日本の高度成長期の様に、国民の殆どが生活レベルの上昇に満足し、
消費経済国家を満喫していた時代は、もう、遠い昔なのです。
今や、極端に豊かに成った人達と、日々の生活に苦慮しなければ成らない
殆どの国民によって、今までにない、苦しみを抱える人々で溢れています。
日銭を稼ぎ、目先の生活しか考えられない国民が実に多いのが日本です。
経済成長を遂げ、国をリードして行く人達の作り上げた日本は、どこに行っても
巨大なビルが立ち並び、街には、人々が溢れ、世界中から集められた食材によって
飽食日本を象徴した豊かさが感じられます。
街ゆく人達も、そんな華やかな街並みに酔いしれ、日本に生活する事に喜びを感じ
毎日が充実していると感じています。
しかし、彼らの笑顔は、本当に心から溢れる笑顔なのでしょうか。
新宿、渋谷と言った、日本経済の象徴の様な街を歩いていても、大多数の人達が
利用したり訪れるのは、殆どが大衆的な量販店で有り、人波は、何処に行っても
途切れる事は無いものの、全ての店が潤っているとは言い難く、店員が歩道に向けて
立っている高級店舗も少なく在りません。
世界レベルで展開している超高級店ならいざ知らず、これだけの人がいるにも変わらず
客足が遠い店も少なく無く、数か月で閉店に追い込まれる店も少なく在りません。
多くの人々が、物を買い求めたり美味しい物を食べに来ていると言うより、
賑やかな都会の喧騒を楽しみながら歩道一杯に歩いていると言う状態です。
現に、多くの若者や学生の懐具合は芳しく無く、地元からの交通費と軽いスナックを
買い求めるだけお金で東京に遊びに来ている若者が非常に多いのです。
子供達の小遣いの少なさは、彼らの家庭の状況を表しています。
日々の生活に苦しんでいる家庭が実に多く、遊びに行く事も出来ない子供も多く
更には、結婚して家庭を築く事すら難しい若者も数多くいるのが現状です。
国民総所得の大半は、ごく一部の人達に流れ、国民の大多数は、高度成長期とは
比べ物にならない程苦しい生活を強いられているのが実態です。
所が、国は、以前と変わらない社会体制をもって、国民により豊かな消費生活を求め
社会の流れに合わせるため、より国民は苦しい生活を強いられているのです。
外見的には豊かな生活をしている様に振る舞いながら、家庭の中は火の車と言う家庭が
日本中に多くなっているのです。
物価は上がっても、給料は上がらず、かえって消費が増え続ける事に依って、以前より
国民生活は、非常に苦しくなっているのが実情と言えます。
今や、子供たち誰もが平等に受けるべき教育の場であっても、経済的所得差が
浮き彫りとなり、学校生活の中で、子供達が差別される環境が生まれています。
経済的に豊かでないと受けられない塾などの習い事は、そのまま子供達の将来に影響し
子供達の能力が、経済力で決まってしまうと言う現実が生まれています。
努力すれば報われると言う時代は遠い昔の事と成り、それこそ、生まれた環境で
将来が決まってしまうとも言えるのが現代日本のです。
より経済的豊かな人が能力も経済力も伸ばせるのが、現在の日本社会なのです。
その為、より豊かな生活ができる事が、将来、安心安全な生活が送れる条件と成り
多くの人達が、ますます、個人的な利益のみを求める傾向と成っているのです。
子供も大人も、個人的な欲望を満たす事が自分の幸せと考える事に依り
自分の身の回りの他人の気持ちを考える能力を育てられなくなっているのです。
人を思いやり、和をもって尊しとしてきた日本民族が、次第に、自分の幸せの為なら
他人がどうなろうと気にしないという、殺伐とした世の中を作り上げているのです。
人々を繋ぐのは、唯一お金で有り、お金こそが幸せの全てと思う方が多いのです。
この傾向は、日本人が生きる様々な世界に同様に見られ、少しでも上の地位と成れば、
我儘が許され、自分の欲望が満たされると考えています。
この象徴が、メディアに頻繁に取り上げられるパワハラで有りセクハラと言えます。
小さい頃から、物事の価値観が、対人的なやり取りで考えられなかった事から
いつまで経っても他人の気持ちを理解する能力が育たず、ただ、地位や立場を
利用した我儘がまかり通るのです。
今や、ネットの発達も有って、他人と関わらなくても、生きていける時代と成り、
自分の行動や言動を戒める人も注意する人も無くて大人に成る方々が少なく無く
経済性合理性のみで、何事も解決しようとして、多くの人々を苦しめる場合があり
対人的な感覚が欠如している事から、自分の行っている事がなぜいけないか
理解できない人も少なく在りません。
経済的豊かであれば何をしても許されるとする人が増える事に依って、
日本人同士の人間関係がますます殺伐としたものと成っています。
一体、我々日本人は、何処に向かって進んでいるのでしょうか。
経済大国と言っても、この経済で本当に潤っているのは、日本人のほんの一部で有り
殆どの人々は、彼らの関連企業に於いて、豊かな人達をより豊かにする為に
働いているだけで、得られた収入で、同じように豊かな生活をする事は出来ません。
まして、競争社会で、他人よりも経済的に秀でる事を良しとした生活を行って
来た事から、様々な社会で、精神的な苦鬱やトラブルを生じる事が多くなっていて
一見平和の世の中の様に見えて、対人的なストレスを多く抱える人が増えていいます。
しかしながら、日本人が取った態度が、ストレスを受けない与えない為に、対人的に
関わらないという見て見ぬふりをする事が多くなりました。
トラブルを避けようとして人と関わらない生活を行うと、トラブルに成らない一方
他人からの思いやりも慈しみ設けられず、常に孤独な日本人が増えているのです。
家庭内でも学校でも会社でも、同じ場所に多く存在していながら、対人的に関わる
環境が少なく成れば、他人の思いが解らず、勝手な想像で判断する事に依り
更なるトラブルを呼んでしまいます。
人は、人と関わる事に依って人間的に成長し、自分の価値を見出し、周囲の人達の
思いを知る事が出来るのです。
大切な事は、10人十色と言われる様に、誰もが様々な感情と個性をを持っていて
自分との違いを理解しなければ、対人的に豊かな生活ができないのです。
しかし、この当たり前のことができない現代人がとても多くなっています。
その為、企業や会社では、大人に成って対人教育をしなければならず、子供の頃から
当たり前に育っていなければならない人との関わり合いが疎い社会人が多いのです。
人としての関わり合いが解らないと言う事は、社会人としてと言うより、人間社会で
生きていく術が見いだせない程危険な事なのです。
自分が良かれと思った事が他人にとっては苦痛である事が解らず、地位の高い人は
周囲の人に対してパワハラやセクハラを行い社会問題と成っている事は現実に多く
社会性経済生のみを求めた社会は、他人との関わり合いを失う事で、次第に
組織としての力を失い、人々の生活もバラバラに成って行く危険性が有るのです。
今や日本社会は、豊かな生活を築き上げた様に見えて、人々の心は常に崩壊しやすく
互いに助け合い労わり合う事の無い社会に絶望感を生んでいるのです。
経済社会で生きて行かなければならないと思いつつも、多くの日本人の心は満たされず
外見的な豊かさで自分の心を誤魔化しているのが現実と言えます。
他人によって自分の存在価値を認めてもらえず、本当の自分の思いを表すことなく
自分の置かれた社会的立場や財産によってのみ存在を認められる社会にあって、
本当に幸せと思う人はほとんどいないのです。
一体自分はどんな人間なのか、自分自身も社会的にも見つけられなくて、
単なる社会の歯車の1つでしか思えない人生では、生きている価値も感じられないのです。
こんなにも経済的に豊かな国なのに、経済的にしか満足できない、いつも孤独な日本人が
とても多いのです。
人間として、この世に存在している意味も価値も見いだせないのは、自分自身も
周囲の人達の存在価値を認めていないからでも有るのです。
人と関わらない様、他人の存在を無視して生きていれば、余計なトラブルは避けられると
思っていたとしても、自分の生きている価値を人から認められなければ、それは
死んでいるのと変わりません。どんなに経時的に豊かな暮らしをしていても、その外見のみを
他人は認めているとなれば、一体自分の存在は何なのか、生きる意味を見失っている人が
実に多い野でのす。
自分に近づく人は、自分自身の魅力によって集まると思いきや、自分の築き上げた地位や財産に
砂糖に群がる蟻の様に集まっているとしたら、どれ程寂しいと言えるでしょう。
例え地位や財産が無くとも、自分自身に関わる人がいれば、お互いに、存在価値を確認し合い
生き甲斐が生れて来ると言うものです。
世代間を超えて、人間としてお互いの存在を感じられなくなると、自分の我儘で勝手に判断し
他人を傷つけたり、人々を落胆させたり怒らせたりしてしまうのです。
社会的地位のある人達の、本当に詰まらない発言や行動が続いています。
日本を代表する地位にある人から、様々な社会を牽引している人達の、我儘が目立ちます。
社会的地位を成せば、我儘が許されるとする、この日本経済社会の最も見苦しい姿が
メディアに暴露されていると言えます。
世界的経済大国と言えど、日本は、いまだ、大人に成れない、子供の様な人達によって
動かされていると思うと、残念と言うより、余りにも情けなく思ってしまいます。