めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

パワハラ、セクハラは、日本社会の特性

2018-03-15 14:02:21 | 日本人

近年、日本社会では、パワハラ、セクハラが人々の話題に上がりやすく
メディアも、連日、芸能人や著名人の間で頻発するハラスメントを取り上げます。
どちらも、加害者、被害者と言う観点から論じられることが多いのですが、
当事者が最初に面識を持った時点では、どちらの問題も起こらず、人々が置かれた
社会環境が、その様な風潮を作り、日本社会のあらゆる場で、問題が生じているのです。

そもそも、この問題は、最近始まった事ではなく、戦後社会に於いても、ごく当たり前に
行われていた事であり、日本社会が生み出した負の遺産の1つとも言えます。
私たち日本人は、昔から、対人的に相手を思いやり、お互いに和を以て貴し、とする
生き方が一般的でした。

この事は、日本社会だけでなく、日本の豊かな自然環境からも大きな影響を受けていて
日本国民は、常に、人だけでなく大自然に対しても恩恵を感じ尊厳をもって対してきました。
所が、消費経済が主体となる社会は、人や自然に対する思いよりも、己の欲望を満たし
他人よりも豊かで地位の高い生活を求める様になりました。

その為、相手の事を思いやると言うより、蹴落としても地位を上げ欲望を満たすことが
多くの国民の望みと変わって行ったのです。
会社に於いても、学校に於いても、より成績が良く仕事が出来る人が、社会的地位を得る
だけでなく、自分の我儘を押し通せる風潮が育って来たのです。

それ故、自分より弱いとみなされる者に対しては、無理難題を仕向けたり、精神的肉体的に
ストレスを与える事を何とも思わなくなったのです。
特に、社会的に男子より下に見られていた女子は、男子の言い成りに成らざるを得ない事も有り
多くの女性が、男子の欲望のままに心と身体を傷つけられて来た事は、珍しくは無いのです。

今でこそ、テレビや週刊誌と言ったメディアがとりあげますが、数十年間の日本では、
パワハラ、セクハラは日常的であり、社会全体が、その様な風潮を黙認していたのです。
上司が部下に手を上げたり、罵声を浴びせるのは、一般社会でごく日常的な事であり、
まして女子に対しては、水商売の女性の様に扱い、中には、自分の思うがままに扱うのが
社会的に地位の高い人達の特徴でもありました。

しかし、これを不服として取り上げる事は、メディアも日本人の多くも無かったのです。
それは、良しに付け悪しきにつけ、日本人の長年培った国民性でも有ったのです。
私達日本人は、自分の事だけでなく、相手の事、更には、自分が関わる人、相手の関わる人と
多くの人達との関係を常に考える習慣が有ったのです。

その為、たとえ、パワハラやセクハラが有ったとしても、その事を訴えた事で、自分の周囲や
何の関わり合いも無い人達にまで迷惑が掛かるのではと、自分の中で抑え込んできた傾向が
有ったのです。
その結果、自分が我慢すれば良いとする考えが有り、多くの被害者が泣き寝入りするのが普通であり
中には、我慢する事が社会人として重要と諭す先輩方も居たほどです。

しかしながら、欧米から広がったセクハラ、パワハラの問題は、日本人にとって、被害者を守る
と言うだけでなく、社会全体に、対人的な意思の疎通を無くす事にもなっているのです。
好意をもって行った事がセクハラに取られ、相手の事を思って叱咤激励したことがパワハラと取られ
日本人が長年培って来た、対人的な心のやり取りを失わせる事に成っているのです。

被害者となる可能性のある方だけでなく、多くの方々が、自分が加害者に成らない様に、出来るだけ
自分の感情を表に出さず、普段から周囲に人達に余計な気を使い、更には、必要以上の考えを
押し付けたり、接触をしない様に、まるで腫れ物に触るかのような対人関係を求められます。

その様な生活は、当然、人々の心と身体に大きなストレスを与えます。
出来るだけハラスメントが起こらない様にと思う生活が、かえって、人々の心を疲弊させて行き
対人的な心の躍動を見失って行きます。
問題は、直接的な物は、無くす様に努力しても、異常に過敏となった人々の心は、日本人としての
豊かな感性をなくして行く可能性が高いのです。

ただでさえ、家族間、世代間、学校、会社に於ける人々の繋がりが無くなって問題となっているのに
お互いに相手に関わらない様にすれば、問題は解決すると言うより、問題を起こす人達との
心のやり取りが出来ず、ただ、犯罪として戒めるだけとなってしまうのです。

そもそも、ハラスメントが起こる原因は、人々の心の交流が無くなり、人の気持ちを理解できない人が
増えた事に依ります。
経済力や地位、財産を人の価値とする風潮が、人々の心を荒れさせたともいえるのです。
人として個人としてその存在と価値を認めない社会が、人々の心を自己中心的な考えに育てたと言えます。

ハラスメントをすれば、自分は満足しても、された相手がどの様な気持ちに成るかが解らないのです。
お互いの気持ちが解り合っていれば、こんな問題は起こらないのです。
恋人となり結婚するとなった人達に、セクハラを問題にすること自体ナンセンスである様に、
人と人との関わり合いは、何をもって犯罪となるのか、苦痛と成るか、喜びになるかは、極めて個人的で
社会全体でそのレベルを決めるものでは無いのです。

お互いの気持ちが理解し合えていれば、強引な愛の行動も、未来への幸せへつながります。
しかし、自分だけの欲望で、無理やり、相手に迫ったら、これこそ苦痛であり、セクハラと言えるのです。
逆に、男女間に於いて、心から求めているのに、何もしてくれない事に大きな不満を持つ女子も多く、
いかに、人として、男女として、相手の心を理解できるか、また、理解する能力を身に付ける事が出来る
社会であるかが問われるのです。

日本人は、昔から、淡い色を好み、色の移り変りを堪能して来た民族です。
面か裏か、白か黒かという判断で物事を解決するのではなく、様々な立場に於いて、その時の状況で
最も相応しいと言う決断をして来た民族です。
その事が、時に、玉虫色の考えと言う様に、曖昧で、国民を苛立たせる事も多いのですが、
対人関係に於いて、この其々の判断は、人間関係を深く豊かにして来たのです。

しかし、現代社会は、どちらかと言えば、欧米社会の様に、白か黒を求める様に成っている為、
日本人の感性が生かされず、多くの人達にストレスを与える事と成っているのです。
私達日本人は、朝、目が覚めた時から、自分の周辺だけでなく、お天気から、家族から、全てに対し
気を配り、その中で自分の行動を決めて行く傾向が有ります。

変わりゆく日々の変化に非常に敏感であり、この事は、日本の自然がもたらした春夏秋冬の豊かな
四季の移り変わりがもたらしたものと言え、その変わりゆく姿を楽しむ民族でも有ります。
例えば、男女の関係に於いても、唯、欲望のままに相手を求めるのではなく、お互いに相手の事を
心からしっかりと感じ取って、互いの接点を見つけながら次第に二人の生き方を決めて行く事に
一緒になる以上に喜びを感じるのです。

つまり、色のグラデーションの様に、次第に、色がはっきりしてくることが、対人的な付き合いであり
日本人の心の豊かさでも有るのです。
しかしながら、この過程が取れず、最終的な手段に講じる人が問題なのです。
人を知る為の努力を知らず、唯、欲しい物が有れば手に入れると言う、自分の欲望だけに
特化した行動や考えを持つ方がいるのです。

現代日本は、こういった短絡的な人達を育てる社会とも言えるのです。
週刊誌やテレビに取り上げられる事件だけを問題視するのではなく、日本で何故問題となっているのか
その根本的な問題を考えなければ、これからもこの問題は無くならないのです。
日本社会は、経済的に豊かな先進国として発展して来たと言えますが、この過程は、必ずしも
国民を幸せにして来たのではなく、多くの問題を起こし、被害者加害者と言う二つの立場を作り上げ
多くの国民を戸惑わせる様に成っているのです。
人々が、加害者にも被害者にもならず、人間同士、男女が、お互いの幸せを得られる様な社会になるには
どの様に社会を変えて行かなければならないかを、リーダー達は考え、実行する事が大切です。