めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

自分の見た目を認められたいの、自分自身を認められたいの?

2017-02-28 14:10:27 | 東京

一人一人の自分から見た社会は、とてつもなく巨大であり
一人の人間には、到底太刀打ちできない様に思われます。
誰しも、自分を中心に世の中を眺め、その規模の大きさに
常に圧倒されてしまいます。
街を歩く数知れずの人達にも、自分と比べれば、はるかに強く
ややもするとその雰囲気にのみ込まれてしまいそうになります。

しかし、これは誰しも同じであり、それゆえ、人は一人では
とても弱く、誰かの力を借りて生きる術を学んできたのです。
一人ではできない事も、多くの人が集まれば、様々な考えが生まれ
協力し合って事に当たれば、想像だにしない大事業を成し得るのです。

所が、この自己と他者の関係が上手く行かないのが現代人の特性です。
余りにも文明が進歩し、人類が生み出した様々な社会システムが
本当は、人間が動かしているのに、人間が動かされている様に
思ってしまうのです。

巨大都市も巨大工場も、私達人間が動かしているはずなのに、

感覚的には、それらの目に映る巨大な力が、私達を動かし、
私達の生活をも決めているかのように錯覚してしまいます。

人は、人として成長し生きて行かなければなりません。

つまり、人の中で人間性を豊かに成長させ、人との関わり合いで
自らの人生を歩んで行く様に太古の昔から生きて来たのです。
しかしながら、現代人は、自らの成長の証を、経済的な豊かさや
地位、名誉と言った、社会的な価値に求めてしまったのです。

他人に対する価値観も、その人の人間性に感じるのではなく、

その環境や社会的地位、財産に置き換えて判断する傾向が有るのです。
その為、より、社会的に認められる地位や財産と言った、自分自身とは
全く関係のない、成長の過程の副産物に目標を定めたことから
多くの人々の苦悩が生まれたのです。

メディアが示す人間の価値が、視覚的社会的豊かさで示される事も有り

子供の頃から、豊かと思える人の地位や財産を目指す事が、
人として幸せへの道と教えられる様に成ってしまったのです。
しかし、この、外見的な豊かさは、社会が作り出したものであり、
個人の人間としての豊かさを決める物ではないのです。

その為、人の心が読めなかったり、一方的な考えで人を傷つける事に

何の罪悪感もない、殺伐とした心の人間が増えているのです。
私達は、昔から、人としての心を基準に物事を考える様に教育され
お互いに相手の気持ちを考え、協力し合って生きることを人生の目的
として育ってきました。

所が、人生の目的や心の持ち方が、経済的外見的な部分に代わった事で

人として関われない人たちが非常に増えてしまったのです。
当然、常識を伝えても理解されることは無く、人として対等のやり取りが
全く出来ない、好き嫌い、欲しい要らないといった、単純な感覚で
物事を判断してしまう人が多いのです。

特に、人間的な教育を受けずして、人の上に立つことを常に教えられた

自分の欲望の為にだけ学生生活を送った方々は、例え、社会的に高い地位や
リーダーとしてのポジションを得たとしても、多くの人々の気持ちを
理解する事は出来ません。
しかし、今や、日本社会を動かしている方々に、この手のタイプの人が
実に多いのです。

私欲の為に、高い地位に居たり、人々から多くの資産を搾取したり

地位を利用して、膨大なる利益を得たりと、とても多くの国民を
幸せな未来にリードしているとは思えません。
人間の価値観が人間以外に変わった時、人々の苦労が始まります。
利益を得るための過剰労働を強いるブラック企業は、正に
人間を使い捨ての物扱いをする典型と言えます。

今や、日本社会は、より上位に位置する人々が、利益を吸い上げ

まるでピラミッドの様に、最上位の人達が、膨大なる資産を得て
国民を踏みつけている様な生活をしていると言えます。
ほんの数十社の大企業の収益は、日本中の一般企業の収益の
半分以上となります。

つまり、殆どの人達は、より上の人達の為に働き、常に、豊かな

生活を鼻面にぶら下げられて必死に生きているのです。
自分自身の心も生活も癒せない多くの庶民がいる日本を、誰が
近代文明国家と言えるでしょう。
優しい笑顔の裏に、苦しみや悲しみを背負っている日本人が
どれ程多い事か、外見でしか判断できない時のリーダーたちは
決して庶民を幸せには出来ないのです。

しかし、悲しいのは、そういった豊かな生活をしている人に

実は、心が満たされず、相変わらず利益ばかり考えている人が
いる事です。
巨大企業のトップに居ても、社会的な部分を取り除けば、
誰も、自分の心の奥を癒してくれないで、悩んでいる方もいます。
歴代のアメリカ大統領の中にも、最終判断を、自分ではなく
親しい占い師に託していた人もあり、大統領と言えど、誰も
心から信頼できないでいる経済主義社会は、如何に人間にとって
不幸な社会とも言えるのです。

人々の心の弱さは、世界中の多くの人が、何だかの宗教に心を寄せ

自らの気持ちを律している事からも解ります。
どんなに文明が進化しても、太古から伝わる宗教から逃れられないのは
そこにしか心の癒しを求められない人類の不幸があるのです。

私達の生活は、如何に自らの心が幸せで癒されるかに有ります。

幸せになる為に、生活を工夫し、便利で豊かな文明を築きあげて来た
と思われるのですが、じっさいは、心を癒す為と言うより、外見的に
豊かと思われる生活を選んだことから、様々なトラブルが生まれ、
争いが生じているのです。

日本の社会が、これ程にも閉塞感が有ると感じるのは、本来、人として

在るべき道を求めている人たちの悩みでもあるのです。
しかし、物欲を満たす事を幸せとしている人たちにとっては、
対人関係は、自分の欲望を満たすための手段であり、勝ち得た利益が
最大の目標となっています。

その為、その思いを達成できた一部の人は幸せと感じ、その思いを

より高めるために更なる経済成長を目論んでいるのです。
しかしながら、日本に於いて、その進歩によって得られた膨大な資産が
一向に庶民に回らず、ただ、より経済的に豊かな生活を求める様な
社会構造が主流となっているのが問題です。

どんなに頑張っても豊かになれない庶民、浪費し、骨の髄まで資産を

国に吸い上げられる国民が、どれ程苦しんでいるか、生まれた時から
坊ちゃんお嬢ちゃんで育って来たリーダー達には、全く解らないのです。
自分一人で生活するだけでも大変な為、結婚する事すら踏み切れない、
更には、結婚して子供が出来ても、教育する為の余裕が無く、
人生で一番素晴らしい家族の成長を感じられない国民がどれ程居るか
資料の数字を見て答弁している政治家は、そんな国民の苦しみは
爪の垢ほども感じていないのです。

明治以来、資本主義経済の中、この体制は変わらず続いてきたのですが、

国民の多くが十分な教育もされず、社会の在り方も解らない頃はまだしも、
誰が政治家になっても大丈夫なほど教育が行き届いた現代に於いてすら
多くの人々が、その身勝手な政策に怒り心頭に達していようと、平然と
胡坐をかいている事実は、日本国民の代表とは到底考えられません。

本当に、日本が、トップクラスの先進国と言われるためには、ただ

海外の産業や国政を真似するだけでなく、本当に国民が欲している
独自の日本を創り上げる事が大切です。
いつまでも真似をして、大国の傘の下で、自分達の私欲ばかりを追いかける
そんな日本を誰が望むでしょう。

国が豊かになると言う事は、国民の心が癒される豊かさがある国に
なる事です。

一部の人の莫大なる収益をもって、経済大国と自慢している様では、
虎の威を借りる狐のような、後ろ指をさされる国になってしまいます。
かつて、エコノミックアニマルと言われ、先進国の真似をして発展したと
諸外国から言われたものです。

戦後、何もなかった所から、先進国のあらゆる物を取り入れる事で

急速な進歩を遂げましたが、この進歩はあくまで経済的なものでした。
日本の自然も、国民も、この経済発展で大きな犠牲を払いました。
その負の遺産はいまだ解消されず、経済優先の社会が、日本国民を
どれ程苦しませているかを今のリーダーたちは知りません。

いえ、知らないと言うより、この高度成長で膨大な利益を得た人たちが

いまだ主導権を取っているのですから、考えもしないのです。
高度成長で一部の人は潤ったかもしれません。
しかし、美しい日本の自然はことごとく破壊され、海も山も汚染されました。
そして、心豊かな優しい日本国民は、公害や数多くの食品添加物で健康を
害されるだけでなく、更なる、高度成長の歯車となって働いています。

今や、国民の心は、震えるほどに怒っているのです。

しかし、優しい国民性は、その怒りを面に出さず、ただ笑みを浮かべます。
近隣諸国であったなら、何度もクーデターが起こっても不思議ではなのです。
そして、数年後、東京オリンピックが開催されます。
ここでも、私達国民は、怒りを押し隠し、お・も・て・な・し、と
作り笑いをしなければならないのでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

     

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 


果たして、日本人は幸せになれたのか

2017-02-27 17:24:30 | 日本人

明治維新から、西洋の文化が急速に日本国内に浸透し
産業革命と言う名の下、日本中が資本主義社会へと
著しい発展を見せました。
それまで、東アジアの小国に過ぎなかった日本は、
瞬く間に世界の主要産業国となり、国民の生活も
便利で豊かなものとなりました。

国内の少ない資源を補うため、幾度となく海外進出を計り
アジア諸国を植民地とする事に依り、膨大なる資源を手に入れ
遂には、アジアの中心の国となることが出来ました。
第二次世界大戦では、敗戦によりほとんどの植民地を失い
国内においても、多大なる人的物的な損害を受けたのですが、
その後の復興は目覚ましく、高度成長期を経て、日本は、
先進国の中でもトップクラスの経済大国となりました。

所が、この百数十年に渡る足跡は、日本の経済成長と共に、
日本人の心も大きく変えて行き、資本主義国家としての成長が、
私達日本国民の心に大きな負担を与えてきました。
多くのアジア諸国に比べ、生活も豊かで便利になりましたが、
果たして、本当に、私達日本人は、幸せを手に入れたのでしょうか。

経済成長を支えるべく人材の育成は、子供たちの教育も大きく変化し
日本の経済性を高める為の教育方針が、小さい頃からのプレッシャー
を生み、親子と共々、日本社会を守るべき社会体制の下、教育の目的が
人間としての個人の資質を高めると言うより、より現代社会に適応する
経済力を高める人材つくりに充てられる様になりました。

学校教育は、生産性高い人材づくりの為の受験勉強に費やされ、
社会を動かしているリーダー達の多くを輩出した有名校有名大学に
入学できる事を社会的なステイタスと考え、子供たちの価値は、
数字での評価により決まると言う、成績優先の体制が
つくられたのです。


この事は、例え、社会に出て会社勤めをしたとしても同じであり、
どれだけ営業成績を上げたかという数字で判断されます。
つまり、子供の時から、大人になっても、個人の評価は、数字で
表されるのであって、一人一人の個性や様々な能力では有りません。

しかし、より高い成績を納めれば、社会的に認められると思い、
一生懸命働いたり勉強したりすれば良いと思いがちですが、
実際は、成績評価であり、個人評価ではないのが現実です。
子供の時にしても、成績を上げれば周囲の評価が変わりますが、
これは、個人評価ではなく、成績評価に過ぎないのです。

つまり、子供の時も大人になった時も、日本人は、数字でしか
評価の対象にならず、経済的な評価も、地位、名誉、財産と言った
外見的な価値が、その人の評価となり、必ずしも、その人物の
価値とはしていないのです。

この人の評価を、数字的なもの、外見的なもので計ることが
まさに経済社会の特性であり、全ての物を数値化する事に依って
よりスムーズに経済性を増すことが出来るのです。

人は、それぞれ個性があり、誰もが顔が違っている様に、

考え方も生き方も違っています。
この、オリジナリティに富んでいる事は、豊かな人間性として
素晴らしいのですが、経済性からすると、非常に面倒くさく
一人一人を違ったものとする事は、非常に非経済的であり、
物事が進み辛くなるのです。

その為、経済を発展させようとする国は、国民を頭数で捉え

それぞれの分類を、数値化する事で扱いやすくなるのです。
つまり、人の評価は、比較しやすい数値や、資産、地位と言った
外見的な物を基準としているのです。

しかしながら、全てがこの経済性をもとに作られると、人々は

個としての価値を見いだせず、単なる、数字や外見を創り上げる
道具にしかならないのです。
これがつまり、学校成績であり、社会に於ける成績評価となり
個人が見えず、外見や数字ばかりが気になる社会となるのです。

日本社会が、経済大国になったと言う事は、如何にこの数値化が

国民に浸透し、一人一人の価値が見失われて来たかと言う事です。
問題は、この数値化や外見作りが、あたかも、私達の目的であり
社会的価値評価に繋がっているかと言う事です。
人は、人を判断する時、その人の本当の心を知らず、外見的な
地位や名誉、経済力を判断基準にしてしまいがちとなります。

私たち人間は、本来、お互いに弱くて無力な動物です。

その為、太古の昔から、お互いに足りないものを助け合って
進歩してきました。
足りない部分弱い部分を補い合う事に依り、他の動物にない
大きな力を身に付け、文明を発達させてきたのです。

その過程で、助け合う道具として様々な物が発明され、

便利な道具として、私達の生活をより豊かにしてきたのです。
つまり、人は、お互いの関係をより豊かに幸せにするために
様々な便利な物を創り上げ、より、人として助け合ったり
結束することが出来たのです。

所が、この便利な生活を発展させることが目的となった社会が

資本主義社会であり、その社会を大きくするために人が働き
争う様に成ったのです。
勉強をする時も、会社で働く時も、人間同士は敵であり
生産性を競うものとなったのです。

そして、人の価値は、より高い数値を示した者、より成績を上げた者に

向けられる様に成ったのです。
しかし、この事で、本人の人格的評価は全くなく、あくまで成績が
本人の価値とされた事が問題です。
つまり、どんな素晴らしい成績を上げようと、どんなに大きな仕事を
達成しようと、何だ本人の人格向上とは評価されないのです。

社会的に地位の高い人や高学歴取得者が社会的に問題を多く起こすのも

経済力や地位や財産が決して人間を作ってはいない事を示しています。
日本の経済システムに合わせ、学業も仕事も上手く数字を挙げた人も
その流れについていけなかった人も、どちらも、個人的には、価値を
認められず、評価されないのが今の日本社会です。

数字が挙げられる間は良いのですが、一度、数字が落ちれば、簡単に

奈落の底に落とされるのが現状です。
社会的に上に立つ人も、下になる人も、どちらも、お互いに
数字と外見でしか人の評価をできなのが問題です。
評価できないと言うのは、自分も正しく評価されないと言う事です。

つまり、日本人の多くは、自分の本当の心が認められず、外見的な

数字で表す事しか出来ない事で評価される事に苦しんでいるのです。
かつて、エコノミックアニマルと海外から揶揄されたのも、
何振り構わず働き続けないと、自己評価を受けなかったからです。

しかし、その結果得られた豊かで便利な生活を、幸せと感じた所から

私たち日本人の不幸が始まったとも言えます。
誰もが、裸の大様になる事を求められ、見た目の姿に己の未来を見る
そんな悲しい人生を強いられているのが今の日本人ともいえるのです。

近代的な大都会、様々なエンターテインメント、飽食日本と言われる

何でも手に入る日本社会、これら全ては、自分以外の虚構に過ぎず
どれ程手に入れようと、本当に自分の心は癒せません。
それ故、日本中が常に欲望のままに飢えているとも言えるのです。

明治以来、経済性を求めたことで、どれだけ国民は幸せとなったでしょう。

便利で豊かな生活が幸せとは言えない事は、国民の多くが気が付いています。
何度も戦争を体験し、国民の多くが傷つき、一部の人達の欲望の為に
多大な犠牲を払った事は明らかです。
戦争は、国民の為に行ったのではなく、経済性を求める一部の富裕層と
彼らに踊らされた時のリーダーが踏み込んだ過ちに過ぎません。

どれ程の国民の涙が流れ、多くの諸外国の人を傷つけたでしょう。

しかし、いまだにその蹉跌に気が付かず、更なる経済性を求めようとして
多くの国民に多大なる犠牲を負わせようとしている現実は、如何に、
人の心が育たないと不幸になるかを表しています。

高齢者が安心して余生を送れないのも、若者たちが夢を持てないのも

決して経済が低迷していると言う訳ではなく、私たち日本人の心を癒し
安心できる生活を送れる政策が成されていないからなのです。
太古の昔から培ってきた、大自然に対する畏敬の念、人と人との関わり、
日本人が育てて来た豊かな心を失った事が、一番私達の生活を苦しめ
人々の未来を奪っている事を、リーダーたちは知らなければなりません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 


心癒されない現代人

2017-02-25 16:14:43 | 日本人

子供達が大人に成長していく過程で、求められる
人としての大切な部分に、我慢をする、というのが
有ります。
生まれて間もなくは、感情の赴くまま、何のためらいもなく、
素直に気持ちを外部に表すのですが、大きくなるにしたがい
人として生きて行く為には、自分の思いを抑えて我慢する事が
大切で有る事を学びます。

この我慢と言うのは、自分の心の成長だけで無く、周囲の他人に
自分の存在価値を認めてもらう為にも大きな力と成り、
集団生活を送る上でも、我慢が出来る事は、トラブルを回避して
生きて行ける力ともなるのです。

その為、教育の一環として、大人たちは、子供たちに我慢をして
勉強に運動に頑張る事の大切さを教えます。
自らの事だけを考えて、自分の欲求だけで生きようとすれば、
自分の未来が閉ざされるだけでなく、自らの成長を妨げる事を
次第に学習する事で、子供たちは大人へと成長していきます。

目標をしっかりと見据え、我慢をして努力すれば、夢は叶う
と言うのが、社会的な成功への道であると多くの人が信じ
誰もが、自分の置かれた環境で必死に頑張っています。
息詰まった時、苦しさから逃げてしまうと、その先の夢は
叶えられず、何度も訪れる壁を如何に乗り越えるかが、
人間が生きていく上でとても大切な教訓とも言えます。

しかしながら、人は、とても弱い動物です。
集団で生きているのも、弱いからこそお互いに助け合う事で
進化して来たのです。
一人ではできない事を何人かで助け合えば可能に出来る事から
人類は、人口の増加に伴って加速度的に進化することが出来たのです。

所が、多くの人の力で動いていると思われる現代社会に於いて
近年、孤立化する人が増えているのが問題です。
例え、多くの人と一緒に働いていても、また、学校で学んでいても
心の中に強い孤独感を抱いている人が実に多いのです。

経済的に豊かであっても、心の中はいつも満たされず、
孤立したまま、自分の未来も夢見られず、苦しんでいる人が
増えているのです。
つまり、外見的には、何不自由ない生活を送っているように見えて
心の中は、いつも一人ぼっちで、寂しい思いで一杯の人が多く
経済的に恵まれ、多くの友に囲まれて生活している様に見える人でも
孤独に苦しんでいる人が意外と多いのです。

彼らは、地位も名誉もあり、知り合いも多いのに、一体何が足りず
孤立してしまっているのでしょう。
人は、人の心深く理解する事が難しく、多くの場合、外見に囚われ
見た目で人を判断しがちです。
その為、自分が憧れる様な生活をしていたりする人を見ると、勝手に
その人は幸せな生活を送っていると思いがちです。

しかし、人の心の幸せのレベルは、外見とはまったく関係ないのです。
あくまで外見は、社会との関わり合いの姿であり、本心とは違って
いる事の方がむしろ多いのです。
多くの凶悪犯罪を起こした人を周囲の他人が評価する時、殆どの場合
そんな事件を起こすような人には見えなかったと話します。
また、政治家や有名人が事件を起こす時も、彼らの活躍や地位を持って
意外性を訴えるのが常です。

如何なる社会で生活していようと、人は、本当の心を見せる事は少なく、
殆どの場合が、社会的な顔や行動で生活をしています。
確かに、社会で都合の良い外見や行動を行う事は理に叶っていますが、
それは、本当の自分でない事を本人が一番よく知っていて、
自宅に帰れば、実際の仕事以上に、心身ともに疲れる事からも解ります。

しかしながら、人は、自分自身を見せることで、自分がこの世に存在する
意味と価値を確認するものです。
しかし、個人としての自分は、本当に弱く、人間の心は、哺乳類の中でも
一番脆弱ともいえるのです。
簡単に傷つき壊れてしまうのです。

その為、生きて行くには、本当の自分を隠し、社会的に自分を守るための
経済力や地位、名誉と言ったものを求めるのです。
所が、自分自身が生きている事を自覚するには、そんな弱い自分を
認めてくれる人が必要なのです。
弱い自分をそのまま受け入れてくれる人が居て初めて、心の安らぎが得られ
生きる勇気が湧いて来るのです。

所が、それ程弱い自分をさらけ出せる人がいないのが問題です。
戦う相手であったり、協力し合って仕事をする相手はいくらでも在っても
心の中を認めてくれる人がいない現代人が実に多いのです。
何でも手に入る地位にある人でさえ、本当の自分を理解し認めてくれる人が
いない事に日夜苦しんでいる人が多いのです。

この問題は、社会人になったり、大人になって生まれると言うのではなく、
幼い頃からの環境で、育ってくる心の苦しみでもあるのです。
人は、求められて生まれて来ると共に、より、豊かな人生を送る為に
多くの期待を周囲から受ける事となります。
より人と成長する為、しっかりと学習し、多くの知識を身に付けるのですが、
その時、人よりより優位に立つために、一時の欲望を常に我慢するように
仕向けられます。

優秀な子供であればあるほど、周囲の期待は大きく、より大きな我慢を
求められます。
そして、何事にも耐え、社会のトップへと行きついた時、何でも手に入り
何でもできる地位にある時、次は何を我慢すればいいのでしょう。
つまり、自分の心の欲を抑えることが幸せで在るかのような人生が
実は、幼い頃からの心の安らぎを忘れてしまい、一体、何を求めれば
自分が満たされるのかが解らなくなってしまうのです。

大切な事は、しっかりと我慢して頑張る事を覚える事も大切ですが、
その都度、心を癒してもらう人間関係が無いと、いつまで経っても
自分の心は癒されず、外部に求める事が自分を幸せにすると思ってしまいます。
自分の心を成長させる事が一番大切で有り、その為に勉強が有り、我慢も
必要なのです。

家族であり、友であり、誰かが、心の一番弱い所を見守って癒してくれる時
人は、何をしても頑張ることが出来、その疲れを癒す自らの心に帰ることが
出来るのです。
その弱くも自分自身の心を認めてくれる人が居ないと、人は生きて行けないのです。
この事は、認めてくれる人を持つことも大切ですが、自分自身も誰かの
弱い心を認めて癒せる存在となる事が大切です。

現代社会は、ネットをはじめとして、あらゆる社会構造が、心の中とは程遠い
華やかで力強い外見で出来ています。
その為、人々は、自分ではどうにもならない大きな力にひれ伏して、自らの
存在を否定してしまいがちです。
しかしながら、それらの目に映るものは、人の心を表すものではなく
社会的に便利で都合よく作られたものなのです。

自分自身が、成長する為には、自分の本当の心を認め、その心を癒してくれる
友や家族を持つことが大切なのです。
自分の心を守ろうと、外見的な物を求め続けると、自分の心の成長が遅れ
幸せを感じることが出来くなるのです。
自分自身の心は、自らが確認する事は非常に難しく、昔から哲学の世界でも
自分を見つける事の難しさが議論されています。

自分の心が解ると、人は、その尊さと素晴らしさに感動し、自らをより成長させ
人として素晴らしい人生を送ることが出来るのです。
その為には、自分の欲を満たす事より、人の心に寄り添える、癒せる事が大切で有り、
弱い心を認めて察してあげる事が大切です。
人は、心の中を認められると、同じ様に癒してくれた人の心を認め癒そうとします。
その時、自分自身の心の存在を認めてもらえ、この世に生きている事の喜びを
自分の心で感じることが出来るのです。

自分の心を癒されたいと思う時、人の心の弱さを認める事が大切です。
この、人と人同士の心の寄り添う様が、現代社会から消えているのです。
弱さを強さで守ろうとすれば、人を傷つけたり苦しめたりする事となるのです。
どんなに豊かで便利な生活を送ろうと、その外見で人の心は動きません。
生まれるのは、欲望と妬み、誹りと言った、心を荒げる物ばかりです。

我慢をして努力をして学問を身に付けるのも、目的は、単に、
経済的に豊かな生活を送る為ではなく、どんな生活を送ろうとも
自分自身の心を成長させ、人の心の事実を知り、本当の姿を知る事です。
その時、お互いにお互いを認め合うと共に、生きている意味と価値を
知る事が出来るのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 


 


諦めないで自分自身を信じる力

2017-02-24 17:01:20 | 日本人

最近、芸能界に於いて、子役の存在が、注目されていて
幼くして、大人顔負けの演技に、人々は驚き感動します。
しかも、お芝居だけでなく、日頃の周囲の人に対する
受け答えも、年齢不相応の、大人びた考えを示します。

子供たちの両親よりずっと年上の、著名人達に対し、
大人以上の蘊蓄を持って受け答えをする姿に、
私達視聴者は、驚きと共に、末恐ろしささえ感じて
しまいます。

とは言え、近頃の子供たちは、私たちが子供の頃よりも
遥かに知識があり、なんといっても驚かされるのは、
大人びた言動が随所にみられる事です。
教育の進歩と見て良いのか解りませんが、例え小学生でも
自分の意見をしっかりと持ち、大人と対等に意見の
やり取りが出来る子供が珍しく有りません。


学校教育のみならず、ネットの発達が、子供たちに及ぼした
様々な影響は、生まれた時からコンピューターを当たり前に
使っていた事により、アナログで育った私達とは全く違った
考え方を持つようになっているのです。

日常生活における様々な判断は、まるでゲームをする様に
スピーディで、自分の置かれている環境を瞬時に判断し
如何に振る舞ったら最も利益となるかが解っていて、
対人的にも、自分の置かれている立場に応じて、的確に
一番有効と思われる態度を示そうとします。

沢山の情報を利用し、自分がいかに振る舞い如何に行動すれば
トラブルなく周囲に溶け込めるかを、幼い頃から学んでいます。
この基準は、成長過程で次第に変わって行くと言う物でなく、
ネットや様々なメディアからの情報の下、大人の中で交わされる
対人的なやり取りが基準となり、小さい頃から大人びた考えや
行動が顕著となっています。

子供は子供らしくと言うのは、過去の世代の考えであり、
より正確で、的確な答えが、子供たちの考えとなって行きます。
しかし、この感覚は、極めて大人の、社会的な感覚であり
その中には、お互いの駆け引きや利益を考えた計算があり、
生活を豊かにするための手段でもあるのです。

しかしながら、このビジネスの上での有効な考えは、大人の都合に
合わされて作られているものであり、大人同士の会話ややり取りは
その前提として、お互いの利害関係が生じている場合が多いのです。
友達や家族との間のやり取りと、ビジネス的なやり取りは違っていて
ビジネスをスムーズにするために生まれたお互いのマナーは、
仕事以外の場で使われると、時に、ビジネスライクであり、
人の心をクールダウンしてしまう事が多いのです。


例えば、先ほどの子役にしても、お芝居や与えられたセリフの上での
大人びた考えであるのなら良いのですが、普段の会話に於いて使われると
時に、計算じみた、誰かに言わされている様な、何処かの台本の一部
であるかのように思われてしまい、子供としての本意を疑って
しまうのです。

ビジネスライクな会話や知識は、商談を進めたり仕事を進める上では
お互いの事を尊重して良いのですが、相手の本心とやり取りするとなると
一体本音は何なのかと、疑われても致し方無いのです。

私たちは、出来るなら、小さい頃から博学で、学校成績もよくありたい
と望む物ですが、自分が生まれて死ぬまでの間に、行わなければならない
人の成長にとって大切な事が個人的に数多く有るものです。
学校成績の様に、他の人と対比的に見る物ではなく、個人的な成長を
促すための各時代の感覚が有るのです。

三つ子の魂、100までと言われるように、私たちは、幼い頃に得た経験が
一生ついて回る事も多いのです。
特に、年代に応じて心の成長が有り、物事に対する感覚も違っているのです。
同じ映画を見ても、時代と共に感じ方が違う様に、生まれた時から死ぬまで
その時々で感じ方が違っていて、その思いは、頭の中の記憶として残ると
言う訳ではなく、身体に対しても成長過程で強く印象として刻まれるのです。

特に、成長著しい子供の頃は、知識から得る印象よりも、自分が体感した
心と外界とのやり取りで得た印象が強く、正に、百聞は一見に如かず、と
言った事となります。
しかし、近頃の子供たちは、膨大な知識を得られる事から、本人よりも
知識や言動の方が優先となり、疑似体験の知識を大量に持つ子供が
社会的にもてはやされるようになっているのです。

そして、問題は、その知識を如何に使ったら、言葉をどの様に使ったら
大人から、周囲からよく見られると言う事を知っていて、本心とは裏腹に
社会人のビジネストークを行うような子供が多くなっているのです。
子供たちは、大人たちに好かれる方法をわきまえていて、いかなる態度
如何なる考えを持っていれば、自分達を大事にしてもらえるかの術を
わきまえているのです。

子供の頃は、周囲の環境に対して、自分のその時の心の受け取り方で
感受性豊かに成長していくものなのですが、その時、沢山の知識や
大人のビジネスに便利なやり取りや感じ方を身に付けていると、
知識は増えても、本当の自分の心で感じる力を失ってしまいます。

子供は子供らしくと言うのは、大人から見て、子供の姿行動を
見せて欲しいと言うのではなく、その時代にしか感じられないものを
自分自らの心で感じて欲しいのです。

この時、大人ならば、適切な説明が出来たり、分析が出来たりできても
子供からすると、心の中の幅広い豊かな感性が働き、とても簡単に
言葉で表せられない事も多いのです。
その為、どの様に感じたかと聞かれても、答えられない事も多く、
なまじしっかりと説明できる子供は、知識の中に在る言葉や動作を
使う事に依って、簡単に答えを出してしまい、自分のセンスから
感じ取る様々な答えを得る事が出来なくなってしまうのです。

コンピューターで調べれば、何でも答えが出る様に、私達は、
何でも答えられる人を崇めがちです。
しかし、どんな事象も、数式の様に答えが求められるものでなく
その時の環境や対人関係によって、様々な答えが生まれるのです。
同じ問題でも、時と場合によっては、全く真反対の答えとなる事も
人生に於いて少なくないのです。
しかし、この、生きた考え答えを導き出せる事が、人間の成長の上で
とても大切なのです。

人の考えは無限であり、私達の求める答えも無数にあるのです。

長い人生の間に、私達の周囲の環境は、様々に変わっていきます。
特に、人間関係は、一人一人答えが違っていると言っても過言でなく、
その違いを感じられる事が、人生を豊かにするのです。
何でも答えてくれるコンピューターも、決して自分にとって正しい
答えを出してくれるとは限らず、沢山の知識も、かえって無駄となったり
邪魔となったりすることが有ります。

人生に於いて、様々な事を体験して、答えは無限にある事を知る事が

生きて行く上で一番大切です。
子供の頃の様々な体験は、未来に於ける多くの答えを導き出し、
より豊かな人生を送れる事となるのです。
今の閉塞した時代、追い詰められて、もうこれ以上幸せになれないとか
生きて行けないと、人生に挫折してしまう事が有ります。
しかし、本当は、道は、無数にあり、幸せになる方法はいくらでも
在るのです。

何かを見つけると言うのではなく、道は確実に在ると信じられる事が

大切で有り、来るべきチャンスをものに出来るのです。
子供の頃からの、実体験が、如何に人間を豊かにし、未来を信じる
大きな力と成るのです。

思う様に動けなくとも、考えた様に物事が進まなくとも、

その時、頭の中では、あらゆる可能性が渦巻いているのです。
その中のほんの一つに気が付けば、苦しみから逃れられるのです。
自分の不甲斐なさ、情けなさ、無能さと言うのは、自分以外の人と
比べた事に依る弊害です。

自分の可能性は、自分自身で考えられない程大きく、自分が望む夢より

遥かに魅力的で豊かなものです。
どんな苦境に有っても、必ず答えは見つかるものであり、一番の不幸は
自分の可能性を否定して、諦めてしまう事です。

世の中は、諦めないで頑張っている人にエールを送る様にできています。

悩みつつも諦めず頑張る事は、周囲の人々に勇気と希望を与えます。
実は、その先に、思ってもみない素晴らしい世界が待っているのです。
簡単に答えが出ない事、簡単に実現できない事、言葉で言い表せない事は
夢を実現できる一歩であることを忘れてはなりません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


社会不安が日本を亡ぼす

2017-02-23 14:41:07 | 日本人

人は、どんな生活を送っていようと、他人から憎まれたり
蔑まれたりして人生を送りたくないものです。
自分の周囲の人や知り合いから、親しまれ尊敬され認められる
心豊かな日常を送りたいものです。
つまり、簡単に言えば、人から好まれる生活をしたいのです。

その為、お互いに気遣い、相手の事を考えて、嫌われえない様
立ち振る舞いや言葉に気を付けるのですが、時に、その行為が
意図的に行われ、かえって周囲から顰蹙を買う事も有ります。
人に好かれるために気を使い、出来るだけ良く思われたいがための
様々な行動が、かえって嫌われる原因となる事も有り、私たちが
人と関わると言う事は、思った様には、中々いかないものなのです。

しかしながら、近年、相手の事を気遣うどころか、相手の気持ちに
お構いなく、人の心に土足で踏み込んだり、嫌がる気持ちをを無視し
勝手に自分の思いだけで行動したり言動をする人が増えています。
ニュースで盛んに取り上げられるストーカー行為は、この最たる物
であり、最も卑劣で現代社会における対人的な闇の部分とも言えます。

この行為は、被害者にとっては、計り知れない苦痛であっても、
加害者にとっては、全くそのような思いは関せず、一方的な
自分の欲望でしか有りません。
自分の行いが、如何に相手を傷つけようと、自分の行為が正義であり
例え犯罪に発展しても、自分の行いを反省する事も少ないのです。

この様な特殊な例だけでなく、日常に於いても、自分自身の意思の主張を
常に正当化し、周囲の顰蹙を買っても、全く自らの行いを顧みない
社会のルールもモラルも全く通用しない人が増えています。
自分の欲望のままに行動する時、周囲がトラブルに巻き込まれない様に
関わらないようにする行動が、自らの行動言動が認められていると判断し、
益々、エスカレートする傾向があります。

世の中で、人々の自由が認められる様に成って来ると、それまで、
社会的な規制で出来なった事が、何でも挑戦できるようになり
より一層社会の進歩に関与する事となったのですが、一見誰もが
幸せになると思われる考えも、社会が発展してくると、思いが
叶えられる層と、どんなに頑張っても成し得ない層に分かれてきます。

その為、社会的に様々な権力や経済力を持つものは、自らの思いを
更に高め、より一層テリトリーを広げて行くのですが、振り落とされた
夢がかなえられない人々は、夢や思いを我慢して、むしろ、一部の
裕福な方々を支える為の不特定多数の人間として生きて行く事を
強いられる様に成るのです。

この社会の二極化に有って、振り落とされた人々の中に在って
更に自分の思いが達成されない人々も多いのです。
今の社会では、世の中の不況もあって、経済的に自立できず
自分の生活すら成り立たない人たちも多く、様々なうっぷんのはけ口が
勝手な欲望となり、そのはけ口として、対人的な嫌がらせやいじめに
発展する事があり、この陰湿な行為の一つがストーカーともなって
世の中をより不穏な状況としているのです。

しかしながら、この生活の二極化が、持たざる人々に犯罪を生んでいるか
と言えば、そうとも言えず、より豊かな生活をしている人たちの中でも
陰湿な犯罪が増えているのが現状なのです。
中国の諺に、お金持ちは、喧嘩しない。というのが有ります。
経済的に豊かになれば、心も豊かに落ち着いて、無駄な争いはしない、と
しているのですが、今の富裕層は、心豊かかと言えば、そうとも言えないのです。

社会的に日本を引っ張る方々や政治家であっても、私欲に走る人たちが相変わらず
新聞紙面を賑わし、彼らがすべて、一般庶民を幸せに導いているかと言えば
全く期待に沿えない、どう見ても、自分の事しか考えていないリーダーが多いのです。

日本社会が、バブル以来、庶民が全く豊かにならないのは、経済的に豊かでない
と言うのではなく、経済的に豊かさを保とうとしているのは、富裕層の人達で、
多くの苦しんでいる庶民の生活を良くしようと考える人は少ないのです。
と言うより、更に、国民から虎の子を吸い上げる策を考え、日夜、メディアを通じ
お金の流れをより増す為に洗脳しているのが現状です。

豊かで便利な生活と言う魔法の言葉で、様々な購買消費を促し、より選ばれた
人達だけが豊かになるような構図が今の日本社会と言えます。
人々の多くは、生きて行く為に必死に働き、そのお金を、洗脳された商品に
連日つぎ込んでいくのが日本社会の縮図と言えます。

経済的な所得差は致し方ないにせよ、人として、人生を送る上で、最低限度の
保証は成されるべきと言えます。
個人の能力、経済力は様々であっても、生きて行く為の最低限度の保証が有って
一国の国民として頑張れるのです。
今や、国民の多くは、日常生活に、健康に不安を抱えて生きています。
仕事を失えば、首をつらなければならない様な生活を送っている人も多いです。
将来の生活に不安を抱えている人により不安情報を流し、多くの方がこぞって
様々な保険に入らざるを得ない状態となっています。

経済的に追い詰められている国民から、更なるお金を取り上げるかという
からくりが、一見豊かで華やかな都会でも有るのです。
国民は、如何に多くのお金を使える生活が豊かで幸せで在るか、という考えを
植え付けられ、経済的に豊かになり、多くのお金が使える事が幸せと言う
どんなに頑張っても決して豊かになれない構図が生まれるのです。

実は、この事が、多くの犯罪を生む原因でもあるのです。
どんなに豊かになろうと、経済的に欲求不満の状態を作る事で、
いつまでも支出を途切れさせない社会のからくりが、人々の不安を呼び
欲求のはけ口を、犯罪に走らせたり、社会不安を生んだりしているのです。

中国のことわざの様に、本当に人々が争いを好まなくなるのは、

ただ、物欲が満たされ、経済的に豊かになる事ではないのです。
人が、安心で幸せな生活を送れるには、心の不安が無い事が一番です。
心の不安が無いと言う事は、生きて行く上で、どんな病に伏しても
どんな仕事をしていても、衣食住が満たされ、人々に守られている事です。

競争を助長して、人を蹴落とし、自分の欲のみを満たす事を求める

社会傾向は、どんなに豊かな生活をしても、人々の心は満たされず、
常に不安に苛まれる人生を送らなければならないのです。
今日本人が求めているものは、安心できる生活です。
これは、経済的な物で満たされるものでは有りません。

生きていく上で、不安な気持ちがいつもついて回っているのが

日本人の現状と言えます。
生活レベルに関係なく、国民の多くが現在に将来に不安を抱き、
不安から逃れるために生活をしていると言えます。
この不安から逃れる方法が、経済的に豊かになる事としている
日本のリーダー達の考えが、いまだ、高度成長期から変わらず
国民の中に争いや犯罪を生んでいると言っても過言ではないのです。

生まれてから死ぬまで、常に、生きるために戦い、食べる為に頑張るのは

動物達です。
人間と動物の違いは、生きる為食べる為の不安からの逃れられ
人類としての崇高な文明を築き上げて行く事に有ります。

しかしながら、これほどにも文明が発達していながら、今だ、この動物の

苦しみから逃れることが出来ず、更には、衣食住の部分で満たされず
戦いを続けているのは、如何に人類が進化していなくて、
とても、地球の生き物の頂点として君臨するには相応しくないと言う事を
表していると思えます。

人々を代表する人達は、まずは、国民全体が、最低限何不自由なく

生活を送れる事を考えなければなりません。
国民の不安が、社会不安になり、更には争いへ犯罪へと発展していきます。
どんなに豊かになろうと、富裕層だけで国は成り立たないのです。
多くの国民の不安が怒りとなり暴走し始めた時、歴史が示す通り
時の政府や富裕層の最後がやって来るのです。