立している理由が
日本社会の実態で有り、消費経済社会の姿といるのです。

縦社会から生まれた日常は、自分の関わる人達とはやり取りが出来ても、
自分と関わり合いの無い他人に対しては何の反応も示さず、例え、自分以外の人が
突然目の前で倒れたとしても、何の具体的な行動もとれない人が多いのです。

しかし、そんな日本人でも、生きて行く為には、仲間を増やし、家族を持って
生活して行かなければ生きていけません。
所が、家族も仲間も、世の中からすれば、ほんの小さな微々たる存在とは言え
家族を守り、仲間と喜びを得る為には、この殺伐とした社会から利益を得て
行かなければならないのです。

何故、日本社会は、多くの人にとって生き辛いのか、それは、自分以外の人が
自分に対して何の関心も無く癒しも与えてくれないからです。
日本人と言いながら、日本人としての絆も信頼も無ければ、日本にいながら
何処か知らない国の人と暮らしている様なものです。

経済的に豊かであれば、煩わしい人間関係は必要で無いとする人が増えていて
経済的に豊かな人達と、日々の暮らしに苦しむ人達とは、経済的以上に、
全く別の人種であるかのような関係が出来ているのです。
今や、日本社会は、豊かな人達の社会と、そうでない大多数の人達の社会に
分かれていて、よほどのことがない限り、お互いにテリトリーを分け合って
生活しているのが現状です。

公共の機関でお互いの社会の人々がすれ違っても、まったく無関心を装い
生活の殆どが、其々のレベルに応じた社会体形と成っています。
子供の頃から、生きる環境が違っていて、お互いの社会に関わる術を
持たないで大人に成って行くのです。

問題は、社会全体を動かして行くべき地位の人達が、政治家の様に
例え庶民の間から選ばれたとしても、しばらくすれば、豊かな人達と
関わるも、自分を支えてくれた人達からは遠のいて行く事です。
地位が上がり豊かな所得に恵まれると、たとえ政治家であっても
利益を与えてくれる人達に、簡単に尻尾を振ってしまうのです。

いつまで経っても無くならない贈収賄事件、地位を利用した
利益供与は後を絶たず、政治家になると言う事は、私欲を満たす事である
と言っても過言では有りません。
当然、リーダー達がこの体たらくであれば、国内は、益々荒んだ社会と
なって行くのが当然であり、経済的な問題だけでなく、人間として
日本社会は生き辛いと言えるのです。

経済的成長は有っても、人間的成長が伴わない人達が増えているのは、
日本人が置かれている環境が、如何に子供の頃から、人としての教育と成長が
ないがしろにされているかが解ります。
テレビを始めとする外見的豊かさや美しさを求めるあまり、その裏に隠された
様々な人間模様を感じる事が出来ず、常に、誰かの考えや判断を仰がないと
自分の生き方が解らない人が増えています。

経済的な豊かさや社会的知名度でしか人を判断できなくて、著名人たちの言葉を
そのまま真に受けたり、身近な人達の真意が理解できずトラブルに成ったりと、
日本社会は、日本人の持っていた、豊かな人間性と感受性を育てる事が出来ず、
人との比較でしか、自分の幸不幸が判断できない寂しい人が目に付きます。

餌を投げられれば一斉に飛び付き、無くなれば、一気に散って行く池のコイでは
余りにも寂しいと言わざるを得ません。
人としての自分自身も他人の心も感じられず、自分に自信が持てず、常に周りの
評価を気にしている人生は面白いはずは有りません。
当然、常に誰に対しても批判的であり、著名人や自分より地位の上の人に対しては
簡単に迎合してしまう方が実に多いです。

人に対して礼義を尽くし、教えを乞う事はとても大切な事ですが、それは、その人の
人間的な価値に対してであって、社会的な価値や外見に対してではないのです。
しかし、人其々の心の違いを感じられない人が実に多く、簡単に外見で騙されたり
逆に、傷つけたりする場合が増えています。
その為、日本人の多くが、他人に対しておく病と成り、自分自身に対しては、常に
不安が付きまとい、心が癒されない方が多いのです。
しかし、その心の不安を、外見的な物で満たそうとする事で、一向に先が見えず、
一人苦しんでいるが実情です。

社会的な地位や名誉財産を身に付ける事で、そんな寂しい心を満たそうとして
苦しむ日本人がいかに多いか、例え、経済的に豊かな生活をしていたとしても
いつも孤立を感じている人は少なくないのです。
日本人の豊かな生活は、いまだ、外見的な豊かさに過ぎず、より経済的に豊かに
なる事に依って、自分の寂しい心を慰めているとも言えます。

人は何故、豊かな生活をしたいのか、素敵な人と巡り合いたいのか、楽しい家庭を
築きたいのか、多くの人から賛同されたいのか、この答えは、唯一
自らの存在価値を感じて、不安で寂しい心を癒したいからです。
人は、自然界に投げ出されたら、何も出来ない存在です。
身に着ける物、食べる物、生活必需品全てが与えられて初めて生きていけます。
身包み全てを取り去られたら、生き物として、最もひ弱な部類に入るのです。

しかし、人類がこれほどまでに進歩でき、地球上の生き物の頂点に立てたのは、
お互いに、足りない物を与え合って、満たされない心を満たし合う事に依って
今の大繁栄を勝ち得たのです。
人間の作り出した様々な便利で豊かな物が有ったから今の繁栄があったのではなく
より豊かな人生を送る為、より幸せな気持ちになりたいが為に、様々な物を生み出し
一人一人の心を癒して来たのです。

お金も地位も財産も、誰もが幸せに成りたいが為に生み出した物であり、
それらの存在が、私達を幸せにしているのではないのです。

経済社会に生きる多くの日本人が、本当の目的を見失ったところから不幸が始まったのです。
どんなに働いても、どんなに便利で豊かな生活をしたとしても、心の奥底には、不安が残り
本当に心から幸せを感じられないのです。

豊かな生活をする事で、多くの人達から祝福を得られるのならいざ知らず、豊かに成れば
逆に妬み誹りを受け、自らの地位や財産を守る事に専念しなければならない現実は、
消費経済社会の不幸と言わざるを得ません。
ただ、社会的に豊かで守られていると言うだけで個人の幸せと考える日本人が、
いつまで経っても、本当の豊かさと安心を得られないのが実情と言えます。

多くの著名人だけでなく、一般的に豊かな生活をしていると思われる日本人が
日々、心が孤立して、誰からも自分の存在価値を認めてもらえず、ただ、外見的な
社会的価値のみの好奇心で集まる人々に辟易している場合も多いのです。
人間が人間の中で生きる時の幸せとは一体なんなのか、見てくれの幸せに、安易に
身を委ねている日本人が、いつまで経っても本当に幸せに成れないと言うのは、
ある意味、仕方のない事なのかもしれません。



 

 

 

 

 

 

 

 


えっ!この暑さで冷蔵庫が使えない!?

2018-07-25 14:11:42 | 帰省

久し振りの帰省は、様々な発見をするものです。
都会にいると見えなかった星空に驚き、手が届くところに様々な種類のセミが
声を競っています。暑さで、蜃気楼の様に揺らぐ砂利道の上を、トンボが行き交います。
明らかに、特別の時間が流れている様で、当たり前の様に思えている都会の喧騒が
決して私達の身体を癒してくれないものだと感じさせられました。

正月に帰省した時に比べ、庭の草花は深い緑の中にあり、早朝からの気温の上昇で
折角の庭の風情も、あえて足を踏み入れる事をためらわせます。
広い田舎の部屋の作りは、クーラーで冷やすのは効率的とは言えず、家族はいつも
6畳ほどの部屋に集まり、身体を落ち着かせています。
とは言え、いつもその部屋にいるわけにもいかず、別の部屋へ行ったり、トイレに行ったり
家事をしようとすると、一気に熱帯の熱い風に晒される程の暑さです。

所で、今回は、父が、少し元気がないから顔を見に帰ろうと言う事で急遽帰省と成ったのですが、
思いの外元気で一安心しました。
しかし、二人共90を超えた高齢者とあって、普段の何でもない様な作業でも身体が思う様に
動いてくれない様で、二人で協力をし合っているとはいえ、家の隅々まで注意が行くわけもいかず
何か月も入らない部屋が有ったり、掃除が行き届かない場所は、まるで廃墟の様に汚れたままです。

冷房の入った部屋は過ごしやすくとも、一歩外に出れば、たとえ部屋の中でも32度を超えていて
こんな環境でよく頑張っているものだと感心させられますが、二日ほど滞在している間、思いがけない
事件が発覚して、帰る間際まで、その処置で大変でした。

帰省した当初から、何となく気づいていたのですが、冷蔵庫があまり冷たく有りません。
扉を開けば、暑い台所に置いてあることから、冷気が感じられるはずなのですが、二日目になって
妻が異変を感じました。
冷凍庫の氷が解けていて、冷蔵品が全て解凍状態と成っているのです。

慌てて、全ての引き出しや扉を開けてみても、冷蔵庫から流れ出るはずの冷気が感じられず、
まるで、氷の塊を入れて冷やしていた昭和初期の冷蔵庫の様な状態です。
しかし、両親は、のんびりとしたもので、この状態でも冷蔵庫は大丈夫だと言います。
タナの奥の食品の食べ残しなどをすべて出してみると、その多くが変質し、中には、見事に
カビで覆われている異物も出て来ました。
いつからこの状態であったのかは解りませんが、この異変に気付く事無く、この暑い夏を
過ごして来たと思うと、ゾッ!としてしまいます。

早速、新しい冷蔵庫を手配しながらも、東京に帰る時間が迫って、本当に慌ただしい帰省と
成りましたが、それでも、久し振りに両親の元気な顔を見られてホッ!としました。
しかしながら、我が家だけでなく、今や日本中で、こんな老後を送っている人がどれ程居るか
大家族で見守られている高齢者もいるでしょうが、高齢者同士、また、一人で老後を過ごす方は
どれ程居るかと思うと胸が詰まる思いです。

高齢者福祉対策を講じているとはいえ、日本全国の高齢者が、安心して健康な毎日を送れる日は
まだ先の事と思われます。
例え身近に誰かが付いていると言え、身体だけでなく心のケアまで行き届いた福祉政策が
一日も早く充実する事を望まざるを得ません。
高齢者だけでなく、日本に於いては、若い人達を含めて、弱者対策の遅れが目立ちます。
見た目の豊かさや外見的な対策だけでなく、一人一人が自分の未来に希望と夢が持てる
本当に豊かな日本になる日が来ることを心から願いたいと思います。

帰り際の、両親の切ない表情は、今の日本が高齢者だけでなく、全ての国民に対して
安住の地に成っていない事を感じさせます。
働く若い人達も、家族を持ちたくとも、様々な障害に阻まれ、新たなる一歩が踏めず、
苦しんでいます。幸せな家庭を築く夢が当たり前に持て、一生を通じて、家族と
親しい人達と絆を深める事が出来る社会が本当の幸せに繋がると思えます。

 

 


猛暑の帰省

2018-07-21 11:10:36 | 日本人

半年ぶりに帰省しています。
東京の生活に慣れていると、故郷に降り立つと
余りにも静かで、まるで無音室に入ったように
何も聞こえてきません。
夜遅く帰って来たせいかもしれませんが、駅から
自宅までの道のり、人っ子一人出会えません。
しかし、空気が澄んでいるのか、歩く正面に見える
星の光が、東京では考えられない程強く感じられます。

実家に帰ると、90を超える両親はすでに就寝中でしたが
物音に気付いて、のこのこ起きてきました。
一年中ほとんど二人で暮らしている事から、家の中は
二人が利用する場所以外は、まるで廃墟の様です。
自由が利かない体であり、時折ヘルパーさんが片付ける
と言っても、広い田舎の家は、殆どが手つかずと
言っても良く、兄弟全員が、遠く離れた地で生活していて
中々帰ることが出来ず心苦しく思います。

とは言うものの、老人力と言うのは、我々が思うよりも
力強いもので、不自由な身体を一生懸命動かして、
家事をこなしていく様は、頼もしくさえ感じます。
家の近くのマーケットを覗けば、そこは、高齢者ばかり
日本は、高齢者で溢れているのを、改めて実感します。

しかしながら、高齢者たちが老後を安心して過ごせるような
施設や制度は出来ているのですが、たとえ長生き出来たと言え
生きがいを感じる生活が出来ない高齢者が多いです。
人は、高齢者に限らず、自分がこの世に生きている意味や
価値が感じられないと、例え衣食住が満たされても、
心から幸せを感じないものです。

特に、社会からリタイアしたと思われている高齢者にとって
自分の存在理由や意味を感じられないと、寂しさを感じます。
高齢者だから大切にすると言うのではなく、高齢者であっても
家族の為に、地域の為に、社会の為に役に立っていると
感じる事が、生きがいを生み、しいては健康に繋がるのです。

それにしても、今の日本社会は、何処にいても心から癒される
場所が有りません。
にぎやかで華やかな場所は、常に消費を求められ、健康で
豊かな生活を送るには、それ相応の財力が要求されます。
例え何でも手に入ると言われる日本社会に於いて、誰もが
望むものを手にするだけの資金が必要です。

つまりより多くの消費が出来る人が、日本社会に於いて
安心で健康で豊かなな生活を手に入れること出来るのです。
その為、多くの方が、生きるための目的を、より多くの
資産を手にする事とするのです。

また、日本社会が求めるのも、より豊かな消費が出来る人
であり、利益を求める人たちも、どの様な過程で消費する
資産を手に入れたかと言うより、自分たちの利益をどれだけ
多く得られたかと言う点に目的を置いています。

豊かな消費経済社会と言うのは、個人としての価値と言うより
常に社会に対する価値が求められることから、日本人の心に
生きている満足感や価値観を得られないのです。
この事は、決して、高齢者だけの問題とは言えず、今や、
日本社会全体の問題としてすべての世代に於いて存在します。

子供たちの教育は、人間としての豊かな感性を育てると言うより
将来求められる資格や地位を目指して、他人より秀でる事を
求められます。弱者に対する思いや周囲の人に対する思いやり
と言うより、まず、自分の欲望を優先する様になるのです。
今の日本社会は、経済的に秀でなければ、豊かな生活は
保障されず、他人の事を構っていられないのです。

幸い、小さい頃から、この社会目的に従って、周囲が望む
社会的地位を得られた方は良いのですが、残念ながら、
殆どの方は、自分の生活を維持していくだけで精一杯なのです。
より多くの支出を求める経済社会は、例え、所得が増えても
それに応じて出費するように出来ていて、余程の高額所得を
得られない限り、余裕を持った生活は出来ません。

日本における豊かな人は、ほんの一握りと言えます。
殆どの国民が、そんな方々を支えるために、自分の
地位と財産、そして家族を守るために頑張っているのです。
巨大なピラミッドの頂点を見上げながら、ただひたすらに
周囲を見る余裕もなく働き続けているのが、日本人の実態です。

定年を迎えてリタイアしても、失業しても、病に伏しても
上を目指すことが出来無くなれば、人間としての価値を
見出すこともできず、転げ落ちてしまうのが日本社会です。
高度成長を遂げたとする日本人の家庭を見れば、それまで
買い求めた便利グッズや生活用品で一杯です。
そのどれもが、なくてはならないものと言うより、
メディアやほかの家庭との比較として買い揃えた物です。

まさに、便利で豊かな物を買い揃えれば、幸せになると
信じて疑わなかった証拠と言えます。
日本中、どこの家庭にも、同じような商品が溢れていて
その価値は、自分自身が本当に必要としたものと言うより
人が持っているから、メディアが薦めるからと言った、
本心を満足させるものとは言えないものばかりです。

しかし、この満足できないと言う事が、消費経済に於いては
重要であり、常に、欲求を完全に満たせないことが、
更なる消費を促し、提供者の思う壺となっているのです。
常に、自分の心と対話するのでなく、他人と比べる事で
いつまでも欲求不満の状態が消費者を不安にさせるのです。

幸せになる為と言いながら、一生満足できない生活が
例え経済的に豊かになったとして、幸せでしょうか。
現代日本人は、物で心を満たそうとして、いつまで経っても
幸せになれない民族になってしまったのです。

一生懸命、会社のため家族のため働いて来て、定年になれば
悠々自適の自分の心を癒す老後を楽しもうとしても、
自分の存在価値が認められず、国からは、便利な生活を
施されても、本当に心から満足できないのです。
日本の高齢者も若者たちも、心が満たされない人が
余りにも多いのです。
しかし、経済的に豊かになれば幸せになるとするリーダーは
まさに、豊かな経済社会を勝ち抜いた人であり、日本人の
大多数の気持ちは到底理解することは不可能なのです。

政治家としてのパフォーマンスは長けても、国民の真意を
感じられないリーダーたちでは、国民は、単に、選挙の時の
頭数にしかすぎず、声を大にして訴えた選挙の時の理想論は
魚釣りの撒き餌でしか有りません。
かろうじて生かされている多くの国民は、ひとたび惨禍に
見舞われれば、経済的基盤を失うだけでなく、生きる為の
強い心の繋がりを持たない為に、非常に大きなストレスを
被る事となるのです。

国のリーダーたる人たちは、国を支え続ける国民の生活を
守るだけでなく、心の平安を守る義務があります。
例え、経済的基盤を失っても、基本的人権が守られ
また新たなる生活が得られるまで、安心して生活出来る
心のケアを提供しなければなりません。
経済的援助を行ったとしても、人々が、未来に対して不安な
毎日を送らなければならない様では、国民を代表して
政治を行っているとは言えないのです。

今や日本国民は、災害に合わなくても、未来への不安を
抱いている人が実に多いのです。
経済的に豊かであっても、家族や地域の人から孤立していたり
自分の思いを語れる人が周囲にいない場合が少なくなくて
生きる事に寂しさを感じる日本人が多くいるのです。

例え、ネットの発達で、世界中の情報を手に入れられたとしても
身近な人からの情報が全く得られなくて、孤立している人もいて
逆に、SNSを使って、多くの人に自分の存在を知ってもらうことで
孤立から逃れようとしている若者は多くいます、
今や、都会の様に、多くの人々が集まっているとは言え、知る人は
殆どなくて、経済的基盤を失えば一気に被災者たちと同じ状況に
なってしまうのです。 

日本人が日本人として誇りを持ち、未来への夢と希望を語れる
多くの友や家族を持てる日はいつ来るのでしょう。
例え、地球温暖化で、人類が滅亡の日を迎える時が来ようと、
信頼できる友と深い絆で結ばれた家族に囲まれていたいと思います。

 


有事に何もできないリーダー達

2018-07-19 14:07:29 | 日本人

これ程暑い日が続くと、たとえ、クーラーで四六時中身体を冷やしても
身体は、気持ち良く成るどころか、頻繁に寒暖の差を感じる事で、
自律神経が失調をきたし、頭の中は常に悶々としてスッキリしません。
テレビを通じて、コメンテーターが、盛んに、ミネラルと塩分が含まれた
水分を摂取するように訴えますが、急に、水分ばかりを口にする生活は、
明らかに食欲不振を呼び、出来るなら、冷えたビールで補いたいと言うのが
本音です。

熱中症で亡くなる人が日に日に増えて、天気予報図を見ると、日本中が
晴れマークと成り、軒並み35度を超える猛暑です。
北に行けば、高原に行けば、過ごしやすいと言う思いから、避暑を兼ねて
各地を旅行しようも、何処に行っても同じ事、日本中は、まるでサウナの中に
投げ込まれたような酷暑なのです。

それにしても、今の日本は、様々な異常気象や地震と言った、多くの人が巻き込まれる
災害に対応できない国です。縦割り社会が生む悲劇とも言え、災害が起こった時、
一番機能しなければならない中枢部が、常に、曖昧な対策を取ったり、手に負えなくなると
想定外と言って逃げるばかりです。
自分達が一体如何なる責任ある立場にいるのか解っていない方々があまりにも多いです。
肩書きや名誉は、全て自分を満足させるもので有り、人の上に立つ責任が感じられない
我欲と保身しか感じられないリーダーが目立ちます。

とは言え、現実は、非常に厳しく、惨禍に見舞われた人々の日々の生活は、命を繋ぐことで
精一杯であり、例え、多くの救援物資が届いて、復興事業が始まったとしても、人々の心が
癒されない限り、被災した時から心の糸は張り詰めたままなのです。
様々な思いが錯綜し、失った家族、家、財産、そして、自分達が生きて来た故郷が見るも哀れな
惨状と成ってしまった事に対する深い憤りと悲しみは、外見的な生活基盤が復活したとしても
決して消え去るものではなく、その後、人生を通して心の痛みとして残って行くのです。

災害に見舞われた後、ライフラインを整え、一日も早く元の生活を取り戻す事は大切と言えますが、
この事は、災害復興に於いて当然の事で有り、同じ国民として、国全体で支援して行かなければ
ならないのですが、これまでの、日本各地での復興事業を見ても、既に限界が来ている事を
政府関係者は理解しなければなりません。
ただ、見た目の生活を良くしたとて、人々の暮らしは、本当に前の様に、いや、前以上に豊かに
なったかと言えば、全く反対の状態と成ったケースが実に多いのです。

被災者達も、一日も早く普段の生活を取り戻したいと言う事から、支援者たちの言うがままに
復興事業を行うのですが、例え、以前よりも経済的に豊かな生活と成ったとしても、多くの方が
更なる苦しみ悲しみに追いやられる事が少なくないのです。
つまり、被災者たちの思う復興後の街と、支援者たちの考える街は全く違っていて、出来上がた
新たなる故郷は、以前の面影が全くなく、まるで、何処か異郷の地に移転したかのような寂しさを
感じる事が多いのです。

多くの支援をする側の意見として、助けられる側は、不満を言うこと自体おかしいと言う考えや
被災者側の、助けられているのだから、不満を言ってはならないと言う暗黙の了承が、相互間に
表に出ない、複雑なしこりを残しているのです。
この事は、どちらの考え方も解るのですが、問題は、何十年経っても、どれだけ多くの災害に遭っても
日本の復興事業は、本質的に全く変わらず、縦割り社会がそのまま何の疑問も無く受け継がれている事で
被災者は、災害で苦しい思いをするだけでなく、復興に於いても、晴れぬ気持ちが続くのです。

日本に於いて、有事とされる事が起こった時、何処から指令が発せられ、どの様に末端まで伝わり
国民を守るかと言うシミュレーションは幾度となく行われているのですが、それは、あくまで想定であり
現実にそぐわない場合の方が多くなっているのです。
問題は、想定外の事が起こった時、執行部は指令を出す事が出来ず、無能化するのが現状です。
あらゆる事態に備えるのが執行部の責任で有り義務なのです。間違っても、酒盛りしている場合ではなく
直ぐに対応できてこそその地位が充てられている事を忘れてはならないのです。

これまでの経済成長を優先して来た時代から、人間一人一人の生活を優先した社会に移行して行くとが
新たなる事態を迎えた時、自信をもってリーダーとしての役割が果たせるのです。
応急処置の様な復興事業ばかり行っていると、日本人は、益々不安と成り、未来への希望を見出す事が
出来なくなってしまうのです。
経済的に豊かに成るにつれ、より豊かな生活は豊かな消費が行えることとすると、人々は、誰よりも
便利で豊かな生活を目指すだけで、人間的な関わり合いを失ってしまいます。

どんなに豊かな生活をしても、人は孤立して生きてはいけません。家族と親しい友と、親しみ深い地域の人と
自分の存在価値を感じながら生きたいものです。
つまり、被災すると言う事は、この親しい関係が失われると言う事です。
経済的に復興したとしても、この人間関係が失われたままでは、被災者の心は本当には復興できないのです。

文化の発展と共に、人間社会も成熟して行かなければなりません。
様々な社会事業も国の事業も、国民の心を豊かにする方向に向けられていく事が重要と言えるのです。
国民は、経済社会を続ける為の奴隷で有ってはならないのです。一人一人が、人間として健康で豊かな
人間関係の中で幸せにある権利があるのです。

その権利を満たすために、国民の代表ががん首を揃えているのであって、自分達の地位を利用して
私欲に走っている様では、本末転倒と言えるのです。
様々な災害や試練は、国のリーダー達が試されているとも言えます。
もしもの時、国民に惨禍が降りかかった時、リーダー達の資質が問われるのです。

残念ながら、これまで、戦争などで国民を多く苦しめる事は有っても、国民を、本当に幸せに
して来たとは言い難く、自分達に都合の良い人達を支援しても、多くの国民に対しては
馬耳東風であったと言えます。
著しい経済成長を遂げたとはいっても、国民一人一人を幸せにしたとは言えません。
一部の人達をより裕福にする事は有っても、国民が本当に豊かに成ったとは言い難く、
国民生活の目的も、経済社会を発展させる為に有り、日本人の心を失いかねない
厳しい生活を強いているのが現状です。

国民の現実を見る事無く、周囲から伝えられれる情報の元に、レンガの館で、与野党が
ディベートを繰り返している様では、いつまで経っても日本国民は幸せに成りません。
いまや、白髪を乱し、腰の痛みに耐えながら、高齢者達が、泥にまみれた我が家の
後片付けに一日中耐えています。
支援活動を充分に行っているからと言って、自分達の責任は果たしていると思っていたら
これからも何度もこの様な苦しみに見舞われる日本人が出て来ます。

今、国民は、何に苦しみ何を求めているのか、間違っても経済的な豊かさではないのです。
その前提である、日本国民としての誇りと喜びを感じられる生活を求めているのです。
誰よりも豊かな生活を求め、周囲の人は敵であるような、一部の人達だけが豊かな国を
求めているのではないのです。

選ばれた人達には解り辛い事かも知れませんが、少なくとも、日本人の90%以上は
日本人同士が争わず、お互いに幸せに成る事を望んでいるのです。
親方目線で、施しをする様な事業計画や復興計画は、人々の心を逆なでする事は有っても
悲しみに暮れる被災者の心を癒す事は出来ないのです。

日本経済社会で生きる日本人は、ある意味、日本社会の犠牲者であるとも言えるのです。
豊かな生活をしている様に見えて、多くの人々は、毎日生きる事だけで精一杯です。
人間として豊かな心を持って生きると言うより、経済社会に付いて行くだけで、
豊かな対人関係を育てる余裕すらありません。

益々厳しくなる生活に、日々の生活を続けるだけで身の細る思いの日本人が多いのです。
この事は、所得が多い少ないに関係無く、すべからく、生活のあらゆる場で、支出を求められ
日本で生きて行く事がこれ程にも厳しいと思う方は少なくないのです。
アメリカの腰ぎんちゃくと言われた日本ですが、日本のリーダー達も、豊かな人達の
腰ぎんちゃくで有る事は否めません。国民に顔を向けても大した利益にはなりません。

豊かな人達に良い顔を見せれば、少なくとも私欲は満たされ、たまたま、マスコミに発覚すると
その氷山の一角が暴露され、お決まりの下手な言い訳と保身が始まります。
この事は、いつの間にかあやふやにされてしまうのですが、これは、日本政界の常識で有り、
時たま、国民は、氷山の一角を知っただけで、次の話題までの一時の禊を見るに過ぎないのです。

私達は、何をもって人類の進歩とすべきか考える時期であると思われます。
巨大なビルを建設し、摩天楼の大都会を作り上げたとして、果たして、日本人は幸せなのか。
例え、オリンピックを誘致したとして、それが、本当に国民の幸せに繋がるのか。
全ての文化事業は、国民一人一人を幸せにする為に有る事を忘れてはならないのです。
見てくれの幸せや美しさは、人々の心を苦しめ、荒んだ人間関係を生み出す事を
知らなければなりません。