めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

大人に成れない人が日本を動かしている不幸

2018-08-31 14:23:42 | 日本人

日本の高度成長期の様に、国民の殆どが生活レベルの上昇に満足し、
消費経済国家を満喫していた時代は、もう、遠い昔なのです。
今や、極端に豊かに成った人達と、日々の生活に苦慮しなければ成らない
殆どの国民によって、今までにない、苦しみを抱える人々で溢れています。
日銭を稼ぎ、目先の生活しか考えられない国民が実に多いのが日本です。

経済成長を遂げ、国をリードして行く人達の作り上げた日本は、どこに行っても
巨大なビルが立ち並び、街には、人々が溢れ、世界中から集められた食材によって
飽食日本を象徴した豊かさが感じられます。
街ゆく人達も、そんな華やかな街並みに酔いしれ、日本に生活する事に喜びを感じ
毎日が充実していると感じています。

しかし、彼らの笑顔は、本当に心から溢れる笑顔なのでしょうか。
新宿、渋谷と言った、日本経済の象徴の様な街を歩いていても、大多数の人達が
利用したり訪れるのは、殆どが大衆的な量販店で有り、人波は、何処に行っても
途切れる事は無いものの、全ての店が潤っているとは言い難く、店員が歩道に向けて
立っている高級店舗も少なく在りません。

世界レベルで展開している超高級店ならいざ知らず、これだけの人がいるにも変わらず
客足が遠い店も少なく無く、数か月で閉店に追い込まれる店も少なく在りません。
多くの人々が、物を買い求めたり美味しい物を食べに来ていると言うより、
賑やかな都会の喧騒を楽しみながら歩道一杯に歩いていると言う状態です。
現に、多くの若者や学生の懐具合は芳しく無く、地元からの交通費と軽いスナックを
買い求めるだけお金で東京に遊びに来ている若者が非常に多いのです。

子供達の小遣いの少なさは、彼らの家庭の状況を表しています。
日々の生活に苦しんでいる家庭が実に多く、遊びに行く事も出来ない子供も多く
更には、結婚して家庭を築く事すら難しい若者も数多くいるのが現状です。
国民総所得の大半は、ごく一部の人達に流れ、国民の大多数は、高度成長期とは
比べ物にならない程苦しい生活を強いられているのが実態です。

所が、国は、以前と変わらない社会体制をもって、国民により豊かな消費生活を求め
社会の流れに合わせるため、より国民は苦しい生活を強いられているのです。
外見的には豊かな生活をしている様に振る舞いながら、家庭の中は火の車と言う家庭が
日本中に多くなっているのです。
物価は上がっても、給料は上がらず、かえって消費が増え続ける事に依って、以前より
国民生活は、非常に苦しくなっているのが実情と言えます。

今や、子供たち誰もが平等に受けるべき教育の場であっても、経済的所得差が
浮き彫りとなり、学校生活の中で、子供達が差別される環境が生まれています。
経済的に豊かでないと受けられない塾などの習い事は、そのまま子供達の将来に影響し
子供達の能力が、経済力で決まってしまうと言う現実が生まれています。
努力すれば報われると言う時代は遠い昔の事と成り、それこそ、生まれた環境で
将来が決まってしまうとも言えるのが現代日本のです。

より経済的豊かな人が能力も経済力も伸ばせるのが、現在の日本社会なのです。
その為、より豊かな生活ができる事が、将来、安心安全な生活が送れる条件と成り
多くの人達が、ますます、個人的な利益のみを求める傾向と成っているのです。
子供も大人も、個人的な欲望を満たす事が自分の幸せと考える事に依り
自分の身の回りの他人の気持ちを考える能力を育てられなくなっているのです。
人を思いやり、和をもって尊しとしてきた日本民族が、次第に、自分の幸せの為なら
他人がどうなろうと気にしないという、殺伐とした世の中を作り上げているのです。
人々を繋ぐのは、唯一お金で有り、お金こそが幸せの全てと思う方が多いのです。

この傾向は、日本人が生きる様々な世界に同様に見られ、少しでも上の地位と成れば、
我儘が許され、自分の欲望が満たされると考えています。
この象徴が、メディアに頻繁に取り上げられるパワハラで有りセクハラと言えます。
小さい頃から、物事の価値観が、対人的なやり取りで考えられなかった事から
いつまで経っても他人の気持ちを理解する能力が育たず、ただ、地位や立場を
利用した我儘がまかり通るのです。

今や、ネットの発達も有って、他人と関わらなくても、生きていける時代と成り、
自分の行動や言動を戒める人も注意する人も無くて大人に成る方々が少なく無く
経済性合理性のみで、何事も解決しようとして、多くの人々を苦しめる場合があり
対人的な感覚が欠如している事から、自分の行っている事がなぜいけないか
理解できない人も少なく在りません。

経済的豊かであれば何をしても許されるとする人が増える事に依って、
日本人同士の人間関係がますます殺伐としたものと成っています。
一体、我々日本人は、何処に向かって進んでいるのでしょうか。
経済大国と言っても、この経済で本当に潤っているのは、日本人のほんの一部で有り
殆どの人々は、彼らの関連企業に於いて、豊かな人達をより豊かにする為に
働いているだけで、得られた収入で、同じように豊かな生活をする事は出来ません。

まして、競争社会で、他人よりも経済的に秀でる事を良しとした生活を行って
来た事から、様々な社会で、精神的な苦鬱やトラブルを生じる事が多くなっていて
一見平和の世の中の様に見えて、対人的なストレスを多く抱える人が増えていいます。

しかしながら、日本人が取った態度が、ストレスを受けない与えない為に、対人的に
関わらないという見て見ぬふりをする事が多くなりました。
トラブルを避けようとして人と関わらない生活を行うと、トラブルに成らない一方
他人からの思いやりも慈しみ設けられず、常に孤独な日本人が増えているのです。

家庭内でも学校でも会社でも、同じ場所に多く存在していながら、対人的に関わる
環境が少なく成れば、他人の思いが解らず、勝手な想像で判断する事に依り
更なるトラブルを呼んでしまいます。
人は、人と関わる事に依って人間的に成長し、自分の価値を見出し、周囲の人達の
思いを知る事が出来るのです。

大切な事は、10人十色と言われる様に、誰もが様々な感情と個性をを持っていて
自分との違いを理解しなければ、対人的に豊かな生活ができないのです。
しかし、この当たり前のことができない現代人がとても多くなっています。

その為、企業や会社では、大人に成って対人教育をしなければならず、子供の頃から
当たり前に育っていなければならない人との関わり合いが疎い社会人が多いのです。
人としての関わり合いが解らないと言う事は、社会人としてと言うより、人間社会で
生きていく術が見いだせない程危険な事なのです。

自分が良かれと思った事が他人にとっては苦痛である事が解らず、地位の高い人は
周囲の人に対してパワハラやセクハラを行い社会問題と成っている事は現実に多く
社会性経済生のみを求めた社会は、他人との関わり合いを失う事で、次第に
組織としての力を失い、人々の生活もバラバラに成って行く危険性が有るのです。


今や日本社会は、豊かな生活を築き上げた様に見えて、人々の心は常に崩壊しやすく
互いに助け合い労わり合う事の無い社会に絶望感を生んでいるのです。
経済社会で生きて行かなければならないと思いつつも、多くの日本人の心は満たされず
外見的な豊かさで自分の心を誤魔化しているのが現実と言えます。

他人によって自分の存在価値を認めてもらえず、本当の自分の思いを表すことなく
自分の置かれた社会的立場や財産によってのみ存在を認められる社会にあって、
本当に幸せと思う人はほとんどいないのです。
一体自分はどんな人間なのか、自分自身も社会的にも見つけられなくて、
単なる社会の歯車の1つでしか思えない人生では、生きている価値も感じられないのです。

こんなにも経済的に豊かな国なのに、経済的にしか満足できない、いつも孤独な日本人が
とても多いのです。
人間として、この世に存在している意味も価値も見いだせないのは、自分自身も
周囲の人達の存在価値を認めていないからでも有るのです。

人と関わらない様、他人の存在を無視して生きていれば、余計なトラブルは避けられると
思っていたとしても、自分の生きている価値を人から認められなければ、それは
死んでいるのと変わりません。どんなに経時的に豊かな暮らしをしていても、その外見のみを
他人は認めているとなれば、一体自分の存在は何なのか、生きる意味を見失っている人が
実に多い野でのす。

自分に近づく人は、自分自身の魅力によって集まると思いきや、自分の築き上げた地位や財産に
砂糖に群がる蟻の様に集まっているとしたら、どれ程寂しいと言えるでしょう。
例え地位や財産が無くとも、自分自身に関わる人がいれば、お互いに、存在価値を確認し合い
生き甲斐が生れて来ると言うものです。

世代間を超えて、人間としてお互いの存在を感じられなくなると、自分の我儘で勝手に判断し
他人を傷つけたり、人々を落胆させたり怒らせたりしてしまうのです。
社会的地位のある人達の、本当に詰まらない発言や行動が続いています。
日本を代表する地位にある人から、様々な社会を牽引している人達の、我儘が目立ちます。
社会的地位を成せば、我儘が許されるとする、この日本経済社会の最も見苦しい姿が
メディアに暴露されていると言えます。
世界的経済大国と言えど、日本は、いまだ、大人に成れない、子供の様な人達によって
動かされていると思うと、残念と言うより、余りにも情けなく思ってしまいます。

 

 

 

 




お互いの信頼関係の欠如がハラスメントを生む

2018-08-29 15:27:04 | 日本人

今や、テレビのワイドショーの話題の中心は、様々な生活や仕事の場における
ハラスメントばかりです。
業界、政界、芸能界、角界、スポーツ界、と様々な世界から次々にハラスメントが
取り沙汰され、如何に日本社会は、至る所で悪質な行為が行われているものかと
日本中の視聴者が注目していますが、果たして、この問題は、簡単に、被害者と
加害者を分けて、論ずる事が出来る問題と言えるでしょうか。

人々が、顰蹙を買う様な行為を行った者に対して、厳しく糾弾する事は必要かとは
思いますが、果たして、悪者を決めて、メディアを通じてつるし上げたとて
問題は解決すると言うものでは有りません。
ハラスメント問題は、極めて、メンタルな問題で有り、当事者の考え方捉え方によって
悪質な犯罪として捉えられる事も有りますが、取るに足らないと問題にもならない事も
有るのです。

それは、両者の間に、お互いがどれ程理解し合っているか、お互いの立場や心のやり取りが
成されていいるかに掛かっています、。
どちらか一方が、個人的な利益を考えたり欲望を抱いたりして、一方的に自分の思いだけで
発言や行動を行ったとき、想像もしないプレッシャーに、一方の方は、大きな心の負担を
抱いたり傷ついたりするものです。

この事は、子供達の間に多く問題となるイジメも、本質的には同じもので有り、
人の気持ちや思いを感じられなくて、一方的な考えで、相手に苦痛を与えるものです。
これは、近代社会における特殊な人間関係と言ったものではなく、人類がこの世に現れ
集団で生活するようになったころから普通に存在し、動物達にの間にも存在する
生き物共通の生態と言えます。

しかし、知能が著しく進歩した人間社会におけるハラスメントは、単に、生存競争の
過程の争いと言うものではなく、極めて、内面的で、社会を反映したものと言えるのです。
特に、日本の様に、消費経済社会で有り競争社会を続けて来た国は、常に、国民の間に
より豊かな生活をしたいと言う欲望が有り、その為には、自分の生き方とは異にする者
自分の感覚とそぐわない者は、無意識に圧力を加えたり、争ったりしがちです。

本質的には自らを守ろうとする行為なのですが、心の平安を保つために、
消費経済社会におけるより高い地位を目指し、自分自身の存在価値を確認するためにも
自分より地位の低い者や弱者を差別したり圧力を掛けたりするのです。
特に、自分より上の人からの圧力を感じていたり、思い通りに事が進まなくなると
弱者をいたぶると言う、まるで子供のイジメと同じ事が行われるのです。

子供達の中で問題となるいじめっ子が、元は、いじめられっ子である事が多かったり、
両親から虐待や仕打ちを受けている事も有り、心のやり場を失い、より弱い者を
イジメる事も多いのです。
日本社会における人間関係に於いても、より社会的地位や財産を持っている者が
社会で優遇される傾向があり、其々の地位に応じて、下の者には厳しく、上の人には
媚び諂いと言うのが一般的とも言えるのです。

子供の時から、成績が良ければ我儘が出来た様に、大人に成っても、社会的な地位や
財産を身に付けると、自分の我儘を押し出し、周囲の人達を困らせる人が多いのです。
パワハラ、セクハラ、モノハラ、と多くのハラスメントは、上の立場と思える人が
自分より下の者に圧力を加えたり、自分の欲望を一方的に押し付けたりする事に依って
様々な問題と成ってメディアに取り上げられているのです。

この問題の重要な事は、これらの見苦しい行為を行う人達が特殊な人達で無い事で有り
日本経済を支えている普通の人である事です。
もちろん、いじめっ子で有っても、他の子どもと違っているのではありません。
言わば、日本社会が生み出した、自分の事しか考えられなくなった、目も見えず
耳も聞こえなくなった人達なのです。

いつの間にかに、日本社会で生きている間に、様々なプレッシャーを感じる事で
最初の内は、大きく飛躍するためのエネルギーと成って頑張っていたのですが、
自分以上に豊かな人達や恵まれていると思う人たちを多く見る様になると、
途端に自信を失い、自分を守りたいがために、自分の地位や財産を主張したり
権力を見せつけたり、ハラスメントで精神的優位に立とうとするのです。

この犯罪紛いの行動や言動は、日本人なら誰もが秘めていると言え、
多くの人が周囲の人の事を考えたり、我慢したりして、その気持ちが外に
出ていないだけなのです。
つまり、日本人は、豊かな暮らしをしている様に見えて、心の中は寂しく
多くの人から注目されたいと常に思っているのです。

どんなに頑張ったとて、殆どの他人には、その努力が知られるわけでもなく、
誰からか褒められたり称えられたりすることが無い為、一体何のために
一生懸命頑張っているのか、生きている証が欲しいのです。

自分の社会的地位を認めて欲しかったり、権力や人格を認めて欲しいのです。
自分の思い通りなる弱い人や、圧力を加えても、自分に歯向かわないと思える
ストレスを発散させるのに絶好の人間がハラスメントの対象と成るのです。

ハラスメントをする以前から、自分の存在価値に不安を抱いていて
自分の強さを見せつける事で、安心したいと言うのが本音なのでしょう。
地位や財産が有っても、女性に相手にされなければ、何としても男としての
存在価値を知らしめたくなってオオカミにもなるのです。
つまり、ハラスメントをする人達は、既に、人間としての心はとても弱く
自分自身や自分の将来に不安を感じ始めているからこそ、ハラスメントにより
自分の存在価値を確認したいと思われます。

子供のしつけをする時も、近頃は、感情に任せて怒りながら物事の是非を
教えようとする親も多い様です。しかしながら、多くの場合、感情のはけ口
として声を荒げているだけで、親と言う立場を主張しているに過ぎません。
昔は、怒る前に叱る事を教えられたものです。
叱るとは、その子の気持ちを察して、どの様にしたら良いかを諭す事です。
怒られる事で怯える子供が、素直に理解できる物事の道理を示す事が
叱ると言う事でした。
しかし、今や、親であっても、自分の感情を爆発させるだけで、ただ
子供達を怯えさせるだけなのです。

怒られた子供は、そのストレスを、自分の周りの弱い子供に向ける事が
イジメのはじまりであることもあるのです。
これは、正に、社会の縮図とも言え、上司の一方的な感情からの怒りは
部下には、ただのパワハラにしか感じません。
かつては、じっと我慢して、その苛立ちを、自分の部下に同じように
怒りとして使っていたのですが、今や、それをメディアが取り上げる様に
成ったと言うだけで有り、潜在的に、あらゆる業種の社会にも存在していて
ただ、表沙汰になっていないだけなのです。

問題は、目に付いた部分を取り上げて、一喜一憂するのではなく、社会全体の
一部がたまたま表沙汰と成っているだけと言う事を知る事です。
ハラスメントを取り上げるワイドショーを見ながら、ほくそ笑んでいる
もっと悪質な連中は履いて捨てる程いるのが日本社会なのです。

不祥事やハラスメントをする可能性のある人たちが創り上げる日本社会は
当然、子供の頃から、その温床を作り上げた教育が問題です。
いじめっ子の慣れの果てが、世の中のリーダーとも言え、社会的な地位が
有る無いにかかわらず、日本の教育を受け日本社会に生きている日本人は
誰もが加害者にも被害者にも成る要因を持っているのです。

では、一体こんな日本社会にした原因は何かと言えば、明かに
消費経済社会を日本人の生きる目的とした事です。
経済的に豊かに成る事はとてもいい事なのですが、経済社会が発展すれば
人間関係も複雑と成り、多くに人が関わり合って生活する事と成ります。
自分の想像もしない様な仕事に就いている人もいれば、例え身近な人でも
其々が考える事は非常に複雑で、心の在り方も人其々と言えます。


社会が発展すると言う事は、人間自体も進化して行かなければならないのです。
地位や財産は、社会的な看板に過ぎず、その社会に居る人が、如何なる考えを
抱いているかを察する力が必要です。
その多くは、外見とは想像もつかない様な想いをしているのが普通です。
子供の頃から、他人を外見的な姿でしか判断できない事から、様々な問題が
生じて来るのです。

社会的な地位や財産は、道具の様なもので、その人の人間としての価値ではなく
外見でしか判断できないと、ハラスメントを受けたりハラスメントをしたりと
多くの誤解を生んでしまうのです。
子供の頃から、生まれて人心が付いた頃から、他人の事が考えられる人間に
育てる教育が、家庭でも学校でも主体と成る事が重要です。

現代社会の、社会的な地位を得る為の教育は、子供達にとっても、将来の
豊かな人生を見失ってしまう可能性が有るのです。
どんな職業に就こうとも、人間的に如何に成長できるかが、私達がこの世に
存在する意味で有り、価値と成るのです。

まるで裸の大様の様な日本人が増えています。
更に、重ね着を仕様としている社会的に地位のある方も多く、その人の人間としての
魅力も価値も、その外見に全てかき消されているのを見ると、哀れとしか言えません。
生きると言う事は、目をシッカリと見開き、耳をそばだてて、自分以外の人達の
言葉や行動をシッカリと理解する力を付けると言う事です。

周囲の人達の思いが感じられると、自分が一体その地位で何をしたらいいのかが
自然に解って来るものであり、それが自分の生き方と成るのです。
自分を主張する人生も楽しいかもしれませんが、周囲の思いを受け入れらないと
その主張は、様々なハラスメントと成って、人々の顰蹙を買う事になってしまいます。

 

 

 

 

 




日本人の価値観と子供の個性

2018-08-28 17:30:04 | 日本人

今や、日本人としての価値観は、個人の中には存在せず
メディアによって与えられた、社会的な価値観によって
決められていると言っても過言では有りません。
幼い頃から高度な知識を身に付け、世界的に見ても
世の中の状況を最も広く深く知っている民族とも言え
国民一人一人の教育レベルは世界のトップクラスといえます。

しかしながら、それ程多くの知識を持ち、最先端の教育を
受けて育ってきたとはいえ、日本人程、社会的な価値や考えに
簡単に左右される民族も少なく在りません。
元々集団決議を優先する民族で有り、和をもって尊しと考え
個人的な考えよりも集団の利益を考える民族でした。

その為、ヨーロッパが個人主義的な考えのもとに発展した
のに比べ、日本は、常に、全体の利益を求める傾向にあり
個人的な欲望は控えるべしとした社会風潮も有ったのです。
この事は、明治以降欧米から入って来た、自由主義的な考えや
個人主義の生き方は有ったものの、基本的には、縦割り社会に
変わりなく、上司や社会的に地位の在る人の考えは、そのまま
会社や国民の考えと成っていました。

この事は、現代社会に於いても基本的に変わる事無く、
日本社会が、自由主義国家を唱えようとも、現実には、社会の
全ての取り組みが、ピラミッド構造の様に、上からの支持をそのまま
下部組織に伝える昔からの仕組みと成っているのです。
日本独特とも言える、自由主義国家と言え、国民の全てが、この
社会的な地位とクラスの分けられ、どの部分に生きているかで初めて
自分の社会的な価値を決める様に成っているのです。

この縦割り社会は、例え自由平等と言っても、国民生活の中に
根強く存在していて、この事が、自由をはき違えた多くの国民を生み
各階層で様々なトラブルを呼ぶことと成っているのです。
問題は、社会的地位と名誉財産を得たとなったら、自分の価値が
上ったと解釈し、自分より下とみなす人達と上とみなす人達への
対応が全く違ってしまう事です。

この問題は、子供達にも存在し、成績と言う選分けが子供達の
差別を生み、大人が求める子供と成れば我儘が出来ると言う
暗黙の取り決めを生み、成績優秀者とそうでない者との差別を
学校自体が行う事で、子供達の間に格差が生じ、イジメや校内暴力の
原因を生んでいるのです。
この考え方は、子供本意の教育を大人の身勝手な育て方により
社会の為の子供教育とした事で、日本社会に多くの問題を生む様に
なってしまったのです。

小さい頃からの大人の身勝手な教育が、大人に成っても生き続け
社会的に地位を成せば、同じような差別やパワハラを行うだけでなく
常に自分を中心とした欲望を満たす生き方しかできない人達を
生んでしまう結果と成っているのです。
様々な知識を身に付け社会的な経験を積んだとしても、子供の頃に
学んだ生き方は変わらず、社会人としてはとても見苦しい
我儘な言動や行動に走る著名人を生んでしまうのです。

子供の頃には、先生や親から甘やかされ、大人に成れば社会に甘やかされ
我儘三昧の社会人やリーダーが実に多いのです。
大人に成り切れ無い、頭の中は我儘な大人が集まっているのが日本社会と
言えるのです。
社会的地位や名誉をもって、一見、立派な大人に見えても、その中身は
小学生から変わらない餓鬼のままなのです。
これが、社会を引っ張る地位のある方や日本社会をリードする政治家や
企業家となると、もう何を言っても聞き入れる事は有りません。

こんな大人が犯した罪が、日清日露戦争で有り、第二次世界大戦であることは
言うに及びません。自分達の欲望の為に、どれ程多くの国民を苦しめ殺害したか
その罪は、全ての大罪を凌ぐものなのです。
学校成績で子供時代を牛耳り、地位や名誉と言った経済的豊かさで社会を牛耳る
国民を導くには値しない我儘な連中が社会を担っている事が最大の不幸と言えます。

残念ながら、今の日本のリーダー達の多くは、その社会的価値を取り去ったら
人間的には、何の魅力もない、単なる我儘な爺や婆に過ぎません。
本当に国民の事を考えて政治の世界に飛び込んだならば、国民一人一人が
納得できる仕事をすべきであり、言い訳の前に、国民にその実績を披露し
自分達の存在価値を示さなければなりません。

しかしながら、彼らが必至に成る時は、自分達の地位が決まる選挙の時だけ
その後の数年間の蜜月の我儘が許される期間を確保する時だけなのです。
一度、自分の地位が確保されれば、その後は、自分より上とみなされる人に
常に媚び諂い、国民には言い訳三昧と言う体たらくです。

日本人は、何時の頃からか、経済的豊かさを目的として、人間としての
成長を棄ててしまったのでしょうか。
どんなに立派と言われる人達であっても、再三、その見苦しい姿を見せられれば
子供達も、大人を見る目が変わってしまうのも致し方ないと思われます。
次の世代を背負う日本人が、日本人の心を失い、経済生のみを考えるだけの
我欲に駆られた人間ばかりと成ってしまったら、この国は、どんなに豊かな生活を
行っていたとしても、国民の間には、疑心暗鬼しか生まれません。

人を信じられない世の中で、本当に幸せに成れる訳は有りません。
お互いに疑いを持ってしか接する事が出来ない人間関係には、人間としても
優しさも思いやりも生まれて来ません。
これは、人間としての存在価値は無く、この地球に生きていく意味も有りません。
幸い、私達が好もうが好むまいが、近い将来、人類は絶滅するとする見解が
多くの学者たちの考えです。

日本人だけでなく、世界中の人類の存在が、地球にとって相応しく無いと言う
神様からの判断なのかも知れません。
考えれば、ここ百年程の人類の自然に対する破壊活動は異常と言えます。
自分達の欲望しか考えず、お互いに争いながらも、その欲望の手は緩めません。
これ程にも世界の気候が変わっているにもかかわらず、更なる汚染を続けようとする
世界の大国もあり、明かに、この滅亡の時は速まっていると言えます。

このまま我らが人類の終末を迎えるのは構わないとしても、若者達や子供達は
自分達の人生を満喫する前にそんな地獄を味わう事と成るのです。
学者が言う様に、数十年後には確実に、生き物達が住めない地球になるとしても
それまでに私達現存する人間が出来る事はあると思えます。

しかしながら、それを行うべき地位にある人達が、自分達の豊かな生活に
胡坐をかいているのが、残念でなりません。
日本国民を何度も悲惨な戦争に導いたように、またもや彼らは、国民を
辛い厳しい未来に引き込もうとしているのでしょうか。

 

 


自分の幸せを、他人にも与えたくなる生活をすれば、もっと幸せに

2018-08-28 14:01:11 | 日本人

経済的に豊かな生活をしている人は、果たして、幸せで有るのか
と言うのが、日本社会における、誰もが疑問視しない部分で有ります。
日本社会に住む多くの方が、経済的に豊かに成る事は、幸せに成る事と
何だ疑いもしません。
日本政府の主張する経済政策も、国民が経済的に豊かに成れば幸せに成ると
メディアに訴えます。

しかしながら、本当にそうなのでしょうか。
経済的に豊かな暮らしをしている人達が、本当に幸せと思っているのでしょうか。
確かに、貧しい暮らしから豊かな暮らしと成れば、幸せに成ったと考える事は
多分にあると考えられますが、豊かな生活を手に入れた後は、ずっと幸せと言う
気持ちが続いて行くのでしょうか。

人間と言うのは、本当に我儘な動物であり、どんなに欲しいものが手に入っても
手に入れた瞬間からその感動は次第に褪せ、逆に、その環境にいる事が苦痛と成って
しまう事も少なくないのです。
この事は、何事に於いても、欲しい物を手に入れようとしている時は、心身共に
情熱を傾け努力するのですが、一度手に入れた途端、その感動は過去の物と成り
次なる目的が無ければ、その喜びは次第に薄れて行くものなのです。

その為、豊かさとは、常に喜びが更新されなければ持続する事無く、常に満足を
得る為には、更なる目標を目指さなければなりません。
日本社会に於いて、この豊かさとは、如何に多くの消費ができるかと言う事です。
消費経済社会は、国民が、如何に消費生活を求めるかにあるのです。

しかし、手に入れた物を常に手放す生活は、豊かな様で決して幸せでは有りません。
特に、自らの心を癒し満足させるものでなければ、ただ、散財しているに過ぎず
経済的に豊かに成るどころか、穴の開いたバケツに水を入れ続けている様なものです。
特に、自分自身を満足させるものは、社会的な価値のあるものではなく、極めて
個人的でメンタルなものです。

その価値とは、第一に、自らがこの世に存在している価値で有り、その存在価値を
周囲が認めてくれる事です。
家族であり周囲の環境で有り、自分がその場に生きている価値を感じられる事です。
人は集団で生きる一方、個人としての価値を気にします。
自分が必要とされている存在なのか、周囲の人が如何に考えて居るか気にします。

しかし、消費経済社会は、経済社会を支える人材を要求するものの、個人的な繋がりは
あまり重要視しません。子供の時から、将来日本社会を支えられる経済人になるべく
大人にとって都合の良い子供を育てる様に教育されます。
その為、より優秀な社会人と成る為に、人の事を構っている場合ではなく、如何に
大人達を納得させ喜ばせる子供と成る事が求められるのです。

子供も大人も、自らが経済的に豊かに成れば成程、社会に求められるとして頑張ります。
しかし、社会は、次から次へと新たなる条件を繰り出し、その要求にこたえる様
人々を戦わせ働かせます。
この体制は、社会をリードしている人達にとっては願っても無い事なのですが、
彼らを支える多くの社会人にとっては溜まったものでは有りません。
多くのストレスが降りかかり、働けど働けど果ての無い要求に疲れ果て、その結果
自らを省みる事も出来ず、幸せを感じる暇さえないのです。

一生懸命頑張って手に入れた身銭を、経済的豊かな生活をする為に次々に散在する生活は
どんなに豊かな生活を送っているように見えて、いつも心は荒み苦しみ続けるのです。
現代の日本人は、本当に、見た目の幸せを演出している人が実に多い事か、何とか
社会が要求する幸せな日本人を演出する為に、多くの日本人が苦しんでいるのです。

外見的に豪華な住まいを建てても、その費用返済の為に一生節約をし続ける生活をしたり
周囲の人達に合わせる為に、外見投資に明け暮れ、日々の食生活すらままならない若者や
かつての栄光を引きづりながら、外見的に豊かな暮らしを演出する高級住宅街の住人と、
日本中で、本当の幸せを噛みしめて生活している人は実に少ないのです。

殆どの人が、すこしでも多くの収入を得る為に、ただ経済的に豊かであると言うだけで
人間的には、全く大人の対応ができないハラスメントの塊のような人によって、心も身体も
削りながら生きている現実が、日本中至る所で有るのです。
経済的に豊かであれば何でも我儘が出来る様な社会は、様々なトラブルとハラスメントを呼び
とても、政府が言う様な幸せな社会とは成りません。

表向きにトラブルを生みたくないがために、上司やリーダー達の我儘にじっと我慢している
社会人はとても多く、彼らとて、いずれ経済的に豊かに成れば、同じような我儘やハラスメントが
出来る考えることも多く、いつまで経っても、人々の間からトラブルが無くなる事は無いのです。
つまり、日本社会に於いて、経済的に豊かに成らなければ、満足する事も心が安らぐことも無く
人の上に立って、経済的な豊かさを感じる事で自分の価値を感じる人が非常に多いのです。
その為、時に、自分より価値の低いと思う人達に差別を行ったりハラスメントを行ったりして
自分の存在価値を周囲に知らしめようとしてしまうのです。

日本人の多くが地位や権力に弱いと言われるのは、地位や権力を持てば絶対的に我儘が出来る
という、人間教育が行き届いていな実態を暴露しているのです。
しかし、その様な社会的な力で自分自身の力を鼓舞すれば、周囲の人達から嫌われたり顰蹙を
かったりする事は当たり前のことで有り、詰まらない我儘や欲望で、社会的地位を追われる人が
頻発する原因でも有るのです。

私達は、自然環境に生かされている様に、人々によって生かされています。
豊かな大自然に抱かれた時、自らの存在意味を感じられ、身の回りの人々に、心から認められ
求められた時、自らのこの世での存在価値を感じ、幸せを自覚するものです。
つまり、自分を包むあらゆる環境が豊かさで満たされている時、自分自身の幸せも感じられ
この世に生きている意味も感じられるのです。

自然を破壊し、人を否定し、自らの幸せだけを願う様な人生が幸せであるはずがないのです。
しかし、消費経済社会は、この人間の基本的な生き方を否定します。
当然、いつまで経っても、幸せに成る事は不可能といえるのです。
日々飛び込んでくる様々な情報に惑わされ、自分自身の本当の幸せを感じ無くなった時
人は、単なる消費者であり、豊かな人達の僕と成ってしまうのです。

幸せは、豊かな自然が、幸せな人達がもたらしてくれます。
幸せな人達が自分の周りに多く成れば、自分自身も幸せを感じる事が出来るものです。
ならば、幸せに成りたかったら、自分の身の回りの人、関わる人達を幸せにする事です。
幸せも不幸も、鏡の様に、自分に返って来るものです。
経済的に豊かに成っても、それ以上に身の回りの人達が幸せでないと、本当の幸せは
手に入れられないのが人生の常識とも言えるのです。

 

 

 

 

 

 


人間を育てる社会で有れ!

2018-08-27 16:11:02 | 日本人

生き物は、太古の昔の原生動物の頃から生き残る為に、自分にとって
安全か危険かを如何に判断できるかが重要でした。
進化の過程に於いても、敵に襲われたり捕食されたりしない様に
自分の生きる環境に於いて、いかに、的確に判断できるかが、
大切でした。
この事は、その後の地球の歴史に於いて、様々な種が繁栄して行く過程で
生き残る生物の条件でも有りました。

全ての生き物達は、いわゆる弱肉強食の元、生き残る条件を得た者だけが
地球で生き続ける事が出来たのです。
もちろん、人類に於いても同じであり、類人猿から数百万年の時を経て
進化して行く過程で、自分達と同じ環境に有る様々な生き物を、
役に立つ物、危険な物と選別し、有用な種をより多く利用することで
この地球の支配者として君臨できるようになったのです。

しかしながら、この、生き残る為の術は、現代社会に於いても、日常的に
私達が行っている事で有り、一生を通じて、如何に選択し、より便利で豊かな
生活を手に入れるかが多くの人達の課題と成っています。
他人よりもより経済的に豊かな生活をする事で、自分だけでなく、家族を守り
自分の種を先に繋ごうとする熾烈な戦いが行われているのです。

所が、この戦いが、自分本位の、周囲に人達を苦しめたり、陥れたりして
様々なトラブルが生じています。
人は、集団で生きるため、共同で多くの外敵と戦って、自分達の生活を
守って来た一方、お互いに、テリトリーを主張し合い、自分の欲望を満たすため
自分の周囲には利益をもたらす者を置き、自分の思いを否定するものを排除する
差別的生き方をする様になりました。

現代社会い於いても、子供の時から社会人に成っても、この欲望に基づき
様々な利益集団が生れ、生活や仕事をする上でも、人を差別して生きる事が
ごく普通の状態と成っています。
しかし、この様な、自分の事だけを考える生き方は、当然、多くの敵を作り
頻繁に諍いを起こすものです。
人類の歴史は、戦いの歴史と言っても過言ではなく、個人的な争いから
国家間の戦争まで、その争いの原因の多くは、自分の欲望のみを叶えようとする
人の心に常在するエゴイズムでしか有りません。

しかし、誰もが自分の欲望を主張するばかりでは、無駄な争いに依る多くの不利益や
人々の心と身体に多くの苦しみを与える為、様々な法律や約束事を作る事に依って
出来るだけ争いを起こさないで物事を解決しようとして来ました。
多くの話し合いを経て、お互いの利益を考えながら、協力し合いながら発展した
人類社会でしたが、より豊かな生活を目指して、地球資源を奪い合う事で、
更なる争いを生む様に成ったのです。

世界中が消費経済社会を目指す事に依り、地球上のあらゆる資源や食料が枯渇し
またもや、人類は、多くの苦難に立ち向かわなければならなくなったのですが、
現代社会の問題は、消費経済社会を突き詰める事に依って、人類全体が同等に
問題を抱くようになったのではなく、一部の人達だけが自分達の欲望を叶え
殆どの人類が、資源や食料に苦しむ事と成ったのです。

世界中の資源と食料の大半が、一部の先進国に集まり、多くの国の人達が
生きる事に苦労しているのが現状と言えます。
この事は、日本に於いても同じ事が言え、例え、先進国で有り、経済的に
豊かな国で在るとは言え、その生活は、一部の富裕層に対する大多数の
生活苦慮の国民で成り立っています。

問題は、明かに外見的に不自由な生活を行っていなで、一見、国民誰もが
幸せであるかのように見える事です。
街を歩けば、先進国の象徴でもある、巨大ビルや施設が立ち並び、
世界中の食料が集まる日本は、何処に行っても溢れる程豊かな食品が
店頭に並べられ、飽食日本と言われる程、食料に溢れている様に見えます。

近代的な施設に恵まれた生活は、日本人の誰もが豊かな生活をしている様に
誰もが思ってしまいますが、実際は、何故、これ程豊かな日本なのに、
自分だけが、自分達だけが、苦しい生活をしなければならないと思っている
多くの国民が居る事も事実なのです。
外見的に豊かであり日々の生活に苦労していない様に見せる為に働いていて
我が家に還れば、我が身を振り返って見れば、余りにも置かれた環境が
思い通りにならない事に、日々苦しんでいる日本人は実に多いのです。

この事は、周囲を見渡しても、美しく立派な邸宅が次々に消えていく
高級住宅街や多くの客で連日繁盛していた店が、いつの間にか更地に成ったり
別の店に変わっていたりと、人々の生活が決して楽ではないことが解ります。
今や、日本では、若者が、家庭を持ち家族を持ち自分の家を持つためには、
数々の問題があり、よほど条件に恵まれなければ、普通の幸せを勝ち得る事すら
難しい社会と成っているのです。

人と比較する事で、より豊かな生活を求めた事から、常に、自分の求める目的が
自分以外に存在し、常にハードルを上げる生活を強いられているのです。
経済的に世の中が発達すると、より理想的な生き方がメディアを通し
提案される事から、自分の欲求を満足させるには、常に世の中の流れに反応し
自分の生き方や目的を変えていかなければならなくなります。
自分の求める伴侶に対しても、世の中の考え方が自らの考えに取って代わり
周囲の人達への的確な判断ができなくなってしまうのです。

人は、集団で生きる一方、個人の感情や生き方に準じて生きたいと思うものです。
しかし、社会的判断は、そんな考えを否定し、様々な条件を与えて来ます。
普段から自己判断に自信がない人達にしてみれば、より良いと思われる考えは
簡単に自分の考えと取って変わってしまいます。
今や、日本人の多くが、個人的考えで生きているのではなく、簡単に情報操作され
世の中のシステムに組み込まれ、多くの消費活動に献身的に身を投じています。

テレビ等のメディアの情報や世の中の流行や社会的な嗜好に簡単に洗脳され
提供者達の思うが儘に動かされているのが現状です。
いえ、より素晴らしい情報を与えてくれる事は素晴らしいと言えるのですが、
その一方、国民の消費活動を売り手の操作で支配している事が問題です。
商業ルートのみならず、国に対する国民の出費も年々膨大になる一方で有り
あらゆる消費物質に対してかかる税金からも多額の奉仕が義務付けられ、
知らず知らずのうちに、膨大なる生活資金が消えてなくなって行くのです。

もちろん、国民の為に使われる税金を納めるのは国民の義務なのですが、
その税金が、国民の欲している事に使われていると言えないのが問題です。
直接国民の利益にならない国家の威信を示すオリンピック事業も、社会経済を
活発化させる事で重要と言えるのですが、それ以前に、国民一人一人が
日々の生活にあくせくしなくていい社会を作る事が大切なのです。
様々な社会事業に対する優遇対策も良いのですが、全ての事業には、国民への
対策と言うより、それに関連して、多大な事業利益が見積もられていて
国民を幸せにすると言うより、関連企業への優遇と言う感が強いのです。

誰もが、何でも手に入る富裕層の様に成る事を望んでいるのでは有りません。
日本に生まれて死ぬまで、基本的人権が守られ、日常生活に於いて、心のストレスを
抱かないで済む社会を望んでいるのです。
経済的に豊かに成らなければ、心を癒せない社会は、人々の間に争いや憎しみや
差別を生む事は有っても、豊かな人間関係を生む事は有りません。

今や、日本人は、自分の事しか考えられない、経済的に豊かに成る事しか考えられない
人として、寂しい民族と成りつつあります。
如何に外見的に美しい町に住み、見た目小奇麗な生活をしていたとしても、心の中は
寂しく辛い人生を送らなければならない日本人がとても増えているのです。
人との繋がりを持ちにくい日本社会から国際的に素晴らしい人材が生れる事は無いのです。
自分の生き方に自信をもって、世の中が支えてくれる国であってこそ、日本の未来を託せる
心豊かなリーダーが生れて来るのです。

人と争い蹴落とし、社会的な地位を身に付けた人が世の中を動かしている様では、
日本の未来は覚束ないと言えるのです。
日本社会や政界で頻発する事件トラブルは、自分の事しか考えられない人達によって
引き起こされ、いずれも人間として顰蹙を買う者ばかりです。
社会的に地位が有っても経済的に豊かであっても、人間として成長していない人達が
国民の上に立つと言う事は、例え経済的に豊かな国で在っても国民は不幸と言えます。