めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

政治に私欲が有ってはならない

2016-06-20 13:23:52 | 選挙

現職都知事の辞任と共に、18歳以上の国民が投票する事となって
次第に政界も慌ただしくなって来ました。
都内にも、連日選挙カーから立候補者の弁舌が流れます。

しかしながら、毎回の事ながら、私達と政界の方々との間には

白々とした空気が流れるのは、一体どうした事でしょう。
国の政治を司る大切な人達を決めなければいけないのに、
例え選挙権を持って一票を投じる事が出来るにしても、これ程までに
気分が高まらない行事は有りません。

民主主義国家として、世界でも名立たる国家であるはずの日本は、

言葉とは裏腹に、どれ程の人が国民が主体の国であると思っている
でしょうか。
国民の権利義務として、我々の代表を選び、私達の民意を戦わせ
より豊かで幸せな国を作ることが目的であったはずなのに、
いつの間にか、リーダー達のスタンドプレーと公私混同、私利私欲が
普通に成ってしまいました。

政治家になることが、単に、社会的地位を得るためのステータスと成り

私達の本当の気持ちを政治に反映できない、形だけの政治家が
見るからに多くなりました。
政治家と言うより、まるでテレビに出てくる評論家の様に、弁舌巧みに
言い訳や言い逃れだけが上手くなり、本来の仕事に期待が持てない
知識ばかりで実行が伴えない政治家がどれ程多くなっているか、
国民の期待が具現化される事が無くなるにつれ、私達の関心も薄れ
選挙すら足が向かない国民が増えているのです。

私達は、小さい頃から有言実行と言う事を教えられ、自分が決めた事を

最後まで成し遂げる事を強く求められました。
子供の頃は純粋にこの教えを守り、何事に対しても一生懸命頑張り、
その結果、期待された事が成されると、周囲から暖かい祝福が得られ
自分なりに成長した事を実感したものです。

しかしながら、更に多くの期待を担う方々が、一度政界に入ったとたん

自らの公約も信念もどこかに消え失せ、自分が生きる道を求める為の
努力のみに心を奪われています。
全ての人がそうとは言いませんが、少なからず、自らの熱意は薄れ、
長いものに巻かれながら、自分のテリトリーを確保する事に
専念しているのが情けなく思われます。

政界に入れば、誰もが、そのおどろおどろしい怪物たちの世界で

生きて行く事は解っていたはずです。
しかし、誰もが、多くの国民を背にしている責任があるはずです。
何故当選できたのか、自分の実力と思っていたら大間違いです。
沢山の支持者のお蔭で、多くの国民のお蔭で、当選できたのです。
常に国民の思いを背負っていると共に、政界の怪物たちと戦う力も
与えられているのです。

ところが、政界に渦巻く圧力に屈して、さらには、私達の思いを忘れて、

私利私欲に走る方々がいかに多いか。
毎年、マスコミを騒がせる政界の大物の不祥事が氷山の一角で
有る事は誰もが承知の事なのです。

とは言え、誰かが政治をしなければこの国は成り立って行きません。

政界の闇は、太古の昔から存在する根絶しがたい事実では有るのですが、
少しでも浄化をすべく戦っている方々が居るのも事実です。
しかし、巨大な欲が渦巻く政財界は、容易く変えられる物でも無く
殆どがなしの礫とも言えるのが残念です。

例え政権が変わっても、社会情勢が一気に変わって、庶民が安心して

生活できる環境が出来る事は不可能と言えるのですが、選挙を通じてのみ
民意が伝えられる現在の日本に於いては、一人でも多くの私達の心を
代弁してくれる政治家を送り込む事が大切なのです。

ただ、便利に成っただけで、幸せを感じられない日本社会は、経済的に

豊かにしたとしても、しょせん、経済を動かしている方々のみが豊かになり
庶民は、単に消費者として存在しているに過ぎないのが現状です。
戦後、私達日本人は、沢山の尊い命と財産を失いました。
着の身着のままで、ともかく食べていける事を考え、経済的に豊かに成ることを
日本の復活と考えました。

そして、世界で一番働く民族として、高度成長を遂げ今に至りました。

生活は豊かに成り、何もかもが便利になりました。
しかし、幸せになったかと言うと、大きな疑問が浮かびます。
経済的に豊かに成って、何でも手に入ると思っていたのに、それ程にも感じず
更なる触手を伸ばし、ありとあらゆるものを手中に収めても、心が満たされない
安心した生活が送れない多くの方が増えています。

マスコミが薦める豊かな生活を手に入れても、本人にしてみれば、自分が全く

変わっていない事、心の中は少しも安らぎが得られていない事が、逆に
ストレスを増している方々も多いのです。
日本のリーダー達が、経済的に豊かに成れば、日本の未来は明るいと
思っている限り、庶民の生活は苦しくなる事が解っていません。

近年の経済政策は、なぜ、失敗ばかりしているのか、
それは政治を司る方々と、それを支える企業を豊かにすることが
前提にある経済政策だからです。
何を提案しても、そこから得られる収益はすべからく一部の人のみを豊かにし
一般の国民は、それを助ける様なシステムに成っているからです。
豊かな人はより豊かに、貧しい人はより貧しくというカラクリが、今の日本経済です。

マスコミに出てくる方々は、単に評論家ばかりであり、自分たちの意見を述べる事に
終始するだけで、この世を憂いても批判しても、現状を変える力は有りません。
何故なら、その番組を動かしているのも、一部の人達なのですから。

事に因ると、もうすでに、日本民族は精神的には滅びているのかも知れません。
国の代表、人々の前に出てくる方々も、全てが持論を述べるだけで、誰もが
国の未来を憂いている事は無く、わが身を守ることを前提にスケジュールを
こなしているいるに過ぎません。

私達国民は、一部の人々の生活を豊かにするために生きている駒では有りません。
彼らが欲する日本を作る手助けをする為に苦しい人生を送っているのではないのです。
誰もが未来を描き、幸せを勝ち取る権利を持っているのです。
人の上に立つと言う事の意味をはき違えている方々が、私達の美しい日本と人々を
蔑にしているのです。

本当に国民が必要としている事に常に気を配り、現実化する事を試みるリーダーが
何故出てこないのか。
民主主義国家に住む人々の一番の政治的関わり合いである選挙が、これ程にも
価値が薄れないがしろにされている現状は、いくらメディアを通じて人々に啓蒙しても
本質が変えられない限り、いつまで経っても変わるものでは有りません。

今や全国で頻発する天変地異、それに伴う多くの被災者、国を挙げての救難活動
が続けられています。
人々の生活と命を守るために、全国からの援助が人々の心に寄り添います。
しかし、この禍に対しても、私達の生活の根本が変わらない限り、本当の意味での
復興事業とはならないのです。

更には、長年に渡って、苦界から抜け出る事の出来ない沖縄県民は、
単に戦争の犠牲者と言うのではなく、国家からも国民からも見捨てられ続けた
日本国際大の被害者でもあるのです。
この様に、政治は、何を目指して国民を守るかがはっきりしていないと、
単に、目先の援助や人々の苦渋の生活を強いるだけで、何の役目も果たせず、
己の欲を満たすだけの政治屋を多く生むのみと成ってしまうのです。

ところで、国の政治に大きな影響を与える大企業の役割は、更に重要であり、
日本国民の未来を決めかねない事を常に考えていなければならないのです。
商人として利益を得る事は大切ですが、国を動かす程の規模ともなれば
国民を幸せに導く義務も有るのです。
私達国民を本当に豊かにする商品なのか、単に、自分たちの利益を上げるだけの
一部の人間だけの利益の為に国の政治に関わることは有ってはならないのです。

これまでの大戦の陰には、いつも巨大企業の影がうごめいていました。
しかし、その結果どれ程国民が幸せになったでしょうか。
自分たちが国民の生活を大きく変えると言う事を心に念じて、国を支える為の
事業展開を考える事が非常に大切と思えます。


 


リオオリンピックの経済危機が東京に

2016-06-18 13:34:50 | 東京

リオ五輪の開催に当って、莫大なる財政危機が同州から叫ばれています。
5000億円を超える財政赤字、様々な行政機関が停止し、給料の未払いのみならず
病院すら機能停止に陥る事態が起こっています。

従来からオリンピックに掛る莫大な経費が問題に成るも、その開催による莫大な利益が

見込まれる事から、世界各国がその誘致を競っているのですが、近年の世界的な不況
各国の財政赤字が、単にメリットばかりを考えられない状態と成っています。

かつて、東京オリンピックが開催された時、折からの高度成長の流れに沿って、

財政的にも国民感情からも、全てが右肩上がりの結果を呼んだのですが、
最近のオリンピックに伴う様々なデメリットが、開催にあたって大きな問題と成っています。

とは言うものの、4年後にはいよいよ東京オリンピックが開催されます。

しかし、この開催が、果たして日本社会にとって本当に明るい未来を約束するのでしょうか。
巨大イベントと言うのは、莫大な経費を必要とするものの、その開催にあたって経済的に
様々な見返りを呼ぶと言うのが知られているのですが、近年の世界情勢からすると
必ずしも目論んだ通りの結果と成るとは言えないのです。

世界中が財政的に苦悩する中で、一国の未来を左右する巨大イベントが、確実に

利益を呼ぶと言う時代はもう過去の物とも言えるのです。
現に、オリンピックを前にして、開催地が財政危機を訴えるなど、かつてのオリンピックでは
考えられない事でした。
しかしながら、歴史的に見ると、ここ数回のオリンピックでさえ、少なからず、巨大な支出は
膨大な国家的デメリットが生み、開催後に大きな利益をもたらしたと言えない場合が
多くなっているのです。
素晴らしいスポーツの祭典とは言え、世界中が喜び夢に浸る時なのに、現実問題としては
開催するメリットを手放しで喜べないのです。

では、次回の東京オリンピックはどうでしょう。

当然財政的に大変な事は解っているのですが、開催前から様々なトラブルが生じ、
今年に入っても国民を裏切る様な事態が起こっているのは、本当に、国民がこぞって
開催を夢見る大会と成っているのか疑わしいものです。

殆どの国民が、スポーツの祭典として心から喜びを感じているのですが、それを司る

私達の代表と言える方々の心の甘さが目に付きます。
オリンピックを通じて得られる莫大なる利益をもくろむ方々の方針に則って
国家規模の準備が成されるのでしょうが、この大事業の結果、どれ程私達の生活が
潤い豊かに成るかが期待できるのでしょうか。

実際に事業に関わった人たちは更なる収益で豊かに成るのでしょうが、その利益が

どれ程多くの国民に還元されるのでしょうか。
眼の前に迫ったリオオリンピックを開催する事で、更なる経済的メリットが得るどころか
財政危機を叫ばなければならないリオデジャネイロ州が、四年後の東京都と成らないと
誰が言えるでしょう。

そもそも、国家の運営と言うものは、例えリーダーたちに託したとは言え、

常に、国民への還元が成されなければなりません。
あらゆる国家事業は、国民の生活に則って、国民の幸せの為に有ることが基本です。
国民が国の運営の犠牲になって生活苦に陥ることは有ってはならない事なのです。

東京オリンピックが開催される事に因り、様々な国家規模の大事業が催される事に因り

莫大なる資金が生まれ、膨大なる収益が生まれるでしょう。
しかしながら、この利益がどれ程国民の生活に還元されるのか疑問と言えるのです。
増々広がる生活格差が、オリンピックで更に拡大されない事を心から願いたいものです。


公私の公と私を区別できない人達

2016-06-17 16:15:36 | 政治

私達は、家族や親しい人達と利害関係を持たず、御互いに我が儘を言ったり
甘えたりする事は良くあります。
人は弱いものですから、いつも神経を張り詰めて、まるで清純君子の様には
生きて行く事は出来ません。

時に身体も心も病んで、人の助けを借りて、急場を忍ばなければならない事や
生きるために多くの人々の助けを乞わねばならない事も有ります。
そんな時、自分を守って助けてくれる人が居れば、人生は豊かで実の有るものと成り
充実した日々を送れるものです。
しかし、今の時代、多くの人々が身を休める事も心を癒す事も出来ない環境で
苦しんでいます。

家族が居ても、沢山の人に囲まれていても、言いようのない不安と焦燥感に
生きる事さえ希望を持てず一人苦悩している方も多いのです。
経済的に苦しいだけでなく、人の中で孤立し、仕事もプライベートも自信が持てず、
自分の存在価値すら見いだせない若者も少なくありません。

世の中が相変わらずの不況状態であり、マスコミや一部の豊かな人々によって
演出された街の明るさに踊らされた多くの貧しい人々が、先の見えない未来に
ただ一時の楽しさに刹那的な喜びを求めて集まっています。

少しでも可能性を求めて、都会には多くの人々が集まります。
初めて都会に出てきた若者は、東京では毎日お祭りが有るようだと言いました。
途切れることない人並と、日本中世界中から集まった煌びやかな店舗が並び
華やかな衣装を身に纏った人々を見るだけで苦しみを忘れようとする人達が
全国から集まっています。

高級ブランドのショップが立ち並ぶ繁華街は、彼らの心を高揚させるには十分です。
テレビで見る、大金持ちが身に付けるブランドが次々に目に飛び込んで来ます。
沢山の若者たちが目を丸くしてショーウィンドーを覗き込みます。
しかし、彼らの懐は、憧れの品を買うには余りにも寂しいものが有ります。
結局、安価な大衆商品を買い求める場合が殆どなのです。

彼らは若い事もあり当たり前の状態なのでしょうが、この現象は、一般のOLから
サラリーマン、更には中高年まで、極めて普通なのが今の日本なのです。
一度地方都市に目を向けると、そんな大都会の喧騒と華やかさは考えられず、
多くの街は、相変わらずのシャッター街が目立ち、残された商店も、殆どが
青色吐息の状態が続いているのです。

日本中の富が一部の方々に流れるように作られた日本社会は、多くの国民が
必至の思いで稼いだ身銭を、様々な社会形態を持って、全て吸い尽くされる様に
作り上げられています。
しかも、マスコミを通じて、特定の商品を求める様にシステム化され、多くの人々は
生活をするだけで彼らに投資するようになっているのです。

様々なマスメディアを使い、特定商品を常に手に入れる事を喜びと感じさせる様
コマーシャルなどを通じて連日洗脳する事で、この社会格差は絶対に無くならない
人々の生活は豊かに成らない構造を作り上げています。
日本中から吸い上げられた巨大資本は、ますます経済格差を呼び、日本国民の中に
未来を夢見る事が出来ない多くの若者たちを生む事と成っているのです。

しかしながら、この世の中の不公平を是正し、誰もが豊かな生活が出来るようにと
選ばれた方々が集まってその策を練るのが目的であった政治家が、いつの間にか
操り人形のように、動かされているのが問題です。
それまで国民の声を伝え正しい日本のかじ取りをしなければならなかった方々が
いつの間にか、その政治家としての巧みな弁舌を、己の言い訳に使う事が増え、
国民との民意を反映したパイプを利益を得られる人々とのパイプに挿げ替えて
私欲を肥やす事に頭を使うという、有ってはならない、政治家の風上にも置けない
何枚もの舌を使い分ける政治屋が多くなっているのです。

公僕として国民の代弁者として生きるのが政治家の本来の有り方で在った筈なのに
自分の地位や立場を、私欲を満たす事に使い始めた時点で、すでに、人の上に立つ
私達の代表者ではないのです。
今日も窓の外では、何人もの候補者が声を上げ、己の政界での存在価値を訴えます。
聞こえてくる言葉は、正に公人としての模範の様な言葉ばかりです。
どの候補も、内容は違えど、私達への印象は自分に対するリスペクトでしかありません。
柔らかく私達の心を揺さぶる謳い文句が並びます。

しかし、どの言葉も白々しいのは一体どうしてでしょう。

彼らが政治家としての器が無いと言っているのでは有りません。
今の政界、経済界が生み出す私欲に満ちた癒着を断ち切れる器には感じられないし
その戦いに挑む心意気が全く感じられないのです。
政治家としてのステータスを身に付ける、社会的地位の獲得しかできない、
今までと同じ政界でしか生きられない器にしか感じられないのです。

誰に対しても、国民が思う、イエスノーがはっきりと言える候補が見当たらないのです。

つまり、頭数の調整と、首のすげ替えでしかない選挙は、国民にとって魅力は無く、
見てくれのパフォーマンスしか出来ない、日本を豊かな国へと導けない政治屋では
誰が政治を行なっても日本社会は豊かにはならないのです。

政治家たるもの、国民の気持ちを誰に対してもストレートにしっかりと言えることが

一番大切なのです。
政治活動に私的な欲望を挟んだり、簡単に餌で釣られる様なダボハゼ議員は
国民は必要としていないのです。






首のすげ替えと言う茶番劇

2016-06-16 15:42:10 | 政治

遂にトップが退く事と成りました。
当然の事と言えば当然なのですが、単に首のすげ替え作業をする事で
国民は納得できるものでしょうか。
この事は、国政に関わる方々も同じであり、頭数を揃え、自分たちの要望を
押し通すだけの政治で日本が良くなると思っているのでしょうか。

少なくとも、議会に首を連ねる方々は、国民を代表して、国民の為に戦い

国民を幸せに導く事が共通の目的では無かったのでしょうか。
御互いの欲を押し通す為に派閥闘争に明け暮れ、国民の気持ちよりも
自分たちの欲を前面に押し出す事に政治を使われていては、国民としては
溜まったものでは有りません。

多くの方から票を頂き、期待されて国政の場に立つと言う事は、少なくとも

私情よりも国民の幸せを優先させることが絶対条件のはずです。
しかし、なぜ、権力を持つと、人は、いつも豹変し、私欲に走るのでしょう。
その腐れ切った政治家の我儘を断ち切る為にも、選挙が有り、新たなる
国民の思いを託したはずです。

その先兵となるべく当選した議員たちは、初心を忘れず、国民の思いに

報うべくその悪の温床に立ち向かってこそ国民の代表としての議員の
価値が有るはずです。
しかしながら、この権力の座に胡坐をかき、私達の心を欺く政治家が
後を絶ちません。

選挙で国民から選ばれると言う事は、一体どういう事なのか、

意味をはき違えている議員が余りにも多い様に思えます。
私達が病気になった時、医者に命を託すように、私達の生活を守り
豊かにするために選ばれたのが政治家なのです。
そんな簡単な事が守れないのは、どんなに知識が有り、地位が有ろうとも
人の上に立つ器とは言えないのです。

近年の選挙を見ても、国民の関心は非常に低くなり、多くの人々は

誰が政治家になっても同じだと言う、あきらめにも似た境地が蔓延しています。
18歳から投票権を持たせたとしても、政治家に期待していないとなれば
思惑通り投票率を伸ばす事も政治に関心を持たせる事もままならないのです。

多くの国民は、日常的に様々な不満不平が有り、世の中に対して

何とか改善されることを願っているのが普通です。
その代弁者である政治家が、自分の不満を満たし欲求を満たす事に走れば
それこそ本末転倒であり、国民の先頭に立つ価値は無くなるのです。

政治家になる事だけでなく、人の上で物事を行なうと言う事は、

その目的が全て自分を押し上げてくれた人々の心に有り、己の欲を捨てる事を
第一に考える事が大切です。
国民の為に、どれ程身を削り政治を行なったかを国民が評価したとき
初めて、政治家としての価値が決まるのです。

近年の政治家としての不正、不祥は、いかに政治家としての基本を忘れ

私欲に走った、極めて人間として不適格な行いと言えるのです。
この様な政治家たちが作り上げる日本は、やはり国民とて己を律するような
世界に胸を張れるような民族とはなれないのです。
誰もが、自分の事しか考えられず、欲望を満たす事を幸せと考える様に成れば
この素晴らしい日本の地位は、世界国々から下げ済まされ、日本人の未来は
暗澹たるものと成って行くのです。

人は、誰もが平等であり、一人一人の生活が守られる事が憲法によっても

保障されています。
しかし、その社会を作るには、全ての人々の気持ちを代弁し、社会全体を
正しい道に導いていくリーダーが必要です。
近代国家に於いて、このシステムを担っているのが政治です。
巨大な組織として国家を動かす程の規模であっても、根本は同じなのです。
地に足が着いた、民意に基づいた政治が出来ない政治家が余りにも多いのです。
毎度繰り返される首のすげ替えが、いかに無意味であり、国民を落胆させるか
本当の政治家が少ない今の時代、政治屋の茶番はもう見たくありません。