誰もが思う事、それは、いつまでも若くありたいと思うものです。
洋の東西と言わず、この世に生まれたものは誰でも、永遠の命を
望むものです。
しかし、この世に生まれたからには、死ぬことが人の運命です。
とは言え、歴代の支配者たちも、いかに死から逃れられるか
様々な延命措置を考えますが、運命からは逃れません。
地球に存在する生き物全てが生まれて死ぬ運命にあるのです。
にもかかわらず、人類は、生き物の定めから逃れようとするのです。
人の寿命は100年に満たない事が多いとはいえ、若い頃は、
運命を考えることなく、同じ時が永遠に続いて行くかの様に思え
やがて自分の身体が衰え老化していくとは考えません。
所が、人生も半ばを超える事と成ると、誰もが身体の衰えを感じ
それまで考えもしなかった末期を考えるようになります。
あと何年生きられるかと言う、若い頃には思いもしなかった
不安感が心の底から湧き上がって来るのです。
この時期ともなると、多くの人が如何に健康を保つか、そして
一日でも長くこの世に存在するかを考えるようになります。
自然に取り組むこと、それは食生活の改善と体力維持のための
日々の運動です。
誰もが関心を強く抱くため、テレビなどのメディアは、連日
健康長寿のための食事と運動の番組を流します。
人々は言われるがまま、健康と言う名の呪縛に囚われます。
食べ物が紹介されれば、翌日は、使われた素材が、店頭から
たちまち消えてしまう程です。
更には、健康になる若返るとする運動が紹介されると
猫も杓子もと言う程、全国的に同じ運動に興じる姿が見られ
いかに多くの人が、自分の身体の行く末に関心が有るかが
理解できます。
しかしながら、メディアから得られる情報が、本当に自分にとって
健康に長生きできるかは未定です。
有名な医師が行っているから、著名なスポーツ評論家が言った事だから
間違いないとして言われるがままに従っている人が少なくありません。
所が、これまで多くの説が、その後ことごとく覆されたり否定されたり
自分達が信じて疑わなかった、健康のための努力が無駄であったことは
数多くあります。
医者や健康評論家たちの言い訳は、決まって新情報とか新技術と
声を大にして言いますが、かつて自分たちが力説した情報が
間違っていたと謝罪することは有りません。
常に自分たちの立場を正当化し、多くの国民を欺いている事に
反省の言葉すらありません。
しかし、この事は、消費経済社会の実態であり、より社会的に
地位が高い人の言葉や行動は絶対であると言う影の認識がさせている
と言えるのです。
それ故、私たち国民は、本当に自分の健康や老化を考えるならば
何が自分にとって大切であるかを考える必要があるのです。
人の身体は誰もが同じとは言えず、様々な環境で育っている
事もあり、一人として同じコンディションとは言えないのです。
それ故、健康の為に行う事は、一人一人の条件に合った方法で
行わなければならないのです。
多くの方が、健康の判断を誰かと比較して考える傾向が有ります。
自分自身を気持ちや健康状態を考えると言うより、与えられた
健康条件を満たそうとすることで、常に自分の身体とは違った
社会的に認められる姿を理想としてしまうのです。
その為、社会が示す健康条件が変われば、自分の思いや健康判断が
次々に変わってしまい、本当に自分が欲する健康を得られないのです。
自分自身の基準を持っていない国民の多くは、健康と言うワードを
メディアから示されると、簡単に考えを変え、結局は、起業家たちや
専門家たちに利益を与えるだけで、本当の自分の健康が得られないのです。
高齢者たちの健康状態を調査すると、より薬の投与をしていない人が
より健康で若さを保っていると言うデーターもあり、健康だとする情報が
実は、人々の健康を損なっている事実もあるのです。
今や、国民すべてが健康であること、一日でも長く生き長らえる事を
人生の目標とする社会と成って、まるでファッションの様に、次々と
メディアが与える情報に敏感に反応し、より最新の知識を得る事で
健康で楽しい未来を得られると考えます。
社会が求める生き方が、人にとっての幸せであると考え、より豊かで
経済的な生活を行う事を求めます。
おなじく、メディアが紹介する健康法が、自分にとって健康な未来を
保障するとあって、より若く健康に生きている人達を目標として
常に自分に足りない分を補足しようと毎日努力するのです。
この事は、今に始まった事ではなく、消費経済社会の特性とも言え
仕事で有れ遊びで有れ、はたまた健康に関しても、全てが、自分と
社会を比較することで一喜一憂するのです。
確かに、社会に同調し、人と比較して生きて行けば間違いない様に
思えるかもしれませんが、外見的に豊かになったとしても、心から
満足できるかと言えば、そうとも言えません。
自分自身に基準を持てない生活は、自分とは関係ない他人や社会から
心の満足度を決められ、例え、自分にとっては相応しいと思えても
周囲の変化で簡単に自分の喜びが消え失せてしまう事もあるのです。
その為、多くの方が、人の眼や社会の流れを常に気にする生活に追われ
片時も心休まる時は有りません。
消費経済社会は、常に人々の関心を引くために、次々に新しい製品を
生み出すだけでなく、以前の物を否定するように出来ています。
その為、せっかく手に入れた物も、一瞬にして過去の遺物となる事も
少なくなくて、誰もが、自分の生活に満足できないのです。
その為、恒久的な幸せを得ると言うのは難しく、一時の満足ですぐ
次なるものを求めなければならないのです。
より豊かな社会を目指すと言うコンセプトとしては良いのかも
知れませんが、消費経済社会で多大なる利益を得ている人は
良いとしても、多くの消費者は、消費することでしか得られない
一時の満足に、いつも心は満たされず、何時まで経っても、
本当に自分が求めているものが何なのか、解らずして不安のみが
付きまとう人生を送らざるを得なくなっているのです。
自分の身の回りにある必要であると思えるものの殆どが、もし
無くなったとしても十分に生活出来るという日本社会は、
如何に見た目の豊かさで国民の幸せが失われているかが解ります。
私達人類は、地球を支配し、他に類を見ない程の文明社会を築き
地球上のあらゆる食料や資源を手にしました。
しかし、自分の外見を着飾り欲しいものを何でも手に入れたと言え
実際の自分自身の心と身体は全く進化していないのです。
生き物としては、むしろ退化している部分も多く、どんなに豊かで
進歩的な生活を送れるとは言え、身体も心も脆弱である事には
何だ変わっていないのです。
あらゆる手を尽くしたとて、殆どの人は100年生きる事さえできず
近年、寿命が延びたと言っても、医療技術が進んで生かされている
だけの高齢者もとても多く、健康に死ぬまで元気であると言う人は
本当にまれと言えるのです。
この世に唯一無二の存在として生まれてきたはずなのに、
生まれた途端、心も身体も社会に都合がいい様に作り変えられ、
常に人の考えと同調し、社会的に認められる存在となる事を強いられ
本当の自分ではない肩書で自分の存在価値を認められる事に、どれ程
満足の行ける人生が送れると言えるのでしょう。
消費経済社会で生きて行くためには仕方の無い事とは言え、一生に渡り
本当の自分ではない姿で生きて行く事に、心からの満足は得られない
と言う事に気が付かなければなりません。
人生、長くとも100年足らず、どうせ誰もが死んでいくのであれば、
この短い自分自身を意識できる時期だけでも、本当の自分の気持ちを
常に心に失わず、他人としてしっかりと差別して自覚して生きる事が
本当の意味で幸せであると言えるのではないでしょうか。