めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

国民の気持ちを代弁する政治家は何処に

2017-03-31 14:44:02 | 日本人

大震災から6年が過ぎ、避難解除された故郷に、次々と
被災者たちが帰り始めています。
しかしながら、新たなる引っ越しは、被災者たちにとって
多くのリスクを伴います。
故郷に帰れるとなっても、そこに自宅がある人達は少なく、
また新たに住まいを求めなければなりません。

更に、たとえ故郷と言っても、そこには、かつての故郷の姿は
海や山しか見つけられません。
街は復興工事で大きく変わり、新たなる地に住むと言っても
過言では有りません。
多くの親しい人を失っただけでなく、生まれ育った懐かしい故郷は
もうありません。

津波に襲われなかった地域にしても、放射能汚染は深刻です。
除染が終わった地域の地図を掲げ、東北の広い地域が安全になった
とするメディアは、政府が主張するがままに発表していますが、
実際は、人々が住んでいる非常に狭い地域だけが除染されていて
山や草原と言った自然が多く存在する地域は、今だ全く手つかずで
住民たちは、砂漠の中に作られたオアシスに住むようなものなのです。

緑に覆われた故郷の山々は、目に見えない放射能汚染で入る事も出来ず
居住地地域とほんの一部の土地にしか自由な行動は許されません。
復興事業と同じく、政府や東京電力は、立てられた復興計画通り
進んでいると言いますが、それは、自分達が勝手に決めたプランであり
段取りとして、自分達が次に進む事業への見切り発車と言えます。

巨大な復興計画は、あくまで実際に事業を行う関係者と政府の
都合の良い様に作られた、自分達が想像する復興計画であり、
被災者の心に寄り添ったものではない事は明らかです。

多くの国民は、災害に遭われた東北の方々を、痛み悲しみ
見守って来たのですが、事業と言う名の中身は、感情が入らない
建設計画であり、どれだけの利益を得られるかと言う観点から
作られて来たものであり、当然、多くの公共事業と同じく
そこに住む人たちにとって、何の利益もない、無用の長物が多いのです。

例え復興事業と言っても、その中身は、政府と業者の利益を目的とした
建設事業なのです。
より、外見的に美しく機能的な街を作れば、被災者たちは喜ぶと言うのは
単なる表向きであり、復興事業でどれだけの収益を得られるかが、
本当の中身であることは明らかと言えます。
政府は、復興事業を早く終わらせ、企業は、次なる利益を求めるのが
本音と言えるのです。

しかしながら、こんなにも多くの方々が苦しんでいると言うのに
相変わらず、政府の議題は、政治家と民間企業との癒着を示す、
醜い犯人探しです。
御互いに甘い汁を吸い合っている政治家と企業の醜い関係は、
お隣の大統領逮捕という大ニュースと根っこは同じであり、
如何に国民の為に政治を行っていると言っても、自分達の目的が
私欲を満たす事と成っている事実が、過去数十年の歴史を見ても
同じ事件が無くならない事からも明らかといえます。

つまり、民主主義国家と言う嘘の衣を着ている日本国家は、
どんなに外見的に豊かになろうと、経済的独裁主義を掲げる
一部の富裕層の我儘国家に過ぎないのです。
かつて、原子力発電所が絶対安全と主張する人たちに対して
それ程言うなら、原子力発電所を、東京都の干拓地に作っても
安全だろうと賛成派に食いついた議員が居ましたが、同じように
福島の美しい山の中に議員さんたちの別荘や住居を作れるかと
問えば、誰一人手を挙げる人はいないでしょう。
高濃度汚染は、山間部では全く除染されていないのですから。

被災者たちの憤りは、除染が上手く行かない事ではなく、
あたかも、完全に除染され、安全になったと発表する事です。
原発汚染は、どれ程人類にとって危険であり、東北の大自然が
安全と言われるまでは、気が遠くなるほどの長い年月が掛かるのは
誰もが解っているのです。

今回の安全宣言も、ほんのごく一部の面積であり、その周囲は
汚染当時と全く変わっていない事も知っているのです。
にもかかわらず、危険を顧みず、故郷に立ちする念は強く、
リスクを負いながらも帰郷となったのです。

しかし、政府当局の発表は、マスコミや国民に対して、あたまも
指定地域の汚染は無くなったかのような内容です。
政府と東電の努力が、人々を救ったかのようなリップサービスは、
放射能汚染が、汚染地域のほんの一部である事を覆い隠し、
自分達の努力で東北の人々が救われたかのような取り上げ方です。

国民や世界には、何とか被災地域は安全である事をアピールし、
国を挙げての復興作業が、東北の街や自然を復活させたかのような
自分達の活躍を前面に示すような内容です。
過去の事は水に流して、無かったかのようにして、次の利益を求める
日本政治に長く続く悪癖は、今や世界に通用しないのです。

これまで発表されて来た様々な安全宣言が、世界の人々には
全く信じられていなくて、今や、福島の実態は、海外の調査機関の方が
日本政府よりも遥かに詳しく、その内容は、日本人にとって
脅威と言えます。
福島第二原発の事故による放射能汚染の実態だけでなく、東京湾の
干拓地の多くに多大な汚染物質が埋もれれている事に、日本人以上に
海外の人々は恐怖を感じています。

近隣諸国では、日本からの生鮮食料品の輸入を禁止している国も有ります。
福島近県の農林水産物のみならず、日本全域を汚染地域としている国も
有るのです。
政府は、国民に不安を抱かせない様に、その様な報道を規制すると共に
日本の食料品は安全であると常々訴えていますが、世界の人々は
全く信じていないとう事実も有るのです。

そんな放射能汚染を憂う世界の人々が、安全になったからと言って、
人々を汚染地のど真ん中に戻す事に、驚きを隠せません。
まるで、猛獣の檻に羊を放す様ななものです。近づけば一気に食い殺され
命の保証のない獣たちは鎖につながれているとは言え、羊たちは、周りを
ぐるりと囲まれ、何処に逃げることも出来ません。
羊を入れた人たちは、毎日、餌をあげるから大丈夫といいますが、
そんな危険な檻の中で生きて行けるはずは有りません。
余りのストレスで、例え、以前より美味しい餌を食べられたとしても
生きた心地はしません。

今や国会では、狐と狸が、どちらが美味しい餌を食べたかと
お互いの主張を繰り返しています。
たらふく食べているものの、更に美味しいものを欲しがったために
欲望の後始末を強いられているのです。
国会の外には、多くの悩める子羊たちが、その日に食べる餌を得る為
苦労を重ねています。
その数は、膨大なる数であり、次第に年老いた羊が多くなっています。

キツネやタヌキは、一生懸命働けば、自分達の様に美味しいものが
食べられると宣いますが、羊たちは草食であり、彼らの食べる、
ギトギトの脂ぎった肉は食べたくはないのです。
今や国民は、経済的な幸せを押し付けられ、基本的な幸せを得られず
苦しんでいます。

国民経済を高めれば、国民は幸せになると言う首脳陣の考えは、
物と金に満たされた方々の考えであり、国民の多くは、そんな
外見的な幸せを欲しては居ないのです。
それぞれの環境で、自分の心を満たし癒してくれる幸せが欲しいのです。
そう、この事は、安全宣言で故郷に帰される人々の気持ちと同じです。
どんなに立派な住居を作ってもらっても、都会並みの、立派なライフラインを
整えてもらっても、その価値を認めるのは、政府と東電関係者、更には
建築を請け負って利益を得た人達だけなのです。

国民の多くは、誰もが同じ幸せを持つことを望みません。
それぞれが、自分の価値観を持ち、自分を生かす事に依って、
満足した人生を送りたいのです。
幸せの価値観を、洗脳されて、便利グッズや高価な家庭用品に囲まれて
求めている幸せと思っているのは、高度成長期の日本人だけなのです。
今や、国民と政治家の意識の差は、余りにも甚だしく、特に、見てくれで
育って来たお偉方には、一般庶民の気持ちは全く解らないのです。

その為、自分達が喜ぶ事を、国民も喜ぶと思ってしまうのです。
世の中は、ネットの進歩と共に、どんどん進化しています。
高度成長期で頭の中が止まった政治家たちには、今の日本人は
到底理解できないのです。
親の七光りで地位を得たような政治家ではなく、本当の国民の気持ちを
理解できる新しいタイプの政治家が出てこない限り、金の臭いに弱い
私欲に満ちた見てくれの政治家ばかりが増えるだけなのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





 

 

 

 

 

 


桜の花を見て、誰もが口元を緩める幸せ

2017-03-30 16:46:07 | 日本人

ようやく二分咲きの桜並木と成りましたが、すでに、目黒川は
朝から多くの観光客が目に付き始め、中目黒周辺は渋滞が発生し
警察車両が増えています。
満開になるには、まだ一週間ほど掛かると思われますが、
開花宣言がされた途端に、観光客が増えて来るのは、地元としては
痛し痒しと言ったところです。

この時期は、年々、花見客が増える一方であり、地元の商店街にとっては
稼ぎ時と思われるかも知れませんが、周辺に人々にとっては、一日中
騒音とゴミに悩まされる事となります。
中でも、山手通りの渋滞は酷く、最近の道路工事と重なって、今年も
仕事の行き帰りは覚悟をしていなければなりません。

とは言うものの、桜は、日本人にとって特別の花と言えます。
ちょうど新学期が始まったり、新入社員の入社時期とも重なり、
新たなる門出を飾る花として、多くの人々には感慨深いものです。
更には、寒い冬の後、空一面に咲き誇るピンクの花は、冬の寒さに
閉ざされていた心を一気に解放し、誰もが、前向きになれる
日本人にとってはカンフル剤の様な役目も持っています。

その為、桜を見る人々の顔は、誰もが、幸せに満ちていて
一年の内で、殆ど見せる事のない、自然な日本人の笑顔と成るのです。
四季を通じて、これほどまでに、人々の心に深く感動を呼ぶ桜は、
日本人の心を育てて来た花とも言え、桜の花を見る事に依って
日本人の豊かな感性が保たれて来たとも言えるのです。

様々な辛い事が有っても、いずれ楽しい事が訪れる事を象徴する様な
見事な咲きっぷりは、忍耐力を生むと共に、誰でも夢は叶うものという
大きな励ましとなり、入学進学入社と言った、人生の節目を飾るに
最も相応しい花と言えるのです。

しかし、その反面、桜は、あっと言う間に咲くと共に、あっと言う間に
散ってしまいます。
咲き方は見事なのですが、その散り方もあっと言う間であり、
人々に、忍耐と共に諦めを教え、儚さを教えました。

日本人の特徴として昔から言われる、熱しやすく冷めやすい性格は

暗に、桜の花に似せている様で、短所であり、長所でもあります。
この事は、いい意味でいえば、どんなに辛い事に直面しても、
直ぐに立ち直ると言え、戦後の復興も、様々な災害に直面しても
いつの間にかに、新たなる道を見つけて行く事からも解ります。

しかし、その反面、短気で飽きやすい性格は、じっくりと物事を

処理して行く事や将来を見据えた長いスパンで物事を考えられず、
目先の欲望を満たす事に囚われて、多くの問題を生んでしまいます。
高度成長は、経済的には日本社会を豊かにしたのかも知れませんが、
その結果生まれた数多くの負の遺産は、現代の社会問題を生み
いまだに、国民の生活を苦しめている事となっているのです。

悠久の歴史を持つ奈良や京都と言った街に文化遺産を残す一方で

日々変わる大都市の風景は、常に新たなる街をつくる事で、
経済的に豊かな街を作っているものの、過去に残る文化遺産は
殆ど認められず、世界中の大都市にみられる豊かな文化遺産は
日本の大都市に於いて見つけられないのは残念です。

特に、戦後の文化は、人々の消費を促す為の物であり、

日本の素晴らしい歴史遺産と成る可能性は低く、単に、
現代社会を牛耳る一部の人達の欲望の街となっているに過ぎません。
近代的な未来都市は、人々を幸せにするものと考えるのは、
その街から利益を得る人たちにとっては理想なのかも知れませんが、
多くの人々にとっては、そこで生きるためのリスクを負わされ
その理想を掲げる人たちの社会に付いて行く為に、更なる
苦しい毎日を強いられるのです。

街は、本来、そこに住む人たちに幸せと安心を与えなければ

成りません。
美しい近代的な街並み、溢れる生活用品、何処に行っても豊かに
提供される食品、どれをとっても、豊かで便利な生活を思わせます。
しかし、これを、思うがままに利用できるのは、ほんの一部の
生きることに不安のない、経済的に豊かな人たちだけなのです。
殆どの人が、提供されたわずかな物しか手にすることが出来ず、
視覚的に常に見せつけられる事で、自分自身の不満が募るだけ
と言えるのです。

メディアを使って、日夜見せつけられる理想の生活は、

多くの人々に羨望の気持ちは持たせても、幸せにはならないのです。
誰もが欲しいものを手に入れられる世界ならが良いのですが、
目の前に美味しそうな餌をぶら下げられて、決して食べられない
と解っていても、何とか手に入れようと、いつも背伸びをする
自分の足元が見られない生活を強いる現代社会は、人々を
幸せにしている様に見えて、実は、苦しめているのです。

もし、生活に不安が無くて、自分の思う夢にまい進出来るなら

誰もが幸せを見つけられる可能性が高いのですが、生きて行く
と言うだけで毎日が大変な国民がいかに多いかと言うのが問題です。
うわべだけの進歩は、国民を疲弊させることは有っても、
幸せにすることは有りません。

しかしながら、このうわべの世界で育った方々が、日本社会を

リードしている事が最大の問題なのかもしれません。
人の上に立つ人は、人の心の痛みを知らなければなりません。
外見的な知識だけの理解では、苦しむ国民の心までは解らないのです。
今や、日本人の多くが、生活に不安を抱えていると言っても
過言では有りません。

その状況は、時間を掛けて調べ、議会で検討するようなものでなく、

もはや、切羽詰まった状況であるのです。
困っている人たちは、今、この一時で、生きる事に悩んでいるのです。
今のリーダーたちは、この切羽詰まっている国民の状況を
全く理解することが出来ないのです。

と言うより、そんな体験をした事の無い坊ちゃんお嬢ちゃんばかりが

資料を眺めながら話し合っているだけなのです。
国民の中には、今、ビルから飛び降りようとしていたり、首を吊ろうと
している様な状況に成っている人が居るのです。
そんな中、ただ資料に目を通し、他人が調べた調査報告を代弁している
自分のノルマしか果たせない政治屋が実に多いのです。

桜の花を見て、ほんの一時幸せな気持ちになろうとも、直ぐに、現実に

戻されて、一年中生きることで精一杯の国民が増えているのです。
メディアが流す、幸せな光景や豊かな生活は、商売として流されている
非現実の世界であり、その生活を求めるには、かなりの経済力が要り
多くの人にとっては、現実とは程遠いものなのです。

華やかな街に繰り出す若者たちの多くは、限られた収入の為

目に付く物の殆どは手に入らず、ただ、見て歩くのみと言う
満たされない焦燥感と絶望感に苛まれるだけなのです。
そんな憧れの世界を自分の思うがままに手に入れられるのは、
やはり、ほんの一部の若者であり、満たされた生活を保障された
坊ちゃんお嬢ちゃんに限られるのです。

私達庶民の多くは、自分が決して手に入れられない多くの豊かな物に

囲まれ生きているのです。
しかも、生活できる範囲内で手にした便利グッズや生活グッズは
ただ便利で役に立つものとしては役立つものの、自分の心を
豊かに幸せにしてくれるものはほとんど無く、多くのメディア情報で
買わされた道具に過ぎません。

誰もが持っている便利な生活必需品であっても、自分だけの為に

存在しているものではなく、例え失っても、自分の人生を変えると言う
程の存在ではないのです。
その為、身の回りの殆どの物が、例え消えてなくなったとしても、
心から傷つくものはなく、無くなれば、買い替えれば良いものばかり
といるのです。

しかし、一見これらの物は自分を幸せにしてくれそうで、どれもが

お金と引き換えた生活用品に過ぎず、そんなものの為に働いても
本当は幸せには成れないのです。
どんなん魅力的商品を手に入れても、それは、自分を幸せにするとは
決して言えないのです。
自分が幸せになる為の物が、現代社会に於いてあまりにも少ないのです。

幸せにするものは、簡単に捨てることは出来ません。

何故なら、自分の心を支え癒してくれるからです。
私たちは、捨てても心が痛まないものを求めて毎日生きているのです。
その為、どんなに所得を得ても、地位を上げても、財産をためても、
求める物が、自分の心を満たしてくれないもので溢れていれば、
生きて行く意味も無くなってしまうのです。

私たち人間は、心が満たされて幸せで在って初めて周囲の事も

他人の事も考えられると言えるのです。
人々が、安全で豊かな社会に生きて行く為には、一人一人の心の満足が
叶えられていなければならないのです。
これは、生活を便利にしたり、誰もが欲しがる様な物品で叶う物でなく
個人個人の価値観で生まれて来なければなりません。

つまり、経済的な外見を作る前に、個人的な満足を得られなければ

ならないのです。
個人的な満足とは、それぞれが求める生きて行く為の最低限の衣食住が
一生保証される事です。
この事がかなえられた時、人々は、無駄な便利グッズを求めず、他人の物を
欲しがったりはしないのです。

この、人が生きて行く為の原点を保証する事が国の役割なのです。

問題は、国民が安心して生きられる社会が作られず、いつも不安定で
未来の生活が保障されない人々が多くいる事です。
苦しんでいる人が多くいるから救済する、と言うのではなく、苦しむ人が
出てこない社会を創る事が大切なのです。
教育、医療、生活、老後、何をとっても、国民は、個人的に不安を持って
生活しているのが現実なのです。

国民は、本当は何を求めているのかが解らず、企業や富裕層の欲望に乗っかり

ただ、経済力のみを増そうとしている愚策しか考えられない政治家が多く、
日本人が、本当の幸せを掴めない大きな原因と成っているのです。
たった一輪の桜の花でも、人の心は幸せになるのです。
莫大なる国家予算を使っても、国民の殆どに幸せを与えられない様では
どう考えても、政治家やリーダーの資格はなく、これから先ずっと
日本人の多くは、本当の幸せは掴めないのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 


不幸な日本人

2017-03-29 14:14:15 | 日本人

老後の生活の保障である年金は、果たして、人々に幸せを
約束してくれるのでしょうか。
もちろん、すでに年金をもらっている人達に問えば、殆どが
足りないし、もっと沢山もらいたいと言うでしょう。
より、多くお金が有れば、豊かな生活が出来、老後の生活が
安心したものとなると思っています。

しかし、果たして、そうでしょうか。

年金だけでなく、他からの収入や、多くの貯蓄を持つ人達に
同じように問えば、帰ってくる答えの多くは、足りないと訴える
多くの方々とほとんど同じなのです。

つまり、日本人は、殆どの人が、自分の経済的生活に満足して無く

現実の生活に不満を抱いている人が多いと言う事です。
ならば、満足していると答える人たちと言えば、生活する為のお金が
必要と全く考えず、更には、お金そのものを日常的に使っていると言う
意識が無い、一部の富裕層と言えます。

文化的で豊かな暮らしをしていると思える日本人の殆どが、日常的に

欲求不満の状態がある事が、現代人の最大の不幸ともいえるのです。
消費経済を謳っている日本社会は、如何に、多く消費できるか、つまり
多くの所得を得ることが幸せへ続く道とする世の中のからくりが、
国民をいつまでも欲求不満にし、心豊かな人生を送れない原因と
成っているのです。

毎日見るテレビから流れるコマーシャルは、国民を消費経済へと洗脳し

国民の購買意欲を促し、働いただけ消費していくシステムを社会生活に
根付かせています。
そして、その洗脳は、止まる事を知らず、更なる支出を促すために
より高価な出費を行う様に、人々に甘い蜜をばらまきます。

どんなにお金を積んで手に入れようと、それ以上の出費を強いられれ

片時の購買満足に浸るものの、直ぐに、欲求は高まり、留まる事を
知りません。
自分の身の回りには、自分が求めた物で一杯となり、それは全て
過去の欲求の結果であり、その殆どは、自分にとって価値は有りません。

自らの心をまた満足させるには、常に、新たなるものを求め続け

この旅は終わる事無く、死ぬまで続きます。
私達が、一生を掛けて求めて来たものは、そんな、欲求を満たして来た
生活の残骸だったのでしょうか。

例え、それが、自分にとって価値ある物としても、それ以上の物は、

世の中にいくらでも在り、その存在を知った途端、心の支えは、
ぼろぼろと崩れ去って行くのです。
今の日本社会は、国民を幸せにする為には決してないのです。
あるとすれば、一部の裕福な人たちをより豊かにするシステム
だけの社会と言って良いのです。

賢明に働き経済的に豊かに成る事を人々の幸せな生き方とする

経済至上主義の考えは、国民の生活水準を上げたとしても
人々の心を幸せにはしないのです。
毎日の生活に苦しんでいた時の人との関わり合いの方が、
豊かになった時よりも、より幸せであったと思う人は
少なく有りません。

満たされない心を、より、経済的豊かな生活をする事で

幸せと、自らに言い聞かせている人は多いと言えます。
老後の生活が安心できるだけの所得が得られた途端に
家族や人々との絆を失ったり、思いもよらない不幸に
見舞われたりする人もいるのです。

人の幸せは、経済的に豊かか貧しいかと言いうのではなく、

どれだけ心が幸せを感じられるかに在るのです。
どんな境遇に在ろうと、幸せな人は幸せな生活を送り、
不幸せな人は、不幸せな生活から逃げられないのです。

更に大切な事は、誰もが年を取って行くと言う事実です。

どんなに豊かで豪勢な生活を送ろうと、確実に身体は衰え
様々な機能が不全と成って行くのです。
外見的に若く着飾ろうと、人も羨む豪邸に住もうと、
生物学的に、人は、老化から逃れることは出来ないのです。

若い頃と比べて、確実に機能しなくなる肉体、見るも哀れな

外見は、世界中、どんな人でも逃れることは出来ないのです。
自分自身の衰えは、どんなに豊かな財産を持っていたとしても
止める事は出来ないのです。

ならば、人として、少しでも年を重ねれば、価値が無くなるか

と言えば、どんなに肉体が衰えようと、心が豊かで若く有る事は
可能と言えるのです。
この、心が豊かで若くと言うのは、自分の持ち物では代用が出来ず
人との関わり合いで生まれる物です。

しかも、自分がどれ程若いと思っていても、周囲の他人や家族が

思わなければ、自分の満足とはならないのです。
また、心の豊かさも、周囲の人によってもたらされるものなのです。
つまり、私達の心の幸せは、周囲の他人によって認められてこそ
感じることが出来、中でも、自分が人々にとって存在価値があると
認められた時、初めて、認識できるものです。

同じく、自分が、素晴らしいと思った人は、自分にとっての

存在価値のある人と成って、自分の幸せを作る人と成るのです。
この、人の中で生まれる相乗効果を得られなくて、経済的な目的のみで
生きている人たちは、いくら便利で豊かな生活を送ろうと、本当に
自分の心が幸せと感じないのです。

日本国民の不幸は、経済的に豊かな生活を求めて、他人との関わり合いに

疎くなったことが最大の不幸と言えるのです。
他人より少しでも経済的に豊かな生活が出来る事を幸せと勘違いさせる
今の社会システムを遂行している現行のリーダー達の罪は重いのです。

いまや、日本社会は、物で溢れた生活に疲れ、心満たされない人々で

一杯となっているのです。
人々が、もう一度、人としての原点に立ち返り、本当の幸せを見つけるには
今の生活を一度リセットする方法しか有りません。

理想的には、国民が、もう一度、日本人としての大切な心を取り戻す為の

社会に作り替える事、そして、もう一つは、全ての経済システムを
破壊してしまう事です。
数十年前、私たち日本人は、戦争と言う苦しい方法で、人としての
原点に立ちました。
しかし、経済的欲望を満たすだけの社会は、日本経済を発展させたものの
人々に様々な苦しみを生み、日本人の幸せを奪ってしまいました。
歴史は繰り返すと言われます。

今や、日本周辺では、一発触発の国際情勢となっています。

何時突然戦争が始まってもおかしくない状況と言えます。
あらゆる手を使って、経済社会体制を維持しようとしている日本の富裕層は
次の打つ手を見つけられず苦しんでいます。
経済的にも、近隣諸国の発展によって、かつてのような潤った社会に
立ち戻る事に苦慮しています。

かつて、暴発して、近隣諸国にその活路を見出そうとして、更なる苦しみを

国民に与えた事を、今だ反省する事無く、何とか自分達は生き残ろうと
様々な策を練り、至る所でボロがで出ているのが、今の日本社会です。

幸い、我が国が暴発する可能性は低いのですが、近隣諸国には、明日にも

我が国にミサイルを放たんとしている国が有ります。
その他の国も、決して我が国に対して友好的とは言えません。
今や、それ程にも、我が国周辺は危険な状況となっているのですが、
地下に隠されたパンドラの箱にあたふたしたり、リーダーと富裕層との
癒着問題にニュースの大半を執られている様では、平和な日本が、
あっと言う間に火の海となるのも時間の問題ともいえるのです。

人との関わり合いに弱い日本は、リーダー達と国民との関わりも弱く

外の敵に対して、一致団結とは程遠いのです。
物に囚われる国民は、戦火を交えれば、簡単にどこかの国の属国と成り
日本国民の存在も危うくなる可能性が有ります。
自分の欲求にかられ、国民の幸せを考えられない人たちに導かれる
哀れな日本国民は、またもや、辛い過去を経験しなければならない
かも知れません。

親方アメリカは、自分達だけが生き残れる事を考え、周辺諸国は、

前回の争いの傷が癒されず、相変わらず我が国に敵意を持っています。
つまり、今や、日本は、四面楚歌と言っても良いのです。
すでに、経済的な生き方では、日本社会も日本人も成り立たず、
国としての存在すら危うくなっているのです。

経済を守り、防衛力を増しても、しょせん日本の未来は期待できず

多くの国民を犠牲にするだけなのです。
私達の代表として、更には、日本経済のリーダたちとして、国民を
引っ張っている方々が、国民としっかりと繋がった社会を築けるか
簡単に言えば、国民が幸せと感じる社会を創れるかが、日本が残る
最後の道とも言って良いのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 


たら、ればで悔いるより、人生の糧に

2017-03-28 14:25:40 | 日本人

人間の一生は、挫折と後悔の繰り返しと言っても良いでしょう。
特に不幸に見舞われたり、精神的肉体的に大きなストレスを受けると
先に進む事すら出来なくなり、ややもすると、自らの命を絶つことすら
考えてしまう事も有ります。
例え、何とか立ち直ったとしても、心の中に大きな傷として残り、
もし、あの時こうすれば、あの場に居なかったら、と後悔が残り、
いつまで経っても、辛い気持ちを引きずっている場合も多いものです。

長く人生を生きていると、様々なアクシデントに見舞われたり、
思いもしない状況に立たされたりと、今考えても冷汗が出る様な事が
幾つも思い出されます。
何事も無く、順風満帆の人生を送られている方もいるかもしれませんが、
人間の長い人生に、喜怒哀楽はつきものと言っても良いでしょう。

しかし、この、過去を悔いる思いが強すぎると、その後の人生に於いて、
せっかくの未来の道を見失ったり、楽しいはずの日々が、心が晴れず
苦痛に満ちて、自分だけでなく、周囲の人達も不幸にしてしまう事があり
一刻も早く、その苦しみの呪縛から逃れることが大切と言えます。

人は、想像にもしないアクシデントに遭ったり、大きな災害に見舞われると
心に大きな傷を作ってしまい、その後の人生に多大な影響を受ける事となり、
いつまでも、後悔の念に駆られる事が有ります。
もしあの時、そこに居なかったらとか言う、たら、ればと言う思いは、
悲しみが大きければ大きい程、深く心に残るのです。

私たちは未来が見えません。しかし、過去は、自らの姿を鮮明に思い出し
その時の状況を思い出す事ができるのです。その為、変えられるなら、
不幸に見舞われない為にと、別の選択を考えてしまうのです。
毎年、日本列島を襲う数々の災害、天災は、多くの人々の心と身体を
深く傷つけています。
多くの支援を受け、街が復興されようも、心の中には、後悔が残り、
例え以前の生活が戻ったとしても、心から悲しみや後悔が消えるまでは
遥かに多くの月日が必要と成るのです。

とは言え、私達人間は、多くの災害やアクシデントに見舞われるものの、
それより遥かに多くの幸せを手にしている事を忘れては成りません。
何気なく生活している日常に於いても、長年の経験や知識で、無意識に
アクシデントから逃れ、家族や多くの人々と共に、楽しい毎日を過ごし
より楽しい思い出を作り続けているのです。

たまたま、訪れる悲しみは、私達が経験する人生の出来事で、どうしても
逃れることが出来なかった、アクシデントで有るのです。
少なくとも、楽しい事よりも悲しい事は、はるかに少ないのであり、
悲しい事で自分の人生全てを暗いものにしてしまっては成りません。
何故なら、悲しみを持てば、周囲の人達も悲しみを感じるからです。
そして、自分の悲しみで苦しむ人を感じると、より一層自らの悲しみが増し
自分の人生を見失ってしまうかも知れないのです。

後悔の、たら、とか、ればは、不幸だけではなく、その後の人生を生きる
力と成る場合も有ります。
私の場合も、伊勢湾台風で、大水害に見舞われた時、たまたま、父が、
玄関に入って来た水を発見し、二家族が全滅する事無く助かったのですが、
もし、5分発見が遅れたら、全員水に飲まれていたことは明らかです。

更に、北アルプスの断崖で、娘が、落ちてきた時、妻と二人で身体を
摑まえて落ちるのを止めようとした時、岩肌から飛び出ていた岩の突起が
無かったら、二人で止める事は出来ず、三人とも1000mの断崖から落ちて
死んでいたと思われます。

どちらも、悲しみの事態とならなかったのですが、一つ間違えば
私は幼くしてこの世を去っていたし、家族を失っていたかも知れません。
人生で起こる様々なアクシデントは、生きていく上で、逃れる事の出来ない
運命とも言えます。

その後の人生により、アクシデントが生きる事に繋がるか、自分の未来を

失う事に繋がるかは、心の持ち方で変わって行くものと言えます。
アクシデントに見舞われて、それが辛い記憶となっても、その出来事が
その後の自分の人生の糧と成る事が大切です。

生きると言う事は、多くの人と出会い別れる事です。

また、多くの出来事を体験する事です。
悲しみも喜びもすべて自分の人生であり、人との関わり合いです。
新しい命を授かる事も、身近な人を失う事も生きているからこそ
体験する事となるののです。

全ての体験が人生の糧となり、自分を育てて行くのです。

そんな多くの体験を、苦しみとして引きずる事は、自分だけでなく
周囲の人たちをも不幸にしてしまいます。
もし、その苦しみを乗り越え、自分の生きる力に変えれれば、
同じ様に苦しむ人を癒すことも出来るのです。

人は、お互いに影響し合い、豊かな人生を築き上げることが出来るのです。

過去は変えることは出来ません。
自分の生きた人生が、良くも悪くも、今生きている事の幸せを感じ、
将来の最大のイベントに向けて、どれだけ、自分の思いを達成でき、
周囲の人達に楽しい思いをさせることが出来るか、過去の出来事は
今の自分を作っているのですから。

ただ、最後のイベントは、残された人にとって、悲しみの出来事と

成るかもしれませんが、この事で、残された人が不幸になる事は
有ってはならないのです。
一つの節目として、残されてた未来を生きる人たちの糧になる事を
心から願いたいものです。

 

 

 

 

 

 




 

 


美しい桜の下には、生き物はいない

2017-03-27 16:30:17 | 東京

 急激な寒さの為、膨らみ始めた桜の蕾が、冷たい雨に打たれ
まるで身震いをしている様に揺れています。
もう春の衣装に衣替えと考えていたのに、仕舞ったばっかりの
ダウンジャケットをクローゼットから取り出し、襟を立てながら
小雨の中を出勤と成りました。

昨日からの雨で、渋谷の街は、いつもよりも人通りが少なく、
スクランブル交差点を行き交う人々も、足早に通り過ぎて行きます。
三年前のこの日は、桜がほぼ満開の状態であり、目黒川も、多くの
観光客が行き交い、春を満喫する人々の笑顔で溢れていました。
いつもならば、駅前の横断歩道は、多くの警察車両が待機して、
電車が到着するたびに溢れて来る桜見客でごった返しているのですが、
昨日は、普段と殆ど人通りは変わらず、交通整理のお巡りさんも
手持ちぶさと言った感じでした。

しかしながら、明日からまた暖かい陽気が戻って来る様で、
終末は、桜もかなり咲いていると思われ、あの喧騒が戻って
来ると思われます。
最近は、ネットに依る情報が広がっていて、多くの人達が
都内のどこが一番綺麗かを知っていて、確実に見頃の頃になると
急に、国内外から大勢の観光客が集まって来ます。


その為、多くの観光客を期待して、様々な店舗が集まる様に成り、
ここ10年程で、目黒川近辺は、まるで、原宿や六本木の様な
賑やかな街に変わってしまいました。
目黒に住んで40年程になり、中目黒の昔も良く知っていますが、
その変わり様は、かつての面影が無い程です。

いつの間にかに、若者たちが住みたい街の上位にランクされると
日本中から注目されるようになり、街自体がそれに答える様に
変貌していきました。
飲食店やファッション関係の店だけでなく、高層マンションが建ち
駅周りが開発され、一日中多くの人達で溢れる街と成りました。


そんな中、目黒川の存在は、中目黒を象徴していると言って良く、
目黒川の桜が全国に紹介されるに従って、多くの観光客を集め
周辺の街並みも変わって来たと言えます。
かつては、大雨が降れば、頻繁に警戒警報が出され、下流域の
五反田周辺では、水が溢れ、浸水騒ぎが結構ありました。

しかしながら、長年の護岸工事によって、今では、溢れることなく
川の左右の護岸には綺麗に整備された遊歩道が、観光客だけでなく
地域の人達にとって、素敵な環境を提供する様に成りました。
大都会の発展と共に、私たちは、より安全で美しい環境に住むことで
魅力的な都会生活を送れる事になったと言えます。

と最近の目黒川周辺の環境の変化を書いてみましたが、誰もが
大喜びであり、私たちは、素晴らしい環境に住んでいる様に
思ってしまいます。
しかし、本当に、私達目黒川周辺に住む人たちは、素晴らしい環境に
住むようになったのでしょうか。
街は、綺麗に整備され、ゴミが落ちている事もなく、幸せな都会生活と
手放しで喜んで良いのでしょうか。

確かに、この環境を利用して、商売をする人にとっては、最高の街と
言えるかもしれません。
でも、この環境は、私達が健康に生きて行く、自然に溢れた環境とは
決して言えず、街の美しさに反して、様々な不備が目立つのです。

まず、この美しい桜並木は、見た目美しいのですが、この美しさは、
あくまで管理されたものであり、桜以外の動植物が繁茂しない
周辺には、その他の雑草や昆虫が生きて行けない環境が作られています。
定期的に除虫剤が撒かれ、除草剤が撒かれ、桜の木の周辺には、
ツツジ以外の植物は繁茂できず、更には、桜の木を食べる昆虫は皆無です。

確かに、私達人間にとって、雑草や桜の木を蝕む昆虫は必要ありません。
また、街を美しくする為の洗浄は欠かせず、汚れを落とすために、
大量の洗浄剤が使用されています。
また、周辺の住宅街や店から大量に流れ出る生活排水が、
下水道に流れ出ることなく、直接目黒川に流れ込んでいます。

この事は、目黒川が定期的に様々な色に変わる事からも知られています。

コンクリートで側面から川底まで固められた目黒川は、それらの汚染水を
水底に沈殿させたりすることなく、直接海へ流す下水道の役目をし、
川と言うより、排水溝の役割しかしていません。

また、周辺の公園や並木道の植物は、公害に強く、薬品に強いものばかりで

中には、植物事態に毒があり、昆虫や鳥を寄せ付けないものも多いです。
つまり、目黒川周辺の自然は、全て人工的に、人々に都合の良い様に作られた
偽の自然と言っても良いのです。

見た目、とても美しくなった目黒河畔ですが、本当の自然とは程遠く、

外見的に美しい姿をいつも保てるように、目に見えない所で、誰かが
計画的に作り上げている人工の街と言って良いのです。

目黒川周辺で住んでいると解るのですが、ここ10年程で、春になって

蝶が飛んでいる姿は、花が咲いていてもほとんど見る事が有りません。
時折、数匹が公園などで花の上を飛んでいるのを見ると、誰もが驚き
余りにも稀な状況で、蝶が居る事に、かえって、違和感を覚えます。

昆虫が増えれば、当然、様々な植物が食害に在ったり、生育が遅れたりと

余り良い事はないと思われますが、全くいなくなる状態の方が、はるかに
異常な環境と言えるのです。
美しく花が咲いていても、そこには一切動物がいなくて、植えられた花だけ
元気であると言うのは、その陰に、多くの農薬があり、土中に於いても
殆ど昆虫や微生物、バクテリアの存在しない、化学薬品で作られた
人工的な栄養物を大量に含んだ、自然とはかけ離れた環境であるのです。

しかし、この薬品に満ちた土は、雨や風に運ばれ、私達の環境に広がり

更には、川から海へと流れ出ているのです。
洗剤や農薬がどれ程水生生物に影響を与えているか、具体的な数字が
出ていないものの、海や川に住む、微生物や小動物が、年々絶滅し、
ただ、外見的に綺麗なウォーターフロントが多くなっているのです。

東京湾においても、年々透明度が増していると言うものの、沿岸部に於ける

生き物達は、その種類も数も減っていて、浅い海で育つ稚魚たちにも
大きな影響を与えています。
私達人間に都合のいい生活は、生き物たちにとっては、決して良いは
言えないのです。

豊洲市場の地下から大量の化学物質が発見されるのも、東京の街が

自然の生き物たちにとって、如何に厳しい環境であるかが解ります。
メディアは、そこで働く人や、取り扱われる生鮮食料品への影響を
訴えますが、それは、人間サイドから見た危険性であり、本当は
もっと大規模に、東京湾全体の汚染が東京湾の生き物たちに
長きに渡って膨大なるリスクを与えている事を解っていません。

世界的に見ても稀なほど、多くの動植物に溢れた東京湾が、

高度成長期からの汚染によってどれ程の種類の生き物たちが絶滅し
種類も量も減少してしまったか、その原因がどこに在るかを、今だ
曖昧にしているのです。

しかし、いまだに、東京都から出る生活排水や工場排水は止まる事無く

日夜流れ出ているのです。
汚水処理をしていると言っても、それは、人間サイドの勝手な基準であり
生活や工場生産に影響のない数値で決められていて、完全に無毒化せず
基準値以下だから安全と言う、勝手な言い訳で、垂れ流しているのが
現状なのです。

その為、外見的には綺麗に見えて、生き物たちが住み辛い、ただ

透明度だけがよくなった海辺が増えているのです。
綺麗になったと言いながら、東京湾内の多くの生物が、高度成長期から
ほとんど増えることなく、中には、絶滅してしまった種類も多くて
私達の生活基準が、如何に、自然界の生き物たちを殺めているかが解ります。

40年ほど前、目黒川は、まだ、土手も多く、桜の木の周辺には、

様々な植物が繁茂していて、今の時期は、菜の花が咲いていたり
紫の大根の花が咲いていたりしてとても美しい光景でした。
子供達と、土手に咲いたタンポポや土筆を摘んで遊んだりしたものです。

水が温むと、下流から魚たちが遡上してきて、中には、数百匹の群れが

帯を成して泳ぐボラの群れは、春の目黒川の豊かさを示していました。
しかし、近年、カモが水面に浮かび、外来種のカメが甲羅干しをし
時折ウミウが飛び交う以外、川に生きる水生動物の姿は皆無です。

水が少ない時は、コンクリートの上にヘドロが目立ち、その臭いは、

周辺の人達を困らせます。
桜が咲いても、その下には、下水の暗青色のどんよりとした水が流れ
川面に枝を下す桜の花が、暗い色に浮き上がりコントラストを見せますが、
本当の自然の美しさとは程遠いものです。

桜の花が、散って、桜の新緑となる頃、人通りが少ない時間帯に、

区から依頼された専門業者が、除虫剤を噴霧します。
人間には、影響のないものと言われますが、かつて安全と言われた
田んぼや畑にまかれた農薬が、その後、発がん性があると言う事で
次々に禁止されたように、いつか、その危険性が取りざたされるかも
知れません。

しかし、虫のいない、綺麗な街路樹の為には、必要とされるのです。

私たちは、様々な便利な薬品を開発し、その都度、私達にとって安全であり
環境には優しいと言われて来ました。
所が、その後、決まって、その危険性が訴えられ、次なる安全という
薬品が使用されてきました。

所が、その、安全は、あくまで人間に対してであり、環境に対しては

後回しと成っているのです。
様々な公害問題も同じく、便利で豊かな生活のためにと言う謳い文句で
環境中に排出された化学物質が後に、人々や動植物に大きな影響を与え
人々を苦しめ、環境を破壊して来たのです。

豊洲の地下だけでなく、私達の身近な環境に、多くのパンドラの箱が

埋まっているのかもしれません。
一部の人達の豊かな生活の為に、多くの人々と自然環境に危害が及んでいる
この現実に、どれ程の人達が気が付いているのでしょう。

1つの箱を封印して、その上に、生活の場を創り上げたとしても、

隠された無数の箱が人々から隠されている限り、今後いくらでも
新たなる問題が生まれる可能性が高く、危険な箱を開けること以上に
その存在を多くの人々が知り、未来の日本人と自然の為に、少しでも
安全安心の環境を目指す事が、今生きている人々の役目であり、
リーダー達の使命と言えるのです。