めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

本当の自分と生きる

2019-02-12 14:04:12 | 人生

誰もが思う事、それは、いつまでも若くありたいと思うものです。
洋の東西と言わず、この世に生まれたものは誰でも、永遠の命を
望むものです。
しかし、この世に生まれたからには、死ぬことが人の運命です。
とは言え、歴代の支配者たちも、いかに死から逃れられるか
様々な延命措置を考えますが、運命からは逃れません。

地球に存在する生き物全てが生まれて死ぬ運命にあるのです。
にもかかわらず、人類は、生き物の定めから逃れようとするのです。
人の寿命は100年に満たない事が多いとはいえ、若い頃は、
運命を考えることなく、同じ時が永遠に続いて行くかの様に思え
やがて自分の身体が衰え老化していくとは考えません。

所が、人生も半ばを超える事と成ると、誰もが身体の衰えを感じ
それまで考えもしなかった末期を考えるようになります。
あと何年生きられるかと言う、若い頃には思いもしなかった
不安感が心の底から湧き上がって来るのです。

この時期ともなると、多くの人が如何に健康を保つか、そして
一日でも長くこの世に存在するかを考えるようになります。
自然に取り組むこと、それは食生活の改善と体力維持のための
日々の運動です。
誰もが関心を強く抱くため、テレビなどのメディアは、連日
健康長寿のための食事と運動の番組を流します。

人々は言われるがまま、健康と言う名の呪縛に囚われます。
食べ物が紹介されれば、翌日は、使われた素材が、店頭から
たちまち消えてしまう程です。
更には、健康になる若返るとする運動が紹介されると
猫も杓子もと言う程、全国的に同じ運動に興じる姿が見られ
いかに多くの人が、自分の身体の行く末に関心が有るかが
理解できます。

しかしながら、メディアから得られる情報が、本当に自分にとって
健康に長生きできるかは未定です。
有名な医師が行っているから、著名なスポーツ評論家が言った事だから
間違いないとして言われるがままに従っている人が少なくありません。
所が、これまで多くの説が、その後ことごとく覆されたり否定されたり
自分達が信じて疑わなかった、健康のための努力が無駄であったことは
数多くあります。

医者や健康評論家たちの言い訳は、決まって新情報とか新技術と
声を大にして言いますが、かつて自分たちが力説した情報が
間違っていたと謝罪することは有りません。
常に自分たちの立場を正当化し、多くの国民を欺いている事に
反省の言葉すらありません。
しかし、この事は、消費経済社会の実態であり、より社会的に
地位が高い人の言葉や行動は絶対であると言う影の認識がさせている
と言えるのです。

それ故、私たち国民は、本当に自分の健康や老化を考えるならば
何が自分にとって大切であるかを考える必要があるのです。
人の身体は誰もが同じとは言えず、様々な環境で育っている
事もあり、一人として同じコンディションとは言えないのです。
それ故、健康の為に行う事は、一人一人の条件に合った方法で
行わなければならないのです。

多くの方が、健康の判断を誰かと比較して考える傾向が有ります。
自分自身を気持ちや健康状態を考えると言うより、与えられた
健康条件を満たそうとすることで、常に自分の身体とは違った
社会的に認められる姿を理想としてしまうのです。
その為、社会が示す健康条件が変われば、自分の思いや健康判断が
次々に変わってしまい、本当に自分が欲する健康を得られないのです。

自分自身の基準を持っていない国民の多くは、健康と言うワードを
メディアから示されると、簡単に考えを変え、結局は、起業家たちや
専門家たちに利益を与えるだけで、本当の自分の健康が得られないのです。
高齢者たちの健康状態を調査すると、より薬の投与をしていない人が
より健康で若さを保っていると言うデーターもあり、健康だとする情報が
実は、人々の健康を損なっている事実もあるのです。

今や、国民すべてが健康であること、一日でも長く生き長らえる事を
人生の目標とする社会と成って、まるでファッションの様に、次々と
メディアが与える情報に敏感に反応し、より最新の知識を得る事で
健康で楽しい未来を得られると考えます。
社会が求める生き方が、人にとっての幸せであると考え、より豊かで
経済的な生活を行う事を求めます。
おなじく、メディアが紹介する健康法が、自分にとって健康な未来を
保障するとあって、より若く健康に生きている人達を目標として
常に自分に足りない分を補足しようと毎日努力するのです。
この事は、今に始まった事ではなく、消費経済社会の特性とも言え
仕事で有れ遊びで有れ、はたまた健康に関しても、全てが、自分と
社会を比較することで一喜一憂するのです。

確かに、社会に同調し、人と比較して生きて行けば間違いない様に
思えるかもしれませんが、外見的に豊かになったとしても、心から
満足できるかと言えば、そうとも言えません。
自分自身に基準を持てない生活は、自分とは関係ない他人や社会から
心の満足度を決められ、例え、自分にとっては相応しいと思えても
周囲の変化で簡単に自分の喜びが消え失せてしまう事もあるのです。

その為、多くの方が、人の眼や社会の流れを常に気にする生活に追われ
片時も心休まる時は有りません。
消費経済社会は、常に人々の関心を引くために、次々に新しい製品を
生み出すだけでなく、以前の物を否定するように出来ています。
その為、せっかく手に入れた物も、一瞬にして過去の遺物となる事も
少なくなくて、誰もが、自分の生活に満足できないのです。
その為、恒久的な幸せを得ると言うのは難しく、一時の満足ですぐ
次なるものを求めなければならないのです。

より豊かな社会を目指すと言うコンセプトとしては良いのかも
知れませんが、消費経済社会で多大なる利益を得ている人は
良いとしても、多くの消費者は、消費することでしか得られない
一時の満足に、いつも心は満たされず、何時まで経っても、
本当に自分が求めているものが何なのか、解らずして不安のみが
付きまとう人生を送らざるを得なくなっているのです。

自分の身の回りにある必要であると思えるものの殆どが、もし
無くなったとしても十分に生活出来るという日本社会は、
如何に見た目の豊かさで国民の幸せが失われているかが解ります。
私達人類は、地球を支配し、他に類を見ない程の文明社会を築き
地球上のあらゆる食料や資源を手にしました。
しかし、自分の外見を着飾り欲しいものを何でも手に入れたと言え
実際の自分自身の心と身体は全く進化していないのです。

生き物としては、むしろ退化している部分も多く、どんなに豊かで
進歩的な生活を送れるとは言え、身体も心も脆弱である事には
何だ変わっていないのです。
あらゆる手を尽くしたとて、殆どの人は100年生きる事さえできず
近年、寿命が延びたと言っても、医療技術が進んで生かされている
だけの高齢者もとても多く、健康に死ぬまで元気であると言う人は
本当にまれと言えるのです。

この世に唯一無二の存在として生まれてきたはずなのに、
生まれた途端、心も身体も社会に都合がいい様に作り変えられ、
常に人の考えと同調し、社会的に認められる存在となる事を強いられ
本当の自分ではない肩書で自分の存在価値を認められる事に、どれ程
満足の行ける人生が送れると言えるのでしょう。

消費経済社会で生きて行くためには仕方の無い事とは言え、一生に渡り
本当の自分ではない姿で生きて行く事に、心からの満足は得られない
と言う事に気が付かなければなりません。
人生、長くとも100年足らず、どうせ誰もが死んでいくのであれば、
この短い自分自身を意識できる時期だけでも、本当の自分の気持ちを
常に心に失わず、他人としてしっかりと差別して自覚して生きる事が
本当の意味で幸せであると言えるのではないでしょうか。

 


誰もが唯一無二であり、尊い存在

2019-01-18 09:53:02 | 人生

私達は、生まれて死ぬまでの時代に生きている為、
生活の基準が、その時の時代背景や自分の生活環境に
支配されています。
未来でも過去でもない、現実の日々の暮らしが基準と成って
生きている間中、自分自身の生き方の証と成っているのです。

人類の長い歴史の中で、誰もが自分の生きている時代を基準として
未来と過去に思いを巡らせるのですが、現実に生きている事で
現在を自分にとって最も良い時代と考えがちです。
その為、多くの高齢者は、自分が長く生きて来た過去を正当化し
現実に生きる現代に否定がちと成ります。
いわゆる、高齢者が口にする、昔は良かった、と言う言葉には
今の時代は昔より悪くなったという考えが有るのです。

しかしながら、そういって嘆く高齢者達の先達は、かつて同じ様に
嘆いていたのです。
確かに、人間として生物として健康に生きる為には、公害も無く
自然に恵まれた過去の方が良いのかもしれませんが、人間は
環境によって感化され、その時の社会によって生かされるため
自分自身に大きな影響を与えた自分が生きて来た時代が、最も
生き易くて考え方の基準と成りやすいのです。

その為、人間にとって、素晴らしい時代と言えば、自分の生きた
生まれてから死ぬまでの時代であると言えるのです。
この環境に左右される人間の特性は、同じ時代に生きる人達にも
様々な影響を与え、世界中に散らばった人類は、其々の環境によって
多種多様の文化を築き、様々な考え方を持つ様に成ったのです。
単に顔かたちが違うだけでなく、其々が生きた地球環境によって
独特の嗜好や習慣が発達したのです。

この人類は、誰しも環境によって支配され、唯一無二の人間として
生きていると言う事が、実は最も大切な事であり、他人は、自分とは
違っているというのを前提として生きて行く事が重要なのです。
人間の進化は、優れた知能と、自分の思いを実現して行く力が
地球上のあらゆる生き物に優っていたのですが、この能力が
お互いの生き方を否定する事に因って、様々なトラブルが生じ
人類の歴史は、争いの歴史でもありました。
自分の思いを達成する為に、他の人の考えを否定し、更には
自分の考えを押し付ける事で、諍いが無くなる事は無く、
現代にいたるまで、人類の進化と反し、醜い争いが絶える事は
無いのです。

この素晴らしい人類の英知は、その一方で争いを生む結果となり
地球上で起こる殆どのトラブルの原因は、人間の持つ欲望から
発する我儘な自己主張によると言えるのです。
現在、日本を含め世界中で起こっている様々な争いは、
例え国家間と言えど、お互いの考えを認めない事から
一向に解決しないのです。
自分たちの考えを正当化することが幸せの道とする指導者が
世界中の人々を苦しめる結果と成っているのです。

資本主義社会や消費経済社会を貫いてきた国々にとって
如何に多くの食料と資源を手に入れるかが国策と成って
他国の利益を考える事が無くなっているのが、現代社会の
国際的な問題の主因と言えるのです。
特に大国の横暴は、世界中の人々の未来を不安に陥れ
常に戦争の危険性をはらんでいます。

アメリカファーストの考え方が、まさに現代社会の
問題を浮き彫りにしていると言え、同じく中国や
ロシアと言った大国が、自国の主張を繰り返すことで
益々世界の情勢は深刻さを増しているのです。
無限と考えられていた地球の資源と食料が、地球温暖化や
乱獲大量消費と言った先を考えない人類の暴挙により
急激に失われた事で、人類すべてに危機感を事となったのです。

しかいながら、この事態を如何に回避して、未来の地球を
人類のみならず地球上に住むあらゆる生き物にとって相応しい
環境に戻そうとする人達がいる一方、残された資源や食料を
独占的に消費しようとする人達もいて、私達人類の未来は
明るいものとなると言うより、破滅への道を転がり落ちて
行くのではないかと言われています。

中でも、食糧問題は深刻さを増していて、すでに世界の多くの
発展途上国の中には、国民全体が飢餓に喘いでいる国もあり
日本の様に、大量の輸入で食を賄っている国にとっても、
異常気象や乱獲による食料不足は、次第に大きな問題として
国民生活を圧迫してくると考えられます。
毎年値上げされる食品に、国民の多くは生活を圧迫されて
いますが、これは、国内事情と言うより、国際的な問題が
家計を圧迫していると言えます。

私達の生活は、欲しいものは何でも手に入ると言えますが
実際は、世界中から生活の糧をかき集めた結果に過ぎず
一度輸入が途絶えれば、たちどころに戦時中の日本に
舞い戻っていしまう可能性があるのです。
しかし、現代社会は当時とは比べ物にならない程
日本社会は世界中の国々に依存しています。
もし、これ以上食料自給率が下がり続ければ、日本人は
これまで経験したことない苦難を体験する事と成ります。

日本人は、世界に追いつくため、消費経済国家として
自国の成長の為に、先進国を見据えて自国の利益を求め
必至に頑張って来ました。国民も、先進国の生活を求め
常に経済的豊かな生活を実践して来ました。
しかしながら、国内外ともに、経済的に発展したと言え
対人関係や国際関係にトラブルが生じやすく、自分たちの
利益のみを求めてきた結果、国民も国も孤立する結果と
成っているのです。

経済的に豊かになりさえすれば幸せに成るとした考えが
国民の中にも国際的な立場であっても揺らいでいるのです。
いまだ近隣諸国から戦後補償を迫られたり、対人的に憎まれ
心から信頼関係を築けないのも、自分の事自国の利益しか
考えることなく生きて来た結果と言えいます。
しかしながら、ネットの発達によって世界中が繋がると
一国のエゴで利益を独占したり、多くの人々を支配することは
不可能の時代となって来ているのです。

地球温暖化に伴う異常気象は、人類のみならず全ての生き物の
生存を危うくしていて、今やすべての国々が協力し合って
この難局を乗り越えなければ人類の未来は危ういのです。
私達日本国民の間で有っても、一部の人の豊かさをもって
国の豊かさを図るのではなく、全ての国民が一様に安心で
未来を夢見られる生活を目指さなければならないのです。

今や世界も日本国内も、一部の人達が富を独占するような
一極集中型の社会が支配しています。
経済的な豊かさを幸せと思っている人達は良いのですが、
そうでもない大半の人達にとっては常に不満が募ります。
人は一人では生きて行けない様に、一部の人だけの豊かさでは
社会は成り立って行かないのです。
現実の世界情勢も、このアンバランスな経済体制が様々な
諍いを起こし、世界の至る所に頻発するテロの原因の多くも
人々の不安が創り出していると言えるのです。

 

 

 

 


幸せは、自分だけでは作れません

2018-10-26 09:46:56 | 人生

私達は、社会の中で生きて行くためには、常に、周囲の人に
気を配り、お互いにトラブルが生じない様にしなければなりません。
家族の中でも、友といる時も、そして、社会生活を行う時も
どれ程、関わる多くの人達と、スムーズな関係を構築できるかが
人生を楽しく生きることが出来るカギとも言えます。

しかしながら、周囲の人の事を考えて、常に人と同調する事ばかり
考えて生活していれば、自分自身の心と身体は、自主性を失って
次第に傷つき萎えてしまいます。
その為、多くの方は、自分自身の心を傷つけないためにも、
如何に、自分が思い、何を求めているかを主張しようとするのです。

いわゆる個性を出すわけですが、この事が、周囲の人達にとっては
苦痛であったりハラスメントであったりして、トラブルの大きな原因と
成ってしまうのです。
其々が、自分の思いを主張すれば、当然、諍いが生じる事と成り
対人関係は、思いもよらない険悪な状態となってしまう事もあるのです。

そこで、人は、学習をすることによって、対人関係を学び、いかに
ストレスを溜めず、自己主張をするかを考えるようになったのです。
自分の思いを通すために、様々なスキルを磨くことにより、より自分の
立場を強くすること、そして、もう一つは、社会的地位を増す事で
経済力をもって自己主張を強めるのです。

現代社会における生き方の多くは、個人の力を増す事と、社会的な力を
有する事によって、自分の生きる道が定まり、自己主張をすることで
楽しい人生を送れるとする方々がとても多いのです。
子供のころから学問を身に付け、良い成績を納め、より知名度の高い
大学に進み、更には、経済的豊かになる為に大手企業に勤める事を
人生の目的の様に思っている日本人が多いのです。

しかし、例え、人がうらやむ生き方が出来たとしても、実際には
中々心が癒されず、何時まで経っても満足できない、ただ更なる
経済的豊かさを目指す事しか考えられなくなってしまい、益々
対人関係が自分の利益しか考えられなくなっている方が多いのです。

確かに経済的力を持って、社会的地位を成せば、多くの事が自分の
思うが儘に成る様に思えるのですが、実際、自分の多く求める物を
手に入れたとしても、想像したほど満足感が得られない方が殆どです。
何故なら、自分が満足できると思っていた物よりも更なる
魅力的な物が世の中にはいくらでも存在し、何でも手に入れられる様に
成れば成程、自分が手にしたものが色あせて行くと言う現実があり
羨むほどの生活をしていると思われる方も、実際は、端で見るより
遥かに欲求不満である事が多いのです。

この事は、自分が欲しいものが手に入らない時、それを難なく手に出来る
経済的に豊かな人を、自分の求める世界に近い人と考えている事から
憧れとして思っていた事であり、いざ、手にしたとしても、それは、
第三者から称えられない限り価値観としては感じられないのです。
しかも、ひとたび手に入れれば、それは、憧れの存在ではなく、単なる
所有物にしか過ぎず、自身は、悪く言えば、それらの管理者に過ぎません。

どんなに高価な物を持っていても、その価値を誰かに称えられなければ、
自分にとっては、身近にあったとしても、それは、お店のショウウィンドウに
並べられている商品と同じです。
つまり、社会的な地位も、豪華な暮らしも、様々な高級品も、それらの価値は
自分自身が判断するものではなく、世間が、自分達との比較として感じるものです。
しかしながら、この時、その持ち物の価値を称えられても、持ち主が称えられ
なければ、持っている本人の価値観とはならないのです。

多くの人々は、経済的豊かな方々の持ち物は、それらが商品として売れている時の
金銭的な価値観として見ているのであって、持ち主の素晴らしさとは、殆どの場合
感じていないだけでなく、むしろ、身分不相応の様な感覚で、かえって、持ち主の
人間的価値を下げている場合も多いのです。
経済的に豊かに成って、多くの憧れの物を手に入れたとしても、人として豊かさを
認められなければ、世間的には、豊かに成ると言う事は、人として物よりも下に
判断される可能性が高く成るのです。

社会の中で、生きて行く意味や価値を感じられると言う事は、決して、経済的な豊かさや
社会的な地位ではないのです。
もし、その様な豊かな生活をしていると言うなら、その事で、遥かに勝る社会的な貢献が
成されていないと、人々は、経済的に豊かな人に対して厳しい態度を取るものなのです。
現代社会における経済的な差は、資本主義社会に於いて致し方無いと言えるのですが、
多くの人と経済的に勝る人達は、その豊かな生活が、多くの低所得者に対して納得できる
豊かさでなければ成らないのです。
それは、豊かに成る事で、多くの人がその恩恵に授からなければ、人々は、その地位や財産を
認める事無く、中には、妬み、嫉妬と言う感情を抱かせ、経済格差を不満として、争いに
発達してしまうも有るのです。

この事は、経済格差が生じる資本主義社会に於いて最も危険な現象であり、多くの国々で起こる
内戦の主原因とされるものです。
日本に於いても、一部の人達の極端な経済成長に対し、大多数の国民の生活は、日々苦しいままで
この格差は広がる一方です。
ごく一部の大手企業や主産業の年間収益が、大多数の中小一般企業の総利益を遥かに超えている
日本の現状は、明かに異常であり、莫大なる利益を得ている人達から、多くの国民が利益を得て
いると言うよりも、巨大企業に国民の財が吸い上げられているのが現状です。

例え、大手企業から莫大なる税を徴収しているからと言って、庶民が支出する納税額が与える
生活への影響を考えれば、微々たるものと言えます。
民間企業を救済し企業利益を増すためとする公的資金の援助も、大手企業や中核企業を助けても
一般企業を生き返らせるまでには至っていないのが現実です。
全ての社会事業が、日本を牛耳っている人達の生活をより豊かにする為に働くものの、
庶民の生活を豊かに安定したものにする事には至っていないのです。

この事は、日本人の社会生活の現状を示すものであり、多くの人々が非常に努力をしているとはいえ
それは、自分自身を豊かにし、自分達の生活を便利で豊かにするためであり、関わる人や企業に
利益を与えるものではないからです。
企業や政治家は、自分達は、常に努力をしていると言いますが、その努力が自分達を生かす為の努力
であって、関わる人達や国民生活を本当に豊かにするものではないのです。
自分達は頑張っていると言っても、それは自分達の自己満足に過ぎず、現実に於いては、国民は
一向に幸せに成れ無いと言う事は、その努力の方法が間違っていると言えるのです。

人間の生活は、自分自身を豊かに幸せにする為には、自分の努力が人の為になっている事が大切であり
自分だけを豊かにしたり幸せにしようとすると、必ず諍いが起こり、お互いに気まずくなるだけなのです。
人と関わると言う事は、相手からのリスペクトを得られる様な行為や言動を行わなければ成りません。
それは、相手が本当に求めているものを与える事であり、自分の思い込みの豊かさや便利さを与えても
心から信頼を受ける事は出来ないのです。

経済社会に於いて、私たち国民は、多くの便利で豊かな物を与えられて生活しています。
それらは、確かに便利かも知れませんが、本当に、個人個人の生活を便利で豊かにしているか
と言えば、その殆どは、単なる消費物質であり、より多く消費させる事で提供者の懐を豊かにして
いるに過ぎないのです。

私達は、ただ、便利と言うだけで、簡単に消費物資を手に入れてはいけないのです。
何故なら、新たにそれ以上便利な物を提供されれば、それまでの物は、廃棄されるだけと成るのです。
生活物資も食品も、常に消費し続ける事で現代社会は成り立っていますが、その事で、私達の生活が
危ぶまれている事を知らなければ成りません。

便利だからと言って消費し続けるだけの生活が、あらゆる公害を生み、今では、地球の大気や水を
汚染し、二酸化炭素による大気汚染は、地球温暖化を齎し、大型台風や集中豪雨、大干ばつと言った
世界中の人々の生活を破壊する異常気象を創り上げてしまったのです。
一部の人達の自分達だけを豊かにしようとした行為が、地球全体の生き物を絶滅に向かわせ、
地球の自然すら変えてしまったのです。

この事は、人が幸せに成る為のルールを無視した結果と言えるのです。
一部の人達の独占的は消費経済社会が、世界中の人々を巻き込む地球異変を生み出し、挙句の果ては
人類全体の存亡にも関わって来たのです。
より豊かな暮らしをすると言う事は、同じ環境に生きる人々も同じような豊かな恩恵を受ける事、
そして、地球の資源や食料を利用すると行く事は、自然環境がより豊かに成る様にすることが
一番大切だったのですが、何世紀にもわたり、人間同士も人間と自然とも、一方的な利益を求め
関わる人や自然に対し、利益をもたらさなかった事が、全ての凶事の元凶とも言えるのです。

人も自然も、何一つ同じものは無く、其々が特異性を持って存在しています。
自分だけの考え方や企業の利益だけを考えた資本主義社会は、一時の満足は得られても
いずれ、自分達の生活をも蝕んでくることを考えなければ成りません。
人類は、他人との関わりも、地球との関わりも、根本的に考え直さなければ、いずれ、思いもしない
末路を見る事と成るのです。
これまでの人間の歴史を全く変えてしまう程の、人にも自然にも生き方を変えなければ、
今以上に私達の住む地球は苦しくなり、人間関係は、常に争いの絶えない殺伐としたものと成るのです。




幸せを感じる為に

2017-11-29 16:52:46 | 人生

今年は、日本海沿岸に、北朝鮮からの小舟が多く漂着します。
漁船が操業中に流れ着いたとも言えますが、実態は不可思議な
事ばかりであり、死んだ状態で流れ着く事も有りますが、
船員らしき人が何人も乗船している事も有り、本当に、漁船が
途中で航行不能となり、漂流船と成って日本に流れ着いたとは
言い難い状況です。

これまで、日本海沿岸からは多くの日本人が拉致されていて、
いずれも小舟に乗せられ、北朝鮮につれされれている事も有り、
何だかの意図を持って、日本に侵入して来たとも考えられます。
また、厳しい規律、統制の下とは言え、余りにも苦しい日常に
北朝鮮民衆と言えど、国を棄てて新たなる地を求める気持ちが
有ってとの事も考えられます。

しかしながら、日本にはすでに多くの工作員が侵入しているとも
考えられていて、同じ顔立ちの東洋人は、日本人でも、誰が
北朝鮮からの侵入者だと、見分ける事は不可能と言えます。
もし、有事となれば、一斉に与えられた任務を果たす事と
成るのでしょうが、同じ顔立ちの人の中に、危険人物が
潜んでいるとなると、パニックとなる事は免れません。

軍事的な力は、アメリカには到底かなわないとしても、
もし、実戦となったら、如何に多くのダメージを与えるかを
常に考えて居ると思われ、私達が想像もしない事態が
発生しないとも限りません。
とは言え、今や、日本は、世界中の国々から訪れた人達で
何処も溢れていて、日本でありながら我々日本人が
外人であるかの様な錯覚に囚われる事もしばしばです。

戦争は、国と国との戦いの様に思われがちですが、
長きに渡って同一民族が国を統一して来たと言う事は少なく
多種民族が一つの国を作り上げている事が多いのです。
その為、戦争と成って、多くの犠牲者が生れた時に、
世界中の人々が撒き込まれる可能性が高く、
その影響は、地球規模のものと成ってしまうのです。

今や、世界中の国々は、国境が有るとしても、
そこに住む人々は多種多様であり、一国の平和と言え
単一民族と言うより、多国籍の方々の平和をも考え
様々な思いのもとに築き上げられていかなければ
成りません。
ナショナリズムが、必ずしも同じ民族でしか育たない
と言う訳でなく、民族を超えた国の平和を守る思いが
本当に民主主義を作り上げて行くのです。

とは言うものの、自由で平等な国と言える日本とは言え
いまだ多くの差別が存在し、日本国民同士だけでなく
海外から移住して来た人達に対しても、いまだ、
冷たい視線を向ける人も多いのです。
かつて、男女雇用均等法が出来ましたが、何十年経っても
日本国内に於ける男女の不平等は存在し、誰もが法の下に
平等に扱われると言うのは建前だけと成っています。

私達の住む地球は、かつてない程危機に直面しています。
まるで、真綿で首を絞める様に、しかし、確実に私達の
未来には不穏な空気が漂っているのです。
今日明日に大幅に変わらないとしても、一年一年確実に
地球環境は悪くなっていて、日本に於いても、近年
昔の様な春夏秋冬が無くなり、異常に暑くなったり、また
記録的に寒くなったりと、変わりゆく大自然に、日本人は
翻弄され続けています。

大気だけでなく、大地の動向も急激に活発となって来て
数十年前には、想像もしなかった天変地異が、毎年起こり、
未曽有うの被害が発生しています。
この地球の目に見える変化は、本来、人間の生きている
短いスパンでは感じる事も少ないのですが、余りにも
地球の変化が激しく、私達人類が何の手立ても出来ないのが
現実と言えます。

今後、核ミサイルの話題が消えてしまう程の大自然の驚異が
世界中に訪れる可能性が高いと言われます。
それも、ほんの10年20年の間に怒るかもしれないと予測され
今のペースで地球が変動して行けば、私達人類は、他の生物と
共に絶滅の一途を辿るとも言えるのです。

しかしながら、この人類がどうしようもない大きな地球の変化は
次への時代へのステップであり、人類の時代の終わりを告げて
いるのかも知れません。
とは言え、例えそうだとしても、人類は、この現状を少しでも
改善し、かつての地球へ戻す努力をする事が大切と言えます。
何もしないで、他の生き物と共にこの地球を去るよりも、
少しでも、地球にとって人類が貢献した証を残したいものです。

身近な環境を少しでも改善できれば、住む人々の心も安らぎ
無用なストレスを味わうことなく、今より平和な日々が送れ
人間同士の争いやいざこざも少なくなるのではと思われます。
今や、日本国民だけでなく、世界中の人々がストレスを抱える
極めて面倒な時代の突入していて、本来、生き物として、
環境の中で伸びやかに生きて行くべき人間が、自分達が
作り出した様々な問題で苦しむ事と成っているのです。

経済的に豊かな生活をすれば、何でも手に入れられれば
幸せに成ると思いきや、苦しみから解放される事無く
更なるトラブルを生んでしまっているのが現状です。
その苦しみから逃れようと、より豊かな生活を目指すも
まるで高い山に登っているかの様に、心が安らぐことが
少ないのです。

この事は、やはり、人としての生き方が、自分の欲望を
満たす事が優先され、常に人より秀でる事を良しとする
子供の頃から身に付けた生き方が災いしていると言えます。
自分が押しのけたり蹴落としたりした周囲の人達が、例え
豊かで地位の有る生活を得たとしても、心から歓び称え
称賛してくれることは無いのです。

周囲の他人と幸せを分かち合って成し得た地位や名誉で
無ければ、その地位の素晴らしさを確認できないのです。
そう、自らの存在価値は、自分の関わった多くの人達が
決めてくれるからです。
この事は、私達が生きる地球環境に対しても、同じ事が
考えられ、人間だけの利益を考えた結果、私達人類は、
地球から恐ろしい報復を受けているともいえるのです。

人類のみならず、地球に生きるあらゆる生物は、
自分を取り巻く環境と関わり合って生きています。
そのバランスを逸してしまえば、恩恵は受けられないのです。
この自然の摂理は、人類の生活に於いても同じことが言え
これまでの私達の、自分だけの幸せを優先する生活が、
思ってもみない苦境を生んでしまっているのです。

一生懸命頑張っているのに、いつまで経っても、
心が安らぐことも満たされることも無いのは、
何のために頑張っているかが解っていないからと言えます。
もし、自らの結果に満足したければ、自分の置かれた環境を
より豊かにし、関わる人たちの幸せを常に考えなければ
成し得ない事と言えるのです。

世界中の資源が無くなり、食料が枯渇し、異常気象が頻発するのは
決して私達人間の行いが間違っていたと言うのでは無く、
良かれと思って努力した事が、違っていたと言う事です。
木を見て森を見ず、と言う様に、自分達人類の事しか考えず
人類の進歩だけを考えたからと言えるのです。

ならば、どうしたら良いのか、こんな簡単な事が出来ず、
相変らず間違った方法で生きて行こうとすることが一番の罪であり
人類の浅はかさと言えるのです。
まずは、自分の置かれた環境の中で、如何に自分が周囲の事に
無頓着であったかを知る事です。
そして、自分が気持ち良く生きて行く為には、周囲の環境も
対人関係もどの様に変えて行ったらいいかを考える事が
一番大切と思えます。


欲望を棄てられない人間の甘さ

2017-05-30 13:40:31 | 人生

何故、我が国は、上に立つ人達や社会をリードする人たちの
不祥事や事件が多いのでしょう。
今に始まった事では無いにせよ、国民が未来を託している人たちの
有ってはならない私利私欲に満ちた著名人有名人の悪行が目立ちます。

中でも、国民のトップに立つリーダーに次から次に降りかかる疑惑は、
本人の全面否定と取り巻きの保護弁護の姿を見ると、日本人として
情けないだけでなく、今の非常事態で、一体何をしているのかと、
怒りが沸いて来るのを止められません。

今や、隣国からのミサイル実験はどどまる事を知らず、それに対抗すべく
連合国の動きも一発触発の事態と成っています。
私たち国民は、一体どうしたら良いのかと不安に思う毎日であるのに
国民を安心させるべく人たちが、己の不祥事のもみ消しに躍起と成るとは
日本人は、戦争にまき揉まれる以上に苦痛を強いられる事と成っています。


それにしても、何時から日本人は、これ程にも、大人になれない、我欲に満ちた
餓鬼の民族と成ってしまったのでしょうか。
他人の事をより考え、人々の為に生きる事を常とする方々が、一方では、
自分の欲望に負けて、悪事を働くと言うのは、映画やドラマの世界だけで
十分であり、現実でない事だから面白いのです。

しかし、事実は小説より奇なりと言うべきか、現実の世界の方がはるかに
ドラマチックで悪質です。
国民から吸い上げた税金のもと、自分達の私腹を肥やす事に頭を使って
人々の幸せは一向に実現されない、そんな国を誰も求めていません。
とは言え、連日メディアで伝えられる不祥事は、余りにも茶番であり、
日本人を代表する人々のする事とは言えません。

この長たる人達の事を真似ていると言うのでは在りませんが、社会的に
尊敬されたり、人々を助けたり導いたりする職にある方々の不祥事も
絶える事が有りません。
教育者が、医者が、弁護士が、役人が、次々に私欲にかられた事件を起こし
新聞の三面記事や週刊誌を賑わせない時は有りません。
スキャンダルや不祥事は、滅多に無いから注目されるのですが、最近は
その手の悪行が殆どの紙面を占める事も有り、国民としては、驚きすら無く
毎度のことに、無反応と成ってしまいます。

この事は、暗に、国政に対する興味や、政治に対する関心を失わせる
大きな原因と成っていて、上に立つ人の行動言動がいかに多くに人々に
影響を与えるかを再認識して頂きたいものです。
自分の身の回りについては関心があっても、自分を支えてくれた人々には
表向きの応対をして取り繕っている方々が少なくないのが問題です。

事件や問題を起こした人たちは、自分達の行いが、如何に社会的に大きな

影響を与えているかを考えて欲しいと思いますが、発覚を免れて、陰で
ほくそ笑んでいるキツネとタヌキが実に多い事が更なる問題であり、
これらの腹立たしい事件が、氷山の一角であることが、日本国民の不幸と
言っても過言ではありません。

とは言え、この問題は、昭和の歴史においても、同じようなスキャンダルや
事件は有ったもので、今に始まった事では有りません。
現代に於いてこの手の不祥事を起こす方々も、かつては、子供であり、
大人たちを見て育って来たのです。

その当時も、多くの新聞週刊誌テレビに連日報道され、社会問題として

とりあげられたのですが、その後、子供たちが成長して大人と成り、
今の日本をリードする方々になった時、一体、彼らは何を勉強して来たのか
今更ながら日本の教育に憤りと共に情けなさを感じます。

人間故、間違う事や失敗をする事は多々あるものです。

しかし、それを改め二度と同じことを繰り返さない様にするのが教育であり
未来への幸せな国家を約束する事と成るのです。
所が、同じような不適切な人々を生む現代社会は、何十年もたっても
全く成長をせず、国民は相変わらず苦しい生活を強いられて来たと言えます。

一部の人の幸せの為に日本の豊かさがあるとしたら、経済大国と言われるのは

幻であり、自由主義社会と言う偽りの衣をまとわされて、彼らの為に働く
多くの日本人は、まさに奴隷と言わざるを得ないのです。
こう考えると、今の非常事態も、彼らにとっては、自分達の安全が確保されれば
多少の国民の犠牲はやむを得ないと言う事でしょう。
そう、これまでの戦争も、全てが、彼らの様なリーダー達を守るために有り
多くの国民が犠牲に成って来たのですから。

今の危険な状態を作っている方々は、思想は違っているにせよ、本質的には

我欲を満たすために、国民を犠牲にしていると言えるのです。
圧力をもって恐怖を与え従わせる者、膨大なる国力と軍事力で従わせる者、
表向きは国民の為と言いながら、真綿で首を絞める様な息詰まる政策で
じわじわと人々を萎えさせている者、どれもが、本質は、自分の幸せしか
考えていないのです。

つまり、争いは、いつも、独裁者たちの欲望と我欲で生まれるのです。

様々な思想が有ろうと、宗教が有ろうと、人が人の上に立つと言う事は、
自分の欲望がすべて叶えられる様な錯覚に陥ると言っても良いのです。
我欲を抑え、全て人の為に行える人、それは人では無く神の領域と言え
それが出来ないからこそ、神を称え、神に縋るのが人間なのかも知れません。
人それぞれの神を持つことで、己の不甲斐なさ無能さ、それに伴う不祥事を
許されるとする人間の我儘がある限り、歴史は繰り返されると言えるのです。